システム監査編 それぞれの事情
監査部に着任して、一か月が過ぎた。
春樹の机には、相変わらず分厚い資料が積まれていた。
監査規程、監査計画、過去の監査報告書。毎日のように目を通しているが、まだ全体像をつかめたとは言い難い。
企画次長としての仕事も、少しずつ増えていた。
監査計画の進捗管理、各チームの調整、部内会議の準備。相沢部長から依頼される仕事は幅広く、銀行全体の動きを理解していなければ判断できないことも多かった。
そんなある日、本部監査チームの定例会議が開かれた。
議題は、勘定系システムの更改に関する監査だった。
「今回の監査は、システム部を対象とします」
佐伯が説明を始めた。
会議室には、本部監査チームのメンバーが集まっていた。小島、宮田、吉原。それぞれシステムや事務管理に関する経験を持つ担当者だ。
「現在、勘定系システムの更改プロジェクトが進んでいます。銀行業務の根幹に関わる案件ですので、重要度は極めて高い。監査としても、十分な検証が必要です」
佐伯は資料をスクリーンに映した。
「監査の主な対象は、プロジェクト管理態勢、予算管理、委託先管理、内部牽制の状況です。システム開発そのものの技術的な評価については、今回の監査では対象外とします」
「技術的な評価は、対象外ですか」
春樹が尋ねた。
佐伯は、資料から目を上げた。
「ええ。監査部がシステム開発の技術的な妥当性まで評価するのは、現実的ではありません。専門性の問題もありますし、監査の範囲を明確にする必要があります」
「ただ、システム更改の進捗に問題がある場合、その原因が開発工程にあるのか、管理態勢にあるのかは、切り分けが必要ですよね」
「もちろんです。今回は管理態勢を中心に検証します」
佐伯は、少し強い口調で続けた。
「監査は、何でも調べればいいというものではありません。限られた人員と時間の中で、重要なリスクに絞って検証する。それが監査計画の基本です」
春樹は、資料に目を落とした。
確かに、監査の範囲を明確にすることは重要だ。
しかし、勘定系システムは銀行の業務を支える基盤である。仮に更改が遅れているのであれば、その背景まで理解しなければ、適切な監査にはならないのではないか。
「小島さん、今回のプロジェクトの進捗状況は、どの程度把握していますか」
春樹が尋ねた。
小島は資料を確認した。
「システム部から提出された進捗管理資料では、全体として計画どおりに進んでいるとされています。ただ、一部の工程で遅れが出ているようです」
「具体的には?」
「詳細は、これからヒアリングで確認する予定です」
「テスト工程についてはどうですか。予定どおり完了しているのか、それとも不具合の対応で時間がかかっているのか」
「そこも、現時点では資料上の確認にとどまっています」
春樹は、少し考えた。
「予算については、どうでしょう。追加費用が発生している可能性はありますか」
「予算管理資料では、現時点で大きな問題は確認されていません」
佐伯が答えた。
「菅野次長、そうした個別の進捗やテストの状況については、監査の中で必要に応じて確認します。ただ、今回の主眼は、プロジェクト管理態勢が適切に機能しているかどうかです」
「分かりました」
春樹は、それ以上、口を挟まなかった。
会議は予定どおり進み、監査の基本方針が確認された。
終了後、春樹は佐伯に声をかけた。
「佐伯さん、少しよろしいですか」
「はい」
「今回の監査ですが、システム部の管理態勢を確認するという方針は理解しました。ただ、実際のプロジェクトがどう進んでいるのか、もう少し把握しておきたいと思っています」
「それは、監査の中で確認します」
「例えば、テスト工程で不具合が多く発生している場合、管理態勢だけを見ていても、問題の本質が分からないことがあるのではないでしょうか」
佐伯は、少し考えた。
「菅野次長のおっしゃることは分かります。ただ、監査対象の範囲を広げすぎると、結局、何を検証したのか分からなくなります」
「確かに、そうですね」
「監査は、システム部の業務をすべて把握することが目的ではありません。リスクを評価し、必要な手続を実施する。そこに集中するべきです」
佐伯の説明は、理にかなっていた。
春樹は、少しだけ考えを改めた。
監査の仕事は、現場で気になったことを何でも調べることではない。目的を定め、必要な証拠を集め、合理的な結論を導くことだ。
それは、支店で融資を判断していたときとは違う。
「分かりました。まずは、監査の進捗を見ながら、必要な情報を整理していきましょう」
「そうしていただけると助かります」
佐伯は、軽く頭を下げた。
その日の午後、春樹は本部監査チームの担当者たちと話をする機会を持った。
「今回のシステム更改、皆さんはどう見ていますか」
春樹が尋ねると、小島が口を開いた。
「システム部の資料だけでは、実態が分かりにくいところがありますね。特に、テストの進捗と不具合の管理については、確認したいと思っています」
小島は、以前、顧客管理システムの開発に携わっていた。システム開発の現場を知る人間として、今回の監査でも重要な役割を担っている。
「不具合の管理というのは?」
「発生した不具合が、どのように記録され、対応されているかです。単に件数を管理しているだけなのか、原因分析や再発防止まで行っているのか。そこは見ておく必要があると思います」
「なるほど」
吉原も続けた。
「システム更改は、委託先との関係も重要です。開発の進捗が遅れている場合、銀行側がどこまで状況を把握できているのか。委託先任せになっていないかも確認したいですね」
春樹は、二人の話を聞きながら、資料にメモを取った。
「皆さん、専門的な知識を持っていますね」
そう言うと、小島が笑った。
「いえ、まだまだですよ。システムのことは、奥が深いですから」
「でも、こうした知識があるからこそ、監査の視点も広がるんでしょうね」
春樹は、少しずつ監査部の仕事が見えてきた気がした。
一方で、システム部の状況については、気になる点もあった。
プロジェクトの進捗管理資料には、計画どおりという記載が並んでいる。しかし、担当者の話からは、一部の工程で負荷が高まっている可能性がうかがえた。
数字だけでは、見えないものがある。
それは、支店で取引先を見てきた春樹にとって、馴染みのある感覚だった。
会社の決算書が良くても、社長の表情が曇っていることがある。売上が伸びていても、現場が疲弊していることがある。
銀行の中でも、同じことが起きているのかもしれない。
数日後、春樹は相沢部長の部屋を訪ねた。
「勘定系システムの監査について、少しご相談があります」
「どうした、菅野次長」
「本部監査チームが監査を進めていますが、進捗管理資料だけでは、実際のプロジェクトの状況が十分に見えない可能性があります」
相沢は、椅子に座ったまま春樹を見た。
「佐伯くんの監査方針に、何か問題があるのか」
「いえ。監査範囲を明確にするという考え方は理解しています。ただ、テストの状況や不具合の管理など、実態を確認する必要があると思っています」
相沢は、少し考えた。
「佐伯くんは、監査の組み立てがうまい。論理的だし、資料もよくできている」
「はい」
「ただ、監査は資料だけで完結するものではない。現場で何が起きているかを知ることも大切だ」
相沢は、窓の外に目を向けた。
「菅野次長は、支店で現場を見てきた。そこは、君の強みだと思う。ただし、監査の進め方には、それぞれの専門性がある。佐伯くんの考えも尊重しながら、全体を見てほしい」
「分かりました」
「監査部は、銀行の中で少し特殊な場所だ。皆、それぞれの事情を抱えている。だからこそ、部内の人間を理解することも大切だよ」
春樹は、相沢の言葉を心に留めた。
それぞれの事情。
佐伯には佐伯の考えがある。大森にも、他の部員にも、それぞれの経験や立場がある。
自分が企画次長として果たすべき役割は、誰かの考えを否定することではない。異なる視点をつなぎ、監査部としてより良い仕事ができるようにすることなのだろう。
その日の帰り道、春樹はコンビニに立ち寄った。
冷凍ケースの前で、少し迷う。
今日は、バニラのカップアイスにした。
家に帰り、食後に蓋を開ける。
「今日は、普通のアイスね」
美和が笑った。
「そうだな。今日は、少し落ち着いた味にした」
「仕事はどう?」
「まだ、よく分からないことばかりだよ」
「でも、少しずつ分かってきたんじゃない?」
春樹は、スプーンを口に運んだ。
「そうかもしれない。皆、それぞれ事情があるんだなと思って」
「会社も、家族も、そういうものじゃない?」
美和は、何気なく言った。
春樹は、少し笑った。
「そうだな」
バニラの甘さが、口の中に広がった。
監査部という場所も、少しずつ分かっていくのかもしれない。
春樹は、もうひと口食べた。




