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双天の共鳴者  作者: 月山
断章2「二人の出会い」
50/126

桜の舞う中で

   1


 敏也が始めてエリーネを見掛けたのは、入学式の日のことだった。


 あの日は敏也にしては珍しく早く目が覚め、前日にどたばたと引っ越し作業に追われて倒れ込むように眠りに着いたとは思えないほど好調な朝だった。


 だから、少しだけ早く学園に行き、校舎内を見て回ろうかと思い立った。

 普段は怠惰な彼にしては、実に珍しい気持ちだった。

 だからこそ、会えたのだろう。


 ほんの少しばかりのうきうきを伴い、小奇麗なブレザーを身に纏う。

 さらに鞄を肩に引っ提げ部屋を出ると、エレベーターで下に降り、学生寮の玄関を出て、学園の方へ向かう。


 学園へ続く道の右手、そこには下手の道の脇に咲く桜が見て取れ、そこから舞い上がった花弁たちが海側特有の青臭い風に乗り、こちらへと吹き荒んできた。

 例年よりも開花が遅かったせいか、世間は四月に入っているにもかかわらず、未だ桜は満開のままだ。


「綺麗だな」


 心からそう思う。


 あの日、地獄のような光景が顕現したこの世界にあるとは思えないほど綺麗な景色。

 このままこの景色を写真のように切り取り、永遠に保つことができれば、どれほどこの心は満たされるのだろうか。

 癒されるのだろうか。


 だが、それは不可能だ。変わらないものなどない。


 誰もが、何もかもが、いつかは死へ向かっていく。

 ただ、遅いか早いかの違いだけだ。

 そう思わなければ、世界の不平等っぷりに腸が煮え繰り返り、とても前など向けなかった。


 と、その時、


「――あ」


 苛立ち混じりに動かしていた足が止まる。

 そのまま凍りついたように立ち竦む。


 その光景を眺めていたのは自分だけではなかったのだ。

 敏也の前方、彼より学園に近い場所に、その人物はいた。


「――」


 その人物は、笑っていた。

 心の底から楽しそうに、無邪気に。

 舞う桜吹雪に目を細め、それを迎え入れるように両手を差し出し。


 彼女は、美しい桜と同調するようにそこに居た。


 制服姿の銀髪の少女。

 彼女の髪はこの時はまだ、セミロングくらいの長さだった。


 その空色の瞳が視界の端に敏也を捉え、彼女はゆっくりとこちらを向いた。


「?」


 不思議そうに傾げた首。

 パチパチと瞬きを繰り返す瞼。

 流れる髪を押さえるために伸ばしたしなやかな指先。

 形と色の良い唇。

 はしゃいでいたせいか、微かに赤らんだ頬。


 とても儚い、精巧な人形のように整った容姿を持った女性。


 外国の人だろうか――この時はまだ、その程度の認識しか持っていなかった。


「ども」


 軽く頭を下げ、じっと見詰めてしまっていたことへの謝罪も込めてあいさつを零す。

 が、彼女はもごもごと口籠り、何も言ってこない。


 それから五秒ほど待ち、嘆息すると敏也は歩き出した。


 そして、すれ違う。

 すれ違う時も、すれ違った後も、彼女はこちらを見詰めていたようだ。

 不思議な物を見るように、ある意味では、縋りつくように。


 だが、それに気付いていながら、敏也は振り返らなかった。

 振り返ってしまえば、みっともないほど赤くなった顔を晒さなければならなくなるから。

 そうなってしまうほど、自らの気持ちを制御できなくなってしまうほど、彼女を美しいと思ってしまったのだ。


 それが、敏也とエリーネの始まりだった。


   2


 それから半年が経った。


 十月。季節は秋に差し掛かっている。


 エリーネと同じクラスになるという幸運に恵まれたにも拘わらず、敏也は彼女と関わるような真似はせず、ただダラダラと毎日を過ごしていた。


 一学期開始早々攻撃魔術が使えないことがわかり、成績がどん底まで落ちた自分としては、学業に身を入れる気になどなれなかった。

 そして、自分と同じように苦手分野があるにも拘わらず成績優秀なエリーネに、何のきっかけもなしに関わろうとはとても思えなかったのだ。


 教室にチャイムが鳴り響く。

 どうやらうたた寝をしている内に授業は終わったようだ。


「はい、ではこれで四時間目の授業を終わりにします」


 槇ちゃん先生がそう言い、教室を出ていった。


(メシか。食堂……行くの面倒だな)


 いつもならすぐに発つのだが、眠っていたせいか身体がだるく、起き上がり辛い。

 そんなことを考えながら少しだけ腕枕から顔を上げると、銀髪の人影が教室を足早に出て行くのが見えた。


(あいつ、いつもどこでメシ食ってんだろ)


 純粋に疑問だった。

 昼休みになると、気が付けばエリーネの姿は消えている。

 まるで逃げるように、教室にいるのが辛いかのように、忽然と姿を消しているのだ。

 そして、自分はいつも食堂を利用しているが、エリーネが食堂を利用している姿を見掛けたことはない。

 あるとすれば、雨天の時ぐらいだろうか。


(友達、いないのか?)


 と、そんな疑問が脳を駆け巡った直後だった。


「エリーネってさ、感じ悪くない」


 その声を聴いた途端、思わずゆっくりと机に突っ伏し直していた。


 なぜそうしたのかはわからない。

 聞きたかったのかもしれない。

 ただ純粋に興味本意だったのかもしれない。

 聞いているとバレるのが怖かったのかもしれない。

 いっそ耳を塞いでしまおうか、そうまで思ってしまい、もぞもぞと動き、二の腕辺りで耳に栓をしてみた。


 だが、それでも、どれほど机に突っ伏していても、エリーネの噂は耳に付いた。


「確かにねー。声掛けてもオドオドして逃げてくしさ」

「それに確かあいつ、男を何人も振ったんでしょ」

「でもでも、フリートハイムさんって、誰とも付き合ってないらしいよ」

「えー。でも、クラスの男子の半分くらいから告られたんでしょ? なのになんで付き合わないの?」

「知らないわよ。入学早々早まったやつらの話だと、片言で『いまはむり』の一点張りだったらしいけど」

「なにそれー、意味わかんなくない?」


 アハハハハ、と締めに笑い声が聴こえてきた。


(悪口がそんなに楽しいのかねえ)


 その女性徒たちの声は不愉快だった。

 エリーネは特段悪いことをしていないのに、彼女を貶めるようなことを平気で口にするこの人物たちの発言は心底耳障りだった。


 もしや、こういった陰口が辛くてエリーネは教室から去るのだろうか。


 苛立ちが心で首を擡げ始める。

 日頃から世の中に対して抱いている不快感と自らへの失望が綯い交ぜになり、凶悪な衝動となって血を煮え滾らせていく。


 殴ってしまおうか、そんなことまで脳裏をチラつく。


「――いいかげんにせんかー!!」


 そんな怒号が、敏也の中の黒々とした感情を吹き飛ばした。

 それを耳にしたクラスメイトたちは言葉を失い、誰もがその発生源へと視線を向ける。

 敏也もそのあまりにも大きな声量に身を竦ませ、弾かれるように身体を起こしていた。


 その怒号の発し主は、小柄な少女だった。

 名前は八咫神奈々。

 この時はまだ、彼女はエリーネの友人と呼べるほど仲が良くはなかった。


 だがそれでも奈々はとびきりの怒りを顔に滲ませ、その女生徒たちの席の近くで仁王立ちしている。


「あの子のこと、なにも知らない癖にっ。それ以上エリーネのこと悪く言ったら殴り飛ばすわよ!」

「ちょ、ちょっと奈々? いつもと口調違くない?」

「違くない!」


 奈々が気炎を吐く勢いで女生徒たちに飛び掛かった。

 肉体強化を掛けた状態での追い駆けっこ。

 どたばたと教室中を追い回し、喧騒が広がって行く。


 その光景に毒気を抜かれた敏也は溜息を吐き、ゆっくりと席を立った。


   3


 そしてそれから数日が経ち、ついにあの日が来た。


 放課後にエリーネと揃って博士から呼び出され、少しだけ話をした後、術式『ギア』の適合実験に参加しないか、と誘われたのだ。


 目の前には赤と銀の歯車が回転している。

 戸惑い、言葉を失っている二人に対し、博士が口を開いた。


「ふむ、さすがに今返事を聞くのは酷というものか。――二人とも、今日のところは一先ず帰るといい。そして、二人でゆっくりと答を出しなさい。一週間後くらいにまた呼ぶよ」

「わかりました」

「はい」


 その弱々しい返事に博士は苦笑いし、彼らに帰宅を促した。


 それから再び博士の研究室に戻ってくると置いてあった鞄を持ち、二人揃って部屋から出た。

 日が落ち始めたためか、薄暗く成り始めているガラス張りの長い廊下を歩き、ようやく研究区画の入口兼出口に辿り着く。


 そして、敏也は小さく声を漏らした。


「なあ」

「っ! ……なんですか」


 敏也の声にエリーネは身を竦ませ、恐る恐るといった感じで彼の顔を見た。


 そこまで怯える必要があるのだろうか、とも思うが、留学生という立場でおまけに周りから冷たく接せられてきた彼女としては、他者は怖いものなのだろう。

 そう断じた敏也は、少々躊躇いながらも質問した。


「お前はどうするつもりなんだ?」

「実験……のことですか?」

「そう」


 入口の自動ドアが開き、二人は並んでその向こう側へ歩き出す。


「わかりません」


 向こう側へ辿り着いた後、一言、淡々とそう言った。

 後ろでは自動ドアが無機質な音を鳴らしながら閉まった。

 二人は研究所の敷地外へ向け、舗装された道を歩いて行く。


「博士……でしたね。彼女の言うことは抽象的ですし、どこか胡散臭いですし。信用できる要素が一つもありません。だから、私はどうしていいのかわかりません」

「……そ」


 返事をしながらも、敏也の右頬はピクピクと引き攣っていた。


(博士が聞いたら泣きそうなほど酷いこと言うな、こいつ)


 そんな物言いをしているから周りから浮くんじゃないか。

 いや、もしかしたら偏った表現の日本語ばかりを習得してしまったのでは。

 だとすれば、このまま見過ごしてしまっても良いのだろうか。


 考えが纏まらないながらも、取り敢えず仲良くなってしまおうと敏也は思い立った。

 そのために、彼女の名を呼ぶ。


「なあ、エリーネ……だよな」

「……」

「あれ? 違った?」


 隣を歩く彼女から反応が返ってこない。


 ――二人は研究所のゲートを潜り、歩道を歩きながら学園を目指す。


 はて、何を間違えてしまったのだろうか。

 名前はまず間違いなく合っているはずだ。

 なぜなら、入学式の後にあったHRで自己紹介をした時、彼女の名前だけは頭の中で数十回は反芻して脳細胞に刻み込んだのだから。

 間違えるはずがない。そのようなこと、あってはならない。


 まあそこは、自分の脳みそが腐りきっているとしたら在り得ることなのだが。


(もしかしたら、聴こえてないだけってのも在り得るんじゃ?)


 そうとしか考えられない。というか、考えたくない。

 もしこれが意図的に無視されているという状況だったなら、敏也の硝子のハートは粉々に砕け散ってしまう。

 いろいろと世間に対して諦観めいた考えを持っている敏也だが、それでも女の子に冷たくされると傷付く程度の感性は持っているのだから。


 自らをなけなしの気概で奮起させた敏也は、再び呼び掛けてみることにした。


「エリーネ?」

「……」

「エーリーイーネー」

「……」

「エリーネ様」

「……」

「フリートハイム君」

「……」

「エリちゃん♪」

「……」

「エリーネ・フリートハイムさん!」

「……」

「エリー?」

「っ」

「あ、やっと反応した。――ってこれは」


 肩を小さく揺すり、そして目をほんの少し大きく開き、微かに頬を赤らめるという細やかな反応を見て歓喜した瞬間、気付いてしまった。


 これはつまり、意図的に無視されていた、という事態が確定したのでは。


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!?」

「ひっ!? な、なんなんですか、もうっ」


 突然頭を抱えて悲鳴を上げるという奇行に走った敏也を見たエリーネはびくりと竦み、怖い物を見る目を向けた。


 一方、敏也の脳内は悲鳴と怨嗟と悲哀に満ちている。

 それほどまでに心を抉る出来事だったのだ。辛かったのだ。

 何もしていないのに女子に嫌われるという現実が、堪らなく胸を掻き毟ったのだ。


 敏也は、えぐっ、ぐすっ、と嘔吐きながら、滂沱と涙を流す。


「ごめん、ごめん、俺、生きててごめんなさい」

「何言い出してるんです、あなた」


 対するエリーネは顔から怯えを消し、半眼で敏也を見据えている。


 一しきりこの世を嘆いた後、敏也は顔面を手の甲でゴシゴシと拭い、表情を改めた。

 が、その風貌には涙の跡が見て取れ、先ほどよりも幾分か悲壮感を増している。


「ああ、世界って綺麗だなー」

「……本題は」

「あ、はい」


 現実逃避し掛けていた敏也は咳払いで気を取り直し、横目を彼女に向けた。


「あのさ、日本にはもう慣れた?」

「なんですか、その質問」

「いや、さ。ほら、お前留学生じゃん? だから、日本語とかもうバッチリなのかなー、って思ってさ。さっきも言い淀んでたし」


 博士からの質問に答える時、彼女は多少ではあるが口籠っていた。だからそう確認したのだが、どうやらそれがお気に召さなかったようだ。


 エリーネは立ち止まると、悔しそうに唇を噛み締め、小刻みに身体を震わせている。

 それが羞恥によるものだということは、少々人情に疎い敏也にもわかってしまう。


 つい先ほどのことを例に出すのはさすがに不味かったようだ。


「それがなんですか? 私が可哀想だとでも?」

「ち、違う! そんなつもりじゃなくて。俺は純粋に――」

「この――…………っ」

「……え、どしたの? 何も言わないの?」


 精神攻撃に備え、身体全体で身構え、心の壁を最大に設定したにも拘わらず、いつまで経っても罵倒は飛んで来なかった。


 敏也は堅く閉じていた目を開き、エリーネの様子を伺う。


 彼女は口をパクパクとしながら、顔を赤に染めていた。

 どうやら、脳が適切な言葉を見つけ出せず、口だけが早まって動き出してしまったようだ。


「……言葉、まだ完璧じゃないんだな」

「っ! ――ええ、そうですよ。それがなにか? 悪いんですか? たった半年足らずでここまで話せるようになっているんですから、大した問題ではないでしょう?」

「いや、別に俺は――」

「それに!」


 敏也の言葉をエリーネは遮り、


「それに私は攻撃魔術に長けていますから。たとえ言葉が通じずとも、私が優秀であることに変わりはありませんから! ……嫉妬してくる人たちのことなんて、どうでもいいんですから……」


 思わず、渋面を彼女に向けてしまった。


 今のエリーネは顔を伏せ、彼女が発した言葉とは裏腹に哀しそうにしていて、苦しそうにしていて。

 そして今にも泣き出しそうな雰囲気を身体全体に纏っていた。

 何よりも、その足が震えていた。


「そっか」


 だが、この時の自分はそっけなく返事をするだけで、彼女に何もしてあげられなかった。してあげようと思わなかった。


 関わるのが怖かった。


 自分の様な欠陥品が、優秀な彼女に何をしてあげられるというのか。きっと何もない。在りはしない。自分の身一つで手一杯な己が、誰かを助けてあげられるとは思えなかった。


 二人はそのまま無言で歩き出し、学生寮へと帰って行った。


   4


 それから三日後。


 敏也は実験の参加不参加の返事に窮し、答を出せずにいた。

 その上、関係ないと割り切っても先日エリーネが見せたあの表情のことが気になり、授業にも身が入らなかった。


 現に、今もこうして授業中であるにも拘わらず、敏也は頬杖を付きながらエリーネの背中に視線を送っている。


 ちなみにエリーネの席は教室前方の窓際、そして敏也の席は彼女の列の隣、その二つほど後方の席であるため、怪しまれずにその背中を見詰めることが可能となってしまっている。


 その眼に映るのは、初めて会った時よりも幾分か長さを増した銀髪。

 あと数ヶ月もすれば、そのうち腰まで届いてしまいそうだ。


(エリーネ、やっぱり実験に参加する気ないのかな)


 そう思うと、少しだけ寂しい気がした。


 なぜなら、自分と彼女は一応ではあるが同類なのだ。

 自分と同じく『半端者』と呼ばれる同類。

 魔術師を目指す十代の少年少女たち――日本だけでも万は下らぬ数字、その一分いちぶにも満たない数が陥ると言われている、欠陥。


 攻撃魔術、もしくは肉体強化が使えないという、欠陥。


 この学園、この学年に限ってしまえばそういった存在は敏也とエリーネだけだが、他の教育機関や他国の養成所にも半端者は多く存在する。

 だが、そのほとんどが志半ばで潰えてしまう。

 教育機関を退学し、一般人として生きる道を選んでしまう。


 それは単に、他者よりも劣っているという現実が、年若い世代の心を凄絶に抉っていってしまうからだ。

 何の容赦も情けもなく、ただただ機械的に、ザックリと。


 だからこそ、寂しい。

 自分と同じように抗う彼女が、目の前に敷かれた道を共に歩んでくれないということが。


 これが身勝手な思いだということは敏也もわかっている。

 だがそれでも、心のどこかで温もりを求めている自分がいることは確かであり、それは拭いきれない弱さだった。


 だから、隣に誰かいてほしいと願わずにはいられなかったのだ。


(でも、俺が何を言ったって、エリーネの気持ちが変わるってわけでもないだろうし)


 自分とエリーネは数回顔を合わせた程度であり、つい先日ようやくファーストコンタクト、というよりも初めて会話にこじつけたのだ。

 そんな関係でしかない自分が、いったい彼女の心のどこを揺り動かせるというのか。


 そう思うと、自分はあまりにも無力だった。


 と、その時、


「大神君、フリートハイムさんの背中を見詰めるのは構いませんが、先生が呼んでいるのに無視するのはいただけませんよぉ?」


 いつのまにか、先ほどまで黒板――この時代でも黒板は存在する――に板書をしていた槇ちゃんが教壇前に戻っており、笑顔ではあるもののそのこめかみが引き攣っていた。


 槇ちゃん先生の発言を聴いたその他のクラスメイトたちも、なんだなんだ、と視線が動き、槇ちゃん先生と敏也の間を行ったり来たりしている。


「え……呼ばれてました?」


 敏也はまったくそれを耳にした覚えがないため、きょとんとして頬杖をやめた。


「ええ、呼んでいました。通算で十回は越えていますよぉ。そんなにフリートハイムさんが気になりますか? 彼女の背中を眺める方が、先生の授業よりもよっぽど楽しいですかぁ?」


 顔は変わらず笑顔ではあるが、その声には怒りが滲んでいた。

 敏也は教壇から距離のある場所に陣取っているにも拘わらず身を逸らせ、


「あ、えっと、楽しい楽しくないは別として。――あはっ、槇ちゃん先生、怒ると美人が台無しですよ?」


 敏也は惚けた調子で言うものの、


「誤魔化そうとしても無駄ですよぉ? 先生は生徒にほだされるほど耄碌もうろくしてはいませんからねぇ。それに、先生の容姿は中の上くらいだと自負しています。――それはさておき、あなたには後でたっぷりと宿題を与えてあげましょう」

「そんな殺生なっ!? 勘弁してください! 俺、勉強は苦手です!」

「胸を張って言うことですか! 減らず口ばかりでまったく反省が感じられないとは。宿題をさらに増やします。いいですね!」

「嘘だあぁぁぁっ!?」


 誤魔化せず、余計に反感を買うこととなってしまった敏也は、悲痛な叫びを上げながら頭を抱え、机へと突っ伏した。

 その肩が小刻みに震えているのは、後悔によるものだろう。


 クラスメイトたちはクスクスと小さく笑い、その様子を見守っている。


 ただ、エリーネだけは、不機嫌そうでありながら戸惑っているようにも見える表情で、敏也へと細めた視線を向けていた。


   5


 それから授業は終わり、休み時間となった。


 疲れた様子で溜息を吐き、教科書を机の中に突っ込んだ敏也だったが、その横にすっと人影が現れた。


「敏也よ、エリーネ嬢が気になるのか?」


 そう訊いてきたのは黒髪の少年、神堂寺マサル。

 現時点ではさほど敏也と関わりはなかったが、最初の実技の時に手合わせをしてからというものの、彼は敏也のことを気に掛けているようであり、その上ちょっかいを出すようになっていた。


「は? ちげーよ。たまたま目が向いてただけ。考え事してたんだよ」


 敏也はそう言って誤魔化すが、それが嘘であり、強がりだということは自覚があった。

 そんな彼を見たマサルは鋭い視線を一瞬だけ向けた後、それを緩め、


「考え事、か。それは、研究棟の職員から誘われたという実験のことか?」

「え、なんでお前それ知ってんだよ?」


 誘われたことは誰にも話していないはずだ。

 友達がいないように見えるエリーネも同様だろう。

 そもそも実験――たとえ魔術に関連していようとなかろうと同じだろうが、そういったものに参加する場合はそれが確定するまでの期間、言いふらすような真似をしてはならない。

 それは当たり前のことであり、参加した後でも極力他者に話すべきではないのだ。


 となると、マサルは誰からそれを聞いたのだろうか。


 探るような視線を向けてくる敏也に思うところがあったのか、マサルは大仰に肩を竦め、首を振った。


「そう警戒するな。伝手で知っただけだ。情報が漏れたわけではないゆえ、安心しろ」

「それ十分やばいんじゃ……」

「問題ない。実験の出資者から聴いたのだからな」

「出資者……」


 つまり、あの実験の内容に関して訊かれても構わない部分、そして訊かれてはならない部分を取捨選択できる立場の人間が彼に話したということだろうか。

 だとすれば納得できる。


 それ以上考えるのも面倒だと思ったのか、敏也は片手をひらひらと振り、


「あー、そうかいそうかい。そういうことにしとくよ。で、話し掛けてきた目的ってそんだけか?」

「いや、もう一つ」

「……なんだよ?」


 敏也は少々うんざりしてきたのか、疲れたように息を吐く。

 対してマサルは涼しい顔のままで変動していない。


「エリーネ嬢に関してなのだがな――」

「あいつがどうかしたのか」


 思わずマサルの言葉を遮り、食い付いていた。

 そう問うた後、しまった、と敏也は思っている。

 あまりにも反応が早すぎたため、ここ数日の思考の大半をエリーネに関することが埋め尽くしていたとバレはしないだろうか。


 が、マサルは生暖かい視線を向けるだけで、その件に関しては特に問い質さず、


「いや、なに。彼女とゆっくり話をしたいのであれば、相応の場所があると言いたくてな」

「あいつと?」


 チラリと視線を向ける。

 その先は、席に座ったまま読書に励んでいるエリーネ。

 本のタイトルはここからは見えないが、ページを捲る早さからして、どうやら読書に用いるだけの日本語能力は有しているようだ。


「そう、エリーネ嬢とだ。……どうせお前のことだ。勝手に早合点して、勝手に結論を出して、勝手に彼女の実験への参加を諦めているのだろう? エリーネ嬢は少々人付き合いが悪いゆえ、実験への参加を渋るだろうからな」


 その得意げに紡がれた言葉に、うぐっ、と敏也は呻く。


「ば、バカ言うな。ちゃんと言質は取ったんだよ。『どうすればいいのかわからない』って、あいつはそう言ったんだ。だから――」

「それは『参加したくない』と同義ではないだろう?」

「っ」


 図星――というほどではなく、痛いところを突かれたといったところだろうか。


 確かに、エリーネははっきりと拒絶を口にしたわけではなかった。

 あの口調は、戸惑いまみれではあったが、決して冷たく突き放すような態度ではなかった。


 それを自分は、逃げ腰の己を肯定するための材料にして、言い訳にして、自分が逃げるための道具にしようとしていた。

 それがわかっていても、胸を突き刺すほど罪悪感に苛まれても、向き合うことから逃げ出したかった。


(最低だな、俺)


 そう思っても、自分はこういう人間なのだ。こうなってしまったのだ。


 ではどうすればいい? 


 変われとでも、自分を変えていけとでも言うのだろうか。


 ――無理だ。変われない。そんな簡単に変われるのであれば、世の中はこれほどまでに歪みはしなかった。

 世界は狂ったりしなかった。

 冷たくなりはしなかった。


 マサルは、苦い表情で黙り込んでしまった敏也を値踏みするように見守っている。

 その周りでは、ガヤガヤというクラスメイトたちの話声しか聴こえない。


 そして、


「なあ、マサル」


 一変して辛そうな表情になった敏也が口を開く。マサルは肩を上下させ、次の言葉を促す。


「あいつと話したら、何かが変わるのかな」


 それは痛々しいほど感情が込められた、弱々しげな声音だった。


 自分が変わるのだろうか。

 世界が変わるのだろうか。

 彼女が変わるのだろうか。


 そんな問いと、誰かに縋りつきたいという敏也の弱音が滲んだ、悲痛な思いだった。


「さあな」


 だが、マサルは親が子を突き離すように冷たく一言漏らし、


「――だが、誰かが動かなければ何も変わらない。お前も、彼女もな」


 ――そして世界も。


 その言葉を聞いた敏也に選択できる道など、一つしかなかった。


   6


「――居た」


 昼休み、購買で昼食を買った後、マサルに教えられた通りの場所を訪れてみると、そこにはエリーネが居た。


 そこは学生寮の南側にある小高い丘。芝生たちの真ん中に、緑に覆われた大樹がそびえ立つという、自然に染まった大地だった。


 マサルが言うには、


「エリーネ嬢はいつもあの丘で一人食事を取っているそうだ。だから行ってやれ。それにあそこは二人でゆっくりと話をするには打って付けの場所だからな」


 とのことだった。


 ちなみに彼への情報の提供者は八咫神奈々。


 なんでも、以前奈々がその場所を嗅ぎ付け訪れたものの、エリーネからの静かな拒絶に遭い、退散することとなったのだとか。

 そして、つい先日エリーネと実験の関係者(あくまで予定)になった敏也に、彼女のカウンセラー役になってほしいと、マサルは奈々に言伝を頼まれたのだそうだ。


 確かに、敏也とマサルが話をしている最中、奈々は自分の席で口笛を吹きながらチラチラと視線を送り、彼らの話の動向を探っていた。

 それは、この時はまだ敏也と奈々は教室で見掛ける程度の仲であり、友達ではなかったからだった。


「さて、どうしたもんかね」


 現在、学生寮の陰に隠れて彼女の様子を伺っているものの、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 なにせ、敏也が隠れている建物は女子寮なのだ。


 彼の今の状況は『女子寮の陰に隠れている男』であり、それはもう怪しい、怪しすぎる。

 女子に見つかりでもすれば即座に拿捕されてしまうだろう。 


「……やるしかないか」


 もはや逃げ道などなかった。


 このまま尻尾を巻いて逃げ帰ればマサルと奈々からの冷やかな視線。

 このままここに佇んでいても不審者としてお縄に。


 だとすれば、僅かながら可能性があるエリーネとの楽しい昼食会に活路を見出すしかない。


 そう覚悟を決めた敏也は、今後取り返しのつかない一歩を踏み出した。


 女子寮の陰から歩きだし、芝生を踏みしめ、彼女の元へ向かう。


 途中、こちらの姿を視界の端に捉えたのか、大樹の影に座り込んでいたエリーネが手に持っていた弁当箱を地に降ろし、それから警戒するように目尻を吊り上げた。


 その態度にグサリと来るものを感じたが、唾を飲み込むことで誤魔化す。


 そして、


「よっ、エリーネ」


 爽やかに挨拶。


「……」


 返事は下からの突き刺さるような眼差し。


 敏也は顔に曖昧な笑顔を浮かべ、その場に立ち尽くした。


(怖い、怖いけど、それ以上に辛い)


 こちらの姿を捉えているのに、こちらの声が届いているはずなのに無視し、一声も返してこない。

 返事の代わりなのか、「お返しよ♪」とばかりに軽く投げ返してくるのは致死量の冷たさなど、冗談ではなかった。


「あ、あのさ、昼、一緒にして……いい?」


 恐る恐るといった感じかつ僅かながら下手に出る状態で様子を伺う。


 すると、エリーネは冷たい眼差しのまま顔を敏也から背け、弁当箱を手にした。そして、そのまま箸でおかずを摘み、黙々と食事を再開した。


(いいってことなのかな?)


 そうとしか考えられず、また、それ以外の可能性に目をくれたくなかった敏也は早々に結論を出し、エリーネとは大樹の周りの角度九十度ほど離れた場所に座り込んだ。

 購買の紙袋をゆっくりと傍らに降ろし、中身を探る。


「あのさ、エリーネ」


 紙袋からやきそばパンを取り出し、その包みを開けるがてら、声を掛ける。


「お前はさ、実験に参加する気無いのか?」

「……」

「なあ、答えてくれよ。無視せずにさ」

「……はぁ」


 敏也の懇願するような声音に心を動かされたのか、それまで黙り込んでいたエリーネが深い溜息を零した。

 そして、渋々といった感じで口を開く。


「前に言ったでしょう。『わかりません』と。あんな抽象的で、目的も曖昧で、碌にこちらに提示してくれる情報もない中、あのような実験に参加する気になどなれませんよ」

「それが、お前が実験を嫌がる理由なのか?」


 視線だけを彼女のほうへと向ける。だが、彼女は前方を向き続けるのみ。


「嫌というわけではありません。ただ……」

「ただ?」

「私は、こちらには頼れる人がいません。もしその実験で何かが起こった時、私には助けてくれる人がいないんです。それが、どうしようもなく不安で……」

「……」


 それは、彼女が始めて漏らした本音だったのかもしれない。


 エリーネは留学生であり、恐らくは寮住まい。彼女がハーフ、もしくはクォーターなどという噂は耳にしないため、つまりはこちらに縁者などいるはずがない。

 そして、両親は祖国に滞在しているままなのだろう。


 彼女は、孤独だ。


「それが、断りたい一番の理由?」

「ええ、そうです。これで満足でしょう? もう私に関わらないでください。迷惑です」

「なんでそんなに一人になろうとするんだよ。もっと愛想良くすればさ、きっと――」

「――あなたに私の何がわかるんですかっ!?」


 突如、怒声が鳴り響く。

 エリーネが立ち上がり、弁当箱を手放し、怒りでその身を震わせていた。

 投げ出された弁当箱が地を転がり、中身を辺りへ撒き散らす。


 その濡れた空色の双眸は、突然の事態に戸惑っている敏也を射抜いている。


「な、なんだよ?」

「勝手なことばかり言って! 他人の癖に!」

「っ」


 エリーネの目尻からは滴が零れていた。絶えず、決して絶えることなく。


「あなたにはわかりませんよ! 私はただ、言い寄ってくる人たちに精いっぱい断りを入れただけなのに、女の子たちはそれを気に入らないとか、調子に乗ってるとか、そんなことを言って冷たくしてくるんですよっ! ――わかりますか、あなたに! それがどれほど訳がわからなくて、どれほど辛いことなのか……」


「……」


 唇を噛み締める。それはエリーネだけではなく、敏也もだった。


「断った男の子たちだって、最初は申し訳なさそうにしているだけだったのに、断る人数が増えてくると徒党を組んで噂話をして。……知ってますか、私がなんて呼ばれているか?」


 敏也は首を振る。エリーネは辛そうに答える。


「『お高く留まった留学生』ですよ。笑っちゃいますよね。あれほど真摯に告白してきた人たちが、今度は貶す側に回ってしまうんですから。初めてその現場に出くわした時、唖然としましたよ。『この人たちは何を言っているんだろう』って。……関わってきたのはっ、……自分たちの癖に……っ」


「……」


 言葉が、見つからない。


 エリーネは、揺れる双眸で批難めいた視線を敏也に向ける。


「きっと、あなたも同じです。あの人たちと同じです。きっと敵になる。だから、もう私に関わらないで。一人にしておいてください」

「っ――でも俺たちは――」


 敏也が感情に任せ立ち上がり、彼女に向かい合おうとしたその瞬間、


「やっ、来ないで!」


 エリーネがその瞳に明確に怯えを示し、拒絶するように右手を振り上げた。

 それは、恐らく無意識のことだったのだろう。

 彼女にそうするつもりは一切なかったのだろう。

 だが、それは身体の持ち主の意思とは離れた場所で、結果を生んだ。


「いっ……」


 その手は、敏也の頬を張っていた。

 もちろんそれほど力が籠っていたわけではない。

 せいぜい『はたき』程度のものだ。

 しかし、それでも痛かった。


「あっ」

 後悔の声を漏らし、エリーネが右手のひらを左手で抑えるように持ち、後ずさる。

 敏也は突然の痛みに呆然とし、張られた頬に触れた。

 

 じんじんと鈍く痛む。それが堪えられないほど心を掻き毟った。


「あ、あの……私、こんな……」

「……」


 わかっていた。彼女がわざとそうしたわけではないということは。


 だが、掛けるべき言葉がわからなかった。


 今の彼女に、自分は何を言ってあげればいいのだろうか。安い慰めなど逆効果だ。それは自身の経験として身に刻まれている。

 だからといって放置されれば、それはしこりとなって心に残り続ける。それは、一番あってはならないことだ。


 ただ、


(わかんねえ)


 わからない、わからない、どうすればいいというのだろうか。

 どうすれば、どうすれば彼女を救える? 

 いやそもそも、なぜ自分はこれほどまでに必死になっているのだろうか。


 マサルや奈々への義理? ――違う。

 単なる善意? ――違う。

 エリーネへの憐憫の情? ――絶対に違う。


 これは、もっと純粋な、それでいて、随分と曖昧な気持ち。

 でも、わからない。

 形に、言葉にするのが憚られ、その上定義できるだけ育っていない。

 そんな弱い想いだ。


 それでも、そんな欠片のような感情であったとしても、彼女を救いたいと思ったのだ。


 エリーネは沈黙に耐えられなくなったのか、


「ごめん……なさいっ」


 そう言い残し、女子寮の方向へと走り去ってしまった。


「エリーネ……」


 だが、敏也はその場に立ち尽くすことしかできず、声さえ掛けてあげることができず、彼女の背中を視線で追うことしかできなかった。


「あ」


 ふと足元を見れば、エリーネが落した弁当箱が転がっていた。

 しゃがみ込み、それを拾い上げる。


「はは、あいつ、料理上手なんだな」


 辛うじて弁当箱から零れ落ちはしなかったおかずたちが箱の中には残っており、それは見るからにいろとりどりで、食欲をそそる香りを放っていた。


「俺……」


 弁当箱を両手で持ち、空を見上げた敏也の瞳には、怪しげでありながらも力強い光が灯っていた。



後編は後日投下します。

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