第99話-休憩室の辛いお菓子
惑星監理局の休憩室は、昼過ぎになると少しだけ空く。
会議の合間に使う職員もいる。
夜勤明けの職員がコーヒーを飲むこともある。
食堂班が試作品を置いていくこともある。
外務班がどこかの惑星から持ち帰った土産を、自由にどうぞと置くこともある。
その日、休憩室の中央テーブルには、小さな箱が置かれていた。
黒い箱。
赤い稲妻の模様。
ふたには大きく、こう書かれている。
『爆裂香辛クラッカー』
その下に、注意書き。
『非常に辛いです。辛味に慣れていない方は一枚から』
さらに、食堂班が貼った付箋。
『食品検査済み。危険物ではありません。ただし本当に辛いです』
その休憩室に、エルが一人で入ってきた。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
小さな足音。
いつもの、ふわふわしていて淡々とした表情。
エルは、飲み物を探しに来たわけではなかった。
休憩室の前を通った時、赤い箱が見えた。
知らない箱だった。
赤い。
黒い。
きらきらしている。
そして、誰もいない。
エルは中央テーブルの前で立ち止まった。
「……お菓子」
箱を見下ろす。
「爆裂」
少し首を傾げる。
「お菓子、爆裂する?」
ふたを開ける。
中には、薄い丸いクラッカーが並んでいた。
表面には赤い粉がまぶされている。
見た目は少しきれいだった。
夕焼け色の星屑みたいにも見える。
エルは一枚つまんだ。
「かわいい」
匂いを嗅ぐ。
「……変な花」
少し考えた。
食堂班の試作品かもしれない。
外務班のお土産かもしれない。
職員さんたちが食べるものかもしれない。
職員さんたちが食べるものなら、食べ物。
食べ物なら、食べて分かる。
エルはクラッカーを口に入れた。
ぱり。
最初は、香ばしかった。
「……おいしい」
ぱり、ぱり。
少し塩気がある。
粉が舌に触れる。
「赤い味」
エルはもう一度、ぱり、と噛んだ。
その瞬間。
世界が変わった。
エルは動きを止めた。
目が、ゆっくり開いた。
いつもの半分眠そうな目ではない。
ぱちり。
完全に開いた。
眉が上がる。
口元が固まる。
頬が、じわっと赤くなる。
「……」
エルは、ゆっくりテーブルに手をついた。
三秒後。
「からい」
それは、確認だった。
まだ冷静だった。
さらに二秒後。
「からい」
これは、報告だった。
さらに一秒後。
「からい」
これは、異常検知だった。
エルはコップを探した。
ない。
牛乳もない。
ヨーグルトもない。
パンもない。
いつもなら生活班の職員が用意してくれる。
レトが「エル大丈夫?」と言う。
ロジーが「記録するけど助ける!」と言う。
でも今はいない。
エル一人。
そして辛味。
エルは水差しを見つけた。
手を伸ばす。
コップに水を注ぐ。
飲む。
こく。
「……」
一瞬、落ち着いた気がした。
次の瞬間、辛味が広がった。
「……ふえた」
エルは水差しを見た。
「水、敵」
違う。
水は悪くない。
だがエルには、そう見えた。
辛いものが、水で広がった。
お口の中が、赤い。
熱い。
痛い。
味なのに痛い。
食べ物なのに攻撃してくる。
エルは両手で頬を押さえた。
「……死ぬ」
小さな声だった。
まだ淡々としていた。
けれど、辛味は帰らなかった。
むしろ、奥から来た。
追撃だった。
エルの目がさらに丸くなる。
「死ぬ」
今度は、はっきり言った。
足がふらつく。
椅子に座ろうとする。
座れない。
辛い。
考えが全部、辛い。
エルは床に座った。
「死ぬ……!」
そして、床の冷たさに頬をつけた。
少し気持ちいい。
エルはそのまま、ぺしゃっと伏せた。
白髪が床に広がる。
淡いピンクの毛先が、休憩室の照明を受けて揺れる。
小さな手が、床をぺしぺし叩く。
「からい」
ぺし。
「しぬ」
ぺし。
「お菓子、うそ」
ぺし。
「これは、お菓子じゃない」
ぺし。
「赤い災害」
エルは床に転がったまま、じたじたした。
じた。
じたじた。
ころん。
また伏せる。
「死ぬ!!!!」
普段のエルなら絶対に出さない声だった。
その直後。
休憩室の扉が開いた。
入ってきたのは、技術班の男性職員だった。
目的はコーヒーだった。
彼は扉を開けて、一歩入って、止まった。
床に、エルが落ちていた。
正確には、落ちていたように見えた。
小柄な身体が床にぺしゃっと伏せている。
白髪が広がっている。
頬は赤い。
目はまんまる。
両手は床を握っている。
そして、口から小さく声が漏れている。
「からい……しぬ……」
技術班職員の表情が消えた。
次の瞬間、彼は端末を叩いた。
「医療班! 休憩室! エルさんが倒れています!」
廊下の警報灯が一瞬、黄色に変わった。
監理局内の空気が跳ねる。
医療班が走る。
生活班が走る。
監理班に連絡が入る。
副長が書類から顔を上げる。
ジェレミーの端末にも通知が届く。
『休憩室にてエル倒伏。原因未確認』
その文字だけ見れば、十分に緊急事態だった。
旧世代。
創造者。
硝子玉の宇宙の根幹。
そのエルが、休憩室の床に倒れている。
医療班が最初に駆け込んだ。
「エルさん!」
生活班の職員も続く。
「意識は!?」
技術班職員は床のエルを指差した。
「あります! ありますが、死ぬと言っています!」
医療班主任が即座に膝をつく。
「エルさん、聞こえますか。どこが痛いですか」
エルは、床に頬をつけたまま答えた。
「くち」
「口?」
「くちが、しぬ」
医療班主任は一瞬止まった。
生活班の職員がテーブルを見た。
黒い箱。
赤い稲妻。
開いたふた。
減っているクラッカー。
付箋。
『非常に辛いです』
生活班の職員は、すべてを理解した。
「牛乳!」
その声で、緊急事態の種類が変わった。
医療班主任の顔が、命に関わる処置の顔から、辛味対応の顔になる。
「辛味ですね」
技術班職員が瞬きした。
「辛味で倒れてるんですか!?」
床のエルが言った。
「倒れてない」
全員がエルを見る。
エルは、ぺしゃっとしたまま続けた。
「負けてる」
生活班の職員が牛乳を持ってきた。
「エルさん、起きられますか」
「むり」
「では、少し体を起こしますね」
医療班主任と生活班の職員が、そっとエルを起こす。
エルはぐにゃっとした。
普段のふわふわとは違う。
完全に辛味に敗北したぐにゃぐにゃだった。
コップを持たせる。
エルは両手で牛乳を受け取った。
こく。
こく。
こく。
飲む。
目が少し戻る。
「……白い」
生活班の職員が言う。
「牛乳です」
「白い、やさしい」
「よかったです」
エルはまた飲んだ。
「白い、つよい」
医療班主任が小さく息を吐いた。
「危険な反応ではありません。辛味による刺激です。経過観察で大丈夫でしょう」
技術班職員は額を押さえた。
「心臓が止まるかと思いました」
副長が休憩室に到着したのは、その直後だった。
扉の前で状況を見る。
床に座らされているエル。
両手で牛乳を持っているエル。
頬が赤いエル。
目がまんまるのエル。
口元が、普段見たことのないへの字のエル。
周囲に医療班、生活班、技術班。
テーブルの上に、辛いクラッカー。
副長は一秒で理解した。
そして、静かに言った。
「警報を解除してください」
生活班の職員が苦笑する。
「はい」
副長はエルの前にしゃがんだ。
「エル」
「副長」
「何がありましたか」
エルは牛乳を握ったまま、真剣に言った。
「お菓子が、攻撃した」
副長は少しだけ目を伏せた。
笑ってはいけない。
今は笑ってはいけない。
床に転がるほど辛かった本人が、目の前にいる。
「それは大変でしたね」
「うん」
「何枚食べましたか」
エルはテーブルを見た。
箱を見る。
残りを見る。
考える。
「一枚」
生活班の職員が確認した。
「本当に一枚です。噛みかけもありません」
副長は頷いた。
「一枚で床に」
エルは小さく頷いた。
「床、冷たかった」
「役に立ちましたか」
「少し」
「よかったですね」
医療班主任がコップを差し出す。
「追加の牛乳です」
エルは受け取る。
「白い、増えた」
その時、廊下から足音が近づいた。
レトとロジーだった。
「エルが倒れたってほんと!?」
「記録じゃなくて心配で来た! ほんとに心配で来た!」
二人は休憩室に飛び込んだ。
そして、床に座って牛乳を飲むエルを見た。
レトは泣きそうな顔で駆け寄る。
「エル! 大丈夫!?」
エルはレトを見た。
目がまだ少し丸い。
「レト」
「うん!」
「辛いは、強い」
レトは真剣に頷いた。
「分かった!」
ロジーはテーブルの箱を見て、状況を理解し、頭上デバイスを起動した。
『事故記録:エル、辛味に遭難』
副長が静かに言った。
「ロジー」
「はい! 記録範囲、本人許可制!」
「よろしい」
ロジーはエルの横にしゃがむ。
「エル、辛かった?」
エルは牛乳を飲みながら答えた。
「死ぬと思った」
レトが震えた。
「そんなに!?」
エルは頷く。
「お口が、燃えた」
ロジーが真剣にメモする。
「主観表現、お口が燃えた」
「あと、水が敵だった」
「水が敵」
「床は、少し味方」
「床が味方」
副長が肩を震わせた。
レトがエルの手を握る。
「エル、もう食べちゃだめだよ」
エルは箱を見た。
真剣な顔。
「うん」
そして、少し考えて言った。
「でも、もう一回食べたら、分かるかも」
休憩室の全員が同時に言った。
「だめです」
エルは目を丸くした。
「いっぱい言われた」
副長は箱のふたを閉めた。
「これは撤去します」
ロジーが手を挙げる。
「記録用に箱だけ撮っていい?」
「中身を食べないなら」
「食べない! 私は今、エルの遭難記録で胸がいっぱい!」
「遭難ではありません」
エルが小さく言った。
「遭難した」
副長がエルを見る。
エルは真剣だった。
「辛味の中で、迷った」
ロジーは膝を叩いた。
「名言出た! 辛味の中で迷った!」
レトはエルの背中を撫でる。
「もう大丈夫だよ。牛乳が助けに来たよ」
エルはこくんと頷いた。
「牛乳、救助隊」
生活班の職員がついに少し笑った。
医療班主任も口元を押さえた。
技術班職員は壁にもたれて、まだ心臓を落ち着かせていた。
「本当に……旧世代事故かと思った……」
副長は箱を持ち上げた。
「今回の教訓は明確ですね」
ロジーがデバイスを構える。
「はい、教訓!」
副長は穏やかに言った。
「休憩室の刺激物には、箱庭の娘たち向けの警告表示を追加すること」
生活班の職員が頷く。
「対応します」
レトが手を挙げる。
「あと、牛乳を近くに置く!」
ロジーも手を挙げる。
「あと、エルは一人で赤くて強そうなお菓子を食べない!」
エルは牛乳を飲み終えた。
そして、少しだけいつもの顔に戻って言った。
「赤いお菓子、こわい」
レトは力強く頷いた。
「こわいね」
ロジーも頷いた。
「こわい。記録価値は高いけどこわい」
エルは床を見た。
「床、ありがとう」
副長が静かに目を閉じた。
笑わないためだった。
その日の夕方。
休憩室の中央テーブルには、新しい表示が貼られた。
『辛味注意』
『箱庭の娘たちは職員同伴』
『牛乳を先に用意』
その下に、ロジーの字で追加。
『エル遭難地点』
さらに、レトの字で丸く追加。
『床にありがとうすること』
最後に、エルの字で小さく一言。
『赤い災害』




