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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第97話-神性存在名称…『スパンキング』!?

ギャグ時空の神性存在だよ。

神性存在『スパンキング』


――快音災害、監理局襲来


惑星監理局には、神性存在対応用の警報がある。


赤は即時戦闘。

黒は旧世代関連。

白は精神干渉。

青は封鎖処置。

黄は広域避難。


そして、その日。


監理局本部に鳴った警報は、どれでもなかった。


廊下の天井表示に、見慣れない橙色の警告が点滅する。


神性存在反応。

危険度判定中。

被害内容、解析不能。

職員各位、背後に注意。


監理班の職員が端末を見た。


「背後に注意?」


戦闘班長が眉をひそめる。


「奇襲型か」


魔術制御部長が解析画面を睨む。


「反応は局内に侵入しています。ただし殺傷波形なし。熱量なし。毒性なし。精神侵食も……弱い」


副長が薄く笑った。


「弱い精神侵食とは?」


「強いて言えば、羞恥反応を誘発する微弱波形が」


「なるほど」


副長の笑みが、少しだけ深くなった。


「嫌な予感がしますね」


その直後。


監理局のどこかで、あまりにもいい音が響いた。


ぱぁんっ。


乾いていて、澄んでいて、無駄に反響が美しい。


誰かが手を叩いたような音。


だが、その直後に響いた声は、拍手を受けた者の声ではなかった。


「うおっ!?」


戦闘班の近接戦闘員が、訓練室前の廊下で跳ねた。


背後には、金色の光でできた巨大な掌が浮いている。


人間の手に似ている。


だが、肉ではない。


薄い金色の光でできた、平たい掌。


指は五本。

輪郭は妙にくっきりしている。

腕はない。


ただ、手だけが浮いている。


近接戦闘員は振り返り、反射的に短剣を構えた。


「敵性権能!」


金色の掌が、すっと振りかぶる。


近接戦闘員は横へ跳んだ。


回避成功。


だが、その掌は消えた。


次の瞬間、資料室で。


ぱぁんっ。


「きゃっ!?」


監理局書記官が、抱えていた書類束を落としかけた。


背後に、同じ金色の掌。


「資料室に敵性反応!」


廊下の通信が騒がしくなる。


さらに、食堂。


ぱぁんっ。


「わっ!?」


食堂班の職員が、スープ鍋の前で跳ねた。


幸い、鍋はこぼれなかった。


だが職員は顔を真っ赤にして、背後の金色の掌を睨んだ。


「調理中にやることですか!?」


医務室でも鳴った。


ぱぁんっ。


「……患者対応中です」


医療班主任が、静かな声で怒った。


生活区画でも鳴った。


ぱぁんっ。


「今、洗濯物畳んでたんですけど!?」


生活班職員が畳んだばかりのタオルを握りしめる。


情報班でも鳴った。


ぱぁんっ。


「えっ、こっちも!?」


ロジーが椅子から跳ねた。


頭上デバイスが一瞬だけ警告表示を出す。


被害記録:ロジー。

物理損傷:なし。

心理反応:驚愕。

記録意欲:上昇。


ロジーは涙目になりながら叫んだ。


「今の私も撮れてる!?」


情報班主任が即答する。


「そこではありません」


「大事だよ!?」


「大事ですが、そこではありません」


中庭でも鳴った。


ぱぁんっ。


「……ん」


エルが、硝子の小鳥を見ていた姿勢のまま、小さく跳ねた。


白髪のボブの毛先が淡く揺れる。


エルは振り返った。


背後には、金色の掌が浮いている。


エルはしばらくそれを見た。


そして、ぽつりと言った。


「いま、あたし、叩かれた?」


近くにいた生活班職員が、表情を引きつらせたまま答える。


「はい。叩かれました」


「どうして?」


「こちらが聞きたいです」


エルは少し考えた。


「痛くはない」


「それはよかったです」


「でも、びっくりした」


「それは被害です」


エルは頷いた。


「じゃあ、あたしも被害者」


監理局の各所で、次々に快音が鳴った。


ぱぁんっ。


戦闘班廊下。


ぱぁんっ。


資料室。


ぱぁんっ。


食堂裏。


ぱぁんっ。


医務室前。


ぱぁんっ。


生活班の備品倉庫。


ぱぁんっ。


技術班の検査室。


ぱぁんっ。


外務班の受付。


ぱぁんっ。


中庭。


そのたびに、職員や箱庭の娘が跳ねた。


誰も倒れない。


誰も大怪我をしない。


だが全員、確実に不快だった。


監理局中に通信が飛び交う。


「第一封鎖区画、被害あり!」


「資料室、被害一名!」


「食堂、被害二名!」


「医務室、被害一名。医療行為に支障は軽微ですが、精神的には不愉快です」


「技術班、被害三名! うち一名、工具を落としました!」


「外務班、来客対応窓口で発生! 外部客はいません!」


「生活班、洗濯物に被害なし! 職員に被害あり!」


「中庭、エルさんに被害! 身体損傷なし、本人は状況確認中!」


監視室の地図上に、発生地点が次々と赤く点灯する。


それは、特定の一人を追うものではなかった。


監理局全体を、広く、まんべんなく、どうしようもなく腹立たしい精度で襲っていた。


副長が通信卓へ手を置く。


「全館放送。職員各位、落ち着いてください。現在のところ殺傷性は確認されていません。ただし、背後には注意を」


言い終える前に。


副長の背後にも金色の掌が現れた。


ロジーが通信越しに叫ぶ。


『副長、後ろ!』


副長は振り返らず、半歩だけ横へずれた。


金色の掌が空を切る。


「お見事!」


ロジーが叫んだ直後。


ずれた先に、もう一枚の掌が出た。


ぱぁんっ。


副長の笑顔が、完全に静止した。


通信卓周辺が沈黙する。


副長は数秒、何も言わなかった。


そして、非常に穏やかな声で言った。


「……なるほど。これは不愉快ですね」


監理班職員が口元を引き締める。


笑ってはいけない。


絶対に笑ってはいけない。


だが、音が良すぎた。


その頃、戦闘班区画では、レトがようやく異常に気づいて廊下へ飛び出していた。


淡緑の髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしている。


「なに!? 警報!? 神性存在!?」


目の前で、戦闘班職員が叩かれた。


ぱぁんっ。


「くっ」


「職員さん!?」


レトが駆け寄る。


「大丈夫!?」


「損傷はない。だが、不愉快だ」


「不愉快!?」


その瞬間。


レトの背後に、金色の掌が現れた。


職員が叫ぶ。


「レト、後ろ!」


レトは瞬間移動した。


空間が青白くきらめく。


戦闘班単騎遊撃担当としての、見事な回避だった。


だが。


金色の掌も、当然のようにレトの背後へ出た。


ぱぁんっ。


「ひゃああああああああああ!?」


レトが飛び上がった。


顔が真っ赤だった。


涙目だった。


両手で後ろを押さえていた。


「なに!? なに今の!? 誰!? 誰がやったの!?」


戦闘班職員は真顔で言った。


「同じ被害だ」


「同じじゃないよ!? わたし今すごいびっくりした!」


「全員びっくりしている」


「でも今の、すごくわたしに来た!」


次の掌が、別の戦闘班職員を狙う。


ぱぁんっ。


「っ」


その次はレト。


ぱぁんっ。


「ひゃっ!」


その次は廊下の端の重装隊員。


ぱぁんっ。


「……」


その次はまたレト。


ぱぁんっ。


「なんでぇ!?」


通信に、ロジーの声が混ざった。


『解析更新! 被害は全館! ただし戦闘班区画ではレトへの優先順位が高い!』


レトは涙目で叫んだ。


「いらない優先順位!!」


ロジーはすでに頭上デバイスで全館地図を開いていた。


「被害分布出すよ! 監理班四件! 戦闘班十一件! 情報班六件! 資料室五件! 食堂四件! 医療班三件! 生活班五件! 技術班七件! 外務班二件! 中庭二件! エル一件! レト個人、現時点で五件!」


「わたしだけ個人名!?」


エルの通信が入る。


『あたしも個人名』


レトが泣きそうな顔で通信へ叫ぶ。


「エルも!? 大丈夫!?」


『うん。びっくりした』


「びっくりするよね!?」


『うん。これは、やだね』


「やだよね!!」


ロジーのデバイスが、ぴこんと音を鳴らした。


音響解析:極めて良好。

打撃威力:低。

心理被害:高。

尊厳損耗:測定不能。


ロジーは震える声で言った。


「尊厳損耗って何……?」


そこへジェレミー・クリエットが現れた。


長身。

静かな足取り。

冷たいほど落ち着いた表情。


「報告」


副長が通信で即座に言う。


『神性存在です。名称は未確定。掌型権能による局内全域被害が発生。殺傷性は低いですが、複数部署に被害。エルにも一件、被害を確認。個人単位ではレトへの攻撃頻度が高めです』


ジェレミーの視線がレトへ向く。


「レト。損傷は」


レトは涙目で答えた。


「おしりが……びっくりした……」


ジェレミーは一秒だけ沈黙した。


「医療班」


医療班主任が別通信で答える。


『全館被害者の状態確認中。現時点で皮膚損傷なし。打撲なし。筋損傷なし。ただし各部署で精神的衝撃と羞恥反応が確認されています。エルさんも身体損傷なし。本人は被害として認識しています』


ぱぁんっ。


通信の向こうで医療班職員の声がした。


『主任、また一件です』


医療班主任の声が低くなる。


『医療班を叩くのはやめなさい』


ジェレミーは神性存在を見た。


金色の手は、空中でゆらゆらしている。


殺意はない。


敵意も薄い。


だが、監理局全体を攻撃している。


「攻撃理由は」


ロジーがデバイスを高速操作する。


「解析中! 神性存在の核になってる感情は……たぶん、叱る、戒める、反省させる、気合を入れる、怠けるな、背筋を伸ばせ、あと……いい音を聞きたい!」


副長が目を細める。


『最後だけ浮いていますね』


「でも一番強い!」


『最悪ですね』


ロジーのデバイスに、推定名称が表示された。


神性存在:スパンキング


一同が黙った。


レトだけが叫んだ。


「名前ひどい!!」


監理局全域で、返事のように掌が振られた。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


各部署から通信が重なる。


『食堂、また被害!』


『技術班、二名追加!』


『資料室、書類落下なし! 職員の尊厳は落下しました!』


『誰ですか今の報告!』


『生活班、被害一名! タオルは無事です!』


『中庭、硝子の小鳥は無事です! エルさん、二度目は回避!』


『情報班、ロジーさん二度目です!』


「私また!?」


ロジーが跳ねた。


ぱぁんっ。


「ぴゃっ!?」


レトが叫ぶ。


「ロジーも逃げて!」


「逃げながら記録してる!」


「記録しながら逃げないで!」


「それは無理!」


その後、監理局は正式に対応へ移行した。


まず、戦闘班が通常制圧を試みた。


魔術拘束網。


発動。


金色の手が網に包まれる。


捕獲成功。


かと思われた。


次の瞬間、別の掌が技術班の検査室に出た。


ぱぁんっ。


さらに資料室。


ぱぁんっ。


さらに食堂。


ぱぁんっ。


さらに中庭。


ぱぁんっ。


エルは今度は半歩ずれて、回避した。


「二回目は、よけた」


生活班職員が言う。


「お見事です」


さらに戦闘班区画で、レト。


ぱぁんっ。


「増えたぁ!!」


戦闘班長が叫ぶ。


「本体がない! 権能の発生点を叩いても意味がない!」


魔術制御部長が全館結界を張る。


廊下。

食堂。

医務室。

資料室。

技術班検査室。

情報班。

中庭。


各区画に防護結界が展開される。


術式は完璧。


外部からの攻撃は遮断される。


金色の手は結界の外で止まった。


職員たちが一斉に息を吐く。


「止まったか」


「よし」


「助かりましたね」


その数秒後。


結界の内側に、金色の手が発生した。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


「たすかってない!!」


レトが戦闘班区画で叫んだ。


資料室職員も叫んだ。


「こちらも助かっていません!」


食堂班職員も叫んだ。


「厨房内に出ました!」


中庭のエルも通信で言った。


『内側、出るね』


魔術制御部長は額を押さえた。


「対象の背後という概念へ直接発生しています。座標ではなく、関係性を参照している」


ロジーが目を輝かせた。


「つまり“対象の後ろ”という概念そのものに手が出る!」


「ロジー、楽しそうにしないで!」


「ごめん! 研究者としては楽しい! 被害者としては最悪!」


次に、エルが中庭から戦闘班区画へ来た。


白髪のボブの毛先を淡いピンクに揺らしながら、金色の手をじっと見る。


すでに一度叩かれているので、いつもより少しだけ目が真剣だった。


「これ、楽しいの?」


その場にいた職員たちが一斉に言った。


「楽しくありません」


レトも涙目で言った。


「楽しくない!!」


エルは少し考えた。


「じゃあ、なくす?」


その場の空気が凍った。


ジェレミーが短く言う。


「エル」


「うん。聞く」


「消すな。まず確認する」


「分かった」


エルはこくんと頷いた。


副長が通信越しに小さく息を吐く。


『今日のところは、神性存在とエルの即時解決欲を同時に警戒する必要がありますね』


エルは金色の手へ近づいた。


今度は、金色の手がエルの背後に現れた。


「エル、後ろ!」


レトが叫ぶ。


エルは半歩だけずれた。


金色の手は空を切る。


エルはそれを見て、ぽつりと言った。


「これ、あたしも対象」


ロジーが解析結果を表示する。


「たぶん、叱責対象判定と脅威度判定が混ざってる! 仕事中の職員、指揮中の監理班、戦闘態勢の戦闘班、記録中の情報班、調理中の食堂班、観察中のエル、ぜんぶ“今叩くべき対象”にされてる!」


副長が言う。


『極めて迷惑な勤労監視ですね』


「あと、戦闘力や干渉力が高い相手ほど優先順位が上がる! だから戦闘班は多め! エルも対象にはなるけど、エルは行動が少ないから頻度は低め! その中でもレトが個人単位で狙われやすい!」


戦闘班長が眉を上げる。


「レトの戦闘力で判断しているのか?」


「たぶん! 出力、機動力、魔力反応、あと“倒すべき対象”判定!」


「倒す手段がこれなのか?」


「そう!」


「倒せるわけがないだろう」


「本人は倒す気!」


ぱぁんっ。


今度は戦闘班長が叩かれた。


戦闘班長は真顔で言った。


「倒れんな」


ぱぁんっ。


今度はレト。


「倒れないもん!!」


レトが涙目で叫んだ。


「わたし、戦闘班だもん!! こんなので倒れないもん!!」


ぱぁんっ。


資料室。


ぱぁんっ。


食堂。


ぱぁんっ。


ロジー。


ぱぁんっ。


エルが回避。


ぱぁんっ。


レト。


「でもやだぁ!!」


監理局職員たちは、笑ってはいけなかった。


神性存在対応中である。


被害者は全館に広がっている。


副長も被害に遭った。


戦闘班長も被害に遭った。


ロジーも被害に遭った。


エルも被害に遭った。


資料室も食堂も技術班も医療班も生活班も被害に遭っている。


そして、レトが個人単位では妙に多く叩かれている。


全員、本気で不快だった。


笑ってはいけない。


笑ってはいけない。


笑ってはいけない。


だが、音が良すぎる。


しかも監理局のあちこちから鳴る。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


ぱぁんっ。


まるで、最低最悪の打楽器演奏だった。


廊下の端で、重装隊員が肩を震わせた。


隣の近接戦闘員が肘で突く。


「耐えろ」


「無理だ」


「耐えろ。局長がいる」


ジェレミーは真顔だった。


完全な真顔だった。


だからこそ、職員たちはさらに追い詰められた。


副長はいつもの薄い笑みのままだったが、よく見ると目元にだけ限界が来ていた。


ロジーはもう開き直っていた。


「記録名どうする!? 快音災害!? 全館臀部奇襲事案!? 監理局背後注意事件!?」


「ぜんぶだめ!!」


レトが叫ぶ。


「じゃあ“神性存在スパンキング第一次接触記録”!」


「かっこよくしないで!!」


ぱぁんっ。


「ひゃあ!」


エルがぽつりと言った。


「音は、きれい」


その場の被害者たちが、微妙な顔をした。


レトが裏切られた顔をする。


「エルまで!?」


「でも、嫌ならだめ」


「うん!!」


「音だけ、どこかに移せばいい?」


その言葉に、レトがぴたりと止まった。


ロジーも止まった。


副長が目を細める。


ジェレミーが言った。


「全館対応に切り替える」


監理局の空気が変わった。


ジェレミーの声が通信に乗る。


「監理班、全発生地点を統合しろ。情報班、音響反応と出現頻度を記録。技術班、音響封鎖装置を第三封鎖訓練場へ。戦闘班、各区画の掌を誘導。医療班、被害者確認を継続。生活班、非戦闘職員を安全区画へ。食堂、火を止めろ。中庭、エルを単独にするな」


食堂班から即答があった。


『もう止めています!』


中庭の生活班職員も答える。


『エルさん、同行します』


エルが通信で言う。


『あたしも行く』


ジェレミーは短く返した。


「許可する。魔法は使うな。観察と回避に限定しろ」


『うん』


副長が続ける。


『各部署、反響器の設置ポイントを共有します。掌は音に反応しています。全館の被害を、第三封鎖訓練場へ集約してください』


ロジーがデバイスを高速操作する。


「反応地図出す! 掌は叩いた後、自分の音に一瞬だけ注意を向ける! その瞬間に次の音へ誘導できる!」


技術班が叫ぶ。


『即席の音響反射器を配ります! ただし精密な硝子反響器はレトさんの方が速い!』


ジェレミーはレトを見た。


「レト」


レトは涙目のまま、ゆっくり顔を上げた。


「はい」


「作戦を考えろ」


その一言で、レトの目が変わった。


さっきまで泣きべそをかいていた顔に、戦闘班の光が戻る。


「……任務?」


「任務だ」


「わたしが?」


「お前の硝子細工が要る。ただし、囮はお前だけではない。監理局全体で誘導する」


レトは両手を握りしめた。


まだ顔は赤い。


まだ涙目。


でも、背筋が伸びた。


「わかった。わたし、やる」


ぱぁんっ。


「やるけど今のはやだ!!」


緊張感が一瞬で砕けた。


だが、作戦は始まった。


レトは深呼吸した。


青白い硝子質の魔力が、足元に散る。


細い硝子片。


短剣ではない。


音叉のような形。


薄い皿のような形。


小さな半球。


透明な管。


無数の硝子細工が、廊下の空中に浮かんでいく。


ロジーが目を丸くする。


「音響反射器?」


レトは頷いた。


「叩かれるのは嫌だけど、音が好きなら、音を閉じ込める」


副長が感心したように言う。


『なるほど。対象の欲求を餌にする』


ジェレミーは短く言った。


「全館へ配れ」


レトの作った硝子の反響器が、空間魔術で各部署へ送られていく。


資料室へ。


食堂へ。


医務室へ。


生活区画へ。


技術班検査室へ。


情報班へ。


中庭へ。


戦闘班廊下へ。


監理班通信卓へ。


各部署の職員たちは、それを受け取った。


資料室の職員が、震える手で反響器を棚の上に置く。


「これを鳴らせばいいんですね」


ロジーが通信で叫ぶ。


『叩かれた音を拾わせて! 直接鳴らすんじゃなくて、掌に叩かせる!』


「言っていることが最悪です」


食堂班職員は、厨房の入口に反響器を置いた。


「食材への被害は出させません」


医療班主任は、医務室前に反響器を置いた。


「患者区画へは入れません」


技術班は、検査室の床に複数の音響板を並べた。


「反射角、合わせます!」


生活班は、安全区画へ職員を下がらせながら、廊下に反響器を置く。


「洗濯物は守ります!」


中庭では、エルが反響器をじっと見ていた。


「これに、音を入れる」


生活班職員が頷く。


「はい。叩かれた音を、これに吸わせます」


「叩かれたくない」


「その通りです」


「でも、音は必要」


「そうです」


エルは反響器を両手で持った。


「分かった。あたし、逃げる。音は置く」


情報班では、ロジーが自分の背後を警戒しながら叫んだ。


「来た! 来た来た来た!」


ぱぁんっ。


「ぴゃっ! でも取れた!」


ロジーの背後で鳴った音が、レトの硝子反響器へ吸い込まれる。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


音が硝子の中で跳ね返る。


金色の掌が、ぴたりと止まった。


明らかに、そちらを見た。


ロジーが叫ぶ。


「食いついた!」


資料室でも同じことが起きた。


ぱぁんっ。


「きゃっ!」


書記官が跳ねる。


だが、反響器が音を捕まえる。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


金色の掌が、反響器を追う。


食堂でも。


医務室でも。


技術班でも。


生活区画でも。


中庭でも。


エルの背後に掌が現れる。


エルは振り返らず、半歩ずれる。


掌は空を切った。


直後、生活班職員の置いた反響器が、別の部署から流れてきた音を鳴らす。


ぱぁん。


ぱぁん。


金色の掌は、エルではなく反響器へ向いた。


エルは小さく頷く。


「音、勝ってる」


監理局全体で、金色の掌たちが音に釣られ始めた。


レトは戦闘班廊下の中央で、硝子の短剣を一本作った。


斬るためではない。


指揮棒のように掲げる。


「誘導開始!」


廊下に、青白い硝子細工の道ができる。


各部署の反響器が、空間魔術で少しずつ位置をずらされる。


音が流れる。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


それは、監理局全館から第三封鎖訓練場へ向かう、最低最悪の音の川だった。


掌たちは、それを追う。


戦闘班職員を狙っていた掌。


資料室で書記官を叩いた掌。


食堂で調理職員を跳ねさせた掌。


医務室前で主任を怒らせた掌。


技術班の工具を落とさせた掌。


生活班のタオル畳みを邪魔した掌。


情報班でロジーを叩いた掌。


中庭でエルを驚かせた掌。


副長を不愉快にした掌。


そして、レトを個人単位で狙い続けていた掌。


すべてが、音を追って動き始める。


それでも、完全ではない。


ぱぁんっ。


「またこっち!?」


外務班職員が三度目の被害を受けた。


ぱぁんっ。


「私もまた!?」


ロジーも三度目の被害を受けた。


ぱぁんっ。


副長がまた一瞬だけ笑顔を固めた。


ぱぁんっ。


エルが半歩ずれて回避する。


ぱぁんっ。


レトも跳ねた。


「やだ! でも! いける! やだ! でも! いける!!」


ロジーがデバイスに叫ぶ。


「記録! 監理局全館、尊厳損耗を代償に音響誘導作戦を継続!」


副長が通信で言った。


『その文言は報告書に入れません』


「名文なのに!」


「入れません」


最終地点は、第三封鎖訓練場だった。


床には技術班が急造した音響封鎖結界。


天井には魔力残滓回収装置。


壁面には多層防護。


そして中央には、レトが作った巨大な硝子玉。


透明で、青白く光り、内部に無数の反響面を持つ。


ただし、そこへ音を運んだのはレトだけではなかった。


資料室の職員が、反響器を押し出す。


食堂班が、厨房側の掌を誘導する。


医療班が、患者区画から離れるように音をずらす。


技術班が、音響板の角度を合わせる。


生活班が、非戦闘職員を下げながら反響器を渡す。


情報班が、全館の発生点を叫ぶ。


エルが、中庭側の掌を反響器へ誘導する。


戦闘班が、掌の群れを訓練場へ追い込む。


監理班が、全体を統制する。


監理局全体が、ひとつの作戦として動いていた。


レトは硝子玉の前に立った。


最後の中心音を作るために。


金色の手が背後に現れる。


これが最後。


レトは奥歯を噛んだ。


「来るなら来て!」


ぱぁんっ。


最高の音が鳴った。


硝子玉が、その音を丸ごと飲み込む。


内部で反響する。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


音は減衰しない。


硝子の反響面を回り続ける。


神性存在スパンキングの権能は、その音に完全に吸い寄せられた。


全館に散っていた掌が、次々と硝子玉へ向かう。


一枚。


二枚。


三枚。


十枚。


二十枚。


資料室から。


食堂から。


医務室から。


技術班から。


生活区画から。


情報班から。


中庭から。


監理班から。


戦闘班から。


すべてが、訓練場中央の硝子玉へ集まる。


次の瞬間。


硝子玉が閉じた。


内部に、金色の掌たちが封じ込められる。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


内側で、嬉しそうに音が鳴り続ける。


ロジーが両手を上げた。


「捕獲成功!!」


戦闘班が一斉に警戒を解かないまま歓声を上げる。


技術班が座り込む。


食堂班が通信で「火元、異常なし」と報告する。


医療班が被害者リストを更新する。


資料室職員が、落とさずに守りきった書類束を机に置いた。


生活班がタオルの無事を確認した。


監理班職員たちが、ようやく背後から目を離した。


中庭から来たエルは、硝子玉の中の掌を見ていた。


「閉じた」


魔術制御部長が端末を確認する。


「神性存在反応、封鎖結界内で安定。外部への攻撃発生なし」


医療班主任が通信で言った。


『全館被害者の状態確認に入ります。身体損傷は現時点で確認なし。精神的被害は広範囲。エルさんも再確認します』


エルは頷いた。


「あたしも診てもらう」


レトがぱっとエルを見る。


「エル、えらい!」


「被害者だから」


「うん、被害者は診てもらう!」


ロジーが追加する。


「尊厳損耗は甚大!」


副長が即座に言った。


『その分類は採用しません』


レトはふらふらしながら言った。


「わたし……勝った……?」


ジェレミーが近づいた。


「監理局全体で勝った」


レトの目に、ぱっと光が戻る。


「みんなで?」


「そうだ」


「わたし、倒されなかった?」


「倒されなかった」


「職員さんたちも?」


「倒されていない」


「ロジーも?」


「倒されていない」


「エルも?」


ジェレミーはエルを見る。


エルは小さく頷いた。


「あたしも、倒れてない」


レトは涙目のまま、胸を張った。


「じゃあ、みんなのおしり、守りきったね」


沈黙。


監理局全体が、沈黙した。


副長が、とうとう横を向いた。


肩が震えていた。


ロジーは床に膝をついた。


「だめ……記録者として……笑っちゃだめなのに……」


エルはぱちぱち拍手した。


「みんなのおしり、えらい」


「エル!!」


ジェレミーは目を閉じた。


たぶん、何かを耐えていた。


数秒後、ジェレミーはいつもの無表情で言った。


「医療班。被害者全員を確認しろ。エルも含める。副長、報告書を作成。ロジー、映像記録は公開制限」


ロジーが跳ね起きる。


「えっ、永久保存は!?」


「保存は許可する。公開は制限だ」


「やった! 永久保存!」


全館通信で複数の職員が叫んだ。


『公開しないでください!』


『絶対にです!』


『資料室分は特に!』


『食堂分もです!』


『医療班もです!』


レトも叫んだ。


「わたしのも!!」


エルも小さく手を挙げた。


「あたしのも、公開しないで」


ロジーは胸を張った。


「公開はしない! でも記録は残す!」


副長はようやく表情を整えた。


「報告書名はいかがいたしますか」


ジェレミーは硝子玉の中で鳴り続ける快音を見た。


ぱぁん。


ぱぁん。


ぱぁん。


しばらく考えて、言った。


「神性存在スパンキング封鎖事案」


「そのままですね」


「他に書きようがない」


副長は薄く笑った。


「被害欄は?」


ジェレミーは答えた。


「身体損傷なし」


「精神的被害は」


「全館規模」


「エルは」


「被害あり。身体損傷なし。本人が被害として認識」


「レトは」


「個人被害頻度、高」


「尊厳損耗は?」


「書くな」


副長は頷いた。


「承知しました」


その後、神性存在スパンキングは、音響封鎖硝子玉ごと特殊収容庫へ移された。


分類は、危険度中。


殺傷性は低い。


無害ではない。


接触禁止。


全館被害型。


背後発生型。


快音執着型。


特に勤務中の職員、戦闘班員、箱庭の娘たち、そしてレトへの接近は厳禁。


収容庫の扉には、後日、技術班が札を貼った。


神性存在『スパンキング』収容中。

不用意に近づかないこと。

叩かれた場合、笑わず医療班へ。


その下に、ロジーが勝手に小さく書き足した。


音は最高。


さらにその下。


レトが真っ赤な顔で、震える字を書き足した。


さいあく!!


その横に、副長が小さく書き足した。


同意します。


ロジーがそれを見て叫んだ。


「副長も書いてる!」


副長は穏やかに答えた。


「被害者ですので」


その下に、資料室職員が書いた。


書類は無事でした。


食堂班が書いた。


鍋も無事でした。


医療班主任が書いた。


医療行為中の接触は禁止。


生活班が書いた。


洗濯物も守りました。


エルが少し考えて、書き足した。


びっくりした。


そして最後に、エルはもう一行、小さな丸文字で書いた。


みんな、勝った。


それを見たレトは、少しだけ黙った。


それから、むうっと頬を膨らませながらも、ほんの少しだけ胸を張った。


「……うん。みんなで勝ったもん」


その日以降。


監理局では、誰かが良い音を立てて書類束を机に置くだけで、あちこちの職員がびくっと振り向くようになった。


資料室でも。


食堂でも。


医務室でも。


技術班でも。


生活区画でも。


情報班でも。


中庭でも。


戦闘班でも。


レトは特に大きく振り向いた。


ロジーはそのたびに記録しようとした。


副長はそのたびに止めた。


ただし副長自身も、背後で似た音が鳴ると一瞬だけ笑顔が硬くなるようになった。


エルも、硝子の小鳥がちりんと大きめに鳴ると、少しだけ後ろを見るようになった。


そして、毎回ぽつりと言う。


「だいじょうぶ。手じゃない」


ジェレミーは、何も言わずにレトの頭を一度だけ撫でた。


それから、近くにいた被害職員たちにも短く言った。


「全員、よく対応した」


監理局職員たちは、少しだけ背筋を伸ばした。


エルも、小さく頷いた。


レトは顔を赤くしたまま、小さく呟いた。


「……おしりじゃなくて、頭がいい」


そして監理局の職員たちは全員、今度こそ本当に笑わないように必死で耐えた。



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