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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第81話-朝が来ない星

挿絵(By みてみん)

外縁観測網が異常を拾ったのは、監理局標準時で午前三時四十二分だった。


警報は鳴らなかった。


最初に出たのは、警告ではなく、観測誤差としての通知だった。


外縁宙域・低資源価値惑星群。

分類:放置惑星。

恒星光到達値、部分領域にて継続不一致。


監視室の夜勤職員は、最初、それを機器の遅延だと思った。


該当惑星は、管理番号L-377。

生命反応なし。

文明痕跡なし。

海なし。

植物なし。

大気は薄く、地表は鉱物質の砂と岩盤のみ。

資源価値も低く、入植計画も現行では存在しない。


監理局の分類では、ほとんど「置いておくしかない惑星」だった。


だが、観測値は更新されなかった。


一分。


二分。


三分。


該当領域の夜が、明けない。


恒星は存在する。

軌道も正常。

自転もしている。

惑星の他領域では、昼夜が通常通り進行している。


なのに、地表の一部だけが、夜のまま固定されている。


夜勤職員は端末を操作し、観測履歴を遡った。


一回目。夜。

二回目。夜。

三回目。夜。


角度を変えても、観測波長を変えても、魔力干渉除去を挟んでも、その領域だけが暗い。


星明かりはある。


だが、朝が来ない。


職員は、椅子から背を離した。


「主任」


隣の席で仮眠用の苦い飲料を飲んでいた監視主任が顔を上げる。


「何だ」


「L-377、夜固定現象です」


「魔術災害残滓か」


「初期値ではその可能性が高いです。ただし、残滓にしては安定しすぎています」


主任は数秒だけ画面を見た。


「調査班へ回せ。分類を上げる」


「危険度は?」


「生命反応なし。文明痕跡なし。だが、自然現象ではない。第三調査案件。監理班へ通知」


通知は、夜の監理局を静かに走った。


そして翌朝。


第七作戦室に、関係班の職員たちが集まった。


中央の卓上に、黒い惑星が浮かんでいる。


本来なら灰色と黒の砂漠惑星として表示されるはずの球体。

だが、その一部だけが、濃い夜の色に沈んでいた。


副長は立体図を見ながら言った。


「任務目的を確認します。討伐ではありません。無人惑星L-377に発生した夜固定現象の原因調査。必要に応じて術式停止、記録回収、封鎖判断を行います」


レトは両手を握って、真剣に頷いた。


淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りが小さく揺れている。


「つまり、夜明け調査任務だね!」


「任務名として正式採用はしません」


副長が即答した。


「でも分かりやすいよ!」


「分かりやすさと正式名称は別です」


ロジーはすでに頭上デバイスを起動していた。


ピンク髪のツインおさげが、興奮でふわふわ揺れている。


「無人惑星! 夜固定! 生命反応なし! 文明痕跡なし! なのに魔術現象! これは大事件! 記録開始していい!?」


情報班主任が視線だけを向けた。


「任務記録としては許可。ただし、未確定情報を私的分類に流さないこと」


「分かってるよ! 未確定、調査中、公開範囲限定、かわいいタグなし!」


「かわいいタグは最初から不要です」


「えー」


エルは卓上の惑星を見ていた。


白髪のボブの毛先が淡いピンクに揺れる。

表情はいつも通り、ふわふわしていて、どこか淡々としている。


けれど、その目だけが少し静かだった。


「朝、来ないの」


ジェレミー・クリエットが言った。


「そうだ」


「恒星、あるのに」


「ある」


「じゃあ、待ってるのかな」


作戦室の空気が、ほんの少しだけ止まった。


副長が視線を向ける。


「エル、何を待っていると思いますか」


エルは少し考えた。


「まだ、分からない」


それ以上は言わなかった。


ジェレミーは短く命じた。


「降下部隊を編成する。調査班、技術班、魔術制御、医療班、戦闘班、情報班。副長、現場指揮。レト、前線遊撃。ロジー、記録解析。エルは観測対象への直接干渉を禁止。許可が出るまでは何も作るな」


エルは頷いた。


「うん。作らない」


レトがぴっと手を上げる。


「お兄さん、わたしは職員さんたちを守る!」


「そうしろ。ただし、単独で中心部へ突入するな」


「う……はい!」


ロジーが横から小声で言った。


「今ちょっと行こうとしてたね」


「してないもん!」


「顔がもう先行突入してた」


「してない!」


副長が薄く笑った。


「では、先行突入しないレトを含めて、出発準備に入ります」


レトは胸を張った。


「先行突入しないレト、準備します!」


「そこを作戦名にしないでください」


「えへへ」


数時間後。


調査船は、L-377の夜固定領域上空に到達した。


窓の外は暗かった。


星が近い。


大気が薄いため、空は黒く、恒星光の散乱もほとんどない。

地平線はなだらかに丸く、下には黒い砂漠が広がっている。


だが、本来ならこの時間帯、そこには朝日が差しているはずだった。


魔術制御部長が観測値を読み上げる。


「夜固定領域、半径約三十七キロ。境界は明確ですが、物理的遮蔽なし。恒星光は領域外では正常、領域内では地表到達直前に減衰しています」


技術班長が続ける。


「減衰ではなく、時間位相の固定に近い可能性があります。空間全体が夜の状態を保持している」


副長は端末を閉じた。


「降下します。全員、生命反応なしという前提を信用しすぎないように」


重装隊員が盾を背負い直す。


近接戦闘員が周囲を確認する。


調査班員が地表探査機を抱える。


ロジーのデバイスが小さく点滅した。


「記録開始。無人惑星L-377、夜固定領域降下。参加者、調査班四名、技術班三名、魔術制御部長、医療班二名、戦闘班四名、監理班副長、箱庭の娘たち三名」


レトが小声で言う。


「レト、前線担当」


ロジーは即座に追加した。


「レト、前線担当。本人申告」


「本人申告じゃなくて本当!」


「本当の本人申告」


「ロジー!」


エルは二人を見て、少しだけ首を傾げた。


「記録、楽しそう」


ロジーは笑った。


「楽しいよ! ……たぶん、今は」


その声は、最後だけ少し小さかった。


降下艇が黒い砂地に着地した。


外へ出た瞬間、音が消えたように感じた。


風がない。


草もない。


虫もいない。


遠くで岩が崩れる音も、水が流れる音も、生命が動く気配もない。


ただ、黒い砂がある。


星明かりだけが、地表を淡く照らしていた。


レトは一歩前に出て、周囲を見た。


「……静か」


ロジーがデバイスを回転させる。


「大気薄い。音の伝播弱い。生命反応なし。熱源、調査隊のみ。魔力残滓……ある。薄いけど、領域全体に敷かれてる」


調査班員が砂地にしゃがみ込む。


「地表に異常」


副長が近づく。


「何です」


調査班員はライトを当てた。


そこに、足跡があった。


人間の足跡だった。


裸足ではない。

靴底のような痕跡。

成人一名分。


その隣に、小さな足跡がある。


子供のものに見えた。


さらに、細い轍。


荷車か、手押し車のような跡。


そして、何か重いものを引きずった痕。


レトは瞬きした。


「……誰か、いたの?」


ロジーの顔がぱっと明るくなった。


「無人惑星に足跡! 大事件! 記録開始! いやもう開始してるけど、追加記録開始!」


情報班主任が通信越しに言う。


『照合してください』


「はいはい! 惑星移住記録、過去航行記録、未登録降下艇、難破船、密輸経路、巡礼記録、全部照合……」


ロジーの声が、そこで止まった。


デバイスの光が、何度か瞬いた。


「……ない」


副長が聞き返す。


「該当なしですか」


「うん。人間がここに降りた記録がない。少なくとも、監理局に残る宙域航行記録、移民台帳、事故記録、違法航路記録、全部なし」


レトは足跡を見た。


「でも、あるよ」


「ある」


ロジーは珍しく、すぐに騒がなかった。


「あるけど、ない」


エルが足跡の横にしゃがんだ。


「歩いた形」


「エル?」


「でも、歩いた人がいない」


その言葉のあと、医療班員が小さく息を吸った。


「後方、確認してください」


全員が振り返った。


調査隊が降りてきた方向。


黒い砂の上。


そこに、新しい足跡が増えていた。


調査隊の足跡ではない。


彼らのブーツ跡とは違う。

大きさも、形も違う。


小さな子供の足跡が、調査隊の後ろをついてくるように、砂の上へ続いていた。


誰も歩いていない。


誰もいない。


それでも足跡だけが、そこにできていた。


レトの周囲に、淡い青白い硝子短剣が浮かんだ。


副長が片手を上げる。


「交戦判断は保留。全員、隊列を維持。足跡には接触しない。調査班、記録。ロジー、照合を継続」


ロジーは頷いた。


「了解」


いつもの「りょーかい!」ではなかった。


調査隊は進んだ。


黒い砂漠は、どこまでも平らだった。


時折、地面に生活の痕跡だけが現れる。


足跡。

轍。

円を描くような跡。

何かを置いた四角い跡。

小さな点が並んだ跡。


ロジーはそれらを一つずつ記録した。


「分類。足跡。成人二名、小児三名相当。進行方向不明。

分類。荷車轍。車輪幅から小型生活用具運搬具に近い。

分類。引きずり痕。材質不明。棺、箱、長材、いずれも可能性あり。

分類。円形踏圧痕。集合、踊り、作業、儀礼、未確定」


最初の興奮は、もうかなり薄れていた。


レトが横目で見る。


「ロジー、大丈夫?」


「大丈夫。記録中」


「声、ちょっと小さい」


「うん。ちょっと、静かにした方がいい気がする」


ロジーがそう言った時だった。


砂が盛り上がった。


前方十メートル。


黒い砂が、ゆっくりと集まっていく。


人型ではない。


獣でもない。


頭もない。

顔もない。

手足の区別も曖昧。


ただ、立ちはだかるためだけに形を与えられたようなもの。


黒い砂の番人。


重装隊員が盾を構える。


近接戦闘員が前に出る。


副長が言った。


「接近阻止」


レトはもう動いていた。


青白い光が、星明かりの中を走る。


硝子短剣が七本、空中に展開された。


レトの身体が一瞬ぶれ、黒い砂の番人の側面へ出る。


「職員さんたち、下がって!」


短剣が刺さる。


番人の身体が砕けた。


黒い砂が散る。


だが、砂はすぐに地面へ落ち、また集まり始めた。


レトは眉を寄せる。


「倒れない!」


魔術制御部長が叫ぶ。


「生物反応なし! 魔術生成体です!」


「じゃあ、死なないやつ!」


「死ぬ構造がありません!」


「分かった!」


レトはもう一度、短剣を構えた。


今度は中心を狙わない。


番人の形を切るのではなく、番人と調査隊の間の空間を切った。


ぱきん、と空気が硝子のように鳴る。


黒い砂の番人の進路が、わずかにずれた。


その隙間を、調査班員が走り抜ける。


レトは次々に短剣を投げる。

斬る。

砕く。

ずらす。


番人を倒すのではない。


調査隊が進むための道を作る。


「わたしが前に出る! 職員さんたちは記録を取って!」


その声は明るかった。


でも、遊びではなかった。


レトは戦闘班だった。


青白い短剣が星明かりに散り、黒い砂の番人を裂き、空間をずらし、隊列の隙間へ入り込もうとする影を弾く。


副長はそれを見ながら、短く指示を飛ばした。


「重装、左側面。近接、後方警戒。調査班、進路上の足跡を踏まないように。技術班、魔力流の濃い方へ」


技術班長が端末を見ながら言う。


「中心部に構造物反応があります。地下ではなく、まず地表に何かある」


「進みます」


黒い砂漠の先に、廃墟が見えてきた。


だが、それは都市ではなかった。


建物の基礎だけがある。


壁のない家。

扉だけが立っている部屋。

屋根のない通路。

井戸の形をした穴。

文字のない墓標。

中身のない本棚。

窓枠だけが並んだ広場。


文明が滅びた跡ではない。


文明という形だけを、誰かが思い出せないまま並べたような場所だった。


調査班員が呟いた。


「……町、ですか」


ロジーはデバイスを向けた。


「記録照合。建築様式、該当複数。辺境入植初期様式に近い。水源設備、住居区画、集会所、教育施設、医療区画、墓地予定地……」


そこで、ロジーは止まった。


「予定地?」


情報班主任が通信で問う。


『ロジー?』


ロジーは、もう一度照合した。


「この町、存在してない」


レトが振り向く。


「え?」


「ここに町があった記録はない。過去に存在した痕跡じゃない。廃墟じゃない」


ロジーは、目の前の壁のない家を見た。


「でも、存在しなかった記録だけがある」


副長が目を細めた。


「説明できますか」


「まだ途中。でも……ここに町があった、じゃない。ここに町があるはずだった、に近い」


風はない。


それなのに、扉だけが立った部屋の扉が、ぎい、と鳴った。


誰も触れていない。


開いた先には、何もない。


ただ、部屋になるはずだった空間だけがあった。


エルは扉を見上げていた。


「入るところ」


「うん」


ロジーは小さく頷く。


「でも、中がない」


「まだ、できてない」


その言い方に、技術班長が反応した。


「まだ?」


エルは自分でも分からないように首を傾げた。


「うん。まだ」


調査は、そこで本格的に変質した。


廃墟の中心に進むほど、存在しない記録が増えていった。


住民票。


名前欄は空白。

年齢欄は未確定。

住所欄には、建っていない家の区画番号。


日記。


文字はあるが、誰の筆跡でもない。

内容は、空白の一日をなぞっている。


今日、井戸の水が出た。

まだ誰も飲んでいない。

明日、子供たちが来る。


設計図。


完成していない学校。

使われなかった病院。

畑になるはずだった区画。

祭りの日に使う広場。


子供の落書き。


まだ生まれていない子供が描いたような、丸い家と、丸い太陽と、丸い人。


墓標。


名前がない。

だが、墓標の数だけはある。


ロジーは一つずつ分類していった。


「存在しない住民票。

誰も書いていない日記。

名前のない墓標。

建てられなかった家の設計図。

まだ生まれていないはずの子供の落書き。

誰も祈っていない祈りの記録」


声が、だんだん小さくなっていく。


レトは周囲を警戒しながら、ロジーを見た。


「ロジー」


「うん」


「無理してない?」


「してる」


ロジーは珍しく、すぐに認めた。


「でも、これは私がやるやつ」


「うん」


「レトは前、お願い」


レトは頷いた。


「任せて」


黒い砂の番人が、廃墟の影から湧く。


レトは即座に飛んだ。


短剣が扉だけの部屋の周囲を走り、番人の形を裂く。


だが、レトは建物の基礎を壊さないように軌道を曲げた。


「これ、壊しちゃだめなやつだよね!」


副長が答える。


「現時点では保存対象です」


「分かった!」


レトは空間をずらし、番人だけを外へ弾いた。


黒い砂が崩れる。


その下から、小さな足跡がまた現れた。


ロジーはそれを見て、息を呑んだ。


「……増えてる」


廃墟の奥。


本棚だけが並ぶ場所で、技術班が地下への入口を発見した。


階段はなかった。


ただ、階段があるはずだった形に、地面が沈んでいる。


技術班長が探査機を下ろす。


「地下構造あり。人工物反応。魔術炉に近い」


魔術制御部長が数値を見た。


「夜固定領域の中枢反応と一致」


副長は一度だけ周囲を見た。


「降ります。レト、先行しすぎない」


「はい!」


「今の返事はいい返事ですが、行動も合わせてください」


「うっ……はい!」


ロジーが小声で記録した。


「レト、先行しすぎない宣言二回目」


「ロジー!」


少しだけ、いつもの空気が戻った。


けれど、地下へ降りると、その空気もすぐに消えた。


地下中枢は、巨大な空洞だった。


中央には、環境形成炉があった。


円環状の炉。

古いが、完全に壊れてはいない。

炉心には、暗い青の光が薄く残っている。


周囲の空間には、無数の立体図が浮かんでいた。


都市の設計図。

人口計画。

学校予定地。

病院予定地。

市場予定地。

農地予定地。

墓地予定地。

祭礼記録予定表。

出生率予測。

水源調整。

夜明け時環境安定化。

入植初日誘導灯展開。


全部、未来のための計画だった。


でも、その未来は来なかった。


技術班長が震える声で言った。


「判明しました。これは魔術災害残滓ではありません。旧式の環境形成魔術炉です。辺境入植計画用。惑星環境を、人間居住可能な状態へ段階的に近づけるためのもの」


副長が問う。


「なぜ起動している」


「おそらく、移住計画中止後に停止処理が不完全だった。自律起動条件が残っていた可能性があります」


魔術制御部長が続ける。


「術式の前提は“人が暮らす未来”です。人間の到着、居住、出生、死亡、祭礼、記録保存。すべてを前提条件にして環境を整える魔術だった」


ロジーが炉を見た。


「でも、人が来なかった」


技術班長は頷いた。


「はい。術式は空白を埋めようとした。人が住むはずだった町。生まれるはずだった子供。行われるはずだった祭り。死ぬはずだった老人。残るはずだった記録。全部を、予測と計画から生成し始めた」


ロジーのデバイスが、静かに回転を遅くする。


「記録じゃない」


誰も口を挟まなかった。


「失われた記録じゃない。これ、誰にも生きられなかった人生の記録だ」


エルは炉の前へ一歩近づいた。


職員たちの緊張が上がる。


副長がすぐに言った。


「エル、停止」


エルは止まった。


「うん」


ジェレミーの通信が開いた。


『エル』


「ジェレミー」


『見ているだけにしろ』


「うん。見てるだけ」


エルは炉を見上げた。


環境形成炉の周囲に、朝の設計図が浮かんでいる。


入植初日。


夜明け。


初回居住区画開放。


住民誘導。


学校建設予定。


井戸使用開始。


朝が来れば、人間が来る。


だから、朝にならない。


人間が来ないから、朝を迎えられない。


惑星は、入植初日の夜明けを待ち続けていた。


エルはぽつりと言った。


「ここ、幸せになりたかったんだね」


その瞬間、空洞内の全員が息を詰めた。


エルの言葉は、ただの感想ではない。


エルが「幸せ」と言った時、それは危険な意味を持つ。


もし、エルがこの惑星を幸せにしようとしたら。


町を完成させるかもしれない。

人を作るかもしれない。

生まれなかった子供を生むかもしれない。

いなかった老人を死なせるかもしれない。

誰も願っていない祭りを始めるかもしれない。


存在しなかった未来を、幸せの名で与えてしまうかもしれない。


副長が静かに言う。


「エル」


エルは振り向かなかった。


「でも、ここには人がいない」


炉の光が、わずかに揺れる。


「いない人の幸せは、あたしが決めない」


誰も動かなかった。


エルはゆっくり、ロジーを見た。


「ロジー」


ロジーは顔を上げる。


「なに」


「残せる?」


ロジーの表情が、一瞬だけ崩れた。


いつもの明るさも、騒がしさも、そこにはなかった。


頭上のデバイスが静かに光る。


「全部は無理」


ロジーはそう言った。


「この町は、存在してない。人生も、暮らしも、名前も、記憶も、ほんとはない。だから全部をそのまま残すことはできない」


エルは黙って聞いている。


「でも」


ロジーは目元をこすらなかった。


泣きそうでも、記録者の手を止めなかった。


「消えたことにはしない。なかったことにも、しない。存在しなかったことを、記録にする」


エルは小さく頷いた。


「うん」


副長は通信を開いた。


「局長。現場判断案を提出します。現象の完全破壊ではなく、記録保存後の術式停止。惑星は封鎖指定。中枢炉は危険物として無力化。ただし、未成立都市群の記録は封印資料として保存」


数秒の沈黙。


その後、ジェレミーの声が返った。


『承認する』


短い言葉だった。


だが、それで十分だった。


技術班が炉へ走る。


魔術制御部長が境界を固定する。


調査班が都市計画図を記録する。


ロジーは中央に立ち、両手を広げるようにデバイスを展開した。


「アカシックレコード・オフライン、限定参照。対象、L-377夜固定領域。存在記録じゃない。未成立記録。未来計画、生成痕、疑似生活痕跡、全部分類」


デバイスから無数の薄い光が伸びた。


通信ではない。


検索でもない。


接続痕跡すら残さず、ロジーは記録そのものに触れていく。


だが、触れるたびに、彼女の顔から明るさが抜けていった。


「第一居住区、予定住民数二百四十。実入植者、ゼロ」


光の束が一つ、保存される。


「学校予定地、児童登録予定三十六。実出生、ゼロ」


また一つ。


「祭礼予定表、初回開催予定、入植から三十日後。実施、なし」


また一つ。


「墓地予定地、初回使用予測、入植から四十二年後。埋葬者、なし」


また一つ。


ロジーの声が震える。


「誰も死んでないのに、お墓だけあるの、ずるい……」


レトは前方で、黒い砂の番人を裂いていた。


炉停止が始まったことで、防衛機構が活性化している。


空洞の壁から、砂が流れ込む。


番人が何体も形を作る。


レトは短剣を増やした。


青白い光が、地下空洞の中を星みたいに走る。


「こっち来ちゃだめ!」


短剣が番人の足元を砕き、空間をずらし、技術班の作業区画を守る。


重装隊員が盾で一体を受け止める。


近接戦闘員が砂の腕を切り払う。


だが、番人は死なない。


砕けても、戻る。


戻って、炉へ近づく者を止めようとする。


役割だけの防衛機構。


人間が来るはずだった町を、人間が壊さないように守るための影。


レトは歯を食いしばった。


「ごめんね!」


短剣が番人の胴を裂く。


「でも、もう待ってても、誰も来ないの!」


黒い砂が弾けた。


レトは次の瞬間、技術班員の前へ瞬間移動した。


崩れた天井片が落ちてくる。


硝子の板が展開され、岩片を受け止める。


「職員さん、続けて!」


技術班員が叫ぶ。


「炉心接続、二十秒!」


「二十秒守る!」


「できれば三十秒!」


「増えた!」


「安全確認込みです!」


「じゃあ三十秒守る!」


レトの周囲で、硝子短剣が円を描く。


青白い熱が、黒い砂を照らす。


ロジーはその奥で、記録を続けていた。


「井戸使用予定。初日朝、共同水汲み。実施なし。

市場開設予定。入植七日目。実施なし。

初回出生祝福式。該当者なし。

初回成人式。該当者なし。

初回追悼式。該当者なし」


声が詰まる。


それでも続ける。


「該当者なし、ばっかり……」


エルは、ロジーの少し後ろに立っていた。


何もしない。


町を作らない。

人を作らない。

幸せを補完しない。


ただ、崩れ始めた記録の形を、ほんの少しだけ支えていた。


術式停止が進むにつれ、地下空洞の立体図が薄れていく。


町の設計図が消える。

墓標予定地が消える。

学校予定地が消える。

日記の文字が崩れる。


エルは小さく手を上げた。


「まだ、消えないで」


副長が鋭く見る。


「エル」


「あたし、町を救わない」


エルの指先に、淡い光が宿る。


「調査隊が帰るまで。ロジーが残すまで。少しだけ、待ってもらう」


それは、町を幸せにする魔法ではなかった。


存在しなかった未来を現実にする魔法でもなかった。


消えるものに、消える前の時間を与えるだけ。


待っていたものに、最後まで待ちきるだけの余白を渡すだけ。


指先から、細い赤が一筋流れた。


医療班員が反応する。


「エルさん、出血」


「少し」


「少しではありません」


「でも、できる」


副長が通信を開く。


「局長」


ジェレミーの声は静かだった。


『許可する。ただし、医療班は介入準備。エル、限界前に止めろ』


エルは頷いた。


「うん」


技術班長が叫ぶ。


「炉心停止、実行!」


環境形成炉の光が、一度だけ強くなった。


地下空洞全体が揺れる。


黒い砂の番人たちが、同時に崩れた。


その崩壊は、攻撃ではなかった。


役割を失ったものが、形を保てなくなっただけだった。


レトはそれでも、最後まで前に立っていた。


「まだ通れる! 職員さんたち、こっち!」


調査班が撤退する。


技術班が端末を抱えて走る。


医療班がエルの状態を見ながら移動する。


ロジーは最後までデバイスを展開していた。


「ロジー!」


レトが叫ぶ。


ロジーは顔を上げた。


「あと一個!」


「何!?」


「この町の名前!」


レトは一瞬、言葉を失った。


「名前、あったの?」


「ない!」


ロジーは叫んだ。


「なかった! 計画名しかない! だから、記録分類名をつける!」


副長が言う。


「ロジー、撤退」


「分かってる! あと一秒!」


ロジーのデバイスに文字が浮かぶ。


L-377夜固定現象記録:未成立入植都市群。


そして、その下に、個人記録分類が小さく追加された。


朝を待っていた町。


ロジーは保存を確定した。


「終わり!」


レトが空間をずらす。


ロジーの足元に硝子の足場が生まれ、彼女の身体がぐんと引き寄せられる。


「きゃっ!」


「撤退!」


「雑!」


「ごめん!」


「でも助かった!」


最後にエルが手を下ろした。


地下空洞の立体図が、すべて消えた。


環境形成炉の光が、ふっと落ちる。


長い夜が、ほどけ始めた。


地上へ出た時、空はまだ暗かった。


だが、東の地平線だけが、わずかに白んでいた。


調査隊は黒い砂漠の上で立ち止まった。


誰もすぐには話さなかった。


星が、ひとつずつ薄れていく。


夜固定領域の境界が消え、恒星光が初めて地表へ届く。


朝が来る。


壁のない家が、光の中で崩れていった。


扉だけの部屋が、砂に戻った。


井戸の形をした穴が埋まっていく。


文字のない墓標が、ゆっくり倒れ、黒い砂へ溶けた。


中身のない本棚が、影だけを残して消えた。


足跡も、轍も、引きずった跡も、朝日の中で薄れていく。


誰もいない町が、ようやく朝を迎えて、消えていった。


レトは、朝日を見ていた。


青白い硝子短剣は、もう出していない。


両手を胸の前で握って、ただ、光の中に立っている。


「ここ、やっと朝になったね」


ロジーは隣にいた。


目元は赤かった。


でも、デバイスの保存表示は安定していた。


「うん」


ロジーは小さく息を吐いた。


「誰も住まなかったけど、なかったことにはしない」


エルは少しだけ考えた。


朝日が、白髪の毛先の淡いピンクを照らしている。


「あたし、これも幸せの近くにあると思う」


通信の向こうで、ジェレミーが短く答えた。


『そうか』


それだけだった。


でも、レトはその声を聞いて、少しだけ安心した顔をした。


ロジーは記録を閉じる前に、最後の一文を追加した。


無人惑星L-377。

生命反応なし。

文明痕跡なし。

入植実績なし。

夜固定現象、停止。

未成立入植都市群、封印資料として保存。


少し迷ってから、もう一文。


朝、到達。


ロジーはそれを見て、静かに頷いた。


「記録、完了」


黒い砂漠に、風はまだなかった。


けれど、朝日は確かに差していた。


誰も住まなかった町の跡に。


誰も歩かなかった道の上に。


誰にも呼ばれなかった名前のない墓標があった場所に。


そして、そこに立っていた調査隊の足元に。


初めての朝が、静かに広がっていった。



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