第57話-敵性パンケーキ
惑星監理局、生活区画の一角。
そこには、以前の外出任務で購入された本格ミニキッチンが置かれていた。
ミルクホワイトの小さな調理台。
低温魔導加熱式のコンロ。
安全包丁。
小型のフライパン。
小さな流し台。
レトとロジーが「生活革命」と呼び、外務班職員が「生活学習用品です」と訂正し続けた、あのミニキッチンである。
その前に、エルが立っていた。
白い髪の毛先を淡く揺らしながら、エルは小さなボウルを見下ろしている。
ボウルの中には、パンケーキ生地。
卵。
牛乳。
粉。
砂糖。
少しの塩。
それらを、エルは魔法ではなく、ちゃんと小さな泡立て器で混ぜていた。
ロジーは隣でデバイスを起動している。
「記録開始! 本日の企画、エルの本気料理! 使用設備、例の本格ミニキッチン! 目標、パンケーキ!」
レトは両手を握りしめ、きらきらした目で見守っていた。
「エル、がんばって! わたし、食べる係する!」
「私も食べる係する!」
「ロジーは記録係でしょ?」
「記録しながら食べる係!」
エルはボウルを見たまま、ぽつりと言った。
「今日は、魔法使わない」
レトがぴしっと背筋を伸ばす。
「ほんとの料理任務だね」
「うん」
エルは泡立て器をゆっくり回した。
「魔法で出すと、すぐできる。でも、それは料理じゃない気がする」
ロジーの目が輝いた。
「名言! 保存!」
「保存していいよ」
「許可出た! 本人許可あり記録!」
エルは混ぜた。
真剣だった。
いつものふわふわした表情ではあるが、目線はボウルから離れない。
小さな手で泡立て器を握り、粉の塊を見つけるたびに、じっと見てから潰す。
レトが横から覗く。
「エル、上手!」
「まだ、液体」
「液体も上手!」
「液体に上手、ある?」
「あるよ!」
ロジーが即答した。
「混ざり方がいい液体は上手!」
「そっか」
エルは少し嬉しそうにした。
それからフライパンを温めた。
生活班から借りた小さな油を薄く引く。
ロジーが横で読み上げる。
「手順一、フライパンを温める。手順二、生地を流す。手順三、表面にぷつぷつ穴が出たら裏返す!」
レトが真剣に頷く。
「ぷつぷつ穴が合図……」
エルは小さなレードルで生地をすくった。
とろり、と白っぽい生地がフライパンに落ちる。
丸く広がる。
三人は息を止めた。
じゅう、と小さな音がした。
レトが感動した顔になる。
「料理の音……!」
ロジーがデバイスを近づける。
「接写! パンケーキ発生初期段階! ふちが固まり始めています!」
エルはじっと見ていた。
じっと。
じっと。
じっと。
「エル?」
レトが首を傾げる。
「そろそろ、ぷつぷつ出てきたよ?」
「見てる」
「裏返す?」
「まだ」
ロジーがレシピを確認する。
「たぶん、もう裏返していいやつ!」
「まだ」
エルは動かなかった。
パンケーキの表面に、小さな穴がいくつも開く。
ふちが乾いていく。
甘い香りが広がる。
そして、ほんの少し。
ほんの少しだけ、焦げた匂いが混ざった。
レトの鼻がぴくっと動いた。
「……エル?」
ロジーも止まる。
「これ、もしかして、焼きすぎ判定?」
エルは静かにフライ返しを持った。
「今」
そっと差し込む。
慎重に持ち上げる。
裏返す。
ぱたん。
その瞬間、三人は黙った。
フライパンの上に現れたのは、黒かった。
きつね色ではない。
黄金色でもない。
ふわふわの朝ごはんでもない。
小さな円形の、焦げた何かだった。
レトが目を丸くする。
ロジーのデバイスが、気まずそうに録画ランプを弱める。
エルは、じっとそれを見た。
長い沈黙。
それから、エルは言った。
「これは、あたしが作ったやつじゃない」
レトが瞬きした。
「え?」
エルは真顔だった。
「あたしのパンケーキは、ふわふわで黄金色」
ロジーが口元を押さえる。
「うん」
「これは、きっと敵」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
レトの瞳が一瞬で真剣になる。
「敵……!」
「レト、乗らないで! いや待って、面白いから乗って!」
ロジーはデバイスを構え直した。
「記録訂正! 本日の企画、エルの本気料理から敵性パンケーキ遭遇事案へ移行!」
エルはフライ返しを構えた。
「擬態してる」
「パンケーキに?」
「うん」
「何のために?」
エルは少し考えた。
「料理を失敗したことにするため」
ロジーが膝を叩いた。
「高度な心理攻撃だ!」
レトは小さな硝子短剣を一本だけ作りかけて、すぐに引っ込めた。
「だめだ、ミニキッチンの近くで戦闘行動不可だった……!」
「えらい!」
ロジーが拍手する。
エルは焦げたパンケーキを皿に移した。
黒い面が上を向いている。
三人は机の上に置かれたそれを囲んだ。
エルは皿を指差す。
「名乗って」
焦げパンケーキは何も言わなかった。
ロジーが真剣な声を作る。
「黙秘しています」
レトも真剣に頷く。
「かなり強い敵かもしれない」
「レトまで真剣!」
そこへ、生活班の職員が様子を見に来た。
「調理の進捗はどうですか?」
三人は同時に振り向いた。
レトが報告する。
「職員さん、敵が出ました!」
職員は皿を見た。
焦げたパンケーキを見た。
エルを見た。
ロジーのデバイスを見た。
そして、すべてを理解した顔で頷いた。
「焦げましたね」
エルが即答した。
「焦げてない」
「焦げています」
「敵」
「焦げたパンケーキです」
エルはじっと職員を見た。
「あたしのパンケーキは、ふわふわで黄金色」
「はい」
「これは違う」
「はい」
「だから、敵」
生活班の職員は、少しだけ考えた。
そして、非常に落ち着いた声で言った。
「では、敵を倒すために、次のパンケーキを成功させましょう」
エルが瞬きした。
レトがぱあっと顔を明るくする。
「なるほど! 勝利条件、次のパンケーキを黄金色にする!」
ロジーがデバイスに高速で打ち込む。
「作戦名、敵性パンケーキ再発防止および黄金色奪還作戦!」
「長い」
エルが言った。
「じゃあ、黄金作戦!」
「採用!」
生活班の職員は手順を教えた。
火力を少し下げること。
ぷつぷつが出始めたら待ちすぎないこと。
表面が全部乾く前に裏返すこと。
焦げた匂いがしたら、もう遅いこと。
エルは真面目に聞いた。
レトも真面目に聞いた。
ロジーは真面目に記録した。
そして二枚目。
生地を流す。
丸く広がる。
じゅう、と鳴る。
ぷつぷつが出る。
エルの手が止まる。
レトが小声で言った。
「エル、今」
ロジーも小声で言う。
「今です、隊長」
生活班の職員も頷いた。
「今です」
エルはフライ返しを差し込んだ。
少しだけ端が折れた。
でも、ちゃんと持ち上がる。
ぱたん。
今度は、淡い黄金色だった。
レトが跳ねた。
「できた!!」
ロジーが叫ぶ。
「黄金色! ふわふわ寄り! 端ちょっと変形! でも成功!」
エルはフライパンの中のパンケーキをじっと見た。
そして、小さく言った。
「これは、あたしが作った」
レトがにこにこする。
「うん!」
ロジーが親指を立てる。
「完全勝利!」
エルは一枚目の黒いパンケーキを見た。
それから二枚目を見た。
しばらく考える。
「さっきの敵がいたから、これはできた?」
生活班の職員が微笑んだ。
「そうですね。失敗を見たので、次に調整できました」
エルは黒いパンケーキを見る。
「じゃあ、敵だけど、役に立った」
「敵の評価が上がった!」
ロジーが笑った。
レトは焦げたパンケーキに向かって、真剣に言った。
「敵、ありがと。次は焦げないでね」
生活班の職員がそっと顔を伏せた。
笑ってはいけないと思っている顔だった。
その後、三枚目、四枚目と焼くうちに、エルのパンケーキは少しずつ丸くなった。
一枚は端が欠けた。
一枚は妙に分厚かった。
一枚はなぜか星形に近くなった。
ただし、魔法ではない。
エルがフライ返しの角度を間違えたり、レトが応援しすぎてタイミングを急かしたり、ロジーが撮影に夢中になって「今!」を言い忘れたりした結果である。
皿の上には、完璧ではないパンケーキが積まれていった。
そこへジェレミーが通りかかった。
レトがすぐに振り向く。
「お兄さん!」
ジェレミーは小さなミニキッチンと、皿の山と、黒い一枚を見た。
「料理中か」
エルが頷く。
「うん。敵も出た」
ジェレミーは黒いパンケーキを見る。
「そうか」
ロジーが笑いを堪えながら言う。
「局長、敵性パンケーキです」
ジェレミーは表情を変えない。
「被害は」
レトが元気よく答えた。
「エルの名誉がちょっと攻撃されました!」
「重大だな」
エルは黄金色の一枚を皿に乗せ、ジェレミーへ差し出した。
「これは、あたしが作ったやつ」
ジェレミーは受け取った。
「食べていいのか」
「うん」
ジェレミーは小さく切って、口に運んだ。
少し噛む。
飲み込む。
「うまい」
エルは、ほんの少しだけ目を丸くした。
レトが両手を上げる。
「やった!!」
ロジーが叫ぶ。
「成功判定! 局長評価、うまい! 記録! 永久保存!」
エルは自分の手元を見た。
小さな泡立て器。
粉のついた指。
少し油の跳ねた袖。
焦げた一枚。
黄金色の一枚。
それから、黒いパンケーキをもう一度見た。
「これは、敵」
少し間を置いて、付け足す。
「でも、あたしの敵」
レトが首を傾げる。
「エルの敵?」
「うん。あたしが作った失敗の敵」
ロジーがにやにやする。
「お、認めた?」
エルはぷいっと顔を逸らした。
「敵」
「認めてない!」
ジェレミーは静かに皿を置いた。
「次は焦げる前に裏返せばいい」
エルは頷いた。
「次は勝つ」
レトが拳を握る。
「わたし、応援する!」
ロジーがデバイスを光らせる。
「私、記録する!」
生活班の職員が新しい生地を渡す。
「では、もう一枚いきましょう」
エルはフライパンを見た。
今度は、ほんの少しだけ楽しそうだった。
「黄金作戦、再開」




