監査部という場所
春の人事異動から、二年が過ぎていた。
支店の課長から支店次長へ。転勤を伴う昇進だったが、その後の仕事も大きな問題はなかった。営業畑を歩いてきた春樹にとって、支店の仕事は性に合っていた。
取引先を訪ね、社長の話を聞き、融資の相談に乗る。数字だけでは見えない会社の事情を知り、銀行として何ができるかを考える。忙しくはあったが、手応えもあった。
そんなある朝、支店長室に呼ばれた。
「菅野、来月から本部に異動だ」
「本部ですか」
「監査部だ。企画次長で来てもらうことになった」
一瞬、言葉が出なかった。
監査部。
銀行の中でも、少し特殊な部署という印象があった。営業の最前線から離れ、支店や本部の仕事を点検する。昇進競争から外れた人や、支店長として結果を出せなかった人が行くところ。そんな見方をしていたのも事実だった。
「私が、監査部ですか」
「そうだ。期待されているんだよ」
支店長はそれ以上、詳しい説明をしなかった。
春樹は支店を離れることになった。これまでの仕事とは、ずいぶん違う世界に行くことになる。
四月一日。
新しい勤務先は、本店から少し離れた八重洲のオフィスビルだった。
本店の一角にあるのかと思っていたが、そうではない。ビルのフロアには監査部だけが入居していた。
監査という仕事の性格上、独立した場所に置かれているのだという。監査対象となる部署と一定の距離を保つためには、こうした配置も必要なのだろう。
エレベーターを降りると、落ち着いた雰囲気の受付があった。社名の横に、小さく「監査部」と表示されている。
受付を済ませ、案内された部屋に入る。
「おはようございます」
挨拶をすると、何人かが顔を上げた。
本店の大きなフロアとは違い、静かだった。机の配置や書類の並び方にも、どこか独特の規律がある。
「菅野次長、よく来てくれたね」
声をかけてきたのは、相沢監査部長だった。
五十代後半。かつては大規模支店の支店長を務め、本部の要職も経験している。今は現場を離れているが、役員との距離も近く、監査部の存在感を高めたいという思いが強いらしい。
「今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ。まずは、うちのメンバーを紹介しよう」
相沢部長に連れられ、部内を回った。
監査部は、本部監査チームと支店監査チームの二つを中心に、企画や管理を担当するメンバーを含めて四十人ほどの組織だった。
「こちらが本部監査チーム長の佐伯くん」
紹介された男性は、細身で、表情の動きが少なかった。
東京大学出身。経営企画部や経営管理部門など、本部の主要部署をいくつも経験している。中期経営計画や組織改編、収益管理にも携わり、青葉銀行の経営や組織の動きをよく知る人物だった。
かつては大規模支店の支店長も務めたが、現場では部下との関係がうまくいかず、組織をまとめる力に課題があると評価された。本人にとっては不本意な異動だったのかもしれない。
「佐伯です。よろしくお願いします」
「菅野です。よろしくお願いします」
佐伯は軽く頭を下げた。
「本部のことでしたら、何でも聞いてください。銀行全体のことも含めて、だいたい分かりますので」
最後の一言は、冗談なのか本気なのか分からなかった。
「こちらが支店監査チーム長の大森くん」
大森は体格がよく、表情も声も大きい。
「いやあ、若い次長が来てくれて助かりますよ」
そう言って笑った。
以前は監査部の企画次長を務めたこともあり、支店長経験もある。ただ、気分に波があり、支店長としては難しい面があったらしい。
そのほかにも、本部の融資部門で長く働いていた人、事務やシステムに詳しい人、支店で営業や融資の実績を上げてきた人がいた。
一人ひとりの経歴を聞いていると、皆、何かしらの専門性を持っていることが分かる。
一方で、少し気になることもあった。
皆、どこか一筋縄ではいかなそうだった。
「菅野次長には、企画次長として部内全体を見てもらいたい」
ひと通りの紹介が終わったところで、部長が言った。
「監査計画の取りまとめ、各チームとの調整、人員配置や部内の運営。仕事は幅広い。実質的には私の右腕として動いてもらうことになる」
「分かりました」
「これまでの企画次長は、本部の経験が長い人が多かった。だいたい五十歳手前くらいの人が来ていたかな」
相沢部長は、何気ない調子で続けた。
「今回は少し違う経歴の人に来てもらった。支店の現場を知っていることも、監査には大事だからね」
期待なのか、説明なのか。春樹には判断がつかなかった。
それにしても、四十人の組織をまとめるというのは、想像していたより大きな役割だった。
しかも、自分より年上で、銀行経験も長い人ばかりだ。
「まずは、本部監査の概要を教えてもらえますか」
春樹は佐伯に声をかけた。
「ええ、もちろん。どこから説明しましょうか」
佐伯は、少しだけ口元を緩めた。
「まずは全体像からお願いします。支店の監査なら何となく想像できますが、本部となると、どういう仕事をしているのかもよく分からないので」
「なるほど。では、基本からですね」
佐伯は資料を広げた。
「本部監査は、各本部の業務運営、内部管理態勢、リスク管理態勢などを対象に実施します。監査対象部署の業務プロセスを確認し、規程やマニュアルとの整合性、権限の運用状況、牽制機能の有効性などを検証するわけです」
そこから、佐伯の説明が始まった。
監査方針、監査計画、リスクアセスメント、監査手続、監査調書、指摘事項の評価、改善状況のフォローアップ。
聞き慣れない言葉が次々と出てくる。
資料には細かな図表が並び、佐伯はそれを指しながら、ほとんど間を置かずに話し続けた。
「本部監査の場合、各部門の業務だけでなく、経営方針との整合性も見るんですか」
春樹が尋ねると、佐伯の表情が少し明るくなった。
「そうですね。そこは重要です。例えば、経営計画で掲げた重点施策が、現場の業務にどう落とし込まれているか。経営会議で決めた方針が、各本部の施策や予算、人員配置に反映されているか。そこまで見ていく必要があります」
佐伯は、資料をめくりながら話を続けた。
「私は経営企画にいた頃、各本部から上がってくる計画を見ていましたが、きれいな資料ができていることと、実際に動いていることは別ですからね。計画と実態のずれを見るのも、監査の役割です」
「なるほど」
「例えば営業戦略一つとっても、収益目標だけを追いかけて、リスク管理や人材育成が置き去りになっていないか。そういうところまで見ないと、銀行全体の健全性は分かりません」
話は具体的だった。経営企画や経営管理を経験してきた人間ならではの視点がある。
春樹は、少しずつ興味が湧いてきた。
「つまり、各部署の業務を確認して、問題があれば指摘するということですね」
そう言うと、佐伯は少し笑った。
「まあ、最初はそういう理解になりますよね」
「最初は、というと?」
「いえ。監査というと、どうしても検査や点検のイメージが強いですから」
佐伯は資料の一枚をめくった。
「ただ、それだけなら監査部は必要ありません。大事なのは、個別の事務処理の誤りを見つけることではなく、なぜそのような事象が起きるのか、組織として再発を防ぐ仕組みが機能しているかを見ることです」
「それは分かります。ただ、実際の監査では、どこまで踏み込むんですか」
「どこまで、とは?」
「例えば融資の審査なら、個々の案件の判断まで見るのか。それとも審査体制や決裁の仕組みが中心になるのか」
「両方です」
佐伯は即答した。
「案件のサンプルを抽出して、稟議や決裁の内容を確認することもありますし、審査プロセスそのものを検証することもあります。監査対象のリスクに応じて、どこまで見るかを決めます」
「そのサンプルは、どういう基準で選ぶんですか」
「リスクに応じてです」
「そのリスクは、具体的には何を見て判断するんでしょう」
佐伯は、資料を持つ手を止めた。
「菅野次長、そこからですか」
「ええ。そこが分からないと、実際に何をするのか想像できないので」
佐伯は、少し息を吐いた。
「リスクの評価は、過去の監査結果や事故の発生状況、業務の重要性、組織変更などを総合的に見て行います。例えば融資なら、与信残高や業種の偏り、審査体制の変更、不良債権の発生状況などですね」
「そういう情報を集めて、監査する側で判断するんですね」
「そうです。ですから、銀行全体の動きが分かっていないと、どこにリスクがあるかも見えてきません」
佐伯は、少し身を乗り出した。
「本部の各部門が何をしているのか。経営がどこに力を入れているのか。各施策がどのようにつながっているのか。そこを理解することが先です。支店の経験だけでは、なかなか難しいと思います」
「支店の経験だけでは、ということですか」
「もちろん、支店のことは支店監査で役に立つでしょう。ただ、本部監査は少し違います。銀行全体を俯瞰して、経営の視点で見なければなりません」
「それは分かりました。だからこそ、まずは本部監査の仕事を教えてもらいたいんです」
春樹がそう言うと、佐伯は一瞬、言葉を止めた。
「分かりました。では、もう少し具体的に説明します」
佐伯は再び資料をめくった。
「ただ、菅野次長。これまでの企画次長は、本部の主要部署を経験してきた人ばかりでした。経営企画や融資企画、リスク管理などの業務を知っている。ですから、細かい説明をしなくても話が通じたんです」
「そうでしょうね」
「今回の人事は、少し珍しいと思いました。支店営業一筋の方が、いきなり企画次長ですから」
佐伯は、悪びれる様子もなく続けた。
「部長からは、現場感覚を期待していると聞いています。ただ、現場感覚だけで監査部の企画はできません。そこは、早めに勉強していただかないと」
「そうですね。勉強します」
春樹は資料を見た。
「ただ、佐伯さん。私が本部を知らないのは事実ですが、知らないことを聞くのは悪いことではないと思っています。分からないまま進めるほうが、よほど危ないでしょう」
佐伯は、少しだけ口元を動かした。
「それは、そうですね」
「だから、遠慮なく聞かせてもらいます」
「ええ。どうぞ」
佐伯は笑った。
「ただ、同じことを何度も聞かれると、私も困りますので」
春樹は思わず笑った。
「それは気をつけます」
佐伯も笑った。だが、その笑顔には、まだ距離があった。
説明が終わり、資料を閉じようとしたとき、春樹はもう一つ尋ねた。
「佐伯さんは、以前、支店長もされていたんですよね」
「ええ。大規模店を任されていました」
「支店長の経験は、本部監査にも役立ちますか」
「当然です。支店の実態を知らずに、支店を監査することはできませんから」
佐伯は即答した。
「ただ、支店の運営と銀行全体の経営は別です。支店長は自分の店を動かせばいい。しかし、本部は銀行全体を見なければならない。そこを混同している人は多いですね」
「支店長のときも、銀行全体を意識されていたんですか」
春樹が尋ねると、佐伯の表情が少し硬くなった。
「もちろんです。私は、数字にも組織運営にも妥協しませんでした」
「そうですか」
「ただ、現場は必ずしも合理的に動くわけではありませんからね。こちらが正しいことを言っても、理解できない人間はいる。結局、組織を動かすには、ある程度、強く言わなければならないこともあります」
佐伯は資料を揃えた。
「まあ、そういう意味では、支店長という仕事は難しいですよ。人に合わせてばかりでは、何も進みませんから」
その言葉を聞いて、春樹は少し考えた。
支店長は、正しいことを言うだけでは務まらない。部下が何を考え、なぜ動かないのかを知ることも仕事のうちだ。相手に合わせることと、甘やかすことは違う。
佐伯は優秀なのだろう。説明にも隙がない。だが、相手が理解できないとき、その原因を相手の能力や姿勢に求めてしまうところがあるのかもしれない。
「ありがとうございました。まずは資料を読んで、勉強します」
「そのほうがいいと思います」
佐伯は、きれいに資料を揃えた。
「分からないことがあれば、また聞いてください。私で分かることであれば」
「助かります」
会議室を出ると、大森が廊下で待っていた。
「どうでした、本部監査の説明は」
「なかなか手ごわいですね」
春樹が苦笑すると、大森は声を出して笑った。
「佐伯くんでしょう。あれは頭がいいですからねえ」
「よく分かりました。銀行全体のことまで、ずいぶん詳しい」
「そりゃそうですよ。経営企画にいた頃は、役員会の資料も作っていましたから。銀行のことなら、何でも知っているつもりなんじゃないですかね」
「つもり、ですか」
大森は、少し笑った。
「いや、実際、よく知っていますよ。ただ、人に教えるのは、また別の話ですから」
「なるほど」
「前に支店長をやっていたときも、そうだったみたいですよ。自分の考えを曲げない。部下がついてこないと、部下の理解が足りないということになる」
大森は声を少し落とした。
「まあ、支店長というのは、正しいことを言っていればいいわけじゃないですからね」
春樹は、何も言わなかった。
「菅野次長も、これから大変ですよ。今までの企画次長は、本部のことをよく知っていましたから」
「部長にも言われました」
「そうでしょう。佐伯くんも、そこは気になるんじゃないですかね」
「私が本部を知らないことですか」
「まあ、そういうことです」
大森は、少し肩をすくめた。
「でも、知らないものは知らないんだから、仕方ないですよ。最初から何でも分かる人はいません」
そう言って、大森は自分の席に戻っていった。
春樹は、自席に座り、机の上に置かれた資料を開いた。
本部監査の手引き。監査規程。過去の監査報告書。
どれも分厚い。
支店で培ってきた経験が、まったく役に立たないわけではないだろう。だが、これまでとは違う物差しで仕事をしなければならない。
それに、部内の人間関係も簡単ではなさそうだった。
佐伯は、青葉銀行のことをよく知っている。経営の視点も持ち、頭の回転も速い。だが、人に合わせることは得意ではなさそうだ。
大森は人当たりこそいいが、どこまで本音で話しているのか分からない。
そして、部長は自分に何を期待しているのか。
春樹は、資料を一枚めくった。
これまでの企画次長は、本部を知り尽くした人たちだった。そこに、支店しか知らない自分が座る。
四十人の部員をまとめながら、監査という仕事を一から覚えなければならない。
思っていた以上に、厄介な場所に来てしまったのかもしれない。
その日の夜、春樹は帰宅途中のコンビニに立ち寄った。
冷凍ケースの前で、しばらく迷う。
目に留まったのは、ラムレーズンのカップアイスだった。
普段なら、あまり選ばない味だ。少し大人びていて、好みが分かれそうなところも、今日の職場に似ている気がした。
家に帰り、食後に蓋を開ける。
ひと口食べると、ラム酒の香りがふわりと広がった。レーズンの甘さも、思ったほど強くない。
「それ、珍しいね」
美和が隣から覗き込んだ。
「たまには違うものをと思って」
「おいしい?」
「悪くない。ちょっと癖はあるけど」
「今日の職場みたい?」
春樹は笑った。
「そうかもしれないな」
「大変そうね」
「まあ、初日だからね。まだ何とも言えないよ」
美和は、自分のアイスを食べながら言った。
「最初から何でも分かる人なんていないでしょ」
「そうだな」
春樹は、もうひと口食べた。
ラムレーズンの香りが、口の中に残った。
明日から、少しずつ覚えていくしかない。
春樹は、空になったカップをテーブルに置いた。




