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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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70/135

第70話-反抗期か…レトの…反抗期…か…

69話の続きだよ。

レトの反抗期を想像してひとりでへこんでしまうジェレミー。

そして、反抗期対策で余計な入れ知恵をするロジーのおはなし!

レトの反抗期


その日の午後。


レトは、とても元気だった。


昨日は泣いた。


朝も不安になった。


でも、食堂で一つずつ確認した。


ご飯はいい。

遊ぶのもいい。

髪を乾かしてもらうのも、場所を選べばいい。

怖い時にそばにいてもらうのもいい。

抱きつくのも、聞いてからならいい。


全部だめになったわけではない。


むしろ、ちゃんと聞けば、ちゃんと近づける。


それが分かったレトは、すっかり機嫌を直した。


そして午後には、戦闘訓練場へ戻っていた。


「確認してから、近づく!」


訓練場の中央で、レトは硝子短剣を展開していた。


青白い光を帯びた短剣が、背後に五本、六本、七本と浮かぶ。


相手は訓練用の高速ドローン。


本来なら、情緒教育とは何の関係もない戦闘訓練である。


だが、レトの中では繋がっていた。


「対象確認!」


短剣が一斉に角度を変える。


「射線確認!」


ドローンが左右へ散る。


「職員さん位置確認!」


観測席の戦闘班職員が、思わず頷いた。


「よし」


レトは目を輝かせた。


「じゃあ、行きます!」


次の瞬間、レトの姿が消えた。


青白い軌跡が訓練場を走る。


硝子短剣が空間を折り、ドローンの逃げ道を塞ぎ、レト自身は反対側へ跳んでいる。


速い。


いつも通り速い。


むしろ、いつもより判断が丁寧だった。


「確認してから近づくの、大事!」


レトは真剣だった。


戦闘班長は腕を組み、深く頷いた。


「……生活教育が戦闘精度に反映されている」


近接戦闘員がぼそっと言う。


「すげえな、ぎゅー確認作戦」


重装隊員が静かに答えた。


「作戦名はともかく、効果はある」


魔術砲撃担当は端末に記録した。


レト、情緒境界教育後の訓練において、対象確認・射線確認・味方位置確認の発声が増加。

情緒安定。

機動精度良好。

本人、上機嫌。


レトは訓練場の中央で、硝子短剣をくるんと回した。


「もう一回!」


とても元気だった。


その頃。


局長室では、ジェレミー・クリエットが静かに沈んでいた。


本当に静かだった。


普段のジェレミーも静かではある。


だが、その静けさには種類がある。


通常のジェレミーは、無駄のない静けさだ。


思考している。

判断している。

待っている。

必要なら即座に動く。


今日のジェレミーは違った。


動かない。


考えているようで、考えが少し遠くへ行っている。


机の上には、半分ほど残ったコーヒー。


冷めていた。


ジェレミーはそれに気づいていない。


端末には報告書が表示されている。


読んでいない。


視線は文字の上にあるのに、明らかに文字を見ていなかった。


「……レトの」


ぽつり、と声が落ちる。


「反抗期……か……」


局長室の空気が、さらに沈んだ。


ジェレミーは、朝の会話を思い出していた。


好きな相手でも、断っていい。


私でもだ。


そう言ったのは自分だ。


間違っていない。


絶対に間違っていない。


レトには、自分の身体と距離を自分で決める権利がある。


たとえ相手がジェレミーでも。


たとえ「お兄さん」でも。


だから言った。


言うべきだった。


問題は、その先だった。


レトはいつか、もっと上手に断れるようになる。


嫌なことは嫌と言えるようになる。


自分で選べるようになる。


そして、もしかすると。


いつか。


「お兄さん、来ないで」


と言う日が来るかもしれない。


ジェレミーは目を伏せた。


想像の中のレトが、少し背筋を伸ばしている。


淡緑の髪を左側で結び、青いキューブの髪飾りを揺らしながら、ぷいっと顔を背ける。


「もう、わたし自分でできるもん」


それは良いことだ。


自立だ。


成長だ。


監理局としても、保護者としても、望ましい。


ジェレミーはそう判断する。


判断するのに。


胸の奥が、地味に痛い。


想像の中のレトは続ける。


「お兄さん、ついてこないで」


痛い。


「お兄さんに言わなくてもいいもん」


かなり痛い。


「お兄さんのコーヒー、苦いからきらい」


それは関係ない。


だが、痛い。


ジェレミーは椅子に座ったまま、わずかに肩を落とした。


その瞬間、局長室の扉が開いた。


副長だった。


「局長、午後の承認書類を」


そこで副長は止まった。


ジェレミーを見る。


机の上の冷めたコーヒーを見る。


開いたまま一行も進んでいない報告書を見る。


ジェレミーの、目に見えてしょんぼりした空気を見る。


副長は、いつもの薄い笑みを浮かべた。


「珍しいですね」


「何がだ」


「局長が、分かりやすく落ち込んでいます」


「落ち込んでいない」


「コーヒーが冷めています」


「冷めることもある」


「報告書が同じページです」


「確認していた」


「十五分前、廊下から見えた時も同じページでした」


「廊下から見るな」


副長は穏やかに一礼した。


「失礼しました」


それから、少しだけ間を置いて言った。


「レトの件ですか」


ジェレミーは黙った。


副長は、もう少し近づいた。


「昨日と今朝の境界教育については、適切な対応だったと思います」


「分かっている」


「レトも理解を始めています。今日の訓練報告も良好です。むしろ、確認行動が戦闘判断にも良い形で反映されている」


「分かっている」


「では、なぜ」


ジェレミーは、端末の文字を見たまま言った。


「反抗期」


副長は瞬きした。


「はい?」


「レトの反抗期だ」


副長の表情が、ほんのわずかに動いた。


それは驚きではない。


笑いを堪えた動きだった。


ジェレミーは続けた。


「あいつには、断る権利がある」


「ありますね」


「私を拒否する権利もある」


「当然あります」


「それを教えた」


「非常に正しい教育です」


「正しい」


「はい」


「だが、いつか本当に拒否される」


副長は口元を押さえた。


「局長」


「何だ」


「それは、かなり先の想像では?」


「先でも来る」


「来ない可能性もあります」


「来る可能性がある」


「可能性だけでそこまで沈めるのは、なかなか器用ですね」


ジェレミーは副長を見た。


副長は、にこやかに笑っている。


「失礼。保護者としての情緒が、想定以上に人間的だったので」


「私は人間だ」


「ええ。今日は特に」


ジェレミーは視線を戻した。


「レトが、自分でできると言う」


「良いことです」


「私に言わなくなる」


「それも、ある程度は良いことです」


「近づくなと言う」


「それは状況によります」


「お兄さんなんて知らない、と言う」


副長はそこで、少しだけ目を伏せた。


完全に笑っていた。


「局長、それは反抗期というより、想像上のレトがかなり芝居がかっています」


「言うかもしれない」


「言わない可能性の方が高いでしょう」


「分からない」


「レトですよ」


「だからだ」


副長は首を傾げた。


ジェレミーは静かに言った。


「レトは、感情を隠さない」


副長の笑みが少し薄くなる。


「ええ」


「好きなら好きと言う。寂しいなら寂しいと言う。嫌なら嫌と言えるようにもなる」


「それが今回の教育です」


「そうだ」


「つまり、局長は、自分で正しい教育を行い、その正しい結果を想像して傷ついている」


「そうだ」


副長は数秒黙った。


それから、ゆっくり頷いた。


「重症ですね」


「何がだ」


「保護者です」


ジェレミーは否定しなかった。


否定できなかった。


その時、局長室の外で小さな気配がした。


副長が扉を見る。


「入りなさい」


扉が少しだけ開いた。


監理局書記官が顔を出す。


栗色の髪を低い位置でまとめ、眼鏡をかけた女性職員である。


「失礼します。午後の承認済み書類を……」


そこで止まる。


ジェレミーを見る。


副長を見る。


冷めたコーヒーを見る。


空気を察する。


「……後ほどにいたしましょうか」


ジェレミーは言った。


「今でいい」


書記官は入室した。


だが、書類を置きながら、どうしてもジェレミーの沈んだ気配を見てしまう。


副長が穏やかに言った。


「局長は現在、レトの反抗期を想像して落ち込んでいます」


「副長」


ジェレミーの声が少し低くなる。


書記官は一瞬、表情を変えなかった。


さすが監理局書記官である。


会議中の旧世代案件でも、魔術災害の事後記録でも、ロジーの奇妙な申請書でも、表情を崩さない。


今回も崩さない。


ただ、眼鏡の奥でまばたきだけが一度増えた。


「……反抗期」


「ええ」


副長は続ける。


「想像上のレトに『お兄さんなんて知らない』と言われたようです」


「副長」


「重要な情緒記録です」


「記録するな」


書記官は静かに端末を抱えた。


「正式記録には残しません」


「正式でなければ残すのか」


「個人的な記憶に留めます」


「それもやめろ」


「人間の記憶は、完全な制御が困難です」


副長が肩を震わせた。


ジェレミーは額に手を当てた。


その数分後。


局長がしょんぼりしている、という情報は、監理局内に広がった。


もちろん、正式記録ではない。


通信にも載っていない。


掲示板にも出ていない。


ロジーのデバイスにも、まだ記録されていない。


だが、監理局には人がいる。


人がいれば、空気が伝わる。


まず、書記官が監理班の席に戻った時、同僚に聞かれた。


「局長、何かありました?」


書記官は少し考えて答えた。


「情緒案件です」


「局長が?」


「はい」


「重大ですか?」


「本人にとっては」


それだけで十分だった。


次に、生活班の職員が副長に確認した。


「レトの件ですか?」


副長はにこやかに答えた。


「未来のレトの件です」


「未来?」


「反抗期です」


生活班の職員は、口元を押さえた。


「……局長が?」


「局長が」


「レトは?」


「訓練で元気です」


「局長だけが?」


「局長だけが」


生活班の職員は、厨房の方へ戻っていった。


肩が少し震えていた。


さらに、戦闘班へ訓練経過確認の通信が入る。


副長からだった。


「レトの様子は?」


戦闘班長は訓練場を見た。


レトはドローンを三機同時に封じ、元気に跳ねている。


「極めて良好です。情緒安定。訓練意欲高。本人は『確認してから近づく』を戦闘判断に取り入れています」


通信の向こうで、副長が言った。


「素晴らしい」


戦闘班長は、少し間を置いた。


「局長は?」


「反抗期を想像して沈んでいます」


戦闘班長は黙った。


隣の近接戦闘員が通信を聞いていた。


「反抗期?」


重装隊員も顔を上げる。


「レトさんの?」


魔術砲撃担当が眼鏡を押し上げる。


「まだ発生していない事象では?」


副長は通信越しに答えた。


「ええ。未発生です」


近接戦闘員は訓練場のレトを見た。


レトはドローンに向かって叫んでいる。


「右から来るね! 確認したよ! じゃあ、そっちに行くね!」


青白い閃光。


ドローン停止。


レトは満面の笑み。


「できた!」


近接戦闘員は、しばらくそれを見た。


「……あれが反抗期になるんすか」


重装隊員が真面目に言う。


「いつかはなるかもしれない」


魔術砲撃担当が端末を操作する。


「箱庭の娘たちの情緒発達は人間の年齢感覚と一致しない。反抗期という概念をそのまま当てはめるのは不正確です」


近接戦闘員は言った。


「つまり?」


「分からない」


「一番怖いやつじゃねえか」


戦闘班長は少し考えて、副長に言った。


「局長に、現在のレトの訓練映像を送りますか」


副長は楽しげに答えた。


「お願いします。効果があるか、逆効果かは分かりませんが」


数分後。


局長室の端末に、訓練映像が届いた。


ジェレミーはそれを開いた。


訓練場のレトが映る。


青白い硝子短剣。


高速機動。


対象確認。


射線確認。


味方位置確認。


そして、訓練終了後、レトが観測席に向かって両手を上げている。


「お兄さんに報告する!」


ジェレミーの目が、少しだけ和らいだ。


副長はそれを見逃さなかった。


「今のところ、反抗期ではありませんね」


ジェレミーは黙って映像を見た。


映像の中のレトは、戦闘班職員から飲み物を受け取っている。


「これ、飲んでいい?」


職員が頷く。


「いいですよ」


レトは飲む。


「ありがとう!」


それから、また言う。


「お兄さんにも、ちゃんと確認できたって言う!」


ジェレミーの肩が、ほんの少し戻った。


副長は満足そうに頷いた。


「回復しましたか」


その瞬間。


映像の中のレトが、ふと腕を組んだ。


「でも、わたし、これからはちゃんと自分で確認できるから」


ジェレミーが固まる。


レトは胸を張って続けた。


「お兄さんに心配かけないように、自分でできること増やす!」


ジェレミーの肩が、また沈んだ。


副長は口元を押さえた。


「逆効果でしたね」


ジェレミーは低く言った。


「成長している」


「良いことです」


「良いことだ」


「はい」


「……良いことだ」


それは、自分に言い聞かせる声だった。


副長は、ついに少し笑った。


「局長」


「何だ」


「レトが自分でできることを増やしても、あなたに報告しなくなるとは限りません」


「限らないだけだ」


「少なくとも現時点では、できることが増えるたびに報告しに来ます」


「今はな」


「局長、未来の反抗期に対して防衛姿勢が強すぎます」


「想定は必要だ」


「作戦ではありません」


「保護も作戦だ」


「それはそうですが」


副長は少し考えたあと、にこやかに言った。


「では、反抗期対応計画でも作成しますか」


ジェレミーが顔を上げた。


「必要か」


副長は、言った本人が少し驚くほど、ジェレミーの反応が真剣だった。


「……冗談です」


「そうか」


「本気で検討しないでください」


「だが、事前想定は」


「局長」


副長は穏やかに遮った。


「反抗期は、災害ではありません」


ジェレミーは黙った。


副長は続ける。


「敵性存在でも、神性存在でも、魔術災害でもありません。発生を防止するものではなく、発生した時に受け止めるものです」


ジェレミーは視線を落とした。


「受け止める」


「ええ」


「嫌われてもか」


「嫌われたように見える時でも、です」


ジェレミーは黙った。


副長は、少しだけ声を柔らかくした。


「レトは、あなたが遠くなるから反抗するのではなく、あなたが安全だと分かっているから、いつか反抗できるかもしれません」


局長室が静かになる。


副長は続けた。


「それは、かなり良いことです」


「……分かっている」


「ええ。分かっている顔で落ち込んでいるので、皆さん心配しています」


「皆」


「はい。局長が分かりやすくしょんぼりしているので」


「分かりやすいか」


「かなり」


「そうか」


ジェレミーは、冷めたコーヒーをようやく手に取った。


一口飲む。


冷たい。


顔は変わらない。


だが、副長には分かった。


不味かったのだろう。


「淹れ直しましょうか」


「いい」


「強がりですか」


「いい」


「では、生活班に頼みます」


「いいと言った」


副長は通信を開いた。


「生活班、局長室へコーヒーを一杯。できれば温かいものを」


『了解しました』


ジェレミーは副長を見た。


副長は微笑む。


「反抗期に備える前に、現在の局長の世話が必要です」


「私は子供ではない」


「ええ。ですが、しょんぼりした大人です」


その数分後。


生活班の女性職員が、温かいコーヒーと小さな焼き菓子を持ってきた。


「失礼します」


ジェレミーは焼き菓子を見た。


「頼んでいない」


職員は真面目な顔で答えた。


「生活班判断です」


副長が言う。


「適切ですね」


ジェレミーは何も言わなかった。


職員は退出する前に、少しだけ迷ってから言った。


「局長」


「何だ」


「レトさん、訓練場でとてもご機嫌でした」


「知っている」


「何度も、あとでお兄さんに報告すると言っていました」


「……そうか」


「はい」


職員は少し微笑んだ。


「反抗期は、まだ先だと思います」


ジェレミーは職員を見た。


職員は一礼して出ていった。


副長は、にこにこしている。


「慰められていますね」


「職員に余計な心配をかけた」


「人間らしくてよろしいのでは」


「よろしくない」


「局長にも情緒があると、職員が安心します」


「安心する要素か」


「かなり」


ジェレミーは焼き菓子を一つ手に取った。


食べる。


少しだけ表情が戻った。


副長は言った。


「回復しましたね」


「していない」


「では、その焼き菓子は何ですか」


「生活班判断だ」


「食べているではありませんか」


「食べ物を無駄にしないだけだ」


「便利な言い訳ですね」


ジェレミーは答えなかった。


その頃、訓練場では。


レトが最後のドローンを停止させ、ぱっと両手を上げていた。


「できた!」


戦闘班長が頷く。


「本日の訓練、終了。良好だ」


「ほんと!?」


「かなり良い」


レトはぱあっと笑った。


「お兄さんに報告してくる!」


近接戦闘員が言った。


「走るなよ」


レトはぴたりと止まった。


「走らない!」


そう言って、歩き出す。


三歩。


四歩。


五歩。


だんだん早足になる。


「レトさん」


重装隊員が低く呼ぶ。


レトはまた止まる。


「早歩き!」


「廊下では抑えてください」


「うん!」


レトは胸を張った。


「確認してから、近づく!」


そう言って、今度はちゃんと歩いた。


かなり速い歩きだったが、走ってはいない。


戦闘班の面々は、それを見送った。


近接戦闘員がぽつりと言う。


「反抗期、まだ遠いな」


魔術砲撃担当が端末を見る。


「不明です」


重装隊員が言う。


「しかし、今は報告に向かっている」


戦闘班長は頷いた。


「なら、今はそれでいい」


局長室。


ジェレミーがようやく報告書を読み始めた頃、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


ぱたぱた。


いや、走ってはいない。


たぶん。


かなり元気な早歩き。


扉の前で足音が止まる。


一拍。


そして、ノック。


「お兄さん!」


ジェレミーは顔を上げた。


副長も振り向く。


扉の向こうから、レトの声がした。


「入っていい!?」


ジェレミーは答える。


「入れ」


扉が開く。


レトが顔を出した。


頬は少し赤い。

目はきらきらしている。

訓練後の興奮がまだ残っている。


「お兄さん!」


「訓練は」


「できた!」


レトは胸を張った。


「確認してから近づくの、戦闘でも大事だった!」


ジェレミーは少しだけ頷いた。


「そうか」


「うん! 対象確認して、射線確認して、職員さんの位置も確認して、それから行った!」


「良い判断だ」


レトの顔がさらに明るくなる。


「ほんと!?」


「本当だ」


「えへへ」


レトはその場で少し身体を揺らした。


そして、ふと思い出したように姿勢を正す。


「お兄さん」


「何だ」


「今、抱きついていい?」


副長が静かにジェレミーを見た。


ジェレミーは一拍置いて答えた。


「いい」


レトは周囲を見た。


「お仕事中?」


ジェレミーは端末を見た。


「中断できる」


「コーヒー持ってる?」


「持っていない」


「武器は?」


「抜いていない」


「嫌じゃない?」


「嫌ではない」


レトはにこっと笑った。


「じゃあ、ぎゅーします」


レトは近づいて、ちゃんと抱きついた。


朝よりも自然だった。


昨日よりも丁寧だった。


ジェレミーは片手で背中を支えた。


副長は何も言わなかった。


レトは、ぎゅっとしながら言った。


「わたし、自分で確認できたよ」


「ああ」


「でも、お兄さんに報告したかった」


ジェレミーは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「そうか」


「うん」


レトは顔を上げる。


「お兄さん、なんか元気ない?」


副長が口元を押さえた。


ジェレミーは答えた。


「ないことはない」


「ある?」


「少し」


レトは目を丸くした。


「どうしたの?」


副長が穏やかに言った。


「局長は、レトの反抗期を想像して落ち込んでいました」


「副長」


レトはぽかんとした。


「はんこうき?」


「そうです」


レトはジェレミーを見る。


「わたし、反抗するの?」


ジェレミーは黙った。


副長が言う。


「いつか、するかもしれません」


レトは真剣に考えた。


かなり真剣に考えた。


そして、ジェレミーに抱きついたまま言った。


「お兄さんに?」


「はい」


レトはさらに考える。


「……やだ」


ジェレミーが顔を上げる。


レトは眉を寄せた。


「わたし、お兄さんに反抗したくない」


副長が言った。


「そう言っていても、いずれ成長過程で」


「じゃあ、反抗しないようにがんばる」


ジェレミーが短く言った。


「頑張らなくていい」


レトは不満そうに見る。


「なんで?」


「必要なら、反抗していい」


「お兄さん、嫌じゃない?」


ジェレミーは少し黙った。


副長が楽しそうに見ている。


ジェレミーは、正直に言った。


「嫌ではある」


レトの目が丸くなる。


「嫌なの!?」


「少しな」


「じゃあ、しない!」


「だが、していい」


「むずかしい!」


「そうだ」


レトは頬を膨らませた。


「お兄さん、むずかしいこと言う」


「必要なことだ」


「必要なの?」


「そうだ。お前が本当に嫌な時は、私にも嫌と言え」


レトは黙った。


それから、小さく頷いた。


「……うん」


ジェレミーは続ける。


「ただし、コーヒーが嫌いだという反抗は必要ない」


レトは首を傾げた。


「コーヒー?」


副長が限界だった。


肩が震えている。


レトは副長を見る。


「副長?」


副長は笑みを整えた。


「局長の想像上のレトは、コーヒーが苦いから嫌いと言ったようです」


「言ってないよ!」


レトは本気で抗議した。


「わたし、コーヒー飲めないもん!」


ジェレミーは静かに言った。


「そうだな」


「飲めないから、嫌いっていう反抗もできないよ!」


副長が片手で口元を押さえる。


「論理的ですね」


レトは胸を張った。


「うん!」


そして、すぐにジェレミーを見る。


「お兄さん」


「何だ」


「わたし、いつか反抗するかもしれないけど」


「ああ」


「その時も、抱きついていいか聞いていい?」


ジェレミーは黙った。


それから、静かに答えた。


「聞いていい」


レトは安心したように笑った。


「じゃあ、大丈夫」


「何がだ」


「反抗期でも、確認できる」


副長が小さく呟いた。


「反抗期対応計画、第一項目が決まりましたね」


ジェレミーは副長を見た。


副長はにこやかに続けた。


「反抗期でも確認する」


レトは頷いた。


「うん!」


ジェレミーは少しだけ息を吐いた。


落ち込んでいた空気が、ようやく薄くなる。


レトはそれを見て、にこにこした。


「お兄さん、しょんぼり終わった?」


「していない」


「してたよ」


「していない」


レトはジェレミーに抱きついたまま、副長を見た。


「副長、お兄さんしょんぼりしてた?」


副長は即答した。


「していました」


「副長」


レトはジェレミーを見上げた。


「お兄さん、しょんぼりしてたんだ」


ジェレミーは認めなかった。


「していない」


レトは少し考えた。


それから、真剣な顔で言った。


「じゃあ、してないことにしてあげる」


副長が顔を逸らした。


完全に笑っていた。


ジェレミーは、レトを見下ろした。


「……そうか」


「うん」


レトは得意げに笑う。


「わたし、優しいから」


「そうだな」


「えへへ」


局長室の空気は、ようやくいつもの温度に戻った。


冷めたコーヒーは片付けられた。


温かいコーヒーも、少し減った。


焼き菓子も一つなくなっている。


レトは訓練報告を始めた。


対象確認のこと。

射線確認のこと。

ドローンがすごく速かったこと。

でも自分も速かったこと。

職員さんが褒めてくれたこと。

ぎゅー確認作戦が戦闘にも使えたこと。


ジェレミーはそれを聞いた。


必要なところで短く頷き、必要なところで評価した。


副長は横で、静かに端末へ何かを入力していた。


正式記録ではない。


だが、彼は一行だけ、個人的なメモを残した。


局長、レトの反抗期を想像し沈む。

レト本人により回復。

反抗期でも確認する、とのこと。


少し考えて、追記する。


当面、心配不要。



反抗期予備訓練


「レト!」


監理局の廊下の隅。


いつもの女子会空間の前で、ロジーは真剣な顔をしていた。


かなり真剣だった。


真剣すぎて、頭上デバイスに表示されている文字まで硬い。


議題:局長の精神的負荷緩和について


レトは丸いクッションの上に正座していた。


淡緑の髪を左側のワンサイドテールにまとめ、青いキューブの髪飾りを揺らしながら、真剣にロジーを見ている。


エルは隣で、星型のクッキーを持っていた。


「精神的負荷」


レトは繰り返した。


「お兄さんの?」


「そう!」


ロジーは机を叩いた。


「昨日、局長はレトの反抗期を想像してしょんぼりしました!」


「しょんぼりしてた」


エルが頷く。


「ジェレミー、しょんぼり」


レトは胸元を押さえた。


「お兄さん、しょんぼりしてた……」


それは、レトにとって大事件だった。


自分が泣くのは分かる。


ロジーが騒ぐのも分かる。


エルが不思議な顔をするのも分かる。


でも、お兄さんがしょんぼりする。


しかも理由が、自分の未来の反抗期。


レトには、まだ少し難しい。


反抗期というものが何なのか、完全には分かっていない。


ただ、ロジーの説明によれば、


「好きな人にも、やだって言えるようになる時期!」


らしい。


それ自体は、昨日ジェレミーが教えてくれたことと似ている。


嫌なら嫌と言っていい。


お兄さんにも。


それは大事。


でも、それでお兄さんがしょんぼりするなら、話が変わってくる。


レトは両手を握った。


「どうしたらいいの?」


ロジーは、待ってましたとばかりにデバイスを光らせた。


「そこで私、考えました!」


「うん!」


「いきなり反抗期になると、局長の精神的負荷が大きい!」


「大きい!」


「だから、徐々にならした方がいい!」


「ならす!」


エルはクッキーを見ながら言った。


「お湯みたい」


ロジーは指を立てる。


「そう! 冷たい水にいきなり入るとびっくりするでしょ? でも、少しずつなら慣れる!」


レトははっとした。


「つまり、お兄さんが反抗期にびっくりしないように、少しずつ反抗する?」


「その通り!」


ロジーは満面の笑みで言った。


「レト! 局長の精神的負荷を緩和するために、いきなり反抗期になるより徐々にならした方がいいよ!」


レトの目が輝く。


ロジーはさらに畳みかけた。


「つまり、ちょっとだけ反抗して局長の精神耐久性を上げておくの!」


「なるほど!」


レトは完全に納得した。


「お兄さんのために!」


「そう! 局長のために!」


エルは小さく首を傾げた。


「あたし、ちょっと分からない」


ロジーは勢いよく振り向いた。


「エル、これは愛情の段階的訓練!」


「愛情」


「そう! レトが反抗しても、局長が崩れないようにする!」


「ジェレミー、崩れる?」


「昨日、ちょっと崩れかけた!」


エルは少し考えた。


「それは、危ないね」


「危ない!」


レトは立ち上がった。


「わたし、やる!」


ロジーは即座にデバイスへ入力した。


作戦名:お兄さん反抗期耐性強化作戦


レトは胸を張る。


「任務だね!」


「任務です!」


エルが手を挙げる。


「反抗は、どれくらい?」


そこで、ロジーは一瞬だけ止まった。


「えっと……ちょっと」


「ちょっと」


「いきなり『お兄さんなんて知らない!』は強すぎる」


レトは目を丸くした。


「そんなこと言わないよ!」


「だよね! だから軽いやつから!」


「軽いやつ」


ロジーは指を折る。


「たとえば、局長が『廊下を走るな』って言ったら」


「うん」


「『早歩きならいいもん』って言う」


レトは真剣に聞いている。


「局長が『プリンは一個だ』って言ったら」


「うん」


「『今日は二個の気持ちだもん』って言う」


レトは少し震えた。


「それは……かなり反抗だね」


「かなり反抗!」


「お兄さん、耐えられるかな」


「だから訓練!」


エルがぽつりと言った。


「反抗、プリンでやるの?」


ロジーは頷いた。


「プリンはレトにとって重要資源だから、反抗らしさが出る」


レトは真顔で頷いた。


「うん。プリンは重要」


エルはクッキーを食べた。


「なるほど」


こうして、監理局内で誰にも承認されていない作戦が始まった。


もちろん、副長には共有されていない。


生活班にも共有されていない。


ジェレミーにも共有されていない。


つまり、最悪だった。


第一回反抗期予備訓練は、その日の夕方に実施された。


場所は食堂。


対象はジェレミー・クリエット。


状況は、夕食前。


ジェレミーが食堂に入ってくる。


レトは入口近くの席に座っていた。


隣にロジー。


その隣にエル。


ロジーのデバイスには、外から見えない角度で小さく表示が出ている。


反抗準備中


レトは緊張していた。


戦闘任務でもここまで緊張しない。


硝子短剣は出していないのに、手が少し汗ばんでいる。


「レト」


ジェレミーが近づく。


いつも通りの声だった。


「訓練報告は後で聞く。先に食事を取れ」


普段なら、レトは元気よく「うん!」と答える。


だが、今日は違う。


レトは反抗期予備訓練中である。


お兄さんのために。


精神耐久性を上げるために。


だから。


レトは拳を握った。


「……や」


ジェレミーの動きが止まった。


完全に止まった。


歩いていた足が止まり、視線がレトに固定され、表情が消える。


もともと表情は少ない。


だが今は、いつもの冷静さとは違った。


処理が止まった顔だった。


レトは震えながら続けた。


「や、やだもん」


食堂が止まった。


ロジーも止まった。


エルはクッキーを持ったまま止まった。


生活班の職員が配膳台の向こうで止まった。


ジェレミーは、一拍。


二拍。


三拍。


何も言わなかった。


レトは不安になった。


「お兄さん?」


反応がない。


ジェレミーはレトを見ている。


瞬きすら少ない。


ロジーが小声で言う。


「……停止した」


エルが頷く。


「ジェレミー、止まった」


レトの顔が青ざめる。


「お兄さん!?」


ジェレミーはようやく口を開いた。


「……嫌なのか」


声が低い。


怒ってはいない。


ただ、何かを慎重に扱おうとしている声だった。


レトは慌てた。


本来の作戦では、ここで「ちょっと反抗する」予定だった。


しかし、ジェレミーが完全停止した。


これは想定外である。


いや、ロジーは想定していたかもしれない。


でもレトは想定していない。


レトは両手をぶんぶん振った。


「ちがう!」


「違うのか」


「違わないけど違う!」


ジェレミーはさらに止まった。


「どちらだ」


「お兄さんのため!」


「私のため」


「うん!」


レトは必死に説明しようとした。


「ロジーがね!」


ロジーがびくっとした。


「レト!?」


「お兄さん、反抗期でしょんぼりするから、いきなり反抗期になると危ないから、ちょっとずつ反抗して精神耐久性を上げるの!」


沈黙。


食堂の沈黙が、さっきより深くなった。


ジェレミーはゆっくりロジーを見た。


ロジーは、明らかにまずい顔をした。


「……局長」


ジェレミーは言った。


「ロジー」


「はい」


叱られる前から敬語だった。


ジェレミーは短く問う。


「入れ知恵か」


ロジーは姿勢を正した。


「理論上は、段階的曝露による精神負荷緩和が」


「ロジー」


「はい。入れ知恵です」


副長が、いつの間にか食堂の入口にいた。


本当にいつの間にかいた。


「面白いことになっていますね」


ロジーが叫ぶ。


「副長!? いつから!?」


「レトが『やだもん』と言ったあたりからです」


「最初からじゃん!」


副長はにこやかに食堂へ入ってきた。


「局長が完全停止する場面は、なかなか見られませんから」


ジェレミーは副長を見た。


「見世物ではない」


「もちろんです」


副長は微笑んだまま言った。


「ただ、非常に教育的な事故です」


レトは、泣きそうになっていた。


「お兄さん、だめだった?」


ジェレミーはすぐにレトへ視線を戻した。


「何がだ」


「反抗」


ジェレミーは黙った。


レトは肩を小さくする。


「わたし、お兄さんのために反抗したんだけど……」


ロジーが小声で補足する。


「言葉だけ聞くとすごい矛盾」


エルが頷く。


「お兄さんのために反抗」


副長は楽しそうに言った。


「新しい概念ですね」


ジェレミーは額に手を当てた。


「レト」


「うん……」


「反抗は、私のためにするものではない」


レトは目を丸くした。


「違うの?」


「違う」


「じゃあ、何のため?」


「お前が本当に嫌な時、嫌と言うためだ」


レトは黙った。


ジェレミーは続ける。


「私を慣らすために、嫌ではないことを嫌と言う必要はない」


「でも、お兄さんが将来びっくりしないように」


「びっくりはする」


「するの!?」


「する」


レトの顔が不安になる。


ジェレミーは、すぐに言った。


「それでもいい」


「いいの?」


「いい」


「お兄さん、しょんぼりするかも」


「するかもしれない」


「いいの!?」


「良くはないが、私が処理することだ」


副長が小さく頷いた。


「その通りです」


ロジーが手を挙げる。


「あの、局長が処理できずにしょんぼりしていた場合は」


ジェレミーはロジーを見た。


「ロジー」


「はい」


「お前が処理負荷を増やした」


「はい」


ロジーは素直に座り直した。


レトはしょんぼりしている。


せっかくお兄さんのために頑張ろうとしたのに、どうやら違ったらしい。


それは少し悔しい。


そして、少し恥ずかしい。


レトは膝の上で指を握った。


「じゃあ、反抗しない方がよかった?」


ジェレミーは答えた。


「嫌ではないなら、しなくていい」


「嫌だったら?」


「言え」


「お兄さんが止まっても?」


「言え」


「しょんぼりしても?」


「言え」


「焼き菓子が必要になっても?」


副長が肩を震わせた。


ジェレミーは少しだけ目を細めた。


「誰から聞いた」


レトは素直に答えた。


「生活班の職員さん」


食堂の奥で生活班の職員が目を逸らした。


ロジーは小声で言う。


「局長しょんぼり事件、広まってるね」


副長が穏やかに答える。


「かなり」


ジェレミーは深く息を吐いた。


「広めるな」


副長は言った。


「もう遅いかと」


レトは慌てて言う。


「お兄さん、しょんぼりしても、わたし嫌いじゃないよ!」


「それは分かっている」


「ほんと?」


「本当だ」


「でも、わたしが反抗したら、嫌いになる?」


「ならない」


「ほんと?」


「ならない」


「完全停止したのに?」


ジェレミーは黙った。


副長が横から補足する。


「局長は嫌いになったのではなく、想定より早い反抗期到来に処理が一時停止しただけです」


ロジーが頷く。


「予定より早いアップデートでシステムが固まった感じ」


エルがジェレミーを見る。


「ジェレミー、アップデート?」


ジェレミーは言った。


「違う」


レトは少しだけ安心した。


でも、作戦が失敗したことに変わりはない。


レトは、恐る恐る尋ねた。


「お兄さん」


「何だ」


「今の、反抗としてはどうだった?」


ジェレミーが止まった。


今度は短めに止まった。


副長が口元を押さえた。


ロジーの目が輝く。


「評価を求めた!」


エルが言う。


「反抗の評価」


ジェレミーは、数秒かけて答えた。


「……不自然だ」


レトはショックを受けた。


「不自然!」


「お前は食事を嫌がっていなかった」


「うん」


「理由が私の精神耐久性向上だった」


「うん」


「それは反抗ではなく、訓練だ」


レトははっとした。


「じゃあ、任務?」


「違う」


「作戦?」


「違う」


「お兄さんのための訓練?」


「違う」


副長が微笑んだ。


「分類不能ですね」


ロジーはデバイスに打ち込む。


分類:お兄さんのための反抗風訓練未遂


ジェレミーが言った。


「記録するな」


ロジーはすぐに消した。


「はい」


エルがぽつりと言った。


「反抗は、本当にやだの時」


ジェレミーは頷いた。


「そうだ」


レトも頷く。


「本当にやだの時」


「そうだ」


「じゃあ、今のご飯は?」


「食べろ」


レトは少しだけ考えた。


そして、恐る恐る言った。


「……今は、食べる」


ジェレミーは止まらなかった。


「そうしろ」


レトはほっとして席に戻った。


しかし。


ロジーは、まだ諦めていなかった。


夕食後。


第二回反抗期予備訓練が、勝手に始まった。


今度はロジーも少し反省していた。


食事そのものを拒否するのは重かった。


ジェレミーが完全停止した。


だから、もっと軽いものにするべきだ。


ロジーは女子会空間で言った。


「次は軽くいこう」


レトは真剣に頷いた。


「うん。お兄さんが止まらないくらい」


エルが言う。


「止まったら失敗?」


「失敗!」


ロジーは指を立てる。


「次は、局長が『訓練報告をしろ』って言った時に」


「うん」


「『今日はちょっとだけ後にするもん』って言う」


レトは不安そうだった。


「報告、後にしていいの?」


「緊急じゃなければいい!」


「でも、お兄さんに報告したい」


「じゃあ、十秒後にする」


「十秒!」


「軽い反抗!」


レトは納得した。


「なるほど」


エルはぽつりと言った。


「それ、反抗?」


ロジーは一瞬黙った。


「……かなり軽い反抗」


「軽すぎる?」


「安全第一!」


そして、局長室。


レトはノックをした。


「お兄さん、入っていい?」


「入れ」


レトは入った。


ジェレミーは机で報告書を確認していた。


副長もいる。


ロジーはいない。


と思いきや、扉の外にいる。


完全に隠れていない。


ピンクの髪が少し見えている。


エルも一緒に見ている。


ジェレミーは気づいていた。


副長も気づいていた。


だが、何も言わなかった。


ジェレミーはレトを見る。


「訓練報告を聞く」


来た。


レトは胸の前で拳を握った。


お兄さんのためではない。


いや、少しお兄さんのため。


でも本当に嫌ではない。


だから、これは反抗ではないかもしれない。


でも、ロジーが言うには軽い反抗。


十秒だけ。


レトは、精一杯の反抗顔を作った。


頬をふくらませる。


眉を少し寄せる。


視線を斜めに逸らす。


「……ちょっと後にするもん」


ジェレミーの手が止まった。


副長が横で、すっと目を伏せた。


笑いを隠すためだった。


ジェレミーはゆっくり言う。


「理由は」


レトは言葉に詰まった。


本当の理由を言うと、また失敗する気がする。


でも嘘はよくない。


昨日から、確認と境界を学んでいる。


ここで嘘をつくのは違う。


レトは正直に言った。


「十秒だけ反抗するため」


ジェレミーは目を閉じた。


完全停止ではない。


今度は、自己制御のための停止だった。


副長が横を向いた。


扉の外でロジーが小さく崩れ落ちる気配がした。


「正直すぎる……!」


エルが小声で言う。


「反抗、説明した」


ジェレミーは目を開けた。


「レト」


「はい」


「十秒経った」


レトはぱっと顔を上げた。


「じゃあ報告する!」


「聞く」


レトは元気よく訓練報告を始めた。


反抗期予備訓練、第二回。


持続時間、十秒。


ジェレミーは完全停止しなかった。


成功とも失敗とも言い難かった。


副長は後で、個人的に記録した。


第二回:十秒反抗。

局長、停止せず。

ただし眉間にごく小さい反応あり。

レト、正直に目的を申告。

反抗としての純度は低い。


翌日。


第三回が発生した。


場所は廊下。


ジェレミーが移動中、レトと遭遇した。


レトはちょうど生活班の職員に頼まれて、小さな資料箱を運んでいるところだった。


ジェレミーは足を止める。


「レト」


「お兄さん!」


「重いなら持つ」


レトはいつもなら「ありがとう!」と言う。


だが、今回は違った。


レトは、ロジーから新しい助言を受けていた。


自立っぽい反抗は、局長の精神耐久に効く。


ロジーいわく。


「『自分でできるもん』は反抗期の基本ワード!」


レトはそれを覚えていた。


そして今、資料箱はそこまで重くない。


自分で持てる。


だから言える。


レトは胸を張った。


「自分でできるもん!」


ジェレミーが止まった。


前回より、かなり深く止まった。


廊下の空気も止まった。


通りかかった書記官が止まった。


生活班の職員が止まった。


遠くで副長が足を止めた。


ロジーは廊下の角で見ていた。


「入った」


エルが隣で言う。


「効いた?」


「効いた」


ジェレミーは、レトを見ていた。


資料箱を持っている。


小さな腕で、ちゃんと抱えている。


重すぎるわけではない。


危険でもない。


つまり、持たせていい。


レトの「自分でできる」は正しい。


正しい。


とても正しい。


しかし。


「自分でできるもん」


その言葉は、想像上の反抗期レトにかなり近かった。


ジェレミーは一瞬、昨日の想像を思い出した。


もう、わたし自分でできるもん。


お兄さん、ついてこないで。


お兄さんに言わなくてもいいもん。


ジェレミーの処理が止まる。


副長が静かに近づいてきた。


「局長」


反応がない。


「局長」


ジェレミーはようやく瞬きした。


「……そうか」


レトは不安になった。


「お兄さん?」


ジェレミーは言った。


「できるなら、運べ」


レトは目を輝かせた。


「うん!」


ジェレミーは続けた。


「ただし、角では前を見る。人にぶつかるな。重くなったらすぐ言え」


「うん!」


レトは嬉しそうに歩き出した。


数歩進む。


振り返る。


「お兄さん!」


「何だ」


「自分でできたら、あとで褒めてね!」


ジェレミーの停止が解除された。


「褒める」


レトは満面の笑みで歩いていった。


副長が横に立つ。


「今のは、かなり良い自立でしたね」


ジェレミーは黙った。


「局長?」


「分かっている」


「では、なぜ停止を」


ジェレミーは低く言った。


「言い方だ」


副長はついに笑った。


「『自分でできるもん』」


ジェレミーは副長を見た。


「繰り返すな」


「失礼しました」


ロジーが廊下の角から顔を出す。


「局長!」


ジェレミーはロジーを見た。


ロジーは親指を立てた。


「耐えましたね!」


「ロジー」


「はい」


「これは訓練ではない」


「はい!」


「お前は何をしている」


「……観察?」


「違う」


「入れ知恵の効果測定?」


「もっと悪い」


ロジーは姿勢を正した。


「すみませんでした!」


副長は穏やかに言った。


「ロジー、局長の精神耐久性を測定対象にしないように」


「はい!」


「特に、レトを使わないように」


「はい!」


「面白くても」


ロジーは一瞬止まった。


「……はい」


副長は微笑む。


「今の間は何ですか」


「面白さとの別れを惜しみました」


「正直でよろしい」


その日の午後。


ついに、反抗期予備訓練は公式に発覚した。


第七会議室ではない。


そこまで重い案件ではない。


だが、生活班の小会議室に、レト、ロジー、エル、ジェレミー、副長、生活班長が集められた。


議題は簡潔だった。


未承認反抗期予備訓練について


ロジーは椅子に座って、完全にしおれていた。


「私が悪かったです」


レトは隣で慌てる。


「違うよ! わたしも納得した!」


「でも発案は私!」


「でもお兄さんのためだよ!」


ジェレミーは言った。


「私のために反抗するな」


レトはしゅんとした。


「うん……」


生活班長は、かなり必死に真面目な顔を保っていた。


「レトさん。反抗というのは、練習として無理に行うものではありません」


「はい」


「嫌なことがあった時に、嫌と言う。納得できない時に、理由を聞く。自分でやりたい時に、自分でやると言う。それは大切です」


レトは頷く。


「うん」


「ですが、ジェレミー局長の精神耐久性を上げるために、わざと反発する必要はありません」


「はい……」


副長が穏やかに言う。


「局長の精神耐久性は、局長本人と、必要に応じて周囲の大人が面倒を見るものです」


ロジーが小さく手を挙げる。


「周囲の大人に私は入りますか?」


副長は微笑んだ。


「今回は入りません」


「はい」


エルが首を傾げる。


「ジェレミー、耐久性低い?」


ジェレミーは即答した。


「低くない」


副長はにこやかに言った。


「通常業務では極めて高いです」


生活班長も頷いた。


「危機対応、戦闘判断、上位委員会対応においては非常に高いです」


ロジーが言う。


「レト関連だけ局所的に弱い?」


ジェレミーはロジーを見た。


ロジーはすぐに姿勢を正した。


「すみません」


副長は否定しなかった。


生活班長も否定しなかった。


エルは納得したように頷いた。


「局所的」


ジェレミーは少しだけ目を閉じた。


レトは、じっとジェレミーを見た。


そして、恐る恐る手を挙げる。


「お兄さん」


「何だ」


「わたし、反抗のために反抗するの、やめる」


「そうしろ」


「でも、本当に嫌な時は、嫌って言う」


「言え」


「自分でできる時は、自分でできるって言う」


「言え」


「お兄さんが完全停止しても?」


会議室の空気が揺れた。


副長が横を向いた。


生活班長も口元を押さえた。


ロジーは完全に下を向いて震えている。


ジェレミーは数秒沈黙した。


そして、言った。


「言え」


レトは、ほっとしたように笑った。


「うん」


それで終わればよかった。


しかし、ロジーがぽつりと言った。


「でも、局長が完全停止した時の復旧手順は作った方がよくない?」


副長がロジーを見る。


ロジーは慌てて両手を上げた。


「違う違う! 今度は入れ知恵じゃなくて、安全管理!」


生活班長が少し考えた。


「復旧手順……」


副長が言う。


「局長を機械のように扱わないように」


ロジーは頷く。


「じゃあ、情緒復旧手順」


ジェレミーは言った。


「不要だ」


レトは真剣に考えた。


「お兄さんが止まったら、わたしが『嫌いじゃないよ』って言う」


ジェレミーが止まりかけた。


副長が即座に言う。


「効果がありますね」


生活班長も頷く。


「あります」


ロジーがデバイスに入力する。


「復旧手順第一項目、レトが嫌いじゃないよって言う」


ジェレミーが言う。


「記録するな」


ロジーは入力を止める。


エルが手を挙げる。


「第二項目、焼き菓子」


副長が頷く。


「実績があります」


生活班長も頷く。


「生活班としても対応可能です」


ジェレミーは低く言った。


「不要だ」


レトはさらに真剣になる。


「第三項目、ぎゅーしていいか聞く」


ジェレミーは完全に黙った。


副長が言った。


「それは復旧効果が高すぎる可能性があります」


ロジーが目を輝かせる。


「局長特効!」


「ロジー」


「はい」


副長は笑顔だった。


「面白がりすぎです」


「はい」


ジェレミーは、ようやく言った。


「復旧手順は作らない」


レトは少し残念そうだった。


「作らないの?」


「作らない」


「でも、お兄さん止まるよ」


「止まらない」


その場にいた全員が、沈黙した。


レト。


ロジー。


エル。


副長。


生活班長。


全員が、同じことを思っていた。


止まった。


かなり止まった。


ジェレミーは全員の沈黙を見た。


「……頻繁には止まらない」


副長が穏やかに言った。


「表現が現実的になりましたね」


ジェレミーは副長を見た。


副長はにこやかにしている。


会議は、最終的にこうまとまった。


一、レトは「お兄さんのために反抗する」必要はない。

二、本当に嫌な時、納得できない時、自分でやりたい時は、きちんと言ってよい。

三、ロジーは局長の精神耐久性を勝手に育成対象にしない。

四、ジェレミーは停止した場合、否定せず自力で復帰する。

五、生活班は焼き菓子を常備する。


最後の項目だけ、ジェレミーは承認していなかった。


だが、生活班長が「通常の福利厚生です」と言ったため、通った。


その日の夕方。


レトは局長室を訪れた。


ノック。


「お兄さん、入っていい?」


「入れ」


レトは入る。


少しだけ緊張している。


ジェレミーは机から顔を上げた。


「どうした」


レトは胸の前で両手を握った。


「報告があります」


「言え」


「わたし、反抗のために反抗するのはやめます」


「そうか」


「でも、本当に嫌な時は嫌って言います」


「そうしろ」


「自分でできる時は、自分でできるって言います」


「そうしろ」


「お兄さんが止まっても、言います」


ジェレミーは少しだけ止まった。


ほんの少しだけ。


レトはすぐに言った。


「嫌いじゃないよ!」


ジェレミーは目を閉じた。


扉の外で、ロジーが小さくガッツポーズをした。


エルが小さく拍手した。


副長が背後から二人の肩をそっと掴んだ。


「覗き見はやめましょうね」


ロジーはびくっとした。


「副長!?」


「今回は私も見たかったですが、我慢しました」


「今、正直なこと言った!」


局長室の中で、ジェレミーはレトを見ていた。


「レト」


「うん」


「復旧手順として言わなくていい」


「違うよ」


レトは首を振った。


「これは、本当のやつ」


ジェレミーは黙った。


レトは少し照れたように笑う。


「お兄さんが止まっても、しょんぼりしても、わたし嫌いじゃないよ」


「……そうか」


「うん」


「分かった」


レトはほっとした顔になった。


それから、ちゃんと周囲を確認した。


「お兄さん、今、抱きついていい?」


ジェレミーは答えた。


「いい」


レトは近づいて、ぎゅっと抱きついた。


今度は反抗でも、訓練でも、復旧手順でもなかった。


ただ、そうしたかったから。


ジェレミーは片手でレトの背中を支えた。


「レト」


「なに?」


「本当に嫌な時は、私にも言え」


「うん」


「本当にしたい時も、言え」


「うん」


「私のために、無理に何かをするな」


レトは少し考えた。


そして言った。


「それは、ちょっとだけ難しい」


ジェレミーは眉を動かした。


「難しいのか」


「うん。わたし、お兄さんのために何かしたいもん」


ジェレミーは黙った。


レトは慌てて続ける。


「でも、反抗はしない!」


少し考えて、言い直す。


「反抗のための反抗はしない!」


ジェレミーは短く頷いた。


「それでいい」


レトは満足そうに笑った。


その夜。


女子会空間の議事録には、ロジーの字でこう書かれた。


お兄さん反抗期耐性強化作戦:中止。


その下に、レトの字で追記。


本当にやな時は、ちゃんと言う。


さらにその下に、エルの字。


ジェレミーは止まる。


ロジーが最後に、小さく書いた。


焼き菓子は有効。


翌朝、その議事録を見た副長は、しばらく黙ったあと、静かに笑った。


そして、議事録の端に付箋を貼った。


局長閲覧不可。



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