表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
98/135

第98話-ロジー、記録の魔術師

魔力生命体は、魔術に長けている。

箱庭の娘たちのような人間型は珍しい

多くは魔獣や魔物といった呼称に相応しい見た目をしている

翼が生えた不定形の塊、水中に暮らす生物学的分類から外れた生物、多肢の怪物

多くは人間と会話も成り立たない、しかし、知能は高い



それはこの宇宙で生きる魔術師なら、誰もが知っている常識だった。


生まれながらに魔力を呼吸のように扱い、肉体そのものに特殊な魔力性質を宿し、人間が何十年もかけて習得する術式を、まるで指先を動かすみたいに行使する。


だから彼らが研究対象になるのも不自然ではなかった。


崇拝でも、恐怖でも、保護でもなく。


研究対象。


魔術発展のため。


未来のため。


文明のため。


そういう、整った言葉がいくらでも貼り付けられた。


組織の正式名称は長かった。


惑星政府の古い研究部門から枝分かれし、軍用魔術開発機関と民間資本を通り抜け、現在は複数の財団名義に分散して存在している。


内部の者たちは、自分たちのことをただ「機関」と呼んでいた。


機関は、これまで何体もの魔力生命体を捕獲していた。


獣に近いもの。


植物に近いもの。


人間の形をしていないもの。


人間の言葉を覚えたもの。


泣くもの。


怒るもの。


助けを求めるもの。


機関の者たちは、それらをすべて記録した。


麻酔の効き方。


魔力器官の位置。


痛覚反応。


再生速度。


恐怖による魔力出力の変動。


絶命直前に発生する魔力波形。


報告書には、淡々とした文字が並んだ。


そこに悲鳴は残らなかった。


映像記録には残っていた。


音声記録にも残っていた。


だが、報告書には残らなかった。


「魔術発展のために必要な犠牲」


その一文があれば、彼らは自分の手を汚れていないものとして扱えた。


その日、ロジーはひとりで惑星観光をしていた。


もちろん、許可は取っていない。


アカシックレコード・オフラインで監理局の行動記録と所在確認を少しだけ誤魔化し、勤務表の隙間に自分の不在を滑り込ませた。


本当に、ちょっとしたいたずらのつもりだった。


大きな事件にする気なんてなかった。


ロジーはアカシックレコード・オフラインの職員だ。


記録することが仕事で、記録することが生き方で、記録することに執着している。


だから、外の惑星を自分の足で歩いてみたかった。


誰かの案内ではなく。


監理局の任務でもなく。


レトやエルと一緒でもなく。


自分の目で見て、自分のデバイスで撮って、自分の言葉で残したかった。


「わ、あっ、これ見たことない露店! 記録価値あり! 撮影、撮影っと」


ピンク髪のツインおさげを揺らしながら、ロジーは市街地の通りを跳ねるように歩いていた。


頭上に浮かぶデバイスが小さく回転し、次々と写真を撮る。


古い石畳。


魔術照明の看板。


果物を飴で固めた菓子。


露店の店主の笑顔。


噴水広場で遊ぶ子供たち。


ロジーは全部を見たがった。


全部を残したがった。


「へへー、単独惑星観光、成功。局長にはあとで怒られるかもだけど……でも、でも、ちゃんとお土産買えば許してくれるかも。副長は笑う。絶対笑う。レトは羨ましがる。エルはたぶん、いつの間にか隣にいる」


そこまで言って、ロジーは立ち止まった。


デバイスの動きが、一瞬だけ鈍った。


通りの向こう。


雑踏の奥。


誰かがこちらを見ていた。


ロジーは目を細める。


人混みの流れの中に、同じ歩幅の人間が三人。


露店のガラスに反射して、背後にも二人。


屋根の上に一人。


「……あれ」


ロジーの声が、少しだけ小さくなった。


逃げるべきだった。


監理局へ連絡するべきだった。


アカシックレコード・オフラインで周辺の記録を引き出せば、彼らが誰なのかすぐに分かったはずだった。


でも、ロジーは一瞬遅れた。


怖い、と思ったからだ。


ロジーは弱い。


肉体も。


メンタルも。


箱庭の娘たちの中で、ロジーはあまりにも弱い。


レトのように高速で飛べない。


硝子の短剣も作れない。


エルのように世界そのものを捻じ曲げる魔法も使えない。


腕を掴まれたら振りほどけない。


大きな声で脅されたら泣く。


叱られただけで混乱する。


怖い人間に囲まれたら、足がすくむ。


「す、すみません、私、観光客で、えっと、あの、道に迷っただけで――」


言葉が終わる前に、足元で魔術陣が開いた。


薄い灰色の光が、石畳の隙間から染み出した。


麻痺術式。


反応した瞬間、ロジーの膝から力が抜けた。


「ぅ、あっ……?」


倒れかけた身体を、背後の男が受け止めた。


優しさではない。


商品を落とさないための手つきだった。


ロジーの口元に布が押し当てられる。


声がくぐもる。


頭上のデバイスが警告音を鳴らした。


しかし、次の瞬間、細い針状の術式がデバイスの周囲を取り囲み、制御信号に干渉した。


「対象、魔力生命体。外見年齢は幼い。抵抗能力は低い」


「頭上の浮遊物は補助脳か? 装飾ではないな」


「泣いている。情緒反応は未成熟」


「箱庭の娘の可能性あり」


その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。


箱庭の娘。


閉ざされた硝子玉の宇宙で生まれた魔法生命体。


噂はあった。


監理局に所属している、極めて特殊な個体群。


だが、機関の者たちは詳しく知らなかった。


レトがどういう戦闘能力を持つか。


エルが何であるか。


ロジーが何を記録しているか。


監理局が彼女たちをどれほど厳重に扱っているか。


知らなかった。


知っていたのは、ただひとつ。


箱庭の娘は、研究材料としてあまりにも魅力的だということ。


「単独行動か」


「あり得ない好機だ」


「監視は?」


「確認できない。通信反応もない」


「捕獲する」


ロジーは泣きながら首を振った。


「や、やだ……やだ、私、帰る……局長に怒られるから、帰る……」


男は冷静にロジーの顔を覗き込んだ。


怯えた目。


震える唇。


涙で濡れた頬。


小さな身体。


そのすべてを観察して、彼は結論を出した。


「脅迫への耐性は低い。従順化可能」


ロジーの瞳が大きく揺れた。


その言葉が、彼女の中の何かを深く引っかいた。


従順化。


観察。


耐性。


報告書に書かれる言葉。


被検体を人間として見ない言葉。


ロジーはそれを知っていた。


まだ見ていないはずなのに。


まだ調べていないはずなのに。


その言葉の使われ方を、世界の記録が知っていた。


搬送車の中は、暗かった。


ロジーの手首には拘束具が付けられていた。


足にも。


首にも。


頭上のデバイスには封鎖術式が絡みつき、思考補助の速度を落としている。


遅延。


ロジーが一番嫌いなもの。


思考が遅れる。


言葉が遅れる。


判断が遅れる。


自分が、自分でなくなっていく感じがする。


「やだ……遅い、やだ、考えられない、やだ……」


ロジーは泣いた。


しゃくり上げながら、肩を震わせた。


機関の者たちはそれを見て、さらに安心した。


弱い。


あまりにも弱い。


これなら扱える。


これなら解剖台に乗せられる。


これなら、魔力器官の位置を調べられる。


これなら、泣いても、叫んでも、記録にできる。


「対象は精神的圧力に弱い。隔離後、尋問を優先する」


「所属確認は?」


「不要だ。現時点で外部通信は遮断済み。発見される前に一次解剖まで進める」


「箱庭の娘の身体構造か。歴史に残るな」


ロジーは拘束具の中で震えていた。


だが、泣きながら、聞いていた。


全部。


声の高さ。


車両の振動。


術式の駆動音。


床の材質。


搬送経路。


男たちの靴音。


呼吸の癖。


持っている端末の起動音。


会話の間。


どの言葉を誰が言ったか。


全部、記録した。


ロジーは弱い。


でも、記録することだけはやめなかった。


「……アカシックレコード・オフライン」


声は、涙でかすれていた。


誰にも聞こえないほど小さかった。


接続の光は出なかった。


魔力反応もほとんどなかった。


通信は発生しなかった。


機関の遮断術式は、何も検知しなかった。


当然だった。


ロジーはどこにも繋がっていない。


世界に残った記録へ、ただ手を伸ばしただけだった。


最初に見えたのは、車両の記録。


この床に積まれた箱。


運ばれた器具。


泣き声。


小さな爪で壁を引っかいた跡。


薬剤の匂い。


次に見えたのは、施設の記録。


地下へ降りる昇降機。


白い廊下。


消毒液。


観察室。


隔離室。


解剖室。


そして、そこにいた魔力生命体たち。


ロジーの呼吸が止まった。


知らない子だった。


人の形をしていない子。


羽のある子。


透明な皮膚の子。


角の生えた小さな子。


言葉を話せない子。


言葉を話せる子。


助けて、と言った子。


おかあさん、と言った子。


痛い、と言った子。


やめて、と言った子。


最後には何も言えなくなった子。


ロジーの涙が、ぽたぽたと膝に落ちた。


「……ひどい」


小さな声だった。


ただの感想みたいな声だった。


でも、その瞬間から、機関の壊滅は始まっていた。


施設に到着したロジーは、白い部屋へ運ばれた。


壁も床も天井も白い。


中央に固定台。


周囲には観察用の硝子。


その向こうに研究員たち。


ロジーは固定台の上に寝かされ、手足をさらに拘束された。


麻痺はまだ残っている。


指先すらまともに動かない。


恐怖で喉が詰まって、声が出ない。


「泣いているな」


「痛覚反応の前段階として記録しておけ」


「頭上デバイスは外すか?」


「外した場合、脳活動が停止する可能性がある。まずは接続状態を維持したまま解析する」


「魔力特性は?」


「不明。現時点では攻撃的出力なし。肉体強度も低い」


研究員たちは優秀だった。


本当に、頭がよかった。


捕獲から搬送までの時間は短く、証拠を残さず、周辺の記録改竄も行っていた。


監理局の追跡を想定し、通信遮断、魔力反応偽装、搬送経路の分岐、施設内の隔壁閉鎖を即座に実行した。


ロジーのデバイスにも干渉し、思考補助を鈍らせた。


未知の魔術を警戒し、発動兆候を探るセンサーを複数配置した。


彼らは愚かではなかった。


油断もしていなかった。


ただ、知らなかった。


ロジーの恐ろしさは、攻撃性能ではない。


刃を作ることではない。


爆発を起こすことではない。


壁を破ることではない。


彼女は、記録を再生する。


ただそれだけで、人間を壊せる。


最初に壊れたのは、若い研究員だった。


彼は観察室の端末に向かい、ロジーの生体反応を記録していた。


その端末は、過去に何百時間もの実験映像を保存していた。


削除されたものもあった。


暗号化されたものもあった。


外部媒体へ移されたものもあった。


だが、記録として成立していた。


ロジーは泣きながら、その端末に残された記録を掴んだ。


そして、再生した。


若い研究員の目が止まった。


彼は画面を見ていなかった。


それなのに、見た。


固定台に寝かされた魔力生命体の視界。


天井の白い光。


拘束具の冷たさ。


腹の奥へ差し込まれる痛み。


自分の身体が開かれていく恐怖。


理解できない言葉で周囲が会話している絶望。


息ができない。


助けを呼んでも、誰も来ない。


最後に見たのは、硝子越しにメモを取る自分自身だった。


「――あ」


若い研究員は椅子から転げ落ちた。


喉を押さえ、床を掻いた。


「違う、違う、私は、私は記録係で、直接は、直接はやってない……!」


観察室がざわついた。


「精神干渉だ!」


「対象の魔力反応は?」


「検出なし!」


「馬鹿な、何か発動しているはずだ!」


ロジーは固定台の上で泣いていた。


「ごめん……ごめんね……痛かったね……怖かったね……」


それは若い研究員に向けた謝罪ではなかった。


記録の中で死んだ、名前も残されていない魔力生命体へ向けた言葉だった。


次に、警備主任が倒れた。


彼は即座に判断した。


観察室を封鎖し、研究員を退避させ、ロジーの口を塞ぎ、視界を遮断し、聴覚刺激を断つべきだと。


判断は正しかった。


対応は早かった。


彼は訓練された人間だった。


だから部下に命令を出そうとした。


その前に、ロジーが彼の足元の床を見た。


その床には記録があった。


かつて、逃げようとした被検体が、そこまで這ってきた記録。


腕が動かなくなっても。


脚が折れても。


魔力が尽きても。


ただ扉の方へ、外の方へ、誰かがいるかもしれない方へ。


這って、這って、這って。


警備主任はその感覚を体験した。


床の冷たさ。


爪が割れる音。


喉の奥で血が泡立つ感触。


背後から近づく足音。


捕まる恐怖。


そして、自分が普段持っている警棒で、背を打たれる痛み。


彼は膝をついた。


「やめろ……見せるな……」


ロジーは泣きながら首を振った。


「見て。見てよ。見なきゃだめ。あなたたち、記録したんでしょ。全部、ちゃんと、残したんでしょ」


声は震えていた。


怖くて、怖くて仕方なかった。


本当はこんなことしたくなかった。


大きな男の人が叫ぶだけで、ロジーの肩は跳ねる。


誰かが近づくだけで、涙が増える。


今すぐ局長のところへ帰りたかった。


副長に怒られてもよかった。


レトに抱きつかれて吹き飛ばされてもよかった。


エルに隣でぼんやり座られてもよかった。


帰りたかった。


でも、止めなかった。


「あなたたちの記録だよ」


施設全体の警報が鳴った。


機関はすぐに対応を変えた。


職員を小単位に分け、視覚共有を遮断。


個人端末を破棄。


施設内データベースを物理切断。


研究区画ごとに隔壁を下ろし、ロジーを中心にした情報災害として処理を始めた。


彼らは聡明だった。


ロジーの力を精神干渉型と仮定し、接触者の隔離を決めた。


過去の実験記録が媒介になっている可能性にも気づいた。


「記録媒体を破壊しろ!」


誰かが叫んだ。


端末が叩き壊された。


記録ディスクが焼かれた。


研究ノートが燃やされた。


映像保管庫に火がつけられた。


だが、遅かった。


記録は、媒体だけに残るものではない。


床に残る。


壁に残る。


器具に残る。


拘束具に残る。


白衣に残る。


手袋に残る。


声に残る。


匂いに残る。


傷に残る。


誰かが見たなら、記録になる。


誰かが聞いたなら、記録になる。


誰かが覚えているなら、記録になる。


そして、誰かが忘れようとしても、起きたことは起きたこととして世界に刻まれている。


ロジーはそれを拾う。


泣きじゃくりながら。


震えながら。


息を詰まらせながら。


的確に。


次に再生されたのは、手術器具の記録だった。


解剖主任が、自分の手に握った器具を取り落とした。


彼は何度も同じ器具を使ってきた。


熟練していた。


躊躇がなかった。


「痛覚反応、強いな」


「魔力器官が露出した」


「まだ生きている。続行」


そう言った自分の声を、彼は聞いた。


同時に、言われた側の感覚を体験した。


身体の中に冷たい金属が入る。


魔力が漏れていく。


意識が薄れる。


死にたいのに死ねない。


死にたくないのに死が近づく。


自分の身体が、研究成果という言葉に変換されていく。


「やめろおおお!」


解剖主任は両耳を塞いだ。


だが、耳を塞いでも意味はなかった。


これは音ではない。


映像でもない。


記録の再生だった。


実感を伴う記録。


彼は床に倒れ、白衣を掻きむしった。


「違う、私は必要なことをした! 文明のためだ! 魔術発展のためだ!」


ロジーはしゃくり上げながら、彼を見た。


「その子も、そう思って死んだの?」


解剖主任の口が止まった。


ロジーの声は弱々しかった。


怒鳴っていない。


責め立ててもいない。


泣きながら、ただ聞いただけだった。


それが一番深く刺さった。


廊下の向こうで銃声がした。


機関はさらに判断を切り替えた。


ロジーを殺す。


捕獲対象から、危険対象へ。


貴重な研究材料ではある。


だが、施設そのものを失うわけにはいかない。


精神汚染が拡大する前に処理する。


命令は早かった。


実行部隊も早かった。


対魔術装備を持った職員たちが、ロジーのいる実験室へ向かった。


その行動も、間違っていなかった。


ロジーは戦えない。


拘束されている。


身体能力は低い。


防御術式もまともに張れない。


殺すだけなら、難しくない。


彼らはそう判断した。


実験室の扉が開く。


黒い防護服の男たちが入ってくる。


ロジーは固定台の上でびくりと震えた。


「ひっ……」


涙でぐちゃぐちゃの顔。


恐怖で引きつった喉。


震える肩。


それを見て、先頭の男はほんの一瞬だけ安堵した。


対象はやはり子供だ。


恐怖で硬直している。


次の瞬間、彼の視界が変わった。


防護服の内側。


暗い輸送箱。


膝を抱えた小さな魔力生命体。


外から聞こえる大人たちの声。


「希少個体だ」


「壊すなよ」


「多少傷ついても再生する」


「泣いてるぞ」


「記録しておけ」


男は、自分が運んだ箱の中にいた。


いや、違う。


運ばれた側にいた。


暗い。


狭い。


怖い。


息が苦しい。


箱の外で笑っているのが、自分たちだと分かる。


「う、あ、あああああ!」


男は銃を落とした。


二人目が踏み込む。


ロジーは目を閉じたまま、別の記録を開いた。


二人目は、焼却炉の前に立っていた。


処分された失敗検体の記録。


熱。


煙。


まだ意識が残っている。


身体が燃える。


名前を呼んでほしい。


誰でもいいから、自分を物ではなく生き物として見てほしい。


誰も呼ばない。


記録番号だけが読み上げられる。


二人目は叫びながら壁に頭を打ちつけた。


三人目は、実験失敗で暴走した魔力生命体の視界を見た。


自分を傷つけた人間たちを殺したくないのに、魔力が止まらない。


助けてほしいのに、撃たれる。


撃たれて、撃たれて、撃たれて。


最後に聞いたのは、研究員の安堵の声だった。


「処分完了」


三人目は膝から崩れた。


ロジーは泣いていた。


怖くて泣いていた。


痛みを見て泣いていた。


記録の中の死を自分の中にも通してしまって、吐きそうになっていた。


それでも、選ぶ記録に迷いはなかった。


実行部隊の誰が、どの現場にいたか。


誰が何を見たか。


誰が何を命令したか。


誰が見て見ぬふりをしたか。


誰が笑ったか。


誰が報告書を書いたか。


誰が名前を消したか。


全部、世界に残っている。


ロジーは偶然に見せていなかった。


罪悪感がありそうな相手に適当にぶつけているのではなかった。


最も壊れる記録を、最も深く刺さる相手に、的確に再生していた。


それは攻撃ではない。


告発でもない。


ただ、返却だった。


あなたが残したものを返す。


あなたが見なかったものを見せる。


あなたが物にしたものの視界を、あなたの中に戻す。


施設の中枢管制室では、幹部たちが状況を確認していた。


倒れた職員。


錯乱した研究員。


閉鎖された区画。


破壊された記録媒体。


拡大する悲鳴。


「情報災害ではない」


ひとりの老研究員が言った。


彼は機関の創設期から関わっている人物だった。


数多くの魔力生命体を解剖してきた。


最初の報告書を書いたのも彼だった。


「これは記録災害だ」


彼は冷静だった。


恐怖していなかった。


対策を組み立てていた。


「彼女は過去の記録を媒介にしている。記録媒体の破壊では足りない。施設そのものが媒介だ。接触職員の記憶も媒介になる。ならば、対象を施設外へ隔離し、施設を焼却する」


「職員は?」


「汚染済みだ。残す価値はない」


周囲が沈黙した。


しかし、誰も反論しなかった。


機関とはそういう場所だった。


必要なら、同僚も切り捨てる。


必要なら、証拠も燃やす。


必要なら、真実も消す。


老研究員は続けた。


「対象の殺害は最終手段だ。箱庭の娘の生体情報は失えない。デバイスごと頭部を保存しろ。身体は後から再生の可否を調べる」


その指示が出された瞬間。


管制室の照明が一度だけ明滅した。


通信は遮断されている。


魔力反応はない。


外部侵入もない。


なのに、室内の全員が同じものを見た。


古い実験室。


まだ機関が小さかった頃の記録。


老研究員が若かった頃。


最初の魔力生命体。


人間の言葉を覚えたばかりの個体。


彼女は老研究員のことを先生と呼んでいた。


「先生、今日は痛くない?」


若い老研究員は笑っていた。


「痛くないようにする」


嘘だった。


その日、彼女は死んだ。


死ぬ直前まで先生と呼んでいた。


なぜ痛くするのか分からないまま。


なぜ約束を破られたのか分からないまま。


助けてくれるはずの人が、なぜ自分を解剖しているのか分からないまま。


老研究員の顔から、血の気が引いた。


「違う」


彼はつぶやいた。


「違う。あれは必要だった。あれがあったから今の魔術医療が――」


記録は続いた。


死んだ彼女の視界ではない。


次は、老研究員自身の記録だった。


彼は泣いていた。


最初の一体を殺した夜。


自分の手が震えていたこと。


眠れなかったこと。


翌朝、報告書から彼女の名前を消したこと。


三日後には、もう震えなくなったこと。


十体目からは、食事の前に解剖できるようになったこと。


百体目からは、泣き声を聞いても作業効率が落ちなくなったこと。


老研究員は、自分が人間でなくなっていく記録を見せられた。


「やめろ」


初めて、彼の声に震えが混じった。


「やめろ、やめろ、やめろ」


ロジーの声が、管制室のスピーカーから聞こえた。


本来、繋がっていないはずのスピーカーだった。


正確には、スピーカーが声を出したのではない。


この部屋で、かつて流された音声記録を媒介に、ロジーの声が重なった。


「やめたかった子、いっぱいいたよ」


老研究員は椅子から立ち上がった。


「お前に何が分かる!」


「分かんないよ!」


ロジーの声が裏返った。


泣き声だった。


怒りではなく、恐怖だった。


「私、分かんない! 怖い! 痛いのも嫌! 大きな声も嫌! 知らない人も嫌! いまも怖い! ずっと怖い! でも、記録は分かる! 残ってるものは、分かる!」


管制室の壁に、いくつもの映像が浮かんだ。


映像ではない。


記録の断片だった。


死に行く被検体。


泣く被検体。


解剖される被検体。


実験に失敗して崩れていく被検体。


隔離室で心が壊れていく被検体。


自分の名前を忘れていく被検体。


誰かを呼び続ける被検体。


誰にも呼ばれない被検体。


そのすべてが、実感を伴って管制室の人間たちへ流れ込んだ。


悲鳴が上がった。


ひとりが自分の目を押さえた。


ひとりが嘔吐した。


ひとりが床に伏せて謝り続けた。


ひとりが笑い出した。


ひとりが無表情のまま立ち尽くし、二度と動かなかった。


老研究員だけは、最後まで耐えようとした。


彼は自分の精神防御術式を起動した。


記憶遮断。


感覚遮断。


自己同一性固定。


優秀な術式だった。


並の精神干渉なら弾けた。


だが、ロジーは精神を攻撃しているのではない。


記録を再生しているだけだった。


老研究員の防御術式は、外からの侵入を防げても、彼自身が過去に残した記録を消せなかった。


「見るな……見るな、見るな、見るな……!」


老研究員は叫んだ。


ロジーは固定台の上で震えていた。


拘束具はまだ外れていない。


麻痺も残っている。


頬は涙で濡れ、呼吸は乱れ、デバイスは過負荷で小刻みに揺れていた。


それでも彼女は、目をそらさなかった。


「あなたが見なかったんだよ」


施設の隔壁が次々と開いた。


それも偶然ではなかった。


ロジーが操作したのではない。


正確には、操作記録を再生した。


過去、同じ隔壁を開けた職員の手順。


緊急開放コード。


点検時の一時解除。


責任者が入力した癖。


すべて記録として残っていた。


機関は痕跡を消すことに長けていた。


だが、完全な無記録など存在しない。


扉は開いたことを覚えている。


端末は触れられたことを覚えている。


空気は声を覚えている。


床は足音を覚えている。


世界は、起きたことをなかったことにしない。


ロジーはそのすべてを読んだ。


逃走経路を作るためではない。


生き残った被検体たちの隔離室を開けるためだった。


地下深く。


まだ殺されていなかった魔力生命体たちがいた。


商品価値がある個体。


長期観察中の個体。


再生実験用に残された個体。


ロジーは彼らを見た。


見てしまった。


泣き声がさらに酷くなった。


「ごめん、ごめん、遅くてごめん、私、弱くて、ごめん……」


声は届かない。


でも扉は開いた。


拘束具は外れた。


警備システムは過去の点検記録通りに沈黙した。


逃げられる通路だけが、白い施設の中に一本ずつ浮かび上がっていった。


機関の者たちは、それを奇跡だと思った。


偶然、隔壁制御が壊れた。


偶然、警備システムが落ちた。


偶然、被検体の区画が開いた。


違う。


偶然はない。


全部、ロジーの魔術だった。


全部、記録の再生だった。


最後に実験室へ戻ってきたのは、老研究員だった。


彼は錯乱しながらも歩いてきた。


手には小型の拳銃。


魔術師ではなくても扱える、単純な殺傷武器。


精神は壊れかけていた。


それでも、目的だけは残っていた。


ロジーを殺す。


この災害を止める。


箱庭の娘を保存することは、もう考えていない。


ただ、止める。


「お前が……お前が、全部壊した」


老研究員は実験室の入口に立った。


ロジーは固定台の上で彼を見た。


恐怖で、また涙が溢れた。


銃口。


大人の男。


怒鳴り声。


逃げられない身体。


ロジーの中の幼い部分が、完全に悲鳴を上げた。


「やだ……撃たないで……やだ、やだ、やだぁ……」


老研究員の指が引き金にかかる。


ロジーは目を閉じた。


そして、最後の記録を再生した。


それは、老研究員が初めて殺した魔力生命体の記録ではなかった。


何百体目かの記録でもなかった。


施設の記録でも、器具の記録でも、床の記録でもなかった。


老研究員自身が、ずっと奥に隠していた記録。


幼い頃の彼。


魔術を学び始めたばかりの少年。


怪我をした小さな魔力生命体を助けた記録。


その子は、人間の言葉を知らなかった。


少年は何日もかけて手当てをした。


食べ物を与えた。


眠る場所を作った。


その子が元気になって森へ帰っていく時、少年は泣いた。


「もっと魔術を勉強する」


少年は言った。


「痛いのを治せる人になる」


その記録が、老研究員の中で再生された。


彼は銃を構えたまま、動けなくなった。


自分が何になりたかったのか。


何を失ったのか。


いつ、失ったことにも気づかなくなったのか。


全部、見せられた。


老研究員の手から銃が落ちた。


彼は崩れるように膝をついた。


「私は……」


言葉は続かなかった。


ロジーは泣きながら、彼を見ていた。


「あなた、最初は、助けたかったんだね」


老研究員は口を開けた。


声は出なかった。


それが、彼にとって一番残酷だった。


責められるより。


罰されるより。


殺されるより。


自分が何者だったのかを思い出すことの方が、ずっと耐えられなかった。


施設は沈黙していった。


悲鳴は途切れ途切れになり、警報は壊れた音で鳴り続け、白い廊下には倒れた人間たちが転がっていた。


死んだ者は少なかった。


ロジーは殺していない。


ただ、見せた。


彼らが奪った痛みを。


彼らが記録した恐怖を。


彼らが消した名前を。


彼らが報告書の外へ追いやった絶望を。


実感を伴って返した。


それだけで、機関は壊滅した。


命令系統は崩れた。


研究員は錯乱した。


警備員は動けなくなった。


幹部は自分の記録に潰された。


生き残った者たちは、もう実験室に近づけなかった。


ロジーは固定台の上で、まだ泣いていた。


拘束具のひとつが外れた。


過去の点検記録をなぞって、ロックが解除されたのだ。


震える指で、ロジーは自分の腕を抱いた。


「こわかった……」


誰に言うでもなく、つぶやいた。


「こわかったよぉ……局長……」


頭上のデバイスが、かすかに明滅した。


ロジーの思考補助は限界に近かった。


大量の記録を読み、再生し、他者に体験させた負荷が、彼女の壊れた脳をさらに軋ませていた。


それでも、ロジーは最後の作業をした。


施設内に残された記録の索引化。


被検体の名前。


記録番号。


捕獲場所。


死亡日時。


生存個体の位置。


関与者の氏名。


資金の流れ。


命令書。


削除された映像。


燃やされたノートの内容。


失われたはずの声。


全部を、監理局が読める形に並べ直した。


「残す……」


ロジーは泣きながら言った。


「全部、残す……なかったことに、しない……」


その時、遠くで空間が割れるような音がした。


監理局の転移干渉。


ロジーはびくっと肩を震わせた。


また怖い人が来たのかと思った。


でも、次に響いた足音は違った。


規則正しくて、速くて、迷いがなかった。


職員たちの声。


制圧命令。


救助班の指示。


そして、聞き慣れた声。


「ロジー!」


局長の声だった。


ロジーの顔がぐしゃりと歪んだ。


安心したからではない。


安心するには、怖すぎるものを見すぎていた。


帰れると分かった瞬間、耐えていたものが全部崩れた。


「きょ、局長……私、私、勝手に、惑星観光して、怒られる、怒られるのに、でも、でも、私……」


言葉にならなかった。


ジェレミーが実験室に入ってきた時、ロジーは固定台の上で丸まって泣いていた。


周囲には壊れた研究員たち。


床に落ちた器具。


白い壁に残る記録の残響。


そして、ロジーが並べた膨大な証拠。


ジェレミーは一瞬で状況を見た。


ロジーが何をされたか。


何をされかけたか。


何を見たか。


何をしたか。


そのすべてを、完全には理解できなくても、理解しようとした。


彼は銃を下ろし、固定台へ近づいた。


ロジーは反射的にびくついた。


大人の男の人が近づく。


それだけで、身体が震えた。


ジェレミーはそこで足を止めた。


「ロジー」


声は静かだった。


「私だ」


ロジーは涙でぼやけた目を上げた。


「局長……?」


「そうだ」


「怒る……?」


「後で怒る」


ロジーの口が震えた。


「やだぁ……」


「だが、今ではない」


ジェレミーはゆっくりと手を伸ばし、拘束具を外した。


ロジーは崩れるように身体を起こし、それから自分からジェレミーの服を掴んだ。


強くは掴めなかった。


指に力が入らなかった。


それでも離さなかった。


「私、こわかった……でも、ちゃんと見せた……全部、見せた……あの子たち、いたの……いたのに、記録番号だけで……名前、消されてて……だから、私……」


「分かっている」


「分かってないよぉ……私も分かんないもん……!」


ロジーは泣きながら叫んだ。


「私、弱いのに! 怖いのに! 痛いの嫌なのに! なのに、見ちゃった! 見せちゃった! みんな壊れた! 私が壊した! でも、でも、あの人たち、ずっと壊してた!」


ジェレミーは答えなかった。


簡単な慰めを言わなかった。


よくやったとも、悪くないとも、その場では言わなかった。


ただ、ロジーの背に手を置いた。


ロジーはその手にしがみついた。


施設の外では、監理局職員たちが生存個体を救出していた。


機関の者たちは拘束され、錯乱した者は医療班へ運ばれた。


証拠はすべて押収された。


壊された記録媒体も。


燃やされた紙片も。


空白にされたデータベースも。


そして、ロジーが世界から拾い上げた、消せない記録も。


その日、機関は壊滅した。


監理局の制圧によってではない。


レトの短剣によってでもない。


エルの魔法によってでもない。


泣きじゃくるロジーが、ひとりで壊した。


弱い少女が。


腕力もなく、戦闘能力も低く、脅されただけで泣いてしまう箱庭の娘が。


彼らの積み上げた記録を、彼ら自身に返した。


攻撃性能ではない恐ろしさ。


傷つけるための魔術ではない。


けれど、隠した罪を隠したままにさせない魔術。


痛みも。


恐怖も。


死の瞬間も。


解剖台の冷たさも。


心が壊れていく音も。


全部、記録としてそこにあるなら、ロジーは届いてしまう。


アカシックレコード・オフライン。


世界に残った記録へ接続する秘匿魔術。


それはその日、魔術発展の名を掲げた機関に、最も単純な事実を突きつけた。


なかったことにはできない。


誰も見ていなかった出来事も。


消したはずの映像も。


燃やしたはずの報告書も。


名前を奪った命も。


全部、世界は覚えている。


そしてロジーは、震えながら、泣きながら、その記録を抱えている。


忘れないために。


忘れさせないために。


いつか自分が全部分からなくなるとしても。


この日ここにいた子たちが、ただの材料ではなかったと残すために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の活動場所です! 総合リンクです! TiktokやYouTube、lineスタンプなどの総合リンクになってます!! よかったらみに来てくださいね! 箱庭の娘たちのイラストや動画をAI生成していますっ(*´▽`*) おはなしが気に入ってくださったら、評価やリアクション、ブックマークなどしてくださると、とっても嬉しいです(≧∀≦*)
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ