第56話-レトが来た日
その日の朝、ロジーは情報班の机の上で、頭上デバイスをぴかぴか光らせながら固まっていた。
固まっているロジーは珍しい。
ふだんなら、資料の山に埋もれていても、片手で記録分類、片手でお菓子、口では三つ先の話題を喋っている。
けれど今は、デバイスのホログラムを見つめたまま、ぴたりと動かない。
表示されていたのは、古い受け入れ記録だった。
『箱庭個体・レト 惑星監理局保護受け入れ日』
ロジーは目を瞬かせた。
「……今日じゃん」
隣で資料を整えていた情報班の職員が顔を上げる。
「何がですか」
「レトが監理局に来た日」
ロジーは椅子から勢いよく立ち上がった。
「今日、レトが監理局に来た日の記念日じゃん!!」
その声は情報班の端まで届いた。
記録整理官が穏やかに目を細める。
「そうですね。正式な誕生日とは違いますが、監理局にとっては大事な日です」
「大事な日だよ! ものすごく大事な日! だってレトが、ここに来た日だよ!?」
ロジーのデバイスが、勝手に議事録テンプレートを開いた。
緊急会議。
議題:レトが監理局に来た日の記念日をどうするか。
重要度:最高。
参加者:これから集める。
ロジーは机を両手で叩いた。
「サプライズする!」
情報班の職員たちは、誰も止めなかった。
なぜなら、その判断はもう遅かったからである。
ロジーが「記録すべき楽しいこと」を見つけた時点で、事件は発生している。
数分後。
監理局の廊下の隅に、小さな女子会空間が展開された。
淡い星明かり。
丸いクッション。
小さな机。
お菓子皿。
そして中央に、真剣な顔のロジーと、ぽやっと座るエル。
「本日の議題!」
ロジーはデバイスのホログラムを大きく開いた。
「レトにサプライズ! 理由、今日はレトが監理局に来た日の記念日!」
エルは首を傾げた。
「レトが来た日」
「そう! レトが、ここに来た日! 職員さんに見つけられて、保護されて、局長に会って、ここがレトの場所になった日!」
エルは少し考えた。
「あたし、その日、いた?」
「たぶん近くにはいた! でも今みたいに一緒にお菓子食べてなかった!」
「そっか」
エルは机の上のクッキーをひとつ持った。
「じゃあ、今日からは食べる日」
ロジーは目を輝かせた。
「いい! それ、いい! “今日からは一緒に食べる日”! 採用!」
デバイスが高速で打ち込む。
記念日名称案一:レトが来た日
記念日名称案二:今日からは一緒に食べる日
備考:エル案、かわいい。
エルはホログラムをじっと見た。
「サプライズ、何する?」
「そこが問題!」
ロジーは腕を組んだ。
「普通にプレゼント渡すだけでも嬉しいと思う。でも、レトは作戦とか任務とか好きだから、ただ渡すより、ちゃんと“記念日作戦”にしたい」
「作戦」
「うん。だけどレトに作戦って言ったら絶対参加しちゃうから、今回は秘密作戦」
エルは小さく頷いた。
「レトに内緒の、レトの作戦」
「そう!」
ロジーは両手を広げた。
「主役不在のレト記念日作戦!」
そこへ、副長が通りかかった。
女子会空間の外で、ぴたりと足を止める。
「……聞かなかったことにした方がよさそうですか?」
ロジーは即座に空間の入口を開けた。
「副長! ちょうどいいところに! 秘密作戦です!」
「聞かなかったことにできない入り方ですね」
副長は微笑んだまま、空間の中を覗いた。
「レトの記念日ですか」
「そう! 今日、レトが監理局に来た日!」
「なるほど」
副長は少しだけ目を細めた。
その表情は、いつもの悪ノリより、少しだけ静かだった。
「局長には?」
「まだ!」
「では私から確認を取ります。レトの古い記録を使うなら、公開範囲を決めてください。ロジー、勝手に全部見せない」
ロジーはぴしっと背筋を伸ばした。
「はい! 本人に見せていい範囲、局長確認済み、監理局内部限定、外部持ち出し禁止!」
「よろしい」
エルが手を挙げた。
「あたし、作っていい?」
副長は一瞬だけ沈黙した。
「何をですか?」
「レトが来た日の、ちいさい場所」
「記憶再現ではありませんね?」
「あたし、心には触らない。記録と物だけ」
副長は頷いた。
「ならば可。ただし、見るかどうかはレトが決めること。驚かせるのは構いませんが、感情を強制しないように」
エルは静かに頷いた。
「うん。レトが嫌なら、しまう」
ロジーはデバイスに書き足した。
重要:泣かせる作戦ではない。
重要:嬉しいかどうかはレトが決める。
重要:でも絶対かわいい反応は記録したい。
副長がそこを見た。
「最後の一文は分類を変えなさい」
「はい」
重要:レト本人の許可が出たら記録する。
「よろしい」
その頃、レトは戦闘班の訓練室で、硝子の短剣を浮かせながら首を傾げていた。
「……なんか、今日、みんな変」
近接戦闘員が汗を拭きながら聞き返す。
「何がだ?」
「ロジーが朝からわたしを見て、にこにこして逃げた」
「いつもだろ」
「いつもは逃げないよ。にこにこして近づいてくるよ」
「それはそれでどうなんだ」
レトは短剣をくるくる回した。
「エルも、さっきわたしを見て、“まだ”って言った」
「何がまだなんだ?」
「わからない」
レトは真剣な顔になった。
「これは、秘密任務の気配がします」
戦闘班の数名が、同時に視線を逸らした。
知っている顔だった。
レトは目を細める。
「……職員さんたちも、知ってる顔をしてる」
近接戦闘員は咳払いした。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。わたし、戦闘班だよ。気配わかるよ」
「じゃあ訓練続行だ。気配を読む前に足元を見ろ」
「むう」
レトは不満そうに頬を膨らませたが、短剣を構え直した。
けれど、その日一日、監理局は明らかにおかしかった。
食堂職員が、レトを見るたびににこにこする。
医療班の主治医が、いつもより優しい声で「今日は無茶をしないように」と言う。
技術班の職員が、廊下の飾りを隠すように立っている。
ロジーは視界の端で何度も走り、エルは何かを両手で持って、すぐ背中に隠す。
レトは、だんだんそわそわしてきた。
そして夕方。
局長室に呼ばれた。
レトは一瞬で背筋を伸ばした。
「お兄さん、任務?」
ジェレミーは書類から目を上げた。
「任務ではない」
「じゃあ、叱られる?」
「叱る予定もない」
「じゃあ……なに?」
ジェレミーは少しだけ間を置いた。
「少し、付き合え」
その言い方だけで、レトの顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
ジェレミーが立ち上がる。
レトはその横を、いつもより少し近い距離で歩いた。
廊下は静かだった。
いや、静かすぎた。
レトはきょろきょろする。
「お兄さん」
「何だ」
「みんな、隠れてる?」
「隠れているな」
「隠れてるの!?」
「見れば分かる」
「お兄さん、言っちゃうの!?」
ジェレミーは表情を変えない。
「どうせすぐ分かる」
その瞬間、廊下の照明がふっと落ちた。
代わりに、青白い硝子質の光が床を走る。
レトは目を丸くした。
行き先は、第七会議室ではなかった。
訓練室でも、食堂でもない。
監理局の中央ホール。
普段は通達や集合に使われる広い空間が、今は星の光で満ちていた。
天井には淡いリボン。
壁には小さな硝子の飾り。
床には、青白い光で描かれた道。
その先に、ロジーとエルが立っていた。
ロジーは両手を広げて叫んだ。
「レト! 記念日おめでとう!!」
エルも、少し遅れて言った。
「レト、来てくれて、ありがとう」
ぱん、と小さな音がした。
クラッカーではない。
エルが作った、小さな星の花だった。
光が散って、硝子の粒になって、床に落ちる前にふわっと消える。
レトは、完全に固まった。
ロジーが小声で言う。
「症状、動作停止」
エルがレトを覗き込む。
「びっくりした?」
レトは口を開けた。
閉じた。
もう一度開けた。
「……わたし?」
ロジーが力強く頷く。
「そう! レト!」
「なんで?」
「今日は、レトが監理局に来た日だから!」
その言葉を聞いた瞬間、レトの顔から、驚きだけが少しずつ抜けた。
代わりに、理解が追いついてくる。
今日。
自分が、ここに来た日。
お兄さんに会った日。
監理局が、ただの建物じゃなくなった日。
自分の帰る場所になった日。
レトは胸元をぎゅっと掴んだ。
「……覚えてたの?」
ロジーは胸を張った。
「記録者をなめないでください!」
副長がホールの端で言った。
「敬語になっていますよ」
「今のは雰囲気!」
ロジーはすぐに戻った。
「ちゃんと許可取った! 局長にも、副長にも、記録範囲も確認した! 勝手に見せちゃだめなやつは見せない!」
エルが一歩前に出た。
「あたし、これ作った」
エルが両手を開く。
そこに、小さな硝子の箱庭が浮かんでいた。
中には、監理局の古い転移ゲート。
少しだけ今より古い廊下。
医療班の担架。
慌ただしく動く小さな職員たち。
そして、青白い光をまとって丸まっている、小さな小さなレト。
その前に立つ、小さなジェレミー。
人形は動かない。
声もない。
ただ、その日の記録をもとに作られた、静かな硝子細工だった。
レトは息を止めた。
エルが言う。
「記憶じゃないよ。心に触らない。記録を、物にしただけ」
ロジーも続ける。
「見たくなかったら、しまう。これはレトの記念日だから、レトが決めていい」
レトは箱庭を見つめたまま、首を横に振った。
「見る」
声が小さかった。
「見たい」
エルは頷いた。
箱庭の中で、光が少しだけ動いた。
古い記録の断片。
小さなレトが、知らない場所で震えている。
職員たちは慎重に距離を取っている。
その前に、ジェレミーが膝をつく。
今よりも少しだけ硬い顔で。
今と同じように、まっすぐに。
声はなかった。
けれど、レトには分かった。
あの日、お兄さんが自分を見てくれたこと。
怖がらず、物扱いせず、兵器扱いせず、そこにいる存在として見てくれたこと。
レトの喉が震えた。
「……お兄さん」
ジェレミーは隣に立っていた。
「何だ」
「わたし、その日、ちゃんといい子だった?」
ジェレミーは即答しなかった。
少しだけ考えてから、言った。
「怯えていた。疲れていた。魔力も不安定だった。いい子かどうかを問う状態ではなかった」
レトは瞬きをした。
ジェレミーは続ける。
「だが、よく生きていた」
レトの目が潤んだ。
「……それ、褒めてる?」
「ああ」
「そっか」
レトは両手で顔を押さえた。
「そっかぁ……」
ロジーがあわあわと近づく。
「レト、泣く? 泣くなら分類どうする? 本人許可後記録? 残さない?」
「まだ泣いてないもん」
「目がかなりきらきらしてる」
「星の光だもん」
「便利な言い訳!」
エルは小さな箱を差し出した。
「プレゼント」
レトは顔を上げた。
「わたしに?」
「うん」
箱の中には、小さな硝子の短剣ケースが入っていた。
戦闘用ではない。
飾るための小さなケース。
蓋には、淡い文字が刻まれている。
レトが来た日
その下に、さらに小さく。
今日も、ここにいる日
レトはそれを両手で受け取った。
「……かわいい」
ロジーが勢いよく頷く。
「でしょ! エルが形を作って、私が文字考えて、技術班が安全確認して、生活班がリボン選んで、食堂班がプリン作った!」
「プリン!?」
その瞬間、レトの涙が一度引っ込んだ。
ロジーは勝ち誇った顔で指を鳴らした。
ホールの端から、食堂班の職員たちが小さなテーブルを押してきた。
上にはプリン。
一個ではない。
十個でもない。
小さめのプリンが、星形の飾りと一緒に並んでいる。
レトは完全に目を奪われた。
「プリンが……お祝いしてる……」
副長が口元を押さえた。
「プリンはお祝いしていません」
「してるよ。見て。きらきらしてる」
「装飾です」
「お祝いの顔してる」
「顔はありません」
レトは副長を見た。
「副長、今日くらいプリンの気持ちを信じて」
副長は肩を震わせた。
ロジーがすかさず記録した。
「副長、耐久失敗寸前!」
「ロジー」
「はい、分類します」
エルはプリンを一つ見つめていた。
「レト、食べる?」
「食べる!」
レトは即答した。
けれど、すぐに止まる。
プリンを見て、ロジーを見て、エルを見て、ジェレミーを見た。
それから、ホールに集まった職員たちを見た。
戦闘班。
情報班。
生活班。
医療班。
技術班。
監理班。
みんなが、当たり前みたいにそこにいた。
レトのために、そこにいた。
レトは短剣ケースを胸に抱いた。
「……わたし、ここに来てよかった?」
誰もすぐには笑わなかった。
その問いが、軽くないことを知っていたからだ。
ジェレミーが答えた。
「よかった」
短い言葉だった。
けれど、レトにはそれで十分だった。
ロジーが飛びついた。
「よかったに決まってるじゃん!」
「わっ」
「レトがいなかったら、私の記録、かなり静かだったよ! プリン事件も、女子会会議も、作戦名も、ぜんぶ減る!」
エルもレトの袖をそっと掴んだ。
「レトがいると、あたし、楽しい」
レトの目から、今度こそぽろっと涙が落ちた。
ロジーが慌てる。
「記録どうする!?」
レトは鼻をすすった。
「……これは、残していい」
ロジーの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「うん。でも、かわいく撮って」
「任せて! 私はレトのかわいい記録に関しては一切妥協しない!」
「それはちょっとこわい!」
エルが小さく手を振ると、ホールの星明かりがゆっくり揺れた。
記念日の光は、派手ではなかった。
誰かの心を変える魔法ではない。
過去を美化する魔法でもない。
ただ、レトが来た日を、みんなで今日に置き直すための、小さな灯りだった。
レトはプリンを一口食べた。
甘くて、冷たくて、ちゃんと食堂班の味がした。
「おいしい」
食堂班の職員たちが、少し嬉しそうにした。
ロジーが写真を撮る。
エルが隣でプリンを見つめる。
ジェレミーが黙って立っている。
副長が、笑いを堪えながらも、少しだけ穏やかな顔をしている。
レトは短剣ケースを膝の上に置いて、もう一度、刻まれた文字を見た。
レトが来た日。
今日も、ここにいる日。
レトは小さく笑った。
「じゃあ、来年もやる?」
ロジーは即答した。
「やる!」
エルも頷いた。
「やる」
レトはぱあっと笑った。
「じゃあ、これは毎年の任務だね!」
副長がすかさず言う。
「任務ではありません」
レトはプリンのスプーンを掲げた。
「記念日作戦!」
ロジーもスプーンを掲げた。
「正式名称、レトが来た日お祝い作戦!」
エルも、少し遅れてスプーンを上げた。
「お祝い作戦」
ジェレミーは三人を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
呆れたようで、穏やかな息だった。
「来年は、申請書を先に出せ」
三人は声を揃えた。
「はーい!」
その返事が中央ホールに響いて、星の光が少しだけ強くなった。
レトが監理局に来た日。
それは、もう古い記録だけの日ではない。
毎年、みんなで更新される日になった。




