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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第60話-戦場に立つ白い幽霊…の噂

レトは硝子の彗星から生まれた魔力生命体だよ。

だから、人間よりも物を身近に感じていて、自分みたいに人格があるんじゃないかって錯覚する癖があるの!

レトはたまに、その認識が暴走しちゃう!

そんなエピソード(*≧ω≦)

惑星監理局の転移観測室に、何の前触れもなく空間の穴が開いた。


警報は鳴らなかった。


転移申請もない。


外部接続記録もない。


ただ、床から数センチほど浮いた位置に淡い光が生まれ、薄い硝子膜のようなものが左右へ開いた。


そこから、小さな足が一歩だけ踏み出した。


べちゃり。


床に泥が落ちた。


観測室にいた職員たちが、一斉に振り向く。


「……ただいま」


エルだった。


白髪のボブは泥と煤で固まり、毛先の淡いピンクはほとんど見えなくなっている。


服は、もはや衣服としての形を辛うじて保っているだけだった。


片方の袖が肩口からなくなっている。


スカートの裾は大きく裂け、焦げた布が何枚も重なって垂れていた。


上着の背中には、人間の頭ほどもある穴が開いている。


靴は片方しかない。


残った靴も底が剥がれ、泥水が染み込み、歩くたびにぐちゃりと鳴った。


身体中が土と煤と何かの油にまみれていた。


髪には枯れ草が絡み、頬には黒い線が走っている。


小さな身体から、火薬と焦土と濡れた土の臭いがした。


観測室が静まり返る。


最初に動いた職員は、エルの正面まで駆け寄った。


「エルさん」


「うん」


「そこで止まってください」


「もう止まってる」


「動かないでください」


「同じ意味?」


「今は質問しないでください!」


職員はエルの肩をつかみ、上から下まで確認した。


服はぼろぼろ。


泥だらけ。


煤だらけ。


どこかで大量の水を浴びたのか、全体が湿っている。


だが、その下に見える肌には、傷一つなかった。


肩にも。


腕にも。


むき出しになった脇腹にも。


細い脚にも。


火傷もなければ、出血もない。


痣さえない。


職員は安堵するより先に、顔を引きつらせた。


服の損傷から考えれば、身体が無事である方がおかしい。


「……何をしたんですか」


「見てた」


「何を」


「人間」


「どこで」


「人間が、人間をいっぱい殺してるところ」


観測室の空気が凍った。


職員の手が、エルの肩をつかんだまま止まる。


エルは気にした様子もなく、濡れた前髪を指で押さえた。


「なんで殺すのか、見てきた」


直後。


観測室の扉が勢いよく開いた。


生活班の女性職員が三人、洗浄用の布と大きな毛布と緊急用の着替えを抱えて入ってきた。


先頭の職員は、エルの姿を見た瞬間に目を見開いた。


次に、顔から表情が消えた。


「エルさん」


「うん」


「お風呂へ行きます」


「先に、ジェレミーに――」


「お風呂です」


「でも、ただいまを――」


「お風呂です」


エルは少しだけ考えた。


生活班職員の声は静かだった。


しかし、断るという選択肢が存在しない声だった。


「……うん」


エルは毛布でぐるぐるに巻かれ、そのまま三人に連行された。



生活区画、大浴室。


浴槽ではなく、洗い場だった。


エルは小さな椅子に座らされていた。


ぼろぼろの服は、すでに脱がされている。


脱衣籠へ入れようとした職員が、途中で諦めた。


布が泥と油を吸いすぎて重くなり、持ち上げただけで一部が崩れたからである。


現在は防水性の回収袋に封じられ、浴室の隅へ置かれている。


生活班職員の一人が、エルの髪へたっぷりと湯をかける。


黒い水が流れ落ちた。


「目を閉じてください」


「閉じた」


「口も閉じて」


エルは素直に口を閉じた。


髪へ洗浄剤が泡立てられる。


一度目の泡は、すぐに灰色になった。


流す。


二度目。


まだ黒い。


流す。


三度目で、ようやく白い髪が見え始めた。


別の職員がエルの腕を洗う。


肌には、本当に傷がない。


少し赤くなっている場所さえなかった。


「エルさん」


「うん」


「どこへ行っていたんですか」


「紛争地帯」


職員の手が止まった。


「名称は」


エルは知らない言葉を思い出すように、少し上を見た。


「たぶん、カルネア北部戦線」


もう一人の職員が深く息を吸った。


怒鳴らないための呼吸だった。


「どうして、そこへ?」


「人間が、人間を殺してたから」


「それは知っています」


「知ってるのと、見るのは違う」


「だからといって、無断で現地へ行っていいことにはなりません」


「でも、あたしが見ないと、分からない」


生活班職員は、エルの背中についた泥を洗い流しながら言った。


「分からないことがあれば、まず職員へ相談してください」


「相談したら、行かせない」


「当然です!」


浴室に声が響いた。


エルが少しだけ目を丸くした。


職員は一度口を閉じ、声を抑え直した。


「当然です。現在進行中の紛争地帯です。砲撃も、銃撃も、地雷もある。現地の軍や住民との接触によって、監理局の介入と誤認される可能性もあります。あなたの存在自体が機密に関わるんです」


「誰にも話してない」


「話しかけなくても見られます」


「少し見られた」


「どのくらいですか」


「いっぱい」


職員たちが一斉に黙った。


湯の音だけが続いた。


一人がエルの髪へ指を通し、絡まっていた細い金属片を見つけた。


引き抜く。


変形した弾丸だった。


職員の眉間に深い皺が寄る。


「……これは」


「撃たれた時の」


「撃たれた?」


「うん」


「どこをですか」


エルは自分の胸を指した。


「ここ」


職員の視線が、弾丸とエルの胸元を往復する。


肌には何もない。


「当たったんですか」


「いっぱい当たった」


「いっぱい」


「人間が、あたしを敵だと思ったみたい」


「その時点で帰ってきてください!」


「でも、その人たち、あたしが立ってたら撃つのをやめた」


「なぜですか」


「弾がなくなったから」


生活班職員は両手で顔を覆いたくなった。


だが、エルを洗っている最中なので耐えた。


別の職員が、エルの足の裏についた泥を落とす。


「地雷も踏んだんですか」


「三回」


「三回!?」


「最初は、地面が爆発した」


「地雷はそういうものです」


「二回目は、さっきと違う形に飛んだ」


「飛んだ?」


「身体が」


職員たちの動きが止まった。


エルは自分の身体を見下ろした。


「脚と、身体が、別のところに落ちた」


誰も返事をしなかった。


浴室の湯気の中で、エルの声だけが淡々と続く。


「でも、すぐ戻った」


「……痛くなかったんですか」


「痛かった」


エルは少し考える。


「人間が痛いって言うの、たぶん、あれ」


「それで、なぜ帰ってこなかったんですか」


「見てたから」


「何をですか」


「人間が、あたしを見た時の顔」


職員が手を止める。


エルは膝を抱えた。


「撃った人は、あたしが立ったら、怖い顔になった。地雷を踏んだ時に近くにいた人は、あたしの身体が戻ったら、泣きながら逃げた」


「それは逃げます」


「でも、少ししたら、また撃ってた」


エルは湯気の向こうを見ていた。


浴室ではない、別の場所を見ているようだった。


「目の前に、死なないものがいても、人間は、人間を殺すのをやめなかった」


生活班職員は、すぐには答えなかった。


エルの髪を、今度は優しくすすぐ。


「それで、何か分かりましたか」


「分からなかった」


エルは答えた。


「みんな、怖がってた。怒ってた。泣いてた。帰りたいって言ってた。死にたくないって言ってた」


「……はい」


「でも、殺してた」


エルは自分の手を見た。


「相手も、同じこと言ってた」


浴室に、しばらく湯の音だけが続いた。


生活班職員は怒っていた。


無断外出に。


危険地帯へ行ったことに。


監理局へ相談しなかったことに。


自分の身体が何度壊れても平然と見続けていたことに。


けれど、今のエルに必要なのが説教だけではないことも分かっていた。


職員は濡れたエルの頬へ手を添えた。


「分からないまま帰ってきていいんですよ」


エルが顔を上げる。


「分からないからって、身体を何度も吹き飛ばされるまで見続けなくていいんです」


「でも、あたし、治る」


「治ることと、壊れていいことは違います」


エルは黙った。


職員は少し強い手つきで、エルの頬についた最後の煤を拭った。


「痛いなら、痛い場所から離れてください」


「人間は、離れられなかった」


「あなたは離れられます」


「それは、ずるい?」


「ずるくありません」


「でも――」


「ずるくありません」


職員は断言した。


「まず自分が帰ってくる。そのあと、何ができるかを監理局と考える。それが、ここに所属しているあなたのやり方です」


エルは、しばらく職員を見ていた。


やがて、小さく頷いた。


「うん」


「それと」


職員の目が再び鋭くなる。


「無断外出については、お風呂のあとに改めて話します」


「まだ怒られる?」


「まだ始まっていません」


エルは少しだけ肩を落とした。


その後、エルは頭から足先まで四回洗われた。


耳の裏から細かな砂が出た。


髪から草の種が七つ出た。


足の指の間から金属片が二つ出た。


背中に付着していた黒い塊は、焦げた車両の一部だった。


最後に大きなタオルで包まれ、新しい寝間着を着せられたエルは、ようやく元の白くて小さな姿に戻った。


ただし、脱衣所の長椅子には生活班職員三名が並んでいる。


エルは、その正面の小さな椅子へ座らされた。


「では」


先頭の職員が言った。


「最初から説明してください」


エルは膝の上で指を組んだ。


「どこから?」


「勝手に空間を開いたところからです」


「長いよ」


「夜までかかっても聞きます」


エルは少し考えた。


それから諦めたように、最初から話し始めた。



数日後。


惑星監理局、情報班。


ロジーは複数の外部記録を同時に確認していた。


直接カルネア北部戦線の情報を探していたわけではない。


周辺宙域で発生している不審情報を整理している最中に、妙な記録群が検索へ引っかかったのである。


「なにこれ」


頭上のデバイスへ、複数の報告書が展開される。


発信元はばらばらだった。


避難民の証言。


軍の現場報告。


民間通信。


救護所の記録。


映像配信者の投稿。


宗教団体の声明。


どれも、同じ存在について書かれていた。


白い髪の少女。


武器を持たず、戦場を歩いている。


砲撃を受けて消滅したが、数秒後には同じ場所へ立っていた。


地雷によって身体を失ったにもかかわらず、何事もなかったように歩き続けた。


銃弾を受けながら、兵士へ反撃しなかった。


瓦礫の上に座り、戦闘が終わるまで人間を見ていた。


ロジーのデバイスが、類似記録を次々に表示する。


『北部戦線の白い幽霊』


『爆撃でも死なない子供』


『戦場を歩く再生体』


『敵軍の新型魔力兵器の可能性』


『死者を迎えに来る少女との民間伝承』


『監視映像上で四度死亡し、五度目撃された未確認存在』


ロジーは数秒間、無言で記録を見た。


情報班主任が隣から覗き込む。


「どうしました」


「……これ」


ロジーは一枚の静止映像を拡大した。


画質は悪い。


爆煙の向こう。


壊れた建物の前に、小さな白い影が立っている。


髪は泥で汚れ、服は裂けている。


それでも輪郭は明確だった。


エルである。


別の映像を開く。


地雷の爆発。


土煙。


画面の外へ飛ばされる小さな身体。


数秒後、映像の隅から何事もなかったように戻ってくる白い少女。


さらに別の記録。


兵士が震える声で叫んでいる。


『撃った! 確かに撃った! 頭が――頭がなくなったのに、戻った!』


画面の奥では、エルが自分の髪についた泥を払っていた。


ロジーは両手で顔を覆った。


「エルぅ……!」


情報班主任は無言で、すべての記録へ最高度の回収指定を入れた。


「対象地域の情報拡散経路を特定します。敵対組織が兵器情報として解析を始める前に、可能な限り処理してください」


「もう宗教できかけてる!」


「それも処理対象です」


「爆撃された女の子を見て、なんで信仰対象にするの!?」


「死ななかったからでしょう」


「エルだからだよ!」


「外部の人間は知りません」


ロジーのデバイスへ、新しい記録が届いた。


避難民の子供が描いた絵だった。


黒い空。


赤い炎。


倒れた人間たち。


その真ん中に、白い髪の小さな女の子。


女の子の周囲だけ、何度も消して描き直した跡がある。


添えられた証言は短かった。


『何回壊れても戻ってきて、ずっとみんなを見ていた』


ロジーの動きが止まった。


「……これ、エルに見せる?」


情報班主任は少し考えた。


「まず生活班と監理班へ確認を取ります」


「そうだね」


ロジーは絵を閉じなかった。


情報を整理し、拡散元を追い、類似報告を分類しながらも、画面の端へ残していた。


しばらくして、情報班の入口から小さな足音が聞こえた。


「ロジー」


エルだった。


いつもの白い髪。


いつもの淡いピンクの毛先。


新しい服。


傷一つない身体。


ロジーは反射的に画面を閉じようとした。


だが、エルはもう見ていた。


「それ、あたし?」


「うん」


ロジーは隠さなかった。


エルは、子供の描いた絵を見た。


「壊れてる」


「エルがね」


「絵も」


何度も消して描き直された白い少女。


一度消えた。


また現れた。


また消えた。


また描かれた。


エルは画面へ少し近づいた。


「この子、見てたんだ」


「たぶんね」


「怖かったかな」


「めちゃくちゃ怖かったと思う」


エルは少し黙った。


「でも、覚えてた」


ロジーは答えなかった。


エルは、描かれた自分をしばらく眺めた。


「人間が人間を殺す理由、まだ分からない」


「うん」


「でも、あたしがいたこと、この子は覚えてる」


「うん」


「それは、見に行ったから?」


ロジーはエルを見た。


「そうかもしれない。でも、だから次も勝手に行っていい、にはならないからね」


「分かってる」


「ほんとに?」


「生活班の職員さんに、いっぱい言われた」


「どのくらい?」


「お風呂より長かった」


ロジーは一瞬黙り、それから吹き出した。


「それ、相当だよ!」


エルは少しだけ不満そうにした。


「途中で、おやつの時間なくなった」


「完全に自業自得!」


情報班主任は、二人の会話を聞きながら記録処理を続けた。


画面の中では、白い少女の噂が今も増えている。


幽霊。


兵器。


神の使い。


不死者。


死者を見送る子供。


どれも違う。


エルはただ、見ていただけだった。


人間が、どうして人間を殺すのか。


分からないものを分かろうとして。


砲撃に吹き飛ばされ。


銃弾に身体を砕かれ。


地雷で何度もばらばらになりながら。


何にも干渉せず。


誰も救わず。


誰も殺さず。


ただ、戦場の中に立っていた。


その結果、人間たちには一つだけ、答えのない記録が残った。


人間同士が殺し合う場所で。


何度殺されても反撃せず。


何度壊れても戻ってきて。


最後まで人間を見ていた、白い少女の記録が。



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