第80話-ねむねむ安眠中庭事案
惑星監理局の中庭は、昼下がりになると少しだけ静かになる。
訓練室から遠く、食堂からも少し離れている。
天井は硝子越しの空に開けていて、光はやわらかく、風は魔術制御で強すぎない。
花壇には季節ごとに違う花が植えられ、小さな水路が中庭の端を流れている。
だから、エルはよくそこにいる。
白髪のボブの毛先を淡いピンクに揺らしながら、丸いクッションを抱えて、芝生の上に座っている。
起きているのか、寝ているのか、考えているのか、ぼんやりしているだけなのか、職員には判別しづらい。
その日も、エルは中庭にいた。
ただし、少しだけ様子が違った。
「……ん」
エルは、芝生の上に横向きで寝転がっていた。
片腕を枕にして、もう片方の手は胸元でゆるく握られている。
目は半分閉じている。
呼吸はゆっくり。
表情はいつも通り淡々としているが、まぶたが重そうだった。
完全に寝ぼけていた。
そして、その周囲を、硝子の小鳥たちが歩いていた。
透明な身体。
淡い虹色の羽。
細い脚。
小さなくちばし。
羽ばたくたびに、ちりん、と硝子鈴のような音がする。
エルが以前つくった魔法アイテムだった。
中庭の花壇に害虫がつかないように、落ち葉を拾ったり、花びらを整えたり、たまに職員の肩に止まって意味もなく鳴いたりする、かなりかわいい小鳥たちである。
その小鳥たちが今、エルをついばんでいた。
つん。
「……ん」
つんつん。
「……や」
つん。
「……ねむい」
小鳥たちは悪気なく、エルの髪についた草を取ろうとしていた。
袖についた花粉を払おうとしていた。
頬に落ちた小さな花びらをくわえようとしていた。
ただ、エルは眠かった。
とても眠かった。
眠いのに、ついばまれている。
快適ではない。
エルは目を閉じたまま、むにゃりと口を動かした。
「……もっと」
硝子の小鳥が、エルの前髪をつんと引いた。
「……もっと、きもちくねむりたい」
その瞬間。
中庭が、広がった。
まず、芝生がふわりと沈んだ。
普通の芝生ではない。
雲のように柔らかく、毛布のようにあたたかく、それでいて湿ってもいない、不思議な寝心地の草地になった。
次に、花壇がすうっと遠ざかった。
実際に建物が壊れたわけではない。
中庭の空間そのものが、内側へ折り畳まれるように拡張したのだ。
監理局の中庭は、見た目だけなら三倍ほど広くなった。
その中央に、ふかふかの丘が生まれる。
丘の上には巨大なクッション。
クッションの上には薄い毛布。
毛布の上には星明かりみたいな小さな光。
光はゆっくり揺れて、見ているだけで眠くなる。
水路は音を変えた。
さらさら、から。
とろとろ、へ。
まるで温かいミルクが器に注がれるような、やわらかい音だった。
中庭の空気に、ほんのり甘い香りが混じる。
焼きたてのパン。
乾いた毛布。
雨の日の部屋。
誰かがそばにいる安心感。
それらが全部、混ざりすぎないまま、眠るための空気になっていた。
硝子の小鳥たちは、ぴたりと動きを止めた。
そして次の瞬間、全員がふわふわの毛玉みたいな姿に変わった。
透明な硝子の小鳥だったものが、丸く、柔らかく、ついばむ力をなくした、抱き枕のような小鳥になったのである。
そのうち一羽が、エルの頬にそっとくっついた。
エルは、半分寝たまま頷いた。
「……いい」
そして、完全に埋もれた。
ふかふかの丘。
ふかふかの小鳥。
ふかふかの毛布。
ふかふかの空気。
中庭全体が、エル専用の安眠リラックス空間になった。
ただし、ここは惑星監理局である。
三十秒後、監理班に警報が入った。
中庭空間拡張反応。
旧世代由来魔法反応。
範囲、局内中庭限定。
敵性反応なし。
破壊反応なし。
危険度、判定中。
監視室の職員は画面を見た。
中庭の映像には、ふかふかの丘に埋もれて眠るエルが映っている。
その周囲を、丸くなった硝子の小鳥たちがころころ転がっている。
職員は沈黙した。
隣の職員も沈黙した。
さらに隣の職員が、慎重に言った。
「……安眠ですかね」
「安眠だな」
「警報区分は?」
「旧世代反応だから警報は警報だ」
「内容は?」
「寝床の改善」
「寝床の改善で旧世代警報……」
「言葉にすると軽いな」
監理班へ映像が転送された。
副長はそれを見て、数秒だけ動きを止めた。
そして、いつもの薄い笑みで言った。
「中庭を封鎖してください。生活班、医療班、魔術制御部長を呼んでください」
職員が確認する。
「強制解除しますか?」
「しません」
副長は即答した。
「寝ています」
「はい」
「起こすと、次に“もっと静かに眠りたい”が発生する可能性があります」
「はい」
「その場合、監理局全体が昼寝空間になるかもしれません」
「はい」
「ですので、起こさず、刺激せず、観測してください」
「了解しました」
こうして、中庭は封鎖された。
廊下側の扉には、すぐに札がかけられた。
現在、中庭は安眠魔法影響下です。
不要な入室禁止。
大声禁止。
小鳥を持ち帰らないこと。
最後の一文は、生活班長の判断だった。
すでに数名の職員が、丸い硝子小鳥を見て「かわいい」と呟いていたからである。
やがて、レトとロジーがやってきた。
「エルが魔法暴走したって聞いた!」
レトは淡緑の髪を左側で揺らしながら、廊下を小走りで来た。
青いキューブの髪飾りがきらきら揺れている。
ロジーも後ろから走ってくる。
ピンク髪のツインおさげが跳ね、頭上のデバイスにはすでに大きく表示されていた。
緊急記録モード:エルねむねむ事案
副長が扉の前で二人を止める。
「入室は許可できません」
「なんで!?」
レトが両手を握りしめる。
「エル寝てるんでしょ!? わたし、毛布かける!」
「すでに毛布はあります」
「じゃあ撫でる!」
「刺激になります」
「じゃあ見守る!」
「声が出ます」
「出さない!」
ロジーが即座に言った。
「レト、絶対出る」
「出ないもん!」
「今もう出てる!」
「出てない!」
「出てる!」
副長は静かに頷いた。
「このため入室不可です」
レトはむうっと頬を膨らませた。
ロジーは扉の小窓から中を見た。
そして、固まった。
「……なにこれ」
中庭は、完全に別世界になっていた。
ふかふかの丘。
揺れる星明かり。
とろとろした水音。
眠気を誘う甘い空気。
丸くなった硝子小鳥。
その中央で、エルがすやすや眠っている。
小鳥たちはエルの周りに集まり、抱き枕のようにくっついていた。
一羽はエルの頭の上に乗っている。
一羽はエルの腕の中で潰れている。
一羽は毛布の端をくちばしでくわえ、どうにか自分も中に入ろうとしている。
ロジーのデバイスが、ぴこぴこと震えた。
記録欲求:危険域
ロジーは両手で口を押さえた。
「かわ……」
副長がすぐに見る。
ロジーは必死に声を落とした。
「かわいい……!」
レトも小窓に張りついた。
「エル、埋もれてる……!」
「埋もれてるね」
「小鳥、ふわふわになってる……!」
「ふわふわだね」
「わたしも入りたい……!」
「分かる!!」
副長が言った。
「分からないでください」
二人は同時に振り向いた。
「副長は入りたくないの!?」
「私は職務中です」
「職務中じゃなかったら!?」
副長は一瞬だけ沈黙した。
その一瞬を、ロジーは見逃さなかった。
「今、迷った!」
「記録しないように」
「もうした!」
「消してください」
「いやです!」
副長はため息をついた。
その時、中庭の中でエルが小さく動いた。
全員が黙る。
エルは、眠ったまま眉を寄せた。
ふかふかの小鳥が一羽、また癖でエルの髪をついばもうとしていたのだ。
つん。
エルのまぶたが、ほんの少し震える。
「……や」
つん。
「……つつかない」
つん。
「……もっと、やさしく」
小鳥が、さらに変わった。
丸い身体に、小さなリボンが生えた。
くちばしは柔らかくなり、ついばむ動作は、ぽふぽふと撫でる動作に変わった。
ぽふ。
「……ん」
ぽふぽふ。
「……いい」
エルは満足そうに、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
その瞬間、小窓の外でレトが震えた。
「笑った……!」
ロジーのデバイスが高速で文字を打ち始める。
「記録、エル、寝ぼけながら小鳥を撫で係に再設定。寝顔、微笑み判定。かわいさ、危険域。ロジー、精神耐久低下」
「ロジー、音」
副長が注意する。
ロジーはデバイスを両手で押さえた。
「私じゃなくてデバイスが騒いでる!」
「所有者責任です」
「厳しい!」
やがてジェレミーが来た。
廊下の空気が少し引き締まる。
レトはぱっと振り向いた。
「お兄さん!」
ジェレミーは小窓から中庭を見た。
眠るエル。
ふかふかの丘。
丸い小鳥。
安眠空間。
封鎖札。
扉の前でそわそわするレトとロジー。
微笑みながらも目が笑っていない副長。
ジェレミーは数秒、黙って状況を見た。
それから短く言った。
「危険は」
魔術制御部長が答える。
「現時点では低いです。空間拡張は中庭内で閉じています。精神干渉は確認されていません。眠気を誘う空気はありますが、扉越しでは影響なし。内部に入れば眠くなる可能性があります」
「解除は」
「エルさんが自然に起きれば戻る可能性が高いです。強制解除は推奨しません」
ジェレミーは頷いた。
「待機だ」
レトが手を上げた。
「お兄さん、わたしも待機する!」
「ここでは不可」
「どうして!」
「声が大きい」
レトは両手で口を押さえた。
「ちいさくする」
「今後五分間、無言でいられたら許可する」
レトはぴたりと固まった。
ロジーが横から小声で言う。
「無理では?」
レトは必死に口を押さえたまま、ロジーを睨んだ。
一分後。
レトは小声で言った。
「エル、かわいいね」
ジェレミーが見た。
レトはしょんぼりした。
「……だめだった」
「だめだったな」
ロジーが肩を震わせた。
「レト、最短記録だよ」
「笑わないで!」
「声」
副長が言う。
レトはまた両手で口を押さえた。
結局、二人は廊下に座って待機することになった。
扉の前に小さなクッションが置かれる。
生活班が持ってきたものだ。
レトは膝を抱えて座り、小窓を見上げる。
ロジーはデバイスの音を最小にして、記録だけを続ける。
ジェレミーは少し離れた位置で立っていた。
副長が隣に来る。
「局長」
「なんだ」
「この件の報告書名ですが」
「中庭空間拡張事案」
「正式にはそれで通します」
「正式には?」
副長は穏やかに言った。
「職員間では、ねむねむ安眠中庭事案と呼ばれ始めています」
ジェレミーは小窓の向こうを見た。
エルはまだ寝ている。
小鳥たちは、ぽふぽふとエルを撫でている。
レトは小声で「かわいい」と言いかけて、必死に口を押さえている。
ロジーは涙目で笑いをこらえながら、記録を取り続けている。
ジェレミーは、ほんのわずかだけ目を伏せた。
「……訂正は不要だ」
副長は少しだけ笑った。
「承知しました」
それから一時間後。
エルは、ゆっくり目を開けた。
「……朝?」
レトが扉の外で跳ねた。
「エル起きた!」
ロジーも跳ねた。
「起床記録!」
副長が即座に言う。
「声量」
二人はぴたりと止まった。
中庭の中で、エルは起き上がった。
ふかふかの小鳥が一羽、頭からころんと落ちる。
エルはそれを両手で受け止めた。
「……鳥、やわらかい」
小鳥は、ぽふ、と鳴いた。
エルは少し考えた。
「前、かたい鳥だった」
ぽふ。
「今、やわらかい」
ぽふぽふ。
エルは周囲を見た。
広がった中庭。
ふかふかの丘。
星明かり。
毛布。
安眠空間。
そして扉の外に集まる職員たち。
エルは、ぽやっと首を傾げた。
「あたし、した?」
ジェレミーが扉越しに答えた。
「した」
エルは少しだけ黙った。
「壊した?」
「壊していない」
「人間、困った?」
ジェレミーは少し間を置いた。
「少し」
エルは、毛布を握った。
「ごめん」
レトがすぐに叫びかけた。
「エルは――」
副長が見る。
レトは両手で口を押さえた。
ロジーが代わりに小声で言った。
「エル、みんな困ったけど、たぶんかなり癒やされたよ」
エルはロジーを見た。
「癒やされた?」
「うん。職員さんたち、小鳥を持ち帰ろうとしてた」
生活班長が咳払いした。
エルは、ふわふわの小鳥を見下ろした。
「持ち帰る?」
副長が即座に言った。
「配布は承認制です」
エルは頷いた。
「じゃあ、承認されたら」
「作らないでください」
「まだ言ってない」
「言う前に止めました」
エルは少し不満そうにした。
それから、毛布を畳もうとした。
その瞬間、中庭の拡張が、すうっと縮んだ。
ふかふかの丘は芝生に戻り、星明かりは昼の光に溶けた。
水路の音は普通のさらさらへ戻る。
甘い香りも消えていく。
ただし、硝子の小鳥たちだけは、しばらくふわふわのままだった。
エルの腕の中で、ぽふ、と鳴く。
エルは小鳥を見た。
「戻る?」
ぽふ。
「戻りたくない?」
ぽふぽふ。
エルは真剣に考えた。
「ふわふわ、幸せ?」
ぽふ。
「じゃあ、今日はそのまま」
魔術制御部長が端末を見た。
「小鳥のふわふわ化、継続です」
副長は額に手を当てた。
レトは目を輝かせた。
「触っていい!?」
エルは小鳥を差し出した。
「いいよ」
レトは両手で受け取った。
「ふわ……!」
その瞬間、レトの顔が崩れた。
「ふわふわだぁ……!」
ロジーも横から手を伸ばす。
「私も! 私も記録触感確認!」
ぽふぽふの小鳥は、二人の手の中で丸くなった。
エルはそれを見て、少し満足そうにした。
「きもちくねむれる鳥」
ロジーが即座に記録する。
「正式名称出た! きもちくねむれる鳥!」
副長が言った。
「正式名称ではありません」
レトは小鳥を抱えたまま、真剣な顔で言った。
「副長、これは正式にした方がいいと思う」
「しません」
「どうして!」
「報告書に書けないからです」
ロジーのデバイスには、すでに大きく表示されていた。
中庭空間拡張事案・通称:ねむねむ安眠中庭事案
派生物:きもちくねむれる鳥
危険度:低
かわいさ:高
職員持ち帰り希望:多数
副長許可:未承認
ジェレミーはそれを見て、静かに言った。
「持ち帰りは禁止だ」
職員たちから、小さな落胆の気配が広がった。
エルは小鳥を抱いたまま、少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、中庭に置く」
ジェレミーは頷いた。
「それならいい」
エルは満足したように、小鳥を芝生へ置いた。
ふわふわの小鳥たちは、ころころと中庭へ散っていく。
花壇のそばで丸くなるもの。
水路の横で眠るもの。
レトの足元に戻ってくるもの。
ロジーのデバイスに乗ろうとして失敗するもの。
中庭は元に戻った。
けれど、少しだけ変わった。
その日以降、惑星監理局の中庭には、たまにふわふわの硝子小鳥がいる。
職員が疲れてベンチに座ると、どこからか一羽やってきて、膝の上で丸くなる。
ぽふ。
それだけで、少し眠くなる。
少し休みたくなる。
少しだけ、今日も大丈夫な気がする。
そして中庭の入口には、新しい札が増えた。
硝子小鳥は監理局備品です。
持ち帰らないこと。
寝不足の職員は五分まで抱っこ可。
エルが寝ている場合は、起こさないこと。
その札を見たエルは、こくんと頷いた。
「あたし、起こされない」
レトが隣で胸を張った。
「うん! エルの安眠は守る!」
ロジーもデバイスを光らせた。
「記録する! エル安眠保護規定!」
副長が通りがかりに言った。
「勝手に規定を増やさないでください」
エルは小鳥を抱いて、ぽつりと言った。
「でも、きもちくねむれるのは、いいこと」
ジェレミーは少しだけ足を止めた。
それから、静かに答えた。
「そうだな」
エルは満足そうに目を細めた。
その腕の中で、ふわふわの硝子小鳥が、ぽふ、と鳴いた。




