決められた範囲
八重洲の監査部で、勘定系システム更改に関する監査が進んでいた。
本部監査チーム長の佐伯は、監査計画書を机に広げ、メンバーに説明していた。
「今回の監査では、システム更改における管理態勢を確認します。プロジェクトの進捗管理、リスク管理、委託先管理。監査の目的は、そこにあります」
佐伯の声は明瞭だった。
「システムの技術的な評価は、我々の専門領域ではありません。監査の目的を逸脱しないようにしてください」
小島、宮田、吉原が資料に目を落とす。
「工程の遅延については、管理者が適切に把握し、必要な対応を講じているか。そこを確認します。現場の作業負荷についても、管理態勢の一部として確認します」
佐伯は、最後に念を押した。
「ただし、個々の担当者の勤務実態を調べることが、今回の監査の目的ではありません」
会議室の隅で、春樹はその説明を聞いていた。
佐伯の言っていることは、間違っていない。
監査には目的がある。目的を定め、対象を絞り、限られた時間の中で必要な事実を確認する。それが監査の基本だ。
一方で、春樹の頭には、小島から聞いた現場の状況が残っていた。
工程の遅れ。
再テストの未了。
残業と休日出勤。
それらを管理態勢の問題として捉えるだけで、十分なのだろうか。
「佐伯さん」
春樹が口を開いた。
「もし、現場の負荷が工程の遅れに影響しているとしたら、そこも確認する必要があるのではないでしょうか」
佐伯は、春樹に視線を向けた。
「菅野次長。もちろん、管理態勢の確認に必要であれば、現場の状況も確認します」
「必要であれば、ということですね」
「はい。監査の目的を明確にしておかなければ、調査範囲が際限なく広がります」
春樹は、すぐには言い返さなかった。
佐伯の説明には、合理性がある。
ただ、合理性だけでは、拾いきれないものがあるように思えた。
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数日後。
監査チームから、進捗報告が上がってきた。
工程管理資料と会議議事録を照合した結果、遅延の発生はプロジェクト管理会議で報告されていた。対応方針も決定されている。
佐伯は、その報告を確認した。
「管理態勢としては、一定の対応が行われていますね」
「はい。ただ、再テストの完了時期は、まだ確定していません」
小島が答えた。
「その点は、引き続き確認してください。計画変更の承認や、リスク評価が適切に行われているかも見ておきましょう」
佐伯は、資料を返した。
「現場の勤務状況については、管理者が把握していることを確認できれば、ひとまず十分です」
小島は、少しだけ間を置いた。
「佐伯さん。現場では、かなり負荷が高いという話も聞いています」
「聞いている、というのは?」
「担当者からです」
佐伯は、表情を変えなかった。
「監査では、伝聞だけで判断することはできません。事実を確認してください。ただし、今回の監査目的に照らして必要な範囲で」
「分かりました」
小島は頷いた。
会議が終わった後、春樹は佐伯に声をかけた。
「佐伯さん」
「何でしょう、菅野次長」
「今回の監査範囲について、少し考えていました」
佐伯は、資料を整理する手を止めた。
「どうぞ」
「管理者が勤務状況を把握している。それだけで、現場の負荷が適切に管理されていると言えるのか」
佐伯は、春樹を見た。
「菅野次長。監査は、現場の苦労をすべて拾い上げる仕事ではありません」
「そうですね」
「監査の目的は、管理態勢の有効性を評価することです。個々の担当者の事情に踏み込めば、監査の焦点がぼやけます」
春樹は、静かに答えた。
「ただ、管理態勢の有効性を評価するために、現場の事情を知る必要がある場合もあると思います」
佐伯は、しばらく黙っていた。
「必要性が確認できれば、範囲を広げることは否定しません」
その言葉は、拒絶ではなかった。
しかし、積極的な賛同でもなかった。
春樹は、それ以上追及しなかった。
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その日の夕方。
春樹は、相沢監査部長の部屋を訪ねた。
「相沢部長。勘定系システム更改の監査について、ご相談があります」
相沢は、手元の資料から顔を上げた。
「どうしました」
「現在の監査範囲では、工程管理やリスク管理の確認が中心になっています。もちろん、それは必要なことです」
春樹は、言葉を選んだ。
「ただ、現場の負荷が工程に影響している可能性があります。管理態勢の有効性を評価するうえで、現場の状況をもう少し確認できないかと考えています」
相沢は、椅子に背を預けた。
「佐伯チーム長とは話しましたか」
「はい。監査目的に照らして必要な範囲で確認する、という考えです」
「佐伯君らしいですね」
相沢は、少し笑った。
「監査範囲を明確にすることは大切です。だが、範囲を定めることと、範囲に縛られることは違う」
春樹は、相沢を見た。
「現場の状況が、監査目的に関係しているのであれば、確認する余地はあります」
「そう思います」
相沢は、資料を手に取った。
「ただし、企画次長が監査チームの判断を直接変えるようなことはしないでください。監査の独立性は守らなければならない」
「はい」
「佐伯君に、必要性を整理してもらいましょう。監査目的との関係を明確にしたうえで、判断してもらう」
春樹は頷いた。
「分かりました」
相沢の言葉は、春樹にとって一つの答えだった。
現場の負荷を気にすることと、監査の独立性を守ること。
どちらかを選ぶ必要はない。
ただし、進め方を間違えてはいけない。
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翌日。
春樹は、企画グループの席で、監査計画書を読み返していた。
「菅野次長」
大森が、声をかけてきた。
「勘定系の監査、気になっているんですか」
「少し」
「佐伯さんの範囲、かなりきっちりしていますからね」
大森は、苦笑した。
「佐伯さんは、決めた範囲をきちんとやる人です。そこは信頼できます」
「そうですね」
「でも、現場で何かが起きているとき、決めた範囲の外に答えがあることもあります」
春樹は、大森を見た。
「大森さんは、どう考えますか」
「私は、現場を見てから考えます」
大森は、あっさりと答えた。
「資料だけじゃ、分からないことがありますから」
春樹は、少し笑った。
佐伯は、資料から問題を見つける。
大森は、現場から問題を見つける。
そして、自分は。
その二つをつなぐことが、企画次長の役割なのかもしれない。
春樹は、再び監査計画書に目を落とした。
決められた範囲。
その言葉が、少し違って見えた。
範囲は、仕事を制限するためだけにあるのではない。
何を確認するべきかを明確にするためにある。
ならば、その範囲の中に、まだ見えていないものがあるのではないか。
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帰宅すると、美和が冷凍庫を開けていた。
「今日は、何にする?」
「バニラで」
「珍しいね」
春樹は、アイスを受け取った。
「今日は、少し考えが整理できた気がする」
「仕事?」
「うん」
美和は、深く聞かなかった。
春樹は、アイスの蓋を開けた。
監査の範囲は、決められている。
けれど、その範囲をどう捉えるかは、人によって違う。
佐伯の考えも、大森の考えも、相沢の考えも、間違ってはいない。
だからこそ、自分ができることを考えなければならない。
春樹は、バニラアイスを一口食べた。
冷たさの向こうに、まだ答えのない問いが残っていた。




