愚直なまでに
7
あくる日の朝。
「はぁ……」
思わず溜息が零れてしまっていた。
現在地は下駄箱。溜息の主は下駄箱前に佇むエリーネ。その表情は陰鬱としている。
周りでは登校してきた生徒たちが忙しなく動き回り、顔ぶれが入れ替わり続けている。が、そんな中でエリーネは一際異彩を放つほど暗い雰囲気だった。
「私としたことが、あんなにみっともなく喚くなんて……」
昨日のあの一件――大神敏也という同級生と起こした喧嘩は本当にみっともなかった。そもそもあれを喧嘩と言っていいのかすら危うい。
いや、よくよく思い返してみれば、自分が一方的に喚いていただけではなかっただろうか。
しかも弁当箱を放り出して、辺りを汚してしまった。
ただ、午後の授業を体調不良という名の仮病で欠席し取りに行ってみればおかずが飛び散っていた芝生回りは綺麗にされていて、ご丁寧に弁当箱の容器すら見当たらなかった。
きっと、大神敏也がきれいに掃除していってくれたのだろう。
(恥ずかしい)
思い返すだけで頬が羞恥に染まってしまう。
いくら理不尽な仕打ちを受ける日常の鬱憤が溜まっていて、もう耐えきれなくなっていたことを差し引くとしても、あの態度は如何ともしがたい。
関係のない人物――他人にあれほどまでに八つ当たりをするのは、なんとも救いがたい所業だ。
本当は敵意も無しに話しかけてもらえて嬉しかったにも拘らず、それでも心のどこかで信じきることができなかった。そして、結局あのような態度を取ることしかできなかった。
「謝らないと、駄目ですよね」
だが、なんと謝ればいいのだろう?
ごめんなさい? 許してください?
それだけでいいのだろうか。それだけで許してくれるのだろうか。許してもらってもいいのだろうか。
(彼は、単に私が実験に参加するかどうか訊きに来ただけだったのに……)
なのに、傷付けてしまった。一方的に詰ってしまった。
そんな卑劣な所業を、たった一言で許してもらっても構わないのだろうか。
それは否だ。断じて、というものだ。
(罪滅ぼしは、きちんとしないといけませんよね)
あの人のように綺麗ごとばかりを言って、人を騙して、嘘がバレてしまえばその後は知らんぷりな、そんな情けない大人などになりたくはない。
彼女はそう心に決めていた。ずっと前から、日本に来る前から。
エリーネはほんの少しだけ気力の戻った顔を上げ、自分の下駄箱を開き、上履きを取り出した。そしてそれを履き、自分の教室へと向かっていく。
が、エリーネは教室の前に近づくと、その足を止めていた。
それは、彼女の目に信じられないものが映り込んでいたからだった。
「大神……敏也? それにあれは……」
その視線の先にあるのは教室のドアから出てどこかへ向かっていくくすんだ茶髪頭――おそらく大神敏也。そしてその後ろには、なにやら不機嫌そうに小話をしながら彼の後に続く女生徒四名だった。
ただ、その女生徒たちというのは――
「なんで彼があの子たちと一緒に……」
その女生徒たちは、エリーネを一際嫌っているグループだった。
彼女たちは、このクラスで最も彼女を敵視している人物たちであり、エリーネに関する噂の根源と言っても過言ではない。
しかし、そうなると尚更わからない。
何故、彼が彼女たちと一緒にいるのだろう?
何故、連れ立ってどこかへ行こうとしているのだろう?
エリーネの頭の中を埋め尽くしていたのは、そんな疑念だった。
だが、
「……関係ありません」
小さく呟き、その唇を噛み締めた。
(彼は他人ですから。彼が誰と仲良くしようと、私には関係ないんですから)
そう思おうとしても、自分に普通に話し掛けてきてくれた彼があの女生徒たちと仲良くしている場面を想像すると、どうにももやもやとした気持ちが込み上げてくる。
どうしてそんな人たちと仲良くするの、と。
他に良い人は沢山いるでしょう、と。
ただ、
(彼って、人付き合い悪いんでしたっけ)
男子のクラスメイトたちが自分の席の近くで噂話をしていた時、そう耳にしたことがある。
遊びに誘っても理由を付けて断ると。
何度誘っても来ないと。
話しかけてもどこか上の空で、真面に取り合おうとしないと。
終いには、誰にも誘われなくなったのだとか。
とすれば、自分と彼はどこか似ているのかもしれない。軽い付き合いに意味を見出せない部分が、特に。
しかし、だとすると尚更わからない。何故彼は彼女たちなどと一緒にいるのだろう。
「はぁ……」
思考が堂々巡りをしそうになっていたため、エリーネは溜息を吐くことで思考を断つと、歩みを再開した。
教室のドアを開き、中へ入っていく。
すると、
「え?」
驚きのあまり声が漏れていた。その光景に虚を突かれ、堪らず声が漏れてしまったのだ。
彼女は急ぎ足で窓際にある自分の席に向かい、そしてその傍で立ち尽くした。
「これって……」
机の上には、弁当箱が置かれていた。しかも、昨日弁当箱と一緒に置いてきてしまっていた桜色の袋にきちんと納められている。
そしてその下には、メモ書きも。
震える手で取り、文面を見る。
『洗っておきましたのでお返しします。物粗末にすんなよ。食い物もな』
そう汚い字で書いてあった。何度も書き直したのだろうか。紙にはいくつも皺が寄り、消した字の跡が見て取れた。何度も何度も試行錯誤したのだろう。
「っ」
あれほど酷い態度を取った自分に、どうしてここまでしてくれるのだろうか。
弁当箱など捨てられたのだと思っていた。だが、事実は違った。
彼はあの後周囲を掃除し、その上弁当箱を持ち帰り、綺麗に洗って返してくれたのだ。
エリーネが目の前の出来事に呆然と立ち尽くし、どうすればいいのかわからなくなった時、
「エリー」
そんな声が、彼女の耳に届いた。後ろを振り返ると、
「八咫神……奈々、さん」
二パッと笑みを浮かべ、佇む奈々の姿があった。
「ねーねー、エリー。それってね、たしか……大神敏也……だったっけ? あの子が置いて行ったんだよぉ? 見てると笑っちゃうくらい弁当箱の置き方に拘りつつ、メモを残すかどうか懊悩としながらねぇ」
そう告げると奈々は、ししし、と笑い、
「昨日何があったかは知らないし、どうしてエリーが人との関わりを怖がってるのかは知らない――わかるとは言えないけどさぁ、あの子はきっと悪い子じゃないよ?」
「昨日のあれはあなたの差し金ですか」
エリーネのその非難めいた言葉を受けても奈々は笑みを絶やさない。
「そうだよぉ? 正確にはわたしとマサル――ああ、神堂寺ね、知ってるとは思うけど。ま、エリーを心配するわたしが居て、大神敏也の不安定さを危惧するマサルが居た。そして、お互いの利害が一致したから協力して二人を引き合わせたってわけっすよ」
「……そうすることで、あなたたちに何か得があるんですか?」
所詮、自分たちは他人だ。なのに、何故ここまでこの人物たちは自分たちに拘るのか。
それが奈々の話を聞き、呑み込んだ上で浮かんできた疑問だった。
その問いを受けた奈々は笑顔を引っ込め、代わりとして不敵な表情を浮かべた。
「わたしたちの代償行動よ」
「え?」
「なんでもなーい♪」
今、確かに低い声音で聴こえたのだが、目の前にいる八咫神奈々はそのような素振りはもはや見せていない。いつもの剽軽な少女だ。
エリーネが疑念に首を擡げていると、
「それよりもさ、エリー。大神敏也を追わなくていいの?」
「……それは、どういう意味ですか?」
「いやさぁ、聴こうとしたわけじゃなくて、単に話が聴こえてきたんだけどね、大神敏也はエリーのことで話があるってあの子たちを呼び出したっぽいんだよぉ」
「なっ」
愛称で呼ぶな、とそう言おうと思っていたのに、奈々の言葉を聴いたことでそんなことは脳裏から吹き飛んでしまった。
「あの子たちに何をするつもりなんだろうねぇ? 肉体強化しか使えない半端者が、何かを決心して誰かを呼び出した。そして呼び出された人物たちは他人を貶すことを良しとする存在。さて、その答えは? ちなみに随分と思い詰めた表情をしてたよ♪」
楽しそうに小悪魔的な笑みを浮かべているが、その本質は邪悪だ。
「ば、場所はっ?」
「ちょ、く、苦しいってば、エリー!」
思わずエリーネは奈々の胸元を掴み上げていた。
小柄な体躯が少しだけ持ち上がり、引き攣られた衣服が首を絞めつける。その体制のままで問い詰める。
彼はいったい何をするつもりなのだろうか。
思い詰めていた? まさか、他人である自分のことを案じて?
在り得ないとは思う。が、それでも膨らみ続ける懸念は拭い去れない。
まさか、暴力沙汰にでもなったりしたら……。
(私のせいだ)
彼を追いつめてしまったのは自分のせいだ。まず間違いなく自分のせいだ。きちんと向き合おうとせず、冷たく突き放してしまった自分のせいだ。
止めなければならない。彼が過ちを犯す前に。彼を間違わせてはならない。
「早く場所をっ!」
「――エリーネ嬢」
と、冷静さを失っていたエリーネを止めようとするかのような声が届いた。
見ると、エリーネの腕をいつのまにか接近していたマサルが掴み、彼女の細腕に微かに指を喰い込ませ、膂力を弱めようとしている。
そして、そうすることにより腕力が阻害されたことで解放された奈々が「ぷはぁー、死ぬかと思ったよ」と安堵の息を吐いた。
教室中の視線がここに集まり、皆が怪訝な視線を向けてきていた。
「ご、ごめんなさい、私……」
「気にするな。こいつはこの程度では死にはしない。それと、敏也が向かったのは屋上だ。決心できたのなら早く行け」
――間に合ううちに。
そう言われた気がした。ゆえに、エリーネは奈々に謝る暇なく即座に駆け出し、教室を後にした。
8
「八咫神、嗾けるにしてもやり過ぎだ。エリーネ嬢は泣きそうになっていたぞ」
「……あれくらいしないとあの子は動かないわよ。怖がりで、意気地なしで、臆病で、それでいてか弱いんだから」
「同感だが、だからといって追い詰め過ぎると人はいつか壊れてしまう。それは、俺もお前もよく知るところだろう?」
「わかってるわ。だからこそ――」
「ああ。だからこそ、あいつらはお互いが必要だ。同じ存在である、お互いがな」
「うまくいくといいわね」
「……そうだな。しかし、たとえうまくいかずとも、その時は何度でも背中を押すまでだ」
「フフ、酷い人」
9
「で、エリーネのことで話ってなによ、半端もん」
その声は、例の女生徒の一人によるもの。
今、敏也と女生徒四名は屋上を訪れており、この時、屋上の扉が閉まった瞬間だった。
空は快晴。だが、ここにいる人物たちの心は決して晴れ模様ではない。
「すぐに済むって。だからそうカッカすんな」
「はぁ? 生意気な口利かないでくれる? 半端者のくせに」
その言葉の直後、周りの三名からのけたたましい嗤い声が聴こえてきた。
(魔術科には珍しい奴らだなあ……)
敏也は嗤われながらも、そんな暢気な感想を抱いていた。なにせ、魔術科で自分たちのことをからかい以外の用途で『半端者』と呼ぶ輩は滅多にいないからだ。
魔術とは扱いが難しく、一年間みっちりと訓練を積むことでようやく安定した発動まで漕ぎ着けることができるもの。なのに、このような傲慢な物言いをするということは――
(こいつらはそれなりに才能がある、ってことか)
だとすると厄介だ。
こうなると、最終手段まで考慮に入れなければならないかもしれない。しかし、そうなると自らのなけなしのプライドをドブに捨てなければならなくなる。
(ま、いっか。有って無いようなもんだし)
簡単に見切りを着ける。この問答は昨日の晩に済ませてしまったことだ。今更なんだというのか。未練ったらしいといったらない。
気を取り直した敏也は出来るだけ平静を装って言う。
「じゃあ本題なんだけど、――これ以上、エリーネのことを悪く言うのはやめてほしい。それと、噂を流すのもだ」
それを聴いた女生徒は笑みを浮かべた。まるでこちらを嘲笑うかのように、口角を盛大に吊り上げて。
「なに? あんた、あの子が可哀そうになったの? いつもだらだらしてるあんたが? もしかして、あんたもあの子に惚れちゃったの?」
絶えず、嗤い声が響く。耳障りだが黙殺し、女生徒の言葉に答える。
「そんなんじゃねーよ。ただ、あいつは何も悪いことしてないのに辛い目にあってんのが気に入らないってだけだ」
そう、それが最も強く抱いている想いだった。
悪いことをしたのなら責められて当然だろう。
誰かを傷付けたのなら傷付け返されて当然だろう。
それは、かつて暴力で全てを失くした自分だからこそ、抱いた想いだった。だから、敏也はエリーネを見捨てない。理不尽に奪われそうになっている彼女を決して見捨てはしない。
実験のパートナーだとか、クラスメイトだとか、そんな回りくどい考えは彼の頭の中にはない。今の彼を突き動かしている衝動は、みっともないほど愚直な物なのだ。
敏也のその涼しい態度が気に入らないのか、女生徒たちは目尻を吊り上げた。
「その余裕、ムカつくなー。そもそもさあ、わたしたちが噂を流してるみたいな言い方やめてくんない? 勝手に広がってるってだけだっつの」
「それでも、お前らが言い始めたことなんだろ? それが勝手に歩き出しただけだっていっても、今でもお前らコソコソ話してるだろうが。そういうのをやめてくれればきっと少しは収まるはずだから、――だから、もうやめてほしい。あいつをそっとしておいてやってくれ」
言い終わると、敏也は頭を下げた。懇願するように、必死に。
正直なところを言うと、悔しい。
本当は昨日あの後、噂の根源の目星が付いていたこともあってか、教室で暴れてやろうかとも思っていた。
だが、自分は半端者。攻撃魔術のみならず障壁魔術さえも使えない。ゆえに、相手に攻撃魔術を使われれば即座に鎮圧されてしまうだろう。
だから、こうして『お願い』をするしかないのだ。どれだけ悔しくても、腸が煮えくり返ろうとも、それでも馬鹿の一つ覚えのように頼み続けるしかない。
「頼む……っ」
これ以上、あの子が泣いている姿は見たくなかった。これ以上、胸がジクジクと痛むのは勘弁してほしかった。だから、これで全てを終わりにしたかった。
だが、敏也のその姿を見ながら、女生徒の一人は厭らしく笑んでいた。
「はっ、それが人に物頼む態度? こういう時ってさあ、もっと相応しい恰好ってのがあるんじゃないの?」
「……」
敏也が顔を上げると、下卑た複数の目がこちらを見詰めていた。
彼女が何を言わんとしているのか、それを敏也は理解している。そして、普通はそれを渋るということもわかっている。彼女たちも自分には出来はしないと、そう思っているのだろう。
ならば、その甘っちょろい考え方を打ち砕いてやる。
本当に決意した人間には、芯の通った一つの想いしかないのだということを思い知らせてやる。自分はそれほどまでに心を強く持っているのだと、知らしめてやろう。
(精々びっくりしやがれ)
そんな半ばやけくそのような気持ちを吐き出し、敏也は屋上に膝を着いた。
女生徒たちが驚愕に息を呑む音が聴こえる。
無視し、そのまま自分の上半身を前のめりに倒れ込ませる。
出来上がったのは、土下座だった。
「頼む。いくらでも頭を下げるから、――だからっ! もうあいつに酷いことをするのはやめてくれ!」
「あ、あんた、普通そこまでする? なんでそこまで……」
女生徒たちには敏也がどうしてエリーネのためにそこまでするのか理解できず、困惑の極みにいる。
だが、敏也自身とてどうして自分がここまで必死になるのか、その答えは持ちえなかった。
あるのは、心の虚を照らすような、眩い一片の気持ちだけ。
「わけわかんないって。なんなのよ……」
と、女生徒は混乱したかのように一声を漏らし、そのままガリガリと頭を掻いた。
そして、
「一つ聞いてもいい?」
「なんだ?」
敏也は身体を起こし、正座の体制で止まった。
「もし、わたしたちが噂話を止めて、それでもみんなのエリーネへの態度が変わらなかったらさ、あんたはどうすんの? そいつら全員に土下座でもすんの? 金でも渡してやめてもらうの?」
それは、最も危惧するべきことだった。
無論、敏也とてわかっている。この女生徒たちだけをどうにかすればエリーネを取り巻く環境が一変するなどと、そんな夢見がちな乙女のような甘い考えは持っていない。
ただ――
(その時は――)
ゆらりと敏也の頭が揺らぐ。そして、その目が鬼気とした迫力を持ちて、女生徒を下から睨めつけた。
それを見た女生徒たちが後ずさり、身を竦ませる。
「その時は、全員潰してやろうかな」
口元を醜悪に歪め、ただ淡々と、そう言ってのけた。
普段の彼とは一線を画す雰囲気。なにか、言い知れぬ醜さを感じさせるその佇まいは、それまでは優勢だと自負していた女生徒たちを委縮させるには十分だった。
だが、一人の女生徒が対抗するように笑みを浮かべ、その視線へと自身の視線をぶつけた。
「そう。でもさ、あんたは肉体強化ぐらいしか使えない半端者だよ? しかもそれの順位も良くて中位程度。そんなあんたが、他の奴らに勝てるわけがない。精々、一噛みでもできれば良いところでしょ。それでもそうするっての?」
「ああ」
間髪入れずに答える。
迷いなどないと、もう決めてしまっているのだと、意思表示をする。
「――誰もあいつの味方にならないなら、俺があいつの味方になる。あいつが一人で大丈夫なようになるまで、俺があいつの味方で居る」
「……へえ」
女生徒が初めて敏也に対して感心したような音を零した。そして、それまで冷たかった視線をどこか変え、興味深そうにじろじろと見据えている。
その視線に晒されている敏也は、居心地が悪そうに身を捩った。
「なんだよ? じろじろ見んなって」
「はっ、あんたは馬鹿だね。まず間違いなく馬鹿だ」
「誰が馬鹿だよ」
「あんただっつってんだろ。救いようのない馬鹿さ。そうまでする覚悟があるってのにエリーネに惚れてないって言ってのけられるくらい暢気なんだから、あんたは間違いなく馬鹿さ」
「馬鹿馬鹿うっせえし、惚れた腫れただのやかましいんだよ、お前らは。――で、結局どうすんだよ? やめてくれんのか? やめてくれないのか? やめないってんなら、ここで潰し合いになるけど?」
不機嫌そうに紡がれた言葉に、女生徒は考え込むように唸った。
「……あんた、勝てるつもりでいんの? こっちは四人だよ? 単純に考えてあんたに勝てる要素は何もない。それでも向かってくんの?」
聴いた敏也は首を振り、
「勝ち負けの問題じゃない。これは俺の気持ちの問題だ。負けるとしても、そうしないと気が済まないんだよ。――俺は馬鹿だからな?」
意趣返しとでも言いたげに敏也は不敵に笑んだ。
「……フフ」
その様を見た女生徒は口元から微かに音を漏らすと、直後に高らかに笑い始めた。
「あっはっはっはっは! っ、いやー、あんた、……っ……マジモンの馬鹿だわ。こんなに馬鹿なやつ初めてみた」
息継ぎをしながら愉快そうに呟かれた声に敏也はイラつき、眉根を寄せた。
「あーもお、なんなんだよ! さっさとどうするか言えよ!」
その怒号に女生徒は肩を上下させた後、優雅にセミロングの髪を掻き上げ、敏也を見下ろした。
「――いいよ。もうエリーネの悪口は言わないでおいてあげる」
「ほ、本当かっ?」
「――ただし」
喜び、思わず身体が動き出しそうになっていた敏也を女生徒は一声で制した。
「あんたはわたしたちが噂の根本だと思ってるみたいだけどさ、こういうのって、そういうもんじゃないんだよ」
「どういうことだ?」
「簡単な話。噂ってのは、その人物に対して抱いてる劣等感やら羨望やらが凝り固まって生まれるってこと。別にわたしらがとやかく言ったからこんな事態に陥ったわけじゃない」
「じゃあ、一人一人話をつけるしかないってことか?」
クラスメイトだけでも三十は優に超す数であり、学年も含めると相当な数だ。それを一人一人直接会って話をつけていくなどと、いったいどれほどの時間が掛かるのだろうか。
途方もない道のりを想像し、敏也が苦い表情になった時、女生徒が嗤った。
「馬鹿だね。そんなことしなくても、もっと簡単な方法があるさ」
「簡単な方法?」
「そう。ま、あんたに言っても仕方ないからね。わたしの方でどうにか伝えておくし、あんたの馬鹿さ加減に敬意を表して一手は打っておくさ」
「?」
そう言うと女生徒は困惑している敏也をそのままに三人を引き連れ、屋上の入口へと向かっていった。
そして、ドアを開くと、
「っ、――! ――?」
なにやら誰かと鉢合わせしたらしく、何事かを言い、そのままドアが閉まって屋上には静寂が訪れた。
ポツリと残された敏也は溜りに溜まったストレスを吐くように吐息を零した。そして正座から跳ねるように横へと身体を倒し、屋上に寝そべると、そのまま仰向けとなった。
空は雲がほとんどなく、青く澄んでいる。吹く風は柔らかく、羽毛で撫で付けるかのような優しさだ。もしこの背に翼さえあったのなら、どこまでも飛んで行けそうだった。
それは気象の問題のみではなく、心の在り様のせいでもある。
一応ではあるが、遣り遂げた。一つの到達点に辿り着いたのだ。
あれほどまでに怠惰に過ごしていた自分が奮起し、何かを誰かのために成そうと動き、まだまだ一幕ではあるものの、役を演じきったのだ。
心を満たすものは、静かに滾るかのように満ち満ちた達成感。
(らしくないな)
手のひらで日差しを遮るように額を隠す。ついでに、目元も隠す。
ただ、その口元だけは片手だけでは隠しきれず、傍目からはそれが緩やかな弧を描いていることが丸わかりだった。
10
「大神敏也くん――いえ、大神くん。お弁当箱のこと、ありがとうございました。それと、私はあの実験に参加しようと思います」
「え?」
腰に手を当ててふんぞり返り、自信満々に宣言したのだが、彼はどうやら困惑しているらしい。
放課後、帰り支度をしていた敏也にエリーネは開口一番そう言ったのだが、返事の代わりに彼の頬を冷や汗が流れ落ちている。
それほどまでに自分からは想像できない発言だったのだろうか。
教室内に残っている生徒はそう多くなく、誰もかれもが忙しなく動き回り、放課後の予定に向け動き出していた。
エリーネはその予想外の結果に戸惑いながらも、捕捉のため、再び口を開いた。
「ですから、先日、博士から誘われた実験に私は参加すると言っているんです」
「いや、あのさ、どうして急に参加する気になったんだ? お前、嫌がってたじゃん」
確認するように敏也は問う。が、エリーネは、ふんっ、と鼻息を漏らし、
「気が変わったんです。で、あなたはどうするんですか?」
問うた後、エリーネの脳裏には不安が過っていた。
もしかしたら、彼はもう実験への参加を諦めていたのでは?
渋る自分に愛想を尽かして、もういい、と。だからせめてあのようなことを――
「参加するぞ」
と、エリーネの鬱屈とした思考を断ち切るように声が聴こえてきた。
見ると、敏也は照れているようで、その頬が微かに赤い。
「俺は参加する。つーか、元から参加する気だった。……誰かさんがずーっと渋ってたから参加できるかわかんなかったってだけで」
その非難めいた言葉と声はエリーネに向かって言っているものだ。もちろん彼女もそのことを理解している。だからこそ、言う。
「悪かったとは思っています。ですが、私の微妙な立場のことも多少は汲み取ってもらえると助かるのですが」
「これ以上汲み取れってのかっ? どんだけ俺に気を遣わせる気だよ!」
敏也はそう言ったものの、エリーネは不思議そうにしている。
「? 本には『女性は男性に気を遣わせてなんぼ』だと、そう書いてあったのですが。てっきり日本ではそういうものなのだと……」
「……その本のタイトルは?」
「『人付き合いバイブル ~女傑編~』です」
「自己啓発本かよっ! マジで読んでる奴いんのな! っていうか、そういう本は良し悪しの判断が難しいから! 日本に来たばっかのお前が読んじゃいけません!」
「? わかりました。では、巷で噂の少女漫画というものを熟読して――」
「駄目だぁぁぁぁぁぁっ!!」
「どうしてですか?」
首を傾げた拍子に耳元の銀髪がさらっと流れる。
「昔っから過激だと言われてたけど、今でも変わってないから! むしろもっと過激になってるから! うら若き乙女が読むには刺激が……っ!」
目にしたシーンを思い出したのか、敏也が頬を赤に染め、おまけに鼻を押さえた。
「少女漫画なのに、ですか?」
「うっ……えーっと、自己責任でお願いします。現実と空想の区別が付くなら是非お読みになってください」
「? 文化の違いとは難しいものですね」
きょとんとしながらエリーネは小首を傾げている。突っ込むのも疲れてきたのか、敏也は机にもたれかかる様にして彼女を見上げる。
「あのさ、話を戻すけどさ。いいのか? お前、実験で何か起こった時に誰も助けてくれないんじゃないかって、それが怖かったんだろ?」
「ええ、そうですよ。でも――」
ふっ、と笑みを零す。
「きっと、誰かが助けてくれます」
「え?」
その曖昧な物言いに引っ掛かるところを覚えたのか、敏也は思案顔で黙り込んだ。
対してエリーネは穏やかな表情でそんな彼を見下ろしている。
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あの後、エリーネは敏也を追い、屋上の入口まで辿り着いていた。だが、ドアノブまであと一歩というところでふと立ち止まってしまっていた。
それは、ある声が聴こえてきたからだった。
『もし、わたしたちが噂話を止めて、それでもみんなのエリーネへの態度が変わらなかったらさ、あんたはどうすんの? そいつら全員に土下座でもすんの? 金でも渡してやめてもらうの?』
『その時は、全員潰してやろうかな』
『そう。でもさ、あんたは肉体強化ぐらいしか使えない半端者だよ? しかもそれの順位も良くて中位程度。そんなあんたが、他の奴らに勝てるわけがない。精々、一噛みでもできれば良いところでしょ。それでもそうするっての?』
『ああ。――誰もあいつの味方にならないなら、俺があいつの味方になる。あいつが一人で大丈夫なようになるまで、俺があいつの味方で居る』
「っ」
ドアノブへと伸ばしていた右手を引っ込め、両手を抱えるようにして胸元へ置く。
自分の顔が茹っていることが手に取るようにわかる。心臓が胸の中で異常なまでに跳ねていることが身体の熱さを通して伝わってくる。
エリーネはドアの前から離れ、壁際に背を預けた。
(な、何言ってるんですか、もうっ)
息をゆっくりと吐きながら心を落ち着けようと努める。だが、それでもこの高ぶりは治まってくれなかった。それほどまでに、心に響いてしまったのだ。
味方。その言葉を耳にしたことはあったが、今以上に心地よく聴こえたことはなかった。
「私の……味方」
反芻してみるが、気を緩めると口元が同じように緩んでしまいそうだった。自己を叱咤し、だらしない表情をしてしまわないように努める。
と、そうしていると、ドアノブが回り、誰かが屋上から校舎へと戻ってきた。
エリーネは慌てて隠れようとするが、そこには隠れる場所などなく、慌てふためいているうちにドアが完全に開かれた。
「っ、エリーネ?」
それはあの女生徒たちだった。その誰もが予想外の人物の登場に驚き、その目を見張っている。
ドアが軋みながら閉じられる音だけが、辺りには響いていた。
「あんた――いや、丁度いい」
「……な、なんですか?」
怯え戸惑い、それでも警戒心を剥き出しにし臨戦態勢を取るエリーネだったが、女生徒はそれを大して気にも留めていない。
「来な。話をしよう」
有無を言わせぬ雰囲気であり、断ればまたしても問題が発生するのは誰の目にも明らかだった。ゆえに、エリーネは深く頷き、それを了承する。
そしてエリーネを含む五人は屋上入口を後にし、予冷のチャイムが鳴り響く廊下を闊歩し、とうとう体育館裏の空き地へと辿り着いた。
彼女たちとエリーネは向かい合い、睨み合う。
「さってと。あそこにいたってことは、どうせ聞いてたんだろうけど……。あの馬鹿が頼み込むもんだから、あんたの悪口を言うのはやめる。でもね、わたしらが言うのをやめたところであんたへの陰口が無くなるわけじゃない。そこんところはあんたもわかってるよね?」
「……ええ」
エリーネはゆっくりと頷く。
人の禍根とは根深いものだ。植物などの根は周囲一面に張られ、地表近くの物だけを処分しても意味がないとよく言われているが、人間同士に比べたら幾分かましだろう。
植物相手なら、地面をごっそりと抉って根を取り除きつつ掻き混ぜるか、それとも土を丸ごと入れ替えてしまえばそれで済んでしまう。だが、人間をそうするわけにはいかない。
人間とは、それほど単純な存在ではなく、簡単なものではないのだから。
女生徒も満足げに頷く。
「あんたが本当に陰口を無くしたかったら、誰にも弱みを見せないくらい上に行かなきゃならない。黙らせられるくらい強さを示さなきゃならない。――言ってること、わかる?」
「恐怖政治、というものですか?」
「ん、それと似たようなもんだね。一発で気に入らないやつらを黙らせるという意味ではさ」
かつてどこかの国で行われた政治体系。逆らう者へは容赦なき弾圧を。裏切りには死を。
それを体現すれば、なるほど、確かに陰口など囁かれなくなるだろう。少なくとも、自分の目の前では起こり得なくなるはずだ。
だが、
「それは……とても寂しい生き方だと思います」
その生き方は孤独だ。誰にも心を許さず、誰にも寄り添わず、ただ一人で孤高に在り続けなければならない。悲鳴と怨嗟を足場とし、上を向き続けなければならない。
そんな辛く苦しい生き方など、御免だった。
女生徒は沈痛な表情で黙り込んだエリーネに対し、非難めいた視線を向けた。
「正直さ、わたしはあんたが羨ましかったよ」
「え?」
エリーネは弾かれるように面を上げる。
「だってさ、あんたは肉体強化が使えないとはいっても、基本的には魔術と座学の才能はあるし、容姿だって抜群だし、みんなにちやほやされてるし、大よそ嫉妬される要素を持ち過ぎてるんだよ」
「そんなこと言われたって……」
「ああそうさ。あんたが悪いわけじゃない。――けどそれがなに!」
女生徒はその顔に嫉妬だけでなく、憎悪と憤怒すらも滲ませる。表情が歪み、凄絶な感情を吐き出し続ける。
「気に喰わないのよ! 持ってるくせに謙虚な風にして! 大したことがないように振る舞って! ……たくさん持ってるなら自慢げにしてなさいよ。もっと堂々としてなさいよ。なんで一々申し訳なさそうにするのよ……」
終いには、エリーネよりも女生徒のほうが辛そうな表情になっていた。
その叫びを聴いたエリーネは言葉に窮し、視線を斜め下方向へと下げる。
「……私は」
悪気などなかった。だが、もしかしたら自分の取ってきた態度とやらは、悪意がなかろうと他者を傷付けるような酷いものだったのだろうか。
自分では嫌味にならないよう謙虚に振る舞っていたつもりだったのだが、それが逆に鼻に付いたのだろうか。
ただ、それでも、エリーネには謝るつもりなどなかった。彼女たちが撒いた噂のせいで、自分が辛い思いをしたことは確かなのだから。
そして他人である大神敏也に世話を焼かせてしまったのも、元を辿れば彼女たちのせいなのだから。
「ふふっ」
笑みが零れ、チリチリと大気が焼けていく。術式を展開するまでもなく、魔力の変換効率を重視する必要もなく、魔力が組み変わっていく。
細見な体躯より迸り始めた怒りが魔力を際限なく生み出し、それが次々と火の粉へと転じていく。
風に舞う花弁のように、エリーネの周囲を烈火が舞う。
そして、エリーネの後方ではいくつもの赤い魔法陣が形成され始めている。その数、数十は下らない。
その不穏な様子を見てとった女生徒たちが、顔を蒼くして後方へと二・三歩下がる。
「な、なによ?」
「いえ、随分勝手なことを言ってくれるものだと思いまして」
口角を吊り上げながらエリーネは言った。
腹が立った。加害者の分際で被害者面をするな、とそう言ってやりたかった。だが、そんなことは言わずとも理解してくれているはずだ。
なにせ、目の前の彼女たちは心底怯えている。互いを前に突き出すようにして、必死に自身を守ろうとしている。
醜い、とそう思った。容姿などという俗な概念ではなく、その心の在り様が、魂の形が、心底不快だった。
この光景を目にすると、初めからこうしておけばよかったのではないかと思わないこともない。暴力には暴力を、暴虐には暴虐を。
初めに虐げられたときにこうしていれば、きっと苦しまずに済んだはず。
だがしかし、そうしていたら『味方』は得られなかったかもしれない。そう思うと、耐え忍んだ日々は無駄ではなかったのだろう。
思考をそこで断ったエリーネは、ドスの効いた声音で最後通告を行う。
「もう私に関わらないでください。そして今後、大神敏也へ何かを要求することを堅く禁じます。それを破った場合はどうなるか、わかりますよね?」
最後には極上の笑みを浮かべ、言った。
だが、その笑みが邪悪であることは言わずもがなであり、女生徒たちを脅すには十分すぎるほどの迫力を伴っていた。
「わ、わかってるわよ。言われなくたって……っ」
「ではお引き取りを」
「っ、……あんたへの悪評は誤解だって、できるだけそう流しとくわ。……じゃ」
「そうですか」
女生徒はその言葉を最後にその場を逃げるように後にした。
その場に一人残されたエリーネは深く息を吐き、半ば暴走状態だった魔力を鎮めることに意識を集中する。
数秒後、猛る烈火と魔法陣は治まり、辺りには再び静寂が訪れていた。
「はぁー」
意識せず息が漏れてしまった。
制御することなく手綱を手放した魔力がここまで荒れ狂うとは思わなかった。しかも、無意識に殲滅用の術式まで展開しかけるとは予想外だった。
心身にはまるで短距離走を全力で走り切ったかのような疲労が感じ取れる。それほどまでに自分は怒り心頭だった、ということだろうか。
「冷静だと自負していたのですが……」
自分でも少々意外に思うが、もしかしたらこちらに来てからの鬱屈とした日々のせいで、性格が変わってしまったのかもしれない。
ただ、それを延々と気にしても仕方ないため、エリーネは首を振ることで考えを中断し、遅刻確定ではあるものの、教室へと戻って行った。
12
そんなことがあったのだが、エリーネは敏也にそのことを洗いざらい話すのはどこか違うと思い、それに、味方になると言ってくれたことへの礼を素直に言うのも恥ずかしかったため、特段報告はしていない。
今は、少し前を歩く彼の背中を優しげに見詰めるだけ。
夕暮れが二人を照らしている。そして、秋特有の涼しさと冬を感じさせる冷たさが混在しており、どこか切ない気温が辺りには満ちている。
と、前後に並んで歩いていると、鞄を肩に担いだ敏也が首だけでエリーネを振り返り、
「なあ、本当にいいのか? 多分、参加したら後戻りはできないぞ?」
こちらを振り返ったその顔は懸念に染まっている。きっとこちらを心配してくれているのだろう。
それをどことなく察したエリーネは穏やかな笑みを浮かべ、答える。
「ええ、構いません。母様にはお昼に連絡しましたし、私がそう決めたのならその道を進みなさいと、そう言ってくれました」
「良いお母さんだな」
「ええ」
敏也は頭を掻き、それでも歩みを止めず、再び前を向いた。
「じゃあ、研究所に返事しに行くか。呼び出されてないけどな」
「はい。善は急げと言いますし」
エリーネは返事をすると彼の横に並び立ち、同じ歩幅で歩き始めた。
きっと、まだまだお互いに理解しあえていない部分は多々あるのだろう。これからもすれ違っていくのだろう。それでも、二人はこれからも並んで歩いていく。
エリーネを取り巻く現状は何も解決していないが、それでも彼らを取り巻く情景は移り変わっていく。
二人の影がアスファルトの上で、混じり合うように寄り添いあっていた。
そして、共鳴者はこの世に生まれた。
断章2はこれでお終いです。




