第68話-どうして一緒にお風呂入っちゃダメなの!!?
箱庭の娘たち、特にレトは身体と情緒の発達が別。
ロジーはちっちゃいけど大人たちより長生き。
エルは宇宙より長生き。
レトは、二人より大きいけど一番若い。
だから、心は誰より子供なの。
「どうして!!!」
惑星監理局、生活区画。
浴室前の廊下に、レトの声が響いた。
「どうしてお兄さんとお風呂入っちゃいけないの!!!!」
完全な大泣きだった。
淡緑の長い髪を左側で結んだまま、レトはタオルを抱きしめ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「前は一緒だったのに……!!」
しゃくりあげる。
「なんでぇ……」
廊下の端で、生活班の女性職員が困った顔をしている。
医療班の職員もいる。
副長もいる。
そして、少し離れたところにジェレミー・クリエットが立っていた。
ジェレミーはいつものように、声を荒げなかった。
「レト」
「いや!」
レトは即答した。
「お兄さん、だめって言った!」
「言った」
「じゃあいや!」
「理由を聞け」
「聞いたらだめが増えるもん!」
ロジーが廊下の曲がり角から顔を出した。
「うわ、すごい泣いてる」
「ロジー!」
レトは泣きながら振り向いた。
「ロジーも言って! お兄さんとお風呂入っていいって!」
ロジーは一瞬で真顔になった。
「それは無理」
「なんでぇ!!」
「無理なものは無理!」
ロジーは両手でばつ印を作った。
「レト、それは情緒の問題としては分かるけど、生活倫理と身体境界の問題として無理!」
「わかんない!」
「だよね!」
ロジーは勢いよく頷いた。
「分かんないよね! だから泣いてるんだよね!」
「うん!!」
「でも無理!」
「ロジーのばかぁ!」
ロジーは胸を押さえた。
「今のはちょっと刺さった!」
エルもいつの間にか来ていた。
白髪のボブを揺らし、浴室前の表示を見上げている。
「お風呂は、戦場?」
副長が微笑んだ。
「今のところ、情緒的にはそうですね」
エルはレトを見る。
「レト、負けてる?」
「負けてない!」
レトは泣きながら叫んだ。
「わたしは、お兄さんとお風呂入りたいだけ!」
その言葉に、生活班の職員たちが少しだけ視線を落とした。
笑えない。
かわいいわがままではある。
けれど、ただ笑って済ませる話ではなかった。
レトが言う「前」は、監理局に保護されたばかりの頃のことだ。
あの頃のレトは、ジェレミー以外の大人に過剰に緊張していた。
生活班が近づくだけで固まり、医療班の検査で泣き、知らない職員がタオルを差し出すだけで、青白い硝子片が床に散った。
だから、最初の身の回りの世話はジェレミーがした。
食事。
着替え。
怪我の手当。
眠る前の確認。
そして、入浴の補助。
それは甘やかしではなかった。
保護だった。
レトがまだ、監理局という場所を安全だと信じられなかった頃。
ジェレミーだけが、レトにとって「怖くない大人」だった。
だから許された。
だから必要だった。
けれど、今は違う。
レトは監理局の廊下を走れる。
職員さんと呼べる相手が増えた。
生活班の女性職員に髪を乾かしてもらえる。
医療班に痛いところを言える。
ロジーやエルと女子会ができる。
戦闘班として任務に出て、帰ってきて、報告できる。
できることが増えた。
だから、できなくなることも増えた。
それが、レトには分からなかった。
「やだ……」
レトはタオルをぎゅっと握った。
「できること増えたら、いいこと増えるんじゃないの……?」
声が小さくなる。
「なんで、できないこと増えるの……?」
ジェレミーは、そこでようやく歩いた。
レトの前まで来て、膝をつく。
目線を合わせる。
「レト」
「……やだ」
「お前を遠ざけているわけではない」
「遠ざけてる」
「違う」
「だって、お兄さん、来ない」
「行かない」
その言い方は、優しかった。
でも、揺れなかった。
レトの顔がまた歪む。
「ほらぁ……」
「私は、お前の身体をお前のものにするために行かない」
レトは泣きながら瞬きした。
「……からだ?」
「そうだ」
ジェレミーは短く言った。
「前は、お前が自分で選べなかった。怖がっていた。誰に頼ればいいか分からなかった。だから私が手伝った」
「うん……」
「あれは必要な世話だった」
「うん」
「今のお前は違う」
レトは、何か言おうとして口を閉じた。
ジェレミーは続ける。
「今のお前は、嫌なことを嫌だと言える。生活班の職員に頼める。自分でできることも増えた。なら、私が同じ場所に入り続ける理由はない」
「でも、わたしは嫌じゃない!」
「今はな」
レトは息を詰まらせた。
ジェレミーの声は静かだった。
「今のお前が嫌ではなくても、これからのお前が嫌になるかもしれない」
「ならない!」
「なるかもしれない」
「ならないもん!」
「それを、今の私が決めてはいけない」
レトは言葉をなくした。
ジェレミーは、レトのタオルを握る手を見た。
「身体の世話には、線がある。親しい相手でも越えない線だ。保護者でも、育てた相手でも、局長でも同じだ」
「お兄さんでも?」
「私でもだ」
その言葉は、レトにとって一番痛かった。
お兄さんでも。
お兄さんなら大丈夫。
お兄さんなら特別。
お兄さんなら何でもいい。
そう思っていた場所に、静かに線が引かれた。
レトはぼろぼろ泣いた。
「わたし……女の子だから?」
ジェレミーは少しだけ黙った。
ロジーも黙った。
副長も、生活班の職員も、誰も口を挟まなかった。
ジェレミーは答えた。
「それも関係する」
レトの肩が震える。
「やだ……」
「だが、それだけではない」
ジェレミーは続けた。
「男だから、女だから、というだけでお前を分けたいわけではない。身体を見せること、触れられること、世話をされることには、相手と場面を選ぶ権利がある。それを覚えるためだ」
「けんり……」
「お前が断るための力だ」
レトは顔を上げた。
「断るため?」
「そうだ」
「お兄さんが、入らないことが?」
「お前がいつか、誰かに嫌だと言うための練習になる」
ジェレミーは、レトの目をまっすぐ見た。
「私が例外になり続ければ、お前は“好きな相手なら線を越えてもいい”と覚えるかもしれない」
レトは、ゆっくり首を横に振った。
「お兄さんは、嫌なことしないもん」
「私はしない」
ジェレミーは即答した。
「だが、お前が世界で出会う全員が私ではない」
レトは固まった。
それは、レトにとって難しい言葉だった。
お兄さんは安全。
お兄さんは優しい。
お兄さんは怖くない。
でも、世界の全員がお兄さんではない。
その当たり前が、突然とても冷たく聞こえた。
レトは小さく言った。
「……じゃあ、女の子になると、怖いこと増えるの?」
ロジーが小さく息を吸った。
副長の目が、少しだけ細くなる。
エルは、じっとレトを見ていた。
ジェレミーは言った。
「怖いことを増やさないために、境界を覚える」
レトは泣きながら聞いていた。
「自分の身体は自分のものだ。誰に見せるか、誰に世話を頼むか、誰を近づけるか。それをお前が選ぶ」
「お兄さんは?」
「私は、お前が選べるようになるまで待つ側だ」
「待つ……」
「必要なら廊下で待つ。呼ばれたら返事をする。怖くなったら生活班を呼ぶ。終わったら髪を乾かす手伝いはできる。茶も用意する」
レトの涙が少し止まった。
「髪……乾かしてくれる?」
「それはできる」
「お風呂のあと?」
「お前が望むならな。場所は脱衣室の外か、生活班の待機室だ」
「お兄さん、待ってる?」
「待つ」
「どこにも行かない?」
「行かない」
レトは、また泣いた。
でも、今度の泣き方は少し違った。
大声ではなかった。
ぐずぐずと、子供みたいに鼻をすすりながら、タオルに顔を埋めた。
「……やだ」
「そうか」
「でも、分かったかも」
「そうか」
「でも、やだ」
「それでいい」
ジェレミーは手を伸ばし、レトの頭を軽く撫でた。
「嫌だと思っていい。納得に時間がかかっていい。だが、規則は変えない」
「お兄さん、冷たい……」
「そうだな」
「冷たいけど、行かないで」
「行かない」
レトはしばらく黙っていた。
やがて、生活班の女性職員をちらっと見る。
「……職員さん」
「はい」
「髪、あとで絡まったら助けて」
女性職員の表情が、ふっと柔らかくなった。
「もちろんです」
「あと、怖くなったら呼んでいい?」
「はい。すぐ行きます」
「お兄さんも返事して」
ジェレミーが頷く。
「する」
「扉の外から?」
「扉の外から」
「絶対?」
「絶対だ」
レトは、ぐしぐしと目元を拭いた。
そして、まだ不満そうな顔のまま、浴室の入口へ向かった。
三歩進んで、振り返る。
「お兄さん」
「何だ」
「わたし、えらい?」
ジェレミーは一拍置いた。
「えらい」
レトの顔が少しだけ崩れた。
泣きそうで、嬉しそうで、でもまだ納得しきれていない顔。
「……終わったら、プリン食べたい」
「用意する」
「二個」
「一個だ」
「今、わたし、がんばってるのに」
「一個半」
レトは涙で濡れた顔のまま、真剣に考えた。
「……半分は?」
「私の分を半分渡す」
その瞬間、ロジーが口を押さえた。
「局長のプリン譲渡……これは強い……」
副長が穏やかに言う。
「記録区分は?」
ロジーは即答した。
「レトの情緒回復補助記録。公開範囲、本人たちと生活班!」
「よろしい」
エルは小さく頷いた。
「プリンは、境界を越えられる?」
ジェレミーは答えた。
「越えない。分けるだけだ」
エルは少し考えた。
「分けるのは、いいね」
「そうだな」
レトは浴室の入口で、もう一度だけジェレミーを見た。
「お兄さん」
「何だ」
「前のこと、なくならない?」
ジェレミーの表情は変わらなかった。
でも、声は少しだけ柔らかかった。
「なくならない」
「前は一緒だったこと」
「必要だった。大事な時間だった。それは変わらない」
「じゃあ、だめになったんじゃなくて……終わった?」
「そうだ」
ジェレミーは言った。
「あの世話は終わった。お前が進んだからだ」
レトは、唇をぎゅっと結んだ。
そして、泣きそうな声で言った。
「進むの、ちょっとやだ」
「そうか」
「でも、進んだら、お兄さんが待っててくれる?」
「待っている」
「じゃあ……進む」
その言葉を言うのに、レトはとても時間をかけた。
言い終わったあとも、不満そうだった。
寂しそうだった。
でも、浴室の中へ入っていった。
扉が閉まる。
数秒後。
中から、レトの声がした。
「お兄さん!」
ジェレミーは即座に答えた。
「いる」
「ほんとにいる?」
「いる」
「ロジーも?」
「いるよー!」
「エルも?」
「いる」
「副長は?」
副長は微笑んだ。
「おりますよ」
少し間が空いた。
「……副長は、なんでいるの?」
ロジーが吹き出した。
副長は穏やかに答えた。
「見守りです」
「見守りなら、ちょっと遠くにいて」
「承知しました」
副長は本当に三歩下がった。
ロジーは腹を抱えて笑いそうになりながら、必死に声を抑えた。
エルは廊下の床に座り、扉を見ている。
「レト、進んでる」
ジェレミーは壁際に立ったまま答えた。
「そうだ」
「進むと、泣く?」
「泣くこともある」
「でも、待ってる人がいる」
「そうだ」
エルは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、進むのは、ひとりじゃないね」
ジェレミーは答えなかった。
ただ、扉の向こうでまたレトが呼んだ。
「お兄さん!」
「いる」
「プリン、一個半、忘れないでね!」
「忘れない」
「あと、髪!」
「分かっている」
「あと、えらいってもう一回言って!」
ジェレミーは、ほんのわずかに息を吐いた。
「えらい」
扉の向こうで、レトが小さく笑った。
まだ泣き声混じりだった。
でも、笑った。
ロジーはそっとデバイスを起動し、記録名を入力した。
『レト、境界を覚えた日』
少し考えて、消す。
そして書き直す。
『お兄さんが外で待っていた日』
そっちの方が、レトらしい気がした。




