第92話-枯れない花は、まだ終わらない
後日。
エルは、また局長室の前に立っていた。
前と同じ扉。
前と同じ廊下。
前と同じ、局長室の静かな気配。
けれど、エルの中は前とは違っていた。
前は、見なければいけないと思っていた。
覚えなければいけないと思っていた。
あの子が死んだことを、創造者として、箱庭の娘たちの一人として、硝子玉の宇宙を創った旧世代として、背負わなければいけないと思っていた。
でも、今は少し違う。
胸の奥にあるのは、罪悪感だけではなかった。
もっと小さくて、もっと奇妙な感覚。
引っかかり。
違和感。
花畑の映像を見た日から、ずっと残っていた。
花。
あの子が握っていた、一輪の花。
しなびているのに、枯れない花。
エルは扉を叩いた。
こん。
中から声がする。
「入れ」
エルは扉を開けた。
ジェレミーは机の前にいた。
書類を読んでいる。
端末には通常案件の一覧。
花畑の惑星の記録は見えない。
エルが入ってくると、ジェレミーはすぐに顔を上げた。
「エル」
「ジェレミー」
エルは扉を閉めた。
今日は、レトもロジーもいない。
廊下にもいない。
エルはそれを確認してから、部屋の中央まで歩いた。
「ジェレミー」
「何だ」
「やっぱり全部見る」
ジェレミーの表情は変わらなかった。
だが、空気が止まった。
「駄目だと言ったはずだ」
「うん」
「なら答えは同じだ」
「聞いて」
「駄目だ」
エルは一歩前に出た。
「あたしだけ」
「駄目だ」
「レトとロジーは内緒」
「なおさら駄目だ」
ジェレミーの声は、静かだった。
けれど、そこには明確な線があった。
エルは唇を閉じた。
それでも引かなかった。
「あたし、見たいから言ってない」
「それでも駄目だ」
「聞いてっ……!」
その声は、いつものエルらしくなかった。
強いけれど、泣きそうで。
淡々としているけれど、必死だった。
ジェレミーは黙った。
エルは胸元をぎゅっと握った。
「なんか、へん」
その言葉に、ジェレミーの目がわずかに細くなった。
「何がだ」
「花」
「花」
「あの子が持ってた花。残ってるでしょ、まだ」
「現地に保全している」
「枯れてない」
「ああ」
「死んでない」
ジェレミーは答えなかった。
エルは続けた。
「全部、死んでない」
局長室の空気が変わった。
それは、感情の話ではなかった。
エルが、悲しさに耐えられずに希望を作ろうとしているだけなら、ジェレミーは止めた。
だが今のエルの声は違った。
ふわふわした願いではない。
旧世代の感覚で、何かを見ている声だった。
エルは言った。
「あの子は死んだ。身体は死んだ。映像の中では、たぶん死んだ。でも、花が残ってる。しなびてるのに、枯れない。魔力反応もある」
「それは残留魔力の可能性がある」
「うん」
「執着物に魔力が残る例はある」
「うん」
「死者の持ち物が、主の魔力を留めることもある」
「うん」
エルは全部頷いた。
そのうえで、首を横に振った。
「でも、へん」
ジェレミーは椅子から立ち上がった。
「説明しろ」
エルは少し考えた。
人間の言葉にしようとしている。
いつものように、言葉を探している。
「あの花、残り方が違う」
「どう違う」
「置いてあるだけじゃない」
エルは自分の胸元に手を当てた。
「呼んでる」
ジェレミーの表情が、初めてわずかに変わった。
「誰を」
「あたしじゃない」
「なら誰だ」
「花畑」
エルは言った。
「あの花、花畑を呼んでる。あの子を呼んでる。あの子も、花畑を呼んでる。ぜんぶ切れてない」
ジェレミーは黙って聞いた。
エルは続ける。
「あの子、捕まった。花畑から離された。小さい部屋に入れられた。弱った。再生しなかった。たぶん、再生できない場所だった」
「環境依存型という調査班の仮説はある」
「うん。それ」
エルの声が少し強くなる。
「身体だけ見ても、分からない子だったのかもしれない。あの子は、花畑と一緒だったのかもしれない」
ジェレミーは、机の上の端末へ視線を落とした。
記録の中にも、その可能性はあった。
環境依存型。
捕獲環境下では自己修復条件を満たせない。
花への執着。
対象消失後も枯死しない花。
残留魔力。
だが、それは研究者側の記録の中では仮説のまま終わっていた。
研究者たちは、助けようとしていない。
理解しようとしていたのではなく、使える部分を取ろうとしていただけだった。
エルは言った。
「だから、それを確認したい」
「映像を見てか」
「うん」
「現地の花を見ればいい」
「現地の花だけじゃ、だめ」
「なぜだ」
「切られたところを見ないと、どこで切れたか分からない」
ジェレミーは動かなかった。
エルは、まっすぐにジェレミーを見た。
「映像、全部見せて」
「……」
「助けられるのかもしれないから」
その言葉は、局長室に重く落ちた。
助ける。
その言葉を、ジェレミーは簡単に許さなかった。
死者を戻す。
壊れた過去をなかったことにする。
エルの魔法が、その方向へ流れた時の危険性は、監理局が何度も教えてきた。
エル自身も知っている。
だからジェレミーは、短く言った。
「死者を戻す話なら、許可しない」
エルは首を横に振った。
「違う」
「違うと言うだけでは足りない」
「あの子を、なかったことにしない」
エルの声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「死んだことも、壊されたことも、消さない。時間を戻さない。あの子が痛かったことを、なかったことにしない」
「なら何を助ける」
「残ってるもの」
ジェレミーは黙る。
エルは言った。
「まだ死んでないもの」
その言葉を聞いて、ジェレミーは長く沈黙した。
局長室の外では、遠くの廊下を職員が歩いている。
日常の音。
けれど、部屋の中は切り離されたように静かだった。
ジェレミーは言った。
「副長を呼ぶ」
エルの顔が少しだけ曇る。
「レトとロジーには」
「知らせない」
「うん」
「ただし、副長、精神保護室長、魔術制御部長、医療班主任、情報班主任を同席させる」
エルは小さく息を呑んだ。
「ジェレミー」
「一人では見せない」
「でも」
「これは条件ではない。最低限だ」
ジェレミーの声に、譲歩はなかった。
「君の判断が鈍った時、止める者が必要だ。君が魔法を使いかけた時、声をかける者が必要だ。君が壊れそうになった時、君自身では分からない」
エルは俯いた。
「……うん」
「もう一つ」
「なに」
「レトとロジーに内緒、という言い方はやめろ」
エルは顔を上げた。
ジェレミーは続けた。
「二人を欺くために見るのではない。今は二人の心を守るために知らせない。それだけだ」
エルは少し考えた。
「今は、言わない」
「そうだ」
「終わったら」
「必要なら、私から話す」
エルは頷いた。
「うん」
ジェレミーは机の端末を閉じた。
「閲覧は第七会議室で行う。途中停止権限は私にある。君にもある。副長にもある。映像中、魔法行使は禁止。解釈を急がない。確認したい点は言葉で言え」
「うん」
「それから」
ジェレミーはエルを見た。
「助けられるかもしれない、という希望を持つことは許す」
エルは目を瞬かせた。
「でも、希望で事実を曲げることは許さない」
エルは、小さく頷いた。
「分かった」
*
第七会議室。
前よりも厳重な遮断が敷かれていた。
遮音術式四重展開。
記録制限。
外部干渉遮断。
魔力残滓の自動分解。
願望呼応検出。
旧世代魔法兆候監視。
緊急停止結界。
中央席にジェレミー。
その隣に副長。
精神保護室長。
魔術制御部長。
医療班主任。
情報班主任。
そして、エル。
エルは椅子に座っていた。
小さな身体。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
膝の上で、両手を重ねている。
いつもより姿勢が良かった。
逃げないために、そうしているように見えた。
副長が静かに言った。
「エル。開始前確認です」
「うん」
「今日の目的を言ってください」
エルは、少しだけ目を伏せた。
「あの子が壊されるところを見るためじゃない」
副長は頷いた。
「はい」
「責任を背負って、罰を受けるためでもない」
「はい」
「残っているものを確認するため」
「はい」
「助けられるものがあるか、見るため」
精神保護室長が記録欄に印を入れる。
魔術制御部長が続ける。
「魔法行使について」
「あたしは、映像中に魔法を使わない。戻さない。止めない。消さない。花を呼ばない。あの子を呼ばない」
「異常を感じた場合」
「言葉で言う」
「苦しくなった場合」
「止めるって言う」
副長が少しだけ表情を柔らかくした。
「よろしい」
ジェレミーが情報班主任へ視線を向けた。
「再生しろ」
画面が点いた。
花畑。
風。
綿毛。
少女が笑っている。
エルは、前に見た場面をもう一度見た。
少女は花びらをすくい、風に舞うそれを見上げて笑う。
花を一本摘む。
胸元に持つ。
何かを言っている。
音は復元されていない。
エルはそこで、静かに言った。
「ここ、少し」
情報班主任が映像を止める。
「何かありますか」
エルは画面の中の花畑を見る。
「この子、花を摘んでない」
魔術制御部長が眉を動かした。
「映像上は摘んでいるように見えますが」
「違う」
エルは画面の中の少女の手元を指した。
「花が渡してる」
会議室が静かになった。
ジェレミーが言う。
「拡大」
情報班主任が映像を拡大する。
荒い映像。
花畑の中、小さな少女の指先。
たしかに、少女が茎を折ったように見えた。
けれど、拡大すると違った。
花の茎が、自分から少しだけ曲がっている。
少女の指に触れるように。
そして、切れたのではなく、離れている。
まるで、花が自分で手渡されたように。
医療班主任が息を呑んだ。
「環境側からの分離……?」
エルは頷いた。
「花畑が、この子に持たせた」
「なぜ」
エルは少し考えた。
「外に行くなら、持っていって、って」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
副長の顔から、感情が消える。
ジェレミーは短く言った。
「続けろ」
映像が進む。
装甲の人間たちが現れる。
少女は笑う。
拘束術式が展開される。
少女が倒れる。
声を上げる。
エルの手が、膝の上で強く握られた。
だが、魔法は出なかった。
画面が切り替わる。
小さな部屋。
隅で縮こまる少女。
手には花。
記録者の声。
『対象、覚醒。拘束後十八時間経過』
エルは画面を見ていた。
少女は震えている。
花を抱えている。
エルが小さく言った。
「花、しおれてない」
情報班主任が映像を止めた。
魔術制御部長が記録を確認する。
「捕獲から十八時間。閉鎖室内。水分供給なし。通常植物なら萎れ始める時間ではありますが、映像上は鮮度が保たれているように見えます」
医療班主任が言う。
「少女の生体状態と連動している可能性は」
エルは首を横に振った。
「逆かも」
「逆?」
「花が、この子を保ってる」
ジェレミーは、画面の花を見た。
少女が両手で抱えている、小さな花。
あの時は、心の支えだと思った。
恐怖の中で、唯一持っていたもの。
もちろん、それも間違いではない。
だが、それだけではないのかもしれない。
エルは言った。
「続き、見せて」
ジェレミーは頷いた。
映像は進んだ。
実験。
反応記録。
魔力特性調査。
術式解析。
少女は弱っていく。
それは、見ているだけで呼吸が重くなる映像だった。
詳細な部分は、ジェレミーの指示で自動的に遮蔽される。
画面の一部が暗くなる。
音声の一部が落とされる。
必要な記録だけが残る。
それでも、十分に苦しかった。
少女が泣く。
花を奪われそうになって、必死に手を伸ばす。
花を返されると、呼吸が少し落ち着く。
記録者の声。
『情緒刺激への反応あり』
『花への執着継続』
『花を取り上げると魔力反応低下』
『花を返却すると微弱回復』
魔術制御部長が低く言った。
「これは……執着物ではなく、外部補助器官か」
医療班主任が画面を睨むように見る。
「少なくとも、生体安定に関わっています」
エルは震えていた。
だが、目を逸らさなかった。
「この人たち、分かってない」
誰も否定しなかった。
エルは続ける。
「花を、気持ちのものだと思ってる。でも違う。気持ちだけじゃない」
ジェレミーが言う。
「生命維持に関わるものだった可能性がある」
「うん」
映像が進む。
少女は日に日に弱っていく。
記録者の声が流れる。
『魔力出力低下』
『再生反応、確認できず』
『対象、睡眠時間増加』
『対象、発声減少』
エルの呼吸が乱れた。
精神保護室長がすぐに言う。
「停止しますか」
エルは首を横に振った。
「まだ」
ジェレミーはエルを見た。
「無理をするな」
「無理じゃない」
「本当か」
エルは少しだけ黙った。
そして、正直に言った。
「苦しい」
「止めるか」
「でも、見える」
ジェレミーは言葉を切らなかった。
エルは画面の少女を見る。
「ここから、花が小さく光ってる」
情報班主任が映像を解析表示へ切り替える。
通常視覚では分からないほどの微弱な光。
花の中心。
少女の胸元。
花と少女の間に、細い魔力線が見えた。
壊れかけた糸のようなもの。
魔術制御部長が表情を変えた。
「こんな反応は前回の復元時には拾えていません」
情報班主任が答える。
「低すぎます。通常解析ではノイズとして処理されます」
エルは言った。
「ノイズじゃない」
「はい」
情報班主任はすぐに修正した。
「再解析します」
映像が切り替わる。
片腕を失ったあとの記録。
詳細は遮蔽されている。
少女は寝台に横たわっている。
残った手で、花を握っている。
記録者の声。
『欠損部位、再生反応なし』
エルは、息を止めた。
魔力検出表示の中で、花が一瞬だけ強く光った。
少女の身体からではない。
花から、少女へ。
何かが流れようとしている。
けれど、途中で途切れている。
部屋の床に引かれた拘束術式。
壁に張られた遮断式。
それらが、花と少女の間の流れを細かく削っている。
エルが震える声で言った。
「この部屋が、邪魔してる」
魔術制御部長が即座に解析する。
「拘束術式だけではない。魔力拡散防止用の隔離術式が、生体補助線まで遮断している可能性があります」
医療班主任が低く呟いた。
「治癒しない環境を、彼ら自身が作っていた……」
副長が静かに言った。
「そして、治癒しないことを理由にさらに採取した」
会議室に沈黙が落ちた。
エルの目から、涙が落ちた。
けれど、魔法は出なかった。
花は咲かない。
過去は戻らない。
ただ、エルは見ていた。
次の場面。
片目を失ったあとの記録。
少女はもう、ほとんど動かない。
花は、前よりしなびている。
だが、完全には枯れていない。
記録者の声。
『視覚器官採取後、魔力循環変化を確認』
エルが、画面を止めてと言う前に、ジェレミーが止めた。
エルを見る。
「続けるか」
エルはしばらく何も言わなかった。
両手を握っている。
爪が手のひらに食い込むほど強く。
医療班主任がそっと言った。
「エルさん、手を開いてください」
エルは気づいていなかった。
言われて、ゆっくり手を開く。
手のひらには、小さな赤い跡がついていた。
ジェレミーは言った。
「ここで止めてもいい」
エルは首を横に振った。
「あと少し」
「理由を言え」
「花が、まだ動いてる」
ジェレミーは情報班主任を見る。
再生が続く。
最後の記録群。
少女の生命活動は弱く、魔力循環もほとんど消えかけていた。
研究者の声。
『魔力生命体の身体再生が機能していない』
『しかし、生体サンプルは取れた』
『この検体の役割は終わる』
エルの表情が、凍った。
副長が即座に言った。
「停止しますか」
エルは、震える声で言った。
「続けて」
ジェレミーは、数秒だけエルを見た。
それから、頷いた。
解剖記録。
映像は大部分が遮蔽された。
照明。
台。
記録者の声。
生命活動停止の表示。
少女の声は、もうない。
エルは泣いていた。
それでも、目を逸らさなかった。
ただ、見ているのは少女の身体ではなかった。
画面の端。
台の近く。
置かれた花。
研究者たちは、少女の身体を見ていた。
数値を見ていた。
器官を見ていた。
サンプルを見ていた。
魔力特性を見ていた。
誰も、花を見ていなかった。
花だけが、小さく光っていた。
生命活動停止の表示が出る。
その瞬間。
花から、細い光が伸びた。
少女へではない。
床へ。
壁へ。
部屋の外へ。
もっと遠くへ。
花畑の方へ。
エルが椅子から立ち上がった。
「ここ!」
魔術制御部長が即座に映像を止める。
「反応を拡大」
情報班主任が解析を重ねる。
映像は荒い。
記録端末の解像度も低い。
だが、微弱な魔力線は確かにあった。
花から伸びた光が、部屋の床を這い、遮断術式に阻まれ、何度も途切れながら、それでも外へ向かっている。
医療班主任が呟く。
「これは、死亡時反応ではない」
精神保護室長が聞く。
「では何ですか」
魔術制御部長が、信じられないものを見る顔で言った。
「帰還信号……あるいは、種子化反応」
エルは震えながら言った。
「あの子、全部死んでない」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
「身体は死んだ。でも、花に逃げた。少しだけ。ぜんぶじゃない。あの子そのもの全部じゃない。でも、残った」
ジェレミーは画面を見る。
花。
少女が最後まで持っていた花。
それは、遺品ではなかったのかもしれない。
標本でも、残留物でもない。
彼女が最後に残した、生きている部分。
あるいは、花畑へ戻ろうとした断片。
エルは、泣きながらも言葉を続けた。
「戻せるかは、分からない」
ジェレミーはエルを見る。
「……」
「戻しちゃだめかも、分からない。あの子が戻りたいかも、分からない。戻すのが幸せかも、分からない」
その言葉に、ジェレミーの目がわずかに揺れた。
エルは、学んでいた。
苦しい中でも。
希望を見つけた瞬間でも。
勝手に決めない。
「でも、助けられるかもしれない」
エルは言った。
「少なくとも、まだ終わってないものがある」
ジェレミーは、深く息を吐いた。
「映像を最後まで」
エルは頷いた。
再生が進む。
少女のいなくなった部屋。
一輪の花だけが残っている。
しなびている。
枯れない。
記録者の声。
『対象消失後も花の完全枯死を確認できず』
『残留魔力あり。由来不明』
『保存対象か』
『不要。施設放棄準備を優先』
エルは、小さく言った。
「不要じゃない」
誰も笑わなかった。
誰も慰めなかった。
ただ、その言葉が会議室に残った。
映像の奥で警報音が鳴る。
どこかの組織が介入する音声。
逃げる研究者たち。
走る足音。
壊れる機材。
『記録を消せ!』
『サンプルを持て!』
『撤退しろ!』
画面が揺れる。
最後に、小さな部屋が映る。
部屋の隅の花。
そこへ、何者かの影が差した。
映像はそこで切れた。
再生終了。
今度の沈黙は、前の沈黙とは違っていた。
重い。
苦しい。
残酷だった。
けれど、そこに一本だけ、細い糸があった。
ジェレミーは、ゆっくり言った。
「現地調査方針を変更する」
全員が顔を上げた。
「花を遺留物ではなく、生体残存物として再分類。標本扱いを禁止。解析は非侵襲のみ。魔術制御部、医療班、精神保護室、調査班合同で環境同期試験の準備」
魔術制御部長が頷く。
「花畑との魔力線再接続を確認します」
医療班主任が続ける。
「ただし、生命反応再構成を目的とする場合、倫理審査が必要です。戻す、蘇生する、再発生させる、それぞれ意味が違います」
倫理監査主任は不在だったが、副長が即座に言った。
「倫理監査主任を招集します。現時点で“救命”とは断定しない。“残存生命反応の保護”として扱うべきです」
ジェレミーは頷いた。
「そうしろ」
エルは立ったままだった。
涙の跡が頬に残っている。
「ジェレミー」
「何だ」
「あたし、行く」
「許可しない」
即答だった。
エルは目を見開いた。
「でも」
「今は許可しない」
ジェレミーは強く言った。
「君は今、映像を見た直後だ。判断が熱を持っている。花を見た瞬間、魔法が動く可能性が高い」
エルは反論しようとして、止まった。
さっき、自分がどれだけ揺れていたか分かっている。
「……うん」
「だが、候補には入れる」
エルは顔を上げた。
「候補」
「現地で、君にしか確認できないものがある可能性は認める。ただし、同行は必須。魔法行使は禁止。現地での接触前に、別室で精神状態を確認する。レトとロジーは同行させない」
エルは少しだけ顔を曇らせた。
「ロジー、怒る」
「怒らせておけ」
「レト、泣く」
「泣かせることになる」
ジェレミーの声は苦かった。
だが、揺らがなかった。
「それでも連れて行かない。これは見学ではない」
エルは頷いた。
「うん」
副長が静かに言った。
「エル。あなたが今日見たものは、レトとロジーには伏せます。けれど、あなた一人の秘密にはしません」
エルは副長を見る。
「どういうこと」
「局長と関係班が共有します。必要があれば、いつか二人にも、二人が壊れない形で伝えます」
エルは少し考えた。
「うん」
「あなたが一人で抱えることも禁止です」
その言葉に、エルは黙った。
副長は続ける。
「“あたしだけが見た”は、責任に見えて孤立です」
エルの手が、胸元で小さく動いた。
ジェレミーが言った。
「今日の記録は、君の罪ではない」
エルは小さく首を横に振りかけた。
ジェレミーは、それを遮った。
「罪ではない」
エルは止まった。
「だが、君が見つけた可能性は、君の功績にもしない」
「功績」
「そうだ。あの子を助けられるかもしれないという可能性を、君の手柄にしない。君だけの責任にもしない。監理局の案件として扱う」
エルは、ゆっくり頷いた。
「みんなで?」
「ああ」
「みんなで、見る?」
「必要な者だけが見る」
「みんなで、考える?」
「そうだ」
エルは、涙を拭わずに言った。
「じゃあ、あたし、壊れない」
精神保護室長が、静かに目を伏せた。
ジェレミーは答えた。
「それが最優先だ」
エルは、もう一度画面を見る。
映像は終わっている。
花は映っていない。
けれど、エルには見えているようだった。
しなびているのに、枯れない花。
少女が最後まで握っていたもの。
花畑から渡されたもの。
少女を保とうとしていたもの。
少女の何かを、まだ抱えているもの。
エルは小さく言った。
「あの子、いた」
ジェレミーが答える。
「ああ」
「まだ、少し、いる」
ジェレミーは、すぐには答えなかった。
希望を認めるには、まだ早い。
断定するには、証拠が足りない。
それでも、否定するには、もう遅かった。
「確認する」
ジェレミーは言った。
「事実を確認する」
エルは頷いた。
「うん」
「助けられるものがあるなら、助ける」
エルの瞳が揺れた。
「うん」
「だが、戻していいかは別だ」
「うん」
「生きているのか、残っているのか、眠っているのか、終わりを待っているのか。それを勝手に決めない」
「うん」
「君が幸せを決めない」
エルは胸元に手を置いた。
「決めない」
ジェレミーは頷いた。
「それなら、次へ進む」
その言葉は、許可だった。
同時に、重い命令でもあった。
第七会議室の扉が開く。
外の廊下から、監理局の日常の音が流れ込んできた。
けれど、エルはすぐには動かなかった。
椅子の前に立ったまま、両手を握っている。
ジェレミーが声をかけた。
「エル」
「なに」
「今日は休め」
「でも」
「休め」
エルは、少しだけ不満そうに眉を下げた。
「眠れないかも」
精神保護室長が静かに言う。
「眠れなくても、横になるだけでいいです」
副長が続ける。
「レトとロジーには、通常通り会って構いません。ただし、今日の閲覧内容は話さないこと」
エルは頷いた。
「うん」
「泣きたくなったら?」
エルは少し考えた。
「泣く」
副長は薄く笑った。
「よろしい」
エルは部屋を出る前に、ジェレミーを振り返った。
「ジェレミー」
「何だ」
「見せてくれて、ありがとう」
ジェレミーは答えなかった。
感謝されることではないと思っていた。
エルも、それを少し分かっていた。
だから、言い直した。
「止めてくれて、ありがとう」
ジェレミーは、少しだけ目を伏せた。
「ああ」
エルは廊下へ出た。
扉が閉まる。
第七会議室には、大人たちが残った。
副長が静かに息を吐く。
「局長」
「何だ」
「希望が出ましたね」
「ああ」
「危険な希望です」
「ああ」
ジェレミーは、黒い画面を見た。
そこにはもう、映像はない。
だが、彼の目には残っていた。
花畑の少女。
拘束術式。
小さな部屋。
しなびた花。
最後に伸びた、細い魔力線。
「だから監理局が扱う」
ジェレミーは言った。
「子供の願いにしない。旧世代の衝動にもしない。研究者の欲望にも戻さない」
副長は頷いた。
「では、案件分類を変更します」
「しろ」
「名称は」
ジェレミーは少しだけ黙った。
勝手に名付けない。
それは変えない。
「未命名箱庭個体・花残存反応」
副長が記録する。
「了解しました」
ジェレミーは立ち上がった。
「現地保全班へ通達。花へ触れるな。魔力を流すな。水も与えるな。環境を変えるな。現状維持を最優先」
「はい」
「それと」
ジェレミーは扉の方を見た。
エルが出て行った廊下。
その先には、きっとレトとロジーがいる。
何も知らず、でも何かを察して、エルの顔を覗き込むだろう。
「三人を見ろ」
副長は静かに頷いた。
「全員ですね」
「ああ」
ジェレミーは言った。
「あの花だけではない。まだ終わっていないものは、ここにもある」
*
生活区画の休憩室。
レトとロジーは、そわそわしながら待っていた。
エルが戻ってくると、二人は同時に立ち上がった。
「エル!」
「どこ行ってたの!?」
エルは、二人を見た。
レトの目は心配でいっぱいだった。
ロジーのデバイスは記録モードではなく、見守り用の小さな光だけを浮かべていた。
エルは少しだけ黙ってから、言った。
「ジェレミーと話してた」
レトが近づく。
「泣いた?」
エルは頷いた。
「泣いた」
ロジーが目を丸くする。
「大丈夫?」
エルは考えた。
「大丈夫じゃない」
レトの顔が崩れそうになる。
エルは続けた。
「でも、ひとりじゃない」
レトはすぐに抱きついた。
「うん!」
ロジーも反対側から抱きつく。
「ひとりじゃない!」
エルは二人に挟まれた。
いつものように、少しだけ身体が揺れる。
レトは何か聞きたそうだった。
ロジーも、何か知りたそうだった。
でも、二人とも聞かなかった。
エルはそれが分かった。
だから、小さく言った。
「まだ、話せない」
レトは頷いた。
「うん」
ロジーも頷いた。
「分かった。今は聞かない」
エルは二人の服をそっと掴んだ。
「あの花」
二人が顔を上げる。
エルは、言葉を選んだ。
詳しいことは言えない。
映像のことは言えない。
でも、全部黙っているのも違う気がした。
「あの花、まだ大事」
レトの瞳が揺れた。
「うん」
ロジーのデバイスが、淡く光った。
「大事にするんだね」
「うん」
エルは頷いた。
「あの子を、検体にしない」
レトが強く頷いた。
「しない!」
ロジーも、まっすぐ言った。
「しない。記録の中でも、しない」
エルは二人の手を握った。
「まだ、終わってないかもしれない」
それは、本当は言ってはいけない希望かもしれなかった。
けれど、二人は騒がなかった。
レトは泣きそうな顔で、でも静かに聞いた。
ロジーも、記録しなかった。
エルは続けた。
「だから、待つ」
「うん」
「勝手にしない」
「うん」
「みんなで、考える」
レトとロジーは、同時に頷いた。
三人はそのまま、休憩室の小さなソファに座った。
何をするでもない。
お菓子も出さない。
女子会の議事録も作らない。
魔法アイテムも出さない。
ただ、三人でくっついていた。
窓の外では、中庭の花が揺れている。
それは、あの惑星の花ではない。
あの少女が握っていた花でもない。
けれど、エルはその花を見て、胸元に手を置いた。
花は咲いている。
風に揺れている。
生きているものは、静かに続いている。
終わっていないものも、どこかでまだ、かすかに続いているのかもしれない。
エルは、小さく呟いた。
「待ってて」
レトが聞き返す。
「エル?」
エルは首を横に振った。
「なんでもない」
ロジーは、何かを察したようにデバイスの光を落とした。
記録しない。
今は、記録しない。
三人は、手を繋いだまま中庭の花を見ていた。
遠い惑星の花畑では、しなびた一輪の花が、保全結界の中で静かに残っている。
枯れない。
まだ、枯れない。
それが救いなのか、痛みなのか、誰にもまだ分からない。
けれど、監理局は動き出した。
もう二度と、誰かの命を検体という言葉で終わらせないために。
そして、まだ終わっていないものが本当にあるのなら。
それを、勝手に決めずに。
壊さずに。
忘れずに。
助けるために。




