第69話-だいすきだけど、だめなこと?
68話の続きだよ。
一緒にお風呂に入るのはもうだめ。
じゃあ、遊ぶのは?一緒に寝るのは?抱きつくのは?
何がよくて、何がダメになるのかわからなくなっちゃうレト。
不安で胸がいっぱい。
翌朝。
レトは、いつもより静かだった。
食堂の席についている。
淡緑の長い髪は、左側のワンサイドテールにきちんと結ばれている。
青いキューブの髪飾りも揺れている。
プリンもある。
牛乳もある。
なのに、静かだった。
ロジーは向かいの席で、スプーンを持ったまま固まっていた。
「……レトが静か」
エルは隣でパンを小さくちぎっている。
「異常?」
「かなり」
ロジーはデバイスを起動しようとして、少し迷った。
いつものロジーなら即記録している。
『レト、朝食時に静音運用。原因不明。重大事案』
くらい書く。
でも、今日は書かなかった。
昨日のことがある。
浴室前で、レトは大泣きした。
お兄さんと一緒に入れない。
前は一緒だったのに。
どうして。
なんで。
そのあと、ジェレミーは廊下で待っていた。
レトは何度も呼んだ。
「お兄さん!」
「いる」
「ほんとにいる?」
「いる」
「絶対?」
「絶対だ」
そのやりとりを何度も繰り返して、ようやくレトは落ち着いた。
そのあと髪を乾かしてもらい、プリンを一個半食べて、少し笑った。
だから大丈夫だと思っていた。
でも、違ったらしい。
レトはスプーンを持ち上げ、プリンを見て、また下ろした。
ロジーが小声で言う。
「プリンに勝ってる……」
「勝負?」
エルが首を傾げる。
「普段なら、レトはプリンを見ると食べる。今日はプリンがまだ生存してる」
「プリン、強い?」
「今日は強い」
レトが、ぽつりと言った。
「プリンは悪くないよ」
ロジーとエルが同時にレトを見る。
レトはうつむいたまま、スプーンを握っていた。
「わたしが、考えてるだけ」
ロジーは、少しだけ表情を変えた。
騒がしい顔から、ちゃんと友達の顔になる。
「何を?」
レトは答えなかった。
その時、食堂の入口からジェレミーが入ってきた。
いつも通りだった。
無駄のない歩幅。
静かな表情。
黒いコーヒー。
資料端末。
ただそれだけで、レトの肩がびくっと動いた。
「お兄さん」
「レト」
ジェレミーは短く返事をした。
いつもなら、レトはぱっと顔を輝かせる。
今日も輝きかけた。
けれど、その直前で止まった。
レトは椅子に座ったまま、両手をぎゅっと膝の上に置いた。
ジェレミーはその変化を見逃さなかった。
「どうした」
「……あの」
「言え」
「怒らない?」
「内容による」
「じゃあ、やだ」
ロジーが小さく噴き出した。
「局長、そこは怒らないって言う流れじゃない?」
ジェレミーはロジーを見た。
「嘘は言わない」
「誠実が硬い!」
副長が、いつの間にか食堂の端にいた。
「朝から教育案件ですか」
ロジーが振り向く。
「副長、自然発生しないで」
「私は職員ですから、食堂に来ます」
「でもタイミングが副長」
「褒め言葉として受け取ります」
レトは、副長には反応しなかった。
それどころではなかった。
ジェレミーを見て、また目を伏せる。
「お兄さん」
「何だ」
「お兄さんと一緒に寝るのは、いい?」
食堂の空気が、一瞬だけ止まった。
ロジーがスプーンを置く。
エルもパンを置く。
副長の笑みが薄くなる。
生活班の職員が、厨房の奥で動きを止めた。
レトは慌てて続けた。
「ちがうの!」
「何が違う」
「えっと、ちがうの! 昨日、お風呂はだめって分かったの。分かったけど、そしたら、ほかのこともだめかもしれないって思って」
言葉が早くなる。
「お兄さんと一緒に寝るのはいい? お兄さんとご飯食べるのは? お兄さんと遊ぶのは? お兄さんに髪乾かしてもらうのは? お兄さんの隣に座るのは?」
レトの目に、また涙が浮かんだ。
「じゃあ、じゃあ……」
声が震える。
「お兄さんに抱きつくのは?」
その最後の言葉だけ、ひどく小さかった。
レトは両手を握りしめた。
「これもだめ?」
誰もすぐには答えなかった。
答え方を間違えると、レトはもっと傷つく。
許すものと、許さないもの。
条件付きで許すもの。
今はいいが、場所を選ぶもの。
相手の同意が必要なもの。
昨日、レトは「だめ」を覚えた。
でも、まだ「だめではない」を覚えていない。
ジェレミーは、コーヒーをテーブルに置いた。
そして、レトの向かいに座った。
「確認する」
レトは小さく頷いた。
「うん」
「まず、食事」
「うん」
「一緒に食べていい」
レトの目が少し開いた。
「ほんと?」
「いい」
「毎日?」
「時間が合えばな」
「お仕事がなかったら?」
「そうだ」
レトは、少しだけ息を吐いた。
「ご飯、いい」
ロジーが小声で言う。
「一項目クリア」
副長が静かに言った。
「ロジー、今日は実況を抑えめに」
「はい」
叱られていないのに敬語になった。
ジェレミーは続ける。
「遊ぶこと」
レトの肩がまた上がる。
「うん」
「いい」
「ほんと!?」
「いい。ただし、仕事中は駄目だ。危険な遊びも駄目だ。エルの魔法アイテムを使う場合は検査後だ」
エルが小さく頷いた。
「検査後」
ロジーも言う。
「女子会空間も、通行の邪魔にならない範囲!」
副長が微笑む。
「よく覚えていますね」
ロジーは胸を張った。
「議事録があるから!」
レトは少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、お兄さんと遊ぶの、いい?」
「いい」
「チェスは?」
「いい」
「射撃訓練見せてもらうのは?」
「安全距離を守るなら」
「プリンを半分こするのは?」
「私の分を取るな」
「半分こ……」
「相談ならいい」
「相談したら、たまにいい?」
「たまにな」
レトの顔に、少しだけ光が戻った。
でも、すぐにまた曇る。
「じゃあ、髪」
ジェレミーは答える。
「乾かす手伝いはできる」
「昨日みたいに?」
「そうだ。場所を選ぶ。生活班の待機室か、共有スペース。お前が嫌なら断れる」
「嫌じゃない」
「それでも、断れると覚えろ」
レトは真面目に頷いた。
「断れる」
「そうだ」
「でも、今はしてほしい」
「なら、できる」
レトは小さく頷いた。
「髪、いい」
ロジーは小声で言う。
「二項目どころじゃなく進んでる」
副長は小さく咳払いした。
ロジーは口を押さえた。
ジェレミーは、少しだけ間を置いた。
「次に、寝ること」
レトの身体が固くなる。
「……うん」
「同じ寝台で寝ることは、基本的にしない」
レトの顔が一気に歪んだ。
「やっぱり……」
「最後まで聞け」
レトは唇を噛んだ。
「うん」
ジェレミーは静かに続ける。
「怖い夢を見た時、眠れない時、不安が強い時、私を呼んでいい」
レトは瞬きした。
「呼んで、いい?」
「いい」
「夜でも?」
「夜でもだ」
「お仕事してても?」
「緊急案件でなければ対応する。私が無理な時は、生活班か医療班が来る」
「お兄さんじゃない時もある?」
「ある」
レトの目がまた潤む。
ジェレミーは言葉を重ねた。
「だが、無視はしない」
レトは黙った。
「一緒の部屋で、私が椅子に座って待つことはできる。扉の外で待つこともできる。手を握ることも、必要ならできる」
「手」
「そうだ」
「寝るまで?」
「寝るまで」
「起きたら?」
「まだ必要ならいる。いない時は、誰が見ていたか記録を残す」
レトは眉を下げた。
「記録……」
ロジーが小さく手を挙げる。
「それ、私の出番では?」
ジェレミーが即答した。
「違う」
「はい」
ロジーはすぐ引っ込んだ。
レトは少し考えた。
「じゃあ、お兄さんと一緒に寝るのは、だめだけど……お兄さんに、そばにいてもらうのはいい?」
「そうだ」
「お兄さんが椅子で?」
「そうだ」
「わたしがベッド?」
「そうだ」
「怖い時だけ?」
「必要な時だ。毎日ではない」
「毎日じゃない……」
レトは少し寂しそうにした。
ジェレミーは言った。
「毎日そばにいなければ眠れないようにするのは、お前のためにならない」
「でも、そばにいてほしい」
「そういう日があるのはいい」
「ある」
「あるな」
「いっぱいあるかも」
「少しずつ減らせ」
「減らすの、やだ」
「減らす」
「お兄さん、冷たい」
「そうだな」
「でも、来てくれる?」
「来る」
レトは、そこでようやく少しだけ笑った。
泣きそうなままの、ぎこちない笑いだった。
「寝るの、ちょっといい」
「そうだ」
副長が穏やかに口を挟んだ。
「分類としては、同衾不可、夜間不安時の付き添い可、接触は本人希望と状況確認の上で限定的に可、ですね」
レトが副長を見る。
「どうきん?」
ロジーが即座に言った。
「同じ布団で寝ること」
「それはだめ?」
ジェレミーが答えた。
「基本的に駄目だ」
レトは少しむくれた。
「基本的にって、例外ある?」
「医療上、緊急性がある場合だけだ」
「緊急……」
「普通の寂しいは緊急ではない」
「寂しいは大事件だよ」
ロジーが小声で言う。
「レト基準では宇宙規模」
エルが頷いた。
「寂しい、広がる」
ジェレミーは二人を見た。
二人とも黙った。
レトはまた膝の上で指を握った。
「じゃあ……」
声が小さくなる。
「抱きつくのは?」
食堂が、もう一度静かになった。
今度はさっきより深かった。
レトは俯いている。
「これも、だめって言われたら……わたし、ちょっと……」
言葉が続かない。
だめ。
その一言で、レトの中の何かがまた崩れそうだった。
ジェレミーは、すぐには答えなかった。
答えを遅らせたのではない。
軽く言わないためだった。
「レト」
「うん」
「抱きつくことは、駄目ではない」
レトの目が、ぱっと上がった。
「ほんと!?」
「ただし、条件がある」
「条件……」
レトの顔が不安で固まる。
ジェレミーは指を一本立てた。
「一つ。相手に確認する」
レトは瞬きした。
「お兄さんに?」
「私にもだ」
「お兄さんでも?」
「私でも」
「えっと……抱きついていい?って聞く?」
「そうだ」
レトはすぐに身を乗り出した。
「お兄さん、抱きついていい!?」
「今は待て」
「なんでぇ!」
「説明中だ」
「説明長い!」
「大事な話だ」
レトはしゅんと座り直した。
「うん……」
ジェレミーは二本目の指を立てる。
「二つ。場所を選ぶ」
「場所?」
「会議中、任務中、危険区域、訓練中は駄目だ」
「廊下は?」
「状況による。通行の邪魔になるなら駄目だ」
「食堂は?」
「相手が食事中なら避けろ」
「お兄さん、今、コーヒー飲んでない」
「飲む前だ」
「じゃあ、飲む前は?」
「急ぐな」
ロジーが口を押さえて震えている。
副長も少しだけ横を向いた。
ジェレミーは三本目の指を立てた。
「三つ。やめてと言われたら、すぐ離れる」
レトは真剣に頷いた。
「うん」
「相手が私でもだ」
「お兄さんが、やめてって言うことある?」
「ある」
レトの眉が下がる。
「あるの……?」
「仕事中、怪我をしている時、武器を持っている時、判断が必要な時」
「わたしのこと嫌いな時?」
「それはない」
レトは止まった。
ジェレミーは、もう一度言った。
「それはない」
レトの目が、じわっと潤んだ。
「ほんと?」
「本当だ」
「やめてって言うの、嫌いだからじゃない?」
「違う」
「忙しいから?」
「そうだ」
「危ないから?」
「そうだ」
「わたしが悪いから?」
「違う」
レトは、そこで大きく息を吸った。
昨日からずっと胸の奥に刺さっていたものが、少しだけ抜けたようだった。
「……じゃあ、やめてって言われても、嫌われたんじゃない?」
「違う」
「あとで、また抱きついていい?」
「確認してからな」
レトはこくこく頷いた。
「確認する」
ジェレミーは四本目の指を立てた。
「四つ。お前も断っていい」
レトは首を傾げた。
「わたしが?」
「そうだ」
「お兄さんが抱きしめようとしたら?」
「嫌なら断れ」
レトは目を丸くした。
「お兄さんを?」
「そうだ」
「そんなの、しない」
「今はな」
「しないもん」
「それでも覚えろ」
レトは納得していない顔をした。
ジェレミーは言った。
「好きな相手でも、断っていい」
レトは黙った。
「私でもだ」
「……お兄さんでも」
「そうだ」
レトは、昨日の言葉を思い出した。
お兄さんでも線がある。
それは悲しい言葉だった。
でも、今は少しだけ違って聞こえた。
お兄さんでも、断っていい。
それは、レトが大事にされている言葉でもあった。
「じゃあ」
レトは小さく言った。
「わたしが、今日は抱きつかないって言っても、お兄さん怒らない?」
「怒らない」
「寂しくならない?」
「少しはなるかもしれない」
レトは目を丸くした。
「なるの!?」
「なる」
「お兄さんも!?」
「私も人間だ」
ロジーが小声で言う。
「今の、かなり重要発言では?」
副長が頷く。
「記録したくなる気持ちは分かります」
「していい?」
「公開範囲を絞るなら」
ロジーのデバイスが小さく光った。
ジェレミーはレトを見ていた。
「だが、怒らない。お前が断ることと、私がお前を大事に思うことは、別だ」
レトはスプーンを握ったまま、じっと考えた。
考えすぎて、プリンの存在を忘れている。
プリンはまだ生存していた。
やがて、レトは恐る恐る言った。
「お兄さん」
「何だ」
「今、抱きついていい?」
ジェレミーは答えた。
「いい」
その瞬間、レトは椅子から飛び出した。
ただし、途中で止まった。
ぴたりと。
食堂の床の真ん中で、両手を広げたまま固まる。
ジェレミーが見上げる。
「どうした」
レトは真剣な顔で周囲を見た。
「場所、だいじ」
ロジーが目を輝かせた。
「学習してる!」
レトはさらに言った。
「お兄さん、コーヒー持ってない」
「持っていない」
「武器持ってない?」
「持っているが、今は抜いていない」
「任務中?」
「今は朝食前だ」
「通行の邪魔?」
副長が周囲を見る。
「現時点では問題ありません」
レトは深く頷いた。
そしてもう一度、ジェレミーを見る。
「お兄さん、抱きついていい?」
ジェレミーは同じ答えを返した。
「いい」
レトは、今度こそ飛び込んだ。
勢いはあった。
でも、昨日までより少しだけ慎重だった。
ジェレミーの首にしがみつくのではなく、胸元にぎゅっと抱きついた。
ジェレミーは椅子に座ったまま、片腕でレトの背中を支えた。
強く抱き返しすぎない。
でも、突き放さない。
レトは顔を押しつけたまま、震える声で言った。
「だめじゃない」
「そうだ」
「お兄さん、だめじゃない」
「そうだ」
「お風呂はだめ」
「そうだ」
「一緒のベッドも、基本だめ」
「そうだ」
「でも、ご飯はいい」
「いい」
「遊ぶのもいい」
「いい」
「髪も、場所を選べばいい」
「そうだ」
「怖い時、そばにいてもらうのもいい」
「いい」
「抱きつくのも、聞いたらいい」
「そうだ」
レトは、ぎゅうっと力を込めた。
「いっぱい、いいの残ってる」
ジェレミーは短く答えた。
「残っている」
レトの目から、ぽろっと涙が落ちた。
でも、昨日のような大泣きではなかった。
不安が抜けていく涙だった。
「わたし、昨日、全部だめになるかと思った」
「ならない」
「女の子だから、お兄さんから離されるのかと思った」
「違う」
「進むと、遠くなるのかと思った」
ジェレミーは、少しだけレトの背中に手を置いた。
「遠くするためではない。お前が、自分で近づき方を選べるようにするためだ」
レトは顔を上げた。
「近づき方」
「そうだ」
「わたしが選ぶ?」
「そうだ」
「お兄さんも選ぶ?」
「そうだ」
「二人で?」
「そうだ」
レトは少し考えた。
そして、泣き顔のまま笑った。
「じゃあ、抱きつき作戦は、共同作戦?」
ロジーが耐えきれずに机を叩いた。
「作戦名きた!」
副長が目を閉じた。
「来ましたね」
エルが小さく手を挙げる。
「作戦には、確認がいる」
レトはぱっとエルを見た。
「そう! 確認がいる!」
ロジーはデバイスを展開した。
「作戦名、どうする? 『お兄さん抱きつき許可確認作戦』?」
レトは真剣に悩んだ。
「長い」
「じゃあ、『ぎゅー確認作戦』」
「かわいい!」
エルが頷いた。
「ぎゅー確認」
副長が穏やかに言った。
「正式書類には載せませんよ」
ロジーは即答した。
「女子会議事録には載せます!」
「公開範囲は?」
「三人と局長と副長と生活班!」
「広い」
「じゃあ、三人と局長と、あとプリン」
「プリンに閲覧権限はありません」
「プリンは関係者だよ! 今日ずっと見守ってた!」
レトがジェレミーから少し離れ、慌てて席に戻った。
「プリン!」
プリンはまだあった。
レトはスプーンを手に取り、深刻な顔でプリンを見る。
「待っててくれたの?」
ロジーがすかさず記録しようとして、ジェレミーを見る。
ジェレミーは何も言わなかった。
ロジーは小さく記録した。
『プリン、境界教育中のレトを待機』
副長が覗き込む。
「公開範囲」
ロジーは胸を張る。
「本人だけ閲覧!」
「よろしい」
レトはプリンを一口食べた。
そして、ぱっと顔を明るくした。
「おいしい!」
ロジーが両手を上げる。
「レト復活!」
エルも小さく拍手した。
「プリン、勝った?」
レトは口の中のプリンを飲み込んで、首を振る。
「違うよ、エル」
「違う?」
「プリンはね、勝ち負けじゃないの」
「じゃあ、なに?」
レトは真剣に言った。
「味方」
食堂班の職員が厨房の奥で肩を震わせた。
ジェレミーはコーヒーを手に取る。
副長は薄く笑う。
ロジーは記録する。
エルはプリンを見て、小さく頷く。
「味方」
レトはもう一口プリンを食べた。
その後、ちらっとジェレミーを見る。
「お兄さん」
「何だ」
「ご飯のあと、少し遊んでいい?」
「何をする」
「確認の練習」
「抱きつく練習か」
「うん」
「何度もはしない」
「三回」
「一回」
「二回」
「一回」
「一回半」
ジェレミーは少しだけ眉を動かした。
「抱きつきに半分はない」
レトは真剣に考えた。
「じゃあ、一回長め」
「普通の一回だ」
「普通の一回ってどれくらい?」
副長が端末を開きかけた。
ジェレミーが言った。
「測定するな」
副長は端末を閉じた。
ロジーが小声で笑った。
レトは、プリンを食べながら、また少し安心した顔になった。
全部だめになったわけではない。
線は増えた。
でも、線の外に追い出されたわけではない。
線の引き方を覚えれば、近づける。
聞いていい。
断っていい。
待ってもらっていい。
抱きついていい時もある。
お兄さんは、遠くなったのではない。
レトが、自分の足で近づく練習を始めただけだった。
食後。
レトは食堂の端に立ち、深呼吸した。
ジェレミーはその前に立つ。
ロジーは少し離れた席で、デバイスを構えている。
エルは隣で見ている。
副長はさらに後ろで、明らかに面白がっている。
レトは真剣な顔で言った。
「お兄さん」
「何だ」
「今、抱きついていいですか」
ロジーが目を見開く。
「敬語!」
副長が小さく笑う。
「緊張していますね」
ジェレミーは答えた。
「いい」
レトは一歩近づいた。
途中で止まる。
「武器、抜いてない?」
「抜いていない」
「お仕事中じゃない?」
「今は違う」
「嫌じゃない?」
「嫌ではない」
レトは、ほっとした顔で笑った。
「じゃあ、ぎゅーします」
「しろ」
レトは抱きついた。
今度は、勢いではなかった。
ちゃんと近づいて、ちゃんと腕を回して、ちゃんと相手の反応を待つような抱きつきだった。
ジェレミーは、片手で背中を支えた。
レトは目を閉じる。
「できた」
「そうだ」
「わたし、ちゃんと聞けた」
「できた」
「えらい?」
「えらい」
レトは嬉しそうに笑った。
ロジーはデバイスに記録名を入力する。
『ぎゅー確認作戦・第一回成功』
少し考えて、補足を入れた。
公開範囲:本人たち、ロジー、エル。
副長は見ていたので既読扱い。
副長が言った。
「既読扱いとは」
ロジーは胸を張った。
「見てたから!」
エルはぽつりと言った。
「確認してから、近づく」
レトはジェレミーに抱きついたまま、こくんと頷いた。
「うん」
エルは少し考えて、レトに両手を向けた。
「レト。あたしも、ぎゅーしていい?」
レトはぱっと顔を上げた。
「いい!」
そして、すぐに言い直した。
「あ、待って。今、お兄さんにぎゅーしてるから、順番!」
エルは頷いた。
「順番」
ロジーが勢いよく手を挙げる。
「私も予約!」
レトは笑った。
「ロジーも!」
ジェレミーは静かに言った。
「食堂の通行を塞ぐな」
三人は同時に答えた。
「はーい!」
レトの声は、もう震えていなかった。
境界線は、まだ少し怖い。
でも、その線の向こうには、消えた愛情ではなく、守られた愛情があった。
レトはそれを、少しだけ覚えた。
そしてその日の午後、女子会空間に新しい貼り紙が増えた。
『ぎゅーは確認してから』
その下に、レトの字で小さく追記がある。
『だめって言われても、嫌われたわけじゃない』
さらにその下に、ロジーの字。
『でも、いいって言われたら超うれしい』
最後に、エルの字。
『順番』




