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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第76話-雨ってさいこ~!!!

雨の日だった。


商業区画の空は、朝から灰色だった。

高い建物の壁を雨粒が伝い、道路は黒く濡れ、街灯の光が足元でぼんやり滲んでいる。


外出任務としては、あまり良い天候ではない。


生活班の職員はそう判断していた。


「傘、確認しました。替えのタオル、三名分。レト用の冷却後保温タオル。ロジーのデバイス防水確認。エルさんの魔法アイテム持ち込みなし。移動経路、変更なし」


同行の生活班職員が淡々と確認する。


ロジーは厚めのレインコートを着て、頭上のデバイスに小さな傘のアイコンを表示していた。


「雨天外出記録、開始! 湿度高め! 街灯きらきら! 地面の反射、映えます!」


エルは白いレインケープを羽織り、手のひらに落ちる雨粒を見ていた。


「空から水、たくさん落ちる日」


「雨だよ、エル!」


レトが答えた。


その声は、すでにおかしかった。


淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしたレトは、傘を差していなかった。


いや、持ってはいた。


生活班が渡した。


でも、差していなかった。


傘を両手で握りしめたまま、顔を上げて、雨を全身で受けていた。


「つめたい……!」


レトは目を輝かせた。


「雨、つめたい!!」


生活班職員が一歩近づく。


「レト、傘を差してください」


「やだ!」


即答だった。


「やだじゃありません」


「だって、気持ちいい!」


レトはその場でくるっと回った。


雨粒が髪から弾ける。

淡緑の髪はすぐにしっとり濡れ、頬にも首元にも水滴が伝った。


普通なら寒がるところだ。


けれど、レトは違う。


硝子の彗星から生まれたレトの身体は、青白い高熱を内側に抱えている。

普段から基礎体温が高い。

暑い日は苦手で、熱がこもるとすぐに頬が赤くなる。


だから雨は、レトにとって少し特別だった。


空から落ちてくる、冷たいもの。


身体の熱をやさしく奪ってくれるもの。


しかも、きらきらしている。


「すごい! すごいよロジー! 空がいっぱい冷たいのくれる!」


「言い方がかわいい! 記録!」


「ロジー、記録して! わたし、いま、すごく雨がすき!」


「知ってる! でも今日の好きは過去最高値!」


エルはレトのそばに寄り、濡れた頬をじっと見た。


「レト、気持ちよさそう」


「うん!」


レトは自分の肩を見る。


雨に濡れた服が肌に張りついている。

火傷するほど熱いわけではない。

けれど、いつものレトよりずっと涼しそうで、頬の赤さも少しだけ落ち着いていた。


ロジーが叫んだ。


「冷却成功!」


「わたし、冷却されてる!」


「すごい!」


「すごくないです」


生活班職員が即座に訂正した。


しかし、問題はそこではなかった。


通行人が見ていた。


雨の街中で、傘を差さず、全身ずぶ濡れで、頬を赤くして、きらきらした目で空を見上げている少女。


普通に変だった。


買い物帰りの人が足を止める。


子供が指を差す。


近くの店員が、心配そうにこちらを見る。


「……大丈夫、あの子?」


「迷子?」


「熱あるんじゃない?」


「傘、持ってるのに差してない……」


生活班職員の表情が、職務用のものに切り替わった。


「移動します」


ロジーが振り向く。


「え、もう?」


「ここは人通りが多すぎます。レトの状態が目立っています」


レトは雨を浴びながら手を挙げた。


「わたし、大丈夫だよ!」


「大丈夫かどうかではなく、一般の方から見て異様です」


「いよう?」


ロジーが真剣な顔で言った。


「レト、今のレトは、雨に祝福された謎のずぶ濡れ少女みたいになってる」


「かっこいい!」


「かっこいいけど街中ではだめ!」


エルがぽつりと言う。


「街、レトの雨遊びに狭い」


生活班職員は頷いた。


「近くに大きな公園があります。雨天で人も少ないはずです。そこでなら、一定範囲内で濡れることを許可します」


レトの顔が、ぱあっと輝いた。


「ほんと!?」


「ただし条件があります。道路に飛び出さない。魔術を使わない。水場に勝手に飛び込まない。生活班の指示を聞く」


「聞く!」


「本当ですね?」


「聞く!!」


ロジーがデバイスに打ち込む。


「雨天レト開放区域、候補地、大型公園! 作戦名!」


レトは両手を広げた。


「雨きらきら冷却作戦!!」


生活班職員は目を閉じた。


「……移動します」


公園は、街の中心から少し離れた場所にあった。


広い芝生。

大きな樹木。

曲がりくねった遊歩道。

雨に濡れたベンチ。

水を含んだ土の匂い。


普段なら親子連れや散歩客でにぎわう場所だが、今日は雨のせいでほとんど人がいない。


生活班職員は周囲を確認した。


「この芝生広場から向こうの噴水跡まで。そこから先は不可。木の根元は滑ります。池には近づかないこと」


「はい!」


レトは返事だけは満点だった。


返事だけは。


次の瞬間、レトは芝生へ飛び出した。


「雨だあああああああ!!」


「レト! 走る速度を落として!」


「落としてる!」


「落ちてません!」


レトは両腕を広げて、雨の中をくるくる回った。


足元で水が跳ねる。

濡れた髪飾りが青く光る。

頬は嬉しさで真っ赤。

全身で冷たい雨を受け止めて、いつもの熱っぽさが少しずつ楽になっていく。


「つめたい! つめたいのに、痛くない! すごい! 空、すごい!」


ロジーは少し離れて撮影していた。


「記録! レト、雨に対して感謝の舞! 一般公開不可! でも局内上映したい!」


生活班職員が即座に言う。


「公開範囲は要審査です」


「ですよね!」


エルは、レトの足跡にできた小さな水しぶきを見ていた。


「レト、雨で元気になる」


「うん!」


レトは振り向いた。


「エルも濡れる?」


「少し」


エルはフードを少しだけ外した。


雨粒が白髪の毛先に落ちる。

淡いピンクが濡れて、少しだけ色が濃く見えた。


エルは瞬きした。


「冷たい」


「でしょ!」


レトは嬉しそうに跳ねた。


「雨、えらい!」


「雨は評価対象ではありません」


生活班職員が訂正した。


その時だった。


レトの視線が、芝生広場の端で止まった。


そこにあった。


大きな水溜まり。


雨水が遊歩道の窪みに集まってできた、かなり広い水溜まりだった。

浅いところは足首程度。

中央は、少し深そうに見える。


雨粒が水面に無数の輪を作っている。

街灯の光が反射して、まるで黒い硝子の上に星屑が散っているようだった。


レトの目が、完全に変わった。


ロジーがその顔を見て、すぐに察した。


「あ、まずい」


生活班職員も察した。


「レト、待ってください」


レトは水溜まりを見ていた。


「……ロジー」


「はい」


「すごいのがある」


「あるね」


「大きい」


「大きいね」


「深そう」


「深そうだね」


「わたし、入ったことない」


「そうだね」


生活班職員が強めに言った。


「レト。水溜まりに勝手に入らない」


レトは振り返った。


「勝手じゃなかったら?」


「許可は出しません」


「どうして!?」


「深さが不明です。底の状態も不明です。滑る可能性があります」


レトは水溜まりを見る。


水面が、ぱしゃぱしゃと雨で揺れている。


黒くて、冷たそうで、きらきらしている。


レトの両手が震えた。


「でも……」


「でも?」


「呼んでる……」


「呼んでいません」


「呼んでる気がする!」


「気のせいです」


ロジーがデバイスを構えながら言った。


「レト、ここは生活班さんの指示を聞く場面だよ」


「うう……」


レトは足踏みした。


雨が髪からぽたぽた落ちる。


水溜まりが目の前にある。


入ってはいけないと言われている。


でも、雨の日で。


冷たくて。


きらきらしていて。


身体はぽかぽかしていて。


足元はもう濡れていて。


つまり。


レトは、限界だった。


「確認します!」


生活班職員が眉を上げた。


「何をですか」


「水溜まりの安全!」


「こちらで確認します」


「わたしが!」


「レト」


次の瞬間。


レトは走った。


「きゃあああああああああああああああ!!」


歓声だった。


完全な歓声だった。


生活班職員が叫ぶ。


「レト!」


ロジーが叫ぶ。


「記録開始っっ!!」


エルが目を丸くする。


「飛んだ」


レトは水溜まりの手前で大きく跳んだ。


両手を広げる。


顔は満面の笑み。


雨を背負って、青い髪飾りを光らせて、淡緑の髪をなびかせながら。


そのまま。


水溜まりの中央へ。


全身で。


ダイブした。


ばっしゃあああああああああああん!!


水柱が上がった。


思ったより上がった。


水溜まりの規模から想定されるより、だいぶ上がった。


雨水が派手に跳ねて、ロジーのレインコートの裾にも、生活班職員の靴にも、エルの足元にも飛んだ。


生活班職員は頭を抱えた。


ロジーは大興奮だった。


「大記録!! レト、水溜まりに全身突入! 飛距離よし! 水柱よし! 生活班さんの胃に悪し!」


「最悪です!」


水の中から、レトが顔を出した。


髪は顔に張り付き、服は完全にずぶ濡れ。

頬は赤い。

目はきらきら。


「ロジー!!」


「なに!?」


「すごい!!」


「でしょうね!」


「水溜まり、すごい!!」


生活班職員が駆け寄る。


「レト、怪我は?」


「ない!」


「足は?」


「ある!」


「痛みは?」


「ない!」


「寒気は?」


「ない!」


「反省は?」


レトは水の中で少し考えた。


「……ちょっとある!」


「ちょっとでは足りません」


エルが水溜まりの縁にしゃがみ込んだ。


「レト、楽しい?」


レトは水面に両手をついて、力いっぱい頷いた。


「楽しい!!」


「怒られる?」


「怒られる!」


「それでも楽しい?」


レトは一瞬、生活班職員を見た。


ロジーを見た。


エルを見た。


雨を見た。


水溜まりを見た。


そして、ものすごく小さな声で言った。


「……楽しい」


生活班職員は、深く息を吸った。


怒るべきだった。


規則違反である。


危険行動である。


水溜まりの深さも底の状態も確認していない。

滑って頭を打つ可能性もあった。

一般人がいないとはいえ、公園設備への影響も確認が必要だ。


だから、怒る。


怒るのだが。


水溜まりの中で、あまりにも幸せそうな顔をしているレトを見て、生活班職員は一拍だけ言葉に詰まった。


ロジーが小声で言う。


「生活班さん、今ちょっとかわいいに負けた?」


「負けていません」


「でも一拍あった」


「記録しないでください」


「もうしました」


「消してください」


「非公開にします」


「消してください」


エルは水面を指でつついた。


「レト、水いっぱい」


「わたしが入ったからかな!」


「たぶん」


ロジーが叫んだ。


「レト溜まりだ!」


「溜まらないでください!」


生活班職員の叫びが、雨音に混ざって響いた。


レトは水溜まりの中で、ぱしゃっと両手を叩いた。


「ロジー! エル! ここ、すごいよ! 冷たいのに、入るとぜんぶ受け止めてくれる!」


ロジーは膝に手を置いて笑った。


「水溜まりへの感情が重い!」


エルは淡々と頷く。


「水、包む」


「そう! 包む!」


レトは嬉しそうに言った。


「雨は上から来るでしょ? 水溜まりは下から来るの!」


ロジーは真顔で記録した。


「名言出ました。雨は上から、水溜まりは下から」


生活班職員が言う。


「名言ではありません。レト、出てください」


「もうちょっと!」


「出てください」


「あと一回だけ、ばしゃってしていい?」


「だめです」


「小さいばしゃ」


「だめです」


「ちいちゃい、ぱしゃ……」


「だめです」


レトはしょんぼりした。


そして、水溜まりの中で小さく指先だけ動かした。


ちゃぷ。


生活班職員は見ていた。


「それも、ばしゃです」


レトはびくっとした。


「……見てた?」


「見ています」


「職員さん、目がいい」


「仕事です」


ロジーは腹を抱えて笑っていた。


「レト、現行犯!」


「ロジー笑わないで!」


「無理!」


エルがぽつりと言った。


「レト、捕まった水の妖精みたい」


レトは目を輝かせた。


「妖精!?」


生活班職員が即座に遮った。


「泥水の妖怪です」


「うっ」


その言い方は効いた。


レトは水溜まりの中で、ぴしっと背筋を伸ばした。


「……ごめんなさい」


生活班職員はタオルを広げた。


「出てください。説教は短めにします」


「短め!」


「喜ばない」


「はい!」


レトは水溜まりから出た。


靴から水がじゃばじゃば落ちる。

服からも落ちる。

髪からも落ちる。

全身が雨と水溜まりで完全に濡れている。


しかし本人は、あまりにも満足そうだった。


生活班職員がタオルで頭を拭く。


「勝手に飛び込まない。確認を待つ。深さ不明の水場に入らない。分かりましたか」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


「次は?」


レトはしょんぼりしながらも、少し期待を込めて言った。


「……職員さんが確認して、安全だったら?」


生活班職員は、数秒黙った。


ロジーが身を乗り出す。


エルも見ている。


レトはタオルに包まれたまま、きらきらした目で見上げている。


生活班職員は負けなかった。


完全には。


「条件付きで、足だけなら許可を検討します」


レトの顔が爆発するように明るくなった。


「ほんと!?」


「足だけです」


「足だけ!」


「走らない」


「走らない!」


「飛び込まない」


「飛び込まない!」


「ばしゃは小さく」


「小さいばしゃ!」


ロジーが拳を握った。


「勝ち取った!」


「勝ち取っていません。安全管理です」


エルは水溜まりを見た。


「水溜まり、まだある」


レトはタオルに包まれながら、幸せそうに頷いた。


「うん」


雨はまだ降っていた。


街中では変だった。


通行人に心配されて、生活班の胃に悪くて、ロジーの記録区分は確実に面倒で、エルはまた新しい人間観察を増やした。


けれど、大きな公園の雨の中で。


水溜まりの前に座り、職員に見張られながら、足だけをそっと水に入れたレトは。


世界でいちばん大事な任務を達成したみたいに、胸を張って言った。


「帰ったら、お兄さんに報告する」


ロジーが聞く。


「なんて?」


レトは真剣に答えた。


「わたし、雨と水溜まりのこと、もっと分かりましたって」


生活班職員はタオルをもう一枚かけながら言った。


「規則違反も報告します」


レトは固まった。


「……それも?」


「それもです」


レトは水溜まりに入れた足を、ちゃぷ、と小さく動かした。


そして、小さな声で言った。


「じゃあ……楽しかったけど、怒られますって報告する」


ロジーは笑いながら記録した。


「本日の結論。レト、雨の日に水溜まりへ突撃。楽しかった。怒られる。以上!」


エルは空を見上げた。


「雨の日、忙しいね」


レトは満面の笑みで頷いた。


「うん! 雨の日、すっごく忙しい!」


そのあとレトは、監理局に帰るまでずっとご機嫌だった。


ただし、帰還後。


ジェレミーに報告した瞬間、


「水溜まりに飛び込んだのか」


と静かに言われて、レトはタオルに包まれたまま、ものすごく小さくなった。


ロジーはその横で、こっそり記録名をつけた。


『雨天水溜まり突撃任務――楽しかったけど怒られた日』


公開範囲は、もちろん要審査だった。



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