第78話-エルと頭を揉むやつ
惑星監理局、生活班休憩室。
その日、技術班から持ち込まれたのは、怪しい魔法アイテムではなかった。
市販品である。
しかも、正式な購入品である。
医療班と生活班が共同で導入した、頭皮用リラクゼーション機器。
名称は、
低刺激型自動頭部揉みほぐし装置。
ただしロジーは、説明書の表紙を見た瞬間に言った。
「ヘッドマッサージャー!」
レトも目を輝かせた。
「頭をもみもみするやつ!」
エルは、机の上に置かれたそれをじっと見ていた。
四本の柔らかいアーム。
先端についた丸い突起。
低速回転する揉み玉。
強度は五段階。
安全停止機能付き。
魔力干渉なし。
精神作用なし。
ただ、頭を揉むだけ。
生活班の職員が説明する。
「疲労軽減用です。魔術制御や情報処理の負荷が高い職員向けに試験導入します。まずは希望者だけ」
「希望者!」
ロジーが手を挙げる。
「私、希望! 記録もする!」
「記録は本人許可範囲でお願いします」
「はい!」
レトも手を挙げた。
「わたしも! 頭、もみもみされたい!」
エルは手を挙げなかった。
ただ、じっと見ていた。
レトが気づく。
「エル、やってみる?」
エルは瞬きをした。
「あたし?」
「うん。気持ちいいかも」
「頭を、押される?」
「押されるっていうか、もみもみ」
ロジーがヘッドマッサージャーを両手で持ち上げる。
「大丈夫! 痛かったらすぐ止める! 続けていい? やめる? って聞く!」
エルは少し考えた。
エルは、人間がこういうものをなぜ好むのか、まだよく分かっていなかった。
疲れているなら眠ればいい。
凝っているなら治せばいい。
つらいなら、つらくないようにすればいい。
けれど人間は、治すのではなく、ほぐすことを選ぶ。
完全に消すのではなく、少しずつ楽になる過程を楽しむ。
それが、エルにはまだ不思議だった。
「……やる」
エルは小さく言った。
生活班の職員が確認する。
「強度は一番弱くします。嫌だったら手を上げてください」
「うん」
エルは椅子に座った。
白い髪の毛先が淡く揺れる。
姿勢はいつも通りだった。
背筋はすっと伸び、目は半分だけ眠そうで、表情は淡々としている。
まるで、宇宙の創造者が小さな機械の実験に立ち会うため、静かに観測席へ着いたようだった。
ロジーがカメラを構えた。
「記録許可は?」
エルはロジーを見た。
「声は、残さないで」
「えっ」
「声、変だったら、残さないで」
ロジーの目が丸くなった。
「エル、今ちょっと恥じらった?」
「恥じらってない」
「今の間、恥じらい判定出てる」
「出てない」
「デバイスは出してる」
「デバイス、まちがい」
ロジーはにやにやした。
「はいはい、じゃあ音声記録なし。映像も後ろ姿だけ」
「うん」
レトはエルの横にしゃがんだ。
「エル、こわくない?」
「こわくない」
「ほんと?」
「頭を揉むだけでしょ」
「うん!」
エルは静かに頷いた。
「平気」
その顔は、本当に平気そうだった。
生活班の職員が、そっとヘッドマッサージャーをエルの頭に乗せる。
柔らかい突起が、白い髪の隙間から頭皮へ触れた。
スイッチが入る。
低い駆動音。
うぃん。
もみ。
もみ。
もみ。
エルは動かなかった。
まばたきもしない。
レトがそっと覗き込む。
「どう?」
エルは淡々と言った。
「変な感じ」
「痛くない?」
「痛くない」
「気持ちいい?」
「まだ、判定中」
ロジーが小声で実況する。
「被験者エル、現在判定中。表情変化なし。姿勢変化なし。耳の先、ちょっと赤い可能性」
「赤くない」
「反応した!」
エルはまっすぐ前を見たまま、口を閉じた。
ヘッドマッサージャーは、ゆっくりと揉み玉を回転させる。
こめかみの近く。
後頭部。
頭頂部。
耳の後ろ。
その瞬間。
エルの肩が、ぴくりと跳ねた。
「……ぬ゛」
休憩室が止まった。
レトが目を丸くした。
ロジーの口が半開きになった。
生活班の職員がスイッチに指を添えた。
エルは、何事もなかったような顔で前を見ていた。
ただ、耳が少し赤い。
ロジーが震える声で言う。
「い、いまの……」
エルは即答した。
「あたしじゃない」
「いや、エルの口から出たよ」
「機械の音」
「機械は『ぬ゛』って言わないよ」
「言うかも」
レトが心配そうにエルの袖を掴む。
「エル、痛かった?」
「痛くない」
「じゃあ、びっくりした?」
「びっくりしてない」
ヘッドマッサージャーが、もう一度、耳の後ろを揉んだ。
エルの背筋が、ほんの少しだけ溶けた。
「……ほぁ」
今度は、はっきり出た。
高くもない。
甘くもない。
媚びてもいない。
ただ、完全に不意を突かれた生き物が、身体の力を抜かされた時の、どうしようもない声だった。
ロジーが口元を押さえた。
「だめ……これは……記録したいけど記録したら怒られるやつ……!」
レトは真剣だった。
「エル、ほんとに大丈夫? 今、すごく弱そうな声だったよ」
エルは平気な顔で答える。
「弱くない」
「でも、ほぁって」
「言ってない」
「言ったよ」
「風」
「休憩室に風ないよ」
「じゃあ、空調」
生活班の職員が苦しそうに目を逸らした。
空調は止まっていた。
ヘッドマッサージャーは、一定の速度で動き続ける。
もみ。
もみ。
もみ。
「……み゛」
エルの顎が、少し下がった。
「エル?」
「平気」
もみ。
「……ぬぁ」
「エル?」
「平気」
もみ。
「……ふぁ」
ロジーが机に突っ伏した。
「無理! 声が全部、情けない!」
エルは淡々とした顔でロジーを見る。
「情けなくない」
「顔は平気なのに声だけ全部負けてる!」
「負けてない」
「負けてる! 頭皮に!」
エルはゆっくり瞬きした。
「頭皮に負けるって、なに」
レトが拳を握った。
「エル、がんばって! 頭皮に負けないで!」
「レトまで」
その瞬間、揉み玉が後頭部の深いところへ当たった。
エルの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……んも゛」
沈黙。
レトは両手で口を押さえた。
ロジーは完全に机の上で震えている。
生活班の職員は、専門職としての責任感で笑わないようにしていたが、肩が上下していた。
エルは、静かに言った。
「止めて」
職員が即座にスイッチを切った。
「はい。終了します」
ヘッドマッサージャーが外される。
エルは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
髪は少しだけ乱れている。
頬も耳も、ほんのり赤い。
けれど表情は、いつものエルだった。
平気そう。
淡々としている。
何も起きていない顔。
ただし、体だけが少しふにゃっとしていた。
レトが心配そうに覗き込む。
「エル、終わったよ」
「うん」
「どうだった?」
エルは少し考えた。
「危険」
生活班の職員が固まる。
「危険でしたか?」
「頭が、ほどける」
「それは、気持ちよかったという意味ですか?」
エルは目を逸らした。
「違う」
ロジーがすぐ顔を上げる。
「違わない顔してる!」
「違う」
「もう一回やる?」
「やらない」
エルは即答した。
その早さが、逆に怪しかった。
ロジーはにやにやしながら身を乗り出す。
「ほんとに?」
「やらない」
「気持ちよかったのに?」
「違う」
「じゃあ、どうして耳赤いの?」
「照明」
レトが天井を見る。
「照明、白いよ?」
「白くても赤くなる」
「ならないと思う」
エルは静かに黙った。
その日の試験は、そこで終わるはずだった。
ロジーが試した。
「わ、これ、普通に気持ちいい! でも私は声出ないよ! ふふん、ロジーちゃんは強い!」
十秒後。
「うひゃっ、そこくすぐったい!」
レトも試した。
「わたし、平気! わたし戦闘班だから!」
五秒後。
「みゃっ!? 頭、頭がくすぐったい! 待って、そこだめ、そこは笑っちゃう!」
生活班の職員たちは、三人分の反応を記録した。
結論。
リラクゼーション効果あり。
魔力反応への悪影響なし。
精神干渉なし。
継続使用可能。
ただし、箱庭の娘たちに使用する際は、本人の同意と中止確認を徹底すること。
そして。
エルは音声記録禁止。
その注意書きが、なぜか太字で追加された。
翌日。
エルは、休憩室の前を三回通った。
一回目。
偶然を装って通った。
二回目。
水を飲みに来たと言った。
三回目。
休憩室の扉の前で、じっと立った。
ロジーが中から顔を出す。
「エル、入りたいの?」
「通っただけ」
「三回通ったよ」
「廊下だから」
「廊下だからって同じ場所を三回往復しないよ」
レトが奥から手を振る。
「エル! ヘッドマッサージャー、今日もあるよ!」
エルの肩が、ぴくりと動いた。
「……あるんだ」
ロジーは目を細める。
「興味ないなら片付けちゃうけど」
「それは」
エルは少し黙った。
「片付けなくていい」
レトがぱあっと笑う。
「エル、またやる?」
エルは休憩室へ入った。
ゆっくり。
とても自然な顔で。
「検証が足りない」
ロジーが即座に叫んだ。
「出た! やりたい時の研究者っぽい言い訳!」
「違う」
「違わない!」
「昨日のは、条件が一つだけだった。今日は、角度を変える」
「はいはい、角度ね!」
生活班の職員が苦笑しながら準備する。
「では、今日も弱モードで。嫌だったらすぐ止めます」
「うん」
エルは椅子に座った。
昨日より、少しだけ姿勢が固い。
レトが隣に座る。
「エル、恥ずかしい?」
「恥ずかしくない」
「声が出るから?」
「出ない」
ロジーが小声で言う。
「昨日、出たよ」
「昨日のあたしは、昨日のあたし」
「すごい切り離し方した」
ヘッドマッサージャーが頭に置かれる。
スイッチが入る。
うぃん。
もみ。
もみ。
最初の十秒、エルは平気だった。
まったく動かない。
昨日よりも落ち着いている。
ロジーが感心する。
「お、今日は耐えてる?」
エルは静かに言った。
「学習した」
「さすが旧……じゃなくて、エル!」
「今、何か言いかけた?」
「なんでもない!」
揉み玉が、昨日より少し後ろへずれた。
後頭部の下。
首の付け根に近いところ。
エルの目が、すっと細くなった。
「……ぉ」
レトが身を乗り出す。
「エル?」
「平気」
もみ。
「……ぅぉあ」
「エル?」
「平気」
もみ。
「……ぉおお」
ロジーが両手を握る。
「来た」
「来てない」
「来てる」
「来てない」
もみ。
「……んあっ」
エルの背中が、椅子の背もたれに少し沈んだ。
昨日より、明らかに力が抜けている。
レトが心配と感動の間みたいな顔になる。
「エル、ふにゃふにゃになってるよ」
「なってない」
「でも、背中が」
「重力」
「重力は昨日もあったよ」
「今日の重力、強い」
ロジーが限界だった。
「エル、重力のせいにし始めた!」
エルは、まだ平気な顔をしていた。
ただ、まばたきが遅い。
目元が眠そうにとろけている。
口元は結んでいるが、声だけが完全に守れていない。
もみ。
「……みぇ゛」
もみ。
「……ぅえ」
もみ。
「……ほぁぁ……」
レトが小声で言った。
「エルが、ほどけてる……」
ロジーも小声で返す。
「これはもう、宇宙の創造者じゃなくて、頭を揉まれてる白い生き物だよ」
「白い生き物」
エルは訂正しようとした。
「白い……」
もみ。
「……うぁぁ」
訂正できなかった。
休憩室の空気が、完全にやわらかくなった。
生活班の職員は、もう笑わない努力を諦めかけていた。
ただし、業務としてはきちんと見ている。呼吸、姿勢、顔色、魔力反応。問題なし。むしろ安定。
エルの魔力は、淡く静かだった。
普段のように、何かを作ろうとする気配もない。
幸せを叶えようとする過剰な願いもない。
ただ、頭を揉まれている。
それだけ。
エルは、何かを変える必要がない時間の中にいた。
もみ。
もみ。
もみ。
「……ふぅ」
今度の声は、情けないというより、完全な降伏だった。
エルの手が、膝の上でゆるく開く。
肩が落ちる。
髪の毛先が頬にかかる。
目は開いているが、ほとんど寝ているような顔。
レトが慌てる。
「エル、寝ちゃう?」
「寝ない」
「ほんと?」
「観測してる」
「なにを?」
「……頭が、ほどけるところ」
ロジーが小さく笑った。
「気に入ってるじゃん」
エルは沈黙した。
沈黙は、否定ではなかった。
揉み玉が、最後に頭頂部をゆっくり回った。
「あうぁっ」
ロジーが崩れ落ちた。
「あうぁっはだめ! 情けなさの完成形!」
レトも頬を押さえる。
「エル、今の声、すごく弱そうだった!」
エルは、ふにゃふにゃのまま言った。
「弱くない」
「でも、あうぁっって」
「ぽぇは、強い声」
「強いぽぇ……?」
「うん」
ロジーは机を叩いた。
「議事録に残したい! でも音声記録禁止! この苦しみ!」
生活班の職員がスイッチを切った。
「終了です」
ヘッドマッサージャーが外される。
エルはすぐには動かなかった。
頭の上に何もないのに、まだ揉まれているみたいに、少しだけ目を細めている。
レトがそっと髪を整えてあげる。
「エル、大丈夫?」
「うん」
「気持ちよかった?」
エルは少し黙った。
今度は、昨日より長く黙った。
そして、視線を横にずらしたまま言った。
「……悪くない」
ロジーが勝利の顔をした。
「悪くない、いただきました!」
「記録しないで」
「音声はしない! 文字は?」
エルは考えた。
「文字なら、少しだけ」
ロジーの目が輝く。
「やった! エル、ヘッドマッサージャー感想記録! 公開範囲は女子会限定!」
「女子会限定なら、いい」
レトが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、またみんなでやろうね!」
エルは椅子から降りようとして、少し足元をふらつかせた。
レトが慌てて支える。
「エル!」
「重力」
「また重力?」
「うん。今日の重力、まだ強い」
ロジーが笑いながら、クッションを持ってくる。
「はいはい、重力対策。エルはここで休憩」
エルはクッションに座らされた。
それから、少しだけ不満そうにした。
「休憩するほどじゃない」
「ふにゃふにゃだよ」
「ふにゃふにゃじゃない」
「じゃあ立ってみて」
エルは立とうとした。
やめた。
「……重力が」
ロジーは満足げに頷いた。
「はい、重力により休憩決定」
レトは隣に座って、エルの手を握った。
「エル、頭ぽかぽか?」
「ぽかぽか」
「よかった」
エルはレトを見た。
レトは本気で嬉しそうだった。
ロジーは端末に、音声なしの記録を残している。
生活班の職員は、ヘッドマッサージャーを丁寧に消毒している。
休憩室の空気は、やわらかい。
何かを叶えたわけではない。
誰かの悲しみを消したわけでもない。
世界を書き換えたわけでもない。
ただ、頭を揉まれて、変な声が出て、少し恥ずかしくて、みんなに笑われて、でも嫌ではなかった。
エルは、クッションの上でぽつりと言った。
「人間、こういうの好きなんだね」
ロジーが顔を上げる。
「好きだよ。疲れたら、こういうのでちょっと楽になる」
レトも頷く。
「あと、みんなでやると楽しい!」
エルは少し考えた。
「完全に治すんじゃなくて?」
「うん!」
「ちょっと楽になるだけ?」
「うん!」
「それで、いいの?」
レトは笑った。
「いいよ。ちょっと楽しいの、いっぱい集めたら、すごく嬉しいもん」
エルは黙った。
それから、クッションに少し深く沈んだ。
「……そっか」
ロジーがにやにやする。
「エル、またやる?」
エルは今度、すぐには否定しなかった。
目を逸らして、髪の毛先を指で触る。
耳が、また少し赤い。
「……検証は」
「検証は?」
「継続してもいい」
レトがぱっと笑った。
「やった!」
ロジーは拳を上げる。
「エル、ヘッドマッサージャー継続利用決定!」
エルは小さく付け加えた。
「でも、声は記録しないで」
「しないしない!」
「あと、ぽぇは言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
「文字には残さないでおくね」
「うん」
その日の女子会記録には、こう残された。
エル、ヘッドマッサージャー再検証。
結果:悪くない。
副次効果:重力が強くなる。
音声記録:本人希望によりなし。
特記事項:エルは変な声なんて出してないことになった。
後日。
生活班休憩室の棚には、ヘッドマッサージャーが置かれるようになった。
使用希望者は申請制。
使用中止は即時。
音声記録は本人許可制。
そして、棚の隅には、いつの間にかエルが貼った小さな紙があった。
頭をほどくやつ。
勝手に片付けないで。
ロジーはそれを見て、静かに笑った。
レトは嬉しそうに跳ねた。
エルは平気な顔をしていた。
ただ、誰かがその紙を読むたびに、耳だけが少し赤くなった。




