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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第67話-旧世代『剝擗』

惑星監理局の朝食に、プリンは一つしかつかない。


その事実を、レトはまだ完全には受け入れていなかった。


「一個、二個、三個……」


配膳台の前で、淡緑の髪を揺らしながら数える。


トレーに載せられたプリンは、確かに三つあった。


「今日は三個?」


食堂班の職員が答えた。


「レトさんの分は一個です」


「でも、三個あるよ」


「後ろの二つは、職員の分です」


レトは配膳台の向こうを見た。


朝食を受け取るため、二人の職員が並んでいる。


二人とも、プリンを見ていた。


レトはしばらく考えたあと、神妙に頷いた。


「……職員さんも、プリン食べたいよね」


「食べたいです」


「じゃあ一個でいい」


「ありがとうございます」


「プリンはみんなのものだからね」


その横で、ロジーの頭上デバイスが軽快な記録音を鳴らした。


「本日の朝食記録! レト、配膳台上に三個のプリンを発見するも、職員さんの所有権を尊重! えらい!」


「えへへ」


「ただし最初の三秒、目が戦闘班だった!」


「なってないよ!」


「なってた。プリンの配置と防御を確認する目だった」


「してないもん!」


頬を膨らませながら、レトは自分のトレーを運んでいく。


ロジーは笑いながら、その後ろ姿まで記録した。


向かいの席には、エルがいた。


白いボブの毛先を淡い桃色に染めた小さな少女は、スプーンを持ったまま、プリンをじっと見ている。


「エル、食べないの?」


レトが聞く。


「見てる」


「なにを?」


「やわらかい」


エルはスプーンの背で、表面をそっと押した。


プリンが沈む。


手を離す。


ぷるん、と元へ戻った。


エルの琥珀色の目が、わずかに丸くなる。


「反抗した」


ロジーのデバイスが即座に反応する。


「記録! エル、プリンの弾性を反抗と認識!」


「ロジー、それ書くの?」


「重要記録だよ!」


「プリンは反抗してないよ」


レトはエルのプリンへ顔を近づけた。


「プリン。エルは初めてじゃないけど、まだプリンのことを勉強中だから、びっくりさせちゃだめだよ」


食堂班の職員が、何かに耐えるように厨房へ戻っていった。


いつも通りの朝だった。


食堂には食器の音があり、廊下には交代勤務の職員が行き交い、情報班では夜間記録の引き継ぎが始まっている。


硝子玉の宇宙は、その日も閉じていた。


巨大な硝子の壁に囲まれた宇宙。


その内側には惑星があり、文明があり、魔術があり、惑星監理局があり、朝食のプリンがある。


誰もが、それを空として生きていた。


その空が、音もなくめくれた。



最初の異常は、外縁観測網に現れた。


監視室を覆う星図の端で、硝子玉の宇宙の境界を示す円環が白く反転する。


担当職員が操作卓へ身を乗り出した。


「外縁壁面に接触反応」


「発生位置は」


「第七隔絶層。外側です」


「攻撃か?」


「衝撃なし。熱量変化なし。空間振動も――」


報告が途切れた。


画面上の解析値が、一斉に意味を失ったからだ。


魔力波形として記録された数列が、途中から文字へ変わる。


文字は意味へ変わる前に剥落し、白い空欄だけを残した。


低い警告音が鳴った。


「旧世代反応」


監視室から、人の声が消えた。


「名称照合」


「該当なし」


「壁面状況を表示」


観測映像が正面へ展開される。


誰かが息を呑んだ。


硝子玉の宇宙の壁が、剥がされていた。


砕かれたのではない。


穿たれたのでもない。


透明な壁の一部が、薄い皮膜となって持ち上がっている。


端からゆっくりとめくれ、その下に隠されていた外側が露出していく。


深い黒。


光の届かない距離。


硝子玉の宇宙とは異なる、現実の宇宙。


隔絶されていたはずの外側が、傷口のように開いていた。


警報が監理局全域を走る。


旧世代反応。名称不明。


外縁壁面剥離。第一警戒態勢へ移行。


全職員、指定配置。


食堂の照明が赤へ切り替わった。


レトが椅子を蹴るように立ち上がる。


「なに!?」


ロジーの頭上デバイスには、複数の警告と閲覧制限が重なった。


「旧世代反応……? 名前も取れてないの?」


エルだけが動かなかった。


スプーンを持ったまま、顔を上げている。


廊下の向こうではない。


天井の向こうでもない。


この宇宙の外側から届く何かへ、耳を澄ませるように。


「エル?」


レトが呼んだ。


エルは少し遅れて答えた。


「旧い」


「知ってるの?」


「知らない」


食堂の扉が開いた。


監理班職員と戦闘班員が入ってくる。


「三名は中央保護経路へ移動してください」


レトはすぐに首を振った。


「わたし、戦闘班だよ」


「出動命令はありません」


「でも――」


壁面の通信表示が点灯した。


ジェレミーの声が届く。


『レト』


「お兄さん!」


『現在、旧世代存在が監理局本棟へ接近している。指示があるまで攻撃するな』


「わたしも行く」


『待機しろ』


レトは口を結んだ。


命令には従う。


けれど、エルとロジーを残して離れるつもりはない顔だった。


ジェレミーの指示が続く。


『エルはこちらへ来い』


エルは立ち上がった。


そのまま歩き出すかと思われたが、レトとロジーを見た。


「ジェレミー」


『何だ』


「二人も、一緒がいい」


一瞬の沈黙。


『理由を言え』


エルは胸元へ手を置いた。


「あたし一人だと、旧い方になる」


ロジーがエルを見る。


レトも、息を止めた。


「レトとロジーがいると、あたしはエルでいられる」


通信の向こうで、判断が行われる。


危険性。


必要性。


三人を切り離すことによって生じる、別の危険。


『許可する』


レトの顔が明るくなった。


『ただし、命令に従え。レトはエルとロジーの防護を最優先。独断攻撃は禁止する』


「うん!」


『ロジーは能力を使用するな。自動記録も停止しろ』


「了解」


ロジーの声から、いつもの軽さが消える。


『エル。無許可の魔法行使は禁止だ』


「分かった」


『撤退命令には即時従え』


三人の返事が重なった。



中央前庭には、すでに戦闘班が展開していた。


局舎側を守る重装隊員。


射線を空へ向けた魔術砲撃担当。


いつでも割り込める位置に立つ近接戦闘員。


誰も撃たない。


だが、誰も武器を下ろしてはいなかった。


前庭の中央には副長が立っていた。


いつもの薄い笑み。


その少し後ろにジェレミー。


腰には一丁のハンドガン。


エルは二人のところまで歩き、そこで止まった。


右にレト。


左にロジー。


三人は並んだまま、空を見上げる。


外縁の裂け目から、何かが降りてきた。


人型に見えた。


少なくとも、最初は。


細く長い身体を覆うものは、布ではなかった。


薄い皮膚。


古い紙。


記録の表紙。


壁画から剥がれた色。


乾いた涙の跡。


誰かが飲み込んだ言葉。


真実の上へ重ねられた建前。


あらゆるものの表面だけを剥ぎ取り、人の形へ垂らしたような姿。


顔には目と口がある。


だが、表情という覆いが存在しない。


それが前庭へ足を置いた瞬間、床の表面がめくれた。


石材の下に埋められた補強術式。


魔力導線。


何度も改修された床の古い層。


長い年月の間に覆い隠されていたものが、白日の下へ露出する。


副長が一歩前へ出た。


「惑星監理局副長です。来訪目的を確認します」


存在の視線が、副長へ向いた。


薄い笑みの下にある疲労。


警戒。


対象の能力を測る計算。


そして、異常事態をわずかに面白がっている感情。


それらが皮膚の表面へ浮かびかけた。


副長の笑みが少しだけ薄くなる。


「他者の内面へ無断で触れることは、当局では認められていません」


「内面ではない」


声が響く。


耳から入ってきた音ではなかった。


意味が、直接空間へ置かれた。


「では、何でしょう」


「覆われていたものだ」


「本人が覆っているものです」


「だから剥がせる」


副長は返答せず、相手の言葉を記録する。


許可。


所有。


個人の境界。


そうした概念によって止まる相手ではない。


存在が名乗った。


「Mi estas senkovriga disŝiro.」


監理局の翻訳装置が激しく明滅した。


一つの言葉へ固定できない。


複数の近似訳が、重なりながら表示される。


覆いを剥がす裂開。


閉じた表面を開くもの。


隠された内側へ触れる存在。


最後に、管理用の短い訳語が残った。


剝擗。


副長が呼ぶ。


「剝擗」


「それは名ではない」


「人間語での呼称です」


「名から剥がれた、小さな音だ」


「交渉上は十分です」


剝擗の視線が、副長を離れた。


ジェレミーを通り過ぎ、三人の中央に立つ少女へ向かう。


空間が軋んだ。


剝擗が呼ぶ。


「elkore_felico」


その瞬間、前庭を覆う結界に無数の亀裂が走った。


硝子玉の宇宙全体が、呼ばれた名前へ反応する。


エルの輪郭が揺れる。


白い髪。


小さな身体。


人間の服。


それらが一瞬だけ、巨大な何かの表面へ貼りつけられた像のように見えた。


レトが右腕を支える。


ロジーが左の袖を掴んだ。


エルは二人の温度を確かめてから、剝擗を見た。


「その名前で呼ばないで」


「それはお前だ」


「うん。でも、ここではエル」


「皮だ」


「橋」


「名を覆う、小さな音だ」


「人間が、あたしを呼ぶための名前」


「呼ばれる必要があるのか」


「ある」


エルは、レトとロジーの間に立っている。


「ここにいるから」


剝擗は、エルという名を理解しようとはしなかった。


否定しているのでもない。


必要のないものとして見ている。


旧世代にとって、名前は存在そのものだ。


その上へ何を重ねても、内側にある真名が変わることはない。


剝擗の視線が、レトへ移る。


「小さい硝子」


レトが眉を寄せた。


「レトだよ」


「彗星から剥がれたもの」


「生まれたの」


「同じだ」


「違うよ」


レトの答えに迷いはない。


剝擗にも訂正する意思はなかった。


次に、ロジーを見る。


「記録するもの」


ロジーの肩が強張った。


「……なに」


「その窓は閉じている」


ロジーの指が、無意識に目元へ触れた。


「閉じてる」


声は小さい。


だが、はっきりしている。


「私が閉じた」


「閉じているものは剥がせる」


レトが半歩、ロジーの前へ出た。


「だめ」


エルも言った。


「触らないで」


剝擗は二人を見なかった。


「それを剥がしに来たのではない」


ロジーは目元から手を離さない。


「じゃあ、どうして知ってるの」


「開いていた時に見た」


「私の窓を?」


「窓辺のさざ波が、お前の目を窓にした」


ロジーは、聞き慣れない言葉に瞬いた。


「……窓辺のさざ波?」


「お前の目を通して、人間を見ていたものの名だ」


それが、あの旧世代の名前。


ロジーは今、初めて知った。


遠い記憶が、胸の奥で震えた。


誰かの目を窓にして、人間を見る。


旧世代が立ち去った価値のある宇宙になったのかを、遠くから確かめる。


ロジーは条件を決めた。


自分が閉じたい時には閉じる。


見せたくないものは見せない。


最後には、自分で窓を閉じた。


剝擗は続ける。


「あの窓が開いた時、私は向こうにいた」


「窓辺のさざ波と一緒に?」


「違う。開いたものがあった。だから見た」


それだけだった。


剝擗にとって窓辺のさざ波の行為も、ロジーの恐怖も、その後に閉じられたことも、一つの現象として並んでいる。


ロジーが尋ねる。


「何を見たの」


「人間」


剝擗の目が、ロジーから離れる。


「歩いていた。作っていた。記録していた。隠していた。生まれていた。死んでいた」


窓の向こうにあった硝子玉の宇宙。


旧世代が立ち去ったあとも、人間たちは宇宙を使い続けていた。


そして、人間の間に。


「名前があった」


剝擗の視線が、エルへ戻る。


「elkore_felico」


エルは静かに受け止めた。


「本当の幸せが、止まっていた」


「止まってない」


「願いを聞き、叶えない。痛みを見て、消さない。失われたものを、戻さない」


「うん」


「短い名を使う。規則に従う。許可を求める。人間の言葉を、名より前へ置く」


「うん」


「名を封じていた」


「封じてない」


「封じている」


「選んでる」


両者の言葉は、同じ場所へ届かない。


剝擗にとって、名の働きを抑えることは、名の上へ覆いを重ねることだった。


エルにとっては違う。


名を捨てているのではない。


本当の幸せが何なのか、自分だけで決めないために止まっている。


ジェレミーが口を開いた。


「それを見て、ここへ来たのか」


「そうだ」


「何のために」


「覆われた名を見るために」


「エルが存在しているか、確かめるためか」


「名が残っているかを見るためだ」


「結果は」


「残っている」


剝擗にとって、話はそれで完結していた。


窓の向こうに、真名を覆った旧世代がいた。


覆われたものがあった。


だから宇宙の壁を剥がし、直接見に来た。


レトが、剝擗を見上げる。


「エルがいなくなってるかもしれないって、思ったの?」


「名が見えなかった」


「だから、ここまで来たの?」


「覆いを剥がして確かめるために」


「エルがちゃんといるか、見たかったんだよね」


「名が残っているかを見た」


レトは少し考えた。


剝擗の言葉を、ひとつずつ自分の中へ並べ直す。


遠い場所から見た。


エルが、エルではないものになっているように見えた。


それで、宇宙の壁まで剥がして会いに来た。


レトは、ぱっと顔を上げた。


「それ、エルが心配だったんだ」


剝擗は答えなかった。


拒絶でも、同意でもない。


初めて置かれた言葉を、その形のまま見ている。


「心配」


「うん」


レトはエルの腕を握ったまま言う。


「エルがいなくなってたら嫌だから、ちゃんといるか見に来たんでしょ」


「嫌かどうかは考えていない」


「でも来たよ」


「覆われていたからだ」


「うん。それを人間は、心配って言うことがあるよ」


剝擗の表情は変わらない。


そもそも、変わるための表面がない。


「その言葉は、人間の側にある」


「うん」


レトはまっすぐ頷いた。


「わたしたちから見たら、心配だったよ」


剝擗は否定しなかった。


受け入れたわけでもない。


ただ、その言葉を剥がそうとはしなかった。


エルが、剝擗を見た。


「剝擗」


「何だ」


「あたし、いるよ」


「見た」


「うん」


それだけの会話だった。


けれど、剝擗が遠い宇宙からここまで来た理由に対する返事としては、それで十分だった。


剝擗はエルの左右を見る。


レト。


ロジー。


その後ろにいるジェレミー。


武器を構える戦闘班。


監理局の壁。


規則。


許可。


積み重なった生活。


「剥がせば、本当の幸せだけが残る」


剝擗が言った。


「残らないよ」


「残る」


エルはレトの手に自分の指を重ねた。


反対側では、ロジーの袖を小さく摘まむ。


「これも、あたしだから」


「貼られたものだ」


「貼ったのも、あたし」


「名ではない」


「名だけが、あたしじゃない」


剝擗は納得しなかった。


エルも、納得させようとはしなかった。


名前だけで存在するもの。


名前の上へ関係を重ね、それも自分だと言うもの。


同じ旧世代でありながら、二人は互いに異なる場所へ立っていた。


剝擗の視線が、ジェレミーへ向く。


「外から来た人間」


「そうだ」


「お前も重ねている」


局長。


管理者。


戦闘者。


保護者。


冷たい表情。


誠実さ。


長い年月。


帰れない者。


そうしたものが、幾重にもジェレミーを覆っている。


エルが僅かに前へ出た。


「ジェレミーを剥がさないで」


「構わない」


ジェレミーが答えた。


「ジェレミー」


「私が選ぶ」


剝擗はジェレミーを見る。


「許可も覆いだ」


「それでも、私の意思だ」


剝擗の視線が深くなる。


ジェレミーの内側にあるものが、静かに露出していく。


現実の宇宙。


長い航行。


失われた役割。


硝子の壁。


帰還不能。


惑星監理局。


局長室。


職員たち。


レト。


ロジー。


エル。


そして、遠い昔に残された、帰りたいという感情。


「戻れる」


剝擗が言う。


空には、剥がされた硝子玉の宇宙の壁が開いている。


その向こうには、ジェレミーが生まれた現実の宇宙がある。


「可能性はあるだろう」


「なら、戻ればよい」


「戻らない」


「帰りたいがある」


「ある」


「外に、お前の過去がある」


「ある」


「なぜ閉じる」


ジェレミーは、エルたちを見なかった。


見なくても、そこにいると知っている。


「私の今が、ここにある」


剝擗はジェレミーの内側を見た。


表面の言葉の下に、別の答えはなかった。


帰りたいという残滓はある。


しかし、現在を捨てて帰ろうとする意思ではない。


「内側にも、同じものがある」


「そうだ」


確認は終わった。


剝擗は空を見上げる。


剥がされた壁の向こうから、外側の宇宙が覗いている。


通信に切迫した声が入った。


『外縁壁面の剥離が拡大! 第二隔絶層に変形が波及しています!』


ジェレミーが剝擗へ告げる。


「壁面を戻せ」


「戻さない」


「このままでは、内側の生命が危険に晒される」


「知っている」


「なら止めろ」


「私は剝擗だ」


剝擗は、人間が死ぬことを知らないのではない。


覆いが生命を守る場合があることも、理解できないわけではない。


それでも、名前を自分より後ろへ置くことはない。


「見ることは終わった」


剝擗は言った。


「私は去る」


「壁はどうする」


「剥がしたものは残る」


副長が静かに問う。


「今後、再び来訪する可能性は」


「覆われたものがあれば」


「交渉の余地はありませんか」


「私は剝擗だ」


副長は薄い笑みを戻した。


「承知しました」


納得ではない。


次に来た時も、止めるという意味の返答だった。


剝擗がエルを見る。


「elkore_felico」


「エル」


「名は残っている」


「うん」


「また覆われれば、また見る」


「壁を剥がさないで」


「覆われていれば、剥がせる」


「やだ」


「それは、お前の拒絶だ」


「うん。その時も言う」


剝擗の視線が、一瞬だけレトへ移る。


レトは腕を組んだ。


「心配でも、次は入口から来て」


「入口も覆いだ」


「じゃあ職員さんに聞いて!」


「許可も覆いだ」


「もう!」


レトが頬を膨らませた。


剝擗は何も答えない。


笑いもしない。


だが、レトから視線を外すまで、僅かな間があった。


剝擗は空へ歩き出した。


一歩で前庭を離れ。


二歩で裂け目へ入り。


三歩目は、外側の黒へ消えた。


残されたのは、剥がされた宇宙の壁と、世界の端へ走る白い傷だけだった。



剝擗の反応が完全に消失してから、監理局は壁面の調査へ移った。


外部物質の流入。


座標のずれ。


残留する旧世代反応。


内側の生命への影響。


複数の班が、同時に確認を進める。


しばらくして、技術班から報告が入った。


『剥離した壁面そのものは残っています。元の位置へ戻す場合、現状では重大な二次反応は予測されません』


ジェレミーはエルを見る。


エルは、開いた宇宙の外側を見上げていた。


「あたし、閉じていい?」


「作用範囲は」


「壁だけ」


「内部への干渉は」


「しない」


「元の状態へ戻せるか」


「うん」


ジェレミーは短く頷いた。


「許可する」


次の瞬間。


空は閉じていた。


縫い合わされる過程はない。


剥がされた膜が動く様子もない。


ただ、硝子玉の宇宙の壁が、剝擗の来訪前と同じ位置へ戻った結果だけが存在した。


現実の宇宙は見えなくなる。


星々は、再び硝子玉の内側の空へ戻った。


ただし、壁面には細い白い線が残っていた。


剥がされた痕跡。


旧世代が、確かに外から訪れた傷跡。



三人は医療班で検査を受けた。


エルの身体情報。


レトの魔力変動。


ロジーのデバイスと認識保護層。


異常がないと確認される頃には、朝食の時間はとっくに終わっていた。


食堂班は、三人分のプリンを取っておいてくれた。


医療班の休憩区画。


小さな机の上に、三つ並んでいる。


ロジーは椅子へ深く座り込み、デバイスを低負荷状態にしていた。


レトはその隣。


エルは向かい側。


しばらく、誰も喋らなかった。


やがてエルが、自分のプリンをスプーンで押す。


ぷるん。


元の形へ戻る。


「反抗した」


「弾性」


ロジーが疲れた声で訂正した。


レトはプリンを見つめながら言う。


「剝擗、また来るかな」


「分からない」


エルが答える。


「心配になったら、また来る?」


「あの子は、心配って思ってないよ」


「でも、心配だったよ」


レトは譲らない。


「エルがいなくなってるかもって思って、遠くから見に来たんだもん」


「うん」


「エルもそう思う?」


エルはプリンを一口食べた。


少しだけ考える。


「剝擗だった」


「答えになってないよ」


「なってる」


エルはもう一口食べた。


剝擗は、覆われたものを見つけたから来た。


人間は、それを心配と呼んだ。


どちらかが間違っているわけではない。


ロジーもプリンを掬う。


「次に来たら、窓じゃなくて玄関から来てもらおう」


「入口も覆いって言ってたよ」


レトが言う。


「じゃあ、どうやって来てもらうの?」


エルは少し考えた。


「来ないでもらう」


ロジーが吹き出した。


レトも笑う。


エルは二人を見て、それから少しだけ口元を緩めた。


三人はプリンを食べた。


閉じた宇宙の内側で。


名前だけではないものを、幾重にも重ねたまま。



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