第9話-小さな彗星の帰る場所
惑星監理局、局長室。
ジェレミー・クリエットは、執務机の上に積まれた報告書を処理していた。
辺境惑星の観測記録。
戦闘班の訓練報告。
魔術災害への対応申請。
上位委員会から届いた照会文書。
一つ確認し、承認する。
一つ差し戻し、修正箇所を記す。
新しい書類が届く。
処理しても、机の上から紙がなくなる気配はなかった。
局長室の扉が、ほんの少しだけ開いた。
淡緑色の髪が覗く。
次に、エメラルドグリーンの瞳。
レトは室内の様子を窺いながら、扉の隙間から顔を出した。
「お兄さん」
ジェレミーは書類から目を離さなかった。
「何だ」
「忙しい?」
「忙しい」
レトは少しだけ残念そうな顔をした。
「じゃあ、あとにする」
扉がゆっくり閉じ始める。
「だが、お前の話を聞く時間はある」
扉が止まった。
少し開く。
大きく開く。
レトは、ぱっと明るい顔になって局長室へ入ってきた。
「入っていい?」
「すでに入っている」
「じゃあ、入るね!」
「そうしろ」
レトは扉を閉じ、執務机の前まで歩いてきた。
戦場では、単騎遊撃を担う戦闘班員。
硝子の短剣を展開し、空間を飛び越え、敵陣へ単独で切り込む娘。
そのレトが今は、両手を背中に隠し、机の前でもじもじしていた。
ジェレミーは報告書へ署名しながら言った。
「用件は」
「その前に聞いていい?」
「ああ」
レトは、机の上に積まれた書類を見た。
「その紙、怒ってる?」
ジェレミーの手が一瞬だけ止まる。
「怒っていない」
「でも、いっぱい重なってる」
「書類は、重ねても感情を持たない」
レトは一番上の報告書を覗き込んだ。
「ほんと?」
「少なくとも、この書類に感情機能は搭載されていない」
「感情機能がある書類もあるの?」
「エルが作れば、存在するかもしれない」
レトは少し考えた。
「怒る書類、たいへんそう」
「同意する」
「書くの遅いと怒る?」
「可能性はある」
「破ったら泣く?」
「それは書類ではなく、担当職員が泣く」
レトは真剣に頷いた。
「書類、大切にする」
「そうしろ」
ジェレミーは次の報告書を脇へ置いた。
「それで、背中に何を隠している」
レトの肩が跳ねた。
「分かるの!?」
「分かる」
「まだ見せてないのに」
「見えていないから、隠していると判断した」
「お兄さん、すごい」
「普通だ」
レトは少し迷ったあと、背中に隠していたものを両手で差し出した。
「これ」
机の上へ、透明な硝子細工が置かれる。
手のひらに収まるほどの、小さな卓上灯だった。
丸みを帯びた透明な硝子の核。
そこから後方へ伸びる、細い尾のような造形。
内部には、青白い光が閉じ込められている。
炎ではない。
レトが持つ硝子質の魔力、その内側に封じられた青白い熱。
ただし、戦闘用の短剣とは異なり、周囲を焼くほどの熱はない。
柔らかな光だけが、硝子の内側で静かに揺れていた。
形は少し不格好だった。
左右の均衡が僅かにずれている。
台座も、よく見ると少し傾いていた。
「お兄さんにあげる」
「灯りか」
「うん」
レトは期待と不安が混ざった顔で、ジェレミーを見上げた。
「お兄さん、夜もお仕事してるから」
ジェレミーは卓上灯を持ち上げた。
硝子の表面。
内部の魔力循環。
光量。
発熱。
術式の安定性。
危険な反応はない。
レトは、その確認を黙って見ていた。
「発熱は抑えられている」
「うん。触っても熱くないよ」
「魔力漏出も少ない」
「いっぱい練習した」
ジェレミーは灯りを机へ戻した。
書類の横に置く。
青白い光が、報告書の端を柔らかく照らした。
実用的な照明としては、少し暗い。
だが、文字がまったく読めないほどではない。
「書類を読むには、光量が足りないな」
レトの顔が曇った。
「……だめ?」
「だめとは言っていない」
ジェレミーは灯りの位置を少し動かした。
机の端。
執務中に視界へ入り、書類の邪魔にはならない場所。
「補助灯として使う」
レトの顔が明るくなる。
「使ってくれる?」
「ああ」
「ほんとに?」
「置いた」
「置いただけじゃなくて、使う?」
「使う」
「ずっと?」
「必要な時に」
「いっぱい必要にしてね!」
「努力する」
レトは嬉しそうに灯りを眺めた。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
ジェレミーは気づいていた。
入室した時から。
贈り物を出した時から。
レトは嬉しそうにしている。
しかし、いつものような勢いがない。
褒められたくて仕方がない時の顔とも違う。
卓上灯へ向けた視線に、何かを確かめようとする色があった。
「レト」
「なに?」
「何があった」
「何もないよ」
「そうか」
ジェレミーは、次の報告書へ手を伸ばした。
レトは一歩も動かなかった。
数秒。
沈黙。
ジェレミーが書類を開く。
レトが小さく言った。
「……ちょっとある」
ジェレミーは書類を閉じた。
「言え」
レトは自分の指先を見た。
「今日、訓練だったの」
「報告は受けている」
「短剣の訓練」
「ああ」
「いっぱい出して、飛ばして、止めて、片付けるやつ」
レトは両手を動かした。
いつものように短剣を造形する動き。
けれど、実際には何も作らない。
「全部終わったと思ったの」
ジェレミーは黙って聞いていた。
「でも、一本だけ残ってた」
レトの声が小さくなる。
「浮いたまま」
「それで」
「わたしが後ろを向いた時に、動いた」
残留していた短剣。
制御が完全に解除されていなかった。
訓練終了後、レトが移動したことで魔力の流れが変化し、短剣がわずかに前進した。
「戦闘班長の帽子に、刺さった」
「班長は帽子を被っていたのか」
レトは慌てて首を横へ振った。
「違う! 椅子に置いてあった!」
「そうか」
「誰にも当たってないよ」
「ああ」
「帽子だけ」
「それでも事故だ」
レトの肩が落ちた。
「うん……」
ジェレミーは事実を確認する。
「短剣の残留確認は」
「職員さんと一緒にした」
「報告は」
「訓練場の担当職員さんが出してくれた」
「お前自身の報告書は」
「まだ」
レトはさらに小さくなる。
「書き方、教えてもらってる途中」
「謝罪は」
「まだしてない」
「なぜだ」
「班長、会議に行ったから」
「そうか」
レトは恐る恐る顔を上げた。
「怒ってるかな」
「事故を軽視すれば怒るだろう」
「軽くしてないよ」
「ならば、正確に報告しろ」
「うん」
「残留した理由を確認する。終了時の確認手順を見直す。必要ならば、短剣の自動消失条件を訓練用に追加する」
「うん」
「そのうえで、班長へ謝罪する」
「……うん」
ジェレミーは、レトの表情を見た。
レトは叱責を拒んでいるわけではない。
事故を隠そうともしていない。
手続きを嫌がっているわけでもない。
ただ。
失敗した自分を、どう扱えばよいのか分からなくなっている。
レトは、戦闘班の中で強い。
任務に出れば、褒められることが多い。
敵を倒した。
人を守った。
危険な場所から帰還した。
そうした明確な結果は、レトにも分かりやすい。
だが、自分の力で誰かを危険にさらしかけた時。
レトは、失敗した行動と、自分自身を切り分ける方法をまだ十分に知らない。
「お兄さん」
「何だ」
「わたし、役に立ててる?」
ジェレミーは即答しなかった。
レトが欲しがっている言葉を、考えずに与えるつもりはなかった。
「どうしてそう思う」
「短剣、片付けられなかった」
「それは事実だ」
「危なかった」
「ああ」
「班長の帽子じゃなくて、職員さんだったかもしれない」
「可能性はあった」
レトの指が、ぎゅっと握られる。
「わたし、強いのに」
ジェレミーはレトを見る。
「強いから、失敗しないわけではない」
「でも、強いのに失敗したら、もっと危ない」
「その通りだ」
レトの瞳が揺れる。
慰めてもらえると思っていたわけではない。
それでも、肯定されると胸が痛んだ。
「じゃあ、わたし……だめ?」
「違う」
ジェレミーは、はっきりと言った。
「お前はだめではない」
レトが顔を上げる。
「ただし、失敗は失敗だ」
ジェレミーの声は静かだった。
柔らかく誤魔化さない。
厳しく突き放しもしない。
「事故の報告を行う。原因を確認する。手順を変える。謝罪する。次の訓練で改善を確認する」
「うん」
「それが必要だ」
「失敗したこと、なくならない?」
「なくならない」
レトの表情が沈む。
「なくしちゃだめ?」
「だめだ」
「どうして」
「なくせば、学べない」
ジェレミーは続けた。
「失敗した事実を残すことと、失敗した者を不要と判断することは別だ」
レトは、その言葉をゆっくり考えた。
「別?」
「ああ」
「わたし、失敗した」
「ああ」
「でも、いらなくならない?」
「ならない」
「ほんと?」
「事実だ」
「役に立ててる?」
「役に立っている」
「失敗したのに?」
「失敗しない者だけを必要とする組織ではない」
レトは何度か瞬きをした。
「職員さんも失敗する?」
「する」
「お兄さんも?」
「ああ」
「副長も?」
「本人は認めたがらないかもしれないが、する」
「ロジーも?」
「頻繁にな」
「エルも?」
「規模が大きい」
レトは少しだけ笑った。
「みんな、失敗するんだ」
「だから手続きがある」
事故を記録する。
原因を調べる。
同じことが起きにくい形へ変える。
誰か一人の反省や注意力だけに任せない。
レトはまだ、報告書や手順書を堅苦しいものだと思っている。
けれど、それらは失敗した者を責めるためだけにあるのではない。
次に誰かが傷つかないためにある。
そして。
失敗した者が、もう一度役割へ戻るためにもある。
「報告書、わたしが書くの?」
「ああ」
「難しい」
「担当職員に教わりながら書け」
「お兄さんは?」
「私は確認する」
「一緒に書いてくれないの?」
「お前の報告だ」
「そっか……」
レトは少し考えた。
「じゃあ、ちゃんと書く」
「ああ」
「それから班長に謝る」
「ああ」
レトは足元を見た。
それから、小さな声で言う。
「お兄さんも、来てくれる?」
「謝るのはお前だ」
「うん」
「説明するのもお前だ」
「うん」
「私はついていく」
レトの顔が、僅かに明るくなる。
「一緒に?」
「ああ」
「わたしがちゃんと謝るところ、見ててくれる?」
「見る」
「終わったあとも?」
「必要ならば、手続きが完了するまでいる」
レトは、ようやく肩の力を抜いた。
「よかった」
ジェレミーはレトを見た。
「一人では行けないか」
「行けるよ」
レトは答えた。
少し間を置く。
「でも、お兄さんと行きたい」
「そうか」
「一人でもできるけど、一緒だと、ちゃんとできる気がする」
「なら、ついていく」
「うん!」
レトは嬉しそうに頷いた。
そして、机の端に置かれた卓上灯を見る。
青白い光が、透明な硝子の中で揺れている。
「お兄さん」
「何だ」
「あの灯りね」
「ああ」
「書類を見るためだけじゃないの」
ジェレミーは灯りへ視線を移した。
「他に用途があるのか」
「うん」
レトは机へ近づいた。
灯りの硝子へ、そっと指先で触れる。
「帰ってきた時、お兄さんのお部屋が光ってたら、分かりやすいから」
「何がだ」
「お兄さんがいる場所」
ジェレミーは黙っていた。
レトは青白い光を見ながら続ける。
「任務から帰った時も」
「うん」
「訓練が終わった時も」
「うん」
「失敗した時も」
声が少しだけ震える。
「お兄さんのお部屋が光ってたら、ここに帰ってきていいって思える」
レトは顔を上げた。
「失敗したあとでも、帰ってきていい?」
「当然だ」
「いっぱい失敗しても?」
「同じ失敗を繰り返さないよう改善しろ」
「改善したら?」
「帰ってこい」
「うまく改善できなかったら?」
「原因を調べ直せ」
「それから?」
「帰ってこい」
「また失敗したら?」
「報告しろ」
「報告したら?」
「帰ってこい」
レトの目に、少しずつ涙が溜まった。
悲しい涙ではなかった。
胸の中で固くなっていた不安が、やっと外へ出ていくような涙だった。
「わたし、ちゃんと帰ってくるからね」
「ああ」
「任務でも」
「ああ」
「訓練でも」
「ああ」
「遠いところに行っても」
「ああ」
「でも、お兄さんもいてね」
ジェレミーはレトを見た。
レトは、自分が帰ると約束している。
だから。
相手にも、そこにいると約束してほしい。
ずっと同じ場所に座っているという意味ではない。
何が起きても変わらず、帰ってきてよい場所であってほしい。
ジェレミーは答えた。
「お前が帰ってくる場所を、なくすつもりはない」
レトの目から、涙が一つ落ちた。
「うん」
レトは笑った。
「じゃあ、帰ってくる」
「ああ」
「絶対」
「ああ」
「お兄さんのところに」
「分かった」
レトは机越しに手を伸ばした。
ジェレミーの袖を掴む。
強くではない。
離れないことを確かめるように、少しだけ。
「班長のところ、行く」
「報告書は」
「そのあと書く」
「先に書け」
「ええっ」
「事実関係を整理してから謝罪した方がいい」
「班長、待ってるかな」
「すでに事故の報告は受けている」
「怒ってる?」
「会って確認しろ」
「こわい」
「私はついていく」
「……うん」
レトは袖を掴んだまま、扉へ向かおうとした。
ジェレミーは動かない。
レトが振り返る。
「お兄さん?」
「袖を離せ」
「一緒に行くんでしょ?」
「行く。だが、この状態では歩きにくい」
「じゃあ、手」
レトは袖を離し、ジェレミーの手を握った。
「これなら歩ける」
「そうだな」
ジェレミーは執務机を離れた。
二人で局長室を出る。
扉が閉じる。
机の上には、処理途中の報告書が残されていた。
その端で。
小さな硝子の灯りが、青白く光っている。
少し傾いた、不格好な卓上灯。
戦闘には使えない。
敵を倒すことも。
誰かを守ることもできない。
それでも。
レトが帰ってくるまで。
局長室の小さな灯りは、静かに光り続けていた。




