第93話-幸せに向かう種
無名の箱庭の娘に、イラストをつけたよ!
見てね!
花畑の惑星は、監理局の管理下に置かれた。
地図には載らない。
航路にも表示されない。
外部通信網からは切り離され、民間船の接近は禁止され、軌道上には調査班の観測艇が静かに浮かんでいる。
古びた小屋の周囲には、何重もの封鎖結界が張られた。
地下施設は、まだ開かれている。
だが、そこへ降りる者は限られていた。
調査班。
魔術制御部。
医療班。
情報班。
精神保護室。
倫理監査。
そして、局長権限で許可された記録共有対象として、三人。
レト。
ロジー。
エル。
ただし、三人に共有されるのは、現地調査の記録だけだった。
地下施設の古い映像記録ではない。
少女が傷つけられていく映像ではない。
研究者たちの声でもない。
解剖記録でもない。
それらは、今も封鎖されている。
ロジーは、それを見ないと約束した。
見ようと思えば、見えるかもしれない。
復旧済みの記録に触れる方法。
残った断片を辿る方法。
アカシックレコード・オフラインで、過去の記録そのものへ届く可能性。
ロジーには、道がある。
だからこそ、見ない。
その代わりに、ロジーは調査協力をすることになった。
「私は、見ない」
情報班の解析室で、ロジーは自分に言い聞かせるように言った。
頭上のデバイスは、記録モードではなく、解析補助モードになっている。
表示されているのは、現地の魔力波形。
環境測定値。
花畑の空気成分。
地中魔力流。
花粉に付着した微弱な魔力反応。
しなびた花から検出された残存波形。
映像記録はない。
少女の苦痛は映らない。
それでも、ロジーの手は少し震えていた。
情報班主任が隣に立っている。
「ロジー、無理はしなくていい」
「無理じゃない」
ロジーは即答した。
それから少し黙って、言い直した。
「無理じゃない、って言い切ると嘘っぽいね。ちょっと無理。でも、できる」
「見る必要はない」
「うん。見ない」
ロジーは端末を見つめた。
「だから、こっちを見る。今あるもの。現地の記録。花畑の反応。あの花の波形。見ていいものを、ちゃんと見る」
レトは、解析室の椅子に座っていた。
いつもなら、身を乗り出して画面を覗き込む。
でも今日は、少しだけおとなしい。
膝の上で両手を握っている。
「ロジー、だいじょうぶ?」
「うん」
ロジーは振り向いて、わざと明るく笑った。
「私、見ない天才になる」
レトは涙目のまま、こくんと頷いた。
「ロジー、えらい」
「えへへ。もっと言って」
「えらい。すごい。がんばってる」
「よし、効いた」
ロジーのデバイスが少しだけ明るくなる。
エルは、部屋の隅で静かに立っていた。
画面ではなく、現地から送られてくる花畑の立体投影を見ている。
白い花。
淡い紫の花。
薄い黄色の花。
風に揺れる草。
綿毛。
エルは、ぽつりと言った。
「花畑の声を聞いて」
解析室の空気が止まった。
ロジーが瞬きする。
「声……?」
レトも首を傾げる。
「お花、喋るの?」
エルは少し考えた。
「喋る、とは違うかも」
魔術制御部長が端末を操作しながら聞いた。
「エルさん。具体的に、何を聞けばいいですか」
エルは花畑の投影を見つめた。
「あの花だけじゃない。花畑も、残ってる。あの子がいたところ。あの子を渡したところ。あの子が戻りたかったところ」
「花畑そのものに、情報が残っている可能性ですか」
「うん」
エルは頷いた。
「声がある。たぶん、すごく小さい。人間の耳じゃない。魔術の音でもない。でも、同じ形で揺れてる」
ロジーの目が変わった。
記録者の目だった。
ただし、いつものような暴走ではない。
許された範囲の中で、最大限に掘る目。
「波形?」
エルはロジーを見る。
「たぶん」
「繰り返し?」
「たぶん」
「意味がある?」
エルは少しだけ間を置いて、頷いた。
「あると思う」
ロジーは椅子から立ち上がった。
「職員さん!」
情報班主任がすでに端末を開いている。
「現地調査班へ追加測定指示を出します」
「花畑全域の魔力波形! 風速、花粉密度、地中魔力流、花の開閉、綿毛の飛ぶ方向、日照変化、全部同期して取って!」
魔術制御部長も頷く。
「花畑を一つの環境魔力生命体、または群体反応として仮分類。非侵襲測定に限定。採取はしない」
医療班主任が言う。
「しなびた花との比較も必要です」
ロジーは両手を広げた。
「そう! でも触らない! 切らない! 取らない! 全部、見るだけ! 聞くだけ! お花に嫌なことしない!」
レトは真剣に頷いた。
「お花にやさしく!」
エルも頷く。
「うん。やさしく」
その日から、調査の方向が変わった。
地下施設の解析だけではなく、花畑そのものの測定が始まった。
調査班は、ありとあらゆる可能性を考えた。
花の魔力波形。
草の根を通る微弱な魔力流。
花粉に含まれる情報片。
風に乗る魔力粒子。
綿毛の飛行経路。
日照に伴う反応変化。
夜間の花弁開閉。
しなびた花との共鳴。
地下施設に残る遮断術式との干渉痕。
花畑に測定器を刺すことは許可されなかった。
花を摘むことも禁止。
花粉の強制採取も禁止。
そのため、調査班は花畑の外周に非接触型の観測器を並べた。
低空に浮く魔力センサー。
風の流れを乱さない透明な測定膜。
地表に触れない微弱波形受信器。
光を当てるのではなく、自然光の反射だけを拾う観測眼。
調査班の職員が現地通信で言った。
『波形取得開始。花畑全域、反応は極めて微弱です』
解析室の画面に、細い線が流れ始めた。
ざあ、とノイズが走る。
一定しない揺れ。
風。
環境魔力。
花粉の散乱。
地表の微弱な魔力変動。
最初は、ただのノイズに見えた。
ロジーは画面に張り付くように見ていた。
レトは横で息を潜めている。
エルは、目を閉じていた。
「これ」
エルが言った。
「どれ!?」
ロジーがすぐに反応する。
「この揺れ」
「揺れいっぱいある!」
「奥の、小さいの」
ロジーは波形を拡大した。
ノイズの中に、ほんの小さな反復があった。
規則性があるようにも見える。
でも、あまりにも弱い。
普通なら誤差として捨てられる。
情報班主任が言う。
「フィルタリングします」
「待って!」
ロジーが叫んだ。
「消さないで! ノイズ除去したら、たぶん一緒に消える!」
情報班主任の手が止まる。
ロジーはデバイスを展開した。
複数の小窓が空中に並ぶ。
「ノイズを消すんじゃなくて、ノイズごと揃える! 環境ノイズは環境ノイズとして残して、その中で同じ形を探す! 花畑が大声で喋ってるんじゃなくて、風の中で囁いてる感じ!」
魔術制御部長が頷く。
「時系列同期。風速、花弁開閉、地中魔力流と重ねます」
画面が切り替わる。
大量の線。
数値。
揺れ。
反復。
ロジーは夢中で見ていた。
けれど、危ない記録には触れていない。
少女が傷ついた映像ではなく、今の花畑の声を見ている。
それが、ロジーを支えていた。
「これ……」
ロジーの声が変わる。
「パターンある」
情報班主任が顔を上げる。
「確認できますか」
「うん。これ、ランダムじゃない。すごく遅いけど、繰り返してる。しかも、花畑の場所ごとに少し違う。中心部から外へ、外から中心へ戻ってる」
レトが身を乗り出す。
「喋ってるの?」
ロジーは目を輝かせた。
「分かんない。でも、ただの魔力反応じゃない。これは……」
デバイスが、ぴこん、と音を鳴らした。
ロジーは叫んだ。
「独自言語!?」
解析室にいた職員たちが一斉に顔を上げた。
ロジーは止まらなかった。
「独自言語か、環境信号か、群体通信か、魔力生命体の反応体系か、どれか! でも意味がある! 絶対ある!」
レトが両手を握った。
「お花、喋ってる!」
「まだ断定できません」
情報班主任が冷静に言う。
ロジーは勢いよく頷いた。
「断定しない! でも仮説としては立てる! 職員さん、他にも話させてみて!」
現地通信の向こうで、調査班員が少し困った声を出した。
『話させる、とは』
「話しかけてみて!」
『花畑にですか』
「そう! 声じゃなくてもいい! 魔力波形でも、光でも、風でも、足音でもいい! でも乱暴にしないで! 挨拶して! やさしく!」
レトも横から叫んだ。
「やさしくお願いします!」
エルは、静かに言った。
「あの子のこと、聞いて」
現地の調査班員たちは、一瞬黙った。
それから、通信の向こうで、班長が答えた。
『了解。非侵襲対話試験に移行します』
花畑の中央に、調査班員が一人立った。
防護服ではなく、軽い調査装備。
武器は持っていない。
手には小型の波形送信器だけ。
その職員は、少しぎこちなく花畑へ向かって頭を下げた。
『惑星監理局調査班です』
解析室で、レトが息を止める。
ロジーは波形を見つめる。
エルは目を閉じた。
現地の職員は続けた。
『あなたたちに危害を加える意思はありません。調べるために来ています。嫌なことはしません』
花畑は揺れた。
風が吹いた。
最初は、何も変わらないように見えた。
しかし、波形画面の中で、微弱な反応が返った。
ロジーが机を叩いた。
「返った!!」
情報班主任がすぐに記録する。
「反応あり。対話試験一、挨拶後に波形変化」
ロジーは興奮で椅子から半分浮いていた。
「もっと! 他にも! 職員さん、次! 次は名前じゃなくて、状態確認!」
現地の職員が、少し戸惑いながら言う。
『あなたたちは、苦しいですか』
波形が揺れる。
短い反応。
ロジーは目を細める。
「今の、さっきと違う。肯定か否定かは分かんない。でも違う反応!」
魔術制御部長が言う。
「質問種別を変えます」
現地の職員が続ける。
『あの花を知っていますか』
花畑が、一斉に揺れた。
風の方向が変わる。
綿毛が、ふわりと浮いた。
波形が大きく乱れた。
解析室の全員が、画面を見た。
ロジーのデバイスが警告音を鳴らしかける。
ロジーが慌てて止めた。
「これ、反応強い。あの花に関係ある。絶対ある」
エルが小さく言った。
「花畑、覚えてる」
レトの目から涙が落ちた。
「お花畑も、あの子のこと覚えてるの?」
エルは頷いた。
「うん」
ロジーは端末に高速でタグを付けていく。
「波形A、挨拶反応。波形B、状態確認反応。波形C、あの花への強反応。職員さん、もっと波形取って! 同じ質問を言い方変えて! 日中と夕方と夜で! 風がある時とない時で! 花畑の中心と外側で! 解析する!!」
数日間、花畑との対話試験が続いた。
三人には、毎回、許可された範囲の記録だけが共有された。
ロジーは解析に没頭した。
ただし、危険な映像には触れない。
古い研究記録にも触れない。
見たい衝動が来るたびに、情報班主任がそばにいた。
「ロジー」
「見ない!」
「まだ何も言っていません」
「言われる前に言った!」
「よろしい」
レトは、解析室に小さな応援札を作った。
お花にやさしく調査中
ロジーえらい
エルもえらい
職員さんありがとう
副長がそれを見て、静かに許可した。
「士気維持に有効です」
レトは少しだけ胸を張った。
エルは、解析の間、ほとんど喋らなかった。
けれど、花畑の波形が出るたびに、少しだけ反応した。
「あれ、違う」
「そこ、同じ」
「今の、待ってって言ってるかも」
「それ、怖がってない」
「これ、あの花の形に似てる」
エルの感覚は、数値ではなかった。
人間の魔術理論とも違う。
けれど、その曖昧な言葉を、ロジーが拾い、情報班が整理し、魔術制御部が検証し、調査班が現地で確認していった。
曖昧さは、捨てられなかった。
言葉にならないものを、言葉にする作業だった。
数日後。
最初のパターンが翻訳された。
解析室には、関係者だけが集まっていた。
ジェレミー。
副長。
情報班主任。
魔術制御部長。
調査班長。
医療班主任。
精神保護室長。
そして、三人。
ロジーの目は赤かった。
寝不足ではない。
泣いたわけでもない。
集中しすぎたせいだった。
それでも、デバイスは安定している。
ロジーは、震える声で言った。
「完全翻訳じゃないよ。まだ、すごく粗い。文法も分かってない。単語か、感情か、指向性かも曖昧。でも……最初のパターン。花畑が、何度も返してきた反応」
画面に、波形が表示された。
細い線。
揺れ。
繰り返し。
その下に、ロジーが付けた仮翻訳が出る。
ロジーは、声に出した。
「花、もどして」
誰も、動かなかった。
レトの口元が震える。
エルは、画面をじっと見た。
ロジーは続けた。
「これ、たぶん命令じゃない。お願い。呼びかけ。要求。祈り。全部混ざってる。花畑が、ずっと言ってた」
情報班主任が静かに補足する。
「同一パターンは、しなびた花に関する質問時、現地地下施設方向への測定時、花畑中心部での夜間測定時に最も強く出ています」
魔術制御部長が言う。
「花畑全域に分散した魔力反応が、このパターンを繰り返している。群体反応の可能性が高い」
レトは、涙をこぼした。
「ずっと、言ってたの……?」
エルは小さく答えた。
「うん」
「花、もどしてって」
「うん」
ロジーは俯いた。
「私たち、やっと聞こえた」
ジェレミーは、しばらく画面を見ていた。
それから、短く言った。
「現地へ運ぶ」
会議室の空気が変わる。
副長が確認する。
「しなびた花を、花畑へ?」
「そうだ」
医療班主任がすぐに言う。
「移送時の負荷管理が必要です。現地保全状態を崩す可能性があります」
魔術制御部長も続ける。
「花畑へ戻した瞬間、反応がどう出るか不明です。再生、崩壊、拡散、魔力暴走、どれもあり得ます」
倫理監査主任が通信越しに言った。
『扱いは残存生命反応です。本人の意思確認が不可能な以上、花畑側の明確な要求と、残存反応の維持困難性を根拠に移送を承認できます。ただし、解析目的ではなく、返還目的であることを明記してください』
ジェレミーは頷いた。
「返還だ」
エルが顔を上げる。
「ジェレミー」
「何だ」
「あたし、行く」
「条件付きで許可する」
レトが勢いよく手を上げる。
「わたしも!」
ジェレミーはレトを見る。
「同行を許可する。ただし、地下施設には近づかない。現地で勝手に動かない」
「はい!」
ロジーも手を上げた。
「私も! 記録は……」
そこで、ロジーは自分で止まった。
ジェレミーが言う。
「記録者としてではなく、解析協力者として同行を許可する」
ロジーは、少しだけ笑った。
「うん。分かった」
エルは、小さく言った。
「魔法、使わない」
ジェレミーは頷く。
「原則禁止。緊急時も私の承認を待て」
「うん」
*
返還の日。
花畑は、静かだった。
空は薄い青。
雲は小さく、風は柔らかい。
三人は、調査班の職員たちと一緒に、花畑の外周に立った。
レトは両手を胸の前で握っている。
ロジーはデバイスの記録機能を切っていた。
代わりに、波形監視だけを開いている。
エルは、花畑を見つめていた。
ジェレミーは、その少し後ろに立っている。
副長。
精神保護室長。
医療班主任。
魔術制御部長。
調査班長。
全員がいる。
しなびた花は、小さな保全ケースに入れられていた。
透明なケース。
中には、乾きかけた一輪の花。
枯れていない。
でも、生きていると呼ぶには、あまりにも弱い。
調査班長が、慎重にケースを運ぶ。
一歩ずつ。
花畑の中心へ。
レトの喉が、小さく鳴った。
「お花畑、待ってる?」
ロジーは波形を見た。
「反応、出てる。すごく静かだけど、強い」
エルが言う。
「待ってる」
調査班長は花畑の中央で立ち止まった。
そこは、映像の中で少女が座っていた場所に近い。
花びらと綿毛に囲まれて笑っていた、小さな娘の場所。
ジェレミーが言った。
「開封」
医療班主任と魔術制御部長が同時に監視値を確認する。
「環境安定」
「魔力波形、上昇なし」
「花畑側反応、継続」
調査班長が、保全ケースを開いた。
風が入る。
しなびた花が、わずかに揺れた。
その瞬間。
花畑全体が、ざわりと揺れた。
風が吹いたのではない。
花々が、同じ方向を向いた。
白い花。
淡い紫の花。
薄い黄色の花。
すべてが、しなびた花へ向かって、ほんの少し傾いた。
ロジーのデバイスが、震えるように光った。
「波形、全部同期してる……!」
レトは泣きそうな顔で花畑を見ていた。
「おかえりって言ってる?」
ロジーは答えようとして、止まった。
勝手に訳さない。
今は、分からないことを分からないままにする。
エルが小さく言った。
「まだ」
調査班長は、しなびた花をそっと地面へ置いた。
土の上。
少女がいた花畑の中。
花が、花畑へ戻った。
その瞬間。
しなびた花は、光った。
強い光ではない。
青でも赤でもない。
花びらの奥から、淡く、やわらかい光がにじむ。
魔術制御部長が声を上げる。
「反応上昇。ただし暴走ではありません。花畑側と同期しています」
医療班主任が続ける。
「構造崩壊が始まっています」
レトが息を呑む。
「崩壊……?」
しなびた花の花びらが、ほどけていく。
乾いた欠片が落ちるのではない。
灰になるのでもない。
塵のように、細かく、光を含んだ粒になっていく。
茎も、花びらも、葉も。
小さな花の形が、少しずつ消えていく。
レトが一歩踏み出しかけた。
ジェレミーが静かに言う。
「止まれ」
レトは止まった。
涙がこぼれる。
「消えちゃう……」
エルは、じっと見ていた。
目を逸らさない。
魔法も使わない。
ロジーは波形を見て、泣きそうな声で言った。
「違う。たぶん、ただ消えてるんじゃない」
しなびた花は、塵になっていく。
でも、その塵は風に流されなかった。
地面へ落ちた。
土に触れた瞬間、光が土の中へ染み込んでいく。
花畑の根が、微かに反応した。
地中魔力流が変わる。
花畑全域の波形が、深く揺れた。
エルが、小さく言った。
「種になった……」
その言葉に、全員が動きを止めた。
「種?」
レトが涙声で聞く。
エルは頷いた。
「うん」
「お花、種になったの?」
「花だけじゃない」
エルは、土の上を見つめていた。
もう、しなびた花の形はほとんど残っていない。
光を含んだ塵が、土に溶けている。
そこに、目に見えないほど小さな反応があった。
花畑と同じで、でも少し違う。
あのしなびた花と同じで、でももっと新しい。
エルは胸元に手を置いた。
「あの子の、残ってたもの。花畑に戻った。花畑が受け取った」
ロジーのデバイスが、波形を表示する。
さっきまで繰り返されていたパターン。
花、もどして
それが、ゆっくり変わっていく。
ロジーは息を止めた。
「パターン変化……」
情報班主任が聞く。
「翻訳できますか」
「まだ。今は無理」
ロジーは涙を拭った。
「でも、さっきのとは違う。お願いじゃない。呼びかけでもない。もっと……」
言葉を探す。
「寝る前の、返事みたいな」
レトはしゃがみ込みそうになって、でも触らなかった。
約束を守る。
「おやすみ?」
ロジーは小さく頷いた。
「たぶん。たぶん、そんな感じ」
エルは、土を見つめたまま言った。
「きっとこの先、あの子はまた生まれ変わる」
ジェレミーは、すぐには何も言わなかった。
エルの言葉が、希望で事実を曲げていないかを見ていた。
エルは続けた。
「同じ子として戻るかは、分からない。記憶があるかも、分からない。声が同じかも、分からない。あの子が、それを望むかも、まだ分からない」
そこで、エルは少しだけ涙を落とした。
「でも、終わりじゃない」
花畑が揺れた。
風が吹く。
綿毛が舞う。
まるで、あの日の映像と同じように。
エルは言った。
「花みたいに咲く」
レトは泣きながら頷いた。
「うん」
ロジーも、デバイスを押さえながら頷いた。
「咲く。きっと」
ジェレミーは、花畑の中央を見ていた。
そこにはもう、しなびた花はない。
遺品もない。
標本もない。
検体もない。
土に戻った。
花畑へ戻った。
残っていたものが、残るべき場所へ返された。
調査班長が静かに報告する。
「返還完了。しなびた花、形状消失。地中魔力反応へ移行」
魔術制御部長が続ける。
「花畑全域の波形、安定化。繰り返しパターン低下。新規反応、中心部地下に微弱発生」
医療班主任が言う。
「生命反応とはまだ断定できません。ただ、残存反応は消失ではなく、環境内へ移行したと見るべきです」
副長は、静かにジェレミーを見た。
「局長」
ジェレミーは頷いた。
「記録分類を変更する」
情報班主任が端末を構える。
ジェレミーは言った。
「未命名箱庭個体・花残存反応。状態、返還完了。以後、花畑中心部を保護観察対象とする。採取禁止。掘削禁止。刺激試験禁止。対話試験は花畑側反応が安定するまで停止」
「はい」
「この場所を研究施設にするな」
調査班長が頷く。
「了解」
「観測は続ける。ただし、待つことを基本にしろ」
副長が、少しだけ目を細めた。
「待つこと、ですか」
「ああ」
ジェレミーは、花畑を見る。
「相手が花なら、こちらの時間で急かすな」
エルが、ジェレミーを見た。
その言葉を、ゆっくり受け取った。
「待つ」
「ああ」
「咲くまで?」
「咲くならな」
エルは頷いた。
「うん」
レトは涙を拭きながら、小さな声で言った。
「ねえ、お兄さん」
「何だ」
「ここ、怖い場所じゃなくなる?」
ジェレミーは少しだけ黙った。
花畑は美しい。
けれど、地下にはまだ、あの施設がある。
消えたわけではない。
なかったことにはならない。
あの子が苦しんだ事実は、ここにある。
それでも、いま花は戻った。
ジェレミーは言った。
「怖いことがあった場所だ」
レトは頷いた。
「うん」
「だが、それだけの場所にはしない」
レトの瞳が揺れた。
「うん」
ロジーが小さく言った。
「記録も、そうする」
ジェレミーがロジーを見る。
ロジーは、真剣な顔だった。
「怖い記録だけにしない。あの子が花畑にいたこと。花畑が呼んでたこと。花が戻ったこと。種になったこと。全部、書ける範囲で、ちゃんと残す」
「許可範囲内でな」
「うん。約束する」
ロジーはデバイスを軽く押さえた。
「見ない約束も、守る」
情報班主任が少しだけ表情を和らげた。
「えらいですよ、ロジー」
「もっと言って」
「とてもえらいです」
ロジーは泣き笑いみたいな顔をした。
「効く」
エルは、花畑の中央へ向かって一歩だけ近づいた。
ジェレミーが止めようとしたが、エルはすぐに振り返った。
「触らない」
「ならいい」
エルは、土の上に手を伸ばさず、ただ見つめた。
「あたし、待つね」
花畑が揺れた。
返事かどうかは分からない。
風かもしれない。
ただの自然な揺れかもしれない。
でも、ロジーのデバイスには、小さな波形が出ていた。
新しいパターン。
まだ翻訳できない。
意味は分からない。
けれど、それはもう、悲鳴のような反復ではなかった。
レトは、そっとエルの手を握った。
ロジーも、反対側から手を握る。
三人は、花畑の中で並んで立った。
前に来た時は、目的を忘れてはしゃいだ。
花畑を、ただ綺麗な場所だと思った。
その下に何があるのか知らなかった。
今は知っている。
全部ではない。
残酷な記録のすべてを知っているわけではない。
それでも、ここにいた子のことを知った。
花を持って笑っていた子。
花畑に戻りたかった子。
名前の分からない、箱庭の娘。
エルは小さく言った。
「あの子、いた」
レトが答える。
「いた」
ロジーも答える。
「いた」
花畑が、風に揺れる。
白い花。
淡い紫の花。
薄い黄色の花。
その中央の土の下で、微弱な反応が静かに眠っている。
咲くかどうかは、まだ分からない。
いつ咲くのかも、分からない。
同じ姿になるのかも、違う花になるのかも、何も分からない。
でも、終わってはいない。
ジェレミーは、三人の背中を見ていた。
小さな背中。
守らなければならないもの。
待たなければならないもの。
勝手に決めてはいけないもの。
副長が隣に立つ。
「局長」
「何だ」
「この惑星の長期保護計画が必要ですね」
「ああ」
「花畑の保全、地下施設の封鎖、波形観測、三名への段階的共有、すべて組み直します」
「しろ」
「名称はどうしますか」
ジェレミーは少しだけ黙った。
勝手に名前をつけない。
それは変わらない。
だが、管理上の呼称は必要になる。
ジェレミーは花畑を見た。
「未命名花畑保護区」
副長は頷いた。
「了解しました」
遠くで、綿毛が舞った。
レトがそれを見上げる。
「エル、見て。綿毛」
エルは見上げた。
「うん」
ロジーが少しだけ笑う。
「飛んでる」
綿毛は空へ上がり、風に乗って遠くへ運ばれていく。
どこへ落ちるのか、誰にも分からない。
でも、落ちた先で、何かが始まるかもしれない。
エルは、涙の残った顔で、ほんの少しだけ笑った。
「あの子も、いつか」
レトが頷く。
「うん」
ロジーも頷く。
「咲く」
三人は、その言葉を大事にするように、静かに花畑を見ていた。
そして、花畑は揺れ続けた。
もう、花を戻してとは言わなかった。
戻ったから。
今はただ、土の中で眠る小さな種を、花畑全体で抱えている。
いつか咲く日まで。
誰かが勝手に掘り返さないように。
誰かが検体と呼ばないように。
誰かが忘れないように。
監理局は、その場所を守ることにした。
待つために。
咲くかもしれない未来を、壊さないために。




