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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第88話-戦闘術式『炉心歩行』

無名の魔術師


――戦闘術式《炉心歩行》


惑星政府が陥落した。


その報告は、最初、誤報として処理されかけた。


なぜなら、その惑星には軍があった。


軌道防衛網があった。

首都防衛結界があった。

魔術騎兵隊がいた。

政府直轄の戦闘魔術師団がいた。

行政塔の地下には、旧世代由来遺物を保管する封印庫まであった。


地方反乱程度で落ちる政府ではない。


神性存在が発生したなら、観測網が拾う。

外部軍が侵攻したなら、艦隊の航跡が残る。

旧世代遺物が暴走したなら、魔力波形が惑星全域に出る。


だが、そのどれでもなかった。


惑星政府は、たった一人の人間の魔術師に落とされた。


首都防衛線、突破。


第一魔術師団、壊滅。


軌道防衛管制局、沈黙。


行政塔、制圧。


旧世代由来遺物保管庫、開封。


所要時間、四十三分。


死者は、政府発表ではまだ確定していない。


しかし監理局の初期解析では、少なくとも防衛兵力の三割が戦闘不能。

うち重傷者多数。


そして、保管庫から一つの遺物が持ち出されていた。


惑星監理局、第一作戦室。


巨大な立体映像に、首都防衛線の記録が流れていた。


レトは、席に座ったまま、映像をじっと見ていた。


淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りが肩の近くで揺れている。


普段なら、長い会議では足をぱたぱたさせる。


けれど今日はしない。


画面の中で、人が倒れていくからだ。


映像の中央には、一人の男がいた。


痩せた身体。

古びた灰色の外套。

短く切られた黒髪。

手には杖ではなく、長い金属の棒。


棒の先には刃も銃口もない。


ただ、棒全体に細かい術式線が刻まれていた。


男は、首都防衛門の前に立っていた。


門の上には防衛兵が並び、魔術砲が十六門、照準を合わせている。


警告音。


発砲。


魔術砲の光が、一斉に男へ向かう。


男は、逃げなかった。


金属棒を肩に担いだまま、一歩、前へ出る。


その足が地面についた瞬間、足元の石畳が赤く光った。


術式が起動する。


男の全身を、薄い赤銅色の魔力装甲が覆った。


装甲というより、皮膚のすぐ外側に貼りつく第二の骨格。


砲撃が直撃する。


爆発。


光。


粉塵。


次の瞬間、粉塵の中から男が飛び出した。


無傷ではない。


外套は裂け、頬に血が流れている。


だが、歩みは止まっていない。


男は金属棒を振り下ろした。


空気が潰れた。


防衛門の結界が、内側から膨らむようにひび割れた。


戦闘班長が映像を止めた。


「この一撃で、首都第一防衛結界が破断した」


魔術制御部長が続ける。


「砲撃を受けた直後に、衝撃を全身の術式骨格へ逃がし、足裏から地面に流し、逆流分を棒へ集約しています」


レトが小さく呟いた。


「受けた攻撃を、殴る力にしたの?」


「近いです」


魔術制御部長は頷いた。


「ただし、単純な反射ではありません。吸収、分解、再配置、増幅、打撃化。全工程が一呼吸の中で終わっています」


副長が静かに言った。


「名前は」


情報班主任が答える。


「ありません」


レトが顔を上げた。


「ないの?」


「登録名なし。学会履歴なし。政府雇用歴なし。監理局記録なし。上位委員会記録なし。出生地も不明です」


画面が切り替わる。


片田舎の山村。


古い石造りの家。


裏手に小さな畑。


地下室に、戦闘用と思われる術式陣が何百枚も刻まれている。


床には焦げ跡。


壁には拳の跡。


天井には魔術砲の反動を逃がすための補強跡。


棚には研究書ではなく、訓練記録。


走行距離。

打撃回数。

骨折記録。

反応速度。

魔力循環限界。

術式起動失敗時の負傷部位。

対人戦闘記録。

対大型獣戦闘記録。

対軍用結界突破記録。


レトの目が細くなる。


「研究してただけじゃない」


戦闘班長が頷く。


「ああ。こいつは戦っていた」


魔術制御部長が資料を開く。


「対象の術式系統を仮称で分類します。戦闘術式《炉心歩行》」


立体映像に、男の身体構造図が浮かぶ。


「全身を魔術回路として使っています。外部から展開した装甲ではなく、自身の魔力循環に密着させた戦闘骨格。打撃、跳躍、防御、砲撃、反応補助、負傷時の応急固定、すべて同一系統で処理されます」


戦闘班の重装隊員が低く言う。


「身体そのものを武器にしているのか」


「はい」


魔術制御部長が映像を拡大した。


男が兵士の剣を金属棒で受ける。


受けた瞬間、棒の表面に火花のような術式が走り、兵士の腕が弾かれる。


男は踏み込む。


膝蹴り。


兵士の防御結界が割れる。


肘打ち。


魔術装甲が砕ける。


棒の横薙ぎ。


三人がまとめて吹き飛ぶ。


近接戦闘員が息を吐いた。


「格闘魔術師だ」


「それも最高位の」


戦闘班長が言った。


ジェレミー・クリエットは、黙って映像を見ていた。


感情は見えない。


けれど、作戦室の全員が分かっていた。


これは危険な相手だ。


神性存在のような広域権能はない。


旧世代のような法則改変もない。


だが、戦場に立つ個人として、異常な完成度を持っている。


人間の魔術師が、技術と訓練だけでここまで到達している。


副長が資料をめくる。


「奪取された旧世代遺物は?」


情報班主任が答える。


「惑星政府保管番号、黒函七号。正式名称不明。旧世代由来遺物と推定されます」


映像に、黒い硝子の箱が映る。


箱の表面には文字がない。


だが、縁の部分だけが、呼吸するように淡く明滅していた。


「政府は解析できていませんでした。ただし、対象は保管庫突入後、迷わずこれだけを持ち出しています」


ジェレミーが口を開いた。


「目的は」


「不明」


情報班主任は答える。


「ですが、対象は現在、旧首都外縁の軍用演習場跡にいます」


画面が切り替わる。


広大な円形演習場。


周囲に破壊された防壁。


中央には、古い魔術試験用の闘技場。


その中央で、男が黒い箱を置いていた。


周囲の地面には、血で描いたような赤黒い術式線が広がっている。


副長の声が冷たくなる。


「遺物を起動するつもりですか」


「可能性は高いです」


魔術制御部長が頷いた。


「ただし、儀式というより、戦闘場の構築に見えます」


レトが首を傾げた。


「戦闘場?」


「旧世代遺物を、戦闘術式の核として使うつもりかもしれません」


戦闘班長が舌打ちした。


「政府を落とせる魔術師が、さらに強化される前に止める必要がある」


作戦室が静まり返る。


ジェレミーは、レトを見た。


「レト」


「はい!」


「戦闘班と出撃。お前は単騎遊撃。対象の機動を潰せ」


レトは立ち上がった。


「はい!」


「旧世代遺物の破壊は許可しない。確保を優先する。ただし、対象が遺物を起動し、被害拡大が避けられない場合」


ジェレミーの声は変わらない。


「殺害を許可する」


レトは一瞬だけ、唇を結んだ。


それから、強く頷いた。


「わかった」


副長が言う。


「レト。対象は人間です」


「うん」


「でも、通常の人間として油断できる相手ではありません」


「うん」


「そして、人間だから殺せない、と考えてはいけません」


レトの手に、青白い硝子片が生まれかける。


彼女はそれを握って、消した。


「殺したいんじゃない」


「はい」


「でも、止めないといけないなら、止める」


副長は薄く頷いた。


「それで十分です」


ジェレミーが短く言った。


「帰ってこい」


レトの表情が、少しだけ幼くなる。


「うん。お兄さん」


それからすぐに、戦闘班の顔へ戻った。


「作戦、行ってきます!」


旧首都外縁、軍用演習場跡。


そこは、政府軍が大規模魔術戦の訓練に使っていた場所だった。


半径数キロの荒野。


外周には、崩れた防壁。


地面には、古い魔術砲撃の焦げ跡。


中央に、円形の闘技場。


空は曇っていた。


低い雲の下に、赤い魔力光が薄く滲んでいる。


戦闘班の輸送艇は、演習場の外縁に着陸した。


重装隊員が先に降りる。


続いて防御術師、魔術砲撃担当、近接戦闘員、前線救護員、戦闘班長。


最後に、レトが降りた。


靴が乾いた土を踏む。


地面の下に、かすかな術式の脈動がある。


レトはすぐに空を見た。


「上、嫌な感じする」


魔術砲撃担当が機器を確認する。


「演習場全域に術式反応。地面だけじゃない。空間にも回路が走ってる」


防御術師が外周へ結界杭を打つ。


「封鎖結界、展開開始」


杭が赤く光った。


次の瞬間、杭が弾け飛んだ。


防御術師が顔をしかめる。


「弾かれた!」


戦闘班長が即座に命令する。


「結界展開中止。無理に閉じるな。レト、上空確認」


「はい!」


レトは硝子板を足元に生み、一気に上昇した。


青白い光が尾を引く。


上空から見ると、演習場全体が巨大な円形術式になっていた。


中央に闘技場。


そこから八方向に線が伸びている。


その線は、ただの術式線ではない。


踏み跡。


打撃痕。


血痕。


砲撃跡。


長年の訓練で刻まれた戦闘の痕跡が、すべて術式に組み込まれている。


この場所そのものが、男の武器になっていた。


「戦闘班長!」


レトは通信を開く。


「ここ、もう敵の術式の中!」


返事より先に、地面が爆ぜた。


重装隊員の足元から赤い衝撃波が噴き上がる。


重装隊員は大盾で受ける。


だが、衝撃は盾を避け、足元から膝へ抜けた。


「下から来る!」


近接戦闘員が横へ跳ぶ。


直前まで立っていた場所から、赤い杭のような魔力が突き上がった。


魔術砲撃担当が術式砲を構える。


「敵位置、中央!」


闘技場の中央。


無名の魔術師が立っていた。


黒い箱は足元に置かれている。


男は、灰色の外套を脱いでいた。


その下は、訓練服に近い簡素な衣服。


両腕には、術式を刻んだ金属環。


胸元には、赤銅色の魔力線。


脊椎に沿って、炉心のような光が灯っている。


手には、あの金属棒。


男は、戦闘班を見た。


「監理局か」


声は静かだった。


殺気はある。


だが、怒鳴らない。


自分の戦場に敵が来ることを、当然のように受け入れていた。


戦闘班長が答える。


「惑星監理局戦闘班。旧世代由来遺物の不正保持、惑星政府中枢への武力制圧、広域戦闘術式展開により、対象を拘束する」


男は首を傾げた。


「拘束」


金属棒を肩に乗せる。


「できるなら」


地面が爆ぜた。


男が消える。


いや、走った。


速い。


通常の身体強化ではない。


足裏で地面を叩き、演習場に刻んだ術式を踏み抜き、反動を次の一歩へ接続している。


一歩ごとに、加速する。


重装隊員が前へ出る。


大盾を構える。


男は正面から突っ込んだ。


避けない。


金属棒を横薙ぎに振る。


盾と棒が衝突した。


轟音。


重装隊員の足が地面にめり込む。


盾は割れない。


だが、盾の後ろの空気が破裂し、重装隊員の身体が数メートル後退した。


「重い!」


男は止まらない。


棒を引き戻し、突き。


防御術師が結界を挟む。


結界が歪む。


男の突きは結界で止まった。


しかし、突きの衝撃が結界面を滑り、横から近接戦闘員へ流れる。


近接戦闘員は身をひねって避ける。


赤い衝撃が髪をかすめた。


「攻撃が曲がる!」


魔術砲撃担当が三連射する。


青い制圧弾が男へ向かう。


男は棒を回した。


一発目を弾く。


二発目を受ける。


三発目を、自分の胸に当てた。


レトは目を見開いた。


「わざと受けた!」


男の胸の術式線が強く光る。


制圧弾の魔力が分解され、両腕へ流れる。


男は拳を握った。


魔術砲撃担当へ向けて、空中を殴る。


拳から赤い弾丸のような衝撃が飛んだ。


魔術砲撃担当は防御を張る。


弾丸が防御に当たった瞬間、四つに割れた。


割れた衝撃が防御の端を回り込む。


一発が肩に入る。


魔術砲撃担当が膝をつく。


「くっ!」


レトは空中から急降下した。


「させない!」


硝子短剣、二十四本。


青白い刃が、男の周囲を包むように展開される。


一点集中ではない。


逃げ道を削る配置。


レトは手を振る。


短剣が一斉に走った。


男は上を見た。


そして笑った。


初めて、笑った。


「速い」


金属棒を地面へ突き立てる。


闘技場全体が鳴った。


短剣の軌道上に、赤い防御面が次々と立ち上がる。


レトの刃はそれを砕く。


一枚。


二枚。


三枚。


防御面は割れるが、割れた破片が赤い術式片になり、短剣の側面に貼りついた。


軌道が重くなる。


短剣が鈍る。


「むっ!」


レトは空間をずらす。


短剣の位置を防御面の内側へ飛ばす。


だが、飛ばした先に男はいない。


男はすでに跳んでいた。


上へ。


レトの高さまで。


足元に術式足場。


いや、空気を殴って足場にしている。


男が金属棒を振り上げる。


レトは硝子板を盾にする。


棒が硝子板へ落ちた。


割れる。


砕ける。


青白い熱が爆ぜる。


レトの身体が吹き飛ぶ。


「レト!」


通信が飛ぶ。


レトは空中で回転し、硝子板を三枚踏んで体勢を戻した。


腕がしびれている。


痛い。


でも、骨は大丈夫。


「大丈夫!」


そう答えながら、レトは胸の奥が熱くなるのを感じた。


怖い。


強い。


この人、戦うことに慣れすぎている。


男は空中で着地するように、何もない場所に足を置いた。


赤い術式足場が一瞬だけ光る。


「君は兵器ではないな」


レトは睨む。


「ちがうよ!」


「なのに前線にいる」


「わたしが決めた!」


「なら、いい」


男は棒を構えた。


「戦士なら、遠慮しない」


次の瞬間、男の姿がぶれた。


レトは反射で瞬間移動しようとする。


だが、空間がざらついた。


移動先の座標に、赤い砂のようなノイズがある。


「転移妨害!」


魔術制御部長の遠隔支援が叫ぶ。


『レト、連続転移は危険! 出口座標を荒らされています!』


男が迫る。


レトは転移を中止。


硝子板を踏み、横へ飛ぶ。


棒が空を裂く。


かすっただけで、頬に熱い痛みが走る。


血が一筋落ちる。


レトの瞳が揺れた。


痛い。


でも、止まらない。


「硝子短剣、環状!」


短剣が男の周囲を円に並ぶ。


男は着地と同時に棒を振り回す。


回転する赤い衝撃波が、短剣をまとめて弾く。


だが、レトの狙いは刃ではない。


短剣の間に、薄い硝子糸が張られている。


男の腕に絡む。


一瞬だけ動きが止まる。


近接戦闘員がその隙を突いた。


影から踏み込み、男の膝裏へ短刃を入れる。


刃は皮膚を切らなかった。


赤銅色の魔力骨格が刃を受けた。


だが、衝撃は通る。


男の膝が落ちる。


重装隊員が突進した。


盾で押し潰す。


防御術師が拘束結界を重ねる。


魔術砲撃担当が出力を絞った制圧弾を撃つ。


一瞬、男の動きが完全に止まった。


戦闘班長が叫ぶ。


「拘束!」


拘束術式が男の両腕へ走る。


その瞬間。


黒い箱が開いた。


誰も触れていない。


だが、箱の蓋が、内側から押し上げられるように少しだけ開いた。


闘技場全体の赤い光が、黒へ変わる。


音が消えた。


男の目が、薄く輝く。


「まだだ」


彼の胸元の術式線が、黒い光を吸った。


レトは、ぞわっとした。


旧世代遺物の力そのものではない。


男が、それを燃料にしている。


理解して使っているのではない。


旧世代遺物から漏れる意味不明の力を、自分の戦闘術式へ無理やり流し込んでいる。


人間の身体で。


「だめ!」


レトが叫ぶ。


男の拘束が砕けた。


赤銅色だった魔力骨格が、黒い硝子質を帯びる。


肩から腕へ、ひび割れのような線が走る。


痛みがあるはずだ。


肉体が耐えられるはずがない。


だが、男は笑っていた。


「これだ」


棒を握る手から血が滴る。


「ここまで来るのに、誰も相手にならなかった」


戦闘班長が歯を食いしばる。


「全員、距離を取れ!」


男が踏み込んだ。


ただの一歩。


その一歩で、闘技場の床が陥没した。


衝撃波が広がる。


重装隊員が盾を構える。


盾が割れた。


防御術師の結界が三枚まとめて砕ける。


魔術砲撃担当が吹き飛ぶ。


近接戦闘員は回避したが、衝撃の余波で肩から血を流す。


レトは空中で硝子翼のような板を展開し、衝撃を受け流した。


でも、足が震えた。


強くなっている。


さっきまでの完成された戦闘魔術ではない。


もっと荒い。


もっと危険。


もっと壊れている。


男はレトを見上げた。


「来い」


レトは息を吸った。


「わたしだけじゃない」


短剣を展開する。


「戦闘班で止める!」


戦闘班長が即座に応じる。


「陣形、硝子嵐!」


全員が動いた。


それは、レトを中心にした戦闘班の対大型敵性存在用陣形だった。


重装隊員が正面に立つ。


壊れた盾を捨て、予備盾を展開。


防御術師が正面ではなく、レトの軌道上に防御面を張る。


魔術砲撃担当は敵を直接撃たない。


地面を撃つ。


衝撃で男の足場を崩す。


近接戦闘員は攻撃しない。


男の視界の端にだけ入る。


意識を割く。


レトは上空へ上がった。


硝子短剣、四十八本。


青白い光が雲の下に並ぶ。


男が笑う。


「砲撃か」


「違うよ」


レトは両手を広げた。


「雨!」


短剣が降る。


まっすぐではない。


防御術師の結界面で軌道を変え、魔術砲撃の衝撃で速度を変え、レトの空間魔術で位置をずらしながら、全方向から降り注ぐ。


硝子の雨。


男は棒を回す。


黒い衝撃波が短剣を砕く。


だが、砕けた刃が熱を撒く。


青白い熱が男の魔力骨格へ貼りつく。


男が踏み込む。


地面が崩れる。


魔術砲撃担当が撃った穴に足を取られる。


近接戦闘員が横から斬る。


防がれる。


でも一瞬、腕が止まる。


重装隊員が体当たり。


男が押し返す。


その瞬間、レトが消えた。


転移ではない。


硝子板を連続で踏み、視界の外から落ちる。


男の背後。


首ではない。


心臓でもない。


狙うのは、胸元の黒い術式線。


旧世代遺物から流れ込む力の接続部。


レトの短剣が突き刺さる。


男が振り返る。


「浅い」


「うん!」


レトは短剣を手放した。


短剣が、胸元で砕ける。


青白い硝子片が、黒い術式線の上で爆ぜた。


熱では焼けない。


でも、硝子の性質が割れ目を作る。


黒い流れに、ひびが入った。


男の身体が大きく揺れる。


「ぐっ……!」


初めて、男が苦痛の声を漏らした。


黒い箱が震える。


蓋がさらに開こうとする。


戦闘班長が叫ぶ。


「遺物、開封進行!」


魔術制御部長の声が通信に割り込む。


『これ以上開けば、周辺空間に旧世代由来反応が漏れます!』


副長の声も入る。


『レト、接続を断てますか』


レトは男の胸元を見た。


ひびは入った。


でも、まだ繋がっている。


男は血を吐きながら、笑った。


「いい」


棒を構える。


「君は、いい」


レトはぞっとした。


褒められている。


戦士として。


敵として。


殺し合う相手として。


この人は、本当に戦うことだけでここまで来た。


政府を落としたのも、旧世代遺物を奪ったのも、何かを支配したかったからじゃない。


もっと強い術式を完成させるため。


もっと高い戦場へ行くため。


自分の戦闘魔術がどこまで届くか、試すため。


レトは、怒った。


「だめだよ」


男が首を傾げる。


「何が」


「それで、みんなを巻き込むのはだめ!」


男は棒を振る。


レトは避ける。


完全には避けきれない。


左肩に衝撃が走る。


痛い。


骨が鳴る。


でも、レトは逃げない。


「戦いたいなら、訓練して!」


短剣を作る。


「許可取って!」


もう一本。


「場所を選んで!」


さらに十二本。


「人を傷つけない方法を考えて!」


男の棒が降る。


レトは硝子板で受ける。


砕ける。


破片が頬をかすめる。


「それができないなら!」


レトは空間をずらした。


男の背後ではない。


黒い箱の真上へ。


「わたしたちが止める!」


男の目が見開かれる。


「箱に触るな!」


彼がレトへ突進する。


速い。


さっきより速い。


身体が壊れる速度。


男の足が裂け、血が散る。


それでも止まらない。


レトは黒い箱に手を伸ばす。


直接触れない。


硝子の檻。


青白い硝子を、箱の周囲へ三重に展開する。


旧世代遺物を壊さず、閉じ込める。


男の棒がレトへ迫る。


戦闘班長の声。


『レト、回避!』


回避すれば、箱の封鎖が甘くなる。


残れば、直撃する。


二秒。


一。


二。


レトは残った。


「んっ……!」


棒がレトの横腹を打った。


硝子装甲を張った。


それでも、衝撃が内側へ響く。


息が止まる。


身体が吹き飛ぶ。


だが、レトの手は最後まで箱へ向いていた。


硝子の檻が閉じる。


黒い箱の蓋が、ぱちん、と音を立てて閉まった。


闘技場の黒い光が消える。


男の魔力骨格が赤銅色へ戻る。


いや、戻りきらない。


ひび割れ、崩れかけ、身体のあちこちから血が流れている。


男は膝をついた。


レトは地面を転がり、硝子片を散らして止まった。


「レト!」


近接戦闘員が駆け寄ろうとする。


だが、男がまだ動いた。


膝をついたまま、棒を握る。


胸元の術式線は壊れかけている。


それでも、戦闘意思は折れていない。


戦闘班長が銃型の制圧具を構える。


重装隊員が前へ出る。


防御術師が結界を張る。


レトは、震えながら起き上がった。


横腹が痛い。


肩も痛い。


口の中に血の味がする。


でも、立つ。


「まだ……やるの?」


男は荒い息を吐いた。


「当然だ」


「もう、箱は閉じたよ」


「なら、君と戦う」


レトの顔が歪んだ。


「わたしは、あなたのための戦場じゃない」


男は笑った。


「戦場に立っている」


「立ってるよ」


レトは短剣を一本だけ作った。


青白い、細い刃。


「でも、わたしは遊びに来たんじゃない」


男が立ち上がろうとする。


足が震える。


それでも、棒を構える。


魔術制御部長の声が通信に入る。


『対象、炉心術式崩壊寸前。次の高出力起動で自己崩壊の可能性があります』


副長が言う。


『自爆的突撃に注意』


戦闘班長の声。


『殺害許可、継続。レト、下がれ』


レトは、男を見た。


このまま突っ込んでくる。


止めなければ、誰かが死ぬ。


男自身も死ぬ。


でも、レトが下がれば、重装隊員か近接戦闘員が受ける。


この距離で一番速いのは、自分。


レトは息を吸った。


「ごめん」


男が低く笑う。


「謝るな」


「謝るよ」


レトの目に涙が浮かぶ。


でも、短剣の先は揺れない。


「あなた、人間だもん」


男の表情が、ほんの少しだけ変わった。


怒りではない。


嘲笑でもない。


理解できないものを見る顔。


「戦士ではなく?」


「人間」


レトは言った。


「戦士でも、魔術師でも、敵でも、その前に人間」


男は黙った。


ほんの一瞬。


その一瞬で、戦闘班が動いた。


防御術師が男の足元へ結界を張る。


魔術砲撃担当が低出力弾を胸元の術式線へ撃つ。


重装隊員が棒へ盾をぶつける。


近接戦闘員が手首を斬る。


棒が落ちる。


男の身体が前へ倒れる。


それでも、胸元の炉心術式が起動しかけた。


赤銅色の光が膨らむ。


自爆。


レトは瞬間移動した。


今度は座標が荒れていない。


男の正面。


短剣を逆手に持つ。


狙うのは心臓ではない。


胸元の術式核。


人間の体内ではなく、体表に露出した魔力骨格の中心。


外側の術式。


そこだけを、硝子の刃で貫く。


「止まって!」


刃が入った。


赤銅色の光が、硝子の中へ吸われる。


レトは短剣を握り潰した。


術式核ごと、硝子化して砕く。


ぱきん。


小さな音だった。


男の炉心術式が止まった。


全身の魔力骨格が剥がれ落ちる。


金属環が割れる。


男は、その場に崩れた。


息はある。


生きている。


戦闘班長が叫ぶ。


「医療班!」


前線救護員が飛び込む。


拘束具が男の両手足を封じる。


医療班が最低限の止血を始める。


レトは、その場に膝をついた。


短剣はもうない。


指先から、青白い硝子片がぽろぽろ落ちている。


戦闘班長が近づく。


「レト」


「……殺さなかった」


「ああ」


「でも、殺すつもりだった」


「必要なら、な」


レトは唇を噛んだ。


涙が一粒、落ちた。


「怖かった」


戦闘班長は、少しだけ黙った。


それから言った。


「怖くなかったら、連れてこない」


レトは顔を上げる。


「え?」


「怖いのに判断できるから、お前を連れてきた」


レトは、目を丸くした。


戦闘班長は、壊れた闘技場を見回した。


「全員帰還。遺物確保。対象拘束。お前の勝ちだ」


レトは、震える手で拳を握った。


小さく。


本当に小さく。


「……作戦成功?」


「成功だ」


レトは、ようやく息を吐いた。


そして、その場にへたり込んだ。


「いたい……」


医療班が即座に振り向く。


「レトさんも診ます」


「うん……」


「横腹を見せてください」


「折れてる?」


「今確認します」


「折れてたら、お兄さんに言う?」


「言います」


「むう……」


「むうではありません」


戦闘班の何人かが、疲れた顔で少しだけ笑った。


無名の魔術師は、監理局の隔離医療区画へ運ばれた。


炉心術式は破壊。


戦闘骨格は解体不能部分を残して封印。


金属棒は危険武装として回収。


黒い硝子の箱は、旧世代由来遺物専用保管庫へ移送された。


惑星政府は、壊滅寸前だった防衛機構の復旧に追われた。


陥落した事実は消せない。


だが、監理局の介入によって、二度目の被害は防がれた。


数日後。


惑星監理局、医務室。


レトはベッドの上で毛布に包まっていた。


横腹には固定帯。


肩には治療術式の薄い光。


頬には小さな絆創膏。


大怪我ではない。


けれど、医療班からは絶対安静を言い渡されている。


「わたし、歩けるよ」


医療班主任が言った。


「歩けることと、歩いていいことは別です」


「むう」


「むうではありません」


そこへ、扉が開いた。


ジェレミーが入ってきた。


レトの顔が一瞬で明るくなる。


「お兄さん!」


ジェレミーはベッドの横に立った。


「報告は読んだ」


レトは背筋を伸ばそうとして、横腹を押さえた。


「いたっ」


「動くな」


「はい……」


ジェレミーは、レトの包帯を見た。


それから、静かに言った。


「よく帰った」


レトの目が潤む。


「うん」


「遺物も確保した」


「うん」


「戦闘班も全員帰還した」


「うん」


「対象も生かして拘束した」


レトは毛布を握った。


「殺さなかった」


「そうだ」


「でも、殺すつもりになった」


ジェレミーは頷いた。


「そうだろうな」


レトは俯いた。


「それ、悪いこと?」


ジェレミーはすぐには答えなかった。


少しだけ間を置く。


その間に、レトは自分の心臓の音を聞いた。


まだ怖い。


男の棒が迫ってきた瞬間。


黒い箱が開きかけた瞬間。


自爆術式が膨らんだ瞬間。


短剣を胸元へ向けた瞬間。


全部、まだ身体に残っている。


ジェレミーは言った。


「悪いことではない」


レトは顔を上げた。


「殺したいと思うことと、必要なら殺す判断を持つことは違う」


ジェレミーの声は、いつも通り静かだった。


「お前は殺したかったわけではない。止めようとした。それで足りないなら殺す覚悟を持った」


「うん……」


「それは戦闘班の判断だ」


レトの涙がこぼれた。


「わたし、戦闘班できた?」


「ああ」


ジェレミーは、レトの頭に手を置いた。


左側のワンサイドテールを崩さないように、慎重に撫でる。


「よくやった」


レトは、ぽろぽろ泣いた。


でも、泣き方は任務失敗のそれではなかった。


帰ってきた子の泣き方だった。


「お兄さん……」


「何だ」


「プリン食べたい」


医務室が一瞬だけ静かになった。


医療班主任がため息をつく。


「食事制限には入っていません」


レトの目が、涙で濡れたまま輝いた。


「じゃあ、食べていい?」


ジェレミーは短く答えた。


「一つだけだ」


「二つ」


「一つだ」


「作戦成功なのに?」


「一つだ」


レトは毛布の中で少し考えた。


「……じゃあ、大きい一つ」


ジェレミーは、ほんのわずかに目を細めた。


「交渉を覚えたな」


「えへへ」


その後、作戦記録にはこう記された。


対象、無名の魔術師。


人間の魔術師。

未登録。

未所属。

監理局および上位委員会記録なし。


戦闘術式《炉心歩行》により、単騎で惑星政府を陥落。

旧世代由来遺物《黒函七号》を簒奪。

遺物を戦闘術式核として使用しようとしたため、惑星監理局戦闘班が介入。


結果。


旧世代由来遺物、確保。

対象、拘束。

政府機能、復旧支援へ移行。

戦闘班、全員帰還。

レト、重度魔力負荷および打撲。命に別状なし。


補足欄には、戦闘班長の所見が残された。


対象は、人間の到達し得る戦闘魔術の極点に近い。

ただし、戦闘への執着により、術式運用倫理は完全に欠落していた。

レトは対象を敵として処理するだけでなく、人間として認識した上で停止させた。

今回の勝因は火力ではない。

速度でもない。

対象を“殺すべき怪物”に分類しなかったこと、そして必要なら殺す覚悟を失わなかったことにある。


その記録を読んだ副長は、静かに笑った。


「まったく」


隣で作戦統括官が問う。


「何か」


副長は端末を閉じた。


「強くなりましたね、レトは」


作戦統括官は頷いた。


「ええ」


副長は少しだけ視線を医務室の方へ向けた。


そこではきっと、レトが大きいプリンを求めて交渉している。


戦闘班の単騎遊撃手。


硝子の彗星から生まれた箱庭の娘。


人間の戦闘魔術師を相手に、殺害許可の下で戦い、生かして帰ってきた少女。


副長は、薄く笑ったまま言った。


「では、プリンは大きいものを一つ、手配しましょう」


作戦統括官が眉を上げる。


「局長は一つだけと」


「一つです」


副長は涼しい顔で言った。


「大きさの指定はありませんでしたので」



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