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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第8話-幸せに縛られたいきもの

エルの紹介エピソードだよ!

エルは『本当の幸せ』って名前の、人間じゃない存在なの。

だから、他人の発言や願望には勝手に反応しちゃうんだよね。

人間が呼吸をするように、本当の幸せを叶えようとしちゃう。

そんなおはなしだよ!

 エルは、人間が好きだった。


 人間の声が好きだった。


 廊下で誰かが誰かを呼ぶ声。


 食堂で笑う声。


 仕事に追われて、少しだけ荒くなる息。


 眠そうな返事。


 うれしい時に、本人も気づかないまま高くなる声。


 困っている時に、少しだけ小さくなる声。


 そういうものを聞いていると、エルは思う。


 人間は、よく揺れる。


 同じ形をしているのに、中身はいつも違う。


 うれしい。


 かなしい。


 つかれた。


 たのしい。


 こわい。


 さみしい。


 ほしい。


 たりない。


 その全部が、エルにはまだ難しい。


 けれど、だから見ていたかった。


 だから、聞いていたかった。


 だから、できるなら。


 少しだけ、幸せにしたかった。


 それは、エルの優しさだった。


 そして、エルの本能だった。


     ◆


 朝。


 惑星監理局、第七食堂。


 いつものように、湯気と匂いと足音が混ざっていた。


 焼きたてのパン。


 温かいスープ。


 眠そうな職員たち。


 朝から元気な職員たち。


 夜勤明けで、椅子に座った瞬間に魂が半分抜けている職員たち。


 その中を、エルは小さなトレイを持って歩いていた。


 白い髪の先の淡いピンクが、食堂の光にふわりと透ける。


 エルはゆっくり歩いている。


 けれど、よく見ると少しだけ浮いている。


 歩く真似をしているだけだった。


 人間が歩いているから、エルも歩く。


 右足。


 左足。


 ふわり。


 右足。


 左足。


 ふわり。


 食堂班の職員が、エルのトレイに小さなパンを一つ乗せた。


「エルさん、今日は甘いパンもありますよ」


「甘い」


「はい。朝限定です」


「朝の甘い」


 エルはパンを見た。


 表面に砂糖が薄くまぶされている。


 きらきらしていた。


「朝、きらきら」


「そうですね」


 職員は笑った。


 エルはその笑顔を見た。


 それから、窓際の席へ向かう。


 レトはまだ来ていない。


 ロジーもまだ来ていない。


 だからエルは一人で座った。


 スープの湯気を見ていると、近くの席で、夜勤明けの職員がぽつりと言った。


「朝って、つらいな……」


 ただの独り言だった。


 誰かに言ったわけではない。


 疲れた体が、勝手にこぼしただけの言葉。


 けれど、監理局の職員は、エルの前で感情を吐露すること自体を禁止されているわけではない。


 むしろ、権限を持つ職員は、エルに聞かれた時、はぐらかさず説明するよう訓練されている。


 今の自分が、何を感じているのか。


 それは何を望んでいる言葉なのか。


 魔法で叶えるべき願望なのか。


 それとも、ただ聞いてほしい感情なのか。


 職員は、それを言葉にできる。


 言葉にできるから、エルの近くにいられる。


 エルは聞いていた。


「朝、つらい?」


 職員は顔を上げた。


 驚きはしたが、慌ててごまかそうとはしなかった。


「はい。今の私は、夜勤明けで疲れています。体が眠りたがっているので、朝を少しつらく感じています」


 エルはうなずいた。


「朝、つらいより、楽しいほうがいい?」


「楽しい朝は好きです」


 職員は優しく答えた。


「でも、今の私に必要なのは、朝を楽しくすることではなく、食事をして休むことです」


 エルは聞いていた。


 聞いていた。


 けれど、その言葉より先に、エルの内側が動いた。


 朝がつらい。


 楽しい朝は好き。


 その響きが、エルの名前に触れた。


 本当の幸せ。


 そう定義された旧世代。


 願望に呼応することは、エルにとって考えて行う行為だけではない。


 それは、息をすることに近い。


 光へ手を伸ばすことに近い。


 泣いている子へ近づくことに近い。


 エルは、勝手にやってはいけないことを知っている。


 聞くこと。


 待つこと。


 本人の幸せを確認すること。


 何度も教わっている。


 それでも、願望に反応する本能が、考えるより先に指先へ集まった。


「楽しい朝」


 エルが小さく言った。


 指先に、淡い光が集まる。


 それは、ひどくやさしい光だった。


 誰かを傷つけるようには見えない。


 むしろ、見ているだけで気持ちがほどけるような、柔らかい朝の色だった。


 エルの前のスープから、湯気がふわりと立ち上がる。


 湯気は小さな鳥になった。


 金色の鳥。


 それが一羽、二羽、三羽と、食堂の天井近くを回り始める。


 パンを割った職員の手元から、小さな朝焼けがこぼれた。


 机の上に、露草のような光が咲く。


 窓の外には、本来の照明とは別に、まだ存在しないはずの朝日が薄く生まれかけた。


 食堂の一角だけが、朝祭りのようになっていく。


 明るい。


 楽しい。


 幸福そうだった。


「わあ……」


 誰かが思わず声を漏らした。


 その声に反応するように、金色の鳥が一羽増える。


 眠そうだった職員の目に、ほんの少し光が戻った。


 疲れていた顔が、明るくなる。


 スープの湯気が歌うように揺れた。


 エルは小さく満足そうにした。


「楽しい朝」


 その瞬間、食堂班の主任が静かに一歩前へ出た。


「エルさん」


 声は穏やかだった。


 だが、呼ぶのは早かった。


 エルは主任を見る。


 指先の光が揺れる。


 そこでようやく、自分が先に作ってしまったことに気づいたようだった。


「あ」


 小さく声が漏れる。


「聞く、だった」


「はい」


 主任は頷いた。


「ですが、止められる段階です。今、確認しましょう」


 叱責ではない。


 禁止でもない。


 手順へ戻す声だった。


 エルは指先を見た。


「楽しい朝、だめ?」


「だめではありません」


 主任は言った。


「とてもきれいです」


 金色の鳥が、主任の肩の近くを通った。


 主任はそれを見て、少しだけ目を細める。


「ですが、先に確認します。これは、眠気を消していますか?」


 エルは首を傾げる。


「眠気、消してない」


「疲労感を楽しい気持ちで上書きしていますか?」


 エルは少し考えた。


「つらい朝を、楽しい朝にしてる」


「その場合、疲れているという体の情報が薄くなるかもしれません」


「情報」


「はい。眠いこと、つらいこと、疲れていることは、体が休みたいと伝えている情報です」


 エルは金色の鳥を見た。


 鳥たちは楽しそうに飛んでいる。


 職員たちも、少し笑っている。


「でも、楽しい」


「はい。楽しいです」


「楽しいのに、止める?」


「楽しいからこそ、確認します」


 主任は、夜勤明けの職員へ視線を向けた。


「あなたは今、楽しい朝が必要ですか。それとも休息が必要ですか」


 職員は、金色の鳥を見上げていた。


 その顔は、少しだけ名残惜しそうだった。


 けれど、ゆっくりとうなずく。


「休息が必要です。楽しい朝は好きですが、今は眠った方がいいです」


 エルは職員を見る。


「楽しい朝じゃなくて?」


「今は、休むための朝がいいです」


 エルは黙った。


 指先の光が、ほんの少し揺れる。


「楽しい朝、休むの邪魔?」


「邪魔になることもあります」


 主任が言った。


「朝を楽しくすることと、疲れている人を休ませることは別です」


 エルは、金色の鳥を見た。


 鳥たちは、まだ楽しそうだった。


 だが、エルが手を下ろすと、一羽ずつ湯気に戻っていく。


 机の上の露草も、光を閉じた。


 窓の外に生まれかけていた朝日は、何もなかったように消える。


 食堂の一角は、いつもの朝に戻った。


 夜勤明けの職員は、少し寂しそうに笑った。


「でも、きれいでした」


 エルは顔を上げる。


「きれい?」


「はい。すごく。休んだ後なら、見たいです」


 エルは少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、今度、休んだあと」


 主任がうなずく。


「それなら、検査してからにしましょう」


「検査」


「はい」


「楽しい朝、検査」


「お願いします」


 エルは覚えたようにうなずいた。


「休む人には、休む朝」


 夜勤明けの職員は、少し笑った。


「それは助かります」


     ◆


 午前。


 エルは廊下を歩いていた。


 人間の一日は、いろいろな場所に分かれている。


 食堂。


 廊下。


 情報班。


 技術班。


 医療班。


 中庭。


 監理班の部屋。


 局長室。


 それぞれに匂いが違う。


 音が違う。


 歩いている人間の顔も違う。


 エルは、それらを見るのが好きだった。


 技術班の前を通りかかった時、職員が床にしゃがみ込んでいた。


「ないな……どこだ……」


 工具箱が開いている。


 部品がいくつも並んでいる。


 そのうち一つ、小さな銀色の留め具がなくなったらしい。


 職員は床に顔を近づけ、机の下や棚の隙間を探していた。


 エルは近づいた。


「探し物?」


「あ、エルさん。はい。小さな部品を落としてしまいました」


 職員はそのまま説明する。


「今の感情は、少し困っている、です。作業が止まっているので焦りもあります。ただ、部品を一緒に探してもらえれば十分です」


 エルはうなずいた。


「一緒に探す」


 そう言った。


 そう言ったのに、落ちた部品を探すという願いが、エルの内側へ触れた。


 探している。


 見つけたい。


 見つかったらうれしい。


 その願いは小さい。


 小さいけれど、本当だった。


 エルのポケットの中で、透明なしおりが光り始める。


 エルはそれに気づいて、手を止めた。


「……まだ」


 小さく言う。


 聞く。


 使っていいか、聞く。


 分かっている。


 けれど、星砂はもう指先へ集まっていた。


 旧世代は、名前に縛られる。


 本当の幸せは、見つかれば幸せになる願いを、見過ごすことが苦手だった。


 エルは、ポケットから小さなしおりのようなものを出した。


 透明な板に、星の砂が閉じ込められている。


 中で小さな光が流れていた。


「これ」


 職員の顔が一瞬で変わった。


「エルさん、それは未検査ですか?」


「未検査」


「では、使う前に確認します」


「探し物の道」


 エルがしおりを軽く振った。


 星砂がひと粒、床に落ちる。


 すると、床の上に細い光の足跡が現れた。


 きらきらとした、小さな道。


 それは机の脚を回り込み、棚の下へ続いている。


 職員は息を呑んだ。


「すごい……」


 星砂の道は、確かに探し物の場所を示していた。


 棚の下、奥のほうに、銀色の留め具が光っている。


 華やかで、便利で、分かりやすい。


 だが、次の瞬間、廊下の別方向にも星砂がこぼれた。


 一筋ではない。


 二筋。


 三筋。


 四筋。


 近くを歩いていた職員の足元から、別の星砂の道が伸びる。


 別の職員の胸元からも、淡い光がこぼれる。


 床の上に、いくつもの道が生まれ始めた。


 技術班の扉が開く。


 中から主任が出てくる。


「エルさん、停止してください」


 エルはしおりを見た。


「探し物の道」


「対象は、今聞いた部品だけですか」


「探してるもの」


「それは広すぎます」


 主任は声を荒げない。


 けれど、言葉は早い。


「人が探しているものは、物品だけではありません。なくした記憶、会いたい相手、帰れない場所、戻らない時間、答え、理由、許し、消えた星。そうしたものまで道が出る可能性があります」


 エルは床を見た。


 星砂の道は美しかった。


 廊下の白い床に、夜空の川が流れるようだった。


 でも、そのうち一本は、誰もいない壁の方へ伸びている。


 もう一本は、閉鎖区画の扉へ向かっている。


 別の一本は、途中で宙に浮き、どこにも届かないまま震えている。


 探しているもの。


 見つかるとうれしいもの。


 見つけたいもの。


 でも、見つけてはいけないもの。


 職員たちは、感情を隠さない。


 ただ、説明する。


「私は今、驚いています」


 部品を探していた職員が言った。


「そして、部品が見つかって助かっています。でも、この道が他の人の探し物まで示しているなら、怖いです」


 エルはその職員を見る。


「助かる。怖い」


「はい。両方です」


 エルは星砂の道を見た。


「きれいなのに」


「はい。きれいです」


 主任は言った。


「そして、危険です」


「危険」


「はい。見つからないことで守られているものもあります。まだ探してはいけないものもあります。本人が本当に見つけたいのか、分からないものもあります」


 エルはしおりを見た。


「探し物、見つかるとうれしい」


「うれしいこともあります」


「うれしくないこともある?」


「あります」


 エルは少しだけ目を伏せた。


 星砂の道が、一つずつ薄れていく。


 最後に、棚の下へ続く道だけが残った。


「部品だけ」


 エルが言う。


「今、聞いたものだけ」


 主任はうなずいた。


「それなら助かります」


 職員が棚の下から留め具を取り出した。


「あった……ありがとうございます、エルさん」


 エルはしおりをしまった。


「使う前に、聞く」


「はい」


「聞く前に、出た」


「願いに反応したのですね」


 主任は責めなかった。


「次は、反応した時点で一度手を止めましょう」


 エルはうなずいた。


「手を止める」


     ◆


 昼前。


 監理班の区画近くで、職員が一人、机に突っ伏していた。


 完全に倒れているわけではない。


 意識もある。


 ただ、魂が椅子に置き去りにされている。


「疲れた……」


 机の上には書類が積まれている。


 隣の席の職員が、苦笑して言った。


「休憩行ってこいよ」


「あと三件だけ処理したら行く……」


「その三件が増えるんだよ」


「机に花でもあったら、少しは気分変わるかな……」


 エルは、その言葉を聞いた。


 花。


 疲れた人に花。


 それは分かりやすかった。


 美しくて、やさしくて、邪魔にならないように見える。


 エルは近づいて、机の横に立つ。


「花、いる?」


 職員は顔を上げた。


「ああ、エルさん。今の私は、疲れています。少し気分を変えたいと思いました。花があればうれしいですが、仕事を代わりにしてほしいわけではありません」


「花なら、いい?」


「普通の花なら、うれしいです」


 普通の花。


 エルは聞いた。


 聞いたから、普通の花にする。


 そう考えた。


 でも、疲れた人が花を見て少し幸せになるという願いが、エルの中でふくらむ。


 普通の花。


 うれしい花。


 疲れた人が、ちゃんと自分を休ませてもいいと思える花。


 今日がんばったことを、誰かが知っていると分かる花。


 そうなったら、きっと幸せだ。


 エルの両手が、自然に合わさる。


「あ」


 エル自身が気づいた。


「また、先」


 止めようとした。


 けれど、花瓶はもう現れていた。


 透明な硝子の花瓶。


 中には、水と、淡い青い花。


 花びらは柔らかく、見る角度によって色が変わる。青、白、薄紫、朝焼けの橙。疲れた目に痛くない光だった。


 花がゆっくり揺れる。


 すると、机の周囲の空気が少し変わった。


 紙の匂いが薄くなり、代わりに草原の匂いがした。


 花瓶の水面に、淡い文字が浮かぶ。


 今日、がんばったこと。


 処理済み報告書、十二件。


 確認ミス、ゼロ。


 後輩への助言、二回。


 食堂で落としたスプーンを拾った。


 職員が目を見開いた。


「これは……」


 花びらが揺れる。


 その揺れは、まるで小さく拍手しているように見えた。


 机の周りだけ、夕方の帰り道みたいな光になる。


 帰っていいよ。


 よくがんばったね。


 そう言われているような空気だった。


 職員の表情が、ゆるむ。


「ああ……すごく、助かります」


 隣の席の職員も、少しだけ目を細めた。


「いいな、これ……」


 その言葉に、花瓶の花が二輪増えた。


 さらに隣の机の上にも、小さな芽が出かける。


 監理班の副長補佐が、即座に立ち上がった。


「エルさん、確認します」


 エルは顔を上げる。


「疲れた人に、花」


「精神誘導は含んでいますか」


「誘導?」


「この花は、見る人の気分を変えていますか」


 エルは花を見る。


「うれしい花」


「記憶参照はしていますか」


「今日がんばったこと、見える」


「本人の記憶、または周辺記録を参照していますか」


 エルは少し考える。


「がんばったこと、花が知ってる」


「その時点で回収対象です」


 副長補佐は穏やかに言った。


 疲れていた職員が、花瓶を見た。


 名残惜しそうだった。


「今の私は、この花をかなりうれしく感じています」


 職員は自分の感情を、ゆっくり言葉にした。


「承認されたようで、楽になります。ですが、同時に少し危ないとも感じています。私が口にしていないことまで、花が知っているからです」


 エルはその言葉を聞く。


「うれしい。危ない」


「はい。両方です」


 副長補佐は言う。


「エルさん。疲れた人が花を欲しいと言った場合、花を置くこと自体は悪くありません」


「うん」


「ですが、その人の心を花が勝手に読んではいけません」


 エルは花瓶を見る。


「読んだら、うれしいこと、わかる」


「はい。分かるかもしれません」


「わかると、うれしい花になる」


「ですが、本人が見せるつもりのない疲れや、言葉にしていない願望まで花が拾うと、それは触れてはいけない場所に触れることになります」


 エルは黙った。


 花はまだきれいだった。


 職員はまだ、少し幸せそうだった。


 だから、余計に難しかった。


「うれしいのに」


 エルが言う。


「はい」


 副長補佐はうなずいた。


「うれしいからこそ、本人に聞きます」


「花、だめ?」


「普通の花なら大丈夫です」


「普通の花」


「はい。色がきれいで、香りがあって、机に置くと少し気分が変わる。そのくらいの花です」


「がんばったこと、出ない?」


「出ません」


「おつかれさま、言わない?」


「言いません」


 エルは少し残念そうにした。


「じゃあ、花、さみしい」


 疲れていた職員が、思わず笑った。


「普通の花でも、うれしいです」


 エルはその人を見る。


「ほんと?」


「はい。きれいなら、それで十分です。今の私は、普通の花を望みます」


 エルは花瓶に手をかざした。


 水面の文字が消える。


 帰り道の光も消える。


 拍手のように揺れていた花びらは、ただの花びらになった。


 淡い青い花が一輪だけ、硝子の花瓶に残る。


「普通の花」


 エルが言う。


 職員はそれを見て、少しだけ背筋を伸ばした。


「ありがとうございます、エルさん」


「疲れ、なおった?」


「少し気分が変わりました」


「それは、いい?」


「はい。それくらいが、ちょうどいいです」


 エルは小さくうなずいた。


「ちょうどいい、むずかしい」


 副長補佐も、少しだけ笑った。


「私たちも、毎日そう思っています」


     ◆


 昼。


 第七食堂。


 レトは戦闘班の訓練で不在だった。


 ロジーは情報班の用事で少し遅れている。


 エルは一人でトレイを持ち、窓際の席へ向かった。


 食堂は昼の明るさで満ちていた。


 会話が多い。


 食器の音が多い。


 朝より、みんな少し動きが早い。


 エルは席に座る。


 スープをすくう。


 その近くで、若い職員が一人、端末を閉じた。


「一人だと、味気ないな……」


 また、独り言だった。


 だが、エルは聞いた。


「味、ない?」


 職員は顔を上げる。


「あ、エルさん。味はあります。おいしいです」


 職員は少しだけ笑い、続けた。


「今の感情は、少し寂しい、です。誰かと食べたい気分です。ただ、誰でもいいから呼びたいわけではありません。今は、昔一緒に食べていた人を思い出しました」


 エルは静かに聞いた。


 思い出した人。


 一緒に食べたい人。


 でも、今はいない人。


 その寂しさは、願いの形をしていた。


 一人ではない食卓。


 にぎやかな食卓。


 誰かが向かいに座っている食卓。


 エルは、聞くことを知っている。


 勝手にしてはいけないことも知っている。


 けれど、寂しさはエルの内側に届いてしまう。


 寂しいなら、にぎやかに。


 一人なら、食卓に誰かを。


 それは、幸せに見えた。


「にぎやか」


 エルが小さく言った。


 スプーンを軽く振る。


 スープの湯気が、ふわりと小さな人形になった。


 パンくずが、机の上で小さく跳ねる。


 皿の縁に、拍手の花が咲いた。


 食卓の上に、小さな劇場ができる。


 湯気の人形たちは、くるくる回りながら踊った。


 パンくずは星のように跳ねて、皿の上に小さな道を作る。


 スープの表面には、小さな舞台の幕が映った。


 若い職員は、思わず笑った。


「すごい……」


 エルは満足そうにした。


「にぎやか」


 だが、次の瞬間、空席の椅子がわずかに引かれた。


 誰も座っていない。


 けれど、そこに誰かが座りそうな形に、椅子だけが動いた。


 湯気の人形が、若い職員の向かい側で手を振る。


 職員の表情が変わった。


 笑顔が、少しだけ止まる。


 食堂班の職員が、すぐに近づいた。


「エルさん、ここまでにしましょう」


 エルは人形たちを見る。


「一人、さみしいって」


「はい」


「だから、にぎやか」


「にぎやかさで助かる時もあります」


 食堂班の職員は言った。


「でも、その人が本当に欲しいのは、にぎやかな食卓ではなく、特定の誰かとの会話かもしれません」


 エルは若い職員を見る。


 職員は、少しだけ目を伏せた。


「今の私は、少しうれしかったです。でも、少しつらくもなりました。思い出した相手の代わりに何かが座ろうとしたからです」


「代わり」


「はい。代わりは、うれしい時もあります。でも、今は少し違いました」


 エルは黙った。


 湯気の人形たちは、まだ楽しげに踊っている。


 拍手の花も咲いている。


 でも、空席の椅子だけが、妙に寂しかった。


「呼べない人を、にぎやかで代わりにするのは?」


 エルが聞く。


 若い職員は、言葉を探した。


「少し、うれしいかもしれません。でも、少し、つらいです」


「うれしい。つらい」


「はい」


 エルは考えた。


「人間、同じことで、ふたつ」


「よくあります」


 食堂班の職員が言った。


「だから、本人に聞きます」


 エルはうなずいた。


 スープの人形が湯気に戻る。


 パンくずは、ただのパンくずになる。


 皿の縁の拍手の花も消えた。


 食卓は静かになった。


 エルは自分のトレイを持って、若い職員の向かいに座る。


「あたし、ここで食べていい?」


 職員は少し驚いた。


 それから、笑った。


「はい。お願いします」


「にぎやかじゃないけど」


「それくらいで、ちょうどいいです」


 エルは少しだけうなずいた。


「ちょうどいい、また出た」


「よく出ます」


 食堂班の職員が笑う。


 エルはスープをすくった。


 若い職員も、食事を再開した。


 食卓劇場はなくなった。


 けれど、食卓は一人ではなくなった。


     ◆


 午後。


 エルは中庭にいた。


 中庭は、監理局の中で、少しだけ外に似ている。


 空がある。


 風がある。


 草がある。


 小さな花がある。


 鳥のようなものが、どこかから飛んできて、どこかへ行く。


 エルはベンチに座り、膝の上に手を置いていた。


 午前中に作ったものを、思い返している。


 楽しい朝。


 探し物の星砂しおり。


 がんばったことを映す花瓶。


 食卓劇場。


 どれも、きれいだった。


 どれも、楽しかった。


 どれも、少しだけ人間を幸せそうにした。


 でも、止められた。


 全部ではない。


 残ったものもある。


 普通の花。


 一緒に探すこと。


 向かいに座ること。


 休む人には休む朝。


 魔法がなくてもできること。


 エルは、草の上を歩く小さな虫を見ていた。


 そこへ、副長が来た。


 金髪の細身長身。


 いつものように足音が薄い。


 エルは顔を上げる。


「副長」


「エルさん。隣、よろしいですか」


「うん」


 副長は隣に座った。


 中庭の風が、二人の間を通る。


 しばらく、何も言わなかった。


 エルも、何も言わない。


 先に口を開いたのは、エルだった。


「今日、いっぱい止められた」


「報告は受けています」


「楽しい朝、止められた」


「はい」


「星砂の道、止められた」


「はい」


「花、止められた」


「普通の花は残りました」


「食卓のにぎやか、止められた」


「代わりに、一緒に食べましたね」


 エルは中庭の花を見た。


「全部、先に出た」


「はい」


「聞くって、思った」


「はい」


「でも、先に出た」


「願望に反応したのですね」


 副長は責めなかった。


 淡々と事実を言った。


 エルは小さくうなずいた。


「あたし、本当の幸せだから」


「はい」


「幸せそうなの、見えると、動く」


「それが、あなたの名前に近い反応です」


 副長は言った。


「だから、監理局はエルさんに魔法を完全に禁止しません」


 エルは副長を見る。


「禁止しない?」


「しません。できる、できないの問題だけではありません。あなたから完全に魔法を切り離すことは、あなたの名前を否定することに近い」


 エルは黙った。


「ただし、発現させる前に聞く。発現しそうになったら手を止める。発現してしまったら、範囲を確認して戻す。これを、根気強く練習します」


「根気強く」


「はい」


「いっぱい?」


「いっぱいです」


「明日も?」


「明日も」


 エルは少しだけ、困ったような顔をした。


「難しい」


「難しいです」


「幸せそうなのに、止めるの、難しい」


「そうですね」


 副長は中庭を見た。


「ですが、幸せそうに見えることと、本人の幸せであることは同じではありません」


「ちがう」


「はい」


「朝、楽しい。花、うれしい。食卓、にぎやか。探し物、見つかる」


「どれも、幸せに見えます」


「うん」


「ですが、それが本人の選んだものかどうかは、別です」


 副長は続ける。


「疲れた人には、楽しい朝より眠る時間が必要なことがあります。花に褒められるより、自分の疲れを自分で認めたいこともあります。にぎやかな食卓より、誰かを思い出して少しだけ寂しくいる時間が必要なこともあります。探し物は、見つかることで傷になる場合もあります」


 エルは黙った。


 風が吹く。


 花が揺れる。


「人間、幸せ、むずかしい」


「はい」


「きれいな幸せ、だめな時ある」


「あります」


「楽しい幸せ、だめな時ある」


「あります」


「うれしい幸せ、だめな時ある」


「あります」


 エルは少しだけ眉を寄せた。


「じゃあ、あたしの幸せと、人間の幸せ、ちがう?」


 副長は、その問いを受け止めた。


 とても慎重に。


「違うことがあります」


「同じこともある?」


「あります」


「どうやって、わかる?」


「聞きます」


 副長は言った。


「そして、待ちます」


「待つ」


「はい。相手が答えるまで。あるいは、答えられないこともあると理解するまで」


 エルは手元を見た。


「あたし、すぐ作れる」


「はい」


「待つより、早い」


「早いです」


「早いのに」


「早いからこそ、危険です」


 エルは少し黙った。


 その時、中庭の入口から、レトの声がした。


「エルー!」


 レトが走ってきた。


 淡緑の髪が揺れる。青いキューブの髪飾りが光る。


 その後ろから、ロジーも来る。


「聞いたよ! エル、今日は朝祭りと星砂と花瓶と食卓劇場やったんだって?」


「やった」


「ラインナップが豪華!」


 ロジーが目を輝かせる。


「見たかった! けど、見たら記録したくなるから危険! でも見たかった!」


「ロジーさん」


 副長が言う。


「はい、心の中で三回だけ悔しがります」


 ロジーは胸に手を当てた。


「悔しい。悔しい。悔しい」


「声に出ています」


「心が大きすぎた」


 レトはエルの隣に座った。


「エル、しょんぼりしてる?」


「しょんぼり?」


「元気がちょっと下」


 エルは考えた。


「幸せ、むずかしい」


「うん」


 レトはうなずいた。


「わたしも、強くするのむずかしいよ。敵を壊すのはできるけど、ちょうどよく止めるの、むずかしい」


 ロジーも隣に腰を下ろす。


「私も記録するのむずかしいよ。全部記録したいけど、全部はだめ。見てから記録、待ってから記録、記録しない記録」


「最後のは何ですか」


 副長が聞く。


「概念です」


「便利な言葉に逃げないでください」


「はい」


 エルは二人を見る。


「レトは、強いの、ちょうどよくする」


「うん!」


「ロジーは、記録、ちょうどよくする」


「そう!」


「あたしは、幸せ、ちょうどよくする?」


 レトは笑った。


「おそろいだね!」


 ロジーも笑う。


「問題児三点セット、ちょうどよさ習得編!」


「問題児?」


 エルが首を傾げる。


「かわいい問題児!」


「かわいいなら、いい?」


「いい寄り!」


 副長が静かに言った。


「よくはありません」


 ロジーが肩をすくめる。


「副長、厳しい」


「職務です」


 エルは少しだけ笑った。


 中庭の風が吹く。


 その風を、エルは見た。


 少し冷たい。


 レトは気持ちよさそうに目を細めている。


 ロジーは髪を押さえながら文句を言っている。


 副長は平然としている。


 エルは思う。


 この風を、もっと楽しくすることはできる。


 花びらを混ぜる。


 音をつける。


 甘い匂いにする。


 夕方の光をきらきらさせる。


 この中庭を、幸せそうな場所にすることは、たぶん簡単だ。


 指先が少しだけ動きかける。


 でも、エルは膝の上で手を握った。


 聞く。


 待つ。


 その人の幸せ。


「今の風」


 エルが言った。


「このままでいい?」


 レトがすぐに答える。


「うん!」


 ロジーは髪を押さえながら言う。


「私はちょっと髪が乱れるけど、まあ許容範囲!」


 副長はうなずいた。


「問題ありません」


 エルは、風を変えなかった。


「聞いた」


 小さく言う。


 副長が見る。


「はい」


「聞いてから、決めた」


「その通りです」


 エルは少しだけ得意そうにした。


「今日、覚えた」


     ◆


 夕方。


 第七食堂の前を通ると、朝の夜勤明け職員がエルに気づいた。


「あ、エルさん」


 エルは足を止める。


「休んだ?」


「はい。ちゃんと眠りました」


「楽しい朝、いる?」


 職員は少し笑った。


「明日の朝、休み明けなので、少しなら見たいです」


「少し」


「はい。小さい朝祭りで」


 エルはうなずいた。


「検査してから」


「お願いします」


 技術班の前では、部品を探していた職員が手を振った。


「星砂しおり、物品限定で検査申請しておきました」


「使う?」


「物品だけなら、すごく助かります」


「物品だけ」


「はい」


 監理班の区画では、疲れていた職員の机に、普通の花が一輪だけ飾られていた。


 淡い青い花。


 文字は出ない。


 拍手もしない。


 記憶も読まない。


 でも、きれいだった。


「花、まだいる」


 エルが言う。


 職員は顔を上げる。


「はい。普通の花、いいですね」


「普通、さみしくない?」


「さみしくないです」


「そっか」


 食堂の窓際では、昼に一人で食べていた若い職員が、別の職員と一緒に夕食を食べていた。


 食卓劇場はない。


 湯気の人形もいない。


 でも、二人は話している。


 エルはそれを見た。


「にぎやか」


 隣を歩いていたレトが言う。


「ほんとだね」


 ロジーが端末を開きかける。


 副長が見る。


 ロジーは閉じた。


「心の記録にします」


「よろしい」


 エルは、食堂を見た。


 人間がいる。


 疲れている人間がいる。


 笑っている人間がいる。


 さみしい人間がいる。


 休みたい人間がいる。


 褒められたい人間がいる。


 探している人間がいる。


 それぞれ、少しずつ違う。


 全部まとめて幸せにすることは、たぶんできる。


 けれど、それは本当の幸せではないのかもしれない。


 本当の幸せ。


 エルの名前。


 エルの力。


 エル自身にも、まだ全部は分からないもの。


「エル?」


 レトが呼ぶ。


 エルは顔を上げた。


「なに考えてたの?」


「幸せ」


 ロジーが少しだけ真面目な顔になった。


 副長も黙っている。


 エルは続けた。


「あたしが作った幸せと、その人の幸せ、ちがうことある」


 レトはうなずいた。


「あるかも」


「だから、聞く」


「うん」


「待つ」


「うん」


「でも、作りたい」


 エルは小さく言った。


 レトは笑った。


「じゃあ、聞いてから作ろう」


 ロジーも笑う。


「許可制幸せ生成!」


 副長が言った。


「言い方は軽いですが、方向性はおおむね正しいです」


「やった、公式見解!」


「公式ではありません」


 エルは、少しだけ笑った。


 その笑いは小さかった。


 でも、ちゃんと笑っていた。


     ◆


 夜。


 エルは自分の部屋へ戻った。


 白い天井。


 薄く落とされた照明。


 枕元の時計。


 朝と同じ部屋。


 でも、今日見たものが、少しずつ積もっている。


 楽しい朝。


 星砂の道。


 普通の花。


 静かな食卓。


 中庭の風。


 それらを思い出しながら、エルは机の上に小さな紙を置いた。


 そこに、ゆっくりと文字を書く。


 エルの字は、少し丸い。


 人間の文字。


 人間に教わった文字。


 そこには、こう書かれていた。


 きく。


 まつ。


 そのひとのしあわせ。


 エルはしばらく、その紙を見ていた。


 それから、小さくうなずく。


「明日も、見る」


 誰に言ったわけでもない。


 けれど、その言葉は部屋の中に残った。


 エルはベッドに入る。


 目を閉じる。


 今日、世界は大きく変わらなかった。


 朝祭りは消えた。


 星砂の道は止まった。


 花は普通の花になった。


 食卓劇場も終わった。


 けれど、残ったものがある。


 休んだ職員。


 見つかった部品。


 机の上の青い花。


 誰かと食べた夕食。


 変えなかった風。


 聞いてから決めたこと。


 エルは、それを覚えている。


 本当の幸せが何なのか。


 まだ分からない。


 でも、今日は少しだけ。


 人間に聞く、ということを覚えた。


 エルの一日は、静かに終わる。


 明日もきっと、人間は揺れる。


 うれしい。


 かなしい。


 つかれた。


 たのしい。


 こわい。


 さみしい。


 ほしい。


 たりない。


 その全部を、エルはまた見る。


 そして、すぐには変えない練習をする。


 まず、聞く。


 そう決めて、エルは眠った。



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