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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第72話-やる気を出すアイテム

惑星監理局の朝。


レトは廊下を歩いていた。


淡緑の長い髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしながら、両手には訓練用の資料箱。


今日は戦闘班の基礎反復訓練がある。


ただし、レトは少しだけ気が重かった。


「うう……反復訓練……」


廊下の真ん中で、レトは小さく唸った。


「大事なのは分かってるけど……同じ動き、いっぱいやるやつ……」


資料箱を抱え直す。


「でも、がんばる。わたし、戦闘班だから」


そう言った瞬間だった。


スパァンッ!


「きゃあっ!?!?」


レトが跳ねた。


資料箱が少し浮き、レトは慌てて抱え直す。


振り返る。


誰もいない。


右を見る。


誰もいない。


左を見る。


廊下の端に、清掃ロボが一台いるだけ。


レトは目を丸くした。


「……いま、だれか、わたしのお尻叩いた?」


清掃ロボは答えない。


レトは清掃ロボを見つめた。


「あなた?」


清掃ロボは静かに床を拭いた。


「違うよね……?」


清掃ロボは廊下の隅へ曲がっていった。


レトはしばらく固まったあと、真剣な顔になった。


「不可視攻撃……?」


その言葉を口にした瞬間、レトの周囲に青白い硝子片がふわりと浮かびかけた。


だが、場所は監理局の廊下である。


レトは慌てて硝子片を消した。


「だめ。廊下で戦闘展開しちゃだめ。まず報告」


レトはこくんと頷いた。


「お兄さんに報告する」


そう言って歩き出そうとした瞬間。


スパァンッ!


「ひゃあっ!?!?」


二度目だった。


レトは今度こそ飛び上がった。


「いる!!」


資料箱を抱えたまま、レトは壁際へ素早く移動した。


背中を壁につける。


目を細める。


「だれ!? 出てきて!」


廊下には誰もいない。


遠くで職員が一人、書類を持って曲がり角から顔を出した。


「レトさん? どうしました?」


レトは真剣だった。


「職員さん! わたし、いま攻撃されてる!」


職員の表情が変わった。


「攻撃ですか?」


「うん! 不可視! 背後! お尻!」


職員は一瞬、非常に難しい顔になった。


「……お尻」


「うん!」


「痛みは?」


「びっくりした!」


「怪我は?」


「ない!」


「魔力反応は?」


レトは自分の周囲を見た。


「ちょっとだけ、ふわっとした!」


職員は即座に通信を入れた。


「生活区画廊下にて、レトさんが不可視接触を申告。負傷なし。魔力反応微弱。確認をお願いします」


その通信を聞きつけたのは、ロジーだった。


廊下の向こうから、ピンク髪のツインおさげが勢いよく現れる。


「なになになに!? 不可視接触!? レトが!? どこ触られたの!?」


「お尻!」


レトは真剣に答えた。


ロジーの足が止まった。


「お尻」


「うん!」


「不可視の何者かに?」


「うん!」


「二回?」


「二回!」


ロジーの頭上デバイスが、ぱっと光った。


「記録開始!」


「ロジー!」


「だってこれは事件だよ! 惑星監理局内、謎の不可視お尻攻撃事件!」


「事件名にお尻入れないで!」


「重要部位だから!」


「重要じゃない!」


「レトが飛び上がったなら重要!」


レトは顔を赤くして資料箱を抱え直した。


「もうっ! 笑いごとじゃないよ! 敵かもしれないんだよ!」


ロジーは真面目な顔になった。


「たしかに。じゃあ検証しよう」


「検証?」


「うん。次に叩かれる条件を調べる」


「次に叩かれる前提なの!?」


「だって二回あったし」


ロジーはデバイスに文字を打ち込みながら、レトの周囲をぐるぐる歩いた。


「一回目の直前、何してた?」


「反復訓練、ちょっと大変だなって思ってた」


「口に出した?」


「出した」


「二回目は?」


「お兄さんに報告しようとした」


「ふむふむ」


ロジーは目を細めた。


「共通点、まだ不明。では再現実験」


「やだ!」


「大丈夫! 私が見てる!」


「見てるだけじゃ助からないよ!」


その時、廊下の向こうから副長が現れた。


いつもの薄い笑み。


手には書類。


そして、すでに何か面白いものを見つけた顔だった。


「朝から楽しそうですね」


レトはぱっと振り向いた。


「副長! わたし、攻撃されてる!」


「そのようですね。通信で聞きました」


「不可視です!」


「不可視」


「背後です!」


「背後」


「お尻です!」


副長は一拍だけ黙った。


「なるほど」


その一拍が、レトには怪しかった。


「副長、笑ってる?」


「いいえ」


「ほんと?」


「非常に真剣です」


ロジーが横から言った。


「副長、口元がすごく副長だよ」


「ロジー」


「はい」


「記録範囲を限定してください」


「限定しました! 題名は『レト不可視お尻攻撃事件・暫定版』!」


「変更してください」


「えー」


レトは半泣きで資料箱を抱えた。


「みんな、ちゃんと調べてよぉ……」


副長は穏やかに言った。


「もちろんです。レト、もう一度、今朝の行動を順番に説明してください」


「うん……えっと、起きて、ごはん食べて、プリンはなかったけど我慢して、資料箱取りに行って、反復訓練ちょっと大変だなって思って、でもがんばるって言って……」


スパァンッ!


「きゃああっ!?!?」


三回目。


レトはその場でぴょんと跳ねた。


ロジーのデバイスが高速で点滅する。


「出た!!」


副長が目を細める。


職員が周囲を確認する。


レトは涙目で叫んだ。


「いま! いま! いま叩いた!」


ロジーは興奮していた。


「条件見えた! 『がんばる』だ!」


「えっ?」


「レトが『がんばる』って言った瞬間に叩かれてる!」


レトは震えた。


「わたし、がんばるって言っちゃだめなの……?」


副長が静かに周囲を見た。


「魔力反応があります。微弱ですが、旧世代系統に近い」


ロジーの顔がぱっと明るくなった。


「エルだ!」


「断定が早いですね」


「旧世代系統で、悪意がなくて、発想が変で、レトのお尻を叩く不可視の何か! エル以外の候補が逆に怖いよ!」


「否定しにくいですね」


その時だった。


廊下の角から、エルが現れた。


白髪のボブの毛先を淡くピンクに揺らし、小さな手に透明な箱を持っている。


いつもの淡々とした顔。


けれど、少しだけ不思議そうにしていた。


「レト、跳ねてる」


レトはエルを見た。


「エル!」


ロジーがすぐに駆け寄る。


「エル! いま監理局内で不可視お尻攻撃事件が発生してる!」


エルは首を傾げた。


「お尻攻撃」


「心当たりある!?」


エルは少し考えた。


「ある」


レトが固まった。


「あるの!?」


エルは透明な箱を掲げた。


中には、何も入っていないように見えた。


だが、よく見ると、空気が小さな手の形に歪んでいる。


ぱたぱた。


見えない小さな手が、箱の内側で動いていた。


エルは言った。


「やる気を出す魔法アイテム」


廊下が沈黙した。


レトは震える声で言った。


「やる気……?」


「うん」


エルは真面目だった。


「職員さんが言ってた。『若い子は、たまには尻を叩いてやらないと動かない』って」


副長が目を閉じた。


ロジーが口を押さえた。


レトは目を丸くする。


「それを、作ったの……?」


エルは頷いた。


「言葉の通りにした」


「言葉の通りにしちゃだめなやつだよ!!」


ロジーが吹き出した。


「エル、慣用句! それ慣用句!」


エルは首を傾げる。


「本当に叩かない?」


「叩かない! 普通は叩かない! 励ますって意味!」


エルは透明な箱の中を見た。


「じゃあ、励ます手」


箱の中の見えない手が、ぱたぱたした。


レトはお尻を押さえながら後ずさった。


「励まし方が強いよぉ!」


エルは少しだけ考えた。


「痛かった?」


「びっくりした!」


「怪我は?」


「ない!」


「じゃあ、成功?」


「成功じゃない!」


レトは涙目で叫んだ。


「わたし、不可視の敵がいると思ったんだよ! 戦闘班として警戒したんだよ!」


エルはぱちぱち瞬きした。


「えらい」


「褒められてる場合じゃない!」


副長が静かに言った。


「エル、その魔法アイテムの仕様を説明してください」


「うん」


エルは箱を両手で持ったまま、ぽつぽつ説明した。


「対象が、やらなきゃいけないことを先延ばしにしそうな時、やる気を出す」


「判定基準は?」


「言葉」


「具体的には」


「大変、あとで、ちょっと休む、でも、がんばる」


ロジーが爆笑しかけて、デバイスで自分の口元に「静粛」表示を出した。


副長は続けた。


「なぜ『がんばる』で発動するのですか」


エルは真面目に答えた。


「がんばるは、やる前に言うことが多い」


「なるほど」


「だから、背中を押す」


レトが叫ぶ。


「押してない! 叩いてる!」


エルは少し考える。


「背中じゃなかった」


「そうだよ!」


「お尻だった」


「言い直さなくていいよ!」


その瞬間、廊下の奥からジェレミーが来た。


通信を受けて来たのだろう。


表情はいつも通り。


だが、状況を見た瞬間、すべてを理解したように足を止めた。


レトは泣きそうな顔で駆け寄った。


「お兄さん!」


「レト、負傷は」


「ない!」


「痛みは」


「びっくりした!」


「そうか」


ジェレミーはエルを見た。


「エル」


「うん」


「それは回収だ」


エルは透明な箱を少し抱きしめた。


「だめ?」


「だめだ」


「やる気、出るよ」


「出し方が間違っている」


エルは少しだけ不満そうにした。


「人間、難しい」


「そうだ」


ジェレミーは短く答えた。


「だから、作る前に聞け」


エルは箱の中の見えない手を見た。


「聞く前に作った」


「次からは聞け」


「うん」


ロジーが手を挙げた。


「局長! ちなみに記録名はどうしますか!」


「記録するな」


「えっ」


「公開記録にするな」


「非公開なら?」


ジェレミーはロジーを見た。


「教育資料として、魔法アイテム誤用事例に分類しろ」


ロジーの目が輝いた。


「正式事例!」


レトが叫んだ。


「お尻って書かないで!」


副長が穏やかに言った。


「『身体背面への不適切な接触励起』程度にぼかしましょう」


「余計恥ずかしいよ!!」


職員が肩を震わせている。


ロジーは限界だった。


「だめ、無理、レト、ごめん、かわいい」


「かわいくない!」


「不可視攻撃に本気で戦闘態勢入りかけたの、すごくレト」


「戦闘班だもん!」


「そういうとこ!」


エルは箱をジェレミーに渡した。


透明な箱の中で、見えない小さな手がぱたぱたしている。


ジェレミーはそれを片手で受け取った。


「技術班と魔術制御部へ回す」


エルは頷いた。


「改良する?」


「封印する」


「封印」


「再配布はない」


エルは少し残念そうだった。


「便利なのに」


その時、箱の中の見えない手が、ふっと消えた。


消えた、ように見えた。


レトはびくっとする。


「えっ、いま消えた?」


ロジーのデバイスが警告を出した。


「箱内反応消失! 対象ロスト!」


副長の笑みが消える。


ジェレミーが即座に周囲を見た。


廊下に沈黙が落ちる。


次の瞬間。


スパァンッ!


副長が、わずかに前へ出た。


全員が副長を見た。


副長は姿勢を戻した。


何事もなかったような顔で、微笑んだ。


「……なるほど」


ロジーが震えながら言った。


「副長、いま叩かれた?」


「いいえ」


「叩かれたよね?」


「いいえ」


レトは目を丸くした。


「副長も、がんばるって言ったの?」


副長は微笑んだまま答えない。


ジェレミーが淡々と言った。


「副長」


「はい」


「何を先延ばしにしている」


副長は薄く笑った。


「局長への報告書を三件ほど」


ジェレミーは言った。


「今すぐ処理しろ」


「承知しました」


スパァンッ!


もう一度。


副長の笑みが、ほんの少しだけ固まった。


ロジーはその場にしゃがみ込んだ。


「だめ、笑ったらだめ、でも無理」


レトは一瞬ぽかんとしていた。


そして、ぱあっと顔を明るくした。


「副長も攻撃された!」


「攻撃ではありません」


「された!」


「されていません」


「されたよ! わたし見た!」


エルは副長を見て、少しだけ満足そうに言った。


「やる気、出た?」


副長は静かに息を吸った。


「……非常によく出ました」


ジェレミーは通信を開いた。


「技術班。不可視魔法アイテムが廊下に逸脱。即時封鎖。対象は、先延ばし発言に反応して背面接触を行う」


通信先が数秒沈黙した。


『……局長、背面接触とは』


「詳細は聞くな」


『了解しました』


その後、監理局では小規模な捕獲作戦が行われた。


作戦名は、ロジーが勝手に付けた。


『やる気ぱたぱた捕獲作戦』


レトは不本意ながら参加した。


なぜなら、最初の被害者だからである。


「わたし、絶対捕まえる」


「レト、燃えてるね!」


「燃えてる!」


スパァンッ!


「きゃあっ!? なんでぇ!?」


ロジーが叫ぶ。


「燃えてるも判定対象だ!」


「もうやだぁ!!」


最終的に、不可視の手は、ジェレミーが廊下の中央で静かに言った一言で捕獲された。


「報告書は、あとでいい」


スパァンッ!


その瞬間、ジェレミーは片手で空間を掴むように動き、技術班が展開した捕獲箱へ不可視の手を押し込んだ。


箱の中で、見えない手がぱたぱた暴れている。


職員たちは沈黙した。


ロジーが小声で言った。


「局長、わざと叩かれた……」


レトは感動していた。


「お兄さん、すごい……!」


ジェレミーは淡々と言った。


「封印しろ」


技術班が全力で頷いた。


エルは箱を見つめた。


「役に立った」


ジェレミーはエルを見た。


「立っていない」


「でも、みんな動いた」


「騒動になった」


「騒動も、動き」


「違う」


エルは少し考えた。


「人間、難しい」


ジェレミーは短く言った。


「そうだ」


その日の午後。


レトは訓練場で、いつもより真剣に反復訓練をこなしていた。


理由は単純だった。


廊下のどこかに、まだ不可視の手が残っているかもしれないと思ったからである。


「一回、二回、三回……!」


戦闘班長が腕を組んで言った。


「今日のレト、妙に集中してるな」


近接戦闘員が答える。


「朝の事件が効いてるんじゃないか」


魔術砲撃担当がぼそりと言った。


「やる気は出たわけだ」


その瞬間、訓練場の空気が一瞬だけ揺れた。


全員が固まる。


だが、何も起きなかった。


レトだけが、ものすごく警戒した顔で自分のお尻を押さえていた。


「……いま、言った?」


戦闘班長は真顔で言った。


「言ってない」


近接戦闘員も真顔で頷いた。


「誰も言ってない」


魔術砲撃担当は目を逸らした。


レトはじっと三人を見た。


「ほんと?」


「ほんとだ」


「じゃあ、続ける」


レトは構え直した。


青白い硝子の短剣が、訓練場の光を受けてきらりと揺れる。


そして、いつもより少しだけ大きな声で言った。


「わたし、ちゃんとやる!」


どこからも音はしなかった。


レトはほっとした。


「よかった……」


その頃。


技術班の封印庫では、透明な箱の中の見えない手が、ぱたぱたと静かに揺れていた。


封印ラベルには、こう書かれている。


旧世代由来魔法アイテム:やる気を出す手

危険度:低

迷惑度:高

接触部位指定:倫理監査により再設計禁止

備考:慣用句をエルの前で不用意に使わないこと


その下に、ロジーが勝手に貼った小さな付箋があった。


初回被害者:レト

第二被害者:副長

捕獲協力者:局長

記録価値:非常に高い


さらにその下。


副長の筆跡で、一行だけ追記されていた。


この付箋を見つけたロジーは、後で私のところへ来ること。


その付箋を見つけたロジーは、そっと封印庫の扉を閉めた。


そして廊下を歩きながら、小声で言った。


「……あとで行こう」


どこからか。


スパァンッ!


「ぎゃあっ!?」



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