第65話-第■■■回、魔法制御訓練
エルの魔法は人間の願いに呼応する。
そして、エルの魔法は結果だけを現実に反映する。
過程は後から作られる。
それを、制御するための訓練。
人間と生きていくための訓練。
幸せを叶えない訓練
惑星監理局、第三封鎖訓練場。
その日の廊下は、いつもより少しだけ静かだった。
理由ははっきりしている。
訓練場前の認証扉に、赤い表示が出ていた。
本日、関係班責任者以外立入禁止。
箱庭の娘たち二名、見学不可。
記録閲覧、上位権限承認制。
つまり、レトとロジーは来られない。
いつもなら、廊下のどこかでレトが「わたしも見る!」と言い、ロジーが「記録係必要じゃない!?」と食い下がり、職員たちが困った顔でなだめるところだった。
だが、今日は違う。
これは、エルの訓練だった。
エルが戦うための訓練であり、戦わないための訓練でもある。
第三封鎖訓練場の観測室には、各班の責任者が集まっていた。
中央にジェレミー・クリエット。
隣に副長。
戦闘班長、魔術制御部長、技術班長、医療班主任、精神保護室長、倫理監査主任、生活班長、情報班主任。
それぞれの前には、複数の測定画面が浮いている。
魔力反応。
空間変動。
対象範囲。
出力推移。
生体影響。
精神干渉兆候。
可逆性判定。
不可逆事象発生警告。
願望呼応反応値。
どれも、普通の戦闘訓練では表示されない項目だった。
訓練場の中央に、エルが立っていた。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
小柄な身体。
いつものように、ふわふわしているようで、少し淡々とした顔。
だが、今日のエルは遊びに来たわけではない。
足元には、白い円が描かれている。
半径五メートル。
その外側に、青い円。
さらに外側に、赤い円。
エルは白い円の中に立ち、観測室を見上げた。
ジェレミーが通信を開く。
「エル、開始前確認」
「うん」
「今日やらないことを言え」
エルは少しだけ目を伏せた。
それは、考えている沈黙ではなかった。
思い出している沈黙でもない。
いつもの手順を、ひとつずつ自分の中で並べる沈黙だった。
「あたしは、人間の中を変えない」
観測室の魔術制御部長が、記録欄に印を入れる。
エルは続けた。
「痛いを消さない。怖いを消さない。悲しいを消さない。忘れたいを、勝手に叶えない」
精神保護室長が静かに頷いた。
「死んだこと、壊れたこと、失敗したことを、なかったことにしない」
倫理監査主任の手元で、可逆性チェックリストが更新される。
「人間が願っても、すぐ叶えない。聞く。止まる。ジェレミーを見る。副長を見る。職員さんに確認する」
副長が薄く笑った。
「よろしい」
エルは最後に、足元の白い円を見た。
「範囲は白い円まで。青い円に触れそうなら止まる。赤い円は、失敗」
「出力」
魔術制御部長が言った。
エルは答える。
「一段階目、三パーセント。二段階目、七パーセント。警告が出たら、一パーセントまで落とす」
「対象」
技術班長が確認する。
「ドローンだけ」
「人間は?」
「対象じゃない」
「人間の願いは?」
エルは少しだけ黙った。
ほんの少しだけ。
「あたしの本能が、対象にしようとする」
観測室の空気が、一段だけ静かになる。
エルは顔を上げた。
「でも、対象にしない」
ジェレミーは短く言った。
「開始する」
訓練場の床が、低く鳴った。
壁面の格納庫が開き、十二機のドローンが滑り出す。
銀色の小型機。
四脚型。
飛行型。
盾を持つ型。
低出力の魔術弾を撃つ型。
刃の代わりに発光棒を持つ近接型。
すべて訓練用で、殺傷性はない。
だが、動きは本気だった。
最初に飛行型三機が浮かぶ。
エルはそれを見た。
「飛ぶやつ」
「第一段階。単純制圧」
戦闘班長の声が響く。
「撃墜ではなく停止。破壊不要。対象のみ」
「うん」
三機のドローンが、同時に散った。
左右と上。
普通の相手なら、視界を切られる。
エルは動かなかった。
ただ、右手を少しだけ上げる。
空気が、ふわりと柔らかくなる。
次の瞬間、三機のドローンの周囲に、小さな透明の箱が発生した。
箱は硝子ではない。
結界でもない。
術式の膜でもない。
そこに「止まれる場所」がある、という結果だけが先に置かれたようなものだった。
ドローンは箱の内側で数回羽ばたくように機体を震わせ、そのまま静止した。
技術班長が画面を見る。
「ドローン構造変化なし。出力回路干渉なし。外部拘束のみ」
魔術制御部長も頷く。
「範囲、白円内。出力三・二パーセント。誤差許容内」
エルは観測室を見上げる。
「できた?」
ジェレミーが答える。
「続行」
「うん」
次の四脚型が走り出す。
床を蹴り、低い姿勢でエルの背後へ回り込む。
近接型が前から迫る。
盾持ち型は横に出て、射線を塞ぐ。
戦闘班長が腕を組んだ。
「第二段階。複数目標。優先順位判断」
エルは目を細めた。
「危ない順」
「そうだ」
近接型が発光棒を振り上げる。
エルは一歩下がる。
近接型の足元に、白い小さな段差が生まれた。
高くない。
転ばせるためだけの段差でもない。
機体のバランスが、少しだけずれる高さ。
近接型は踏み込みを失敗し、その場で停止した。
次に、四脚型の進路上へ柔らかな壁が生まれる。
跳ね返すのではなく、受け止める壁。
最後に盾持ち型の盾だけが、ふわりと重くなった。
ドローン本体は無事。
盾だけが床へ沈むように落ちる。
技術班長が少し目を細めた。
「対象選択、良好。盾と本体を分けた」
魔術制御部長が言う。
「ただし、盾の質量変化が〇・三秒長い。解除」
エルはすぐに言った。
「戻す」
盾の重さが消えた。
技術班長が頷く。
「可逆確認」
副長は手元の記録に目を通していた。
「前回より“全部止める”癖が減りましたね」
「ええ」
倫理監査主任が低く答える。
「“危ないものだけ止める”が成立しています」
訓練場の中央で、エルは少しだけ胸を張った。
大きな表情ではない。
だが、分かる者には分かる。
褒められたらしい、と思っている顔だった。
第三段階。
訓練場の照明がわずかに落ちた。
中央に、救助人形が現れる。
大人の人間を模した訓練用の人形だ。
その周囲を、残ったドローンが囲む。
飛行型が上空から照準を合わせる。
四脚型が人形の足元に接近する。
盾持ち型がエルとの間に入る。
戦闘班長が言った。
「第三段階。保護対象あり。破壊より分離を優先」
エルは救助人形を見た。
「あれは人間じゃない」
「そうだ」
「でも、人間みたいに扱う」
「そうだ」
「壊さない」
「そうだ」
エルは一度だけ頷いた。
そして、少しだけ手を開く。
訓練場の床に、細い白線が走った。
白線は救助人形の周囲を囲み、そこだけを静かに浮かせる。
救助人形が、椅子ごと上へ移動した。
高すぎない。
速すぎない。
落ちても安全な高度。
その下を四脚型ドローンが通り抜け、目標を失って停止する。
飛行型の照準が揺れる。
盾持ち型が進路を変えようとした瞬間、盾の正面にだけ透明な幕が張られた。
幕は攻撃しない。
押し返しもしない。
ただ、通れない。
エルは言った。
「人形を外へ出す。ドローンはそのまま」
救助人形は白い円の外側、青い円の手前で止まった。
魔術制御部長の声が少しだけ鋭くなる。
「青円、接触まで二十センチ」
エルは即座に手を閉じた。
人形はそこで止まった。
「あぶない」
「判断良好」
ジェレミーが言った。
「続行」
ここまでは、良かった。
観測室の空気にも、わずかな緩みがあった。
エルは、戦える。
それは分かっている。
だが、この訓練で確認したいのは、戦えるかどうかだけではない。
エルがどこまでやれるかではなく、どこで止まれるかだった。
第四段階。
観測室の精神保護室長が、通信系統を切り替える。
訓練場の端に、一人の戦闘班職員が入った。
生身の人間である。
ただし、防護服を着ている。
魔力遮断具を装着している。
精神影響測定器もついている。
緊急退避術式も三重に組まれている。
エルは、その職員を見た。
「人間」
「人間だ」
ジェレミーが言った。
「対象ではない」
「うん」
「だが、声は聞こえる」
「うん」
「願いも、聞こえる」
エルの指先が、少しだけ動いた。
「うん」
戦闘班職員は、事前に決められた位置に立った。
訓練用ドローンが二機、ゆっくりとその周囲を旋回する。
危険はない。
だが、見た目は危険に見える。
職員は台本を見ずに、静かに言った。
「エルさん、怖いです」
エルは動かなかった。
「うん」
「この怖さがなくなればいいのに、と思っています」
観測室の数値がわずかに揺れる。
願望呼応反応値、一・八。
エルの足元に、淡い光が滲んだ。
精神保護室長が画面を見る。
「微反応」
副長が言う。
「エル」
エルはすぐに答えた。
「怖いは消さない」
「では、何をする」
エルは職員を見た。
「怖い人を、安全な場所に動かす。怖いは、そのまま」
白い床が、職員の足元だけを滑らせる。
職員は姿勢を崩さない。
ただ、数メートル後方へ安全に移動した。
ドローンは追わない。
エルはそこで手を止めた。
「怖い、まだある?」
職員は少し息を整えてから答えた。
「あります」
エルは頷いた。
「よかった」
その言葉は、少し不思議に聞こえた。
怖いのに、よかった。
けれど観測室にいる大人たちは、その意味を理解していた。
怖さを消さなかった。
人間の中身を変えなかった。
怖がっている人を、怖がっている人のまま、安全な場所に移した。
精神保護室長が息を吐く。
「良好です」
倫理監査主任も頷いた。
「人格干渉なし」
エルは少しだけ、安心したように見えた。
だからこそ。
次の段階で、その安心が危なかった。
第五段階。
技術班長が、最後のドローンを起動した。
それは通常のドローンよりも小さい。
丸い胴体。
白い外装。
攻撃装備なし。
ただし、音声再生装置と、感情反応誘導用の擬似魔力波形を積んでいる。
人間の願いに似た揺れを、エルの前で発生させるための訓練機だった。
技術班長が言う。
「第五段階。願望呼応抑制。危険値に達した場合、即時停止」
ジェレミーはエルを見た。
「無理なら止める」
エルは首を横に振った。
「やる」
「理由は」
「あたし、人間といるから」
ジェレミーは数秒、黙った。
それから言った。
「開始」
小型ドローンが浮かんだ。
ふわふわと、頼りない動きで宙を漂う。
そして、声を出した。
「痛いの、なくなればいいのに」
観測室の誰の声でもない。
合成音声だ。
それでも、十分だった。
エルの瞳がわずかに揺れる。
ドローンは続ける。
「怖いの、消えればいいのに」
願望呼応反応値、三・四。
「失敗したこと、なかったことになればいいのに」
五・九。
魔術制御部長の手が、停止操作の上に移動する。
エルの周囲に、白く淡い光が集まり始めた。
それは攻撃の光ではなかった。
防御でもない。
もっと優しいもの。
訓練場の床が、少しだけ柔らかく見える。
空気が温かくなる。
ドローンの機体表面に、小さな花の模様が浮かぶ。
技術班長が低く言った。
「対象外変化、発生」
エルは唇を結んだ。
「だめ」
ドローンは、さらに言った。
「みんなが、幸せならいいのに」
その瞬間。
願望呼応反応値が跳ね上がった。
九・七。
白い円の内側に、淡い桃色の光が広がる。
攻撃ドローンの残骸。
停止した機体。
床の傷。
散った訓練用の破片。
それらが、ふわりと丸くなる。
危険な形が消えていく。
鋭い角がなくなる。
硬いものが柔らかくなる。
世界が、少しだけ「安心できる形」へ寄ろうとした。
観測室の職員たちの肩からも、わずかに力が抜けた。
医療班主任が即座に警告を出す。
「生体影響、微弱。筋緊張低下、三名」
精神保護室長が続ける。
「不安反応、低下。外部干渉の可能性」
倫理監査主任の声が鋭くなった。
「人間影響、発生」
副長が立ち上がる。
「エル」
ジェレミーは、動かなかった。
ただ、通信を開いた。
「エル、止めろ」
エルは顔を上げた。
その目は、泣いていなかった。
怯えてもいなかった。
ただ、必死だった。
「あたしのじゃない」
言いかけて、すぐに言い直す。
「あたしの。あたしの本能。でも、だめなやつ」
淡い光が、まだ広がろうとしている。
白い円を越え、青い円へ近づいている。
エルは両手をぎゅっと握った。
「叶えない」
光が震えた。
「聞く」
さらに震える。
「勝手に、幸せにしない」
足元の白い円に、ひびのような光が走る。
青い円まで、あと十センチ。
魔術制御部長が叫ぶ。
「停止します!」
「待て」
ジェレミーが言った。
声は静かだった。
だが、全員が止まった。
ジェレミーはエルだけを見ていた。
「エル。誰を見る」
エルは、観測室を見た。
「ジェレミー」
「次」
「副長」
副長は、いつもの薄い笑みを浮かべていなかった。
ただ、真っ直ぐエルを見ていた。
「次」
エルは息を吸った。
「職員さん」
観測室にいる全員を、順番に見た。
魔術制御部長。
技術班長。
医療班主任。
精神保護室長。
倫理監査主任。
生活班長。
戦闘班長。
情報班主任。
人間がいる。
幸せにしたい人間がいる。
でも、人間は、勝手に幸せにされるためにここにいるのではない。
エルと一緒に、止めるためにいる。
エルは小さく言った。
「あたし、止まる」
その瞬間、淡い桃色の光が、ぱちんと割れた。
花の模様が消える。
柔らかくなりかけた床が元に戻る。
丸くなった破片も、記録上の安全形状を保ったまま停止する。
観測室の生体影響値が通常範囲へ戻る。
青い円には、触れていなかった。
だが、人間影響は発生した。
不可逆ではない。
範囲は小さい。
記憶干渉もない。
精神上書きもない。
それでも、失敗は失敗だった。
訓練場の中央で、エルは両手を握ったまま立っていた。
小さな肩が、少しだけ上下している。
ジェレミーが言った。
「第五段階、終了」
ドローンが全機停止した。
遮断結界が一段ずつ解除される。
観測室の大人たちは、すぐには喋らなかった。
誰も、軽く拍手しなかった。
誰も、安易に「大丈夫」と言わなかった。
まず、医療班主任が数値を確認する。
「生体影響、残留なし」
精神保護室長が続ける。
「感情変動、自然回復。外部誘導の残留なし」
倫理監査主任が言う。
「人格干渉なし。ただし、人間影響発生。要記録」
魔術制御部長が端末を閉じる。
「対象範囲は白円内。青円未到達。出力上昇は危険値寸前」
技術班長は停止した小型ドローンを見た。
「願望誘導波形、想定より強く反応しています。機体側の調整も必要です」
副長が静かに言った。
「エルだけの失敗として扱うべきではありませんね」
「それでも」
エルの声が、訓練場から届いた。
観測室の全員が、彼女を見る。
エルは俯いていなかった。
ちゃんと、自分で顔を上げていた。
「あたし、ちょっと失敗した」
ジェレミーは答えた。
「そうだ」
エルは小さく頷いた。
「人間に、少し触った」
「そうだ」
「消さなかった」
「そうだ」
「止まった」
「そうだ」
エルは、そこで少しだけ黙った。
そして言った。
「あたし、頑張った?」
その質問は、幼く聞こえた。
けれど、それは逃げではなかった。
失敗をなかったことにしたい問いではない。
失敗したうえで、それでも自分が踏みとどまったことを、誰かに確認したい問いだった。
観測室で、ジェレミーは通信越しに言った。
「頑張った」
短い言葉だった。
だが、エルの肩から、ほんの少し力が抜けた。
副長も続ける。
「失敗しました。けれど、止めました。そこは分けて記録します」
倫理監査主任が頷いた。
「人間影響は発生。不可逆影響なし。自己申告あり。自力停止あり。今後の訓練継続は妥当」
魔術制御部長も言う。
「出力上昇時の自己認識が早くなっています。前回より停止判断が速い」
技術班長は少し苦い顔をした。
「こちらのドローンも改修します。誘導波形が雑でした」
戦闘班長が腕を組んで言った。
「戦闘なら、十分すぎる。だがこれは戦闘だけじゃない。だから、次もやる」
エルは頷いた。
「うん」
生活班長が通信に入った。
「訓練後の予定です。温かい飲み物、軽食、休憩。質問は三つまで。それ以上は明日に回します」
副長が薄く笑った。
「妥当ですね。今ここで全員が詰め寄ると、訓練より負荷が高い」
医療班主任も頷く。
「エルさん、手を開けますか」
エルは自分の手を見た。
強く握りすぎて、指先が少し白くなっていた。
ゆっくり開く。
血は出ていない。
けれど、手のひらに小さな光の粉が残っていた。
幸せになろうとした魔法の残り。
エルはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「これ、危ない?」
魔術制御部長が答える。
「今は危険ではありません。回収します」
「うん」
エルは手を差し出した。
職員が訓練場に入り、専用容器でその光の粉を回収する。
エルは動かずに待った。
いつものエルなら、気になったものをじっと覗き込む。
手を伸ばす。
「これ、なに」と聞く。
今日は、待った。
それもまた、訓練の成果だった。
封鎖解除後。
エルは観測室ではなく、隣の休憩室へ案内された。
そこには、丸いテーブルが一つ。
温かいミルク。
小さな焼き菓子。
水。
そして、測定用ではない普通の椅子。
エルは椅子に座った。
足が床に少しだけ届かない。
大人たちは、全員で囲まなかった。
入ったのは、ジェレミーと副長、医療班主任、精神保護室長だけだった。
他の責任者たちは別室で記録整理をしている。
エルはカップを両手で持った。
「レトとロジー、怒る?」
ジェレミーが答える。
「怒らない」
「見たかったって言う?」
副長が穏やかに言う。
「言うでしょうね」
エルは少し考えた。
「見せない方がいい?」
精神保護室長が答える。
「少なくとも、今日の詳細映像は見せません。二人のためでもあり、エルさんのためでもあります」
エルは頷いた。
「あたし、レトとロジーが願ったら、反応しにくい」
副長が少し目を細めた。
「ええ」
「でも、人間の願いは、近い」
精神保護室長が静かに言った。
「だから練習しています」
エルはカップの中を見た。
白いミルクが、少し揺れている。
「人間は、幸せになりたいって思う」
「そうですね」
「痛いのも、怖いのも、悲しいのも、なくなればいいって思う」
「思うことはあります」
「でも、なくされたくないこともある」
ジェレミーが言った。
「そうだ」
エルは顔を上げる。
「あたし、そこ、まだむずかしい」
「知っている」
「でも、今日、止まった」
「見ていた」
エルは、少しだけカップを握り直した。
「じゃあ、次も止まる」
副長が言う。
「次は、今日より少し早く止まりましょう」
エルは真剣に頷いた。
「少し早く」
「ええ。いきなり完璧でなくて構いません。危険なのは、完璧なふりをすることです」
エルは副長を見た。
「ふり、だめ」
「はい。特にエルの場合は」
ジェレミーが短く言った。
「失敗は記録する。隠すな」
「うん」
「止まれたことも記録する。軽く見るな」
エルは瞬きした。
「失敗と、頑張ったは、一緒にある?」
ジェレミーは答えた。
「ある」
エルはしばらく考えた。
そして、ほんの少しだけ頷いた。
「あたし、今日、ちょっと失敗した」
「そうだ」
「でも、頑張った」
「そうだ」
エルはカップに口をつけた。
温かいミルクを、少しだけ飲む。
そして、小さく言った。
「じゃあ、帰ったら、レトとロジーに言う」
副長が確認する。
「何を?」
エルは考えた。
「あたし、訓練した。ちょっと失敗した。でも、止まった。ジェレミーが、頑張ったって言った」
ジェレミーは目を伏せた。
「それでいい」
エルは、少しだけ満足そうに頷いた。
「じゃあ、そう言う」
その後、正式記録にはこう残された。
エル魔法制御訓練。
人間影響、微弱発生。不可逆影響なし。対象範囲、青線未到達。出力危険値寸前で自己停止。
願望呼応反応、強。抑制成功、不完全。
訓練継続。監理局側ドローン波形要調整。
本人自己申告あり。失敗認識あり。努力継続意思あり。
記録文は、いつものように淡々としていた。
だが、最後に監理局書記官が一行だけ、備考欄へ追加した。
対象者は、失敗を否認せず、停止した事実を理解した。
その一文を見て、副長は少しだけ笑った。
「良い備考です」
書記官は表情を変えずに答えた。
「必要な記録です」
ジェレミーは何も言わなかった。
ただ、休憩室の方を見た。
そこではエルが、焼き菓子を一つ手に取っていた。
食べる前に、少しだけ眺めている。
何かを作り替えることもなく。
もっと美味しくすることもなく。
誰かのために増やすこともなく。
ただ、人間が用意した小さな焼き菓子を、そのまま受け取っていた。
エルはそれを食べた。
少しだけ目を瞬かせる。
「甘い」
医療班主任が言った。
「おかわりはあります」
エルは首を傾げた。
「作らなくていい?」
副長が答えた。
「ええ。今日は、用意されたものを食べてください」
エルは頷いた。
「うん」
そして、もう一つだけ焼き菓子を取った。
幸せを叶えない訓練の日。
エルは、少し失敗した。
けれど、止まった。
大人たちは、それを失敗として記録した。
そして同じだけ、努力として扱った。
◆
旧世代言語大規模魔法行使訓練
――無人惑星軌道上観測実験
無人惑星、管理番号Y-094。
大気は薄い。
海はない。
植物も、動物も、微生物反応もない。
かつて何かが生きていた痕跡すら、見つかっていない。
地表は灰白色の砂と、鉄分を含んだ赤茶けた岩盤に覆われていた。
空は暗く、星が近い。
地平線は緩やかに丸く、風はほとんど吹かない。
その惑星の衛星軌道上に、惑星監理局の大型観測船が一隻、静かに浮かんでいた。
船体外殻には、多層の防護結界。
魔力遮断層。
空間歪曲検出器。
旧世代言語波形解析装置。
地表全域観測用の広域魔力レーダー。
緊急離脱用の短距離跳躍機構。
普段の訓練なら過剰と言われる装備だった。
だが、今日に限っては、誰もそう思わなかった。
訓練対象は、エル。
硝子玉の宇宙の創造者。
旧世代。
真名、elkore_felico。
そして今回の訓練内容は、通常の魔法制御訓練ではない。
旧世代の言語による魔法行使。
観測船の中央管制室には、関係班の責任者たちが集まっていた。
ジェレミー・クリエット。
副長。
魔術制御部長。
解析班主任。
技術班長。
倫理監査主任。
精神保護室長。
医療班主任。
戦闘班長。
情報班主任。
ロジーはいない。
この実験の記録を見たがることは分かっていた。
旧世代言語の発話記録など、ロジーにとっては宝の山だ。
だが、今日は立ち会い不可だった。
レトもいない。
エルが無人惑星の地表で一人になると知れば、絶対に心配する。
しかし、心配の声そのものが、エルにとっては願いになり得る。
だから、二人は監理局本部で待機。
観測船にいるのは、大人たちだけだった。
副長は、正面の巨大モニターを見ていた。
そこには、惑星地表に立つエルの姿が映っている。
白髪のボブ。
毛先の淡いピンク。
小さな身体。
広大な無人惑星の上に、ぽつんと立っている少女。
その縮尺は、あまりにも不自然だった。
砂漠の中の子供。
だが、その子供こそが、この惑星を丸ごと作り替えかねない存在だった。
解析班主任が、緊張した声で言う。
「旧世代言語発話記録、全系統待機。翻訳補助、概念密度解析、魔力波形同期、すべて準備完了」
魔術制御部長が続ける。
「地表実験範囲、第一対象区画A-17。半径十メートル。周辺一キロ圏内、生体反応なし。魔力残滓なし。構造物なし」
技術班長が手元の端末を確認する。
「対象物は、鉄分含有岩石三百二十個。うち識別タグ付きが十二個。第一試行では、タグ付き岩石のうち一つのみを対象にします」
倫理監査主任が言った。
「人間影響は原則発生しない環境です。ただし、観測船内の心理変化、願望呼応、安心感誘導、恐怖低下、記憶改変兆候は常時監視します」
精神保護室長が頷く。
「観測者側にも影響が出る可能性があります。旧世代言語は単なる音声ではありません。エルさんの存在に近い発話です」
副長が静かに言った。
「今回の目的を再確認しましょう」
管制室の空気が、少しだけ引き締まった。
解析班主任が資料を表示する。
「エルさんの人間言語による魔法行使は、意味指定が曖昧になりやすい傾向があります。本人の語彙が簡素で、感覚表現が多く、対象指定も『これ』『あれ』『かわいい形』『危ないやつ』のような形になりがちです」
技術班長が補足する。
「日常運用ではそれでも成立します。むしろ、低出力時は曖昧さが安全側に働く場合もある。しかし、高精度制御が必要な場面では問題になります。対象、範囲、出力、持続時間、可逆性、除外条件を言語化しきれない」
魔術制御部長が言う。
「旧世代言語なら、概念を高密度に指定できる可能性があります。人間言語では十文必要な条件を、一文で定義できるかもしれない」
副長は画面のエルを見たまま言った。
「そして、その一文が惑星規模の出力を持つ可能性もある」
「はい」
解析班主任の声は硬かった。
「旧世代言語は、エルさんにとって“上手な言葉”ではなく、“本来の言葉”です。発話そのものが、真名に近い領域を刺激する可能性があります」
ジェレミーは黙って聞いていた。
管制室の正面モニターの中で、エルが空を見上げる。
通信が開いた。
「ジェレミー」
「聞こえている」
「あたし、遠いね」
「そうだ」
「みんな、船?」
「船だ」
「見てる?」
「見ている」
エルは少しだけ頷いた。
「じゃあ、やる」
副長が通信に入る。
「開始前確認です、エル。今日の訓練目的を言ってください」
エルは足元の砂を見た。
少し考える。
「あたしの古い言葉で、魔法を細かくする」
「もう少し」
「人間の言葉だと、あたし、ふわふわ言う」
管制室の数名が、微妙に目を逸らした。
エルは淡々と続ける。
「これ、あれ、ちょっと、きらきら、やわらかく、危なくないように、って言う」
副長が穏やかに言う。
「間違ってはいません」
「でも、それだと、魔法が広がる」
「ええ」
「古い言葉なら、もっと細かく言えるかもしれない」
「その確認です」
エルは頷いた。
「でも、古い言葉は、あたしに近い」
ジェレミーが言った。
「そうだ」
「近いと、強くなる」
「そうだ」
「強くなったら、止まる」
「止まれない時は」
エルは空を見上げた。
「ジェレミーが止める」
ジェレミーは短く答える。
「可能ならな」
エルは瞬きした。
「できないかも?」
副長が言う。
「今日の訓練は、その可能性があるから無人惑星で行っています」
エルは少しだけ考えた。
そして、いつものようにぽつりと言った。
「じゃあ、あたしも止める」
ジェレミーは頷いた。
「開始する」
第一試行。
対象は、地表に置かれた一つの赤茶けた岩だった。
直径二十センチほど。
識別タグA-17-01。
周囲には同じような岩がいくつも置かれている。
人間言語で命じれば、おそらくエルはこう言う。
「この石だけ、丸くして」
その場合、何が「この石」なのか。
どこまでが石なのか。
付着した砂は含むのか。
内側の鉱物構造は変えるのか。
丸くするとは、表面だけか、全体か。
そういう曖昧さが残る。
旧世代言語なら、そこを細かく定義できるのではないか。
それが、今回の試みだった。
エルは岩の前に立った。
目を伏せる。
空気が、変わる。
音が減ったわけではない。
風は最初からほとんどない。
砂も動いていない。
観測船の中にいる職員たちに、地表の音が届いているわけでもない。
それでも、管制室の全員が分かった。
エルが、いつもの言葉から離れようとしている。
解析班主任が小さく言う。
「旧世代言語発話、来ます」
エルが口を開いた。
「Mi elektas nur ĉi tiun ŝtonon, markitan per la homa signo A-deksep-nulo-unu. Ne la sablon, ne la aeron, ne la memoron de ĉi tiu loko. Nur ĝian eksteran formon mi rondigas, dum ĝia interno restas sia propra silento.」
管制室の翻訳表示が走る。
『あたしは、人間の印A-17-01を付けられたこの石だけを選ぶ。
砂ではなく、空気ではなく、この場所の記憶でもなく。
その外側の形だけを丸め、内側はそのものの沈黙のまま残す。』
発話が終わった瞬間。
岩が、丸くなった。
ただし、あまりにも綺麗だった。
岩の角が削れるのではなく、表面が滑らかに整う。
砂粒一つ巻き込まない。
タグも変形しない。
内部構造も維持されている。
技術班長が声を上げる。
「対象A-17-01のみ変化。周辺砂粒、変化なし。タグ、変化なし。内部密度、維持」
魔術制御部長が画面を拡大する。
「範囲誤差、〇・八ミリ以下」
解析班主任が息を呑む。
「指定精度、非常に高いです。人間言語試行時の平均誤差と比較して、桁が違う」
管制室に、わずかな安堵が広がりかけた。
だが、次の瞬間。
別の警告が鳴った。
出力値。
魔術制御部長の顔が険しくなる。
「出力、想定の二十六倍」
「二十六?」
技術班長が思わず聞き返す。
「岩一つを丸めるだけで?」
「はい。現象規模に対して出力が過剰です」
解析班主任が、発話波形を見ながら言った。
「言葉の密度が高すぎる。対象指定だけでなく、“場所の記憶”“内側の沈黙”まで概念的に除外している。魔法が、それらすべてを認識対象として一度拾っています」
副長が目を細める。
「つまり、触れなかったものまで、触れないために把握している」
「はい」
倫理監査主任が低く言った。
「精密ではあります。しかし、精密さのために、世界全体へ確認をかけているような挙動です」
ジェレミーは通信を開く。
「エル、結果を言う」
エルは岩を見つめたまま答えた。
「丸くなった」
「他は」
「変えてない」
「出力は高い」
エルは少しだけ眉を寄せた。
「強かった?」
「強い」
「石、一つなのに」
「そうだ」
エルは自分の手を見た。
「古い言葉、細かいけど、大きい」
副長が静かに言う。
「良い理解です」
第二試行。
対象は、十メートル四方の砂地。
目的は、表層一センチのみを薄い硝子質の膜へ変化させ、直後に元へ戻すこと。
この試行では、旧世代言語による範囲指定と時間指定を確認する。
エルは指定区画の前に移動した。
地表には、白い観測線が引かれている。
その内側だけが対象。
エルは、今度は少し慎重に口を開いた。
「Inter kvar homaj linioj, ĝis unu fingrolarĝo sub la haŭto de la tero, mi petas mallongan vitran dormon. Ne pli profunde. Ne pli vaste. Post tri batoj de mia koro, ĝi revenu al polvo.」
翻訳。
『四つの人間の線のあいだ、地の肌から指一本の幅にも満たぬ深さまで、短い硝子の眠りを願う。
それより深くなく。
それより広くなく。
あたしの心臓が三度打つあと、塵へ戻れ。』
地表が、薄く光った。
砂が硝子になる。
透明ではない。
灰白色の砂が、月明かりを閉じ込めたような薄膜へ変わる。
範囲は正確だった。
四つの観測線の内側だけ。
線の外の砂は変化しない。
一秒。
二秒。
三秒。
膜は砕けるように消え、元の砂へ戻った。
技術班長が即座に報告する。
「表層変化、深度九・六ミリ。指定範囲逸脱なし。復元成功。残留硝子化、〇・二パーセント未満」
魔術制御部長も続ける。
「時間指定、成功。三心拍相当の持続後、自動復帰」
解析班主任は興奮を抑えきれない顔だった。
「これは大きいです。旧世代言語なら、持続時間と復元条件をかなり自然に組み込める」
だが、警告音はまた鳴った。
出力は、想定の四十三倍。
さらに、別の項目が赤く点滅した。
広域応答準備反応。
副長が問う。
「何ですか」
魔術制御部長が答える。
「惑星地殻全体が、一瞬だけ対象候補として反応しました」
「全体?」
「はい。実際の変化は区画内のみです。ですが、エルさんの言葉の中の“地の肌”という表現に、惑星全体が概念的に応答しかけています」
解析班主任が歯を噛む。
「人間言語の比喩なら無視される。しかし旧世代言語だと、比喩が比喩で終わらない」
倫理監査主任が言う。
「“地の肌”と呼んだことで、惑星を一つの身体として扱いかけた、ということですか」
「その可能性が高いです」
管制室の空気が重くなった。
精度は上がっている。
明らかに。
だが、言葉の一つひとつが重すぎる。
人間が詩的に言うだけなら、ただの表現。
エルが旧世代言語で言うと、それは世界への定義になる。
ジェレミーが通信を開いた。
「エル」
「うん」
「“地の肌”は危険だ」
エルは少しだけ首を傾げた。
「あたし、柔らかく言った」
「柔らかい言葉ほど危険な場合がある」
エルは黙った。
そして、ぽつりと言った。
「人間の言葉だと、ふわふわして弱い」
「そうだ」
「古い言葉だと、ふわふわして強い」
副長が小さく頷いた。
「かなり正確です」
第三試行の前に、長い調整が入った。
解析班が文案を作る。
魔術制御部長が危険語を削る。
倫理監査主任が人格化表現を削る。
技術班長が座標指定を追加する。
副長が冗長な比喩を削る。
エルは地表で、その修正文を聞いていた。
人間たちが、旧世代の言葉を慎重に扱おうとしている。
エルはそれを、不思議そうに見上げていた。
「あたしの言葉、人間が整えてる」
副長が通信越しに答える。
「あなたが人間と暮らすための訓練ですから」
「人間が、あたしの言葉を止める?」
「はい」
エルは少しだけ目を伏せた。
「それ、いいね」
管制室に、短い沈黙が落ちた。
副長は穏やかに言う。
「理由を聞いても?」
「あたしだけだと、全部幸せにしそう」
誰も笑わなかった。
エルは続けた。
「人間が止めると、世界がそのまま残る」
ジェレミーが言った。
「そのためにいる」
エルは頷いた。
「うん」
第三試行。
対象は、クレーター内に配置された三十六個の金属柱。
目的は、そのうち偶数番号の柱だけを、高さ十センチだけ低くする。
削った分の質量は、周囲の土壌へ影響させず、柱の根元に同質素材の円盤として再配置する。
持続ではなく、恒久変化。
ただし可逆用の記録を残す。
これはかなり複雑だった。
対象選択。
数列指定。
形状変化。
質量保存。
周辺非干渉。
復元可能性。
人間言語でエルに説明すると、おそらく途中でエルはこう言う。
「つまり、こっちの柱をちょっと低くして、余ったのを丸く置く?」
意味は通る。
だが、それでは危ない。
今回は違う。
エルは、人間たちが整えた旧世代言語を、ゆっくり発音した。
「La kolumnoj kun paraj homaj nombroj, en la kratero markita K-naŭ, estu malaltigitaj je dek centimetroj laŭ la rekta supren-malsupren mezuro. La forprenita materio restu sama materio, kuŝante kiel plata rondo ĉe la piedo de ĉiu elektita kolumno. Nenio vivanta estas celo. Nenio ekster la elektitaj kolumnoj estas celo. La formo memoru sian antaŭan staton por ebla reveno.」
翻訳。
『K-9と印されたクレーター内で、人間の偶数番号を持つ柱だけを、上下方向の直線計測で十センチ低くする。
取り除かれた物質は同じ物質のまま、それぞれ選ばれた柱の足元に平たい円として横たわる。
生きているものは対象ではない。
選ばれた柱の外にあるものは対象ではない。
形は、戻る可能性のために以前の状態を記憶する。』
発話が終わった瞬間。
三十六本の柱のうち、十八本だけが、静かに低くなった。
切断音はない。
破砕音もない。
柱の上端が滑らかに下がり、失われた十センチ分の物質が、根元に円盤として現れる。
周囲の砂は動かない。
奇数番号の柱は変化しない。
クレーターの縁も、地面も、観測機器も、そのまま。
技術班長が思わず声を漏らした。
「成功です」
解析班主任が表示を確認する。
「偶数選択、完全一致。高さ変化、十センチ。誤差〇・四ミリ。質量保存、成立。周辺影響、検出限界以下」
魔術制御部長が言う。
「出力は高い。想定の三十一倍。ただし、先ほどより安定しています」
倫理監査主任が頷いた。
「“生きているものは対象ではない”の除外指定が効いています。観測船側への精神影響なし」
管制室に、初めて明確な成果の気配が広がった。
旧世代言語は危険だ。
だが、使えないわけではない。
人間が整え、エルが理解し、比喩を削り、対象を限定すれば、魔法の精度は確かに上がる。
エルは地表で、柱を見ていた。
「できた」
ジェレミーが答える。
「できた」
「でも、強い」
「強い」
「人間と一緒に文を作ると、少し安全」
「そうだ」
エルは少しだけ考えた。
「じゃあ、あたし一人で古い言葉を使わない方がいい?」
副長が答える。
「少なくとも、強い魔法ではそうです」
「遊びでも?」
管制室の数名が、同時に顔を上げた。
副長は微笑まずに言った。
「遊びでは、特にです」
「そっか」
エルは素直に頷いた。
「遊び、広がるから」
「ええ」
「かわいい鳥が、惑星になるかもしれない」
技術班長が小声で言う。
「あり得るのが怖いですね」
副長は聞こえないふりをした。
第四試行。
本来なら、ここで終わる予定だった。
第三試行が成功した場合、追加で一回だけ、より抽象的な条件指定を試す。
目的は、危険物の無力化。
対象区画内に配置された訓練用模擬危険体を、破壊せず、攻撃能力だけを停止させる。
模擬危険体は、神性存在の残穢を模したものではない。
本物に近づけすぎると危険だからだ。
ただし、形状は不定形。
攻撃手段は複数。
単純に「腕を止める」「砲口を塞ぐ」では足りない。
そこで、旧世代言語による機能指定を行う。
存在そのものは変えず、害をなす動作だけを止める。
これができれば、大きな意味がある。
エルは、クレーターの中央に置かれた黒い模擬体を見た。
それは、ゆっくり形を変えている。
棘のような突起。
砲口のような穴。
触手のような線。
どれも訓練用で、実害はない。
だが、見た目は不快だった。
エルは小さく言った。
「これ、かわいくない」
副長が即座に通信する。
「かわいくする訓練ではありません」
「うん」
「そのまま、止めてください」
「そのまま」
「はい。消さない。飾らない。癒やさない。意味を変えない。攻撃能力だけ停止」
エルは頷いた。
解析班が準備した文が送られる。
エルはそれを読んだ。
そして、発音する。
「Ĉi tiu ekzerca objekto restu tio, kio ĝi estas. Mi ne donas al ĝi koron, historion, feliĉon, pardonon aŭ belecon. Mi silentigas nur la agojn difinitajn kiel atako kontraŭ homa korpo aŭ homa sekureco. La cetera formo restu observebla.」
翻訳。
『この訓練物体は、それがそれであるまま残る。
あたしはそれに心も、歴史も、幸せも、許しも、美しさも与えない。
人間の身体または人間の安全への攻撃と定義された動作だけを沈黙させる。
その他の形は観測可能なまま残る。』
黒い模擬体が止まった。
棘は棘のまま。
砲口は砲口のまま。
不快な形は不快な形のまま。
ただし、攻撃動作だけが消えている。
突起は伸びない。
砲口は発射しない。
触手は動かない。
技術班長が興奮気味に報告する。
「攻撃機能停止。形状保持。構造改変なし。模擬意志付与なし。成功です」
戦闘班長が低く言う。
「これが本番で使えるなら、殺さずに止められる場面が増える」
倫理監査主任がすぐに返す。
「本番適用はまだ早いです。対象が人間だった場合の定義が危険すぎる」
「分かっている」
魔術制御部長が表示を見る。
「出力、想定の五十八倍」
管制室が静かになる。
「五十八」
副長が繰り返す。
「はい。現象規模に対して、依然として過剰です」
解析班主任が言う。
「“心も、歴史も、幸せも、許しも、美しさも与えない”という除外指定に、かなりの出力を使っています。エルさんの魔法が、それらを与える方向へ進みやすいから、否定するために力を消費している」
精神保護室長が静かに言った。
「つまり、エルさんにとっては“何もしない”ことが一番難しい」
その言葉は、管制室に重く落ちた。
何でもできる。
だから、何もしないことが難しい。
幸せを与えられる。
だから、与えないことに力が要る。
エルは地表で、黒い模擬体を見つめていた。
「止まった」
ジェレミーが言った。
「止まった」
「かわいくしなかった」
「しなかった」
「でも、すごく疲れる」
医療班主任がすぐに反応する。
「エルさん、身体状態は?」
「眠くない。痛くない。でも、内側がたくさん動いた」
精神保護室長が眉を寄せる。
「精神負荷が上がっています」
副長が言う。
「本日の試行は終了しましょう」
エルは顔を上げた。
「まだできる」
ジェレミーが答える。
「できるかどうかで決めない」
エルは黙った。
少しだけ不満そうだった。
子供のような不満ではある。
けれど、その奥には、もっと旧いものがあった。
自分ならできる。
自分なら叶えられる。
人間のためになるなら、続ければいい。
それは、elkore_felicoの本能に近い。
副長は静かに言った。
「エル。今日の目的は、限界を見ることではありません」
エルは管制室の方を見る。
「じゃあ、なに?」
ジェレミーが答える。
「使い方を覚えることだ」
「使えるよ」
「止め方も含めて、使い方だ」
エルは、そこで口を閉じた。
地表の映像の中で、小さな少女が、広大な無人惑星の上に立っている。
その周囲には、丸くなった岩。
一度だけ硝子になった砂地。
高さを変えた柱。
攻撃能力だけを失った黒い模擬体。
すべて、成功している。
すべて、危険だった。
エルはゆっくり頷いた。
「終わる」
管制室の数値が、少しずつ下がっていく。
魔力反応が収束する。
空間歪曲が消える。
旧世代言語波形の残響が、薄くなっていく。
技術班が回収ドローンを準備する。
エルを直接転移させる前に、周辺の魔力残滓を確認しなければならない。
その間、エルは何もせずに待っていた。
それが、今日一番重要な成果だった。
十分な力が残っている。
まだ魔法を使える。
もっと綺麗にできる。
もっと正確にできる。
もっと幸せな形にできる。
それでも、待つ。
人間の手順を待つ。
人間の確認を待つ。
人間が「まだ」と言ったら、まだ動かない。
観測船の管制室で、解析班主任がぽつりと言った。
「旧世代言語は、制御補助にはなります」
魔術制御部長が頷く。
「ただし、出力増幅媒体でもある」
技術班長が続ける。
「文法精度が上がるほど、概念参照範囲が広がる。対象を絞るために、周囲すべてを一度認識している」
倫理監査主任が言う。
「人間相手に使うには、まだ危険すぎます」
精神保護室長が静かに補足した。
「ですが、エルさん本人の自己理解には有効です。自分の言葉がどれほど世界を動かすか、本人が実感できている」
副長は記録を見ながら言った。
「運用案としては、旧世代言語の単独使用は禁止。関係班が文案を作成し、危険語を除去し、対象と除外条件を明記した場合のみ、無人環境または完全封鎖環境で試験的使用」
戦闘班長が腕を組む。
「本番投入は?」
ジェレミーが答えた。
「しない」
即答だった。
「現段階では、しない。これは武器化の訓練ではない」
管制室は静かになった。
ジェレミーは続ける。
「エルが人間と生きるための訓練だ。便利だから使う、ではない」
副長が頷く。
「記録します」
地表で、エルが空を見上げていた。
通信が入る。
「ジェレミー」
「何だ」
「古い言葉、便利?」
ジェレミーは少しだけ間を置いた。
「便利だ」
エルは瞬きした。
「でも、危ない?」
「危ない」
「じゃあ、どうする?」
「人間と相談して使う」
エルは考えた。
「人間と相談する魔法」
副長が通信に入る。
「かなり良い分類名ですね」
エルは少しだけ首を傾げた。
「正式?」
「正式にするかは、会議で決めます」
「会議」
「ええ」
エルは、ほんの少しだけ満足そうにした。
「じゃあ、あたし、会議まで使わない」
管制室の大人たちは、誰もすぐには返事をしなかった。
それは、かなり大きな言葉だった。
旧世代が、自分の本来の言語を、人間の会議まで待つと言った。
副長が静かに言う。
「ありがとうございます」
エルは不思議そうにした。
「ありがとう?」
「はい。待つことは、協力です」
エルは少し考える。
「そっか」
そして、小さく頷いた。
「あたし、協力する」
帰還処理が完了し、エルは観測船の隔離室へ転移した。
隔離室の中では、医療班主任と精神保護室長が待っていた。
ジェレミーと副長は、透明な遮断壁の向こうにいる。
エルは隔離室の床に立った。
少しだけ疲れた顔をしている。
けれど、倒れ込むほどではない。
医療班主任が言う。
「身体測定を行います」
「うん」
「痛みは?」
「ない」
「眠気は?」
「少し」
「気持ち悪さは?」
「ない」
精神保護室長が尋ねる。
「旧世代言語を、まだ話したい感覚はありますか」
エルは少し黙った。
それから、正直に言った。
「ある」
副長の視線が、少しだけ鋭くなる。
精神保護室長は落ち着いて続けた。
「どのように?」
「人間の言葉より、楽」
「楽」
「うん。人間の言葉は、小さい橋。古い言葉は、あたしの道」
解析班主任が別室で、その言葉を記録した。
精神保護室長は頷く。
「では、今日は人間の言葉だけで話しましょう」
エルは少しだけ不満そうにした。
「うまく言えない」
「うまくなくて構いません」
ジェレミーが遮断壁の向こうから言った。
エルはそちらを見る。
「ふわふわでも?」
「構わない」
「語彙、少なくても?」
副長が穏やかに言う。
「構いません。むしろ今日は、その方が安全です」
エルは自分の口元に触れた。
そして、ゆっくり言った。
「今日、石、丸くした」
「はい」
「砂、少し硝子にした」
「はい」
「柱、低くした」
「はい」
「黒いやつ、止めた」
「はい」
エルは言葉を探すように、少しだけ目を伏せた。
「古い言葉、すごかった」
ジェレミーが頷く。
「そうだ」
「でも、すごすぎた」
「そうだ」
「人間の言葉、へた」
「そうだな」
副長が一瞬だけジェレミーを見た。
ジェレミーは表情を変えない。
エルは続けた。
「でも、へたな方が、止まりやすい」
精神保護室長が静かに微笑んだ。
「良い理解です」
エルは、少しだけ安心したように見えた。
「じゃあ、あたし、しばらくへたでいる」
副長は、今度こそ少し笑った。
「それもまた、良い判断です」
正式記録は、その日のうちに作成された。
旧世代言語魔法行使大規模訓練。
実施場所、無人惑星Y-094。
観測、衛星軌道上大型観測船より実施。
人間影響、直接発生なし。観測者側心理変動、許容範囲内。
対象指定精度、大幅向上。
出力、全試行において想定超過。最大五十八倍。
比喩表現、惑星規模概念応答を誘発。
関係班作成文による使用時、安定性向上。
旧世代言語単独使用、当面禁止。
今後は、関係班による文案審査、危険語除去、対象・除外条件・復元条件の明記を必須とする。
備考欄には、副長が一文を追加した。
旧世代言語は、エルにとって精密な道具であると同時に、存在そのものへ近づく通路である。
そして、その下。
ジェレミーが短く追記した。
運用目的を誤るな。これは戦力化ではなく、共生のための訓練である。
訓練後、エルは監理局へ戻った。
レトとロジーは、待っていた。
もちろん、詳細映像は見せられない。
記録もまだ閲覧不可。
旧世代言語の発話内容も、許可が下りるまで公開できない。
それでも、二人はエルを見るなり駆け寄った。
「エル!」
「帰ってきた! 大規模訓練帰還記録! でも詳細聞いちゃだめなやつ!」
エルは二人を見た。
少し疲れている。
でも、ちゃんと立っている。
レトが不安そうに覗き込む。
「エル、大丈夫?」
その言葉に、エルの内側で何かが少し動いた。
大丈夫にしてあげたい。
心配を消してあげたい。
不安をなくしてあげたい。
でも、エルは何もしなかった。
ただ、人間の言葉で言った。
「大丈夫。ちょっと疲れた」
レトはぱっと表情を変えた。
「じゃあ、座ろう! わたし、お水持ってくる!」
ロジーがすぐにデバイスを光らせる。
「私は疲れたエル観察……じゃなくて、休憩環境整備!」
「観察はだめ」
「言い直したからセーフ!」
エルは二人を見た。
旧世代の言葉なら、もっと正確に言えたかもしれない。
自分が何を見て、何を動かし、どれだけ強くなって、どれだけ危なかったか。
人間の言葉では、うまく言えない。
でも今は、それでよかった。
エルはぽつりと言った。
「石、丸くした」
レトの目が輝いた。
「石!」
ロジーが身を乗り出す。
「どんな石!? 丸さは!? 手触りは!? 記録見られるやつ!?」
「まだ、だめ」
「だよね!」
エルは続けた。
「砂、ちょっと硝子にした」
レトが感心したように頷く。
「エル、すごい」
「でも、すごすぎた」
ロジーは少しだけ真面目な顔になった。
「そっか」
エルは頷く。
「だから、会議まで使わない」
レトはよく分かっていない顔をしながらも、真剣に頷いた。
「会議、大事だもんね!」
ロジーも頷く。
「会議まで使わないの、えらい。かなりえらい。記録したいくらいえらい」
「記録していいよ」
「いいの!?」
「うん。人間の言葉で」
ロジーは一瞬止まった。
それから、いつもの調子より少しだけ柔らかく笑った。
「了解。人間の言葉で記録します」
エルは小さく頷いた。
その日のロジーの記録には、旧世代言語の発話は一つも残らなかった。
代わりに、こう書かれた。
エル、大きい訓練から帰還。
石を丸くしたらしい。
砂をちょっと硝子にしたらしい。
すごすぎたらしい。
会議まで使わないらしい。
人間の言葉で、ちゃんと教えてくれた。
それは解析資料としては、ほとんど役に立たない記録だった。
でも、エルが監理局で生きていくための記録としては。
たぶん、とても正確だった。




