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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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余談-宙域監査官『ジェレミー・クリエット』

これは現在の監理局の誰にも知られていない、ジェレミー本人の内側だけに残っている過去。

現実の宇宙に生きていた頃の記憶。

かつて、宙域監査官だった頃のジェレミーは、危険性の判定者であり、惑星破壊と宙域封鎖の実行者でもあった。



宙域監査官ジェレミー・クリエット ――判定者


その惑星には、海があった。


青くはなかった。


地表の七割を覆う液体は、恒星光を受けるたび、銀色に反射した。海面は波打たず、広大な金属膜のように静止している。大陸は三つ。都市光は夜側に集中していた。軌道上から見れば、それはまだ若い文明の、ありふれた灯りに見えた。


だが、監査船の主観時間で三時間前。


その灯りの一部が、外宇宙へ向けて信号を放った。


通信ではなかった。


挨拶でも、救難でも、観測データでもない。


受信した船体の演算核が、二秒で自己再構成を始めた。


隔離遮断が作動しなければ、監査船はその場で失われていた。


艦橋は静かだった。


警報音はすでに止まっている。

すべての通信系統は物理遮断。

外部観測窓は閉鎖。

内部音声も、必要最小限に抑えられている。


中央席の前に、ひとつの表示が浮かんでいた。


監査対象:第三生命圏

文明段階:惑星内統合未達

危険分類:未確定

監査権限:宙域監査官ジェレミー・クリエット


ジェレミーは表示を見ていた。


まだ若かった。


ただし、年齢の問題ではない。


その頃の彼は、今よりもさらに余分なものがなかった。


表情も。

声の揺れも。

ためらいも。

自分を慰めるための言葉も。


副官が、硬い声で報告した。


「第二隔離演算核、完全停止。感染拡大なし。被害は隔離区画に限定」


「人的被害は」


「なし。監査官の初動判断で間に合いました」


ジェレミーは頷かなかった。


「対象信号の解析」


「言語構造ではありません。思考誘導に近い。受信した装置の判断系を乗っ取り、自己複製用の送信装置へ転用します」


「発信源」


「惑星北半球、内陸都市群。単一施設ではありません。都市インフラそのものが発信器です」


艦橋の空気が、わずかに冷えた。


都市インフラ。


つまり、文明の中心部。


兵器工場や軍事基地ではない。


交通管制。

医療網。

電力網。

教育通信。

娯楽配信。

行政記録。


そこに、外宇宙へ向けた侵食信号が混ざっている。


ジェレミーは、惑星の夜側を拡大した。


都市の光が、銀色の海岸線に沿って広がっている。

そのひとつひとつに、人間に似た生命がいる。


食事をしている者。

眠っている者。

誰かを待っている者。

明日の予定を立てている者。

今日を後悔している者。

誰かに会いたいと思っている者。


監査船の観測精度なら、そのすべてを数値として拾えた。


だが、数値は数値でしかない。


ジェレミーは言った。


「初期接触記録を出せ」


副官が一瞬だけ沈黙した。


「閲覧しますか」


「出せ」


表示が切り替わる。


軌道投入から十二分後の記録だった。


監査船は正規手順に従い、接触意思のない受動観測のみを行っていた。ところが惑星側は、監査船の存在を感知した。


ありえない速度だった。


この文明段階では、軌道上の不可視監査船を認識する技術はない。


にもかかわらず、惑星側は見つけた。


そして、送ってきた。


最初の信号。


翻訳系はそれを、意味のある言葉として処理しようとした。


処理できなかった。


ただ、解析ログの一部に、奇妙な文字列が残っていた。


開け。

混ざれ。

孤独を終わらせろ。


副官が言った。


「意図的な攻撃かどうかは不明です。彼ら自身が、この信号を通信だと認識している可能性もあります」


「被害範囲」


「この宙域に恒常通信網が存在した場合、三十四時間以内に隣接基地へ到達。百二十時間以内に管理圏境界へ接触。以後の予測は、演算核を隔離しなければ不可能です」


「封じ込め案」


副官は答えなかった。


代わりに、別の職員が端末を操作した。


画面に七つの案が表示される。


通信遮断。

軌道封鎖。

地表施設の限定破壊。

電磁圏焼却。

主要都市群の同時制圧。

惑星規模の文明停止。

惑星破壊。


上から順に、実行可能性が低かった。


下へ行くほど、確実だった。


ジェレミーは七つの案を見た。


「限定破壊の成功率」


「四%未満」


「根拠」


「発信構造が都市インフラ全体に分散しています。発信源を破壊しても、残存系統が自己補完する可能性が高い」


「文明停止」


「成功率二十八%。ただし、停止処理中に信号が外部へ漏れる可能性があります」


「軌道封鎖」


「不十分です。信号が物質通信に依存していません。観測、受信、解釈のいずれかが成立した時点で感染します」


「惑星破壊」


「成功率九十九・九七%。破壊後、残留粒子を封鎖。宙域航行禁止を恒久設定すれば、外部拡散は防げます」


職員の声は乾いていた。


誰も、最後の案を望んでいない。


だが誰も、それが選択肢から外れるとは思っていなかった。


なぜなら、この船には宙域監査官が乗っている。


調査官。

判定者。

実行者。


ジェレミー・クリエットは、そのためにここにいた。


通信士が言った。


「監査官。惑星側から再信号です」


艦橋の全員が、無意識に息を止めた。


「遮断状態は」


「維持。内容は隔離解析のみ」


「表示しろ」


表示が開く。


今度は映像だった。


都市の一室。

粗い画質。

監査船へ向けて送られた、何らかの映像記録。


画面の中央に、小さな生命体がいた。


人間の子供に近い姿だった。


銀色の海を背景に、透明な窓の前に立っている。

手には、紙のようなものを持っていた。


その子供は、こちらへ向けて何かを言った。


翻訳系は沈黙した。


音声は信号に汚染されている。

解析すれば感染する。

だから言葉としては処理できない。


ただ、その表情だけは見えた。


笑っていた。


怯えていなかった。

攻撃しているつもりもない。

ただ、空に何かを見つけて、手を振っている。


艦橋の誰かが、小さく息を呑んだ。


副官が、かすれた声で言った。


「監査官……これは」


「切れ」


「しかし」


「切れ」


映像が消えた。


ジェレミーの声は変わらなかった。


「外部表示に感情誘導を混ぜる能力がある。以後、視覚記録も隔離。直接閲覧は禁止」


副官は黙った。


その判断は正しい。


あまりにも正しい。


だからこそ、誰もすぐには動けなかった。


子供の映像を見たからではない。


ジェレミーが、それを見ても何も変えなかったからだ。


ジェレミーは席を立った。


「監査官権限を行使する」


艦橋の空気が、完全に止まった。


「第三生命圏を危険指定。接触継続不可。感染拡散の危険を最優先脅威と認定」


副官が、正式手順のために問い返す。


「判定内容を確認します。対象文明の救済、隔離、限定制圧の可能性は」


「不成立」


「理由」


「感染経路が文明基盤と不可分。対象が敵意を持つか否かは、危険判定に影響しない」


「最終処置は」


ジェレミーは、ほんの一秒だけ惑星を見た。


銀色の海。

三つの大陸。

夜側の都市光。


あの映像の子供がいた都市は、北半球の内陸部にある。


拡大すれば、窓の位置まで分かるだろう。


ジェレミーは拡大しなかった。


「惑星破壊。宙域封鎖」


副官は目を伏せた。


「承認者」


「宙域監査官ジェレミー・クリエット」


「実行者」


「同じく」


その瞬間、艦橋の照明が赤から白へ変わった。


戦闘ではない。


処刑でもない。


少なくとも、当時の組織はそう呼ばなかった。


それは監査結果の執行だった。


監査船の下部構造が展開する。


惑星規模破壊兵装。


恒星光を遮るほど巨大な砲身ではない。

仰々しい神の槍でもない。

ただ、船体の奥で眠っていた幾何学構造が、静かに整列する。


標的座標。

地殻深度。

重力井戸。

海洋金属成分。

大気組成。

残留粒子封鎖範囲。


すべてが計算される。


一発で終えるために。


苦痛を長引かせないためではない。


反撃を許さないためだった。


ジェレミーは執行鍵を受け取った。


小さな透明な板だった。


そこには、彼の生体認証と職務権限が紐づいている。


副官が言った。


「最終確認。対象惑星上には知的生命反応多数。非戦闘個体、幼体個体を含む」


「確認した」


「対象文明が危険性を自覚していない可能性」


「確認した」


「対象文明との交渉可能性」


「感染危険により棄却」


「執行後の記録分類」


「永久封鎖。教育利用不可。閲覧権限は監査官級以上」


副官は、最後の問いを発した。


「監査官。判定に異議はありませんか」


ジェレミーは透明な板に指を置いた。


「ない」


声紋認証。

神経反応認証。

意思決定遅延測定。

恐怖反応。

迷い。

外部干渉。

すべてが測られる。


判定は通った。


ジェレミー・クリエットは、揺れていなかった。


兵装が起動した。


艦橋に衝撃はなかった。


音もなかった。


ただ、惑星の銀色の海に、細い光が一本落ちた。


それは地表を焼かなかった。


都市を吹き飛ばすこともなかった。


光は、惑星の奥へ沈んだ。


数秒後。


大陸の輪郭が歪んだ。


銀色の海が持ち上がり、地表全体が内側から白く発光した。惑星という巨大な器が、中心から静かに割れていく。


夜側の都市光が消えた。


一つずつではない。


すべて同時に。


画面上の生命反応が、数値として落ちていく。


十億。

七億。

三億。

測定不能。

ゼロ。


職員の一人が、奥歯を噛み締める音がした。


ジェレミーは、最後まで画面を見ていた。


目を逸らさなかった。


それは誠実さではない。


罰でもない。


彼にとって、執行者が結果を確認するのは当然だった。


破片が広がる。


封鎖衛星が射出される。


宙域境界に、無人警告標識が配置されていく。


この先、航行禁止。

観測禁止。

通信応答禁止。

監査官権限により、恒久封鎖。


副官が報告した。


「第三生命圏、消失。感染信号、検出なし。封鎖処理、開始」


「残留記録」


「隔離保存。閲覧には監査官承認が必要です」


「私の承認なしに開くな」


「了解」


それで終わりだった。


惑星ひとつの終わりにしては、あまりにも短い報告だった。


艦橋の職員たちは、それぞれの席で作業を続けた。

誰も泣かなかった。

誰も叫ばなかった。

誰もジェレミーを責めなかった。


責められるべき個人がいるなら、それは判断者であり実行者であるジェレミーだった。


だが、組織は彼を責めない。


彼は職務を果たした。


被害は外へ漏れなかった。


管理圏は守られた。


監査は成功した。


数時間後。


ジェレミーは個室で、執行報告書を書いていた。


文章は短かった。


対象文明は外部接触により不可逆汚染を拡散する危険を有していた。

救済および限定制圧は不成立。

惑星破壊および宙域封鎖を実施。

感染拡散なし。

監査完了。


それだけでよかった。


それだけが必要だった。


報告書の末尾に、補足欄があった。


ジェレミーはそこに何も書かなかった。


子供の映像のことも。

銀色の海のことも。

都市光が消える瞬間のことも。

自分が一秒だけ惑星を見たことも。


書かなかった。


書けば、意味が生まれる。


意味が生まれれば、判断が濁る。


判断が濁れば、次の宙域で遅れる。


遅れれば、もっと多くが死ぬ。


だから彼は、何も書かなかった。


ただ、報告書を閉じる直前。


隔離記録の一覧に、映像ファイルがひとつ表示された。


再生禁止。

解析禁止。

視覚閲覧禁止。


それでも、サムネイルだけは残っていた。


窓の前で手を振る、小さな生命体。


ジェレミーはそれを削除しようとした。


指が、端末の上で止まった。


一秒。


二秒。


三秒。


削除しなかった。


保存分類を変えた。


監査官個人封鎖記録。


誰にも開けない。

誰にも見せない。

教育資料にもならない。

慰霊にもならない。

弁明にもならない。


ただ、彼だけが知っている。


彼が判定した。

彼が実行した。

彼が消した。


その事実を、彼自身から逃がさないためだけの記録。


ジェレミーは端末を閉じた。


個室の照明が落ちる。


窓の外には、封鎖標識の光が規則正しく並んでいた。


その向こうには、もう惑星はない。


彼は目を閉じなかった。


眠る必要がなかったわけではない。

疲れていなかったわけでもない。


ただ、目を閉じれば、銀色の海が見える気がした。


だから彼は、朝まで起きていた。


それから長い時間が経った。


現実の宇宙から切り離され、硝子玉の宇宙へ迷い込み、帰れなくなり、惑星監理局の局長になってからも。


ジェレミー・クリエットは、危険な存在を前にした時、即座に排除できる。


今でもできる。


必要なら撃つ。

必要なら止める。

必要なら、誰よりも早く決断する。


だが、彼は知っている。


「危険だから消す」は、答えとしては簡単だ。


そして、簡単な答えで宇宙は守れることがある。


けれど。


消したあとには、何も残らない。


銀色の海も。

夜の都市も。

窓の前で手を振った小さな命も。


何も残らない。


だから今の彼は、監理局の会議室で言う。


「危険物として扱うな」


「人格を見ろ」


「使い潰すな」


「守る対象に、本人も含めろ」


その言葉の理由を、誰も知らない。


副長も。

レトも。

ロジーも。

エルも。


誰も知らない。


ジェレミーも、説明しない。


ただ、判断だけが残っている。


かつて惑星を消した男は、今、危険を抱えた少女たちの帰る場所を守っている。



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