第84話-薄幸の美少女レトちゃんっ!!
惑星監理局の休憩スペースは、その日、妙な盛り上がりを見せていた。
任務明けの職員たちが、食堂の端で軽食を取りながら、それぞれの故郷の話をしていたのだ。
「うちの星だと、夜に爪を切ると親の死に目に会えないって言われてましたね」
「古いな。うちは、雨の日に鏡を見ると魂が薄くなるってやつがありました」
「それ、怖いですね」
「いや、実際は湿気で鏡が曇るだけなんですけど」
笑い声が上がる。
別の職員が、パンをちぎりながら言った。
「私の故郷だと、しゃっくりを百回したら死ぬって眉唾があるんですよ」
「ありましたね、それ」
「子供の頃、数えながら泣いたな」
「九十回くらいで必死に水飲むやつ」
「実際、百回まで数えられるほど続いた時点でしんどいですからね」
職員たちは笑っていた。
古い迷信。
子供の頃に本気で怖がったけれど、大人になれば笑い話になるもの。
ただ、それを聞いていた者がいた。
休憩スペースの入口近く。
資料箱を抱えたレトである。
淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしながら、レトはぴたりと足を止めていた。
しゃっくりを百回したら死ぬ。
その言葉だけが、硝子の欠片みたいに胸に刺さった。
「……」
レトは、誰にも気づかれないように、そっと後ずさった。
資料箱を抱えたまま、足音を殺して廊下へ出る。
職員たちはまだ、故郷の言い伝えで盛り上がっていた。
レトは廊下の角まで歩き、そこで小さく息を吸った。
「ひっく」
身体が跳ねた。
レトは固まった。
「……いま」
もう一度。
「ひっく」
レトの顔から血の気が引いた。
「いま、しゃっくり何回目だっけ……」
朝、食堂で牛乳を飲んだ時に一回出た。
廊下で職員さんに挨拶した時にも出た。
訓練室の前で三回くらい出た気がする。
でも、ちゃんと数えていない。
数えていないということは、もう九十回かもしれない。
九十九回かもしれない。
次で百回かもしれない。
レトは胸元を押さえた。
「わたし……死ぬんだ……」
青白い硝子質の魔力が、指先に小さく滲んだ。
レトはそれを見て、ますます悲しい顔になった。
「最後の魔力……?」
もちろん最後ではなかった。
ただの動揺による排熱だった。
だが、その時のレトに、そんな判断はなかった。
その日から、レトは変わった。
まず、歩き方が変わった。
いつもなら廊下をぱたぱた歩く。
誰かを見つけると、
「職員さん!」
と元気に声をかける。
お菓子の気配があれば近づき、任務の気配があれば身を乗り出し、ロジーの声が聞こえれば即座に合流する。
だが、その日のレトは違った。
廊下の窓際を、ゆっくり歩いていた。
片手を胸に添え、少し伏し目がちに。
まるで、今にも消えてしまいそうな薄幸の美少女のように。
すれ違った戦闘班員が振り返る。
「……レト?」
レトは、はかなげに微笑んだ。
「職員さん……今日も、空がきれいだね」
「え?」
監理局の廊下に空はない。
あるのは天井照明と、壁面に流れる魔力管である。
戦闘班員は困惑した。
「ええと……具合悪いですか?」
レトは首を横に振った。
「ううん。大丈夫。わたし、最後までちゃんと歩くから」
「最後?」
「うん」
「何の?」
レトは答えなかった。
ただ、少し寂しそうに笑って、廊下の向こうへ去っていった。
戦闘班員はしばらくその背中を見送った。
そして、通りかかった別の職員に言った。
「レト、何か新しい遊びしてます?」
「薄幸ごっこじゃないですか?」
「薄幸ごっこ」
「ロジー発案では?」
「ああ……」
二人は納得した。
深くは掘り下げなかった。
それが間違いだった。
レトの薄幸は、午後になると加速した。
食堂では、プリンを前にして、スプーンを握ったまま遠い目をしていた。
「レトさん、食べないんですか?」
食堂班の職員が尋ねる。
レトはプリンを見つめた。
「食べるよ。最後のプリンかもしれないから、ちゃんと味わうの」
「最後?」
「うん」
「……期間限定メニューではないですよ?」
「そうじゃなくて」
レトは小さく首を振る。
そして、プリンを一口食べた。
ぱっと目が輝いた。
「おいしい……!」
いつものレトだった。
と思った次の瞬間、また伏し目がちになる。
「こんなおいしいものを、もう食べられなくなるなんて……」
食堂班の職員は迷った。
医療班に連絡するべきか。
生活班に相談するべきか。
それとも、ロジーの遊びに巻き込まれているだけなのか。
最終的に、
「食後に水も飲んでくださいね」
と言うに留めた。
レトはこくんと頷いた。
「水……しゃっくり、止まるかな……」
「しゃっくり?」
だが、その時にはもう、レトはプリンと別れの儀式に入っていた。
午後三時。
情報班区画。
ロジーは頭上デバイスに大量の記録タグを浮かべながら、資料整理をしていた。
「昨日の女子会記録、公開範囲はレト、ロジー、エル、生活班一部、食堂班一部、ただし副長には見せない……いや、見せたら面白いかな……」
その時、扉が静かに開いた。
ロジーは顔を上げる。
「レト?」
レトが立っていた。
両手で、一本の硝子の短剣を持っている。
戦闘用ではない。
青白い高熱も抑えられている。
透明で、細く、美しく、刃の中に小さな星屑のような光が閉じ込められていた。
柄には、淡いピンクの硝子リボンが結ばれている。
ロジーは目を輝かせた。
「なにそれ! かわいい! 記録していい!?」
レトは静かに首を横に振った。
「ロジー」
「はい」
「これ、もらって」
ロジーは瞬きした。
「私に?」
「うん」
レトは一歩近づき、短剣を差し出した。
「わたしがいなくなっても……これを見て、思い出してね……」
ロジーは一秒止まった。
二秒止まった。
そして、にやっと笑った。
「そういう台詞、私の専売特許!」
レトは、泣いた。
ぽろぽろ。
本当に、涙が落ちた。
ロジーの笑顔が、固まった。
「え」
ぽろぽろ。
レトは短剣を抱えたまま、唇を震わせている。
「ロジー……わたし、ロジーともっと女子会したかった……」
「え、待って」
「エルとも、もっとお菓子食べたかった……」
「待って待って待って」
「お兄さんに、ありがとうって、ちゃんと言わなきゃ……」
ロジーの頭上デバイスが、警告音を鳴らした。
情緒異常。
涙。
遺品らしき物品。
別れの発言。
緊急確認推奨。
ロジーは椅子から飛び降りた。
「レト! 何があったの!?」
レトは、耐えていたものが崩れたように顔を歪めた。
「しゃっくり……」
「しゃっくり?」
「しゃっくりを百回したら死ぬって……聞いたの……!」
ロジーは固まった。
「……え?」
「わたし、今日、いっぱいしゃっくりしてるの……! 何回目か分からないの……! もしかしたら、もう九十九回かもしれないの……!」
「え、いや、それは」
「次で、百回かもしれないの……!」
レトの肩が跳ねた。
「ひっく」
二人は同時に凍った。
レトの瞳から、さらに涙が溢れる。
「いまの……百回目……?」
ロジーは叫んだ。
「検索する!!」
頭上デバイスが即座に展開した。
通常なら、ロジーはまず情報源を分ける。
民間俗説。
医療班資料。
監理局医学データベース。
惑星別民間伝承記録。
信頼度。
出典。
症例。
誤情報判定。
それらを一瞬で分類して、正誤を判断する。
それがロジーだ。
だが、この時のロジーは違った。
目の前に、泣いているレトがいる。
「わたし、死ぬんだ」と言っている。
しかも、遺品を渡してきた。
ロジーの情緒は、情報処理より先に崩壊した。
デバイスが検索結果を表示する。
一番上に、大きな見出し。
しゃっくり百回してほんとに死んだ人! 古い言い伝えは本当だった!?
ロジーの目が見開かれた。
「……あった」
レトが震える。
「あるの?」
ロジーの声も震えた。
「ある……トップに……出てる……」
「トップに出てるなら……ほんと……?」
「分かんない……でもトップに……!」
本来なら、その記事の下には小さくこう書いてあった。
民間怪談まとめ/出典不明/娯楽記事/医学的根拠なし
だが、二人は見ていなかった。
ロジーは、見出しだけを見て思考停止していた。
レトは、完全に死を覚悟していた。
次の瞬間、二人は抱き合って泣いた。
「レト死なないで!」
「ロジー! ばいばいしたくないよぉっ!」
「私、まだレトのかわいいところ全部記録してない!」
「わたしも、ロジーともっとカフェ行きたい!」
「行こうよ! 百回なんかに負けないで!」
「でも、しゃっくりが……!」
「止める! 私が止める! 水! 息止め! びっくり! えっと、えっと、怖がらせると止まるって聞いた!」
ロジーはレトの肩を掴んだ。
「わっ!!」
レトはびくっとした。
「ひっく!」
「出たぁぁぁぁ!」
「増えたぁぁぁぁ!」
二人はさらに泣いた。
情報班の扉の外で、通りかかった職員が足を止めた。
中から聞こえるのは、レトとロジーの大号泣。
「死なないで!」
「ばいばいしたくない!」
「短剣は形見にして!」
「形見やだぁ!」
職員は沈黙した。
そして、近くにいた情報班主任を呼んだ。
「すみません。ロジーが何か新しい悲劇記録遊びを……」
情報班主任は扉の前に立ち、耳を澄ませた。
中から、レトの泣き声が聞こえる。
「しゃっくり百回目だったかもぉ!」
情報班主任は、眉をひそめた。
「しゃっくり?」
その数分後。
休憩スペースで故郷の言い伝えを話していた職員が、情報班へ連れてこられた。
「え、私ですか?」
「あなたです」
情報班主任の顔は冷静だったが、声に少しだけ圧があった。
「しゃっくり百回の話をしましたね」
「ああ、しました。故郷の迷信で……」
扉が開く。
中では、レトとロジーが床の上で抱き合っていた。
レトは涙でぐしゃぐしゃ。
ロジーも泣きすぎて、頭上デバイスに情緒処理過負荷の表示が出ている。
硝子の短剣は、二人の横に大事そうに置かれていた。
職員はすべてを理解した。
顔から血の気が引いた。
「あっ」
レトが顔を上げた。
「職員さん……」
ロジーも涙目で振り向く。
「百回したら死ぬって本当なの!?」
職員は全力で首を横に振った。
「違います! 違います違います! ただの言い伝えです! 迷信です! 眉唾です! 死にません!」
レトが瞬きした。
「……死なない?」
「死にません」
「百回しても?」
「百回しても、それだけで死ぬことはありません」
ロジーが食い下がる。
「でも検索トップに!」
職員はロジーのデバイス表示を見た。
そして、額を押さえた。
「ロジーさん、記事分類を見てください。出典不明、娯楽記事、怪談まとめです」
ロジーは固まった。
ゆっくり、表示の下を見る。
そこには、確かに書いてあった。
信頼度:低。
医療的根拠:確認不可。
民間伝承由来。
誇張表現の可能性大。
ロジーの顔が、みるみる赤くなった。
「……私」
「はい」
「見出しだけで判断した……?」
情報班主任が静かに頷いた。
「しました」
ロジーは両手で顔を覆った。
「情報班として一番やっちゃいけないやつぅぅぅぅ!」
レトは、まだ涙目のまま、職員を見ている。
「ほんとに、死なない?」
職員は膝をついて、レトと目線を合わせた。
「本当です。私が軽い気持ちで話したせいで、怖がらせました。すみません」
レトは鼻をすすった。
「わたし、もうお兄さんにお別れ言わなきゃって思った……」
「言わなくて大丈夫です」
「プリンも最後だと思って食べた……」
「明日もあります」
「ロジーに形見渡した……」
「返してもらえます」
ロジーがすぐに短剣を抱えた。
「これはもらう!」
レトが泣き顔のまま叫んだ。
「ロジー!?」
「だってくれた!」
「形見じゃないもん!」
「じゃあ友情記念品に変更!」
「うう……それならいい……」
情報班主任は深く息を吐いた。
その後、医療班が呼ばれた。
レトのしゃっくりは、冷たい水をゆっくり飲んで、しばらく落ち着いて座っていたら止まった。
医療班の職員は、レトに丁寧に説明した。
「しゃっくりが続いて苦しい時は、医療班に来てください。でも、回数だけで死ぬということはありません」
レトは真剣に頷いた。
「百回でも?」
「百回でも」
「百一回でも?」
「百一回でも」
「一億回は?」
医療班職員は少しだけ黙った。
「一億回続く前に、必ず医療班が介入します」
「そっか……!」
レトは安心した。
ロジーは隣で、頭上デバイスに反省文を表示していた。
本日の反省。
見出しだけで信じない。
レトが泣いていても情報源を見る。
でもレトが泣いていたら情緒が無理。
対策:次回から医療班資料を最初に開く。
情報班主任がそれを見て言った。
「最後の一文は採用です」
ロジーはしょんぼり頷いた。
夕方。
ジェレミーの局長室に、報告書が届いた。
件名。
しゃっくり百回迷信による箱庭の娘二名の情緒的混乱について
ジェレミーは無言で読んだ。
最後まで読んだ。
副長が隣で、いつもの薄い笑みを浮かべている。
「局長」
「何だ」
「今回の分類は、医療案件でしょうか。教育案件でしょうか。情報倫理案件でしょうか」
ジェレミーは報告書を机に置いた。
「全部だ」
「妥当ですね」
「箱庭の娘たちには創作や迷信の存在を今一度説明する」
「はい」
「ロジーには、混乱していても検索結果の一次判定手順を実行できるように教育」
「はい」
「レトには、身体に異変があったら一人で死を覚悟するなと伝える」
副長の肩が、ほんの少し震えた。
「一人で死を覚悟するな」
「笑うな」
「失礼しました」
その時、局長室の扉が控えめに叩かれた。
「お兄さん……」
レトだった。
目元はまだ少し赤い。
手には、例の硝子の短剣。
その後ろに、ロジーが気まずそうに立っている。
ジェレミーは短く言った。
「入れ」
レトはとことこ歩いてきて、机の前で止まった。
「お兄さん」
「ああ」
「わたし、死ななかったよ」
「そうだな」
「よかった?」
ジェレミーは、ほんの少しだけ目を細めた。
「ああ。よかった」
その一言で、レトの顔がくしゃっと崩れた。
「お兄さぁん……!」
レトは机の横へ回り込み、ジェレミーに抱きついた。
ジェレミーは受け止めた。
ロジーはその様子を見ながら、小さく鼻をすすった。
「局長、私も反省してます……」
「反省は後で聞く」
「はい……」
「まず、レトに謝れ」
ロジーはレトに向き直った。
「レト、ごめん。私、ちゃんと調べないで一緒に泣いた」
レトはジェレミーに抱きついたまま、顔だけ上げた。
「ううん。ロジー、一緒に泣いてくれた」
「それはした」
「だから、こわかったけど、ひとりじゃなかった」
ロジーはまた泣きそうになった。
「レトぉ……!」
「でも、次はちゃんと調べようね、わたしも一緒に調べる!」
「はい!」
副長が静かに言った。
「ロジーが敬語になりましたね」
ロジーはびくっとした。
「反省してるから!」
ジェレミーはレトの頭に手を置いた。
「レト」
「うん」
「次に、死ぬと思ったら」
「うん」
「一人で遺品を配る前に、私か医療班に言え」
レトは真剣に頷いた。
「分かった。遺品の前に、医療班」
「遺品を前提にするな」
「じゃあ……相談?」
「そうだ」
レトは少し考えてから、こくりと頷いた。
「相談する」
ロジーが手を挙げた。
「私も! 次から、怪しい見出しを見ても一回深呼吸して、情報源を見る!」
副長が微笑む。
「成長ですね」
ロジーは胸を張りかけた。
だが、すぐにしゅんとした。
「いや、情報班としては初歩でした……」
「その通りです」
「副長、追い打ちが正確!」
レトは、手に持っていた硝子の短剣を見た。
「これ、ロジーにあげるつもりだったけど……」
ロジーが即座に身を乗り出す。
「友情記念品として受け取ります!」
レトは少しだけ笑った。
「じゃあ、しゃっくり生還記念」
ロジーのデバイスが、ぴこんと鳴った。
新規記録名:しゃっくり生還記念短剣。
ジェレミーは目を閉じた。
副長は肩を震わせた。
ロジーは満足げに記録した。
レトは、もう一度だけ小さくしゃっくりをした。
「ひっく」
全員が一瞬、黙った。
レトの顔が青くなる。
ジェレミーが即座に言った。
「死なない」
ロジーも叫んだ。
「死なない!」
副長も穏やかに続けた。
「死にません」
廊下の向こうから、医療班職員の声まで聞こえた。
「死にませんよ!」
レトは、ほっと息を吐いた。
「そっか」
そして、少し照れたように笑った。
「じゃあ、プリン食べてもいい?」
ジェレミーは短く答えた。
「ああ」
その日の食堂記録には、ロジーの文字でこう残された。
レト、しゃっくり百回迷信から無事生還。
プリンを食べる。
生きてるプリンはおいしい。
情報源確認は大事。
あと、泣いてるレトは放置しない。




