第75話-ちゅー!
惑星監理局、夜間食堂。
大型モニターでは、職員たちが休憩時間に流していた古い恋愛ドラマが終わりかけていた。
画面の中で、登場人物が誰かの額にそっと口づける。
レトは、スプーンを持ったまま固まった。
ロジーは、頭上デバイスの録画禁止表示を見ながら固まった。
エルは、プリンを見ていたが、画面を見て、プリンを見て、また画面を見た。
「いまの、なに?」
エルが言った。
近くにいた生活班の女性職員が、深く考えずに答えた。
「ああ、ちゅーですね」
レトの瞳がきらっと光った。
「ちゅー」
ロジーのデバイスが即座に辞書検索を始める。
「接吻。口づけ。親愛、愛情、挨拶、祝福、儀礼、文化圏によって意味が異なる行為……情報量多い!」
レトは職員を見た。
「親愛?」
職員は、そこでようやく少しだけ嫌な予感を覚えた。
「ええと……場合によりますけど、今のドラマの場面では、親愛とか、大事に思っている気持ちの象徴ですね」
「大事に思ってる気持ち」
レトはゆっくり復唱した。
ロジーが両手を上げた。
「つまり親愛の証!」
エルも頷いた。
「親愛」
三人は顔を見合わせた。
レトが言った。
「わたしたち、三人とも親愛!」
ロジーが言った。
「親愛すぎる!」
エルが言った。
「あたしも、親愛」
そして三人は、同時に叫んだ。
「ちゅー!」
食堂にいた職員たちの空気が、一瞬で変わった。
宇宙規模の警報ではない。
旧世代反応でもない。
神性存在でもない。
だが、生活班と倫理監査室と精神保護室が同時に反応するタイプの危機だった。
最初に動いたのは生活班の職員だった。
「待ってください。待ちましょう。まず説明を追加します」
レトはきょとんとする。
「追加?」
「親愛の証には、相手の許可が必要です」
ロジーがデバイスに打ち込む。
「重要事項! ちゅーには許可が必要!」
エルが首を傾げた。
「許可があると、親愛?」
「許可があって、相手が嫌がっていなくて、場所や関係性に合っている場合だけ、親愛として成立します」
ロジーが真顔になった。
「なるほど。無許可ちゅーは記録区分、事故」
「事故で済ませないでください」
「じゃあ規定違反!」
「そちらの方が近いです」
レトは真剣に頷いた。
「わかった。許可制」
そして、すぐロジーに向き直った。
「ロジー、ちゅーしていい?」
ロジーは一秒も迷わなかった。
「いいよ!」
レトはロジーのほっぺに、ちゅっとした。
ロジーは両頬を押さえた。
「親愛された!!」
デバイスに、ぴこん、と大きなハートが出た。
「記録! ロジー、レトから親愛を受領! 場所、右ほっぺ! 感想、たいへんよい!」
「ロジー、わたしにも!」
「する!」
ロジーはレトのほっぺに、ちゅっとした。
レトは両手をぶんぶん振った。
「わあああ! 親愛返ってきた!」
エルは二人を見ていた。
じっと見ていた。
そして、静かに手を挙げた。
「あたしも、したい」
レトとロジーは同時に振り向く。
「いいよ!」
「大歓迎!」
エルは、まずレトのほっぺに、そっとちゅっとした。
レトは目を丸くした。
「……エルの親愛、ふわってした」
「ふわ?」
「ふわってした!」
ロジーが身を乗り出す。
「私も!」
エルはロジーのほっぺにも、ちゅっとした。
ロジーは一瞬止まったあと、デバイスから紙吹雪みたいなホログラムを出した。
「エルから親愛受領! これは女子会史に残る!」
「ロジー」
生活班の職員が言った。
「記録区分」
ロジーはびくっとする。
「本人たちのみ閲覧!」
「よろしい」
三人は完全に盛り上がった。
レトが両手を広げる。
「つまり、親愛がある人には、許可を取ってちゅー!」
ロジーが頷く。
「監理局親愛ちゅー文化、始動!」
「始動しないでください」
職員の声が、三人には届かなかった。
翌朝。
監理局の廊下に、レトの元気な声が響いた。
「職員さん!」
通りかかった外務班の職員が振り向く。
「はい、何でしょう」
レトは両手を握りしめ、まっすぐ聞いた。
「親愛の証として、ほっぺにちゅーしてもいい?」
外務班職員は固まった。
その後ろで、別の職員が書類を落とした。
さらに後ろで、生活班の職員が全力で走ってきた。
「レト! 職員さん相手は別規定です!」
「別規定!?」
レトは衝撃を受けた。
「親愛なのに!?」
「親愛でも、相手や立場によって表現を変えます!」
ロジーが廊下の角から飛び出してくる。
「説明不足発生! 親愛には複数の表現形式がある! 握手、ハイタッチ、抱っこ、なでなで、言葉、贈り物、報告、見守り、ちゅー!」
「ちゅーだけじゃないの!?」
「そう!」
エルもいつの間にかいた。
「親愛、たくさんある」
生活班職員は深く頷いた。
「そうです。だから職員相手には、基本的にハイタッチや言葉で表現しましょう」
レトは外務班職員を見た。
「じゃあ……親愛の証として、ハイタッチしていい?」
外務班職員は、少しほっとして手を出した。
「はい。それなら」
ぱちん。
レトは満面の笑みになった。
「親愛!」
外務班職員は、なぜか少し照れた。
「……はい。親愛です」
ロジーは即座に記録した。
「親愛ハイタッチ、成立!」
エルはそれを見て、自分の手を出した。
「あたしも、親愛」
外務班職員は、もう逃げられなかった。
ぱちん。
「親愛」
エルは満足そうに頷いた。
その流行は、半日で監理局中に広がった。
ただし、ちゅーそのものではない。
生活班、倫理監査室、精神保護室が全力で介入した結果、三人の間でだけ許可制のほっぺちゅーが成立し、職員相手には別の親愛表現が推奨された。
戦闘班では、レトが訓練後に隊員たちとハイタッチするようになった。
「親愛!」
「おう、親愛」
「今日の任務も親愛!」
「それは意味が違う気がするな」
情報班では、ロジーが親愛シールを作った。
デバイスから出る小さなホログラムシールで、相手の肩の近くにふわっと浮かぶ。
親愛確認済み
かわいいを共有しました
記録していい許可あり
今日はそっとしておく親愛
情報班主任は最後のシールを見て、静かに言った。
「それは良いですね」
ロジーは胸を張った。
「でしょ! 親愛は距離を詰めるだけじゃない! 距離を守るのも親愛!」
その発言は、倫理監査室に正式に褒められた。
ロジーは三日間くらい自慢した。
エルは、もっと独特だった。
「親愛の証、作った」
そう言って、エルが中庭に出したのは、小さな透明の鳥だった。
鳥は人の肩には乗らない。
触れない。
ただ、相手の近くをふわふわ飛んで、許可をもらった時だけ、空中で小さく「ちゅ」と鳴く。
生活班職員は慎重に確認した。
「接触なし?」
「なし」
「精神干渉なし?」
「なし」
「感情誘導なし?」
「なし」
「鳴くだけ?」
「鳴くだけ」
透明の鳥は、ふわふわ飛んで、ちゅ、と鳴いた。
職員は少し考えてから言った。
「検査後、条件付きで許可します」
エルは満足した。
「親愛鳥」
その名前で固定された。
午後、局長室。
ジェレミー・クリエットは、机の上の報告書を読んでいた。
そこへ、扉が開く。
レト、ロジー、エルの三人が、きちんと並んで入ってきた。
三人とも、やけに真剣だった。
ジェレミーは顔を上げる。
「何だ」
レトが一歩前に出た。
「お兄さん」
「何だ」
「親愛の証について、正式な許可申請があります」
ジェレミーは、ほんのわずかに沈黙した。
副長が部屋の隅で、ものすごく穏やかな顔をしていた。
明らかに面白がっていた。
ジェレミーは副長を見ないまま言った。
「副長」
「はい」
「笑うな」
「まだ笑っていません」
「まだ、か」
副長は黙った。
レトは真剣だった。
「お兄さんは、わたしの親愛の人です」
「そうか」
「だから、親愛の証をしたいです」
ジェレミーはレトを見た。
ロジーを見る。
エルを見る。
三人とも、真剣に待っている。
ジェレミーは短く息を吐いた。
「確認する。額なら許可する」
レトの顔が、一瞬で輝いた。
「おでこ!」
「ほっぺは不可。口も不可。人前で騒がない。頻度は控えめ。私が不可と言った時は不可」
ロジーがデバイスに高速入力する。
「局長親愛規定! 額のみ! 不可権限あり! 頻度控えめ! 公開範囲、三人と局長と副長!」
副長が穏やかに言う。
「私は不要では?」
「副長は見てるから入る!」
「なるほど。巻き込まれました」
エルが首を傾げる。
「ジェレミー、額は親愛?」
ジェレミーは答えた。
「保護者としての親愛なら、そういう形もある」
レトは、もう我慢できない顔だった。
「お兄さん、いい?」
「ああ」
レトは近づき、少し背伸びをした。
届かない。
ジェレミーは、静かに身をかがめた。
レトはジェレミーの額に、ちゅっとした。
一瞬。
局長室が、妙に静かになった。
レトは顔を真っ赤にして、両手を握りしめる。
「親愛した……!」
ジェレミーは表情をほとんど変えずに言った。
「確認した」
「確認!」
ロジーが感動したように叫んだ。
「局長、親愛を確認!」
副長は限界だった。
肩が小さく震えていた。
ジェレミーは静かに副長を見た。
「副長」
「失礼。非常に良い運用確認でした」
「笑っているな」
「感情の処理中です」
エルはジェレミーを見上げた。
「あたしも?」
ジェレミーは少しだけ考えた。
「額なら、許可する」
エルは近づいた。
ジェレミーが身をかがめる。
エルは額に、ちゅっとした。
それから、じっとジェレミーの顔を見た。
「親愛、届いた?」
ジェレミーは答えた。
「届いた」
エルは満足そうに頷いた。
ロジーが両手を上げる。
「私も局長に親愛!」
ジェレミーはロジーを見る。
「君はハイタッチにしろ」
「なんで!?」
「君は勢いで二回目に行く」
ロジーは言葉に詰まった。
「……否定できない!」
ジェレミーは片手を出した。
ロジーはその手に、ぱちんとハイタッチした。
「親愛!」
「確認した」
三人は、きゃあきゃあと喜んだ。
その後、監理局には新しい掲示が増えた。
親愛表現について
一、相手の許可を取ること。
二、相手の立場と関係性に合わせること。
三、断られても親愛が消えたわけではないこと。
四、触れない親愛もあること。
五、三人同士のほっぺちゅーは、本人同士の許可がある場合のみ可。
その下に、誰かが小さく書き足した。
親愛ハイタッチ推奨。
さらにその横に、ロジーのデバイスから出た親愛シールが貼られていた。
距離を守るのも親愛!
レトはその掲示を毎日見て、うんうん頷いた。
ロジーは親愛表現記録フォルダを作った。
エルは親愛鳥を飛ばしすぎて、一度だけ生活班に数を制限された。
そして三人の間では、しばらくのあいだ、ちゅーが流行った。
朝のちゅー。
女子会開始のちゅー。
かわいいものを見つけた時のちゅー。
喧嘩して仲直りした時のちゅー。
眠くなって、もう喋るのが面倒になった時の、ほっぺにそっと置くだけのちゅー。
それは恋ではなかった。
儀式でもなかった。
ただ、三人が覚えたばかりの、少し不器用で、少し騒がしくて、ちゃんと許可を取るようになった親愛の形だった。
夜。
女子会空間の中で、レトが眠そうにロジーの肩へ寄りかかった。
「ロジー」
「なに?」
「親愛」
「うん、親愛」
レトはロジーのほっぺに、ちゅっとした。
ロジーも返した。
エルは二人を見てから、自分のほっぺを指差した。
「ここ、空いてる」
レトとロジーは同時に笑った。
「エルも親愛!」
「親愛追加!」
二人が左右から、エルのほっぺにちゅっとした。
エルは、少しだけ目を丸くした。
それから、静かに言った。
「いっぱい」
「いっぱい?」
「親愛、いっぱい」
レトはふにゃっと笑った。
「うん。わたしたち、いっぱい親愛だよ」
ロジーのデバイスが、小さく記録を保存する。
女子会記録。
本日、親愛過多。
問題なし。
エルの親愛鳥が、空中で小さく鳴いた。
ちゅ。
その音を聞いて、三人はまた笑った。




