第9話-小さな彗星の帰る場所
局長室の扉が、三回鳴った。
正確には、二回と半分だった。
一回目は軽いノック。
二回目は勢い余ったノック。
三回目は、叩く直前でためらった指先が、扉にこつんと触れただけの音。
私は書類から目を上げた。
「入れ」
返事はなかった。
ただ、扉の向こうで小さく息を吸う気配がした。
次の瞬間、扉がほんの少しだけ開いた。
隙間から、淡い緑の髪が見える。
ワンサイドに結ばれた長い髪。黒いリボン。青い硝子のキューブが二つ、控えめに揺れていた。
「……お兄さん」
レトだった。
顔だけを出して、こちらをうかがっている。
私はペンを置いた。
「どうした」
「忙しい?」
「忙しい」
「じゃあ、あとにする」
言いながら、レトは扉を閉めようとした。
私は即座に言った。
「だが、お前の話を聞く時間はある」
扉の動きが止まった。
レトの目が、ぱっと開く。
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「本当だ」
「お仕事、怒らない?」
「仕事は怒らない」
「書類は?」
「書類も怒らない」
レトは少しだけ扉を開けたまま、真剣な顔でこちらを見た。
「お兄さん、書類の気持ち、分かるの?」
「分からない」
「じゃあ、なんで怒らないって分かるの?」
「怒る機能がない」
「そっか……!」
心底納得した顔だった。
それからレトは、ぱたぱたと局長室に入ってきた。
小柄な身体。軽い足音。だが、その内側に抱え込んだ魔力量は、常識的な魔術師なら近くに立つだけで膝をつくほど濃い。
青白い高熱。
硝子質の魔力。
空間を裂き、歪ませ、短剣の形にして飛ばすだけの力。
この宇宙の中でも、単騎の遊撃戦力として数えられる存在。
それが今、私の机の前で両手を後ろに隠し、なぜか少しもじもじしている。
「お兄さん」
「なんだ」
「見てほしいものがあるの」
私は椅子に背を預けた。
「危険物か」
「危険じゃない!」
「爆発するか」
「しない!」
「勝手に増殖するか」
「しないよ!」
「空間を歪めるか」
「ちょっとだけ」
「危険物だ」
「ちがうもん!」
レトは頬をふくらませた。
怒っているというより、必死に自分の成果を守ろうとしている顔だった。
私は軽く息を吐いた。
「見せてみろ」
「うん!」
レトは背中に隠していた両手を前に出した。
掌の上に、小さな硝子細工が乗っていた。
短剣ではない。
武器の形ではない。
透明な硝子で作られた、小さな椅子だった。
背もたれがある。脚が四本ある。ひどく繊細な造形で、少し角度を変えるだけで青白い光を受けてきらきらと輝いた。
ただし、椅子としては極端に小さい。
人間が座るものではない。
玩具よりも小さく、装飾品よりも素朴で、しかし妙に丁寧だった。
「椅子か」
「うん」
「なぜ椅子を作った」
「お兄さんが、座るもの、いっぱい必要そうだったから」
私は一瞬、意味を測り損ねた。
局長室には椅子がある。
私の椅子。来客用の椅子。応接用のソファ。
少なくとも、物理的に不足してはいない。
「私は今、椅子に座っている」
「うん」
「椅子は足りている」
「でも」
レトは小さな硝子の椅子を両手で包み込むように持った。
「お兄さん、いろんな人の話を聞くでしょ」
「ああ」
「いっぱい決めるでしょ」
「ああ」
「誰かが怒ってたり、泣いてたり、困ってたりすると、ちゃんと座らせて、話を聞くでしょ」
「必要ならな」
「だから、お兄さんのところには、座る場所がいっぱい必要だと思ったの」
レトはそう言って、少しだけ視線を落とした。
「でも、大きい椅子はわたし、いま作ると邪魔かなって思って。だから、小さいのにした」
私は黙って、その硝子の椅子を見た。
形は稚拙ではない。
むしろ、造形としては美しい。
だが、実用品ではない。
戦術的価値もない。
防御にも、索敵にも、拘束にも使えない。
監理局の備品として登録するなら、用途欄で技術班が悩むだろう。
しかし、レトは真剣だった。
この小さな椅子を作るために、彼女なりに私を見て、考えたのだ。
座る場所。
話を聞く場所。
誰かが落ち着くための場所。
それを、私に渡そうとしている。
「レト」
「うん」
「これは私用か」
「うん。お兄さん用」
「私が座るには小さい」
「知ってる」
「なら、何に使えばいい」
レトは少し考え込んだ。
答えを用意していなかったらしい。
しばらく眉を寄せ、唇をむにむに動かしたあと、ぱっと顔を上げた。
「お兄さんが、すごく疲れたときに見る!」
「見るだけか」
「見るだけ!」
「それでいいのか」
「うん。だって、座れなくても、座る場所があるって分かるのは、うれしいから」
その言葉は、妙にまっすぐ私の中に落ちた。
レトは、閉じた宇宙で生まれた。
硝子の彗星から生まれ、最初から人間ではなく、しかし人間の形をして、人間の言葉を覚え、人間の隣に立とうとしている。
彼女は物を物として理解している。
だが、自分に近しいものとして認知する根がある。
硝子。
欠片。
形あるもの。
壊れるもの。
残るもの。
そういうものに、彼女はときおり自分を重ねる。
だからこの椅子も、単なる飾りではないのだろう。
彼女にとっては、帰る場所の形なのだ。
「レト」
「なあに?」
「ここに置いていいか」
私は机の右端を指した。
通信端末の横。
書類の邪魔にはならず、私の視界には入る場所。
レトの顔が、みるみる明るくなった。
「いいの!?」
「私が頼んでいる」
「お兄さんの机に置くの!?」
「ああ」
「ほんとに!?」
「本当だ」
「ずっと!?」
「壊れない限りはな」
「壊れないようにする!」
レトは慌てて小さな椅子を机に置いた。
置いたあとで、角度を調整する。
右に向ける。
左に向ける。
少し悩んで、私の方を向けた。
そして、満足げにうなずいた。
「これでよし!」
「なぜこちら向きだ」
「お兄さんを見守る係だから」
「椅子がか」
「椅子が」
「そうか」
私はそれ以上、否定しなかった。
レトは嬉しそうに笑っている。
その顔を見ていると、否定する必要など、そもそもどこにもない気がした。
しばらく、局長室は静かだった。
外では監理局の足音が行き交っている。
報告、指令、警戒、審査、記録、解析。
この宇宙の秩序を維持するための音。
その中心に近いこの部屋で、レトは小さな椅子を見つめていた。
私は再びペンを取った。
だが、書類に視線を落とす前に、レトがぽつりと言った。
「お兄さん」
「なんだ」
「わたし、役に立ててる?」
ペン先が止まった。
顔を上げる。
レトは、笑っていなかった。
不安そうでも、泣きそうでもない。
ただ、真剣だった。
戦闘前の顔に近い。
けれど、戦場で見るそれよりもずっと幼い。
「急にどうした」
「今日、戦闘班でね、わたし、またちょっと失敗したの」
「報告は受けている」
「えっ」
「訓練場の床を三枚硝子化した件か」
「う」
「標的を撃破したあと、勢い余って観測室の窓を内側から硝子細工に変えた件か」
「うう」
「それとも、浮かせた短剣を片付け忘れて、班長の帽子を串刺しにした件か」
「お兄さん、ぜんぶ知ってる……」
「局長だからな」
レトはしょんぼりと肩を落とした。
「怒ってる?」
「怒っていない」
「でも、失敗した」
「ああ」
「わたし、強いのに」
「ああ」
「強いのに、失敗する」
「ああ」
レトは両手をぎゅっと握った。
「それって、だめじゃない?」
私はペンを置き直した。
こういうとき、レトに曖昧な慰めは効かない。
彼女は幼いが、馬鹿ではない。
自分の力の危険性を理解している。
理解しているからこそ、失敗を恐れる。
そして、恐れていることを隠すのが下手だ。
「レト」
「うん」
「お前はだめではない」
レトが顔を上げた。
「本当?」
「ああ。ただし、失敗は失敗だ」
「う……」
「訓練場の床は修理が必要だ。観測室の窓もだ。班長の帽子は、おそらく買い替えになる」
「ごめんなさい……」
「謝罪は必要だ。あとで一緒に行く」
「一緒に?」
「ああ」
レトの目が揺れた。
「お兄さんも?」
「私も行く」
「わたしだけで謝れるよ?」
「知っている」
「じゃあ、どうして?」
「お前が逃げずに謝れることを、私も知っておきたい」
レトは、きょとんとした。
「知っておきたい?」
「ああ。私は局長だ。お前の失敗も、改善も、成長も把握する必要がある」
「成長……」
「そうだ」
私は机の上の小さな硝子の椅子を見た。
「お前は失敗した。だが、誰かを傷つけたわけではない。力の制御を誤った。なら、次は制御すればいい」
「できるかな」
「できるようにする」
「わたしが?」
「お前が」
「お兄さんは?」
「私は、そのための環境を用意する」
レトはしばらく黙った。
それから、少しずつ表情を戻していった。
頼られて安心した顔ではない。
許されて甘える顔でもない。
自分がまだ進めると分かった顔だった。
「じゃあ、わたし、ちゃんと謝る」
「ああ」
「それで、次は床を二枚までにする」
「ゼロにしろ」
「うん! ゼロを目指す!」
「目指すではなく、ゼロにしろ」
「ゼロにする!」
勢いよく言い直したあと、レトは胸の前で拳を握った。
「わたし、戦闘班だもんね」
「ああ」
「遊撃だもんね」
「ああ」
「単騎でも行けるもんね」
「行ける」
「でも、帰ってくるんだよね」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
レトは続けた。
「お兄さんのところに」
局長室の空気が、わずかに静まった気がした。
それは魔術ではない。
魔力の揺れでもない。
ただ、私が息を止めただけだった。
「そうだ」
私は答えた。
「お前は帰ってくる」
「うん」
「任務に出ても、訓練で失敗しても、怒られても、泣いても、必ず帰ってこい」
「うん!」
「私のところでなくてもいい。監理局に帰ってこい」
「やだ」
即答だった。
私は眉を上げる。
「やだ?」
「お兄さんのところがいい」
「私は常に局長室にいるわけではない」
「じゃあ探す」
「任務中なら会えない」
「帰ってきたら会う」
「会議中なら待つことになる」
「待つ」
「長いぞ」
「待てる!」
「本当か」
「……たぶん!」
正直だった。
私は短く笑った。
レトはその音に気づいて、ぱっとこちらを見た。
「お兄さん、笑った?」
「少しな」
「いまの、面白かった?」
「少しな」
「やった!」
なぜか勝利した顔をした。
まったく分からない勝敗基準だ。
だが、レトは嬉しそうだった。
その嬉しさだけで、局長室の硬い空気が少し柔らかくなる。
私は立ち上がった。
「行くぞ」
「どこに?」
「戦闘班に謝罪だ」
「いま!?」
「後回しにすると行きづらくなる」
「う……それは、そう」
「それから、技術班に修理依頼を出す」
「うん」
「最後に班長の帽子の弁償手続きだ」
「帽子……」
「帽子だ」
「お兄さん、ついてきてね」
「そのつもりだ」
レトは私の横に来た。
いつもなら先に飛び出していく。
だが今日は、私の歩幅を待っている。
私は扉へ向かいかけて、ふと机を振り返った。
小さな硝子の椅子が、端末の横に置かれている。
私の方を向いて。
見守る係。
レトの言葉を思い出す。
馬鹿げている、と判断することは簡単だった。
だが、私はそれをしなかった。
この宇宙では、形に意味が宿る。
少なくとも、レトがそう信じて作ったものには、彼女の心が残る。
「お兄さん?」
レトが首をかしげた。
「行かないの?」
「行く」
私は扉を開けた。
廊下の照明が差し込む。
レトは一歩踏み出し、すぐにこちらを振り返った。
「お兄さん」
「なんだ」
「わたし、帰ってくるからね」
「ああ」
「ぜったい!」
「分かっている」
「でも、お兄さんもいてね」
私は少しだけ沈黙した。
その約束は、軽く言うべきではない。
私は局長だ。
この宇宙の秩序維持機関の長であり、必要なら前線にも立つ。
絶対という言葉を、私は簡単には使わない。
だが、レトは待っていた。
青白い高熱を抱えた、小さな彗星の娘が。
帰る場所の返事を。
「可能な限り、いる」
私はそう答えた。
レトは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「ぜったいじゃない」
「絶対ではない」
「むー」
「だが」
私はレトの頭に手を置いた。
淡い緑の髪が、指の下でやわらかく揺れる。
「お前が帰ってくる場所を、なくすつもりはない」
レトは目を丸くした。
それから、ぱあっと笑った。
あまりにも素直に。
まぶしいほどまっすぐに。
「うん!」
廊下へ出る。
レトは私の隣を歩いた。
謝罪に向かう足取りとしては、少し軽すぎる。
だが逃げてはいない。
なら、それでいい。
小さな硝子の椅子は、局長室の机の上に残っている。
座れない椅子。
役に立たない装飾品。
だが、私が疲れたときに見るためのもの。
帰る場所の形。
私は歩きながら思った。
レトは、私が保護した存在ではない。
私が管理している戦力でもない。
彼女は、帰ってくる。
そのために、私はここにいる。
局長として。
そして、おそらく。
彼女の言うところの、お兄さんとして。




