第98話-ロジー、記録の魔術師
魔力生命体は、魔術に長けている。
箱庭の娘たちのような人間型は珍しい
多くは魔獣や魔物といった呼称に相応しい見た目をしている
翼が生えた不定形の塊、水中に暮らす生物学的分類から外れた生物、多肢の怪物
多くは人間と会話も成り立たない、しかし、知能は高い
それはこの宇宙で生きる魔術師なら、誰もが知っている常識だった。
生まれながらに魔力を呼吸のように扱い、肉体そのものに特殊な魔力性質を宿し、人間が何十年もかけて習得する術式を、まるで指先を動かすみたいに行使する。
だから彼らが研究対象になるのも不自然ではなかった。
崇拝でも、恐怖でも、保護でもなく。
研究対象。
魔術発展のため。
未来のため。
文明のため。
そういう、整った言葉がいくらでも貼り付けられた。
組織の正式名称は長かった。
惑星政府の古い研究部門から枝分かれし、軍用魔術開発機関と民間資本を通り抜け、現在は複数の財団名義に分散して存在している。
内部の者たちは、自分たちのことをただ「機関」と呼んでいた。
機関は、これまで何体もの魔力生命体を捕獲していた。
獣に近いもの。
植物に近いもの。
人間の形をしていないもの。
人間の言葉を覚えたもの。
泣くもの。
怒るもの。
助けを求めるもの。
機関の者たちは、それらをすべて記録した。
麻酔の効き方。
魔力器官の位置。
痛覚反応。
再生速度。
恐怖による魔力出力の変動。
絶命直前に発生する魔力波形。
報告書には、淡々とした文字が並んだ。
そこに悲鳴は残らなかった。
映像記録には残っていた。
音声記録にも残っていた。
だが、報告書には残らなかった。
「魔術発展のために必要な犠牲」
その一文があれば、彼らは自分の手を汚れていないものとして扱えた。
その日、ロジーはひとりで惑星観光をしていた。
もちろん、許可は取っていない。
アカシックレコード・オフラインで監理局の行動記録と所在確認を少しだけ誤魔化し、勤務表の隙間に自分の不在を滑り込ませた。
本当に、ちょっとしたいたずらのつもりだった。
大きな事件にする気なんてなかった。
ロジーはアカシックレコード・オフラインの職員だ。
記録することが仕事で、記録することが生き方で、記録することに執着している。
だから、外の惑星を自分の足で歩いてみたかった。
誰かの案内ではなく。
監理局の任務でもなく。
レトやエルと一緒でもなく。
自分の目で見て、自分のデバイスで撮って、自分の言葉で残したかった。
「わ、あっ、これ見たことない露店! 記録価値あり! 撮影、撮影っと」
ピンク髪のツインおさげを揺らしながら、ロジーは市街地の通りを跳ねるように歩いていた。
頭上に浮かぶデバイスが小さく回転し、次々と写真を撮る。
古い石畳。
魔術照明の看板。
果物を飴で固めた菓子。
露店の店主の笑顔。
噴水広場で遊ぶ子供たち。
ロジーは全部を見たがった。
全部を残したがった。
「へへー、単独惑星観光、成功。局長にはあとで怒られるかもだけど……でも、でも、ちゃんとお土産買えば許してくれるかも。副長は笑う。絶対笑う。レトは羨ましがる。エルはたぶん、いつの間にか隣にいる」
そこまで言って、ロジーは立ち止まった。
デバイスの動きが、一瞬だけ鈍った。
通りの向こう。
雑踏の奥。
誰かがこちらを見ていた。
ロジーは目を細める。
人混みの流れの中に、同じ歩幅の人間が三人。
露店のガラスに反射して、背後にも二人。
屋根の上に一人。
「……あれ」
ロジーの声が、少しだけ小さくなった。
逃げるべきだった。
監理局へ連絡するべきだった。
アカシックレコード・オフラインで周辺の記録を引き出せば、彼らが誰なのかすぐに分かったはずだった。
でも、ロジーは一瞬遅れた。
怖い、と思ったからだ。
ロジーは弱い。
肉体も。
メンタルも。
箱庭の娘たちの中で、ロジーはあまりにも弱い。
レトのように高速で飛べない。
硝子の短剣も作れない。
エルのように世界そのものを捻じ曲げる魔法も使えない。
腕を掴まれたら振りほどけない。
大きな声で脅されたら泣く。
叱られただけで混乱する。
怖い人間に囲まれたら、足がすくむ。
「す、すみません、私、観光客で、えっと、あの、道に迷っただけで――」
言葉が終わる前に、足元で魔術陣が開いた。
薄い灰色の光が、石畳の隙間から染み出した。
麻痺術式。
反応した瞬間、ロジーの膝から力が抜けた。
「ぅ、あっ……?」
倒れかけた身体を、背後の男が受け止めた。
優しさではない。
商品を落とさないための手つきだった。
ロジーの口元に布が押し当てられる。
声がくぐもる。
頭上のデバイスが警告音を鳴らした。
しかし、次の瞬間、細い針状の術式がデバイスの周囲を取り囲み、制御信号に干渉した。
「対象、魔力生命体。外見年齢は幼い。抵抗能力は低い」
「頭上の浮遊物は補助脳か? 装飾ではないな」
「泣いている。情緒反応は未成熟」
「箱庭の娘の可能性あり」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
箱庭の娘。
閉ざされた硝子玉の宇宙で生まれた魔法生命体。
噂はあった。
監理局に所属している、極めて特殊な個体群。
だが、機関の者たちは詳しく知らなかった。
レトがどういう戦闘能力を持つか。
エルが何であるか。
ロジーが何を記録しているか。
監理局が彼女たちをどれほど厳重に扱っているか。
知らなかった。
知っていたのは、ただひとつ。
箱庭の娘は、研究材料としてあまりにも魅力的だということ。
「単独行動か」
「あり得ない好機だ」
「監視は?」
「確認できない。通信反応もない」
「捕獲する」
ロジーは泣きながら首を振った。
「や、やだ……やだ、私、帰る……局長に怒られるから、帰る……」
男は冷静にロジーの顔を覗き込んだ。
怯えた目。
震える唇。
涙で濡れた頬。
小さな身体。
そのすべてを観察して、彼は結論を出した。
「脅迫への耐性は低い。従順化可能」
ロジーの瞳が大きく揺れた。
その言葉が、彼女の中の何かを深く引っかいた。
従順化。
観察。
耐性。
報告書に書かれる言葉。
被検体を人間として見ない言葉。
ロジーはそれを知っていた。
まだ見ていないはずなのに。
まだ調べていないはずなのに。
その言葉の使われ方を、世界の記録が知っていた。
搬送車の中は、暗かった。
ロジーの手首には拘束具が付けられていた。
足にも。
首にも。
頭上のデバイスには封鎖術式が絡みつき、思考補助の速度を落としている。
遅延。
ロジーが一番嫌いなもの。
思考が遅れる。
言葉が遅れる。
判断が遅れる。
自分が、自分でなくなっていく感じがする。
「やだ……遅い、やだ、考えられない、やだ……」
ロジーは泣いた。
しゃくり上げながら、肩を震わせた。
機関の者たちはそれを見て、さらに安心した。
弱い。
あまりにも弱い。
これなら扱える。
これなら解剖台に乗せられる。
これなら、魔力器官の位置を調べられる。
これなら、泣いても、叫んでも、記録にできる。
「対象は精神的圧力に弱い。隔離後、尋問を優先する」
「所属確認は?」
「不要だ。現時点で外部通信は遮断済み。発見される前に一次解剖まで進める」
「箱庭の娘の身体構造か。歴史に残るな」
ロジーは拘束具の中で震えていた。
だが、泣きながら、聞いていた。
全部。
声の高さ。
車両の振動。
術式の駆動音。
床の材質。
搬送経路。
男たちの靴音。
呼吸の癖。
持っている端末の起動音。
会話の間。
どの言葉を誰が言ったか。
全部、記録した。
ロジーは弱い。
でも、記録することだけはやめなかった。
「……アカシックレコード・オフライン」
声は、涙でかすれていた。
誰にも聞こえないほど小さかった。
接続の光は出なかった。
魔力反応もほとんどなかった。
通信は発生しなかった。
機関の遮断術式は、何も検知しなかった。
当然だった。
ロジーはどこにも繋がっていない。
世界に残った記録へ、ただ手を伸ばしただけだった。
最初に見えたのは、車両の記録。
この床に積まれた箱。
運ばれた器具。
泣き声。
小さな爪で壁を引っかいた跡。
薬剤の匂い。
次に見えたのは、施設の記録。
地下へ降りる昇降機。
白い廊下。
消毒液。
観察室。
隔離室。
解剖室。
そして、そこにいた魔力生命体たち。
ロジーの呼吸が止まった。
知らない子だった。
人の形をしていない子。
羽のある子。
透明な皮膚の子。
角の生えた小さな子。
言葉を話せない子。
言葉を話せる子。
助けて、と言った子。
おかあさん、と言った子。
痛い、と言った子。
やめて、と言った子。
最後には何も言えなくなった子。
ロジーの涙が、ぽたぽたと膝に落ちた。
「……ひどい」
小さな声だった。
ただの感想みたいな声だった。
でも、その瞬間から、機関の壊滅は始まっていた。
施設に到着したロジーは、白い部屋へ運ばれた。
壁も床も天井も白い。
中央に固定台。
周囲には観察用の硝子。
その向こうに研究員たち。
ロジーは固定台の上に寝かされ、手足をさらに拘束された。
麻痺はまだ残っている。
指先すらまともに動かない。
恐怖で喉が詰まって、声が出ない。
「泣いているな」
「痛覚反応の前段階として記録しておけ」
「頭上デバイスは外すか?」
「外した場合、脳活動が停止する可能性がある。まずは接続状態を維持したまま解析する」
「魔力特性は?」
「不明。現時点では攻撃的出力なし。肉体強度も低い」
研究員たちは優秀だった。
本当に、頭がよかった。
捕獲から搬送までの時間は短く、証拠を残さず、周辺の記録改竄も行っていた。
監理局の追跡を想定し、通信遮断、魔力反応偽装、搬送経路の分岐、施設内の隔壁閉鎖を即座に実行した。
ロジーのデバイスにも干渉し、思考補助を鈍らせた。
未知の魔術を警戒し、発動兆候を探るセンサーを複数配置した。
彼らは愚かではなかった。
油断もしていなかった。
ただ、知らなかった。
ロジーの恐ろしさは、攻撃性能ではない。
刃を作ることではない。
爆発を起こすことではない。
壁を破ることではない。
彼女は、記録を再生する。
ただそれだけで、人間を壊せる。
最初に壊れたのは、若い研究員だった。
彼は観察室の端末に向かい、ロジーの生体反応を記録していた。
その端末は、過去に何百時間もの実験映像を保存していた。
削除されたものもあった。
暗号化されたものもあった。
外部媒体へ移されたものもあった。
だが、記録として成立していた。
ロジーは泣きながら、その端末に残された記録を掴んだ。
そして、再生した。
若い研究員の目が止まった。
彼は画面を見ていなかった。
それなのに、見た。
固定台に寝かされた魔力生命体の視界。
天井の白い光。
拘束具の冷たさ。
腹の奥へ差し込まれる痛み。
自分の身体が開かれていく恐怖。
理解できない言葉で周囲が会話している絶望。
息ができない。
助けを呼んでも、誰も来ない。
最後に見たのは、硝子越しにメモを取る自分自身だった。
「――あ」
若い研究員は椅子から転げ落ちた。
喉を押さえ、床を掻いた。
「違う、違う、私は、私は記録係で、直接は、直接はやってない……!」
観察室がざわついた。
「精神干渉だ!」
「対象の魔力反応は?」
「検出なし!」
「馬鹿な、何か発動しているはずだ!」
ロジーは固定台の上で泣いていた。
「ごめん……ごめんね……痛かったね……怖かったね……」
それは若い研究員に向けた謝罪ではなかった。
記録の中で死んだ、名前も残されていない魔力生命体へ向けた言葉だった。
次に、警備主任が倒れた。
彼は即座に判断した。
観察室を封鎖し、研究員を退避させ、ロジーの口を塞ぎ、視界を遮断し、聴覚刺激を断つべきだと。
判断は正しかった。
対応は早かった。
彼は訓練された人間だった。
だから部下に命令を出そうとした。
その前に、ロジーが彼の足元の床を見た。
その床には記録があった。
かつて、逃げようとした被検体が、そこまで這ってきた記録。
腕が動かなくなっても。
脚が折れても。
魔力が尽きても。
ただ扉の方へ、外の方へ、誰かがいるかもしれない方へ。
這って、這って、這って。
警備主任はその感覚を体験した。
床の冷たさ。
爪が割れる音。
喉の奥で血が泡立つ感触。
背後から近づく足音。
捕まる恐怖。
そして、自分が普段持っている警棒で、背を打たれる痛み。
彼は膝をついた。
「やめろ……見せるな……」
ロジーは泣きながら首を振った。
「見て。見てよ。見なきゃだめ。あなたたち、記録したんでしょ。全部、ちゃんと、残したんでしょ」
声は震えていた。
怖くて、怖くて仕方なかった。
本当はこんなことしたくなかった。
大きな男の人が叫ぶだけで、ロジーの肩は跳ねる。
誰かが近づくだけで、涙が増える。
今すぐ局長のところへ帰りたかった。
副長に怒られてもよかった。
レトに抱きつかれて吹き飛ばされてもよかった。
エルに隣でぼんやり座られてもよかった。
帰りたかった。
でも、止めなかった。
「あなたたちの記録だよ」
施設全体の警報が鳴った。
機関はすぐに対応を変えた。
職員を小単位に分け、視覚共有を遮断。
個人端末を破棄。
施設内データベースを物理切断。
研究区画ごとに隔壁を下ろし、ロジーを中心にした情報災害として処理を始めた。
彼らは聡明だった。
ロジーの力を精神干渉型と仮定し、接触者の隔離を決めた。
過去の実験記録が媒介になっている可能性にも気づいた。
「記録媒体を破壊しろ!」
誰かが叫んだ。
端末が叩き壊された。
記録ディスクが焼かれた。
研究ノートが燃やされた。
映像保管庫に火がつけられた。
だが、遅かった。
記録は、媒体だけに残るものではない。
床に残る。
壁に残る。
器具に残る。
拘束具に残る。
白衣に残る。
手袋に残る。
声に残る。
匂いに残る。
傷に残る。
誰かが見たなら、記録になる。
誰かが聞いたなら、記録になる。
誰かが覚えているなら、記録になる。
そして、誰かが忘れようとしても、起きたことは起きたこととして世界に刻まれている。
ロジーはそれを拾う。
泣きじゃくりながら。
震えながら。
息を詰まらせながら。
的確に。
次に再生されたのは、手術器具の記録だった。
解剖主任が、自分の手に握った器具を取り落とした。
彼は何度も同じ器具を使ってきた。
熟練していた。
躊躇がなかった。
「痛覚反応、強いな」
「魔力器官が露出した」
「まだ生きている。続行」
そう言った自分の声を、彼は聞いた。
同時に、言われた側の感覚を体験した。
身体の中に冷たい金属が入る。
魔力が漏れていく。
意識が薄れる。
死にたいのに死ねない。
死にたくないのに死が近づく。
自分の身体が、研究成果という言葉に変換されていく。
「やめろおおお!」
解剖主任は両耳を塞いだ。
だが、耳を塞いでも意味はなかった。
これは音ではない。
映像でもない。
記録の再生だった。
実感を伴う記録。
彼は床に倒れ、白衣を掻きむしった。
「違う、私は必要なことをした! 文明のためだ! 魔術発展のためだ!」
ロジーはしゃくり上げながら、彼を見た。
「その子も、そう思って死んだの?」
解剖主任の口が止まった。
ロジーの声は弱々しかった。
怒鳴っていない。
責め立ててもいない。
泣きながら、ただ聞いただけだった。
それが一番深く刺さった。
廊下の向こうで銃声がした。
機関はさらに判断を切り替えた。
ロジーを殺す。
捕獲対象から、危険対象へ。
貴重な研究材料ではある。
だが、施設そのものを失うわけにはいかない。
精神汚染が拡大する前に処理する。
命令は早かった。
実行部隊も早かった。
対魔術装備を持った職員たちが、ロジーのいる実験室へ向かった。
その行動も、間違っていなかった。
ロジーは戦えない。
拘束されている。
身体能力は低い。
防御術式もまともに張れない。
殺すだけなら、難しくない。
彼らはそう判断した。
実験室の扉が開く。
黒い防護服の男たちが入ってくる。
ロジーは固定台の上でびくりと震えた。
「ひっ……」
涙でぐちゃぐちゃの顔。
恐怖で引きつった喉。
震える肩。
それを見て、先頭の男はほんの一瞬だけ安堵した。
対象はやはり子供だ。
恐怖で硬直している。
次の瞬間、彼の視界が変わった。
防護服の内側。
暗い輸送箱。
膝を抱えた小さな魔力生命体。
外から聞こえる大人たちの声。
「希少個体だ」
「壊すなよ」
「多少傷ついても再生する」
「泣いてるぞ」
「記録しておけ」
男は、自分が運んだ箱の中にいた。
いや、違う。
運ばれた側にいた。
暗い。
狭い。
怖い。
息が苦しい。
箱の外で笑っているのが、自分たちだと分かる。
「う、あ、あああああ!」
男は銃を落とした。
二人目が踏み込む。
ロジーは目を閉じたまま、別の記録を開いた。
二人目は、焼却炉の前に立っていた。
処分された失敗検体の記録。
熱。
煙。
まだ意識が残っている。
身体が燃える。
名前を呼んでほしい。
誰でもいいから、自分を物ではなく生き物として見てほしい。
誰も呼ばない。
記録番号だけが読み上げられる。
二人目は叫びながら壁に頭を打ちつけた。
三人目は、実験失敗で暴走した魔力生命体の視界を見た。
自分を傷つけた人間たちを殺したくないのに、魔力が止まらない。
助けてほしいのに、撃たれる。
撃たれて、撃たれて、撃たれて。
最後に聞いたのは、研究員の安堵の声だった。
「処分完了」
三人目は膝から崩れた。
ロジーは泣いていた。
怖くて泣いていた。
痛みを見て泣いていた。
記録の中の死を自分の中にも通してしまって、吐きそうになっていた。
それでも、選ぶ記録に迷いはなかった。
実行部隊の誰が、どの現場にいたか。
誰が何を見たか。
誰が何を命令したか。
誰が見て見ぬふりをしたか。
誰が笑ったか。
誰が報告書を書いたか。
誰が名前を消したか。
全部、世界に残っている。
ロジーは偶然に見せていなかった。
罪悪感がありそうな相手に適当にぶつけているのではなかった。
最も壊れる記録を、最も深く刺さる相手に、的確に再生していた。
それは攻撃ではない。
告発でもない。
ただ、返却だった。
あなたが残したものを返す。
あなたが見なかったものを見せる。
あなたが物にしたものの視界を、あなたの中に戻す。
施設の中枢管制室では、幹部たちが状況を確認していた。
倒れた職員。
錯乱した研究員。
閉鎖された区画。
破壊された記録媒体。
拡大する悲鳴。
「情報災害ではない」
ひとりの老研究員が言った。
彼は機関の創設期から関わっている人物だった。
数多くの魔力生命体を解剖してきた。
最初の報告書を書いたのも彼だった。
「これは記録災害だ」
彼は冷静だった。
恐怖していなかった。
対策を組み立てていた。
「彼女は過去の記録を媒介にしている。記録媒体の破壊では足りない。施設そのものが媒介だ。接触職員の記憶も媒介になる。ならば、対象を施設外へ隔離し、施設を焼却する」
「職員は?」
「汚染済みだ。残す価値はない」
周囲が沈黙した。
しかし、誰も反論しなかった。
機関とはそういう場所だった。
必要なら、同僚も切り捨てる。
必要なら、証拠も燃やす。
必要なら、真実も消す。
老研究員は続けた。
「対象の殺害は最終手段だ。箱庭の娘の生体情報は失えない。デバイスごと頭部を保存しろ。身体は後から再生の可否を調べる」
その指示が出された瞬間。
管制室の照明が一度だけ明滅した。
通信は遮断されている。
魔力反応はない。
外部侵入もない。
なのに、室内の全員が同じものを見た。
古い実験室。
まだ機関が小さかった頃の記録。
老研究員が若かった頃。
最初の魔力生命体。
人間の言葉を覚えたばかりの個体。
彼女は老研究員のことを先生と呼んでいた。
「先生、今日は痛くない?」
若い老研究員は笑っていた。
「痛くないようにする」
嘘だった。
その日、彼女は死んだ。
死ぬ直前まで先生と呼んでいた。
なぜ痛くするのか分からないまま。
なぜ約束を破られたのか分からないまま。
助けてくれるはずの人が、なぜ自分を解剖しているのか分からないまま。
老研究員の顔から、血の気が引いた。
「違う」
彼はつぶやいた。
「違う。あれは必要だった。あれがあったから今の魔術医療が――」
記録は続いた。
死んだ彼女の視界ではない。
次は、老研究員自身の記録だった。
彼は泣いていた。
最初の一体を殺した夜。
自分の手が震えていたこと。
眠れなかったこと。
翌朝、報告書から彼女の名前を消したこと。
三日後には、もう震えなくなったこと。
十体目からは、食事の前に解剖できるようになったこと。
百体目からは、泣き声を聞いても作業効率が落ちなくなったこと。
老研究員は、自分が人間でなくなっていく記録を見せられた。
「やめろ」
初めて、彼の声に震えが混じった。
「やめろ、やめろ、やめろ」
ロジーの声が、管制室のスピーカーから聞こえた。
本来、繋がっていないはずのスピーカーだった。
正確には、スピーカーが声を出したのではない。
この部屋で、かつて流された音声記録を媒介に、ロジーの声が重なった。
「やめたかった子、いっぱいいたよ」
老研究員は椅子から立ち上がった。
「お前に何が分かる!」
「分かんないよ!」
ロジーの声が裏返った。
泣き声だった。
怒りではなく、恐怖だった。
「私、分かんない! 怖い! 痛いのも嫌! 大きな声も嫌! 知らない人も嫌! いまも怖い! ずっと怖い! でも、記録は分かる! 残ってるものは、分かる!」
管制室の壁に、いくつもの映像が浮かんだ。
映像ではない。
記録の断片だった。
死に行く被検体。
泣く被検体。
解剖される被検体。
実験に失敗して崩れていく被検体。
隔離室で心が壊れていく被検体。
自分の名前を忘れていく被検体。
誰かを呼び続ける被検体。
誰にも呼ばれない被検体。
そのすべてが、実感を伴って管制室の人間たちへ流れ込んだ。
悲鳴が上がった。
ひとりが自分の目を押さえた。
ひとりが嘔吐した。
ひとりが床に伏せて謝り続けた。
ひとりが笑い出した。
ひとりが無表情のまま立ち尽くし、二度と動かなかった。
老研究員だけは、最後まで耐えようとした。
彼は自分の精神防御術式を起動した。
記憶遮断。
感覚遮断。
自己同一性固定。
優秀な術式だった。
並の精神干渉なら弾けた。
だが、ロジーは精神を攻撃しているのではない。
記録を再生しているだけだった。
老研究員の防御術式は、外からの侵入を防げても、彼自身が過去に残した記録を消せなかった。
「見るな……見るな、見るな、見るな……!」
老研究員は叫んだ。
ロジーは固定台の上で震えていた。
拘束具はまだ外れていない。
麻痺も残っている。
頬は涙で濡れ、呼吸は乱れ、デバイスは過負荷で小刻みに揺れていた。
それでも彼女は、目をそらさなかった。
「あなたが見なかったんだよ」
施設の隔壁が次々と開いた。
それも偶然ではなかった。
ロジーが操作したのではない。
正確には、操作記録を再生した。
過去、同じ隔壁を開けた職員の手順。
緊急開放コード。
点検時の一時解除。
責任者が入力した癖。
すべて記録として残っていた。
機関は痕跡を消すことに長けていた。
だが、完全な無記録など存在しない。
扉は開いたことを覚えている。
端末は触れられたことを覚えている。
空気は声を覚えている。
床は足音を覚えている。
世界は、起きたことをなかったことにしない。
ロジーはそのすべてを読んだ。
逃走経路を作るためではない。
生き残った被検体たちの隔離室を開けるためだった。
地下深く。
まだ殺されていなかった魔力生命体たちがいた。
商品価値がある個体。
長期観察中の個体。
再生実験用に残された個体。
ロジーは彼らを見た。
見てしまった。
泣き声がさらに酷くなった。
「ごめん、ごめん、遅くてごめん、私、弱くて、ごめん……」
声は届かない。
でも扉は開いた。
拘束具は外れた。
警備システムは過去の点検記録通りに沈黙した。
逃げられる通路だけが、白い施設の中に一本ずつ浮かび上がっていった。
機関の者たちは、それを奇跡だと思った。
偶然、隔壁制御が壊れた。
偶然、警備システムが落ちた。
偶然、被検体の区画が開いた。
違う。
偶然はない。
全部、ロジーの魔術だった。
全部、記録の再生だった。
最後に実験室へ戻ってきたのは、老研究員だった。
彼は錯乱しながらも歩いてきた。
手には小型の拳銃。
魔術師ではなくても扱える、単純な殺傷武器。
精神は壊れかけていた。
それでも、目的だけは残っていた。
ロジーを殺す。
この災害を止める。
箱庭の娘を保存することは、もう考えていない。
ただ、止める。
「お前が……お前が、全部壊した」
老研究員は実験室の入口に立った。
ロジーは固定台の上で彼を見た。
恐怖で、また涙が溢れた。
銃口。
大人の男。
怒鳴り声。
逃げられない身体。
ロジーの中の幼い部分が、完全に悲鳴を上げた。
「やだ……撃たないで……やだ、やだ、やだぁ……」
老研究員の指が引き金にかかる。
ロジーは目を閉じた。
そして、最後の記録を再生した。
それは、老研究員が初めて殺した魔力生命体の記録ではなかった。
何百体目かの記録でもなかった。
施設の記録でも、器具の記録でも、床の記録でもなかった。
老研究員自身が、ずっと奥に隠していた記録。
幼い頃の彼。
魔術を学び始めたばかりの少年。
怪我をした小さな魔力生命体を助けた記録。
その子は、人間の言葉を知らなかった。
少年は何日もかけて手当てをした。
食べ物を与えた。
眠る場所を作った。
その子が元気になって森へ帰っていく時、少年は泣いた。
「もっと魔術を勉強する」
少年は言った。
「痛いのを治せる人になる」
その記録が、老研究員の中で再生された。
彼は銃を構えたまま、動けなくなった。
自分が何になりたかったのか。
何を失ったのか。
いつ、失ったことにも気づかなくなったのか。
全部、見せられた。
老研究員の手から銃が落ちた。
彼は崩れるように膝をついた。
「私は……」
言葉は続かなかった。
ロジーは泣きながら、彼を見ていた。
「あなた、最初は、助けたかったんだね」
老研究員は口を開けた。
声は出なかった。
それが、彼にとって一番残酷だった。
責められるより。
罰されるより。
殺されるより。
自分が何者だったのかを思い出すことの方が、ずっと耐えられなかった。
施設は沈黙していった。
悲鳴は途切れ途切れになり、警報は壊れた音で鳴り続け、白い廊下には倒れた人間たちが転がっていた。
死んだ者は少なかった。
ロジーは殺していない。
ただ、見せた。
彼らが奪った痛みを。
彼らが記録した恐怖を。
彼らが消した名前を。
彼らが報告書の外へ追いやった絶望を。
実感を伴って返した。
それだけで、機関は壊滅した。
命令系統は崩れた。
研究員は錯乱した。
警備員は動けなくなった。
幹部は自分の記録に潰された。
生き残った者たちは、もう実験室に近づけなかった。
ロジーは固定台の上で、まだ泣いていた。
拘束具のひとつが外れた。
過去の点検記録をなぞって、ロックが解除されたのだ。
震える指で、ロジーは自分の腕を抱いた。
「こわかった……」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
「こわかったよぉ……局長……」
頭上のデバイスが、かすかに明滅した。
ロジーの思考補助は限界に近かった。
大量の記録を読み、再生し、他者に体験させた負荷が、彼女の壊れた脳をさらに軋ませていた。
それでも、ロジーは最後の作業をした。
施設内に残された記録の索引化。
被検体の名前。
記録番号。
捕獲場所。
死亡日時。
生存個体の位置。
関与者の氏名。
資金の流れ。
命令書。
削除された映像。
燃やされたノートの内容。
失われたはずの声。
全部を、監理局が読める形に並べ直した。
「残す……」
ロジーは泣きながら言った。
「全部、残す……なかったことに、しない……」
その時、遠くで空間が割れるような音がした。
監理局の転移干渉。
ロジーはびくっと肩を震わせた。
また怖い人が来たのかと思った。
でも、次に響いた足音は違った。
規則正しくて、速くて、迷いがなかった。
職員たちの声。
制圧命令。
救助班の指示。
そして、聞き慣れた声。
「ロジー!」
局長の声だった。
ロジーの顔がぐしゃりと歪んだ。
安心したからではない。
安心するには、怖すぎるものを見すぎていた。
帰れると分かった瞬間、耐えていたものが全部崩れた。
「きょ、局長……私、私、勝手に、惑星観光して、怒られる、怒られるのに、でも、でも、私……」
言葉にならなかった。
ジェレミーが実験室に入ってきた時、ロジーは固定台の上で丸まって泣いていた。
周囲には壊れた研究員たち。
床に落ちた器具。
白い壁に残る記録の残響。
そして、ロジーが並べた膨大な証拠。
ジェレミーは一瞬で状況を見た。
ロジーが何をされたか。
何をされかけたか。
何を見たか。
何をしたか。
そのすべてを、完全には理解できなくても、理解しようとした。
彼は銃を下ろし、固定台へ近づいた。
ロジーは反射的にびくついた。
大人の男の人が近づく。
それだけで、身体が震えた。
ジェレミーはそこで足を止めた。
「ロジー」
声は静かだった。
「私だ」
ロジーは涙でぼやけた目を上げた。
「局長……?」
「そうだ」
「怒る……?」
「後で怒る」
ロジーの口が震えた。
「やだぁ……」
「だが、今ではない」
ジェレミーはゆっくりと手を伸ばし、拘束具を外した。
ロジーは崩れるように身体を起こし、それから自分からジェレミーの服を掴んだ。
強くは掴めなかった。
指に力が入らなかった。
それでも離さなかった。
「私、こわかった……でも、ちゃんと見せた……全部、見せた……あの子たち、いたの……いたのに、記録番号だけで……名前、消されてて……だから、私……」
「分かっている」
「分かってないよぉ……私も分かんないもん……!」
ロジーは泣きながら叫んだ。
「私、弱いのに! 怖いのに! 痛いの嫌なのに! なのに、見ちゃった! 見せちゃった! みんな壊れた! 私が壊した! でも、でも、あの人たち、ずっと壊してた!」
ジェレミーは答えなかった。
簡単な慰めを言わなかった。
よくやったとも、悪くないとも、その場では言わなかった。
ただ、ロジーの背に手を置いた。
ロジーはその手にしがみついた。
施設の外では、監理局職員たちが生存個体を救出していた。
機関の者たちは拘束され、錯乱した者は医療班へ運ばれた。
証拠はすべて押収された。
壊された記録媒体も。
燃やされた紙片も。
空白にされたデータベースも。
そして、ロジーが世界から拾い上げた、消せない記録も。
その日、機関は壊滅した。
監理局の制圧によってではない。
レトの短剣によってでもない。
エルの魔法によってでもない。
泣きじゃくるロジーが、ひとりで壊した。
弱い少女が。
腕力もなく、戦闘能力も低く、脅されただけで泣いてしまう箱庭の娘が。
彼らの積み上げた記録を、彼ら自身に返した。
攻撃性能ではない恐ろしさ。
傷つけるための魔術ではない。
けれど、隠した罪を隠したままにさせない魔術。
痛みも。
恐怖も。
死の瞬間も。
解剖台の冷たさも。
心が壊れていく音も。
全部、記録としてそこにあるなら、ロジーは届いてしまう。
アカシックレコード・オフライン。
世界に残った記録へ接続する秘匿魔術。
それはその日、魔術発展の名を掲げた機関に、最も単純な事実を突きつけた。
なかったことにはできない。
誰も見ていなかった出来事も。
消したはずの映像も。
燃やしたはずの報告書も。
名前を奪った命も。
全部、世界は覚えている。
そしてロジーは、震えながら、泣きながら、その記録を抱えている。
忘れないために。
忘れさせないために。
いつか自分が全部分からなくなるとしても。
この日ここにいた子たちが、ただの材料ではなかったと残すために。




