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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち  作者: 硝子玉の宇宙


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第8話-遅延、0.7秒

ロジーは、その日もいつも通りだった。


少なくとも、見た目は。


「はーい! 情報班のかわいい天才、ロジーちゃんだよー! 今日の記録分類、ぜーんぶ終わってまーす! えらい! 褒めて!」


廊下の床を軽く跳ねるように歩きながら、頭上のデバイスをくるくる回転させる。

表示されているホログラムには、提出済み資料の一覧、未読通信の分類、監理局内の小さな業務メモが並んでいた。


いつもなら、その表示はロジーの瞬きより速く切り替わる。


でも今日は。


一拍、遅れた。


ほんの少し。

人間なら気づかない。

職員なら、たぶん「通信負荷かな」と思う程度。


けれどロジーには、分かった。


自分の頭の中で、言葉が一瞬だけ途切れた。


「……」


笑顔のまま、ロジーは歩いた。


「えーっと、次はー、資料棚の更新とー、戦闘班の報告ログとー、えへへ、ロジーちゃん大人気すぎー」


声は明るい。

足取りも軽い。

いつも通り、誰かに見られたら「今日も騒がしいな」で終わる。


けれど、胸の奥では別のものが鳴っていた。


遅れた。

いま遅れた。

処理が遅れた。

制御が遅れた。

次はどれくらい遅れる?

一秒?

三秒?

十秒?

その次は?


――何も考えられなくなる?


ロジーは笑った。


「やだなー、通信混んでる? ロジーちゃんのかわいさで回線詰まっちゃった?」


誰もいない廊下に、軽口だけが跳ねた。


でも返事はなかった。

当然だ。誰もいない。


その当然が、少しだけ怖かった。


ロジーは自分の手を見た。

小さな手。

力のない手。

誰かを殴るためでも、何かを壊すためでもない手。


記録するための手。

残すための手。

まだ、動く手。


「……だいじょうぶ」


小さく言った。


「だいじょうぶ、ロジーちゃんは、だいじょうぶ」


言葉にした瞬間、デバイスの表示がまた一瞬固まった。


ロジーは息を止めた。


頭の中に、真っ白な間が落ちた。


ほんの一瞬。

でも、ロジーには永遠みたいだった。


次の瞬間、表示が戻る。


「……っ」


ロジーは笑顔を作り直した。


作り直した、つもりだった。


けれどその口元は、少し震えていた。



---


局長室の扉の前まで来て、ロジーは立ち止まった。


相談するつもりはない。


そんなことを言ったら、きっとジェレミーは対策を考える。

医療班に通す。

技術班に確認させる。

副長に状況を共有する。

必要なら、ロジーの稼働記録を全部洗う。


それは正しい。


正しすぎて、怖い。


「……別に、用事ないし」


ロジーは扉の前で、両手を後ろに組んだ。


「局長忙しいし。私、ただ通りかかっただけだし。偶然だし。ぜんぜん、ぜーんぜん」


そう言って、ノックした。


返事はすぐに来た。


「入れ」


いつもの声だった。


冷静で、無駄がなくて、少し低い声。

ロジーはそれだけで、喉の奥がきゅっとなった。


扉が開く。


ジェレミーは机に向かっていた。

書類の束。端末の光。

その横に、冷めかけたコーヒー。


「ロジーか。どうした」


「んー? 別にー? 局長が寂しがってるかなーって思って、かわいい部下が顔見せに来てあげたの!」


いつも通りの軽口。

いつも通りのポーズ。

いつも通りの笑顔。


ジェレミーは数秒、ロジーを見た。


それだけで、ロジーは少し後悔した。


この人は、見逃してくれない。


「そうか」


でもジェレミーは何も聞かなかった。


「なら、そこに座っていろ」


「え?」


「顔を見せに来たのだろう。見える位置にいろ」


「……局長、言い方が雑ー。女の子の扱い、下手ー」


「否定はしない」


ロジーはソファに座った。


座って、足をぶらぶらさせる。

いつもなら勝手に端末をいじったり、書類を覗いたり、局長のコーヒーに砂糖を入れすぎたりする。


でも今日は、何もしなかった。


頭上のデバイスが、静かに回転している。


表示が遅れる。

0.4秒。

0.6秒。

0.7秒。


ロジーは膝の上で手を握った。


見ないで。

気づかないで。

でも、気づいて。

聞かないで。

でも、置いていかないで。


矛盾した気持ちが、ぐるぐる回る。


ジェレミーは書類を読んでいた。

だが、ページをめくる速度がいつもより遅い。


ロジーに合わせているのだと、ロジーには分かった。


「局長」


「何だ」


「……コーヒー、冷めてるよ」


「そうだな」


「飲まないの?」


「今はいい」


「ふーん」


沈黙。


ロジーは笑おうとした。


「ロジーちゃんが来たから、緊張しちゃった?」


「違う」


「じゃあ、かわいすぎて集中できない?」


「それは少しある」


「……」


いつもなら、そこで大騒ぎする。

「局長が認めた! ロジーちゃんかわいい公式認定!」と騒いで、廊下まで走って、職員に広めて、レトに自慢する。


でも今日は、声が出なかった。


ジェレミーは顔を上げた。


「ロジー」


「なにー?」


「今日は、ここにいろ」


ロジーの笑顔が、ほんの少し崩れた。


「……なにそれ。業務命令?」


「そうだ」


「理由は?」


「私がそう判断した」


「横暴だー」


「そうだな」


「局長、最近ちょっと甘やかしが雑じゃない?」


「否定はしない」


ロジーは膝を抱えた。


笑顔を作る。

でも、目元が熱い。


「……相談しに来たわけじゃないよ」


「ああ」


「困ってないし」


「ああ」


「怖くないし」


「ああ」


「私、ちゃんと考えられるし」


「ああ」


「まだ、分かるし」


「ああ」


そこで、声が割れた。


「まだ、私だし」


ジェレミーは何も言わなかった。


ただ席を立ち、ソファの前まで来た。

膝をつくことはしない。

慰めるように頭を撫でることもしない。


ロジーがそれをされたら、きっと耐えられないと知っているから。


ジェレミーは、ただ近くに立った。


逃げられる距離。

でも、ひとりではない距離。


「ロジー」


「……なに」


「確認する。返事は不要だ」


「うん」


「お前は今、ここにいる」


「……うん」


「自分の名前を理解している」


「うん」


「私の声を聞いている」


「うん」


「部屋の位置を把握している」


「……うん」


「なら、今この瞬間、お前は停止していない」


ロジーは唇を噛んだ。


そんなこと、分かっている。

分かっているのに、怖い。


「でも、次は分かんないじゃん」


小さな声だった。


「次、止まったら? 次、戻らなかったら? 私、分からなくなったら? 記録も、みんなのことも、レトの声も、エルの変な魔法アイテムも、局長の顔も、副長のむかつく笑顔も、ぜんぶ、ぜんぶ……」


言葉が詰まる。


ロジーは慌てて笑おうとした。


「なーんてね! 暗いロジーちゃん、記録価値低いから今のなし! 削除削除!」


「削除は許可しない」


ジェレミーが即答した。


ロジーは目を見開いた。


「……え」


「今の言葉は、記録しておけ」


「やだ」


「なら、私が覚えておく」


「……やだよ」


「お前が忘れても、私が覚えておく」


ロジーの手が、膝の上でぎゅっと丸まった。


「そういうの、ずるい」


「知っている」


「局長、そういうとこ、ほんとずるい」


「それも覚えておく」


ロジーは俯いた。


デバイスがまた遅れる。

でも今度は、息が止まらなかった。


止まっていない。

まだ、ここにいる。

局長の声が聞こえる。


「……じゃあ、ちょっとだけ」


「何だ」


「ここにいる」


「ああ」


「相談じゃないから」


「ああ」


「業務妨害でもないから」


「私が許可した」


「……うん」


ロジーはソファの端に座ったまま、膝を抱え直した。


ジェレミーは机に戻る。

何事もなかったように書類を読む。


部屋には、紙の擦れる音と、端末の小さな駆動音だけが残った。


ロジーは目を閉じた。


怖い。

まだ怖い。

たぶん、ずっと怖い。


でも今は、ひとりで怖がらなくていい。



---


しばらくして、副長が局長室を訪ねてきた。


「失礼します。局長、先ほどの会議資料について――」


扉を開けた瞬間、副長はソファのロジーを見た。


ロジーはすぐ顔を上げた。


「やっほー副長! ロジーちゃん、局長室を占拠中でーす!」


声は明るい。

でも目元が赤い。


副長は一瞬だけ視線を止め、それからいつもの薄い笑みを浮かべた。


「それは大変ですね。では、私は占拠犯にお茶菓子を差し入れましょう」


「対応が甘い! 監理局の危機管理どうなってるの!」


「局長室を占拠するほど恐ろしい相手ですから。刺激しない方針です」


「ふふん、分かってるじゃん」


副長は局長に資料を渡しながら、自然な動作でテーブルに小さな菓子袋を置いた。


ロジーの好きな、きらきらした包装のキャンディだった。


「……なにこれ」


「押収品です」


「絶対うそ」


「では、賄賂です」


「もっとだめじゃん!」


「では、差し入れです」


ロジーは袋を見つめた。


開けようとして、手が止まる。


デバイスの表示が、またわずかに遅れた。


副長は見ていた。


けれど、何も言わなかった。


ただ、ロジーの正面ではなく、少し斜めの席に座った。

逃げ道を塞がない位置。

でも、そばにいる位置。


「ロジーさん」


「なに」


「本日の私の予定ですが、しばらく局長室で資料確認を行います」


「……ふーん」


「ですので、騒がしい方がいても問題ありません」


「誰のことー?」


「さて。心当たりが多すぎて」


「副長、性格わるーい」


「よく言われます」


ロジーはキャンディの袋を開けた。

一粒取り出して、口に入れる。


甘い。


それだけで、少しだけ現実に戻れた気がした。


「ねえ、副長」


「はい」


「副長ってさ」


「はい」


「私がなんにも分かんなくなったら、どうする?」


空気が止まった。


ロジーは慌てて笑った。


「あ、今の冗談ね! すっごい重い冗談! 記録禁止!」


副長は笑みを消さなかった。


けれど、声だけが少し柔らかくなった。


「まず、困りますね」


「……困るんだ」


「ええ。非常に」


「業務的に?」


「それもあります」


「それ以外は?」


「寂しいです」


ロジーは黙った。


副長は続けた。


「それから、腹が立つでしょうね」


「誰に?」


「状況に。運命に。過去に。何より、私がまだ打てる手を打ち尽くせていなかったことに」


「……副長、そういうの似合わない」


「私もそう思います。ですが、似合わない感情を持つことくらいあります」


ロジーは小さく笑った。


「大人なのに?」


「大人ですから」


「大人って、そういうこと言わないんじゃないの」


「言わないだけです」


「じゃあ、言っちゃだめじゃん」


「今日は、言った方がよい日だと判断しました」


ロジーはキャンディを噛んだ。


かり、と小さな音がした。


「……私、相談してないよ」


「承知しています」


「弱音でもないよ」


「はい」


「ただ、なんとなく聞いただけ」


「そうですね」


「副長も局長も、そういうことにしといて」


ジェレミーが書類から目を上げずに言った。


「了解した」


副長も頷く。


「承知しました」


ロジーはうつむいたまま、笑った。


「ふたりとも、ほんとにさあ」


声が少し震える。


「やさしいの、へた」


副長が軽く首を傾げた。


「では、練習しておきます」


「しなくていい」


「いえ、必要です。ロジーさんがまた局長室を占拠するかもしれませんので」


「しないし」


「では、私の執務室を占拠しますか?」


「……」


ロジーは少し考えた。


「それは、するかも」


「では、菓子を常備しておきます」


「かわいいやつね」


「承知しました」


ジェレミーが静かに言った。


「副長」


「はい」


「私の分も用意しておけ」


「局長も占拠される側では?」


「占拠中に食べる」


副長は一拍置いて、笑った。


「承知しました」


ロジーも、少しだけ笑った。


ちゃんと笑えた。


デバイスはまだ遅い。

不安は消えない。

怖さも、消えない。


けれど、ロジーはキャンディの包み紙を丁寧に伸ばして、デバイスに記録させた。


今日の記録。


局長室。

遅延あり。

思考停止なし。

局長、在室。

副長、在室。

キャンディ、甘い。


そして最後に、少し迷ってから追記した。


――怖かった。

――でも、ひとりではなかった。


ロジーはその記録を消さなかった。


消したくなかった。


翌日


『なにも言わない日』


翌朝の食堂は、いつも通り騒がしかった。


生活班の職員が配膳口で朝食を並べ、戦闘班が今日の訓練予定を確認し、技術班が端末を片手に何か言い合っている。


その中に、ロジーがいた。


「おっはよー! 今日も世界でいちばん記録価値の高いロジーちゃんだよー!」


声はいつも通り。

勢いもいつも通り。

両手を上げて、くるっと回って、頭上のデバイスにきらきらしたエフェクトまで出している。


でも、目元が少し赤かった。


ほんの少し。

知らない人なら、眠かったのかな、で済ませるくらい。


けれど、局長は見た。

副長も見た。


二人とも、何も言わなかった。


ジェレミーはいつも通りコーヒーを受け取り、席に着く。

副長はいつも通り、にこやかに資料をめくる。


ロジーはそれをちらっと見た。


何も言わない。

昨日のことを聞かない。

心配そうな顔もしない。

腫れ物みたいにも扱わない。


それが、ありがたかった。


「局長ー! 今日のロジーちゃん、朝からえらいよ! 遅刻してない!」


「普段からそうしろ」


「厳しい! かわいい部下への第一声がそれ!?」


「かわいいことと遅刻は別問題だ」


「ぐう正論! 副長、局長がいじめる!」


副長は薄く笑った。


「では、ロジーさんが遅刻しなかった記念に、あとで記録班に表彰状を発行させましょうか」


「やったー! ……いや、ばかにしてる?」


「半分ほど」


「正直!」


いつもの会話だった。


ロジーは笑った。

昨日より少しだけ自然に。


そこへ、レトが食堂に飛び込んできた。


「ロジー! おはよー!」


淡緑の髪がふわっと揺れて、左のワンサイドテールが跳ねる。

レトは牛乳の入ったトレーを持ったまま、ロジーを見つけてぱあっと顔を輝かせた。


そして、すぐに止まった。


「……ロジー?」


ロジーの目元を見た。


ほんの少し赤い。

いつもより、笑顔の端が不安定。


レトは何かを言いかけた。


「ロジー、め――」


ジェレミーも副長も、止めなかった。


ロジーも、笑顔のまま固まった。


聞かれたら、たぶん誤魔化す。

いつもの調子で。

「美少女は涙袋も演出する時代!」とか言って。

でも、うまく笑えるかは分からなかった。


レトの口が、途中で止まる。


それから、レトはトレーを近くの職員に押し付けた。


「持ってて!」


「え、レトさん?」


次の瞬間。


「ロジーーーーー!!」


レトが全力で抱きついた。


「わっ、ちょ、レト!? なになに!? 朝から突撃!?」


「ロジー! ロジー! 今日も小さくてかわいい! ふわふわ! きらきら! えらい! あったかい!」


「待って待って待って! なで方! なで方が犬!」


「ロジーちゃんかわいい! ロジーちゃん元気! ロジーちゃん天才! ロジーちゃん大好き!」


「うわああああ! 言葉の暴力! 愛情の物量攻撃!」


レトはロジーをぎゅうぎゅう抱きしめて、頭をなで、背中をなで、ほっぺたを両手で包み、また抱きしめた。


「ちょっと! 髪! 私のツインおさげが! 記録価値の高い形状が崩れる!」


「直す! あとで直すから!」


「今直して!」


「今はなでる!」


「なんで!?」


「わかんないけど、なでたいから!」


ロジーは騒いだ。

大声を出した。

手足をばたばたさせた。


でも、逃げなかった。


レトは何も聞かなかった。

目元のことを言わなかった。

昨日何かあったの、と言わなかった。


ただ、ロジーを抱きしめて、騒がしくなで回した。


それがレトの精一杯だった。


気づいた。

でも、分からない。

分からないから、聞かない。

聞いたらロジーが困る気がした。


だから、レトは自分の中で一番まっすぐな行動を選んだ。


「ロジー、かわいい!」


「知ってる!」


「大好き!」


「知ってる!」


「もっと大好き!」


「それは……知ってるけど、もっと言っていい!」


「ロジー大好きー!」


「よし! 許す!」


ロジーは笑った。


今度は、かなりちゃんと笑えた。



---


少し遅れて、エルが食堂に入ってきた。


白髪の毛先に淡いピンクを揺らしながら、ふわっとした足取りでロジーたちの席に近づく。


エルも、ロジーの目元を見た。


そして、何かを言おうとして。


やめた。


「ロジー」


「あ、エル! 助けて! レトが朝から過剰供給!」


「んー」


エルはロジーの隣に座った。


ぴったり。


本当にぴったり。


肩が触れる距離。

逃げる隙間はあるけど、離れてはいない距離。


ロジーは横目でエルを見た。


「……近くない?」


「近いね」


「自覚あるんだ」


「あるよ」


「じゃあ、なんで?」


エルは少し考えた。


直接的な言葉を使わないように。

心配してる、とは言わない。

怖かったの、とは聞かない。

大丈夫、とも言わない。


ロジーが、それを望んでいない気がしたから。


「今日は、ここがいい」


エルはそう言った。


ロジーは黙った。


「……そっか」


「うん」


「なら、仕方ないね。創造者様のお気に入り席だからね」


「そう」


「私のとなり、高いよ?」


「何を払えばいい?」


「かわいいお菓子」


「あとで作る」


「変な魔法アイテム入りじゃないやつね」


「たぶん」


「たぶんって言った!」


エルは小さく笑った。


そのまま、ロジーの隣に座っていた。


何もしない。

撫でない。

抱きしめない。

言葉で慰めない。


ただ、ぴったり隣にいる。


ロジーは少し肩を縮めた。


でも、離れろとは言わなかった。


レトはまだロジーの腕にくっついている。

エルは反対側にいる。

右も左も、近い。


「……なにこれ」


ロジーがぼそっと言った。


「箱庭の娘サンド?」


レトが嬉しそうに言う。


「ロジーサンド!」


「食べ物みたいに言うなー!」


エルが淡々と付け加える。


「かわいい」


「エルまで雑に褒めてくる!」


「かわいいから」


「うっ」


ロジーは顔をそらした。


目元が赤いのを見られたくない。

でも、もうきっと見られている。


それなのに、誰もそこを指ささない。


局長も。

副長も。

レトも。

エルも。


みんな、見ている。

でも、暴かない。


ロジーはそれが、少しだけ痛くて、少しだけあたたかかった。



---


副長がコーヒーを置きながら、いつもの調子で言った。


「本日の食堂は、やや密集していますね」


ロジーは顔を上げる。


「副長も混ざりたいの?」


「遠慮しておきます。私が混ざると、局長に詰められる可能性がありますので」


ジェレミーが淡々と言う。


「詰める」


「ほら」


「お兄さん、副長には厳しいね!」


「レトにも必要なら厳しくする」


「わたし、今日はいい子!」


「そうだな」


レトはぱあっと笑った。


「えへへ! お兄さんが認めた!」


ロジーがすかさず言う。


「はい記録! 局長、レトに甘い!」


「事実を曲解するな」


「曲解じゃないもーん。レト、今の保存しよ」


「保存する!」


「許可していない」


「局長の許可なくても、私の記憶には残りまーす」


ロジーがいつものように言い切って。


そのあと、一瞬だけ、言葉が止まった。


記憶には残る。


残せる。

今は、まだ。


ほんの少しだけ、指が震えた。


それを、レトが見た。


レトは何も言わず、ロジーの手をぎゅっと握った。


「……レト?」


「手、あったかいね」


「急にどうしたの」


「確認!」


「何の?」


「ロジーがここにいる確認!」


ロジーは目を見開いた。


ジェレミーが昨日言った言葉を、レトは知らない。

副長も教えていない。

ロジーも言っていない。


でも、レトはレトなりに、同じ場所へたどり着いた。


ここにいる。

今、いる。

手があったかい。


それだけを、握って確かめる。


ロジーは少しだけ笑った。


「……レトってさあ」


「なあに?」


「たまに、すごいね」


「えっへん!」


「褒めてないかもよ?」


「でも、すごいって言った!」


「前向きー」


エルが反対側から、ロジーの肩にこつんと頭を預けた。


「ロジー、いる」


「……うん」


「レトもいる」


「うん」


「あたしもいる」


「うん」


「ジェレミーもいる」


ジェレミーはコーヒーを飲みながら、短く返した。


「いる」


副長も資料をめくりながら言う。


「私もおります」


ロジーは眉を寄せた。


「なにこれ、点呼?」


副長が微笑む。


「朝礼の一種ということで」


「雑!」


「では、ロジーさんも」


「え?」


副長は何でもないことのように言った。


「ロジーさんは?」


ロジーは固まった。


みんなが見る。

でも、急かさない。


ロジーはレトに手を握られたまま、エルに寄りかかられたまま、局長と副長のいる食堂で、小さく息を吸った。


「……いるよ」


声は小さかった。


でも、ちゃんと出た。


「私、いる」


レトが勢いよく抱きついた。


「いるー!」


「うわあ! だから勢い!」


エルもそのまま寄りかかる。


「いるね」


「重い! ふたりとも小さいのに密度がすごい!」


副長が穏やかに言う。


「記録価値の高い朝ですね」


ロジーは少しだけ目を潤ませた。


でも今度は、泣かなかった。


「……記録する」


ロジーはデバイスを起動した。


少しだけ遅延がある。

けれど、表示は出る。


今日の記録。


食堂。

目元、少し赤い。

局長、何も聞かない。

副長、何も聞かない。

レト、抱きついて騒ぐ。

エル、隣に座る。

全員、いる。


ロジーは最後に、少し迷ってから追記した。


――言われなかったから、助かった。

――言われなかったのに、伝わった。

――だから今日は、消さない。


そしてロジーは、いつもの声で叫んだ。


「よーし! 朝ごはん食べる! ロジーちゃん、今日はプリンも欲しい!」


レトが即座に反応する。


「プリン!? わたしも!」


ジェレミーが言う。


「朝食後だ」


「えー!」


ロジーも一緒に騒ぐ。


「局長のけちー!」


副長が笑顔で追加する。


「では、業務開始前に小さめを一つずつで調整しましょう」


ジェレミーが副長を見る。


「副長」


「はい」


「甘やかすな」


「本日は特例です」


レトがぱあっと笑い、ロジーが勝ち誇った顔をして、エルが小さく「プリン」と呟いた。


食堂はいつも通り騒がしい。


いつも通りで。


でも、少しだけ特別だった。

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