秋-1
街路樹が黄金色や深い赤に染まり、風が吹くたびにカサカサと乾いた音を立てて葉が舞い落ちる。
秋の訪れとともに、オーエンはすっかり人間の生活に馴染んでいた。
最初は力加減が分からずにちぎってしまっていた洗濯物も、今では大きな手できれいに伸ばして干せるようになった。
箒を持たせれば部屋の隅々まで埃一つ残さず、あれほど頻繁に紐をぶち切っていた革靴も、最近は慣れた様子で履きこなしている。
クララにとって、「朝起きて、リビングに行けばオーエンがいる」という生活は、完全に"当たり前"となっていた。
「あれ?クララさん、今日はお一人ですか?」
ギルドに顔を出すと、サラがいつもの笑顔で迎えてくれた。
カウンターに書類を差し出しながら、クララが「今日はオーエンさん、お留守番なんだ」と何気なく答えると、サラは少し寂しそうに頬杖をついた。
「残念。オーエンさんがいないと、なんだか静かで寂しいですねぇ」
「ええ? そんなことないでしょ。あんなに無口なのに」
「ありますよ。クララさんの隣には、もうオーエンさんがいるのが普通ですから」
「……そうなのかな」
書類を受け取る手が、一瞬止まる。
(普通、か……)
クララは改めて、オーエンがこの街の住人として生き始めていることを実感した。
家に帰ると、オーエンが窓辺で静かに洗濯物を畳んでいた。
夕暮れの柔らかな光が彼の横顔を照らし、高い鼻梁や引き締まった顎のラインを綺麗に縁取っている。
出来上がった料理を大きな手で食卓へ運ぶ姿。
夜、ランプの灯りの下で静かに本を読んでいる姿。
......気づけばいつも、自分のことよりもクララのことを気にかけてくれる姿。
ーーもう一緒にいることに違和感がない。
(……かっこいいな)
ふと、クララの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
浮かんだ瞬間、クララははっと自分の両頬を挟むようにして押さえた。
(待って、何を考えてるの、私!?)
慌てて視線を逸らす。
オーエンはずっとオーエンだ。
出会った春の日から、何も変わっていない。
なのに、どうして今さら、彼の姿にこんなに胸がざわつくのか。
その夜、クララはベッドの中で何度も寝返りを打った。
目を閉じると、どうしてもサラの言葉と、彼の横顔がフラッシュバックしてしまう。
枕に顔を埋め、クララは小さく息を吐き出した。
――が、そんな感傷に浸っていられたのも束の間。
今夜はまだ「ランタン磨き」をしていないことを思い出し、クララはのそりとベッドを抜け出してリビングへ向かった。
いつも通り棚からランタンを取ろうとしたのだが――そこには温かいお茶を淹れているオーエンが佇んでいた。
「……クララ。どうした?」
「ひゃあ!?」
急に目が合い、思いがけず声が漏れる。
いつもなら何も考えず、「お手入れしよう」と言えたはずなのに、今夜ばかりは、その言葉が喉につかえて出てこない。
そわそわ、おどおどと、妙にぎこちなく手を握りしめ、何か言い淀むクララを、オーエンは至近距離からじっと見つめてくる。
「手の動きが変だ。……どこか痛むのか?」
「ち、違うの! 痛くない!き、気にしないで!」
「ならなぜ顔が赤い。熱があるのか」
オーエンが心配そうに大きな手を伸ばし、クララの額に触れようとする。
彼の手が近づくだけで、クララは叫んでしまいそうになり、慌てて一歩飛び退いた。
「なんでもないから! ちょっと、こう、秋風で乾燥がね! 今日はごめん、磨くのは明日にする! おやすみ!」
布を放り出し、脱兎のごとく自室へ逃げ帰る。
リビングに取り残されたオーエンは、差し出したままの自分の大きな掌を見つめ「……乾燥?」と大真面目に首を傾げていた。
**
二人はルーカスの研究室を訪れていた。
窓の外では風が冷たく吹き抜けているが、室内は魔導ヒーターの温もりに満ちている。
ルーカスは机に向かい、これまでのオーエンのデータをまとめたノートをパタンと閉じた。
そして、眼鏡の位置を直しながら、何気ない調子で問いかけた。
「ねえ、オーエン。ちょっと気になったんだけどさ。歴代の持ち主の中で、一番印象に残っている人は誰なんだい?」
お茶を淹れていたクララも、手元を止めて笑って振り返る。
「あ、確かに。気になる。曾おじいちゃんかな? それともお母さん?」
オーエンは動きを止め、少しだけ考えるように視線を落とした。
部屋の中に、長い沈黙が流れる。
やがて、オーエンは静かに顔を上げ、低く落ち着いた声で言った。
「全員だ」
「……え?」
ルーカスがペンを動かそうとして、手を止める。
「全員、って……みんな同じくらいって意味かい? ほら、最初に一緒に旅をしたクロニクさんとかさ……」
「いや。そういう意味ではない」
オーエンは静かに首を振った。
「……クロニクも、エリオも、マリアも。そして、クララも。誰一人として、共に過ごした時間を忘れたことはない。彼らの笑い声から最後に灯火が消えた瞬間まで、すべて、同じ鮮さで残っている」
その瞳は、まるで何百年もの歴史をそのまま映し出しているかのように、深く、澄んでいた。
彼らの生きた証、流した涙、共に歩んだ道のり。
そのすべてを、オーエンは今も鮮明に記憶し、胸の奥に灯し続けているのだ。
研究室が、水を打ったように静まり返った。
カチ、カチ、と机の上の魔導時計の音だけが大きく響く。
ルーカスは自分のノートを見つめ、それからオーエンを見た。
「……すべて、か。何百年もの間、ずっと?」
「ああ」
「僕たち人間にとっては、歴史の教科書の一ページのような世代交代だ。でも、君にとっては……地続きの、昨日のことのような記憶なんだね」
ルーカスは、自分が手に持っていた万年筆をそっと机に置いた。
ルーカスは初めて理解した。
目の前にいる存在は、ただの「珍しい精霊」でも「研究対象」でもない。
何百年もの間、何世代もの人間の人生を、家族を、旅を、そのすべてを同じ目線で見届け、記憶し続けてきた、途方もない重みを持つ「一人」の存在なのだと。
精霊は基本的には人間に興味を示さない。その上「個」を記憶している事例はほとんどないため、配慮できていなかった。
「……ごめん」
ルーカスがぽつりと言った。
「俺……ずっと君を、研究対象としてしか見ていなかった。サンプルA、みたいなさ。でも、違ったよ。そんな風に扱っていい存在じゃなかった」
ルーカスは席を立ち、オーエンの前に歩み寄った。
そして、少し照れくさそうに頭を掻きながら、まっすぐにオーエンの目を見る。
「君はちゃんと、一人の……友達だ」
「友達?」
オーエンが不思議そうに復唱する。
「そう。研究は僕の性分だから続けるけどさ。でももう、君を『珍しいから』って理由だけで観察するのはやめる。これからは、君自身を知りたいんだ。一人の友人としてね」
オーエンは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
だが、やがてその口元が、人間らしく、ほんの少しだけ柔らかく緩む。
「……そうか」
「やったー! 友達増えたー!」
本棚の陰からポポが飛び出してきて、嬉しそうにルーカスの頭の上でくるくると回った。
張り詰めていた空気が一気に解け、研究室に温かい笑い声が広がった。
**
帰り道、空は高い秋の夕暮れに染まっていた。
涼しい風が二人の服を揺らす。
「友達、できたね、オーエン」
クララが隣を見上げて微笑むと、オーエンは前を見据えたまま、静かに頷いた。
「ああ。……クロニクたち以外で、初めてだ」
クララの足が、ぴたりと止まった。
オーエンは淡々と話を続ける。
「歴代の持ち主は、俺にとって全員『所有者』だった。……人間として生きたことがないからな。友人という距離感が、よく分からなかった」
少し寂しそうに、けれどどこか嬉しそうに、オーエンは自分の大きな手のひらを見つめた。
「だが、ルーカスはそう言ってくれた。......友、とはこういうものなのだな。」
「うん。きっと、ディンやサラともそうなれるよ。」
「……そうか。」
彼は、狭い世界から、一歩ずつ、確実に外の世界へと歩みを進めている。
多くの人と関わり、触れ合い、世界を広げていく彼の姿を見つめながら、クララは胸の奥が愛おしさで満たされるのを感じていた。




