夏-2
初夏の瑞々しい緑が深まり、じりじりと肌を焼く強い陽射しが街を包む。
人間の姿を得たオーエンの世界は、クララの小さな家から、少しずつ外へと広がり始めていた。
ある日、クララは次に受ける依頼の打ち合わせのため、オーエンを連れて冒険者ギルドへと足を運んでいた。
重い木扉を押し開けると、冷房魔法の涼気とともに、いつもの賑やかな活気が肌を包む。
「こんにちは、クララさん」
カウンターの向こうから、サラがいつもの笑顔で迎えてくれた。
けれど、クララのすぐ後ろに控える大柄な男――オーエンの姿を認めた瞬間、サラの目がピカリと輝いた。
彼女は少し身を乗り出し、声を潜めてクララに尋ねる。
「ねえ、クララさん。その、最近いつも後ろにいらっしゃる渋くて素敵な男性の方……もしかして、恋人ですか!?」
「……え!? ち、違うよサラ! 何言ってるの!?」
クララは顔から火が出るほど真っ赤になって手をぶんぶん振る。
そのやり取りを背後で聞いていたオーエンが、表情一つ変えずに低音ボイスで口を開いた。
「恋人ではない。……が今は一緒に暮らしている。それだけだ。」
サラは「ふぅん、クララさん、一人暮らしでしたよねぇ?……まあ、深くは聞きませんけど」と意味深に微笑み、「では、本日の護衛依頼の件ですが……」と手際よく書類を並べ始めた。
そこへ、「よお、クララ」と声をかけてきたのは、ディンだった。
ディンはクララの隣に立つオーエンを一瞥すると、少し首を傾げる。
「おい、クララ。なにこいつ。誰? 聞いてないんだけど」
「あはは……。私が昔からお世話になってる人で、オーエンさん。色々事情があって、今はうちで暮らしてるの。」
「へえ。」
短く返事をしたものの、ディンはどこか落ち着かない様子でオーエンを見る。
「俺、今回その依頼も一緒に行くわ。」
「え?」
「人数多い方が安心だろ。」
どう見ても後付けの理由だったが、人数が多いに越したことはない。
クララは小さく笑い、オーエンは静かに頷く。
「よろしくお願い。」
「……おう。」
ディンは少し照れくさそうに鼻を掻いた。
ディンはオーエンの前まで歩み寄ると、じっとその顔を見上げる。
「……ディンだ。宜しくな」
ぶっきらぼうな言い方だった。
「クララに変なことはするなよ。」
オーエンは少しだけ首を傾げる。
「……変なこととは何だ。俺は彼女の旅を支えるだけだ。」
真顔で返され、ディンは思わず眉間を押さえた。
**
今回の依頼は、隣町へ向かう商人の荷車の護衛。
魔物の出現もなく街道を順調に進んでいたが、半ばに差し掛かったところで、ガタゴトと派手な音が響き、商人の荷車が大きく傾いて急停止した。
「どうしよう、車輪が外れちゃってる!」
クララが駆け寄る。
車軸が地面にめり込み、このままでは外れた車輪をはめることもできない。
「チッ、一度荷物を全部下ろすか? だが、それじゃあ時間がかかりすぎるな……」
ディンが焦りを見せた、その時だった。
「大丈夫だ」
オーエンがのそりと前に出る。
彼は荷車の傾きをじっと見つめると、近くに転がっていた手頃な太さの丸太と、頑丈な岩の位置を指差した。
「ディン。その丸太をここに差し込め。この岩を支えにすれば持ち上がる。俺が押さえるから、お前は車輪をはめろ」
「できるのか?」
「ああ。」
オーエンの冷静かつ的確な指示に、ディンは半信半疑だったが丸太を差し込む。
オーエンが丸太の端に体重をかけると、みしり、と音を立てて荷車が簡単に持ち上がった。
ディンが慌てて車輪を軸にはめ込むと、オーエンは静かに荷車を下ろし、そのまま、荷車を引いていた馬の前に歩み寄った。
じっと馬の様子を観察し、その太い指先でそっと馬の首筋を撫でる。
「おい、次は近道でも探すのか?」
少し悔しそうにディンが尋ねると、オーエンは振り返らずに言った。
「この馬、右前脚を少し庇っている。蹄の間に尖った石が挟まっているな。……少し休ませて、石を抜いた方がいい。このまま走らせれば、次の町に着く前に動けなくなる。この先の木陰が丁度いい休憩場所だ」
商人が慌てて確認すると、まさにオーエンの言う通り、小さな硬い石が蹄の隙間にがっちりと食い込んでいた。
「すげえな……。お前、本当に色んなところを旅してきたんだな」
ディンの声から、先ほどまでの刺々しさが消えていた。
純粋な敬意の籠もった視線に、オーエンはどこか遠くを見るような目を向ける。
「歩いたことはない」
「え?」
「だが見てきた。……ずっと、な」
その言葉の真意はディンには分からなかったが、男の背中に漂う圧倒的な「旅の経験」の重みに、ただただ感服するしかなかった。
帰り道、ディンはすっかり態度を変え、オーエンの肩をバンバンと叩いた。
「お前、すげぇ奴だな! 知識も機転もベテラン以上だったぜ。……クララの奴が頼りにするわけだ。今度ギルドの酒場で奢らせてくれよ。また一緒に組もうぜ!」
「……ああ。機会があれば」
不器用に応じるオーエン。
クララはなんだかんだ仲良くやっている二人を見ながら、そっと安堵の息を吐くのだった。
**
そんなオーエンの噂は、当然、クララの幼馴染であるルーカスの耳にも届いていた。
二人が研究室を訪れるなり、ルーカスは目を血走らせてノートを開いた。
「質問が百個ある」
「多いよ、ルーカス」
クララが呆れるのも無視して、ルーカスはオーエンに詰め寄る。
しかし、オーエンは至って真面目に、その一つ一つに答え始めた。
「まず、人間のように眠るのか?」
「眠る。夜になると意識が深く沈む」
「夢は見るのか?」
「見る」
「どんな夢だ?」
「昔の旅の夢だ。クロニクたちが歩く姿を、内側から見ている」
「なるほど……! では、食事をしなくても平気なのか?」
「平気だ。魔力があれば、餓死することはない」
「ではなぜ食べる?」
「美味いからだ。あと、クララが嬉しそうにする」
「…………」
ルーカスはペンを止め、がっくりと肩を落とした。
「どうした?」
「いや。」
ルーカスは額へ手を当てる。
「仮説が全部崩れた。人格形成が最初からここまで進んだ精霊なんて、聞いたことがない……。研究にならないというか、ただの『めちゃくちゃ良いやつ』じゃないか……」
「あはは、残念だったね?」
クララが笑い、オーエンは少し首を傾げた。
「褒められているのか?」
「うん。たぶん最高に。」
そこへ、元気いっぱいの声とともに、本棚の陰から火の精霊ポポが飛び出してきた。
すっかりオーエンの分厚い肩の上が定位置になったポポは、今日も楽しそうに彼にまとわりつく。
「オーエーン!」
「む」
「遊ぼ! ねえ、遊ぼ!」
「何をする」
「飛ぶ! 一緒に空飛ぼ!」
「……俺は飛べん。羽も、浮遊の魔法もない」
「えー、つまんなーい! じゃあ歩こ!」
「今、歩いている」
「もう! おじちゃん、まじめすぎー!」
「......まだおじちゃんではない、と思う」
ぷんぷんと怒るポポの頭を、オーエンは大きな手で、壊れ物を触るようにそっと撫でる。
その姿は、完全に年の離れた幼子をあやす保護者のそれだ。
「ねえねえ、オーエンの炎、見せて! わたしと同じ火でしょ? 見たい!」
ポポが目を輝かせておねだりする。
オーエンは少しだけ躊躇したが、「少しだけだ」と、人型の指先にぽっと小さな琥珀色の炎を灯した。
それは熱を放たない、けれどどこまでも優しく、ゆらゆらと漂う灯火だった。
「わぁ……! きれーい! ぽかぽかする!」
ポポが嬉しそうに手を叩く。
ルーカスも興味深そうに炎を見つめ、ぶつぶつと考察を始める。
「熱量は低い。でも魔力反応は高い……。」
クララは苦笑した。
「二人とも、家の中だから火遊びはほどほどにね」
「はーい!」
「……ああ。すまん」
元気よく返事をするポポと、心なしか小さくなるオーエン。
その構図は、まるで子供二人を叱る母親のようで、研究室に温かい空気が満ちた。
ひとしきり遊んで満足したのか、ポポはオーエンの肩に顎を乗せ、ふと無邪気な声で尋ねた。
「ねえ、オーエン。昔の旅、楽しかった?」
オーエンは動きを止め、少しだけ考えてから、静かに言った。
「楽しかった。……色々な景色を見た。多くの魔物を退けた」
「へえー!」
「だが」
オーエンの声が、ふっと低く、どこか寂しげな響きを帯びる。
「皆、最後には俺を置いていった」
「……え?」
ポポが不思議そうに首を傾げる。
その言葉に、胸を突かれたのはクララだった。
あ、と声を漏らしそうになり、手元の手拭いを握りしめる。
歴代の持ち主たち――曾祖父クロニク、祖父エリオ、あるいは母マリア。
皆、オーエンを宝物のように大切にし、共に世界を旅した。
けれど、人間には寿命がある。
皆、年を重ね、病み、あるいは命を落として、オーエンの前からいなくなった。
道具である彼は、望まれる限り、老いることも、死ぬこともない。
どれほど愛されても、最後には必ず別れの時がくる。
何百年もの間、彼はその静かな孤独を、ただ一枚のガラスの奥で受け入れ続けてきたのだ。
ポポはそれ以上何も言わず、ただオーエンの首筋にきゅっと抱きついた。
オーエンも何も言わず、ただ窓の外の夕焼けを見つめていた。
夕焼けが研究室を赤く染める。
クララもそっとオーエンの隣へ歩み寄り、何も言わずに腰を下ろした。




