表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/135

第54話-瞳の窓、遥か遠くの旧世代

挿絵(By みてみん)

惑星監理局の第六格納庫に、まだ名前のない惑星の映像が浮かんでいた。


雲は薄い紫色。

大陸は硝子を擦ったような白灰色。

海に相当する領域はない。

だが地表には、植物にも鉱物にも見える黒い群生体が広がっている。


観測記録上、その惑星は存在しなかった。


恒星系図にもない。

古い航路記録にもない。

魔力流域の地図にもない。

にもかかわらず、監理局の遠距離観測班が、数日前からその惑星だけを「肉眼確認」で発見していた。


望遠鏡には映る。

記録装置には残らない。

座標入力すると、数値が欠ける。

観測報告書に記載しようとすると、惑星名の欄が白紙に戻る。


そして、調査班が発見した最も重要な異常。


地表に、旧世代由来と思われる遺物がある。


ただしそれは、記録できなかった。


撮影不能。

複写不能。

模写不能。

音声説明も途中で意味を失う。


現地調査班の先行ドローンは、遺物の前に到達した瞬間、通信ログを空白にした。

唯一戻ってきたのは、ドローンの外殻に付着した魔力残滓と、観測員が肉眼で見たという証言だけ。


――球体に近い、黒とも透明とも言えない物体。

――表面に旧世代言語らしき記録。

――読もうとすると、目だけが意味を受け取る。

――だが、紙に書いた文字は逃げる。

――端末に入力した文字は踊り、画面外へ消える。


会議室でその説明を聞いたロジーは、最初、両手を上げた。


「はい! すごい! 興味ある! でも現地任務は私じゃない方がいいと思います!」


誰も笑わなかった。


笑えないからではない。


ロジーが、もう自分の役割を理解していたからだ。


中央席のジェレミー・クリエットは、淡々と資料を閉じた。


「旧世代言語の翻訳機はある。エルの協力で完成してから、随分経つ」


ロジーの頭上デバイスが、小さく回転した。

翻訳機。

旧世代言語。

肉眼でしか読めない記録。

記録媒体に固定できない文章。


つまり、必要なのは機械ではない。


見たものを、逃がさず、脳と記憶の内側に留められる者。


ジェレミーはロジーを見た。


「現地任務班は五名。レト、ロジー、戦闘班二名、調査班一名」


レトが一歩前に出た。


淡緑の髪が揺れる。

左側頭部で結われたワンサイドテールの黒リボンに、青いキューブが小さく光った。


「わたし、ロジーを守る」


その言い方が、あまりにも即答だった。


ロジーは頬を膨らませた。


「守られる前提だと私が弱いみたいじゃん!」


「ロジー、こわいの苦手でしょ」


「苦手!!」


「じゃあ守る」


「正論が速い!」


戦闘班から選ばれたのは、重装隊員と遊撃補佐員。

調査班からは、異常現象調査員が同行する。


五名。

少数。

高速接近。

短時間調査。

遺物確認後、即時撤収。


作戦名は、まだなかった。


レトがつけようとして、ジェレミーに止められた。


「今回は遊びではない」


「うん」


レトは素直に頷いた。


「じゃあ、帰ってからつける」


「帰ってからなら構わない」


その一言で、ロジーの目が少しだけ丸くなった。


帰ってから。


当たり前みたいに言われた、その言葉。


ロジーは頭上のデバイスに指を伸ばし、軽く触れた。


「……記録分類、現地任務。重要度、最高。私の記憶保持を主目的に含む。怖さ、かなり」


遊撃補佐員が静かに言った。


「怖さの項目、正式記録に入れるんですか」


「入れる。怖いものは怖いって記録しないと、あとで私が強がるから」


レトはロジーの横に立ち、胸を張った。


「大丈夫。わたしがいるよ」


「それ、すごく頼れるんだけど、レトが言うと任務が遠足っぽくなる」


「遠足じゃないよ。お仕事だよ」


「うん。だから怖い」


ロジーは笑った。


笑ったけれど、デバイスの光は少しだけ硬かった。


出発は、その一時間後だった。


未発見惑星の大気圏へ降下する小型艇の内部は、静かだった。


外部観測は最低限。

自動記録は補助扱い。

映像保存はほぼ期待できない。


ロジーは窓際の席に座り、膝の上で両手を握っていた。

普段なら、窓の外を撮りたがる。

星の色を騒ぐ。

雲の形に名前をつける。

レトに「見て見て!」と肩を揺らす。


けれど、今日は違った。


彼女は見ていた。


記録できない景色を。


記録者であるロジーが、記録できない世界を、ただ目で見ていた。


「ロジー」


レトが隣から覗き込む。


「だいじょうぶ?」


「だいじょばない」


「だいじょばない?」


「だいじょうぶじゃない、の現場用短縮形」


「じゃあ、だいじょうぶじゃないんだ」


「そう。私、いまめちゃくちゃびびってる」


重装隊員が前方で装備を確認しながら、低く言った。


「怖いなら、後ろにいろ」


「後ろにいたい。でも私が前を見ないと意味ない」


ロジーは唇を結んだ。


「今回、私の目が記録媒体だから」


その言葉に、艇内の空気がほんの少し重くなった。


ロジー自身も、それを言ってから気づいたように黙った。


私の目が記録媒体。


便利な言い方だ。

正確な言い方だ。

そして、少し嫌な言い方だった。


レトは、ロジーの手に自分の手を重ねた。


「ロジーの目は、ロジーの目だよ」


ロジーは一瞬、きょとんとした。


「……うん」


「記録するけど、ロジーの目だよ」


「うん」


「怖かったら、閉じてもいいよ」


「閉じたら任務失敗じゃん」


「でもロジーが壊れたら、もっとだめ」


ロジーは口を開きかけて、閉じた。


それから、小さく笑った。


「レト、たまにすごいこと言うよね」


「たまに?」


「ううん。けっこう」


「やった」


その時だった。


小型艇が、縦に跳ねた。


警告音が鳴るより早く、船体の左側面に青白い火花が走った。


遊撃補佐員が叫ぶ。


「地上から術式照準!」


異常現象調査員が窓へ顔を向ける。


「違う、砲撃じゃない。地面そのものが撃ってきてる!」


次の瞬間、地表から光が伸びた。


柱ではなかった。

槍でもなかった。

術式の線だった。


地表に刻まれた巨大な円環が一瞬だけ浮かび上がり、そこから伸びた線が、空間の継ぎ目を縫うように小型艇へ到達する。


衝撃。


船体が裂けた。


記録装置が一斉に沈黙した。


ロジーのデバイスが警告音を上げ、半透明の画面を展開する。

しかし表示された文字は、即座に崩れて消えた。


「やだやだやだやだやだ、これ落ちてる! これ完全に落ちてる!」


「レト!」


重装隊員が叫ぶ前に、レトはもう立っていた。


彼女の周囲に、硝子の短剣が咲く。


青白い高熱。

透明な刃。

空間を縫い止める無数の杭。


「空間固定する!」


レトの声は、さっきまでと違っていた。


幼い響きは残っている。

けれど、その奥にある判断は戦闘班のものだった。


短剣が船体の外へ飛び出し、墜落する小型艇の周囲に硝子の軌道を作る。

遊撃補佐員が座席固定を解除し、全員の身体を退避姿勢へ押し込む。


重装隊員は盾を展開した。


「衝撃受ける。全員、歯を食いしばれ」


「私、歯、食いしばってる場合じゃ――」


「ロジー!」


レトが叫んだ。


ロジーは反射的に顔を上げた。


「目、閉じないで!」


その一言で、ロジーは泣きそうな顔になった。


「今それ言う!?」


「ごめん!」


「謝るなら言わないで!」


小型艇が、地表へ落ちる。


墜落直前、レトの硝子短剣が一斉に砕けた。


砕けた硝子が空間そのものへ溶け込み、落下軌道を横へ滑らせる。

重装隊員の盾が正面の衝撃を受け、遊撃補佐員の魔術が五人の座標を船内から半歩ずらした。


落下ではなく、滑走。


衝突ではなく、削るような着地。


それでも、小型艇は半分壊れた。


白灰色の地面を抉り、黒い群生体を裂き、船体はようやく止まった。


数秒。


誰も動かなかった。


ロジーが最初に声を出した。


「……私、生きてる?」


レトが即答した。


「生きてる!」


「ここ、どこ?」


「未発見惑星!」


「今、いつ?」


「任務中!」


「私、考えられてる?」


レトはロジーの顔を覗き込んだ。


「考えられてる。すごくこわがってる」


「よかった……よくないけど、よかった……」


ロジーはデバイスを両手で押さえた。

光が少し乱れている。

けれど、落ちてはいない。


重装隊員が船外を確認する。


「船は使えない。通信は?」


遊撃補佐員が端末を見た。


「短距離のみ。監理局への通信は断続的です。映像、音声、どちらも歪みます」


異常現象調査員は、壊れた窓から外を見ていた。


「遺物の位置は……見える。記録には残らないが、肉眼なら分かる」


ロジーも窓の外を見た。


遠く。


黒い森の向こうに、何かが立っていた。


立っている、という表現が正しいのか分からない。

柱のようでもある。

球体のようでもある。

穴のようでもある。


見るたびに形がずれる。


けれど、そこにある。


ロジーは喉を鳴らした。


「……あれ?」


異常現象調査員が頷く。


「おそらく」


レトが短剣を一本作った。


「じゃあ、行こう」


「待って待って待って」


ロジーがレトの袖を掴む。


「普通、ここで一回、帰還判断とか、増援要請とか、そういう大人の話がある!」


重装隊員が無線を叩く。


「増援要請は送った。届いたか不明。帰還手段は船が死んでいる。現地で安全圏を確保する必要がある」


遊撃補佐員が続ける。


「地上術式の再照準が来る前に移動した方がいいです」


異常現象調査員が、地面に膝をついて黒い群生体を見た。


「それと、ここは長く留まるべきじゃない」


ロジーは恐る恐る尋ねた。


「なんで?」


答えは、森の奥から来た。


ぐにゃり、と黒い群生体が動いた。


植物ではない。

鉱物でもない。

地面でもない。


それは、一斉に起き上がった。


球体だった。


大人の胴ほどの大きさの、濡れた硝子のような球体。

表面に目はない。

口もない。

だが、中心に薄い光があり、そこから黒い触手が何本も伸びていた。


一体ではない。


十。

二十。

もっと。


ロジーの声が裏返った。


「未知の敵性生物、出ました!!」


「下がって」


レトが前に出る。


重装隊員が盾を構え、遊撃補佐員がロジーと異常現象調査員の位置を後ろへずらす。


最初の一体が跳ねた。


速い。


触手が空間を叩き、球体本体が弾丸のように飛ぶ。

重装隊員の盾に衝突し、黒い液体のような衝撃が広がった。


「重い!」


レトの短剣が走る。


球体の外殻を貫いた。

だが砕けない。


硝子の刃が中に入った瞬間、内部で方向を失い、するりと外へ吐き出された。


「刺さらない!」


異常現象調査員が叫ぶ。


「不変性がある! 外殻じゃない、本体概念が固定されてる!」


「説明むずかしい!」


レトは空間を蹴って跳んだ。


二体目、三体目の触手が地面を薙ぐ。

彼女は空中で身体を捻り、短剣群を円形に展開した。


「じゃあ、動けなくする!」


短剣が敵を貫くのではなく、周囲の空間へ打ち込まれる。


球体の移動経路が硝子の檻のように固定された。

触手が暴れる。

固定された空間の内側で、黒い線が何度も跳ねる。


遊撃補佐員が即座に追撃した。


「固定補助、入れます」


細い魔術糸が空間の継ぎ目へ通され、レトの硝子固定を支える。


重装隊員は盾で押し返しながら言った。


「撃破より拘束だ。先に進むぞ」


ロジーは後ろで震えながら、デバイスを起動していた。


「記録……記録、できる? できるやつだけ、できるだけ……」


画面には敵性生物の形が映った。

だが輪郭が崩れる。

球体のはずなのに、記録上は穴になる。

触手のはずなのに、線が数式になる。

数式が画面の端へ逃げる。


「こいつらも記録嫌いなの!?」


異常現象調査員が冷静に返す。


「遺物の影響下にある生物、または防衛機構なら当然です」


「当然じゃない! 記録されて!」


黒い触手が一本、ロジーへ伸びた。


レトが反応する。


「ロジー!」


短剣が間に割り込み、触手の軌道を逸らした。

その瞬間、レトの頬を黒い飛沫が掠める。


じゅ、と青白い煙が上がった。


ロジーの顔から血の気が引いた。


「レト!」


「平気!」


「平気って言ったら平気じゃないって職員さんたち言ってた!」


「あとで怒られる!」


「今も怒る!」


「あとで!」


レトは笑っていた。


怖くないわけではない。

痛くないわけでもない。


でも、前に出ていた。


ロジーが見ているから。

ロジーが目を閉じないように。

ロジーの記憶が、この惑星に置き去りにされないように。


五人は、壊れた小型艇を背にして進んだ。


黒い森の中は、音がなかった。


足音だけがある。

呼吸だけがある。

時折、遠くで球体の敵性生物が転がる音がする。


植物のように見える黒い柱は、近づくと表面に細かな文字が浮かんでいた。

だが読もうとすると消える。

触れようとすると、触れる前に位置がずれる。


異常現象調査員が小声で言う。


「ここ全体が、遺物の周辺構造かもしれない」


ロジーは青ざめた顔で歩いている。


「周辺構造って、つまり?」


「遺物を中心に、惑星環境そのものが書き換えられている可能性がある」


「帰りたい」


「同感です」


「調査班の人が同感って言うと説得力ありすぎて嫌!」


レトは先頭で短剣を浮かべていた。

普段なら、ロジーの叫びに笑う。

でも今は笑わない。


彼女の視線はずっと前を見ている。


敵がいる。

地形が怪しい。

通信は届かない。

ロジーは怖がっている。


だから、レトは一歩も気を抜かなかった。


途中、三度襲撃があった。


一度目は、地面から球体が生まれた。

重装隊員が盾で受け、レトが空間固定で押し戻した。


二度目は、頭上の黒い枝がすべて触手になった。

遊撃補佐員が全員の座標を半歩ずつずらし、触手は誰もいない場所を貫いた。


三度目は、球体が一体だけ、何もせずに立っていた。


ロジーがそれを見た瞬間、デバイスが一瞬だけ停止しかけた。


「だめ」


ロジーが呟いた。


「見ちゃだめなやつ」


異常現象調査員が振り返る。


「何が見えた?」


「記録がないのに、記録を見せようとしてきた」


ロジーの声が震えていた。


「私の中に、勝手に入り込もうとしてきた」


その瞬間、レトが短剣を構え直した。


「それ、敵」


判断が速かった。


球体が動く前に、レトは空間を硝子化した。

敵の周囲だけではない。

ロジーとの間に、透明な壁を作った。


球体の光が壁に触れ、青白い火花を散らす。


レトは低く言った。


「ロジーの中に入らないで」


それは怒りだった。


幼い言葉で、けれど明確な拒絶だった。


球体はしばらく震え、やがて森の中へ沈んだ。


ロジーは唇を噛んでいた。


「……ありがと」


「うん」


「今の、ちょっとほんとに怖かった」


「うん」


「私、自分の中に入られるの嫌」


「うん」


「記録者だけど、全部入れていいわけじゃない」


「うん」


レトは振り返らなかった。

前を向いたまま、答えた。


「ロジーは、ロジーのものだよ」


ロジーは、何か言おうとして、失敗した。


デバイスが小さく光る。


記録分類。


本人だけ。

残す。

でも、誰にも見せない。


森が途切れた。


そこに、遺物はあった。


広場ではなかった。

森が避けているのではない。

その場所だけ、最初から何も存在できなかったように空いていた。


中央に佇むものは、球体に見えた。


ある角度では、黒い硝子。

ある角度では、透明な穴。

ある角度では、光のない星。


大きさは、レトの身長の三倍ほど。

表面は滑らかで、そこに文字が刻まれている。


刻まれている、はずだった。


文字は動いていない。

でも、見た瞬間に意味が変わる。


ロジーは立ち止まった。


「……これ」


デバイスが自動で翻訳機を展開する。

エルの旧世代言語発話記録から構築された、監理局最高機密級の翻訳補助。


しかし、画面に映った瞬間、文字が逃げた。


入力欄の中で跳ね、踊り、端へ向かい、枠をすり抜けて消える。


ロジーは息を呑んだ。


紙を出す。

書こうとする。

一文字目を書いた瞬間、インクがするりと紙から剥がれ、細い虫のように白紙の外へ逃げた。


「……ほんとに、書けない」


異常現象調査員が静かに言った。


「ロジーさん。無理はしないでください」


「無理しないと読めない」


重装隊員が周囲を警戒する。


「敵影、まだある。長くは保たん」


遊撃補佐員がレトを見る。


「防衛線、作れますか」


「作る」


レトは遺物とロジーの周囲に硝子短剣を展開した。


短剣は攻撃のためではなく、境界のために浮かぶ。

触手が近づけば切る。

空間が歪めば留める。

ロジーへ何かが伸びれば遮る。


レトは一瞬だけ、ロジーを見た。


「わたし、ここにいる」


ロジーは頷いた。


「うん」


「怖かったら、呼んで」


「うん」


「読めたら、帰ろう」


「うん」


ロジーは遺物の前へ進んだ。


その距離は、たった数歩だった。


けれど、彼女には果てしなく遠かった。


記録できない文字。

逃げる言葉。

紙にも端末にも残らない内容。

自分の目で見て、自分の記憶に入れるしかないもの。


ロジーが一番欲しくて、

一番怖いもの。


ロジーは、頭上デバイスに触れた。


「処理量、制限。外部記録、停止。翻訳補助、視覚入力のみ。音声出力、禁止。私的記憶領域、開放……しない。任務記憶領域だけ、開く」


デバイスが震えた。


拒否ではない。

警告だった。


ロジーは小さく笑った。


「分かってる。全部入れない。必要な分だけ」


そして、遺物を見た。


旧世代言語が、目に入る。


その瞬間、世界が静かになった。


森の音が遠くなる。

戦闘音が薄れる。

レトの短剣が砕ける音も、膜の向こうになる。


文字は、文字ではなかった。


誰かの呼吸だった。

誰かの独り言だった。

宇宙を出ていく前に、後ろを振り返った者の、長い長い溜息だった。


ロジーは読む。


翻訳機が、彼女の視界の端で意味を組む。


だが表示しない。

表示したら逃げるから。


意味だけが、ロジーの内側へ落ちていく。


――私たちは、ここを整えた。

――熱を穏やかにした。

――光を届く距離に置いた。

――水が巡るようにした。

――土に眠るものが、目覚める者を拒まないようにした。

――小さな生命が、怖がりながらも増えていけるようにした。

――人間が生きられる宇宙にした。


ロジーの指が震える。


「……これ」


声に出しかけて、止める。


声にしたら、届かない。

通信に乗せたら消える。

記録にしたら逃げる。


だから、今は覚えるしかない。


――みんな、去っていった。

――別の宇宙へ旅立つ者。

――自分を封じる者。

――眠りにつく者。

――名前の届かないところへ沈む者。

――人間が自分たちの影で潰れないように、私たちは少しずつ立ち去った。


レトが背後で叫んでいる。


敵が来ている。


ロジーは振り返らない。


振り返ったら、この文字を見失う。


――私は、どうしようか。

――ここに残れば、見守れる。

――けれど、見守るという名で、触れてしまうかもしれない。

――私の想像は、私の優しさより大きい。

――私の懐かしさは、人間には重すぎる。

――ならば、私も別の宇宙へ向かおう。


ロジーの目から涙が出た。


怖いからではない。


意味が、大きすぎた。


そこにいた旧世代は、神のように世界を作ったのではない。

支配したかったわけでもない。

自分たちが邪魔になると分かって、去ろうとしていた。


――それでも、たまには見たい。

――人間が歩くところを。

――泣くところを。

――食べるところを。

――怒るところを。

――誰かを好きになるところを。

――間違えて、直して、また生きるところを。


ロジーは歯を食いしばった。


視界が揺れる。

デバイスが警告を出す。


処理負荷上昇。

精神境界注意。

外部視線混入可能性。


外部視線。


その警告を見た瞬間、ロジーは理解した。


この記録は、ただの文章ではない。


仕掛けだ。


罠ではない。

攻撃でもない。

でも、仕掛けだ。


――無作為に覗けば、私の想像の魔法が人間に触れてしまうかもしれない。

――だから、誰かがこの記録を読んだとき。

――その者の目を、少しだけ窓にしようと思う。

――許してほしい。

――ただ、見たい。

――私たちが立ち去った後の宇宙を。

――人間が、私たちなしで生きているかを。


ロジーの呼吸が止まった。


窓。


私の目。


今、この瞬間から。


ロジーは反射的に目を閉じかけた。


けれど、閉じなかった。


背後で、レトが叫ぶ。


「ロジー! まだ!?」


ロジーは涙をこぼしながら叫び返した。


「まだ!!」


「わかった!」


レトはそれだけで答えた。


遺物の表面に、最後の文章が浮かんでいた。


――もし、君が人間なら。

――あるいは、人間のそばで生きる者なら。

――どうか、そのまま生きてほしい。

――私たちに見せるためではなく。

――君たち自身のために。

――宇宙は、君たちの続きのために整えた。

――私たちの名残ではなく、君たちの日々のために。


文字が消える。


遺物は沈黙した。


同時に、森が動いた。


球体の敵性生物が、一斉に現れる。


遺物を読んだことで起動したのか。

それとも、読み終えたことで防衛が終わったのか。


どちらでもよかった。


レトが笑った。


「ロジー、読めた?」


ロジーは振り返る。


顔は涙でぐちゃぐちゃだった。

でも、目は閉じていなかった。


「読めた!」


「じゃあ帰る!」


「うん!」


レトの短剣が、空間を裂いた。


帰還用の転移ではない。

惑星全体の干渉が強すぎて、長距離転移は通らない。


だから、レトは道を作った。


壊れた小型艇までの最短経路。

敵性生物の密度が最も薄い空間。

地上術式の照準から外れる角度。


遊撃補佐員が即座に補助へ入る。


「経路固定、十秒なら保ちます」


重装隊員が盾を構える。


「十秒あれば走れる」


異常現象調査員が顔を引きつらせた。


「私は走るの専門外なんですが」


ロジーが叫ぶ。


「私も!!」


レトがロジーの手を掴んだ。


「じゃあ、引っ張る!」


「優しさが力技!」


「いくよ!」


五人は走った。


黒い触手が背後から伸びる。

レトの短剣がそれを切り、重装隊員の盾が押し返し、遊撃補佐員が足場をずらす。


異常現象調査員は息を切らしながらも、途中で地面の術式を見つけて叫ぶ。


「右、踏むな! 術式地雷!」


レトが即座に軌道を変える。


ロジーは引っ張られながら、半泣きで叫んだ。


「もう未発見惑星やだ! 発見済みになってから呼んで!」


「今、発見中!」


「そういう正論いらない!」


小型艇の残骸が見えた。


その向こうに、空が裂ける。


監理局からの回収術式。

不安定だが、届いた。


通信音が割れ、ジェレミーの声が断片的に入る。


『――全員、応答――』


レトが叫ぶ。


「お兄さん! レト、いる! ロジーもいる! みんないる!」


『――帰還座標――三秒――』


ロジーが息を呑む。


「局長、聞こえる!? 記録、読めた! でも通信じゃ送れない! 帰ってから言う!」


通信に雑音が走る。


返事は来ない。


けれど、回収術式は開いた。


五人が飛び込む直前、ロジーは一度だけ振り返った。


遺物は、もう見えなかった。


森も、球体の敵性生物も、黒い地平も、すべて遠ざかっていく。


ただ、視界の端に、誰かがいる気がした。


見ている。


覗いている。


でも、触れてこない。


ロジーは震えながら、目を閉じずに転移へ飛び込んだ。


帰還は、医療班の床だった。


転移酔い。

魔力負荷。

精神干渉疑い。

外傷。

通信障害。

船体喪失。


医療班と技術班と監理班が一斉に動き、五人は即座に検査対象になった。


レトは頬の火傷を治療されながら、ジェレミーの姿を見つけた瞬間に立ち上がろうとした。


「お兄さん!」


「座っていろ」


「でも!」


「座っていろ、レト」


「……はい」


レトは座った。

でも目はずっとジェレミーを見ていた。


ロジーは別の診察台に座らされ、デバイス検査を受けていた。


副長がそばに立ち、いつもの薄い笑みを消している。


「ロジー。現在地は」


「監理局、医療班」


「自分の名前は」


「ロジー」


「局長の名前は」


「ジェレミー・クリエット局長」


「レトの呼び方は」


「レト」


「エルの呼び方は」


「エル」


「記録内容は」


ロジーは口を開いた。


その瞬間、医療班の端末が乱れた。


通信記録画面に、文字化けが走る。

ロジーの声そのものは出ているのに、端末には何も残らない。


副長が目を細めた。


「やはり、記録媒体には固定できませんか」


ロジーは頷いた。


「たぶん、今ここで言っても、録音は残らない。議事録にも残らない。私が口で言って、聞いた人が覚えるしかない」


ジェレミーが近づいてきた。


「話せるか」


ロジーは少しだけ迷った。


それから、頷いた。


「話せる。でも、先に言うね」


彼女は自分の目元に触れた。


「何かが、私の視界にいる」


医療班の空気が変わった。


重装隊員が立ち上がりかける。

遊撃補佐員が反射的にレトの前へ出る。

副長の視線が鋭くなる。


けれど、ロジーは首を振った。


「攻撃じゃない。たぶん、覗いてるだけ。触ってこない。私の中には入ってこない。目の外側に、窓みたいにいる」


レトの顔が強張った。


「ロジー、いや?」


ロジーは答えられなかった。


嫌かと聞かれれば、怖い。


でも、悪意ではないことも分かる。


見たいだけ。

本当に、それだけ。


誰かが、自分たちが立ち去った宇宙を、遠くから少しだけ見ている。


ジェレミーが静かに言った。


「旧世代か」


ロジーは頷いた。


「うん。記録を書いた旧世代。たぶん、もうこの宇宙にはいない。でも記録を読んだ人の目を、窓にするって書いてあった」


「解除は可能か」


「分からない。でも、強制的に引き剥がすのは危ないと思う。私の視界に接続してる。雑に切ったら、私の認識も巻き込むかも」


副長が低く言う。


「エルに確認を」


「呼んだ」


ジェレミーが答えた。


数分後、医療班の入口にエルが現れた。


白髪の毛先を淡いピンクに揺らし、いつも通りの足取りで入ってくる。

けれど、ロジーを見る目だけが少し違った。


「あ」


エルは言った。


「いるね」


ロジーは小さく笑った。


「やっぱり見える?」


「うん。ロジーの目の向こうに、遠い子がいる」


「子?」


「旧世代だけど、遠い子」


エルはロジーの前に立った。


そして、ロジーの目を覗き込む。


「触らないでね」


その声は小さかった。


でも、医療班の空気が震えた。


命令ではない。

脅しでもない。


ただ、同じ旧世代へ向けた境界線だった。


「ロジーは、ロジー」


ロジーの喉が震える。


レトが、隣から身を乗り出した。


「そうだよ。ロジーはロジーだよ」


エルは頷いた。


「あたしたちは、見せるために生きてるんじゃない。でも、見たいなら、少しだけなら、見ていい。ロジーが嫌じゃない範囲だけ」


ロジーは、ゆっくり息を吸った。


「私が、嫌って言ったら?」


エルは即答した。


「あたしが閉じる」


その言葉に、ロジーは少しだけ泣きそうになった。


「エル、閉じられるの?」


「たぶん。でも、ロジーごと閉じないように、ゆっくりやる」


「怖い言い方!」


「ちゃんと言った」


「えらいけど怖い!」


レトがロジーの手を握った。


「ロジー、どうする?」


ロジーは黙った。


頭上デバイスが、静かに回っている。


怖い。

本当に怖い。


自分の視界に、自分ではない誰かがいる。

それはロジーにとって、最も苦手な種類の恐怖だった。


自分の中に入られること。

自分の境界が分からなくなること。

何が自分の記憶で、何が誰かの記録なのか、分からなくなること。


でも。


あの記録を書いた旧世代は、世界を支配したいわけではなかった。

人間を作り直したいわけでもなかった。

ただ、立ち去った後の宇宙を、少しだけ見たかった。


人間が元気に生きているかを。


ロジーは目元を拭いた。


「条件つき」


ジェレミーが頷く。


「言え」


「私が嫌って思ったら閉じる。寝るときは閉じる。医療班の検査中も閉じる。お風呂とか着替えとか、そういうのも絶対閉じる。あと、勝手に私の記憶を読まない。視界だけ。私の考えには触らない。私が見てるものだけ」


エルは、ロジーの目の向こうへ視線を向けた。


「聞こえた?」


返事はなかった。


だが、医療班の照明が一度だけ、柔らかく瞬いた。


ロジーは肩を震わせた。


「今の、返事?」


エルは頷いた。


「たぶん」


レトがむっとした顔になる。


「返事するなら、ちゃんと言ってほしい」


「旧世代、人間みたいに喋らないこと多い」


「エルは喋るよ」


「あたし、えらい?」


「えらい!」


エルは少しだけ満足そうにした。


その時だった。


医療班の空気に、微かな声が響いた。


音としてではない。

通信でもない。

誰かの頭の中に直接入る声でもない。


窓の向こうから、遠くの風が届くような声。


『人間はみんな、元気に生きているね』


全員が止まった。


医療班の職員。

戦闘班の二人。

調査班の職員。

副長。

ジェレミー。

レト。

エル。

そして、ロジー。


声は続いた。


『わたしたちが立ち去った価値がある宇宙にしてくれているね』


それは、あまりにも静かな感謝だった。


大げさな祝福ではない。

神託でもない。

命令でもない。


ただ、遠くへ旅立った誰かが、久しぶりに窓から家を覗き、そこに明かりが灯っているのを見て安心したような声だった。


ロジーは、堪えきれずに泣いた。


「……ずるい」


レトが慌てて抱きつく。


「ロジー!?」


「ずるいよ、そんなの」


ロジーは泣きながら笑った。


「怖いのに、そんなこと言われたら、閉じにくいじゃん」


エルはロジーの隣に座った。


「閉じてもいいよ」


「うん」


「開けてもいいよ」


「うん」


「ロジーが決める」


ロジーはしばらく泣いていた。


レトがぎゅうぎゅう抱きしめ、医療班の職員が困りながらも止めず、重装隊員が無言でタオルを渡し、遊撃補佐員がロジーのデバイスの光を確認し続けた。


ジェレミーは、少し離れた場所で見ていた。


その表情は、いつも通り静かだった。


けれど、ロジーが顔を上げた時、彼は言った。


「よく戻った」


ロジーは鼻をすすった。


「局長、それ、レトに言うやつじゃない?」


「お前にも言う」


ロジーはまた泣きそうになった。


「……ずるい大人が多い」


レトが横から元気よく言った。


「ロジー、任務成功?」


ロジーは目を赤くしたまま、胸を張った。


「成功!」


「じゃあ作戦名つけていい?」


ジェレミーが即座に言う。


「医療検査が終わってからだ」


「うん!」


ロジーは少し笑った。


「候補だけならいい?」


「検査が終わってからだ」


「局長、厳しい」


副長が薄く笑った。


「今回ばかりは当然でしょう。記録者殿は、旧世代の窓になって帰ってきたわけですから」


「言い方!」


ロジーは抗議した。


でも、その声にはいつもの調子が少し戻っていた。


怖さは消えない。

視界の向こうにいる誰かも、すぐには消えない。


けれど、ロジーは知っていた。


記録は、奪うものではない。

見ることは、触れることと同じではない。

残すことは、閉じ込めることと同じではない。


そして、見られることも。


必ずしも、支配されることではない。


その日の夜。


監理局の廊下で、ロジーは窓の外を見ていた。


硝子玉の宇宙の星々が、静かに光っている。


レトが隣に立つ。


「ロジー、まだいる?」


「いる」


「こわい?」


「こわい」


「閉じる?」


ロジーは少し考えた。


「今は、いい」


「いいの?」


「うん。だって、今見えてるの、監理局の窓と、星と、レトだけだから」


レトは瞬きをした。


「わたしも見えてる?」


「見えてる」


「旧世代の人にも?」


「たぶん」


レトは少し緊張した。


それから、窓の外へ向かって小さく手を振った。


「こんにちは。わたし、レト」


ロジーは吹き出した。


「自己紹介した!」


「だって見てるんでしょ?」


「そうだけど!」


「じゃあ、言わなきゃ」


レトは真面目だった。


「わたしは、元気に生きてるよ」


ロジーは笑いかけて、途中で黙った。


レトは続けた。


「ロジーも、元気に生きてる。怖がってるけど、元気」


「余計な情報!」


「エルも元気。お兄さんも元気。職員さんたちも、たぶん元気」


「たぶんって何」


「忙しそうだから」


ロジーは、今度こそ笑った。


視界の端で、何かが揺れた気がした。


声はしない。


けれど、ほんの少しだけ、あたたかかった。


ロジーはデバイスを起動した。


記録分類。


任務記録。

口頭伝達必須。

媒体固定不可。

旧世代由来。

視界接続、条件付き許可。

感情分類、怖い。

感情分類、きれい。

感情分類、ちょっとずるい。


そして最後に、私的記録として一行だけ残す。


今日、遠くへ行った誰かが、まだ人間を好きだった。


その文字は、逃げなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の活動場所です! 総合リンクです! TiktokやYouTube、lineスタンプなどの総合リンクになってます!! よかったらみに来てくださいね! 箱庭の娘たちのイラストや動画をAI生成していますっ(*´▽`*) おはなしが気に入ってくださったら、評価やリアクション、ブックマークなどしてくださると、とっても嬉しいです(≧∀≦*)
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ