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双天の共鳴者  作者: 月山
第一章「共鳴者覚醒」
28/126

帰還の日

 事件から三日が経った。


 突然のテロ発生、ということで日本中のお茶の間を騒がすほどのニュースになった今回の事件であるが、幸い市民には被害がでなかったということ、ライフラインへの被害はほとんどないということ、また、テロリストはすぐに殲滅されたということで、その日のうちにだいたいの都市機能は回復していた。


 破壊されたビルなどの建物や道路なども業者がさっそく、せっせと再建作業に取り掛かっている。人間とは実に逞しいものだ。


 治安維持部隊への被害は、海上に設置してある自動迎撃システムのほぼ全てが大破。警備班に回っていた人員の約半数が死傷、残りの半数は軽傷・重傷者多数、魔動機は数機を残して他は大破といったあり様だった。


 しかし幸い、他の交易都市や本州の治安維持部隊から応援が駆けつけたため、現在の第三交易都市の警備状況は万全となっている。


 杉崎統括は今回の一件での被害、その責を問われるかと思われていたが、どうやら政府が第三交易都市への援助を渋っていたこと、そしてそのせいで防衛設備に予算を割けなかったことを盾にし、うまくきり抜けたようだ。こちらもさすがの逞しさ。


 敏也たちの傷も交易都市の医療設備や簡易的な回復魔術であらかた治ったこともあり、事態を知った学園側からの再三の帰還要請に応え、帰路につくこととなった。


 

 ――そして、リニア発着場。

 

 現在、ホームにてリニアトレインの到着待ちだ。

 マサル以外は全員私服である。三人は戦闘で学園の制服を破損したため、入院中に一日だけ外出許可をもらい、交易都市のショップで調達してきたのだ。


 敏也の背中には、本来は竹刀をしまうであろう袋の中にくるまれている、麻布で刀身をぐるぐる巻きにされた『炎刀・灰神』が背負われていた。

 万が一荷物検査を迫られた場合にそなえ、交易都市側のセキュリティにはあらかじめ事情を話しておいたので見逃してもらう手はずになっている。本州側の発着場にも連絡がいっているはずだ。


 ちなみに、彼らが身体検査の時に取り上げられていた携帯端末は返却済みである。


「ん~、やっぱり外を自由に歩き回れるっていいな。病院の中でじっとしてるなんて耐えられねえよ」


 敏也がバッグを右手に持ち、刀の入った袋を左肩にかけたまま伸びをしながらぼやく。彼は全身の打撲と裂傷の治療のため入院した。


「確かにそうですね。……病院のあの薬品の匂い、あまり好きではないですし」


 エリーネも荷物を両手でもったまま、それに答える。彼女は最後の狙撃の際に受けた打撲で、一応の経過観察として入院を強要された。


「二人はまだいいでしょ~。わたしなんてCTだとかレントゲンだとか、検査のオンパレードだったんだよぉ? ……気分はまさにモルモット……」


 奈々はガクッと項垂れながらそう言った。彼女はその身でビルを何本も突き破り、おまけに頭を打っていたのだから当然だと言える。


「貴重な経験だろう。入院など、そうそうあることではないからな」


 そう言ったのはマサルである。――無傷で帰還したマサルくんである。

 三人の目が一斉にジロッと向く。


「なんでお前だけ無傷だったんだよ、不公平だ! エリーネさん、お願いします」


「――神堂寺くん、これから怪我しませんか? お代は要りませんよ? ……少ーし香ばしくなるだけです」


「マッサル~♪ ……CTの中の、狭さと怖さを教えてあげようか?」


「……いや、待て、落ち着けお前たち。目が本気だぞ……」


 マサルが頬を引きつらせながら、後ずさる。

 そんな彼へと三人がジリジリ這い寄っていると、そこに、ある人物が現れた。


「やあやあ、お元気そうでなによりです」


 その人物は、杉崎統括だった。相変わらず薄っぺらくて安っぽい笑みが顔に張り付いている。

 そしてその隣には以前と変わらず、涼しげな表情をした副官の女性が佇んでいる。


 彼を見た敏也が「うげっ」と呻き、拒絶を示した。


「なんでここに来んだよ……。最後の最後まで嫌味言いに来たのか?」


「いえいえ、お礼を言いに来たのですよ。さすがにそれくらいの分別は持ち合わせていますので。……それに、そこまで暇な時期ではありません」


 そして四人に向けて軽く頭を下げる。


「今回はあなた方のおかげで最悪の事態は避けることができました。心より感謝しています。……お礼と言ってはなんですが、学園への報告書には色をつけておきましたので。――それでは気をつけてお帰りください」


 たったそれだけを言うと、杉崎統括は踵を返す。が、敏也が彼を呼び止めた。


「待てよ。……あんた、何でそんなに捻くれたふりしてんだ?」


 その言葉に杉崎統括と副官の女性の動きがピタリと止まる。そして、杉崎統括がゆっくりと敏也を振り向いた。


「……なぜ、そう思ったのです?」


「本当に捻くれた人間は礼なんて言いに来ねえよ。あんたが礼を言いに来たのは、あんたが本当は捻くれた人間じゃないからだ。……違うか?」


「…………稚拙な物言いですね。何の根拠もない、……実にくだらない戯言だ」


 そして、くいっと眼鏡を直す。


「お話はお終いですか? ならば、僕は職務に戻らせていただきます」


「……もう一つだけ。……なんであんたは、博士を嫌ってるんだ?」


「……そんなの決まっていますよ」


 そう言って杉崎統括が敏也に向けた目には、激情が渦巻いていた。

 憎しみでもあり、羨望でもあり、他にもどれだけの感情が含まれているのだろう?

 それが何なのかはわからなかったが、ただならぬことが過去に杉崎統括と博士の間に起きたということは、容易に想像できた。


「……あらゆる意味であの人のことが気に入らない……ただそれだけです。――――あの人は悪魔だ。自分の目的のためなら罪のない人を殺せてしまうほどの鬼畜。あれは正真正銘の――」


 ――彼の言葉は続かなかった。敏也が彼の頬を右手で殴ったからだ。そして、敏也の右手から投げ出されたバッグがドサッと床に落ちた。

 杉崎統括の顔から弾き飛ばされた眼鏡が床を滑っていく。

 副官の女性は、敏也の動きに反応できたにも関わらず、何故か手を出さなかった。


 敏也は、殴られた体制のまま動かない杉崎統括を見やりながら、苦々しげに呟く。


「…………全部終わったら殴るって、そう言ったよな。……これでさっきの博士への暴言もチャラにしてやる」


「……それはありがたいですね。僕も口が過ぎたようです。あなた方には、謝罪しましょう」


「……」


 そう言って彼は眼鏡を拾いに行った。そして眼鏡をかけ直すと、


「では、これにて失礼します」


 その言葉を最後に、杉崎統括たちは去っていった。一度も後ろを振り返らずに。

 エリーネは敏也の傍に寄り、その顔を伺う。


「……大神くん、気にしないほうがいいと思います。たとえあの人が本来は違った性格だったとしても、今は……」


「ああ、わかってる。……ただ、確かめたかっただけだから」


 敏也は、去っていく杉崎統括を――過去に囚われ続ける男の背中を、哀しそうに見送っていた。


 その後、四人はリニアで本州へ渡り、その後公共交通機関に乗り換え、学園に帰還した。



 帰還した敏也たちを学園の正門で待ち構えていたのは、般若のように怒った槇ちゃんだった。

 彼女は敏也たちの姿を捉えると、溜まった怒りやら不満やらを捲し立てる。


「あなたたちっ!! 命の危険を感じたら現状任務を放棄し、すぐに戻るようにと言っておいたはずですよ!! よりにもよってテロリストと戦うなんてッ! ……え、何、帰れなかった? もちろん事情は知っています。どうしようもなかったということもわかっています。ですがっ、教師としては怒らないわけにはいかないんですッ!! ――もちろん交易都市側には学園がきちんと抗議しています。ですがっ、あなたたちには今回の任務のレポートに加え、反省文の提出を命じますッ!!」


 そこまで言うと、槇ちゃんは優しげな声になった。


「…………あと、学園が三日間は公欠扱いにしてくれるそうです。だからその間に身体を休めて、反省文を書きなさい。レポートの提出はそのあとで構いません。……おかえりなさい、四人とも」


 そうして新たな戦いの火蓋が切って落とされたのだった。



 ――とは言うものの、すぐに反省文に取りかかるというわけでは当然なく――

 

 四人がそれぞれ解散した後、敏也は荷物を寮の自室に置いた後、学園の校舎の屋上に向かっていた。

 槇ちゃんが言うには、第三交易都市でテロが起きたという情報が飛び込んできた時点で出払っていた各訓練班はその全てが自主的に帰還したそうだ。つまり、帰ってこなかったのは敏也たちだけということである。


 敏也たち以外の生徒は今は座学の授業中で、教室以外には人影は見られない。

 キィッ、と音を立てながら屋上の扉を開く――と目の前には二本の足がぶら下がっていた。ほど良い肉付きで黒いタイツに包まれた、実に健康的な足だ。


「……お久しぶりです、春美さん」


「え? その声……敏也君!? ――話は聞いてるわよ、大変だったわね」


「ええ、それなりには」


 敏也は若干ドキドキしながら足の下を潜り、屋上に出る。涼しげな風が身体を過ぎ去っていく。

 彼の視線は屋上に出ても、春美が相も変わらずプラプラさせている足に釘づけだった。


「? ……ふふ、そんなにわたしの足が気に入ったのかしら。……足フェチ?」


「……違いますっ! 誤解ですよ!」


「ふーん? ……ま、そういうことにしておいてあげるわ。――ほら、こっちにいらっしゃい。――いい眺めよ」


 春美にそう言われた敏也は、トン、と軽く跳躍すると彼女の傍に降り立ち、そしてその隣に座り込んだ。

 ――彼女が言うとおり、以前見た時のような青空が広がっていて、とても綺麗だった。


「……またサボりですか。いい御身分ですね」


 敏也はからかわれた仕返しも兼ねて嫌味を言った。が、春美はそれを気にした様子もなく、ニッコリと笑っていた。


「ええ、そうよ。――ここ数日、気分が落ち込むことが、ひ・じょ・う・に! 多かったから、こうして気分転換しないとやってられなかったのよ。――いったいどこの人たちのせいかしらね……?」


 春美はどす黒い雰囲気を醸し出しながら言った。あくまでも、にこやかな表情のままで、だ。

 そんな彼女の様子に敏也は恐怖し、裏返りかけた声で必死に責任転嫁を図り始めた。


「こ、今回の件は、我々は悪くないと言いますかっ、全部あの捻くれ眼鏡のせいといいますかっ。――お、俺は悪くねぇっ!」


「……女の子に心配させたのに謝りもしないだなんて。……ふーん、敏也君ってそんな酷い男の子だったんだー、ショックだなー?」


「うっ、……心配掛けて……すいませんでした……」


 敏也はしゅんと落ち込んで謝罪した。――言われてみればそうだ。日本の第三交易都市でテロが起きたことは世界中の人間が知っているのだ。


 敏也たち見習いが戦いに加わった事は公には伏せられているが、学園側や敏也たちと個人的な付き合いのある春美は当然知っている。ならば、春美が自分たちのことを心配してくれていたのは当たり前のことではないか。


 彼の謝罪を聞いた春美は、険呑としていた雰囲気を少しだけ和らげた。


「まったくっ、人の気も知らないで……。――でも、無事に帰ってきてくれたから、良しとしましょうか……。その様子だと、エリーネちゃんも無事なようだし」


 彼女はそう言うと、ふっと柔らかな笑みを零し、風で乱れる栗色の髪をそっと押さえていた。

 敏也はそんな彼女を見つめながら、


「……春美さん。一つ、聞いてもいいですか?」


「ええ、いいわよ。何かしら?」


 彼女は優しげに敏也を見つめる。だが、敏也は気まずそうに問いかけた。


「……あの……春美さんが実地訓練で初めて戦闘に陥った時、任務を優先するか、自分たちの命を優先するか、――どっちを選びました……?」


 その問いに呆気にとられた春美は、すぐに悲しそうに目を伏せ――そして、ポツポツと話し始めた。


「わたしの場合……かぁ……。――――そうね……わたしは任務を優先したわ」


「……どうなりました?」


「もちろん成功したわよ? ……犠牲は出たけれど」


 春美は哀しそうに笑っていた。

 その表情は、己の罪に苦悩しているもので、それを人に気遣わせまいと誤魔化そうとしているもので、……敏也の心を深く抉るものだった。


「――あの時の判断は、間違っていたとは思わないわ。だって、あの時奴らを放置していたら、きっと一般人に被害が出ていたもの」


~~~~


 ――春美が言うには、その時の任務は地方都市の郊外における哨戒任務で、春美のパートナー一名と他のチーム一組、計四名で警戒にあたっていたそうだ。


 だが、空域を巡回するだけの楽な任務であったはずがそうではなくなった。偶然、当時裏社会で幅を利かせていた組織の魔動機密輸の現場を見つけてしまったのだ。


 山間部の拓けた土地での魔動機の密売。

 周囲には、取引現場の様子を遮るものは何もない。

 他者に見つかるリスクを冒してでも、敵の接近を察知できる場所で取引を行う――つまりは、相応の手練れが連れ添っているということだろう。なれば、迂闊に接近もできない。


 彼女たちはすぐさま治安維持部隊に指示を仰いだ。

 だが、本部からの指示は一つ。


 ――殲滅せよ。


 増援はすぐさま送る。が、それまでは見習いたちだけで足止めせよとのことだった。

 しかしそれは、春美たちだけで組織を潰せと言われていることと同義だった。


 彼女たちは迷った。

 自分たちだけでできるのかどうか。

 不可能ではないか、逃げてしまえばいいのでは、と。


 相手は魔動機を持っている。それに恐らく、あの集団の中には魔術師も混じっているだろう。おまけに、携行火器すら持っている。

 勝てる見込みは五分あれば上々といった程度だった。だがそれは、あくまでも希望的観測の上でだ。


 ――結局、彼女たちに選択肢はなかったのだ。このまま奴らが取引を終え都市に近づけば、戦端が都市内部まで拡大してしまう可能性があったから。

 それは、苦渋の決断だった。


 その戦いで、春美のパートナーは、消えない傷を負うことになった。

 皮肉にもそれが、春美の実地訓練での輝かしい戦績の始まりだった。


~~~~


「――でもね、今でも思うわ。『あの時逃げていれば』って。……だって、逃げて……大勢の人間から後ろ指を指される事になってしまっても――そんなのっ、どうってことないじゃない! 大切な人が傷つくより……よっぽどマシよ……!」


 彼女は泣きそうな顔で空を見上げていた。そして、その小さな手は痛みを堪えるかのように膝の上で硬く握られている。

 敏也はそんな彼女に問いかける。


「春美さんのパートナーは……今は?」


「……今でもわたしのパートナーよ。あなたは……話したことはないでしょうけど、見かけたことはあるわ。――生徒会の副会長よ」


「……そうなんですか……」


 そう言えば今までの罰則の時に見かけたことがある。――首元から肩にかけての、裂傷とも火傷ともとれる大きな傷痕のある女性。あの人が春美の相棒で援護役だったのだ。


「ねえ敏也君。あなたはどうだったの? ――あなたはちゃんと……選べた?」


 春美は泣き笑いと言っていいような表情で問いかけてきた。

 だから、敏也は真剣に考え、空を見つめながら答えた。


「はい、ちゃんと選びました。……春美さんが言ってくれた、後悔しない道を」


 それを聞いた春美が目を見開き、息を呑んだ。そして、「覚えてたんだ……」と少し嬉しさを滲ませながら呟いた。

 敏也は続ける。


「だから……わかりました。今までの俺はとんだクズだったんだって。……俺は結局、逃げていたかっただけだったんです……物事に、真剣に向き合うことから」


 敏也は春美に顔を向け、申し訳なさそうに、はにかんだ。

 それを見た春美は戸惑いながら、


「……でも、仕方ないわよ。だってあなたは……幼い頃にたくさんの人の死を見たでしょう? 逃げたって仕方ない……ううん、逃げたって良かったのよ……」


 それを聞いた敏也は困ったように眉根を寄せ、苦笑した。


「散々俺を矯正しようとしたあなたがそれを言いますか……?」


「だ、だって! ……それは……いろいろ抱えてるところが……自分みたいで放っておけなかったというか……」


 春美は頬を染めながら、気まずそうにゴニョゴニョと呟いていた。

 それを見た敏也は笑みを穏やかで深いものにし、


「――俺は、春美さんが叱ってくれたことに感謝しています。……もし、あなたが叱ってくれていなければ、俺はきっと逃げ出していたでしょう。……『他人なんかどうでもいい』って、そう言い訳して……」


 それを聞いた春美が、瞳を潤ませながら敏也を見上げていた。そして、敏也は言う。


「春美さん、もう……自分を責めるのはやめましょう? パートナーが傷ついたのはあなたのせいじゃありません。あなたは……いえ、あなたたちはその時取れる最善の選択をしたんです。――俺が……そう認めます。たとえ他の誰が認めなくても、俺だけは、あなたを認めます」


 それは紛れもない、敏也の本心だった。

 彼女と同じように死地に、選択の場に立ったからこそわかる。

 絶対に春美は悪くなかったと。

 この人はきっと正しかったのだと、敏也はそう強く思っている。

 春美はいつの間にか泣き出していた。その双眸から、涙が絶えず零れ落ちている。


「……っ……ひっく……っ……としや…くん……わたし……っ……わたしっ……!」


 突然春美が隣に座る敏也の胸に飛び込んできた。


「うぉ……っと」


 危うく下に落ちかけ、バランスを取りながら彼女を支える。

 その重さは、彼女が勝ち取ってきた栄光など感じさせないほど軽く。

 その身体は、魔動機を自在に繰る才女とは思えないほどか細く。

 その暖かさは、ここに彼女が確かに居るのだと、敏也にそう確信させた。


「――好きなだけ、泣いていいですよ」


 敏也は、子供のように泣きじゃくる春美を優しく抱き止め、その頭を愛おしそうに撫でながら、彼女の暖かさ、その心地よさに身を任せていた。



 彼女が恥ずかしそうな表情で、髪をふわっと掻きあげ、言う。


「…………泣き顔なんて、恥ずかしいところを見せてしまったわね」


「ええ、そうですね。バッチリ記憶しましたんで、ご安心を」


「うわあぁぁぁんっ、忘れなさーーいッ!!」


「い・や・で・す☆ ――ようやく手に入れた春美さんの弱みなんですから。存分に使わせてもらいますよ、ぐへへ」


 と、敏也はまるで小悪党のような笑いを零していた。春美はそんな彼を半泣きでポカポカ殴っている。実に微笑ましい光景である。

 敏也はそんな彼女を見て、フフン、と笑い、


「いやー、鬼の首を取るってのはこういうことなんですねぇ。なんとも気分が良い、はっはっは」


「……良い性格になったわね、敏也君。それがあなたの素なのかしら……?」


「はっはっは、どうでしょうね? 好きなように解釈してくださって結構ですよ」


「ううっ、なんて憎たらしいっ。覚えてなさい……絶対にこの恨みは晴らすわっ」


「ほほぉ? いいんですかぁ? そんなこと言ってぇ?」


 彼はニヤッと、いやらしい笑みを浮かべ、


「――今でも俺の脳内には、俺の胸元にまるで親に縋りつく子どものようにひしっとしがみ付きながら泣き腫らして潤んだ扇情的な瞳でこちらを見上げながらいたくしおらしい態度で『……ごめんなさい』と、か細いながらも甘い声で優しく囁いてきた麗しい春美さんのお姿が――」


「い、いやぁぁぁぁ!? 思い出さないでぇぇぇっ!!」


 春美は真っ赤な顔で彼の頭めがけて拳を、ブンッ、と振るうが、敏也はそれを、ヒョイッ、と避ける。


「うっはっは、魔動科が生身で魔術科に敵うと思うてかっ、あっはっは」


「ううーーっ!」


 春美は悔しそうに呻き、目じりに涙を溜めながら唇を噛み締めていた。


「あっはっはっはっは」


 上機嫌に笑う敏也は気付かなかった。――破滅はもう、すぐ傍に来ていることに。


「ト シ ヤ」


「はっはっ……はぁっ!?」


(こっ、この声はぁぁッ!?)


 ギギギ、とまるで錆び付いているかのような緩慢な動きで首を動かし、背後を見やる。


 ――阿修羅が――紫苑が立っていた。ゴゴゴ、と嫌な擬音を背景に浮かべながら。

 いったいいつ上ってきたのだろう。梯子を上ってくる音などしなかったのに。そもそも、屋上の入口が開く気配など無かったのだが。


「な、なんでお前がここに……っ! 今、授業中だろっ!?」


「……ここ数日、師匠は元気がなかった。今日は授業をサボると言っていた。私は付き添うと言った。そして、ジュースを買いに行っていた。買って戻ってきた。……理解できた? ――その残念な頭で」


「は、はいぃっ」


 確かに言われてみれば、その両手にはジュースが――ブシュブシュ零れてるんですが? 握り潰されそうになってるんですが?


「……まずは……トシヤ、おかえりなさいでもそれはどうでもいいの。なんで――師匠は泣きそうなの? ううん、どうして――目が腫れているのっ? ――――コタエテ」


「あ、あわわわわわわわわ」


 敏也は言い訳すらできないほど動揺していた。歯はガチガチ鳴っているし、全身から脂汗が噴き出している。

 今の状況は、下手に発言すれば即座に首を刎ねられそうなほど緊迫した雰囲気だった。


「……紫苑っ」


 そんな中、春美が紫苑にひしっと抱き付いた。おまけに、ぐすん、と鼻を啜っている。そして、まるで親に泣き付く子どものように敏也の所業を伝えた。


「わたし……汚されちゃった……」


「は、春美さん!? ちょっと待――――」


 ヒュッ、と風を切る音がした。

 敏也が、紫苑のしたことを認識できたのはそれだけ。

 気が付けば、敏也の身体は屋上から飛び出していた。



「回し蹴り一発で大の男を屋上から蹴り落とすって……どんな鍛え方してんだよ」


 地上四階分以上の高さから突き落とされた敏也は、その後コンクリートの大地にタッチダウンし、数分気を失っていた。

 いくら肉体強化があるとは言っても、無暗に蹴り落とさないでいただきたい。痛いものは痛いのだから。


 彼は目を覚ますと、まだ自分が生きていることに感謝し、すぐさま紫苑の所業に恐れ戦いていた。


(……怒りの超戦士の回し蹴りは、人知を超えたスピードなんだな……)


 と、この痛々しい経験から敏也は学び、残念な頭が一つ賢くなったようだ。

 そして、今は身体の痛みが引くまでじっとしているのだが――


「トシヤ」


「――ひぎゃあッ!?」


 いつのまにか紫苑が居た、春美もいっしょに。春美は紫苑の後ろに隠れながら、ニヤーっと笑っている。

 敏也は紫苑の姿を見るやいなや、身体の痛みを無視して起き上がり、ズサーッと後ずさった。そして尻もちを着いたまま、ガクガクと震えている。

 だが紫苑は、ズーン、とでも聴こえてきそうなほど落ち込んでいた。


「……ごめんなさい。また私は師匠の口車に乗せられてしまったようで……本当にごめんなさい」


「あら、さっきも言ったけど紫苑は悪くないわよぉ? もちろんわたしもだけれど。――ね? 敏也君♪」


「あー、まあ……俺もからかいすぎましたからね……はは」


 乾いた笑いで場を濁す敏也。早く会話を終わらせて逃げたいっ、彼はそう思っていた。

 だが、それを聞いた春美は「あ、駄目よ…」と呟くと顔を顰め、敏也を見ていた。


 ――紫苑が再び威圧感を放ち始める。


「……トシヤ? 私はそんなこと聞いていない」


「へ?」


「……師匠はトシヤに相談事をしていて思わず泣いてしまったと、さっきのは全部師匠の悪ふざけだったと、私は師匠からそう聞いたんだけど――からかったって、何?」


「……できご――ころッ!?」


 最後まで言い訳をさせてもらえず、敏也はきりもみしながら吹っ飛んだ後、仰向けに地面に叩きつけられた。――紫苑渾身のボディーブローだ。


(ボディーブローって……こんなに吹っ飛ぶものだっけ……? ……そもそも俺座ってたのに……)


 あまりの痛みに呻くことさえできないまま、そんなことを考えていた。

 グググ、と頭だけを持ち上げると、紫苑がプンプンと怒りを露わにしながら去っていくところだった。……次に会う時が非常に怖い。

 敏也は力尽きたように、ガクッと頭を地面に降ろした。


「……どうしていつもみたいに言い訳しなかったのかしら? せっかく誤魔化しておいてあげたのに」


 と、敏也の頭の傍にしゃがみ込んだ春美が、怪訝そうに問いかけた。


「……言い訳がバレた時のことを考えると……怖かったので……」


「……くすっ、まったく……馬鹿なんだから」


 彼女は小さく笑うと敏也の頭を両手でそっと抑え、彼の顔に自分の顔を近づけた。それは、触れるほどの近さではないが、なぜかとても近くに彼女を感じた。


 春美は敏也の瞳をじっと見つめている。

 彼女の長く柔らかな毛先が、敏也の頬を撫でる。

 春美の吐息が敏也の顔にかかり、彼女のふんわりとした甘い体臭が、敏也の鼻腔をくすぐる。

 されるがままになっていた敏也は、顔を赤くしながら彼女の名前を呼んだ。


「あ、あの……春美さん……?」


「なあに? 敏也君」


「なんか……ちょっと近いんですけど……」


「そうね……恥ずかしいわね」


「……」


 お互いに顔を赤く染め、瞳を潤ませ、吐息を荒げ、そのまま数秒見つめ合う。


(なんで? これって何かのドッキリ? どっかでフリップ持った人待機してんの?)


 敏也は混乱した頭でそんなことを考えていた。

 だが、


「……うん、そっか」


 と、春美は小さく呟くと、バッと彼から離れ立ち上がった。そして赤い顔のまま、ささっと身だしなみを整えている。

 敏也はというと仰向けのまましばらく呆然としていたが、何事も起こらなかったことに安堵……というよりも不満を洩らし、むすっとしていた。


「……結局なんだったんですか」


 不機嫌そうに問いかけてきた敏也を春美は見降ろすと、「ん~」と唸りながら人差指を唇にあて考え込み、


「そうねぇ……確認、かしら?」


「確認? 何のです?」


 敏也がそう聞くと、春美は柔らかく微笑みながら再び敏也の傍に腰を降ろす。そして、彼の頭をそっと撫でながら、


「あなたの眼差し、とても強いものになったわ。……それに顔つきも……少し逞しくなったかしら?」


 春美は、慈愛に満ちた暖かな眼差しを敏也に向けている。そんな彼女の様子に敏也は背中がむず痒くなるような居心地の悪さを感じながらも、どこか安心していた。


「そんなに変わりました? 自覚ないんですけど……」


「ええ、とても素敵よ。――空虚な眼差しも良かったけど、今のあなたもなかなか魅力的ね」


「……は? そ、それっていったいどういう意味で――」


「うふふ、さあ? どういう意味なんだろうねえ?」


 彼女は極上の笑みを見せた後すっと立ち上がり、混乱する敏也をそのままに、鼻歌をうたいながら去っていった。



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