夏-1
梅雨の気配をはらんだ生ぬるい風が、木々の青葉を湿らせる季節になっていた。
「オーエン、そっちの紐はクロスさせて、手前の穴に通すの」
「……こうか」
「そうそう! で、最後にぎゅっと結ぶ。あ、力入れすぎ――」
プチん、と小気味よい音がリビングに響く。
クララの家で三度目となる、革靴の紐の犠牲が出た瞬間だった。
ガタイのいい渋いイケおじという見た目に反して、オーエンは自分の強靭な肉体の扱いを何一つ知らない。
服を着せれば前後が逆になり、ベッドで寝かせようとすれば「柔らかすぎて落ち着かん」と頑なに床で丸くなって寝てしまう。
昼下がり。
クララがお茶を淹れようとした時、オーエンが気を利かせて「俺が持とう」と陶器のティーポットに手を伸ばした。
しかし、強すぎる指の力のせいか、繊細な取っ手を一瞬で粉砕してしまった。
ガシャーン、と派手な音を立てて床で割れるお気に入りのポット。
「あ……」
「す、すまん! クララ、俺はただ……」
慌てて破片を拾おうとしたオーエンだったが、今度はその大きな足が机の脚にぶつかり、ガタガタと大きな音を立てる。
自分の不甲斐なさと不器用さに、オーエンの端正な顔がみるみるうちに絶望に染まっていった。
「すまん。やはり俺は、人間の姿などになるべきではなかったのだ……」
「あ、待って、オーエン! 別に怒ってないから――」
クララが止める間もなかった。
オーエンの身体が、淡い琥珀色の光に包まれたかと思うと、一瞬で収縮していく。
光が収まると、そこには馴染みのランタンが、コロンと床に転がっていた。
「あちゃぁ……本当に戻っちゃった」
クララは苦笑しながらランタンを拾い上げる。
彼は、人間の姿とランタンの姿を自由に行き来できるのだが、今回のように激しく落ち込んだり、拗ねたりすると、道具の姿へ引きこもってしまうことも多々あった。
「オーエン、出ておいで? 怒ってないよ、怪我はなかった?」
コンコン、とガラスを叩いて呼びかけるが、芯に火が灯る様子もなく、ランタンは完全に沈黙を貫いている。
どうやら相当に落ち込んでしまっているようだ。
強面おじさんの可愛らしいギャップに、クララは可笑しさを堪えきれず、ふふっと笑ってランタンを机に置いた。
「じゃあ、私は美味しいものでも作ろうっと」
それから数時間後。
スープと、市場で買ってきたふかふかの丸パンが机に並ぶと、ランタンの芯がパチパチと音を立てた。
再び琥珀色の光が溢れ、オーエンがのそりと人間の姿に戻る。
どこか気まずそうに、けれどパンの香りに抗えない様子で、オーエンは椅子に腰掛けた。
大きな手で、今度はそれこそ壊れ物を扱うように慎重にパンをちぎり、口へと運ぶ。
もぐもぐと厳かに咀嚼し、ごくんと飲み込むと、彼はしみじみと呟いた。
「……美味いな。クロニクたちがいつも美味そうに噛み砕いていたものの正体は、これだったのか」
「あはは、味覚があって本当によかったね。スープも温かいうちにどうぞ」
「ああ。ただの道具だった頃は、オイルの味しか知らなかったからな。……お前の作ったスープは、非常に身体に染みる。先ほどは、取り乱してすまなかった」
「いいよ。出てきてくれて嬉しい」
真剣な顔で真っ直ぐに謝られ、褒められる。
クララは少し照れくさそうにおたまを握り直した。
**
食事を終え、二人は買い出しのために市場へと向かった。
初夏の市場は活気に満ちている。
色鮮やかな夏野菜、仕込まれたばかりの果実酒の樽、行き交う人々。
オーエンはただ街を歩くだけで、まるで初めて世界を見た子供のように、珍しそうに周囲を見回していた。
「見てるだけで楽しい?」
「ああ。いつもはお前の腰の後ろや手元から、決まった角度の景色しか見えなかった。……自分の足で歩き、見たいものを自分で見られるというのは、奇妙な感覚だが、悪くない」
彼が今まで、本当に自分のすぐそばで旅を支えてくれていたのだと実感するたび、クララの胸の奥は少しだけむず痒くなる。
その時、オーエンがふと足を止め、湿り気を帯びた空気を深く鼻で吸い込んだ。
「クララ。明日は雨になる。それも、昼過ぎからかなり激しく降るな」
「え? でも、今日のギルドの天気予報では、しばらく雨は降らないって言ってたよ?」
「いや、雨だ。風の匂いと、大気の湿り気が言っている。……間違いない」
その翌日。
ギルドの予報を信じた冒険者たちが雨具を持たずに飛び出していく中、クララはオーエンの言葉に従って雨外套を持参した。
結果は、オーエンの完全勝利だった。
昼過ぎ、空はにわかに掻き曇り、バケツをひっくり返したような豪雨が街を襲ったのだ。
「すごいやオーエン! 魔法の予報より正確なんて!」
「長年、お前の家族の旅に付き合ってきたからな。雨の前触れや嵐の兆候を察知できなければ、優秀なランタンとは言えん」
土砂降りの雨に戸惑う冒険者たちを横目に、オーエンは誇らしげに腕を組んだ。
普段の不器用っぷりが嘘のように、ひとたび「旅の知識」となると、ベテラン冒険者も顔負けの鋭さを見せるのだった。
**
その日の夜。
激しい雨音が窓を叩くリビングで、クララは慣れたように棚から使い込んだ柔らかい布を取り出した。
オーエンが人型になってからも、クララは棚に置かれた彼の本体――古いランタンを手入れし続けている。
机の上に置いたランタンを、丁寧に、愛おしそうに布で拭く。
キュッ、キュッと小気味よい音が、静かな部屋に響く。
すると不意に、クララが磨いていたランタンの芯が、パチパチと慌ただしく火花を散らした。
ガラスの奥の炎が、まるで動揺したように激しく揺らめき、ほんのりと全体が赤みを帯びた琥珀色に染まっていく。
『……ク、クララ』
ランタンから、くぐもった、けれど紛れもなくオーエンの低い声が聞こえてきた。
心なしかいつもより声が上ずっている。
「ん? どうしたの、オーエン?」
『……その、少し、磨く手を緩めてはくれないか』
「え? どこか痛かった?」
クララが不思議に思ってランタンに顔を近づけると、ランタンの炎はさらに小さく縮こまり、今にも消えそうなほど細くなった。
『そうではない。具合が悪いわけでもないのだが……』
「じゃあ、どうしたの?」
『……人の姿を経験した後に、それをされるのは、少々気恥ずかしいのだ』
「え?」
『お前が布でそこを擦るたびに、背中のあたりが、その……妙に、むず痒いというか、熱くなるというか……』
ランタンの姿のまま、オーエンは居心地悪そうに声を震わせている。
一瞬の静寂の後、オーエンの言葉の意味を理解した。
本体を磨くということは、人間の姿のオーエンを直接触って、撫で回しているようなものではないか、と。
「ひ、ひゃああああっ!? ご、ごめんなさいっ!!」
クララは顔から火が出るほど真っ赤になり、勢いよく布を放り出した。
道具だった頃は何も気にせず「今日もありがとう」と磨いていたのに、彼が人間の感覚を知ってしまった今、急にそれがひどく破廉恥な行為に思えてきてしまったのだ。
『す、すまない、お前を責めているわけではないんだ。手入れも必要だし、ただ、その、慣れなくてな……』
ランタンのガラスの奥で、炎が気まずそうにゆらゆらと揺れている。
「わ、私の方こそ配慮が足りなくてっ! ち、力弱めるね」
「すまん」と焦るランタンと、「いやいや私の方こそ!」と手をぶんぶん振るクララ。
外の激しい雨音をかき消すように、二人の照れくさそうな声が、小さなリビングを行き交った。




