第87話-最強パンケーキ作戦
最強パンケーキ作戦
――完璧を求めるレトと、厨房に浮かぶ硝子器具たち
惑星監理局の食堂は、昼の混雑が落ち着くと、少しだけ別の顔になる。
配膳口の明かりはそのままに、大鍋の湯気はゆっくり細くなり、食堂班の職員たちは夕方の仕込みに向けて厨房を整えていく。
その厨房の一角だけが、今日は妙に華やかだった。
薄力粉。
卵。
牛乳。
砂糖。
ベーキングパウダー。
バター。
はちみつ。
いちご。
ホイップクリーム。
星型チョコ。
ハート型チョコ。
小さな砂糖細工の花。
食用きらきらパウダー。
そして、作業台の端に、小さなプリンがひとつ。
レトはそれを見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「プリン!」
食堂班の職員が即座に言う。
「今日はパンケーキです」
「分かってるよ。パンケーキだよ」
レトはこくこくとうなずいた。
それから、もう一度プリンを見る。
「でも、プリンもいる」
「添えるだけです」
「添えるだけ……」
レトは真剣な顔で考え込む。
「じゃあ、プリンは心の端っこ。パンケーキが真ん中」
「そのくらいでお願いします」
「うん!」
レトは元気よく返事をした。
本当に、今日はパンケーキを作るつもりだった。
それも、ただのパンケーキではない。
お兄さんに食べてもらう、完璧なパンケーキ。
レトにとって、それはとても重要だった。
ロジーはその隣で、両手を高く上げた。
「第一回! 箱庭の娘たちによる、最強パンケーキ制作会ー!」
レトも両手を上げる。
「わあああっ!」
淡緑のワンサイドテールが跳ねた。
「最強! 完璧! お兄さんに食べてもらうやつ!」
ロジーはにやっと笑う。
「レトは局長用、私は記録用。あと、かわいいもの全部用」
「全部は使いません」
食堂班の職員が言った。
「えー!」
ロジーの頭上に浮かぶデバイスは、すでに作業台を記録している。
材料の並び、レトがプリンに反応した瞬間、エルがレシピカードをじっと読んでいる姿まで、全部残す気だった。
エルは、白髪の毛先を揺らしながら、レシピカードを両手で持っていた。
基本のふわふわパンケーキ
エルはそこに書かれた文字を、ひとつずつ読む。
「薄力粉。卵。牛乳。砂糖。ベーキングパウダー。混ぜすぎない。弱火。表面に穴が出たら返す」
「エル、その通りです」
食堂班の職員がうなずく。
「今日は、魔法を使わない約束です」
「うん。あたし、魔法使わない。ちゃんとレシピ見る」
エルは淡々と言った。
そして、少しだけ首をかしげる。
「でも、読んだあと、あたしが感じたことも、少しだけ入れる」
「少しだけでお願いします」
「少し」
エルはうなずいた。
その顔は素直だったが、食堂班の職員はすでに警戒していた。
エルの「少し」は、ときどき人間側の「少し」とずれる。
ロジーは、材料を広げるのに忙しかった。
いちご。
ブルーベリー。
桃のコンポート。
星型チョコ。
ハート型チョコ。
マシュマロ。
ホイップクリーム。
チョコペン。
カラースプレー。
食用きらきらパウダー。
砂糖細工の花。
並べるだけで、作業台の一角が小さな菓子店のようになる。
「ロジー」
食堂班の職員が静かに言う。
「これは全部乗せる予定ですか」
「うん!」
「乗せません」
「なんで!」
「パンケーキが見えなくなります」
「見えなくなっても、かわいい山になるよ!」
「山を作る会ではありません」
「最強パンケーキだよ? かわいいものは、入れれば入れるほどかわいいんだよ?」
「限度があります」
ロジーは頬を膨らませた。
「かわいさに限度を設けるなんて、人類はまだ早い」
「料理として成立する範囲にしてください」
「むー」
レトはロジーの材料山を見て、少しだけ首をかしげた。
「ロジー、そんなに乗せたら、食べにくくならない?」
「食べにくい?」
ロジーの手が止まる。
「うん。お兄さんはちゃんと食べてくれると思うけど、食べにくかったら申し訳ないもん」
ロジーは一瞬だけ黙った。
レトにとっての基準は、明らかに「お兄さん」だった。
ロジーの基準は「かわいい」と「記録価値」だったが、レトが本気なのは分かる。
「そっか。レトのは局長に届く形じゃないとだめなんだ」
「うん」
「じゃあ、全部乗せはやめる」
食堂班の職員がほっとした。
ロジーは続ける。
「最強のかわいいだけ選ぶ!」
「不穏さは残りましたね」
「でも減らすよ! 私、業務能力高いから!」
「そこは期待しています」
エルはレシピカードを見たまま、ぽつりと言った。
「食べる人に届く形」
「はい」
食堂班の職員が答える。
「料理は作る側の好きだけではなく、食べる人が受け取れる形にするものです」
エルは少し考えた。
「じゃあ、レシピは、届く形の記録」
「かなり近いです」
「そっか」
エルはうなずいた。
「じゃあ、あたし、届く形の中で寄り道する」
「寄り道は小さめで」
「小さめ」
最初は計量だった。
食堂班の職員が、計量スプーンと計量カップを置く。
「まずは分量を守りましょう。ここが崩れると、後で取り戻しにくくなります」
「うん!」
レトは元気よく返事をした。
そして、何もない空中へ手を伸ばした。
青白い硝子質の魔力が、指先に集まる。
きら、と空気が光った。
「じゃあ、完璧に量るやつ作る!」
「計量スプーンがあります」
「でも、お兄さんに食べてもらうんだよ? 誤差があったらだめだよ!」
「通常の計量スプーンで十分です」
「もっとぴったりできる!」
食堂班が止める前に、レトの指先から透明な硝子細工が次々に生まれた。
小さじ。
大さじ。
半分用。
四分の一用。
ほんの少し用。
ぴったり用。
最後に、極小の匙。
ロジーが覗き込む。
「それ何?」
「気持ちぶん用!」
「気持ちぶん!」
「おいしくなってほしい気持ちを、ちょっとだけ入れるやつ」
食堂班の職員が額に手を当てた。
「計量とは」
エルは極小の硝子匙を見つめる。
「気持ちは、何グラム?」
レトは迷わず言った。
「ちょっと!」
「ちょっと」
「入れすぎると重いから」
エルは真剣にうなずいた。
「それは、分かる」
食堂班の職員は、小さく息を吐いた。
「通常の材料は通常の分量で量ってください。気持ちぶん用は、最後の飾りつけにだけ使いましょう」
「分かった!」
レトは素直だった。
ただし、作業台にはすでに七つの硝子計量器具が並んでいる。
ロジーはデバイスを少し傾けた。
「記録。レト、開始一分で計量器具を増殖」
「増殖じゃないよ! 作ったの!」
「作った結果、増殖」
「んええ」
エルは粉を量りながら、静かに言った。
「増えたけど、目的はひとつ」
レトがぱっと笑う。
「うん! おいしくする!」
薄力粉を量る工程で、レトはまた止まった。
「粉、こぼしたらやだな」
「ゆっくり入れれば大丈夫です」
「でも、完璧にボウルに入れたい」
「普通に――」
「粉の道!」
また指先が光る。
空中に、細く透明な硝子の滑り台が生まれた。
粉の袋からボウルまで、ゆるく傾斜した美しい道が伸びる。
食堂班の職員が目を細める。
「それは何ですか」
「粉が迷わない道!」
「粉は迷いません」
「でも、こぼれないよ!」
レトは粉を硝子の道へ流した。
さらさらと白い粉が透明な道を滑り、きれいにボウルへ落ちる。
こぼれなかった。
ロジーが拍手する。
「すごい! 粉の搬送路!」
「完璧!」
レトが胸を張る。
食堂班の職員は認めざるを得なかった。
「こぼれてはいません」
「でしょ!」
「ただし、洗い物は増えました」
「洗う!」
「なら続行です」
エルはそれを見ながら、自分のふるいを手に取った。
「粉、雪みたい」
「はい」
「高いところから落としたら、きれい?」
「飛び散ります」
「吹雪?」
「厨房では困ります」
「そっか」
エルは素直に高さを下げた。
「小さい雪」
「そのくらいでお願いします」
ロジーは、いちごパウダーを小さじ一杯だけ入れた。
「薄い夢色」
「小さじ一杯までです」
「もう半分だけ」
「駄目です」
「見てた?」
「見ています」
ロジーはしぶしぶ手を止めた。
「夢色、薄め」
「それで十分かわいいです」
レトが言うと、ロジーはすぐに機嫌を直した。
「じゃあ採用!」
次は卵だった。
レトは卵を手に取り、じっと見つめる。
「卵、きれいに割らないと」
「普通に割れば大丈夫です」
「殻が入ったらだめだよ」
「入っても取れます」
「最初から入れたくないの。お兄さんに出すやつだもん」
その声は明るいが、芯が強かった。
レトは本気で、ほんの小さな失敗も避けたがっていた。
完璧を求める理由が、はっきりしている。
ジェレミーに、ちゃんとしたものを食べてほしい。
ただ、それだけだった。
「卵を完璧に割るやつ作る」
「待ってください」
待たなかった。
レトの指先から、透明な小型装置が生まれる。
卵を固定する硝子台。
上から軽く力をかける硝子アーチ。
殻だけが左右に開くよう誘導する細い溝。
中身が落ちる位置をずらさないための小さな受け枠。
ロジーが目を輝かせた。
「何これ! 卵開封機!」
「卵をきれいに割るやつ!」
「食材を開封って言わないでください」
食堂班の職員が言う。
レトは卵を装置へ置いた。
「いくよ」
こつん。
殻にひびが入り、左右へぱかっと開く。
中身だけが、きれいにボウルへ落ちた。
殻は左右の硝子枠に残る。
完璧だった。
ロジーが拍手する。
「すごい! 無駄にすごい!」
「無駄じゃないよ! 殻入らなかったもん!」
「確かに!」
エルも小さく拍手した。
「卵、きれいに開いた」
レトは満面の笑みで言った。
「お兄さんに出せる!」
食堂班の職員は、少し困ったように笑った。
「工程としては成功です」
「やった!」
「ただし、一般的な厨房には存在しない器具です」
「ここにはあるよ!」
「今日だけです」
「今日だけ!」
レトは嬉しそうにうなずいた。
次は牛乳。
今度こそ普通に計量カップを使ったので、食堂班は少し安心した。
しかし、レトは牛乳をボウルへ注ぐ直前で止まる。
「一気に入れたら、びしゃってならない?」
「ゆっくり注げば大丈夫です」
「細く、きれいに入れたい」
「普通に――」
「牛乳の細い滝!」
硝子の極細ノズルが生まれた。
牛乳は白い糸のようにボウルへ落ちる。
エルがじっと見る。
「滝」
「牛乳の滝!」
レトが嬉しそうに言う。
ロジーのデバイスが記録する。
「記録。牛乳細流ノズル。見た目きれい。必要性は審議」
「必要だったよ!」
「レト基準では必要」
「うん!」
食堂班の職員は、確認する。
「分量は合っています」
「うん!」
「こぼれてもいません」
「うん!」
「なら、続けましょう」
レトのやっていることは、明らかに過剰だった。
だが、料理の工程そのものは崩れていない。
粉は正確に入った。
卵は殻ひとつ入らなかった。
牛乳も分量通り。
砂糖もベーキングパウダーも、計量は正確。
はちゃめちゃなのに、雑ではない。
むしろ、丁寧すぎる。
次は混ぜる工程だった。
「混ぜすぎない」
エルがレシピカードを見ながら言う。
「だまが少し残るくらい」
「はい。それが大事です」
食堂班の職員が答える。
エルは普通の泡立て器を使った。
ゆっくり、慎重に。
魔法は使わない。
レシピ通りに混ぜる。
「でも」
食堂班の職員が少し身構える。
エルはボウルを見つめたまま言った。
「ふわふわには、種類がある」
「種類」
「雲みたいなふわふわ。布みたいなふわふわ。眠い声みたいなふわふわ」
「最後のは食感ではありませんね」
「うん。だから、香りを少し入れる」
エルははちみつを小さじで量った。
本当に少しだけ。
次にシナモンを取る。
「少しだけです」
「少し」
エルは指先でほんのわずかに入れた。
「遠くに行かない」
「その調子です」
ロジーはピンクがかった生地を見て、満足そうだった。
「かわいい。薄い夢色。これは勝った」
「まだ焼いていません」
「焼いても勝つ」
「勝負ではありません」
「かわいさ勝負だよ!」
レトは、自分のボウルを前にして、硝子の泡立て器を作った。
細い硝子の線が花のように広がる。
ただし最初の形は、少しだけ硝子短剣群に似ていた。
食堂班の職員がすぐに言う。
「レト、先端が鋭いです」
「混ざりやすそうでしょ?」
「切れます」
「あっ」
レトはすぐに形を直した。
鋭さが消え、丸い花弁のような泡立て器になる。
「これなら?」
「慎重に使うなら大丈夫です」
「やった!」
レトはボウルに泡立て器を入れた。
「これはね、混ぜすぎ防止つき」
ロジーが身を乗り出す。
「何それ!」
「混ぜすぎそうになったら、重くなるの」
「手動安全装置!」
「うん!」
レトは混ぜ始めた。
くるくる。
くるくる。
手つきはとてもきれいだった。
戦闘班で硝子短剣を扱う時の精密さが、そのまま厨房に持ち込まれている。
動きは速いが、無駄がない。
ただ、少し均一にしすぎようとしてしまう。
「もうちょっと……」
「レト、混ぜすぎると固くなります」
「分かってる。でも、だまがあると……」
「そのだまは残していいものです」
「でも、お兄さんに出すのに……」
その瞬間、硝子泡立て器の持ち手が、ずしっと重くなった。
レトの手が止まる。
「止まった!」
ロジーが笑う。
「ほんとに止まった!」
レトはボウルをじっと見る。
だまは少し残っている。
でも、それが正しい。
「……ここで止めるのが、ふわふわなんだね」
「はい」
食堂班の職員がうなずく。
レトは小さく息を吐いた。
「よかった。ふわふわ守れた」
焼きの工程に入る頃には、作業台の上にかなりの硝子器具が並んでいた。
硝子計量匙。
粉の道。
卵をきれいに割る装置。
牛乳細流ノズル。
混ぜすぎ防止泡立て器。
ロジーはそれを見て、楽しそうに言う。
「レトの厨房装備、もう一式できてる」
「装備じゃないよ。調理器具だよ!」
「見た目は装備だよ」
「パンケーキ用!」
「そこは分かってる」
エルはフライパンを前にして、レシピを確認する。
「弱火。ぷつぷつ。端が乾く。返す」
「はい」
食堂班の職員が言う。
「生地を流したら、触りすぎないでください」
「待つ」
「そうです」
エルは生地を流した。
少しゆがんだ丸になる。
レトが覗き込む。
「エルの、かわいい形」
「ゆがんだ」
「でもかわいいよ」
ロジーも言う。
「かわいい! 自然体パンケーキ!」
「自然体」
エルは少し考える。
「じゃあ、これは自然体」
「料理名を増やしすぎないでください」
食堂班の職員が言った。
エルは表面のぷつぷつを待つ。
待つ。
さらに待つ。
「料理、待つ時間が多い」
「そうですね」
「魔法なら、待たない」
「今日は魔法を使いません」
「うん。だから待つ」
エルは静かに待った。
返す直前、フライパンを少しだけ傾ける。
「エル?」
ロジーが聞く。
「焼き色を、片側だけ少し濃くする」
食堂班の職員が理由を聞く前に、エルは言った。
「朝と夕方が一枚にあると、楽しい」
「焦がさない範囲なら」
「夜にしない」
「はい。夜にはしないでください」
エルのパンケーキには、淡い焼き色のグラデーションができた。
ロジーが即座に言う。
「朝夕パンケーキ!」
「うん」
エルは満足そうに、それを皿へ移した。
ロジーは自分の薄い夢色の生地を流した。
「いくよ、かわいいやつ!」
「まだ飾りは乗せません」
「分かってるって!」
「本当に?」
「分かってる! でも今、星型チョコ一個だけ乗せたら――」
「焼いた後です」
「ちぇー!」
ロジーは我慢した。
表面のぷつぷつを見て、少し早く返したくなる。
でも、レトが隣から言った。
「まだ端が乾いてないよ」
「レト、今日すごい冷静」
「お兄さんに出すやつだから」
「なるほど、局長補正」
「お兄さん補正!」
「はいはい、お兄さん補正」
ロジーは待った。
待った結果、パンケーキは少しだけ折れたが、崩れなかった。
「ちょっとリボンみたい!」
レトが言う。
ロジーはすぐに立ち直る。
「リボンパンケーキ! 採用!」
「失敗では?」
食堂班の職員が聞く。
「記録上は成功の変種!」
「便利な分類ですね」
レトの番になると、厨房の空気が少し変わった。
レトはフライパンの前に立ち、真剣な顔で生地を見た。
「丸くする」
「お玉で中心に落とせば大丈夫です」
「完璧に丸くする」
「普通でも十分です」
「お兄さんに出すから、完璧に丸くする」
また硝子質の魔力が光った。
透明なリング型の型枠が生まれる。
縁には小さな彗星模様が刻まれている。
「丸くするやつ!」
「耐熱性は?」
「ある!」
「根拠は?」
「あるようにした!」
食堂班の職員は確認して、しぶしぶうなずいた。
「使って構いません。ただし、熱いので扱いに注意してください」
「うん!」
レトは硝子リングをフライパンに置き、生地を流した。
きれいな円。
ロジーが拍手する。
「完璧丸!」
「完璧丸!」
レトも嬉しそうに言う。
表面にぷつぷつが出る。
端が乾く。
レトはじっと待つ。
「今?」
「もう少し」
「今?」
「あと少し」
「今!」
「はい」
食堂班の声とほぼ同時に、レトは硝子のフライ返しを作った。
薄く、軽く、透明。
けれど、どこか短剣めいた鋭い美しさがある。
「レト返し!」
ロジーが即座に反応する。
「名前ついた!」
「完璧に返すやつ!」
「形状は確認します」
食堂班の職員が見て、危険な角度を少し丸めさせた。
「これなら使用可です」
「やった!」
レトは硝子のフライ返しをパンケーキの下へ差し込む。
薄い先端が、すっと入る。
手首の角度。
力の入れ方。
返す速度。
全部、慎重だった。
ぱたん。
パンケーキは、完璧に返った。
焼き色は均一。
形も崩れていない。
ふわふわは潰れていない。
レトは息を呑んだ。
そして、ぱっと笑う。
「できた!」
ロジーが拍手する。
「レト、完璧!」
「お兄さんに出せる!」
レトは本当に嬉しそうだった。
その後、レトの完璧主義はさらに加速した。
二枚目のために、硝子リングの厚みを調整する。
「高さをそろえる!」
三枚目のために、生地を中心へ落とす硝子漏斗を作る。
「真ん中に落ちる!」
焼き上がったパンケーキを置くために、透明な冷まし台を作る。
「蒸れたらやだ!」
バターを星形に抜くため、小さな硝子型を作る。
「お兄さんに出すバターだから、星!」
いちごを並べるため、硝子のピンセットを作る。
「手でぐにってしたらやだ!」
はちみつを細くかけるため、極細の硝子ノズルを作る。
「甘くなりすぎないように、細く!」
食堂班の職員は、調理台の上を見回した。
そこには、硝子の調理器具がずらりと並んでいた。
「レト、器具が多いです」
「でも、全部パンケーキ用だよ!」
「それは分かります」
「工程は守ってるよ!」
「それも分かります」
「じゃあ、大丈夫?」
「洗うなら」
「洗う!」
レトは即答した。
ロジーが笑いながら記録する。
「レト工房、厨房内に展開中」
「工房じゃないよ!」
「じゃあ、パンケーキ特化型硝子装備群」
「それ、かっこいい!」
「気に入るんだ」
エルはレトの器具を見ながら、ぽつりと言った。
「レト、遠くまで行ってる。でも、道は外れてない」
食堂班の職員は、その言葉に少しだけ納得した。
そうだった。
レトは過剰だった。
だが、料理そのものは壊していない。
分量を守る。
混ぜすぎない。
焼き色を見る。
形を整える。
食べる人のことを考えて、甘さを抑える。
むしろ、完成度は高かった。
レトのはちゃめちゃさは、雑さではなく、強すぎる丁寧さから出ている。
「お兄さん、喜ぶかな」
レトが小さく言った。
ロジーはデバイスを止めずに、でも声だけは少し柔らかくした。
「喜ぶでしょ。局長、そういうのちゃんと見てくれるし」
エルも言う。
「ジェレミー、食べると思う」
「うん!」
レトはまた笑った。
「じゃあ、もっとちゃんとする!」
「これ以上器具は増やさないでください」
食堂班が即座に言った。
盛りつけの時間になると、ロジーの目が輝いた。
「ここから私の時間!」
「盛りすぎは禁止です」
「分かってる! 食べる人に届く形!」
ロジーは材料を厳選した。
いちごは花の形に並べる。
星型チョコは三つ。
ハート型チョコは一つ。
砂糖細工の花は、小さく二つ。
きらきらパウダーは、泣く泣く少量。
「もっと宇宙にしたい……」
「今回は皿の上に収まる宇宙でお願いします」
「小宇宙……それはそれでかわいい」
「受け入れが早いですね」
レトは、硝子ピンセットでいちごの角度を直していた。
「ここ、ちょっとずれてる」
「十分きれいです」
「でも、お兄さんに見えるところだよ」
「はい」
「じゃあ、ちゃんとする」
レトは真剣だった。
一枚ずつ、いちごを整える。
ホイップの横に、星形バターを置く。
プリンは皿の端に一個だけ。
一瞬、レトの目がもう一つプリンを探した。
でも、自分で首を振った。
「だめ。今日はパンケーキ」
エルがはちみつを持つ。
「道を作る」
「道?」
ロジーが聞く。
「三人のパンケーキが、同じ皿でつながる道」
エルは細いはちみつの線を引いた。
レトの完璧な丸いパンケーキ。
ロジーの夢色パンケーキ。
エルの朝夕パンケーキ。
三つの上を、はちみつの細い線がゆるく通る。
「パンケーキロード!」
ロジーが叫ぶ。
「うん」
エルはうなずいた。
「甘い道」
完成したパンケーキは、華やかだった。
レトの完璧な丸。
ロジーのかわいい選抜。
エルの少し不思議な焼き色とはちみつの道。
そして、皿の端に小さなプリン。
作業台の上には、レトの硝子調理器具が並ぶ。
計量匙。
粉の道。
卵割り装置。
牛乳ノズル。
混ぜすぎ防止泡立て器。
硝子型枠。
レト返し。
冷まし台。
星形バター型。
はちみつノズル。
いちご用ピンセット。
厨房の一角だけ、完全に小さな硝子工房だった。
食堂班の職員は疲れていたが、皿の上を見て言った。
「完成度は高いです」
レトの顔がぱあっと明るくなる。
「ほんと!?」
「はい。過剰でしたが、丁寧でした」
「やった!」
その時、食堂の入り口に足音がした。
ジェレミーだった。
レトが一瞬で振り向く。
「お兄さん!」
ジェレミーは食堂へ入ってきて、三人を見る。
次に大皿を見る。
そして、調理台の上に並んだ硝子器具を見る。
少しだけ、沈黙した。
「……これは何の現場だ」
ロジーが明るく答える。
「最強パンケーキ制作会! 局長、実食係だよ!」
エルも言う。
「あたし、魔法使ってない」
レトは胸を張った。
「わたしは調理器具いっぱい作った!」
「見れば分かる」
ジェレミーは粉の道を見る。
卵割り装置を見る。
レト返しを見る。
はちみつノズルを見る。
「全部使ったのか」
「使った!」
「必要だったのか」
「必要だったよ。お兄さんに食べてもらうパンケーキだから」
ジェレミーはそこで少しだけ黙った。
レトの顔は真剣だった。
やりすぎている。
明らかに過剰だ。
だが、ふざけているわけではない。
レトは本気で、ジェレミーにちゃんとしたものを食べてほしかった。
「そうか」
ジェレミーは席に座った。
「食べる」
レトの顔が一気に明るくなる。
「ほんと!?」
「ああ」
「やった!」
ロジーのデバイスがすっと角度を変える。
「記録するよ。局長、最強パンケーキ実食」
「ほどほどにしろ」
「ほどほどにする!」
「信用ならないな」
「信用して!」
エルは皿を見ながら言った。
「ジェレミー、届く形になった?」
ジェレミーはまだ食べる前に皿を見た。
「少なくとも、届かせようとした形にはなっている」
エルはうなずいた。
「そっか」
レトは取り分けようとして、普通のナイフを持った。
しかし、皿に触れる直前、指先がぴくっと動く。
何もない空中に、青白い光がいくつも浮かぶ。
ロジーが目を丸くした。
「レト?」
「……お兄さんに、きれいな状態で出す」
その声は、妙に真剣だった。
次の瞬間、作業台に並んでいた硝子の道具たちが、ふわりと浮き上がった。
硝子計量匙。
レト返し。
はちみつノズル。
いちご用ピンセット。
星形バター型。
冷まし台の一部。
粉の道の小さな欠片。
混ぜすぎ防止泡立て器。
それらがレトの背後に、静かに展開する。
まるで戦闘班の遊撃員が、硝子短剣群を展開した時のように。
ただし、浮いているのは短剣ではない。
泡立て器。
ピンセット。
フライ返し。
匙。
ノズル。
全部、調理器具だった。
ジェレミーの方へ、ずらりと向いている。
圧がすごかった。
食堂班の職員が固まる。
ロジーは一瞬黙ってから、震える声で言った。
「……局長、パンケーキに包囲されてる」
「正確には、調理器具に包囲されている」
ジェレミーは冷静だった。
エルはじっと見ている。
「レト、戦闘状態?」
「違うよ!」
レトは真っ赤になって言った。
「これは、配膳状態!」
ロジーが即座に記録する。
「配膳状態」
「記録しないで!」
「する!」
ジェレミーは浮遊する硝子器具群を見上げた。
「レト」
「な、なに?」
「全部、こちらを向いている」
「お兄さんに出すからだよ!」
「圧が強い」
「圧……」
レトははっとした顔になる。
浮遊する硝子器具たちは、完璧に統制されていた。
レト返しはパンケーキを支える角度。
ピンセットはいちごを直す角度。
はちみつノズルは最後の一滴を補正する角度。
匙はプリンの崩れを防ぐ角度。
全部、レトの真剣さの表れだった。
だが、見た目は完全に、ジェレミーへ全器具を向けた戦闘態勢だった。
レトは慌てて器具たちの向きを少し上へずらした。
「こう?」
「まだ多い」
「じゃあ、減らす」
いくつかの器具が下がる。
でも、レト返しとはちみつノズルとピンセットだけは残った。
「これはいる」
「なぜだ」
「きれいに取り分けるため」
「普通のナイフでいい」
「でも……!」
レトは皿を見る。
それからジェレミーを見る。
「お兄さんに出す一口目、崩したくないの」
ジェレミーは少しだけ沈黙した。
そして、短く言った。
「三つまでだ」
レトの顔がぱっと明るくなる。
「三つはいいの!?」
「三つまでなら、配膳状態として許容する」
ロジーが笑いをこらえきれずに言う。
「配膳状態、正式採用された!」
「正式ではない」
ジェレミーが即座に言う。
エルは小さくうなずいた。
「完璧は、三つまで」
食堂班の職員が疲れた顔で言った。
「その言葉、今後の規定に使えそうです」
レトは三つの硝子器具だけを浮かせた。
レト返し。
はちみつノズル。
いちご用ピンセット。
それでも十分に圧はあった。
レトは真剣な顔でパンケーキを切り分ける。
まず、レトの完璧な丸いパンケーキ。
次に、エルの朝夕パンケーキ。
ロジーの夢色パンケーキ。
いちごを一つ。
ホイップを少し。
星形バター。
はちみつの道を崩さないように。
プリンをほんの少し。
途中で、ピンセットが一ミリずれたいちごを直す。
はちみつノズルが、最後の線を細く補う。
レト返しが、皿へ移す瞬間の傾きを支える。
完全に、戦闘時の集中だった。
ロジーが小声で言う。
「局長に一皿出すだけなのに、決戦みたい」
エルが答える。
「レトには、決戦なのかも」
レトは聞こえていない。
「はい、お兄さん!」
ジェレミーは皿を受け取った。
正面にはレト。
背後には浮遊する三つの硝子調理器具。
横ではロジーのデバイスが記録。
反対側ではエルがじっと観察。
かなり食べにくい状況だった。
ジェレミーは皿を見た。
そして、レトを見る。
「レト」
「なに?」
「器具を少し下げろ」
「えっ」
「見られている圧が強い」
「でも、崩れたら……」
「もう皿に乗っている」
「そっか」
レトは器具を少し下げた。
それでも浮いている。
ジェレミーは何も言わなかった。
フォークで一口切り取る。
レトは息を止める。
ロジーも息を止める。
エルは瞬きせずに見る。
浮いている硝子器具たちは、まったく動かない。
ジェレミーが一口食べた。
ふわっとした生地。
均一な焼き色。
はちみつの香り。
いちごの酸味。
薄い夢色の甘さ。
朝夕パンケーキの少し不思議な香り。
プリンはほんの少しだけ、端でやわらかく混ざる。
普通ではない。
だが、きちんとうまい。
それに、丁寧だった。
皿の上から、レトの過剰なくらいの気持ちが伝わってくる。
ジェレミーは飲み込んだ。
レトが小さく聞く。
「……どう?」
声はいつもの元気より少し弱い。
本気だから、怖い。
ロジーが小声で続ける。
「かわいい味、成立してる?」
エルも聞く。
「ジェレミー、届いた?」
ジェレミーは短く言った。
「うまい」
レトの目が見開かれる。
ジェレミーは続けた。
「よくできている」
レトの顔が、一気に明るくなった。
「ほんと!?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
「完璧?」
ジェレミーは少しだけ考えた。
調理台には硝子器具が並んでいる。
三つはまだ浮いている。
食堂班は疲れている。
ロジーは記録している。
エルの焼き色には朝と夕方がいる。
完璧、という言葉は扱いが難しい。
それでも、ジェレミーは言った。
「今のお前が作ったパンケーキとしては、完璧だ」
レトは固まった。
次の瞬間、浮いていたレト返しとはちみつノズルとピンセットが、ぱあっと上へ跳ねた。
「やったああああっ!」
ロジーが叫ぶ。
「記録! 局長、完璧判定! レト、配膳状態解除失敗!」
「解除してるもん!」
「器具、跳ねたよ!」
「嬉しかったの!」
「器具が?」
「わたしが!」
エルは小さく笑った。
「レト、うれしいと道具も跳ねる」
「だって、嬉しいもん!」
ジェレミーは二口目を食べた。
「器具は下げろ」
「あっ、うん!」
レトは慌てて硝子器具を下げた。
今度はちゃんと作業台に戻す。
その時、食堂に副長が現れた。
彼は大皿を見て、ジェレミーを見て、レトの周囲に整列した硝子調理器具を見た。
そして、いつもの上品な笑みを浮かべる。
「局長、食堂で包囲されていませんか」
「配膳状態だそうだ」
「なるほど。新しい戦術ですね」
「料理だよ!」
レトがすぐに言う。
「戦術じゃないよ!」
副長は楽しそうにうなずいた。
「失礼しました。では、新しい配膳術ですね」
ロジーが笑う。
「副長、それ採用!」
「採用しないでください」
食堂班の職員が言った。
副長は席に座る。
「私もいただいてよろしいですか」
ロジーがすかさず取り皿を出す。
「もちろん! 副長の感想も記録する!」
「迂闊なことは言えませんね」
「言って!」
「言いません」
レトは副長用にも取り分けようとした。
指先が光る。
ジェレミーが言う。
「三つまでだ」
「分かってる!」
レト返し、ピンセット、はちみつノズル。
三つだけ浮いた。
副長はそれを見て、にこやかに言った。
「圧は十分ですね」
「圧じゃなくて丁寧なの!」
「ええ。丁寧が高密度なのですね」
副長は一口食べた。
少し沈黙する。
それから、穏やかに言った。
「おいしいです」
レトが嬉しそうに身を乗り出す。
「ほんと?」
「ええ。見た目は賑やかですが、味はきちんとまとまっています。生地も良い。焼き加減も良い。飾りも食べにくいほどではありません」
ロジーが胸を張る。
「かわいさ選抜した!」
「良い選抜です」
エルが聞く。
「寄り道、遠かった?」
「いいえ。戻ってこられる距離でした」
エルはうなずいた。
「そっか」
副長は、レトの硝子器具群を見た。
「ただし、厨房の景色は過剰です」
「うっ」
レトが少しだけ肩をすくめる。
副長は続ける。
「ですが、雑ではありません。レトの気持ちが過剰な道具の数になっただけで、料理そのものは丁寧です」
レトはぱちぱちと瞬きした。
「雑じゃない?」
「ええ。むしろ丁寧すぎます」
「丁寧すぎる……」
ロジーがにやっと笑う。
「レト、丁寧の出力が戦闘班」
「それは分かるかもしれない」
食堂班の職員が小声で言った。
レトは少し照れた。
「だって、お兄さんに出すやつだったから」
ジェレミーは静かにコーヒーを飲んでいた。
「次は、道具の数を減らせ」
「んえ」
「三つまでだ」
「ずっと三つ?」
「基本は三つだ」
レトは真剣に考え込んだ。
「レト返しはいる。ピンセットもいる。混ぜすぎ防止もいる。粉の道もいる。卵のやつもいる……」
「もう五つですね」
副長が言った。
「困った……」
エルがぽつりと言う。
「完璧にしたいと、増える」
「うん」
レトはうなずく。
「増えちゃう」
「でも、届く形にするには、減らすのもいる」
レトはジェレミーを見る。
「お兄さん、道具が少なくても、おいしいって思う?」
「思う」
「ほんと?」
「ああ。今日うまかったのは、道具の数だけじゃない。お前がちゃんと見て、ちゃんと止めて、ちゃんと焼いたからだ」
レトは黙った。
その言葉を、胸の中でゆっくり受け取る。
「じゃあ、次は……道具少なめで、ちゃんと頑張る」
「それでいい」
「でも、レト返しは使いたい」
「相談しろ」
「相談する!」
ロジーがすかさず記録する。
「記録。レト、次回は相談する」
「記録しないで!」
「する!」
副長が皿を置いたところで、ロジーがふと大皿を見た。
「ねえ」
「なに?」
レトが振り向く。
「私たち、まだちゃんと食べてなくない?」
レトは一瞬固まった。
「……ほんとだ」
エルも皿を見る。
「作った人、食べてない」
食堂班の職員が少し驚いた顔をした。
「そういえば、試食はほとんどしていませんね」
ロジーは両手を上げた。
「実食会! 制作者三名による最強パンケーキ感想会!」
「今度は何の記録だ」
ジェレミーが言う。
「必要な記録! 作った人が食べないと、完成記録が閉じないでしょ!」
副長が微笑む。
「それは一理ありますね」
レトは大皿を見た。
お兄さんが食べてくれた。
うまいと言ってくれた。
完璧だと言ってくれた。
それだけで胸がいっぱいだったが、改めて見ると、自分たちの作ったパンケーキはまだ少し残っている。
「わたしたちも、食べる」
レトは小さく言った。
「お兄さんに出したやつ、ちゃんとわたしも知りたい」
エルはうなずいた。
「あたしも知りたい。魔法じゃない味」
「私はかわいい味の検証!」
ロジーはもう取り皿を三枚並べていた。
食堂班の職員が言う。
「では、今度は普通に取り分けましょう」
レトの指先が少し光る。
ジェレミーが見る。
「レト」
「……三つ?」
「零だ」
「んええ」
「自分たちで食べる分は、普通に切れ」
レトは少しだけしょんぼりした。
でも、すぐに普通のナイフを取る。
「分かった。普通でやる」
ロジーが笑う。
「配膳状態なし!」
「なし……」
レトは名残惜しそうにレト返しを見た。
エルがぽつりと言う。
「普通の道具で食べるのも、記録」
「そうだよ!」
ロジーが乗る。
「普通実食記録!」
「じゃあ、普通でやる!」
レトは今度こそ普通のナイフとフォークで、三人分を切り分けた。
少し形は崩れた。
レトの眉が一瞬だけ下がる。
「崩れた……」
ロジーがすぐ言った。
「食べる時は崩れるよ!」
「そっか」
エルも言う。
「形が口に入る大きさになる」
「口に入る大きさ……」
レトは納得した。
「じゃあ、これは食べる形」
「そう!」
三人は食堂の端のテーブルに並んで座った。
レトの前には、完璧丸パンケーキと朝夕パンケーキと夢色パンケーキが少しずつ。
ロジーの前には、飾り多めの一切れ。
エルの前には、はちみつの道がきれいにかかった部分。
ロジーがデバイスを少し上へ浮かせる。
「制作者実食、開始!」
「いただきます」
食堂班の職員が促す。
レトはフォークで一口切った。
自分で焼いた、完璧に丸かったパンケーキ。
お兄さんが食べたものと同じ。
そう思うと、急に胸の奥がそわそわした。
「食べる……」
「食べなよ」
ロジーがにこにこしている。
「レトが作ったやつだよ」
「うん」
レトは一口食べた。
ふわっとした。
思ったより、ちゃんとふわふわだった。
「……ふわふわ」
声が小さくなる。
「ちゃんと、ふわふわ」
ロジーが身を乗り出す。
「どう? おいしい?」
レトはもう一口食べた。
焼き色の香ばしさ。
はちみつの甘さ。
少しだけプリンのなめらかさ。
「おいしい」
それから、急に顔が明るくなる。
「おいしい! ほんとにおいしい!」
「やった!」
ロジーが手を叩く。
レトは自分の皿を見つめた。
「お兄さん、これ食べてくれたんだ」
「そうだね」
「これ、わたしが作ったんだね」
「うん」
「……えへへ」
レトは頬をゆるめた。
「お兄さんに出せてよかった」
ロジーは自分の皿を見た。
薄い夢色のパンケーキに、ホイップといちごと星型チョコが乗っている。
「じゃあ、私のかわいい味、いきます!」
大きめに切って、口へ運ぶ。
もぐ。
数秒後、ロジーの目が輝いた。
「かわいい!」
「味が?」
レトが聞く。
「味がかわいい!」
食堂班の職員が遠くから言う。
「具体的には?」
「いちごが明るい! ホイップが丸い! 星型チョコが楽しい! 夢色生地が、なんか、見た目で得してる!」
「最後は味ではありませんね」
「でも大事!」
ロジーはもう一口食べる。
「うん。きらきらパウダー少なくても、ちゃんとかわいい。むしろ、少ないからパンケーキが見える」
レトが嬉しそうに言う。
「ロジーのホイップ、きれいだったよ」
「でしょ!」
「いっぱいじゃなくても、かわいかった」
ロジーは少しだけ得意げに、でも少しだけ照れた顔をした。
「量じゃなくて技術……私、学んだかもしれない」
副長が遠くから言う。
「それは良い学びですね」
「副長、今いい感じだから茶々入れないで!」
「失礼」
エルは、自分の前の皿をじっと見ていた。
はちみつの細い線。
片側だけ少し濃い焼き色。
少しゆがんだ形。
エルはフォークで小さく切る。
「これ、あたしの寄り道」
「食べてみて!」
ロジーが言う。
エルは口へ運んだ。
もぐ。
しばらく黙る。
レトが少し心配そうに聞く。
「エル?」
エルはゆっくり飲み込んだ。
「……待った味」
ロジーが首をかしげる。
「さっきも言ってたやつ?」
「うん。すぐじゃない味。粉を入れて、卵を入れて、混ぜて、止めて、焼いて、待って、返して、また待った味」
エルは皿を見る。
「魔法なら、結果だけできる。これは、途中が残ってる」
食堂班の職員が、少し静かに聞いていた。
エルはもう一口食べる。
「シナモン、少しだけでよかった」
「遠くなかった?」
レトが聞く。
「うん。戻ってこられた」
ロジーが笑う。
「エルの寄り道、今回は近所!」
「近所」
エルはうなずいた。
「近所の幸せ」
「また料理名が増えた」
ロジーが楽しそうに記録する。
レトは三人分の皿を見比べた。
「同じパンケーキなのに、ぜんぜん違うね」
「私のはかわいい!」
ロジーが胸を張る。
「あたしのは寄り道」
エルが言う。
「わたしのは……」
レトは自分の皿を見た。
「完璧にしたかったやつ」
ロジーがすぐ言う。
「完璧にしたかった味、するよ」
「どんな味?」
「真面目。ふわふわ。ちょっと圧がある」
「圧!?」
レトが赤くなる。
エルも自分の一切れを食べながら言う。
「レトの味、まっすぐ」
「まっすぐ?」
「うん。曲がってない。お兄さんに行く味」
レトはさらに赤くなった。
「エル、それ、なんか恥ずかしい……」
「恥ずかしい?」
「うん。でも、うれしい」
ロジーがにやにやする。
「記録しとくね。レトのパンケーキは、お兄さんに行く味」
「記録しないで!」
「する!」
「ロジー!」
三人は笑いながら食べ進めた。
レトはプリンが添えられた部分を少しだけ食べて、目を輝かせる。
「プリン、やっぱりおいしい」
食堂班の職員がすかさず言う。
「今日は添えただけです」
「分かってるよ。パンケーキが真ん中」
「はい」
「でも、端っこのプリンも強い」
ロジーが頷く。
「端っこなのに存在感がある。さすがプリン」
エルが言う。
「心の端っこ、強い」
「名言っぽい!」
ロジーが即座に記録しようとした。
食堂班の職員が、少し笑いをこらえる。
レトはロジーの夢色パンケーキを少しもらった。
「ロジーの、かわいい味する」
「でしょ!」
「いちごが明るいって、ちょっと分かった」
「でしょでしょ!」
ロジーはレトの完璧丸パンケーキを食べた。
「レトのはね、形がきれいだから、フォーク入れる時ちょっと緊張する」
「緊張?」
「うん。崩していいのかなってなる」
レトは少し不安そうになる。
「食べにくい?」
「違う違う。大事に食べたくなる」
レトはほっとした。
「なら、よかった」
エルはロジーのパンケーキを食べ、少し考える。
「ロジーのは、目が先に食べる」
「目が食べる!」
ロジーが大喜びする。
「それいい! 記録!」
「それから、口が追いつく」
「最高じゃん!」
「でも、きらきらが多いと、目だけでお腹いっぱいになりそう」
ロジーは真顔になった。
「……次も、きらきら少量にする」
食堂班の職員が小さくうなずいた。
「良い判断です」
レトはエルの朝夕パンケーキを食べた。
「エルの、いい匂いする」
「遠かった?」
「遠くないよ。ちょっと知らないところに連れていかれるけど、ちゃんと帰ってこられる」
エルは少しだけ目を丸くした。
「レトも、そう思う?」
「うん!」
「そっか」
エルは嬉しそうというより、納得したようにうなずいた。
「戻れる寄り道」
ロジーが言う。
「今日のエルのテーマ、それだね!」
「戻れる寄り道」
エルは小さく繰り返した。
三人の皿は少しずつ空になっていった。
食べながら、ロジーは感想をまとめていく。
「レトのパンケーキは、丁寧でふわふわで、ちょっと配膳圧が強い」
「圧は入ってないよ!」
「入ってたよ。味じゃなくて場に」
「場……」
「エルのパンケーキは、レシピを守った上で近所に散歩してる」
「近所の散歩」
「私のパンケーキは、かわいいものを選抜すると、ちゃんと食べられるかわいいになる」
「ちゃんと食べられるかわいい」
「うん!」
エルはフォークを置いて言った。
「三つ、同じ皿にあると、別々なのにひとつ」
レトはにこにこする。
「箱庭パンケーキだね」
ロジーが両手を上げる。
「正式名称、箱庭パンケーキ!」
食堂班の職員が言う。
「正式ではありません」
「じゃあ、非公式名称!」
「それならどうぞ」
「やった!」
レトは最後の一口を食べた。
飲み込んで、胸に手を当てる。
「……おいしかった」
それは、ジェレミーに褒められた時とは少し違う声だった。
自分で作ったものを、自分で食べて、ちゃんとおいしいと分かった声。
「わたし、ちゃんと作れたんだね」
ロジーが笑う。
「作れてたよ」
エルも言う。
「レト、ちゃんと止まれた。混ぜるのも、プリンも、道具も」
「道具は、ちょっと止まれなかったかも」
「ちょっと?」
ロジーが言う。
「かなり」
レトは頬を膨らませる。
「でも、三つまでになったもん」
「最後はね」
「最後は!」
ジェレミーが静かに言った。
「次は最初からだ」
「んええ」
副長が微笑む。
「成長の余地が多いですね」
レトは少し考えた。
それから、ぱっと笑った。
「じゃあ、次はもっとちゃんとできるね!」
ロジーがうなずく。
「次回も記録価値あり!」
エルも言う。
「次は、違う待つ味になる」
食堂班の職員が、布巾を手に取った。
「では、感想会が終わったところで、後片付けです」
三人が一斉に止まった。
レトは作業台を見る。
硝子器具が多い。
かなり多い。
「……いっぱいある」
「いっぱい作りましたから」
「洗うって言った」
「はい」
レトは覚悟を決めた顔でうなずいた。
「洗う」
ロジーも手を上げる。
「私もやる! 記録しながら!」
「記録しながらではなく、手も動かしてください」
「動かす!」
エルも袖を少しまくる。
「終わらせるまでが料理」
「その通りです」
食堂班の職員がうなずいた。
レトは、自分で作った硝子器具を一つずつ洗った。
粉の道。
卵割り装置。
牛乳細流ノズル。
混ぜすぎ防止泡立て器。
硝子型枠。
レト返し。
冷まし台。
星形バター型。
はちみつノズル。
いちご用ピンセット。
ロジーはそれを記録しながら、時々ちゃんと拭いた。
「粉の道、洗浄完了!」
「卵割り装置、洗浄完了!」
「レト返し、洗浄完了!」
レトはレト返しを最後まで丁寧に拭いた。
「これ、今日いちばん頑張った」
食堂班の職員が言った。
「頑張ったのはレトです」
レトは少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑う。
「そっか。わたし、頑張った」
「はい」
「じゃあ、レト返しも頑張ったし、わたしも頑張った」
「そういうことにしましょう」
ジェレミーが言う。
「危ないものは残すな」
「うん」
レトは硝子器具たちを見る。
少し名残惜しい。
けれど、今日は十分だった。
お兄さんが食べてくれた。
うまいと言ってくれた。
完璧だと言ってくれた。
自分たちでも食べた。
ふわふわだった。
甘かった。
ちゃんとおいしかった。
ロジーの記録にも残った。
エルも一緒に作った。
食堂班も止めてくれた。
それで、ちゃんと満たされていた。
レトが指先で触れると、硝子器具たちは青白い粒子になってほどけていく。
粉の道も。
卵割り装置も。
レト返しも。
配膳状態で浮いていた道具たちも。
きらきらと消えていった。
「ばいばい、今日の完璧」
エルがその言葉を聞いて、ぽつりと言う。
「完璧、消えても残る?」
レトは振り向いた。
「残るよ」
「どこに?」
レトは少し考える。
そして、ぱっと笑った。
「お兄さんのお腹!」
ジェレミーが短く言う。
「そこだけではない」
ロジーがデバイスを指さす。
「記録にも残る!」
エルは空になった自分の皿を見る。
「味にも残る」
食堂班の職員も、申請書へ何かを書きながら言った。
「次回の注意事項にも残ります」
「えっ」
レトが不安そうな顔をする。
食堂班の職員は、紙にこう書いていた。
箱庭の娘たち厨房使用時:
装飾品上限、プリン持ち込み数、エルの寄り道範囲、レトの硝子調理器具数を事前確認すること。
少し考えて、さらに一行。
レトの配膳状態は、三器具まで。
器具の向きに注意。
さらに、もう一行。
制作者本人たちの実食時間を確保すること。
ロジーがそれを見て、吹き出した。
「実食時間、公式化!」
「公式化ではありません」
食堂班の職員が言う。
レトは真剣に紙を覗き込む。
「三器具まで……」
ジェレミーが言った。
「守れ」
「守る!」
「向きもだ」
「向きも!」
ロジーが続ける。
「実食時間も!」
「それも!」
エルは空になった皿を見ていた。
「パンケーキ、なくなった」
「食べたからね!」
レトが言う。
「なくなったのに、うれしい」
エルは少し首をかしげる。
「料理、ふしぎ」
ロジーが笑う。
「なくなるために作るんだよ。でも記録は残るし、味も覚えてるし、楽しかったのも残る」
エルはうなずいた。
「じゃあ、幸せは食べても減らない」
ロジーのデバイスが即座に反応する。
「記録。エル、名言」
「名言?」
「名言!」
レトはジェレミーの隣に座り、空になった皿を見た。
「お兄さん、また作ってもいい?」
ジェレミーはコーヒーを置いた。
「食堂班が許可するならな」
三人の視線が、一斉に食堂班へ向いた。
食堂班の職員は疲れた顔で、それでも少し笑った。
「条件付きです」
「条件、守る!」
レトが即答する。
「装飾品は上限あり。プリンは一個まで。エルの感性は小さじ一杯まで。ロジーのきらきらは食べる人に届く範囲。レトの硝子器具は三つまで」
エルが繰り返す。
「小さじ一杯の感性」
ロジーも言う。
「届く範囲のかわいさ」
レトは拳を握った。
「三つまでの完璧」
副長が笑う。
「なかなか監理局らしい結論ですね」
ジェレミーは短く言った。
「次も期待している」
レトはその言葉だけで、顔を真っ赤にした。
「ほんと!? ほんとに期待してる!?」
「ああ」
「じゃあ、次も完璧にする!」
ロジーがすぐに言う。
「また道具増えそう」
「増やさないもん!」
「ほんと?」
「三つまで!」
エルがうなずく。
「完璧は、三つまで」
食堂には、まだ少し甘い匂いが残っていた。
パンケーキはもうない。
プリンもない。
硝子器具も消えた。
けれど、レトの強すぎる想いも、ロジーのかわいい選抜も、エルの小さな寄り道も、食堂班の制御も、ジェレミーの「うまい」も、三人で言い合った感想も、ちゃんとそこに残っていた。
レトは空になった皿を見て、満面の笑みで言った。
「最強パンケーキ、大成功だね!」
ロジーが両手を上げる。
「大成功!」
エルも、少し遅れて手を上げた。
「大成功」
ジェレミーは静かにうなずいた。
「大成功だ」
それでレトは、今日いちばん完璧な笑顔で、もう一度だけ跳ねた。




