春-1
春の風は、まだ少しだけ冷たい。
草原を渡る風が青緑の波を作り、その合間で揺れる名もなき草花を横目に、クララは緩やかな坂道を下っていた。
腰に帯びた短剣が歩調に合わせて小さな音を立て、背の旅袋が肩に食い込む。
そして右手には、ずっしりとした鉄の重み――曾祖父の代から我が家に伝わる、古びたランタンが握られていた。
「依頼達成、お疲れさん。今回は思ったより早く片付いたな」
隣を歩く青年が、誇らしげに肩を回しながら笑う。
同僚の冒険者であり、時折合同で依頼を請け負う、顔なじみのディンだ。
「うん。手強い魔物が少なかったから助かっちゃった」
「だな。……あー、それ」
ディンはクララの手元にあるランタンへ視線を落とすと、歩きながら自然な動作で手を差し出した。
「それ、重くないか?街に着くまで、俺が持とうか?」
クララがそのランタンをずっと愛用しているのを、ディンはよく知っている。
純粋に彼女の労力を気遣う言葉だろう。
クララは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに目を細めて首を振る。
「ううん、大丈夫。ありがとね、ディン。でも、この重みがないと、なんだか旅をしてるって感じがしなくて落ち着かないんだよね」
「頑固だなぁ。まぁ、お前がそう言うならいいけどさ」
ディンは呆れたように笑いながら、差し出した手を引っ込めて自分の頭を掻いた。
二人が言葉を交わしながら歩くうちに、見慣れた街の城門が見えてきた。
夕暮れの橙色に染まる門をくぐれば、今日も一日を生き延びた多くの冒険者たちが、安堵の表情で帰路についている。
重厚なギルドの木扉を押し開けると、賑やかなざわめきが鼓膜を震わせた。
酒場からは成功を祝う乾杯の唱和が聞こえ、受付には報告待ちの長い列ができている。
「おかえりなさい、クララさん、ディンさん」
カウンターの向こうから、いち早く二人を見つけて声をかけてくれたのは、受付嬢のサラだった。
「無事、依頼達成ですか?」
「うん、これ討伐証明ね」
クララが差し出した書類を受け取り、サラは手際よくペンを走らせていく。
その途中でふと、サラの視線がクララの手元へと向いた。
「クララさん、そういえばご存知ですか? 今週、東の工房から新しい光の魔道具が入荷したんです」
「新しいの?」
「ええ!」
サラはカウンター越しに少し身を乗り出し、熱心に教えてくれる。
「今までのものよりさらに軽量化されて、なんと手のひらサイズなんです。魔力の消費も少ないですし、夜間の探索には絶対便利ですよ。」
受付嬢として、親切心から最新の便利な道具を勧めてくれるサラ。
クララは彼女の気遣いへ感謝するように微笑んだが、やっぱり答えは決まっていた。
「ありがとう、サラ。でも、私はまだこの子でいいかな。……まだちゃんと使えるんだもん」
そう言って、クララは愛おしそうにランタンを見つめる。
あまりにも迷いのないその態度に、サラはクスリと微笑んだ。
「ふふ、やっぱり断られちゃいましたね。でも、クララさんがそれを持って歩いているのを見ると、なんだかほっとするのも事実なんです。ガラスも金具も、いつもピカピカに手入れされていて……大切にされているのが、すごく伝わってきますから」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
**
「ただいま」
賑やかなギルドを後にし、報酬の入った革袋を軽く揺らしながら、クララは一人街外れの小さな家へと帰った。
決して広くはない。
けれど、一人と一つのランタンで暮らすには十分な我が家だ。
玄関に剣を立てかけ、重い旅袋を床に降ろす。
手を洗い、簡単な夕食を済ませると、クララはいつものように机の上へランタンをそっと置いた。
戸棚から使い込んだ柔らかい布を取り出す。
ガラスの覆いを外し、今日浴びた煤を丁寧に拭き取っていく。
油の残量を確かめ、新しい油を底に少しだけ注ぎ足す。
蝶番の噛み合わせに緩みはないか、持ち手の金具がぐらついていないか。
一つ一つの動作を、まるで壊れものを扱うように、優しく、静かに行う。
それはクララにとって、旅のひと段落を告げる何より安心する儀式だった。
「今日も、迷わず帰らせてくれてありがとう」
磨き終えた鉄の肌に、布越しにそっと掌を添える。
誰かに語りかけるようなその声は、春の夜の静寂に溶けていくようだった。
クララは満足そうに微笑むと、ランタンを月明かりが差し込む窓辺へと置き、寝室へ向かった。
「おやすみ」と小さく呟き、部屋の灯りを消す。
家の中はしんと静まり返り、窓の外で揺れる木々の葉擦れだけが聞こえていた。
そのときだった。
誰もいないはずの薄暗いリビングで。
窓辺に置かれたランタンの芯の先から、ふっと、小さな火花がひとつだけ弾けた。
夜風は、窓の向こう。風など一切、吹いていないというのに。
**
翌朝。
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日の暖かさに、クララはゆっくりと目を覚ました。
「ん……よく寝たぁ……」
眠気をこすりながらベッドの上に体を起こし、大きく伸びをする。
まだ半分夢の中にいるような足取りで寝室の扉を開け、リビングへと足を踏み入れた、その瞬間だった。
「…………え?」
クララの身体が、凍りついたように止まった。
そこには、一人の『男』が立っていた。
背が異様に高く、衣服の上からでも分かるほど強靭に鍛え上げられた身体。
年の頃は、渋みを増した四十前後だろうか。
鋭くも落ち着いた双眸に、無精とは言わせない綺麗に整えられた短い髭。
見慣れない武骨な旅装束をまとい、彼は静かに、じっとクララを見下ろしていた。
クララは激しく瞬きをした。
夢を見ているのだと思い、ぎゅっと目を瞑って、もう一度開く。
――やっぱり、いる。
ガタイのいい、見知らぬ大男が、自分の部屋の真ん中に堂々と立っている。
男はクララの混乱を余所に、低く、深く落ち着いた声で言った。
「起きたか」
「…………は?」




