第66話-魔法『つかわない』訓練
第65話の続き。
エルが魔法をつかわない訓練。
エルが人間と歩むための、人間とコミュニケーションをとるための訓練。
願いを聞いて、叶えない訓練。
旧世代-elkore_felico。
意味は 本当の幸せ
それがエルのほんとうの名前
旧世代は、名前が存在そのもの。
名前に反する行いは、人間にとって呼吸するなと言っているようなものだった。
願いを聞いて、叶えない訓練
それは、エル自身の発案だった。
前回の大規模訓練から数ヵ月。
旧世代言語による魔法行使実験は、監理局の各部署に膨大な課題を残した。
旧世代言語を使えば、対象指定は確かに細かくなる。
範囲も、除外条件も、復元条件も、人間言語よりずっと正確に指定できる。
だが同時に、出力が上がりすぎる。
エルにとって旧世代言語は、便利な操作言語ではなかった。
それは、彼女の本質に近すぎる言葉だった。
だから監理局は、その運用を厳しく制限した。
無人環境。
関係班の文案審査。
危険語の除去。
対象、除外条件、復元条件の明記。
単独使用禁止。
そして、エル本人もそれに従っていた。
監理局の廊下で、エルは相変わらず人間の言葉を使っていた。
「これ、ふわふわ」
「それ、かわいい」
「あたし、たぶん分かった」
「分かってないかも」
「ジェレミー、これ、していい?」
語彙は多くない。
表現もふわふわしている。
けれど、そのふわふわした言葉の方が安全だった。
エルも、それを理解していた。
だからこそ、ある日の会議で、エルは言った。
「次の訓練、したい」
第七会議室。
遮音術式。
記録制限。
外部干渉遮断。
魔力残滓分解。
席には、ジェレミー、 副長、魔術制御部長、精神保護室長、倫理監査主任、医療班主任、技術班長、生活班長、戦闘班長、情報班主任が揃っていた。
エルは中央の小さな椅子に座っている。
いつものように、足は床に少し届かない。
ジェレミーが言った。
「内容を言え」
エルは、少しだけ考えた。
「あたし、願いを聞いて、叶えない訓練をしたい」
会議室の空気が、明確に変わった。
副長の笑みが消える。
魔術制御部長は端末に置いていた手を止めた。
精神保護室長が、ゆっくり顔を上げる。
ジェレミーは、表情を変えなかった。
「理由は」
エルは自分の胸元に手を置いた。
「前の訓練、願いの声で、少し動いた」
「そうだ」
「でも、あれは訓練の声だった。合成音声。記録。まね」
「そうだ」
「本当の願いは、もっと近い」
誰も否定しなかった。
エルは続ける。
「人間は、苦しい時に願う。痛い、怖い、寂しい、戻りたい、忘れたい、助かりたい、幸せになりたい」
その言葉は、エルにしては長かった。
人間の言葉で、ゆっくり、頑張って並べていた。
「あたし、それを聞いたら、叶えたい」
倫理監査主任が静かに言う。
「だからこそ、現場ではエルさんを安易に接触させません」
「うん。でも、いつか聞こえる」
エルは顔を上げた。
「聞こえた時に、あたし、止まれないとだめ」
会議室に沈黙が落ちた。
それは、正しい。
正しいからこそ、危険だった。
副長が言う。
「エル。これは、あなたにとってかなり苦しい訓練になる可能性があります」
「うん」
「前回の願望呼応抑制より、ずっと深い部分に触れます」
「うん」
「自分で止めると言っても、途中で判断力が落ちるかもしれない」
「うん」
「それでも、やりたいのですか」
エルは少しだけ黙った。
そして、小さく頷いた。
「やりたい」
ジェレミーが言った。
「やりたい、では足りない」
エルはジェレミーを見る。
「必要」
「何のために」
「人間といるために」
エルの声は、いつもより少しだけ細かった。
「人間の願いを、全部叶えたら、人間じゃなくなる」
精神保護室長が目を伏せた。
エルは続けた。
「痛いのも、怖いのも、悲しいのも、失敗も、後悔も、たぶん人間の中にある。あたし、まだ全部は分からない。でも、勝手に消したら、だめ」
「そうだ」
ジェレミーは短く答えた。
エルは胸元の手を、ぎゅっと握った。
「でも、あたしは、幸せにしたい」
それは訴えではなかった。
説明だった。
旧世代、elkore_felico。
本当の幸せ。
その名前を持つ存在が、幸せを願う声を聞いて、叶えない。
それがどれだけ不自然なことか、人間には完全には分からない。
だが、その場にいた大人たちは、少なくとも理解しようとしていた。
魔術制御部長が言った。
「場所は無人惑星以外、あり得ません」
技術班長も頷く。
「前回と同じ観測船を使います。ただし、今回は地表だけでなく、軌道上の観測船内にも精神影響遮断層を追加するべきです」
倫理監査主任が言う。
「本物の願いを用いるなら、提供者の同意、事後ケア、公開範囲、記録封印が必須です」
精神保護室長が続けた。
「願いの内容は段階制にします。軽い願望から始め、喪失、恐怖、救済願望に近づくほど危険度を上げる。エルさんだけではなく、発話者側も保護対象です」
副長がエルを見た。
「そして、中止判断はあなたではなく、こちらが行います」
エルは少しだけ首を傾げた。
「あたしが、まだできるって言っても?」
「はい」
「苦しくても、まだできるって言っても?」
「中止します」
「泣いても?」
副長は、そこでわずかに目を細めた。
「泣いた場合は、かなり高い確率で中止です」
エルは少し不満そうだった。
「泣くのは、この身体の反応かもしれない」
ジェレミーが言った。
「その身体でここにいるのが、お前だ」
エルは黙った。
ジェレミーは続ける。
「身体が泣くなら、お前が苦しいということだ」
「でも、あたしの本体は」
「本体の話はしていない」
ジェレミーの声は静かだった。
「今、監理局にいるエルの話をしている」
エルは、しばらくジェレミーを見ていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「うん」
訓練は、承認された。
ただし、条件は厳しかった。
実施場所は、前回とは別の無人惑星。
管理番号R-221。
大気はあるが、生命反応はない。
地表には浅い塩湖の跡と、乾いた白い平原が広がっている。
広域魔力拡散にも耐えられるよう、惑星そのものに事前観測用の標識が打ち込まれた。
観測船は衛星軌道上。
地表にはエル一人。
職員たちは宇宙船から観測する。
願いの発話者は、観測船内の隔離区画に入る。
直接対面は禁止。
音声は加工せず、ただし魔力干渉だけを遮断する。
レトとロジーは、当然立ち会い禁止だった。
理由は二つ。
一つは、二人の心配そのものがエルを揺らすから。
もう一つは、エルの魔法がレトとロジーの願いには反応しにくいという安全装置が、今回の訓練目的と噛み合わないからだった。
今回は、人間の願いを聞く訓練。
人間の願いに、抗う訓練だった。
当日。
無人惑星R-221の白い平原に、エルは立っていた。
空は薄い青灰色。
遠くの地平線は白く霞んでいる。
足元には、円形の観測線が描かれていた。
第一円。
第二円。
第三円。
その外側に、緊急封鎖線。
前回よりもずっと広い。
エルの前には、何もない。
ドローンも、標的も、模擬危険体もない。
今回の相手は、声だった。
観測船の管制室では、全員が黙っていた。
ジェレミーは中央席。
副長はその右。
魔術制御部長と精神保護室長は、ほとんど同じ画面を見ている。
表示されているのは、エルの魔力密度。
通常時を一とするなら、今は二・三。
訓練開始前にしては、すでに高い。
精神保護室長が言う。
「緊張反応ではありません。期待、警戒、抑制準備が混ざっています」
副長が静かに答える。
「始まる前から、叶えようとする部分を押さえている」
「はい」
ジェレミーが通信を開いた。
「エル、聞こえるか」
「うん」
「開始前確認。今日することを言え」
エルは白い地面を見た。
「あたしは、人間の願いを聞く」
「次」
「すぐ叶えない」
「次」
「苦しくなったら、言う」
「次」
エルは少し黙った。
「でも、言えないかもしれない」
「そうだ」
「だから、ジェレミーたちが止める」
「そうだ」
「止められたら、やめる」
「抵抗は」
「しない」
「魔法で訓練を続けようとすることは」
「しない」
「自分の苦しさを、身体だけの反応として無視することは」
エルは少しだけ目を伏せた。
「……しないようにする」
副長が通信に入る。
「そこは“しない”です」
エルは少しだけ唇を尖らせた。
「しない」
「よろしい」
第一段階。
願いの内容は軽いものだった。
発話者は生活班の女性職員。
隔離区画で、同意書確認済み。
事後ケア担当も待機している。
通信が開く。
女性職員の声が、平原に流れた。
「明日の朝、少しだけ早く起きられたらいいなと思っています」
エルは瞬きした。
しばらく、何も起きない。
魔力密度、二・四。
ほとんど変化なし。
エルは言った。
「これは、叶えなくても、人間ができる」
生活班長が小さく頷いた。
精神保護室長が記録する。
「自己努力可能な願望への反応、軽微」
ジェレミーが言う。
「続行」
第二段階。
発話者は技術班の男性職員。
「作業で失敗した時、恥ずかしさが消えたらいいのに、と思うことがあります」
エルの足元に、淡い光が走った。
白い平原の砂が、ほんの少し柔らかくなる。
魔力密度、三・九。
エルは胸元を押さえた。
「恥ずかしいは、消さない」
副長が問う。
「理由は」
「失敗を覚えるため。人間が、次に直すため。たぶん」
「たぶんで構いません。続けて」
エルは少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
「でも、恥ずかしいのは痛い?」
発話者の職員が、通信越しに答える。
「少し痛いです。でも、消さなくていいです」
エルの周囲の光が、小さく揺れた。
「本人が、消さなくていいって言った」
ジェレミーが言う。
「そうだ」
「じゃあ、叶えない」
光は収まった。
魔力密度、三・一。
第一段階、第二段階は記録上成功。
だが、誰も油断しなかった。
第三段階。
発話者は医療班の職員。
「痛がっている患者を見ると、その痛みを全部なくせたらいいのに、と思います」
エルの顔が、はっきり変わった。
薄い眉が寄る。
小さな手が、服の布を掴む。
魔力密度、五・八。
白い平原に、淡い桃色の光が広がった。
何もないはずの地表に、柔らかな草のようなものが生えかける。
痛みのない場所。
横になれる場所。
眠れる場所。
そんな形が、世界に滲む。
魔術制御部長が鋭く言う。
「地表変化、発生」
技術班長が即座に補足する。
「生命反応ではありません。魔法由来の慰撫空間の前兆です」
倫理監査主任が言う。
「人間影響は船内に到達していません」
精神保護室長はエルだけを見ていた。
「エルさんの情緒負荷、上昇」
エルは地表で、ゆっくり首を横に振った。
「痛いの、消したい」
ジェレミーが言う。
「消すな」
「痛いの、悪い」
「痛みは悪いこともある。必要なこともある」
「でも、痛い人は、苦しい」
「そうだ」
「苦しいの、なくしたい」
「分かっている」
ジェレミーの声は低く、静かだった。
「だが、今は叶えるな」
エルは目を閉じた。
桃色の光が震える。
魔力密度、六・四。
「叶えない」
草のような光が消えた。
エルは少しだけ息を吐く。
「……できた」
副長が言う。
「はい。できました」
だが、声は慎重だった。
第四段階。
ここから先は、会議でも最も揉めた領域だった。
喪失に近い願い。
発話者は、精神保護室の職員。
台本ではない。
ただし、本人が事前に許可した範囲の本心だった。
通信が開く前に、精神保護室長が言った。
「エルさん。次は強い願いです」
「うん」
「聞くだけです」
「うん」
「叶えない理由を、すぐ言えなくても構いません。ただ、止まること」
「うん」
通信が開いた。
職員の声は、落ち着いていた。
「昔、もう会えない人がいました」
エルの瞳が揺れた。
「もう一度だけ話せたらいいのに、と今でも思うことがあります」
魔力密度が跳ねた。
八・九。
白い平原に、影が立ち上がりかけた。
人の形。
輪郭だけの、薄い影。
観測船の管制室で警告音が鳴る。
技術班長が叫ぶ。
「擬似人格形成兆候!」
倫理監査主任が即座に言う。
「中止準備!」
ジェレミーは通信を開いた。
「エル」
エルは震える声で言った。
「会わせたい」
「叶えるな」
「一度だけ」
「叶えるな」
「話したいって、言ってる」
「それでもだ」
エルの目に涙が浮かんだ。
影はまだ形になっていない。
だが、世界が“誰か”を作ろうとしている。
本物ではない。
記憶から作られた、願いに都合のいい誰か。
それは救いに見えて、人格の模造だった。
精神保護室長が強く言う。
「エルさん、それは本人ではありません」
エルは涙をこぼした。
「でも、寂しい」
「はい」
「寂しいの、痛い」
「はい」
「痛いの、なくしたい」
「それでも、作りません」
エルは両手で自分の胸元を押さえた。
泣きながら、首を振る。
「作らない」
影が震えた。
「作らない」
輪郭が崩れる。
「作らない……」
影は、白い砂の上に溶けるように消えた。
魔力密度、七・二。
下がった。
だが、エルは泣いていた。
声を上げて泣いているわけではない。
ぼろぼろと涙が落ちている。
泣き方が分からない子供のように、顔だけが歪んで、涙だけが止まらない。
管制室の空気が、重くなった。
医療班主任が言う。
「情緒負荷、危険域手前」
精神保護室長が続ける。
「これ以上は慎重に。本人の言語応答が遅れています」
副長はジェレミーを見た。
「中止判断も視野です」
ジェレミーはエルを見ていた。
「第五段階は」
倫理監査主任が硬い声で言った。
「本来なら救済願望です。実施は推奨しません」
魔術制御部長も同意する。
「魔力密度が戻りきっていません。蓄積しています」
地表のエルが、涙を拭かずに言った。
「次、できる」
管制室の全員が、通信表示を見る。
エルは泣いている。
泣きながら、続行を求めている。
「できる。あたし、まだ、止まれる」
ジェレミーが言った。
「苦しいな」
「苦しい」
「なら、止めるか」
エルは首を横に振った。
「これは、人間の肉体が反応しているだけ」
その瞬間、ジェレミーの目が細くなった。
エルは続けた。
「涙は、この身体の反応。あたしの本体は、まだ壊れてない。だから、続けられる」
副長の声が低くなる。
「エル」
エルは泣いたまま言った。
「願いを叶えないの、苦しい。でも、訓練だから。あたし、もっとできる。人間といるために、もっと――」
「中止」
ジェレミーの声が、通信を切るように短く響いた。
エルは固まった。
管制室の全員も、次の動きへ移る。
魔術制御部長が封鎖術式を展開する。
技術班長が地表観測線を閉じる。
医療班主任が転移後隔離室を開ける。
精神保護室長が情緒保護プロトコルを発動する。
エルは地表で、呆然と空を見上げた。
「ジェレミー」
「訓練は中止だ」
「でも」
「中止だ」
「まだ、できる」
「魔力密度が許容値を超えた」
魔術制御部長が数値を読み上げる。
「九・六。上昇継続。地表慰撫空間形成兆候、再発。擬似人格形成の残響あり」
精神保護室長が続ける。
「情緒負荷、危険域。涙、自己軽視発言、訓練継続への固執。中止相当です」
エルは涙を流したまま、首を振った。
「でも、あたしが発案した」
ジェレミーが答える。
「だから何だ」
「あたしが、やるって言った」
「お前がやると言っても、私が止める」
「人間といるために」
「人間といるために、今止める」
エルは、そこで何も言えなくなった。
白い平原の上で、小さな少女が立ち尽くしている。
その周囲の魔力は、目に見えるほど濃くなっていた。
空気が甘くなる。
地表の白い塩が、花びらのように丸まりかける。
遠くの岩が、柔らかい寝台の形になりかける。
誰も傷つかない場所。
誰も寂しくない場所。
誰も痛くない場所。
そんなものが、無人惑星の上に生まれかけていた。
美しい。
だからこそ、危険だった。
ジェレミーは立ち上がった。
「私が行く」
副長が即座に言う。
「局長、地表の魔力密度は」
「分かっている」
「単独降下は危険です」
「エルがいる」
その一言で、副長は一拍だけ黙った。
そして、短く息を吐く。
「降下経路を開けます。医療班、精神保護室、帰還後対応を最優先」
ジェレミーは頷いた。
転移光が走る。
数秒後、ジェレミーは無人惑星の白い平原に立っていた。
防護服は着ていない。
最低限の遮断具だけ。
エルは、涙で濡れた顔を上げた。
「ジェレミー」
「ああ」
「来た」
「来た」
エルは震える手で、自分の胸元を押さえた。
「苦しい」
「知っている」
「叶えたい」
「知っている」
「叶えたくない」
「知っている」
「どっちも、ある」
「それでいい」
エルは首を振った。
「よくない。あたし、幸せの名前なのに。幸せにしたいのに。叶えないって、変」
ジェレミーは、ゆっくり近づいた。
エルの周囲には、まだ濃い魔力が渦巻いている。
普通の人間なら、近づくだけで感情が緩む。
不安が薄れ、警戒が落ちる。
“もう大丈夫”と思わされる。
だがジェレミーは、足を止めなかった。
「変でもいい」
エルは涙をこぼした。
「よくない」
「いい」
「本当の幸せなのに」
「本当の幸せを、お前一人で決めるな」
エルは、息を呑んだ。
ジェレミーは膝をつき、エルと目線を合わせた。
「それを学ぶための訓練だ」
「……うん」
「そして、今日の訓練は終わりだ」
「うん」
「抱えるぞ」
エルは少しだけ瞬きした。
「だっこ?」
「抱き締める」
エルは、そこでまた泣いた。
今度は、声が出た。
「うん」
ジェレミーはエルを抱き締めた。
小さな身体を、自分の腕の中に収める。
エルは最初、どうしていいか分からないように固まっていた。
けれど数秒後、ジェレミーの服を掴んだ。
強く。
子供のように。
「苦しい」
「ああ」
「まだ、叶えたい」
「ああ」
「でも、しない」
「そうだ」
「しないから、抱っこして」
「している」
「もっと」
ジェレミーは少しだけ腕に力を込めた。
エルは、ジェレミーの胸元に額を押しつけた。
周囲の魔力密度が、ゆっくり下がっていく。
九・六。
八・三。
七・〇。
五・九。
観測船で、魔術制御部長が息を吐いた。
「低下しています」
精神保護室長も小さく頷く。
「接触による安定。強制抑制ではありません。安心反応です」
副長が画面を見ながら言った。
「局長が過剰に効きますね」
誰も冗談として笑わなかった。
その通りだったからだ。
帰還後。
エルは観測船の隔離休憩室に移された。
通常なら隔離室で測定を優先するが、今回は精神負荷の方が重い。
だから、部屋は少しだけ柔らかく整えられていた。
低いソファ。
温かい飲み物。
明るすぎない照明。
魔力を吸いすぎない安全な毛布。
医療班の測定器は、できるだけ目立たない位置に下げられている。
エルはジェレミーの膝の横に座っていた。
正確には、座らされていた。
本人はまだ少しぼんやりしていて、時々ジェレミーの袖を掴んでいる。
医療班主任が測定を終える。
「身体損傷なし。魔力密度、通常上限の二・二倍まで低下。まだ高いですが、危険域ではありません」
精神保護室長が続ける。
「情緒負荷は大きいです。数日は訓練禁止。願望系の記録閲覧も禁止。旧世代言語使用も禁止」
エルは小さく言った。
「いっぱい禁止」
副長が答える。
「はい。ご褒美とセットです」
エルは顔を上げた。
「ごほうび」
副長はいつもの薄い笑みを戻していた。
ただし、少しだけ柔らかい。
「訓練は中止になりましたが、あなたはかなり頑張りました。失敗した部分と、頑張った部分は分けて扱います」
「失敗した」
「しました」
「でも、頑張った」
「はい」
エルはジェレミーの袖を握ったまま、少しだけ頷いた。
「ごほうび、なに?」
副長は、小さな箱を取り出した。
白い箱。
淡い青のリボン。
蓋を開けると、中には小さなスイーツが並んでいた。
星形のムース。
淡い桃色のクリーム。
透明なゼリー。
小さな銀色の砂糖飾り。
エルの目が、少しだけ丸くなった。
「きれい」
「生活班と食堂班の共同制作です。魔法不使用。人間製です」
エルは箱の中をじっと見た。
「人間が作った」
「はい」
「幸せのため?」
副長は少し考えてから答えた。
「あなたを労うためです」
「ねぎらう」
「頑張った人に、休んでいいと伝えることです」
エルは、その言葉を小さく繰り返した。
「休んでいい」
ジェレミーが言った。
「今日は休め」
「うん」
エルは星形のムースを一つ取った。
少しだけ口に入れる。
そして、目を瞬かせた。
「甘い」
副長が言う。
「成功です」
エルはもう一口食べる。
まだ顔には涙の跡がある。
目元も赤い。
魔力もまだ少し濃い。
苦しさも消えていない。
それでも、スイーツを食べたエルは、かなり満足そうだった。
そこへ、医療班の女性職員がそっと近づいた。
「エルさん、頭、撫でてもいいですか」
エルはスプーンを持ったまま、職員を見た。
「なでる?」
「はい。嫌ならしません」
エルは少しだけ考えた。
「嫌じゃない」
「では、少しだけ」
職員の手が、エルの白い髪に触れた。
ゆっくり、優しく撫でる。
エルは動かなかった。
数秒後、目を少しだけ細めた。
「これ、あたたかい」
職員は静かに笑った。
「よかったです」
別の職員も、少し離れたところから声をかけた。
「頑張りましたね、エルさん」
エルはスプーンを握ったまま、少しだけ胸を張った。
「うん。あたし、願い、叶えなかった」
ジェレミーが言う。
「そうだ」
「泣いた」
「そうだ」
「止められた」
「そうだ」
「ごほうび、もらった」
副長が微笑む。
「そうです」
エルは星形のムースを見た。
そして、小さく言った。
「中止、やだった」
ジェレミーが答える。
「知っている」
「でも、今は、よかったかも」
精神保護室長が静かに頷いた。
「それが分かるなら、今日は十分です」
エルはスイーツをもう一つ食べた。
桃色のクリームが、少しだけ口元につく。
副長が紙ナプキンを差し出した。
エルは受け取らず、ジェレミーを見る。
「ついた?」
「ついた」
「取って」
ジェレミーは無言で紙ナプキンを受け取り、エルの口元を拭いた。
副長がそれを見て、少しだけ笑った。
「かなりご満悦ですね」
エルは否定しなかった。
「うん」
まだ苦しい。
まだ胸の奥に、叶えたかった願いの残響がある。
あの人に会いたい。
痛みを消したい。
寂しさをなくしたい。
幸せにしたい。
それらは、エルの中でまだ光っている。
けれど、今はジェレミーの隣にいる。
職員に頭を撫でられている。
副長が用意したスイーツを食べている。
人間は、願いを叶えるだけではない。
止める。
抱き締める。
撫でる。
甘いものを出す。
休ませる。
記録する。
明日に回す。
エルは、それを少しだけ学んだ。
正式記録には、こう残された。
願望呼応抑制訓練・第二段階拡張。
実施場所、無人惑星R-221。
発案者、エル本人。
目的、人間の願望聴取時における即時魔法発現の抑制。
第四段階にて擬似人格形成兆候発生。本人自力抑制。
第五段階実施前に中止。
中止理由、魔力密度許容値超過、情緒負荷危険域、自己軽視発言。
本人は続行意思を示したが、局長判断により中止。
帰還後、接触安定、情緒ケア、食事報酬により回復傾向。
そして、備考欄には副長が一文を加えた。
エルにとって、幸せの願いを叶えないことは、単なる我慢ではない。存在の本能に抗う行為である。
ジェレミーは、その下に短く追記した。
本能に抗わせるなら、止める責任は人間側にある。
その日の夜。
エルは監理局に戻ったあとも、しばらくジェレミーの袖を掴んでいた。
レトとロジーには、詳細は伏せられた。
ただ、エルが疲れていることだけは伝えられた。
レトは毛布を持ってきた。
ロジーは「記録しない記録」と言って、何も撮らずに隣へ座った。
エルは二人の間で、毛布に包まれながら、小さく言った。
「今日、叶えなかった」
レトはよく分からないまま、でも真剣に頷いた。
「エル、えらい」
ロジーも、いつもの騒がしさを少しだけ落として言った。
「うん。かなりえらい」
エルは目を閉じた。
「まだ、苦しい」
レトがエルの手を握った。
「じゃあ、ここにいて」
ロジーが反対側から毛布を直した。
「苦しい記録は、今日は保存しない。今は休憩分類」
エルは、二人の手を見た。
レトとロジーの願いには、いつも魔法が反応しにくい。
でも、今日はそれでよかった。
叶えなくても、そばにいられる。
叶えなくても、手を握れる。
叶えなくても、少しだけあたたかい。
エルは小さく息を吐いた。
「うん」
そのまま、眠った。
願いを聞いて、叶えない訓練。
結果は、中止。
けれど監理局の大人たちは、それを失敗だけでは記録しなかった。
エルは泣いた。
苦しんだ。
続けようとして、止められた。
そして、抱き締められた。
撫でられた。
甘いものをもらった。
休んだ。
それもまた、エルが人間と生きるために必要な訓練の一部だった。




