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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第86話-楽しいならいいは、だめ?

エルが悪意のある人間に、悪意を隠されて接触されるおはなし。

超きもちわるい研究者が、嫌がらないエルにどんどんエスカレートするおはなしだよ。

エルは、なにをされているのか分かっていないけど、大人達が全力でエルを守る大切なおはなし!

惑星監理局には、外部の研究者が出入りすることがある。


もちろん、誰でも入れるわけではない。


身元確認。

所属機関の審査。

研究目的の申請。

持ち込み機材の検査。

記録範囲の制限。

監理局職員の同伴。


いくつもの条件を通った者だけが、限られた区画に入ることを許される。


監理局は閉じた箱ではない。


外部文明、研究機関、医療組織、魔術工学企業、惑星自治体。

多くの組織と情報を交換し、共同研究を行い、危険物を解析し、必要な技術を共有する。


その中に、ひとりの研究者がいた。


名は、セラド・ヴェイン。


外部魔力生体研究所に所属する研究主任。


年齢は四十代半ば。

穏やかな声。

柔らかい物腰。

派手な発言はせず、監理局職員にも礼儀正しい。


専門は、魔力生命体の外部反応と環境適応。


監理局へはすでに何度も出入りしていた。


特殊魔術性物品の残留反応を調べたことがある。

レトの排熱結晶の外部保存条件について、技術班へ意見を出したこともある。

ロジーのデバイスに関しては、正式権限外であるため触れなかった。

エルが作った小さな硝子細工についても、監理局の許可範囲内で観察し、丁寧な報告書を提出していた。


だから、一定の信頼はあった。


少なくとも、露骨な危険人物ではなかった。


危険な者は、最初から牙を見せるとは限らない。


むしろ、牙を隠せる者ほど厄介だった。


セラドは、報告書の中では常に正しかった。


対象への敬意。

安全確認。

非侵襲検査。

監理局規定への理解。

保護対象の心理負荷を避けるための距離感。


言葉だけを読めば、模範的な外部研究者に見えた。


だが、彼には報告書に書かない癖があった。


エルを見る時だけ、視線がわずかに長い。


エルの髪が揺れた時。

頬に硝子片の光が反射した時。

小さな手で硝子細工を持ち上げた時。


彼は、その反応を研究者の観察として処理していた。


自分にも、そう説明していた。


希少個体への関心。

未知の魔力生体反応への知的好奇心。

外部皮膚反応の確認。

接触時の表層魔力揺らぎの観察。


そういう言葉で覆えば、自分の欲を別のものに見せられる。


彼が本当に欲しがっていたのは、研究成果だけではなかった。


エルに触れる理由だった。


その日、エルは中庭にいた。


白髪のボブの毛先を淡くピンクに揺らし、芝生の上に座っている。


膝の上には、彼女が作った小さな硝子の猫がいた。


透明な身体。

丸い耳。

細い尻尾。


猫は生き物ではない。

エルが作った、遊び相手のような硝子細工だった。


それでも、猫はエルの指先に頭を擦りつけるような仕草をした。


「くすぐったい」


エルはぽつりと言った。


近くでは生活班の女性職員が花壇の手入れをしている。

少し離れた場所では、技術班の職員が小鳥型の特殊魔術性物品の安全確認をしていた。


そこへ、セラドが来た。


「エルさん」


エルは顔を上げる。


「こんにちは」


「こんにちは。今日も小さな魔術性物品を作っているのですね」


「猫」


「ええ、猫ですね。とても精巧だ」


セラドは膝を折り、エルと目線を合わせるようにした。


その態度は丁寧だった。


遠くから見れば、善良な研究者が保護対象に配慮して話しかけているようにしか見えない。


「少し、観察しても?」


「猫?」


「ええ。猫も。それから、あなたの髪に付着した魔力残滓も」


エルは首を傾げた。


「髪?」


「魔力生命体は、周囲に微細な反応を残します。髪の表面には、日常的な魔力の流れが出やすい。あなたの安全確認にも役立ちます」


「安全?」


「そうです。あなたに何か異常があった時、早く気づけるかもしれない」


エルは少し考えた。


安全。

異常。

早く気づく。


監理局の職員も、よくそういう言葉を使う。


だから、変ではないと思った。


セラドはさらに微笑む。


「私にとっても、とても有意義な確認です。あなたを知ることは、研究者として大切なことですから」


「知る?」


「ええ。知ることは楽しい。あなたのような存在なら、なおさらです」


エルは目を瞬かせた。


「楽しい?」


「ええ。とても」


エルは、静かに頷いた。


「なら、いい」


セラドの指が、エルの髪に触れた。


白い髪の表面を、ほんの少しだけ撫でるように。


職員が見る距離なら、乱暴には見えない。

髪を引くこともない。

痛みもない。


エルは動かなかった。


何をされているのか、よく分からなかった。


ただ、研究者には理由があった。

安全確認だと言った。

有意義だと言った。

楽しいと言った。


なら、いい。


セラドは、髪の一房を指の間に挟んだ。


本当に必要な確認なら、一秒で済む。


だが、彼の指は少しだけ長くそこにあった。


エルはそれを異常だと思わなかった。


髪を触られることの意味が、まだよく分かっていなかったからだ。


中庭の隅で、生活班の職員は花壇の手入れを続けていた。


見えている範囲では、異常とは言い切れない。


だが、彼女は一度だけ手を止めた。


セラドが、職員の視線が外れた瞬間にだけ、エルとの距離を詰めたように見えたからだ。


ほんの小さな違和感。


まだ、報告にするには弱い。


けれど監理局では、小さな違和感は捨てない。


生活班職員は、その場では何も言わなかった。


エルは怯えていない。

泣いていない。

痛がっていない。

セラドも、外見上は丁寧な態度を崩していない。


だから、その場で強く割り込めば、逆にエルを混乱させる可能性がある。


生活班職員は、花壇の手入れを終えるふりをして、ほんの少しだけ二人に近づいた。


セラドは、すぐにエルの髪から手を離した。


そして、少し距離を取った。


その動きで、違和感は確信に近づいた。


見られて困ることをしていた人間の距離の取り方だった。


二度目は、廊下だった。


エルはひとりで、魔術性物品保管室へ向かっていた。


手には、小さな硝子の鳥。


前に作ったものよりも羽が丸く、飛ぶというより、ころころ転がりそうな鳥だった。


「飛べない鳥」


エルは鳥を見ながら歩いていた。


廊下の角で、セラドが現れた。


「エルさん」


「こんにちは」


「また新しいものを?」


「うん。飛べない」


「飛べない鳥ですか。面白いですね」


「飛べないのも、かわいい」


「なるほど。あなたの発想は興味深い」


セラドは笑った。


そして、周囲を見た。


廊下の向こうには職員がいた。

だが、書類を抱えて別の部屋へ入っていくところだった。


一瞬だけ、廊下が空く。


セラドはその一瞬を待っていたように、エルへ近づいた。


「少し、顔の表面反応を見てもいいですか」


エルは硝子の鳥を抱えたまま、首を傾げた。


「顔?」


「ええ。頬のあたりです。あなたが魔術性物品を作った後、皮膚表面に微細な反応が出ることがあります」


「ほっぺ」


「そうです。痛くはありません。触れるだけです」


エルは自分の頬に触れた。


「ここ?」


「ええ」


「どうして?」


「研究のためです。あなたを知るため。あなたが何を作った時に、どんな反応をするのか。それが分かれば、今後の安全管理にも役立つ」


「安全管理」


「ええ」


「楽しい?」


セラドは一拍置いて、微笑んだ。


「楽しいですよ。私は、知らないことを知るのが好きですから」


エルは頷いた。


「なら、いい」


セラドの指が、エルの頬に触れた。


ほんの数秒。


やわらかい頬の表面を、確認するように押す。


痛くはない。


エルは、何も言わなかった。


セラドは、その沈黙を都合よく解釈した。


怖がらない。

抵抗しない。

嫌がらない。


なら、問題はない。


彼はそう思った。


だが本当は違う。


エルは嫌がっていないのではない。


何を嫌がればいいのか、まだ分かっていなかった。


廊下の角を曲がった先で、先ほど書類を抱えていた職員が足を止めた。


彼女は直接その接触を見たわけではない。


だが、廊下に戻った時、セラドがエルから妙に離れて立っていた。


さっきまで、距離が近かったはずなのに。


エルはいつも通りの顔をしている。


セラドも、いつも通りの声で話している。


けれど、職員の視線が戻った瞬間に、空気が整え直されたような違和感があった。


職員は、その場で声をかけた。


「エルさん、保管室へ行かれるところですか」


エルは振り向いた。


「うん。飛べない鳥、置く」


「では、ご一緒します」


「うん」


セラドは穏やかに頷いた。


「では、私はここで」


その引き際も、丁寧だった。


丁寧すぎた。


違和感は、もう二度目だった。


三度目は、資料閲覧区画の小さな待機室だった。


エルは、ジェレミーを待っていた。


ジェレミーが会議に入っていて、終わったら一緒に中庭へ行く約束をしていた。


エルは椅子に座り、足を少しだけ揺らしていた。


手元には、何も持っていない。


壁の時計を見る。


時間は分かる。

けれど、待っている時間の長さは、まだ少し苦手だった。


その時、扉が開いた。


セラドだった。


「おや、エルさん。おひとりですか」


「ジェレミー、待ってる」


「そうですか。では、少しだけお話をしても?」


「うん」


セラドは部屋へ入り、扉を閉めた。


エルは、それを見ても何も思わなかった。


扉は閉めるものだ。

人と話す時、閉めることもある。

ジェレミーも、会議の時は扉を閉める。


だから変ではない。


セラドは向かいの椅子には座らなかった。


エルの隣へ立った。


「あなたの手を見てもいいですか」


「手?」


エルは自分の手を見る。


小さな手。

白い指。

爪。

手のひらの線。


「手のどこ?」


「指です。指先には、魔力の流れが出やすい。あなたは物を作る時、よく指先を使うでしょう?」


「うん」


「だから、そこを見れば、あなたがどうやって物を作っているのか少し分かるかもしれない」


エルは手を差し出した。


「これ?」


「ええ」


セラドは、エルの指を取った。


親指。

人差し指。

中指。


一本ずつ、角度を変えて見る。


指の腹を押す。

爪の根元をなぞる。

手のひらを開かせる。


エルはじっとしていた。


「痛いですか?」


「痛くない」


「なら、大丈夫ですね」


「大丈夫?」


「ええ。あなたも協力してくれている。私も助かる。とても有意義です」


「楽しい?」


「もちろん」


セラドは微笑んだ。


「とても楽しい」


エルは、また頷いた。


「なら、いい」


その時、扉の外を、生活班の職員が通りかかった。


彼女は待機室の前で、ふと足を止めた。


理由は、小さな違和感だった。


この待機室は、普段は扉を半開きにしておく。


エルがひとりで待つ時は、職員が外から様子を確認できるようにするためだ。


なのに、扉が閉まっている。


しかも、在室表示にはエルの反応と、外部研究者の反応が重なっている。


職員は扉の前で一秒だけ考えた。


そして、ノックした。


「失礼します。エルさん、いらっしゃいますか」


中で、ほんのわずかに間が空いた。


それから扉が開く。


セラドが立っていた。


「何か?」


生活班職員は、表情を変えなかった。


「エルさんの待機確認です」


「彼女とは研究上の確認をしていました。問題ありません」


エルは椅子に座っていた。


手を膝の上に置いている。


いつものように、淡々とした顔。


怯えていない。

泣いていない。

嫌がっている様子もない。


だが、生活班職員は見た。


セラドが一歩、エルから離れたことを。


人目が来た瞬間に、距離を取ったことを。


それは、研究者が対象に配慮した動きではなかった。


見られたくないことをしていた人間の動きだった。


「そうですか」


職員は静かに言った。


「では、ここからは私が同席します」


セラドは微笑んだ。


「もちろん。構いません」


その声は穏やかだった。


だが、目だけが笑っていなかった。


生活班職員は、その日のうちに報告を上げた。


大げさな告発ではない。


決めつけでもない。


ただの違和感の記録。


外部研究者セラド・ヴェインが、エルと二人きりになる場面が複数回発生。

職員接近時に、エルから距離を取る動作あり。

研究目的外の身体接触の可能性あり。

本人確認を要請。


報告を受けた副長は、最後まで読んでから、端末を置いた。


「よく気づきました」


生活班職員は頭を下げる。


「まだ、断定できません」


「断定する必要はありません。疑うべき形をしています」


その時点で、初めて内部保護用の記録照会が始まった。


惑星監理局には、ナノサイズの監視ドローンが漂っている。


ただし、万能ではない。


すべての場所を、すべての瞬間、完全に監視できるわけではない。


常時、誰かが画面を見ているわけでもない。


それらは、異常が起きた時、違和感が生じた時、後から周辺記録を確認するための保護機構だった。


しかも、外部には秘匿されている。


存在を知られてはならない。


外部組織との交渉にも、裁定にも、公式証拠にも使えない。


監理局内部の保護判断にだけ使われる、最後の補助線。


だから、生活班職員が違和感を覚えた後、監理局は静かに記録を照会した。


外部研究者の入退室履歴。

エルの所在記録。

廊下の通行記録。

中庭の職員配置。

待機室周辺の在室反応。

そして、外部には決して出せないナノドローンの断片記録。


線を結ぶと、偶然にしては整いすぎていた。


セラドは、エルがひとりになる時間を選んでいる。


職員の視線が切れる場所を選んでいる。


人目があると、距離を取る。


人目がないと、近づく。


ただし、この時点で全ての記録精査が終わっていたわけではない。


ナノドローンの記録は膨大で、断片的で、場所によっては欠落もある。


全区画の全記録を即座に読み終えられるわけではない。


分かったのは、危険な傾向があること。


現場を押さえる必要があること。


そして、エルにこれ以上の危険を及ぼしてはならないことだった。


副長は、情報班主任を呼んだ。


「ロジーは使いません」


情報班主任はすぐ理解した。


「はい」


「これは、彼女の魔術を使う案件ではありません」


ロジーの魔術なら、通常の監視では把握できない範囲の行いまで、分かってしまう可能性がある。


誰も見ていない部屋。

記録に残っていない接触。

言葉にされなかった意図。

隠された持ち込み。

消された痕跡。


ロジーは、そういうものに届いてしまう。


だが、それは監理局にとっても秘匿案件だった。


外部への証拠にはできない。

通常手続きにも乗せられない。

そして何より、ロジー本人に知らせるには危険すぎた。


エルはロジーの友達だ。


レトと同じく、大切な箱庭の娘のひとりだ。


そのエルが、自分の分からなさを利用され、触れられていたと知れば。


ロジーは、ただ怒るだけでは済まない。


ロジーは記録者である。


彼女が本気で相手の人生を破滅させようと思えば、監理局でも止めきれない形で情報を探し出し、分類し、繋げ、突きつける。


監理局は、箱庭の娘たちを完全に制御できる組織ではない。


レトを命令だけで止められない。

ロジーを規則だけで縛れない。

エルを力で押さえ込めない。


彼女たちは保護対象であり、仲間であり、自律した他者である。


だからこそ、危険な情報を誰に、いつ、どこまで伝えるかも、監理局は慎重でなければならない。


副長は言った。


「ロジーには、今は知らせません。通常記録で追います」


情報班主任は頷いた。


「承知しました」


「ナノドローンの記録は」


「外部提出不可。内部保護判断のみ」


「よろしい」


次に、医療班主任。


「エルの身体表面に不要な接触痕や刺激反応がないか確認。ただし、不安を煽らないように」


「分かりました」


次に、技術班長。


「外部研究者の持ち込み機材を再検査。透明容器、小型採取紙、表皮反応固定液。このあたりを重点的に」


「了解」


最後に、ジェレミー・クリエット。


副長は、局長室で簡潔に報告した。


ジェレミーは黙って聞いていた。


表情は変わらない。


しかし、部屋の温度が一段下がったように感じた。


「エルは」


「現時点で不調はありません。本人は異常と認識していない可能性が高い」


「本人に確認したか」


「これからです。責める形にはしません。ただ、全記録の精査はまだ終わっていません」


「現場を優先しろ」


「はい」


ジェレミーは立ち上がった。


「セラドの次回来訪は」


「明日です。魔術性物品保管室での観察申請が入っています」


「通せ」


副長は目を細めた。


「現場を押さえますか」


「押さえる。ただし、エルに危険は及ばせない」


「承知しました」


翌日。


魔術性物品保管室。


棚には、エルが作った小物がいくつも並んでいた。


建前に鳴く鳥。

ため息を吸う小さなクッション。

触ると少しだけ光る石。

眠くなる鈴。

レトが「かわいいけど危ない」と言った、星形の硝子箱。


エルはその中央に立っていた。


セラドもいる。


同席していた技術班職員は、わざと端末を見た。


「すみません。隣室の照合端末を確認してきます。すぐ戻ります」


セラドは穏やかに頷いた。


「どうぞ」


技術班職員が出ていく。


扉が閉まる。


保管室には、エルとセラドだけが残った。


ただし、隣室には副長がいた。

その隣には、ジェレミーがいた。

さらに医療班主任、技術班長、生活班職員、戦闘班員が待機していた。


保管室には、通常記録用の正式な保護監視が入っている。


これは外部にも説明可能なものだった。


保護対象が外部研究者と同室になる場合の、安全確認記録。


つまり、今ここで起きる規定違反は、ナノドローンでもロジーの魔術でもなく、正式な保護記録で押さえられる。


副長は画面を見つめていた。


セラドは、数秒だけ扉を見た。


戻ってこない。


そう判断したのだろう。


彼は、エルへ近づいた。


「エルさん」


「うん」


「今日は、前より少し詳しく調べたいのです」


「詳しく」


「ええ。表面反応だけではなく、接触時の変化を見たい」


「接触」


「触れた時に、あなたの魔力がどう揺れるかです。外部刺激に対する反応を見るだけですから、危険はありません」


エルは、自分の手を見た。


「手?」


「手でも構いません。頬でも、髪でもいい。あなたが嫌でなければ」


「嫌」


エルはその言葉を繰り返した。


まだ、完全には分からない言葉だった。


「嫌って、なに?」


セラドは微笑んだ。


「不快なことです。あなたは今、不快ですか?」


エルは考えた。


不快。

痛い。

怖い。

いや。


どれも、はっきりしない。


「分からない」


「なら、大丈夫でしょう」


セラドは言った。


「痛くないなら、不快ではないことが多い。私は丁寧にします」


副長の表情が消えた。


ジェレミーは、黙って画面を見ていた。


保管室の中で、セラドはさらに言葉を重ねる。


「研究は、互いの協力で成立します。あなたが協力してくれれば、私も多くを学べる。あなたについて、より深く理解できる」


「理解」


「ええ」


「楽しい?」


セラドの目に、一瞬だけ隠しきれない色が差した。


「とても」


「なら――」


セラドが、エルへ手を伸ばしかけた。


その瞬間。


「そこまでです」


扉が開いた。


副長が入ってきた。


その後ろに、ジェレミー。

生活班職員。

技術班長。

戦闘班員二名。


セラドの手が止まる。


エルは振り返った。


「副長」


副長は、いつもの薄い笑みを浮かべていなかった。


「エル。こちらへ」


「うん」


エルは素直に副長の方へ歩いた。


その途中で、生活班職員がごく自然にエルの横へ入り、セラドとの間に立った。


戦闘班員の一人が、セラドの退路を塞ぐ。


もう一人は、セラドの手元を見ている。


セラドは、すぐに表情を整えた。


「これは研究上の確認です。彼女本人の同意も得ています」


ジェレミーが言った。


「得ていない」


声は静かだった。


セラドは眉を寄せる。


「彼女は、いいと言おうとしていました」


「理解していない同意は、同意ではない」


ジェレミーはセラドを見る。


「君の許可範囲は、監理局管理下の魔術性物品の外部観察までだ。エルの身体への接触、髪への接触、頬への接触、手や指への接触は含まれていない」


セラドの顔から、少しずつ穏やかさが消えた。


「過剰反応ではありませんか。彼女は危害を受けていない。痛みもない。私は暴力を振るっていません」


副長が言う。


「痛みがないことは、許可の証明になりません」


生活班職員が、エルの隣へ立つ。


エルは、まだよく分かっていない顔をしていた。


「触ったら、だめ?」


ジェレミーは、エルへ視線を向けた。


「だめだ。少なくとも、今の形では」


「どうして?」


「君が、何をされるのか分かっていないからだ」


エルは自分の手に触れた。


「手、痛くない」


「痛いかどうかだけではない」


ジェレミーは言った。


「君の身体は、君のものだ。研究者が楽しいと言ったから渡すものではない」


エルは瞬きした。


「楽しいなら、いい、じゃない?」


「違う」


その声は、少しだけ柔らかくなった。


「相手が楽しいことと、君が許可していいことは別だ」


エルは黙った。


その言葉を、ゆっくり中に入れているようだった。


セラドは口を開いた。


「エルさんは、外部研究への協力を拒否していません。監理局が過剰に囲い込んでいるだけでは?」


副長が、一歩前に出た。


「セラド・ヴェイン研究主任」


その声は丁寧だった。


だからこそ、冷たかった。


「あなたは、監理局職員の視線が切れる時間を選び、エルと二人きりになる状況を繰り返し作りました。職員が接近すると距離を取りました。許可外の接触を複数回行いました。さらに本日、本人の理解確認を行わず、身体接触を継続しようとした」


セラドは沈黙した。


副長は続ける。


「これは研究ではありません。信頼の悪用です」


戦闘班員がセラドの横へ回る。


セラドは、わずかに笑った。


「監理局は、外部研究を理解していない」


ジェレミーは言った。


「外部研究は理解している」


銃は抜いていない。


だが、その場にいる全員が分かった。


ジェレミーは、必要なら一瞬で制圧する。


「理解していないのは、君がエルを研究対象ですらなく、自分の欲を正当化するための相手として見たことだ」


セラドの表情が、初めて崩れた。


それは怒りではなかった。


見抜かれた人間の顔だった。


持ち込み機材も、検査紙も、過去の観察記録も、すべて回収される。


彼は拘束され、保管室から連れ出された。


エルは、それを見送った。


「セラド、楽しくなくなった?」


副長は少しだけ目を伏せた。


「そうですね。少なくとも、監理局の中では楽しく研究できなくなりました」


「どうして?」


「エル」


ジェレミーが呼んだ。


エルはジェレミーを見る。


「君は悪くない」


最初に、それを言った。


エルは瞬きした。


「悪くない?」


「そうだ」


「でも、あたし、いいって言った」


「分からないまま言った」


ジェレミーは短く言う。


「分からないことを利用したのは、あいつだ」


エルは自分の手を見る。


指を少しだけ開く。


「髪、ほっぺ、手、指」


生活班職員が静かに頷いた。


「触られましたね」


エルは、少し考えてから続けた。


「あと、おしり」


その瞬間。


保管室の空気が変わった。


音が消えたわけではない。


警報が鳴ったわけでもない。


だが、そこにいた監理局職員全員の目の色が変わった。


生活班職員の表情から、柔らかさが消えた。


医療班主任は端末を握る手を止めた。


技術班長は、回収した機材を見る目を冷たくした。


戦闘班員は、一歩だけセラドが連れて行かれた廊下の方へ向き直った。


副長の目から、完全に笑みが消えた。


ジェレミーは、何も言わなかった。


何も言わないまま、ほんのわずかに視線を下げた。


その沈黙が、一番重かった。


副長は、その時点で理解した。


記録照会は、まだ終わっていない。


ナノドローンの断片記録は、すべて精査できていたわけではない。


現場を押さえることを優先した。


エルにこれ以上近づけないことを優先した。


だから、まだ把握できていなかった事実があった。


そして、それが今、エル本人の口から出た。


エルは、その変化の意味が分からず、首を傾げた。


「だめ?」


ジェレミーが答えた。


「だめだ」


声は静かだった。


だが、さっきまでとは違った。


「それは、絶対にだめだ」


エルは瞬きした。


「痛くなかった」


「痛いかどうかではない」


「楽しいって言ってた」


「関係ない」


ジェレミーは、ゆっくりと言った。


「君が分からないまま触られていい場所ではない」


エルは、自分の身体を見下ろした。


「分からない」


「分からなくていい。今は、覚えろ」


副長が続けた。


「髪も、頬も、手も、指も、身体のどこでも同じです。ですが、特に服で隠れている場所、普段人に触らせない場所は、理由をつけられても許可してはいけません」


生活班職員が、声を抑えて言った。


「エルさん。そこを触られた時は、すぐ職員さんを呼んでください。研究でも、検査でも、安全確認でも、相手が楽しいと言ってもです」


エルは、ひとつずつ言葉を拾う。


「服で、隠れてる場所」


「はい」


「普段、人に、触らせない場所」


「はい」


「理由があっても」


「はい」


「楽しくても」


「はい」


ジェレミーが言った。


「君の身体は、君のものだ」


エルは胸元に手を置いた。


「身体、あたしのもの」


「そうだ」


「髪も」


「そうだ」


「ほっぺも」


「そうだ」


「手も、指も」


「そうだ」


エルは少しだけ黙った。


「おしりも」


部屋の空気がまた固くなった。


だが、ジェレミーは目を逸らさなかった。


「そうだ」


エルはゆっくり頷いた。


「分かったかも」


副長が言った。


「“かも”で十分です。今日はそこから始めましょう」


その後の処理は、速かった。


セラド・ヴェインは、外部研究者資格を即時停止。


監理局への再入構は無期限禁止。


所属機関には正式抗議。


持ち込み機材、観察記録、申請資料、過去の報告書はすべて押収・再審査。


外部へ提出する処分理由には、ナノドローンの記録は一切使われない。


ロジーの魔術も使われない。


使われたのは、通常の入退室記録。

職員の目撃報告。

保護監視下での本人発言。

申請外の接触誘導。

持ち込み機材の不一致。

そして、監理局規定上の明確な違反。


それで十分だった。


ただし、内部処理は別だった。


技術班は、未精査だったナノドローン記録の照会範囲を広げた。


生活班は、エルへの説明手順を見直した。


医療班は、不安を煽らない範囲で確認項目を増やした。


監理班は、外部研究者との接触規定を即日改定した。


そして副長は、ロジーへの情報共有範囲を慎重に制限した。


全部を隠すことはできない。


ロジーは鋭い。


監理局の空気が変われば、気づく。


でも、すべてをそのまま渡すことはできない。


ロジーの怒りは、記録と結びつく。


記録と結びついたロジーの怒りは、ただの感情では済まない。


監理局には、箱庭の娘たちを制御することなどできない。


できるのは、信頼を積み、危険を遠ざけ、できる限り傷つけない形で、言葉を渡すことだけだった。


その日の夕方。


レトとロジーは、当然のように事態を知った。


正確には、正式説明の前に、監理局全体の空気の変化で察した。


レトはエルの部屋へ駆け込んできた。


「エル!」


ロジーも後ろから飛び込む。


「エル! 大丈夫!? 誰!? どこの誰!? 何をどういう分類でやらかしたの!?」


エルはベッドの上に座っていた。


膝の上には、ふわふわの毛布。


横には生活班職員。


エルは二人を見た。


「大丈夫」


レトは涙目になっていた。


「エル、痛かった?」


「痛くない」


「怖かった?」


「分からない」


「分からないの……」


レトはぎゅっと拳を握った。


その手の周囲に、青白い小さな硝子片が散りかける。


生活班職員が静かに言った。


「レト、室内で硝子片を出さない」


「……はい」


ロジーの頭上デバイスには、すでに文字が高速で流れていた。


外部研究者不適切接触事案。

許可外接触。

監理局保護規定違反。

記録区分、要審査。

ロジー個人的怒り、最大値。


「ロジー」


生活班職員が呼ぶ。


「はい」


「今は記録より、エルさんの確認です」


ロジーはデバイスの表示を一度止めた。


「……うん」


レトはエルの前に立った。


抱きつこうとして、ぴたりと止まった。


そして、両手を胸の前で握る。


「エル、ぎゅーしていい?」


エルはレトを見た。


「聞くの?」


「聞くよ」


「どうして?」


レトは涙を浮かべたまま、真剣に言った。


「エルの身体は、エルのものだから」


エルは、少しだけ目を瞬かせた。


それから、両手を広げた。


「レトのぎゅーは、分かる」


レトは飛びついた。


「エルぅ……!」


「ん」


レトはぎゅっと抱きしめる。


強すぎないように。

痛くないように。

でも、離れたくない気持ちは隠しきれないくらいに。


ロジーも少しだけ手を挙げた。


「私も、あとでぎゅー予約していい?」


エルは頷いた。


「予約、いい」


ロジーは真剣にデバイスへ入力した。


エルぎゅー予約、一件。

実行予定、レトのぎゅー終了後。


生活班職員は、それを止めなかった。


エルはレトに抱きしめられながら、ぽつりと言った。


「たのしいなら、いい、じゃない」


ロジーが顔を上げる。


エルは続けた。


「分からない時は、職員さんに聞く」


レトはエルの肩に顔を埋めたまま、うんうんと頷いた。


「うん」


「二人きりで、髪、ほっぺ、手、指、身体、触る人は、職員さん呼ぶ」


「うん!」


「おしりも」


レトの腕に、少しだけ力が入った。


ロジーのデバイスが、一瞬だけ警告色に近い光を出した。


けれど二人とも、そこで叫ばなかった。


生活班職員が、すぐ近くにいたからだ。


エルを怖がらせないこと。


それが今、いちばん大事だった。


ロジーは深呼吸した。


そして、いつもより低い声で言った。


「研究でも」


エルは頷く。


「研究でも」


レトも言った。


「安全確認でも」


「安全確認でも」


「相手が楽しいって言っても」


「楽しいって言っても」


ロジーは、ゆっくり言った。


「エルが分からないなら、職員さんに聞く」


エルは、少し考えた。


「うん」


レトはエルを抱きしめたまま、震える声で言った。


「エル、悪くないよ」


「悪くない?」


「悪くない」


ロジーも頷いた。


「悪いのは、分からないのを利用した人」


「利用」


「うん。そういうの、だめ」


エルは、レトの肩越しにロジーを見た。


「ロジー、怒ってる?」


「怒ってる」


ロジーは隠さなかった。


「でも、エルには怒ってない」


「セラドに?」


「うん」


「どうして?」


ロジーは唇を結んだ。


言葉を選んでいた。


珍しいことだった。


「エルに、ちゃんと聞かなかったから」


エルは黙った。


ロジーは続ける。


「エルが分からないことを、分からないままでいいことにしたから」


レトが言った。


「エルの身体を、エルの気持ちより先に触ったから」


エルは、自分の手を見る。


「身体、あたしのもの」


レトが頷く。


「うん」


ロジーも頷く。


「うん」


生活班職員も、静かに頷いた。


「そうです」


エルは、ゆっくり息をした。


「分かったかも」


レトは涙をこぼしながら笑った。


「かもでいいよ」


ロジーも言った。


「かもから始めよ」


エルは、少しだけ頷いた。


その夜。


副長は、箱庭の娘たちと外部研究者の接触規定を改定した。


外部者との二人きり禁止。

身体接触は医療班、生活班、監理班のいずれかの同席必須。

魔術性物品観察許可は、作成者本人への接触許可を含まない。

本人が「いい」と言っても、理解確認と職員承認がなければ無効。

身体部位に関する確認、検査、採取、観察は、すべて事前申請制。

服で隠れる部位への接触は、医療上の必要と本人理解、担当職員複数名の同席がない限り全面禁止。


書類上は、淡々とした改定だった。


だが、監理局の職員たちは知っていた。


これは規則の追加ではない。


守るべきものを、言葉にしただけだ。


数日後。


エルは中庭にいた。


白髪の毛先が、淡いピンクに揺れている。


その髪に、小さな硝子の星飾りがついていた。


レトが作ったものだった。


レトは飾りをつける前に、何度も聞いた。


「つけていい?」


「ここでいい?」


「痛くない?」


「重くない?」


「取る?」


エルはそのたびに答えた。


「いい」


「そこ」


「痛くない」


「重くない」


「まだつける」


ロジーは横で記録していた。


「本日の重要記録。エル、いいの理由を説明できるようになりつつある。レト、確認が多すぎてちょっと職員さんみたい。かわいい」


レトは頬を膨らませた。


「わたしは職員さんじゃないもん!」


「でも安全確認してるよ」


「エルのためだもん!」


エルは髪飾りに触れた。


「レトの確認、うるさいけど、やさしい」


レトは一瞬で真っ赤になった。


「う、うるさいは余計だよ!」


ロジーが笑った。


中庭の向こうで、生活班職員がその様子を見ていた。


少し離れた廊下では、副長が通り過ぎるふりをして、いつものように状況を確認している。


さらに遠く、局長室の窓から、ジェレミーが一度だけ中庭を見た。


エルは空を見上げた。


人間は、分かりにくい。


楽しいと言っても、いいとは限らない。

痛くなくても、だめなことがある。

理由があっても、間違っていることがある。

嫌だと分からなくても、止めていいことがある。


でも。


聞いてくれる人がいる。

止めてくれる人がいる。

分からないと言っても、責めない人がいる。


エルは、髪飾りにもう一度触れた。


「これは、いい」


今度は、ちゃんと分かっていた。



セラド・ヴェインの処分が正式に決まった日の夜。


惑星監理局の廊下は、いつもより静かだった。


警報は鳴っていない。

戦闘班の緊急招集もない。

医療班の慌ただしい足音もない。


けれど、空気だけが硬い。


職員たちは、普段通りに業務をしている。


書類を運ぶ。

記録を整理する。

警備配置を確認する。

各区画の安全状態を点検する。


だが、誰も無駄話をしなかった。


笑い声も少なかった。


エルは生活班の職員と一緒に部屋で休んでいる。


レトはその近くにいる。


「エルが寝るまでここにいる」と言って、生活班から毛布を借り、廊下の端で小さく丸くなっていた。


ロジーは、情報班の記録室にいた。


頭上のデバイスが、いつもより低い位置で光っている。


普段なら、画面には騒がしい文字が並ぶ。


分類タグ。

記録メモ。

かわいいものリスト。

女子会予定。

謎の通知音。

ロジー本人が入れた変なアイコン。


でも、その夜のデバイスには、ほとんど何も表示されていなかった。


ただ、ひとつだけ。


外部研究者不適切接触事案


その文字だけが、消えずに残っている。


ロジーは椅子に座っていた。


小さな身体を丸めるようにして、膝の上に両手を置いている。


ピンク髪のツインおさげも、いつものようには跳ねていない。


情報班主任は、少し離れた席にいた。


声をかけるべきか迷っていた。


ロジーが怒っていることは分かる。


悲しんでいることも分かる。


そして、いまのロジーに不用意な言葉をかけてはいけないことも分かる。


ロジーは弱い。


身体は小さく、戦闘班のようには戦えない。


けれど、情報の扱いに関しては、監理局の中でも規格外側にいる。


何を見て、何を繋げ、何をどこへ流せば人間が壊れるのか。


ロジーは、それを理解できてしまう。


本人が普段どれだけ騒がしくても、かわいいものに夢中でも、デバイスに変なスタンプを貼っていても。


ロジーは記録者だった。


そして今、彼女は友達を傷つけられた。


情報班主任が立ち上がろうとした時、記録室の扉が開いた。


副長だった。


金髪の細身の長身。


いつものように整った制服。

いつものように穏やかな顔。


だが、笑ってはいなかった。


情報班主任は無言で一礼した。


副長も小さく頷く。


「少し、ロジーと話します」


「はい」


情報班主任は部屋を出た。


扉が閉まる。


記録室には、副長とロジーだけが残った。


ロジーは顔を上げなかった。


副長は、数歩だけ近づいて止まった。


近づきすぎない。


逃げ道を塞がない。


けれど、ひとりにはしない距離。


「ロジー」


ロジーは答えない。


副長は、静かに言った。


「駄目ですよ」


ロジーの肩が、ぴくりと動いた。


デバイスの光が一瞬だけ強くなる。


「……なにが」


「駄目です」


「まだ何もしてない」


「だから、今言っています」


ロジーは顔を上げた。


目が赤い。


泣いたのか、泣きそうなのか、怒りすぎて赤くなったのか。


たぶん、全部だった。


「なんで?」


声は、いつものロジーより低かった。


「エルが傷つけられたよ?」


副長は黙って聞いていた。


ロジーは椅子から立ち上がる。


「なんで駄目っていうの?」


頭上のデバイスに、細かい文字列が浮かびかけた。


すぐに消える。


浮かびかけて、消える。


ロジーが自分で止めている。


けれど、止めきれない。


「どうして?」


ロジーの声が震えた。


「だって、エルだよ」


副長は言った。


「これは、正式に裁かれるべき案件です」


ロジーの眉が寄る。


「裁く?」


「はい」


「正式に?」


「はい」


「そんなの遅いじゃん」


「遅くても、必要です」


「必要ってなに」


ロジーの声が大きくなる。


「エル、分かんなかったんだよ。何されてるか分かんなかったんだよ。楽しいって言われたから、ならいいって思ったんだよ」


副長は表情を変えなかった。


けれど、目だけが少しだけ痛むように細くなった。


ロジーは続ける。


「あいつは、それを分かってやったんでしょ?」


「そう判断しています」


「じゃあ、どうして?」


ロジーは一歩前に出た。


「どうして駄目なの?」


副長は静かに言った。


「破滅させればいい。殺せばいい。そういう話ではありません」


ロジーの顔が歪んだ。


「……だって」


声が小さくなる。


「だって……だってエルが……」


デバイスの光が乱れる。


記録用の文字が、意味を持たないノイズみたいに散った。


「どうしてだめっていうの!」


ロジーは泣きそうな顔で叫んだ。


「副長のばか! やだもん!」


副長は、怒らなかった。


叱らなかった。


近づいて、ロジーの肩にそっと手を置いた。


強く押さえない。


捕まえない。


ただ、そこにいると伝えるだけの手だった。


「ロジー」


「やだ」


「聞いてください」


「やだ!」


「それでも、聞いてください」


ロジーは唇を噛んだ。


涙がこぼれた。


副長は、ゆっくり言った。


「悪いことをした相手には何をしてもいい」


ロジーは黙る。


副長の声は、やさしかった。


「と、君にそう覚えてほしくないんです」


ロジーの目が揺れた。


「……でも」


「はい」


「悪いことした」


「しました」


「あいつ、エルに悪いことした」


「しました」


「じゃあ」


「それでもです」


副長の手は、ロジーの肩から離れなかった。


「悪いことをしたら、人間が決めたルールで償わせます」


「人間のルールなんて」


「不完全です」


副長はあっさり言った。


ロジーが言葉に詰まる。


副長は続けた。


「遅い。面倒。抜け道もある。腹立たしいほど足りない。怒りに見合わないこともある」


「じゃあ!」


「それでも、必要です」


副長の声は静かだった。


「あなたが相手を破滅させたら、次にまた悪い人が現れた時、同じことをするでしょう?」


ロジーは何も言わない。


「そして、次はもっと早くなる」


副長は言った。


「調べる前に。裁く前に。誰かが止める前に。あなたは、相手を破滅させる方法を探すようになる」


ロジーの涙が、ぽろぽろ落ちる。


「だって……」


「はい」


「だって、悪い人だもん」


「そうです」


「悪い人なら、いいじゃん」


「よくありません」


副長の声は、そこで少しだけ強くなった。


怒鳴らない。


でも、逃がさない声だった。


「そうやってあなたは、何人もの人間を破滅に追いやって、悪者にはどんな仕打ちを行ってもいいと学習していく」


ロジーのデバイスが、かすかに明滅した。


「それは、いけない思想です」


ロジーは震えていた。


怒りで。


悲しみで。


悔しさで。


たぶん、自分でも分からない感情で。


副長は、少しだけ膝を曲げて、ロジーの目線に近づいた。


「君は記録者です」


ロジーは涙目で副長を見る。


「君は、たくさんのものを見る。たくさんのものを知る。人が隠したことも、消したことも、忘れたことも、場合によっては届いてしまう」


副長は、その力の名前を言わなかった。


言ってはいけなかった。


それはロジーが秘匿しているものだから。


監理局の大人として、そこを勝手に暴くことはしない。


「だからこそ、君には覚えてほしくない」


副長は言った。


「悪い相手なら、何をしてもいいとは」


ロジーは首を横に振った。


「やだ」


「はい」


「やだよ」


「はい」


「そんなの、悔しい」


「悔しいですね」


「エル、悪くないのに」


「悪くありません」


「エル、分かんなかっただけなのに」


「そうです」


「なのに、なんでロジーちゃんが我慢しなきゃいけないの」


その言葉は、子供の泣き言みたいだった。


でも、中身は大人の怒りだった。


大切なものを傷つけられて、それでも手を汚すなと言われる怒り。


副長は、少しだけ目を伏せた。


「我慢しろ、ではありません」


「じゃあなに」


「こちらで引き受けます」


ロジーは涙で濡れた目を上げる。


副長は言った。


「怒りも。手続きも。処分も。再発防止も。外部への抗議も。規定改定も。全部、監理局の大人が引き受けます」


「でも」


「ロジーが背負う必要はありません」


「背負うもん」


「駄目です」


「なんで!」


「君が、君自身を壊すからです」


ロジーは息を詰めた。


副長の声は、ひどくやさしかった。


「誰かを破滅させることは、相手だけを壊す行為ではありません。やった側にも残ります」


ロジーは震えた。


「残ってもいい」


「よくありません」


「いいもん」


「よくありません」


「なんで副長が決めるの!」


「大人だからです」


その答えに、ロジーは泣きながら怒った顔をした。


「ずるい!」


「はい」


「大人ってすぐそう言う!」


「そうですね」


「ばか!」


「はい」


「副長のばか!」


「はい」


「嫌い!」


副長は、少しだけ目を細めた。


「それでも、止めます」


ロジーはもう、言葉を作れなかった。


口を開く。


でも出てこない。


怒りも悲しみも、記録できないくらいぐちゃぐちゃになっていた。


デバイスの光が、何度も揺れる。


文字にならない。


分類できない。


タグがつかない。


ロジーは、ただ泣くしかなかった。


「だって……エルが……」


「はい」


「エルが……」


「はい」


「エル、わかんなかったのに……」


副長は、ロジーの肩に置いた手を少しだけ動かした。


撫でるのではない。


子供扱いするのでもない。


ただ、震えている肩を支える。


「ロジー」


「なに」


「怒っていいんです」


ロジーは泣きながら顔を上げた。


「泣いていい。悔しがっていい。許さなくていい」


「……許さなくていい?」


「はい」


副長は言った。


「許す必要はありません」


ロジーの唇が震える。


「でも、壊してはいけません」


その一言に、ロジーはまた泣いた。


今度は、怒鳴らなかった。


ただ、涙がぼろぼろ落ちた。


副長は、ロジーが落ち着くまで待った。


長い時間だった。


記録室の時計の針が進む。


端末の待機音が小さく鳴る。


遠くで職員の足音が通り過ぎる。


ロジーは泣いて、泣いて、泣き疲れて、最後には椅子に座り込んだ。


副長はその前に立ったままだった。


ロジーは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく言った。


「……じゃあ」


「はい」


「ちゃんと、やって」


副長は頷いた。


「やります」


「ちゃんと、裁いて」


「裁きます」


「逃がさないで」


「逃がしません」


「エルに、もう近づけないで」


「二度と近づけません」


ロジーは袖で目をこすった。


「……破滅させない」


副長は、静かに待った。


ロジーは、泣きながら続けた。


「しない」


「はい」


「でも、許さない」


「それでいいです」


「ずっと怒ってる」


「それも、いいです」


「記録にも残す」


副長は少しだけ考えた。


「公開範囲を守るなら」


ロジーは涙目のまま、少しだけむっとした。


「そこは守るし」


「よろしい」


「副長のばか」


「はい」


「嫌い」


「それは困りました」


「ちょっとだけ」


副長は、ほんの少しだけ笑った。


「では、少しだけ嫌われておきます」


ロジーは、また泣きそうな顔になった。


「……エル、悪くないよね」


「悪くありません」


「エル、変じゃないよね」


「変ではありません」


「分かんなかっただけだよね」


「はい」


副長は、はっきりと言った。


「分からないことを利用されたのです。悪いのは、利用した側です」


ロジーは頷いた。


何度も。


自分に言い聞かせるように。


「うん……」


副長は、ロジーのデバイスを見上げた。


「今日は、休みなさい」


「無理」


「では、休む努力を」


「それも無理」


「では、エルのところへ行きますか」


ロジーは顔を上げた。


「行っていいの?」


「生活班に確認してからです」


「ぎゅーしていい?」


「エルに聞いてからです」


ロジーは涙を拭いた。


「聞く」


「はい」


「めちゃくちゃ聞く」


「それは少し控えめに」


「無理」


「では、生活班に止められる範囲で」


ロジーは鼻をすすった。


いつもの騒がしさには、まだ戻らない。


でも、少しだけロジーらしい返事だった。


副長は扉へ向かう。


ロジーも立ち上がった。


その足取りは重い。


怒りも悲しみも消えていない。


消えるはずがない。


けれど、彼女は歩いた。


相手を破滅させるためではなく。


エルに会うために。


記録室の明かりが、静かに落ちる。


副長は廊下に出る直前、ロジーへもう一度言った。


「ロジー」


「なに」


「駄目ですよ」


ロジーはむっとした顔で、副長を見た。


涙で目は赤い。


でも、デバイスの光は少しだけ落ち着いていた。


「……分かってる」


小さな声だった。


「でも、副長のばか」


副長は頷いた。


「はい」


その夜、ロジーはエルの部屋の前で、生活班職員に止められた。


「ロジー、声量を落として」


「はい」


「入る前に深呼吸」


「はい」


「エルさんに抱きつく前に聞く」


「はい」


「記録は後」


「……はい」


扉が開く。


エルはベッドの上で、毛布に包まっていた。


レトが隣にいる。


エルはロジーを見る。


「ロジー」


ロジーは泣きそうになった。


でも、ちゃんと聞いた。


「エル、ぎゅーしていい?」


エルは少し考えた。


そして、両手を広げた。


「いい。ロジーのぎゅーは、分かる」


ロジーは、ゆっくり近づいた。


飛びつかなかった。


強く抱きしめすぎなかった。


ただ、エルを包むように抱きしめた。


「エル」


「うん」


「エル、悪くないからね」


「うん」


「私、怒ってる」


「うん」


「でも、エルには怒ってない」


「うん」


「エル、大事」


エルは、ロジーの背中に手を回した。


「ロジーも、大事」


その言葉で、ロジーはまた泣いた。


今度は、破滅させるための涙ではなかった。


何もできない悔しさと、それでもここにいるための涙だった。


部屋の外で、副長は静かに立っていた。


監理局は、箱庭の娘たちを制御できない。


完全には止められない。


命令だけでは縛れない。


だから、言葉を渡す。


線を引く。


間に立つ。


怒りを否定せず、けれど怒りがその子を壊さないように支える。


それが、監理局の大人たちの仕事だった。



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