第52話-エルと惑星連合軍
外部惑星系連合軍の幹部は、会議室に入った瞬間からずっと硬かった。
軍服の皺ひとつまで整えられていて、背筋も、視線も、呼吸すら規律で固められている。
惑星監理局の会議室。
中央の席にはジェレミー。
その横に副長。
少し離れた場所に、外部連合軍の参謀団。
壁際には監理局の職員たち。
そして、会議卓の端にエルが座っていた。
白髪の毛先を淡く揺らしながら、両足を椅子の上で少し浮かせている。
緊張しているわけではない。
退屈しているわけでもない。
ただ、相手を見ていた。
連合軍幹部が資料を閉じる。
「我々は、貴局の支援を受け入れる用意がある。ただし、戦域指揮権はこちらに残す」
副長が微笑んだ。
「当然です。こちらは監理局であって、あなた方の軍ではありませんから」
「その上で確認したい」
幹部の視線が、エルに向いた。
「貴女は、硝子玉の宇宙の創造者だと聞いている。神性存在への対処において、我々の作戦判断は正しいのか」
会議室の空気が、わずかに固まった。
それは、質問の形をした別の何かだった。
正しいと言ってほしい。
保証してほしい。
失敗したら、その責任をどこかへ置きたい。
そういうものが、言葉の奥に混じっていた。
エルは幹部を見た。
じっと見た。
「あたしが決めるの?」
幹部は眉を動かした。
「助言を求めている」
「助言」
エルは少し考える。
「あなたたちが守りたいものは、あなたたちのもの?」
「当然だ。我々の星系、我々の民、我々の兵だ」
「じゃあ」
エルは、淡々と言った。
「勝手にして」
沈黙。
それは、落ちたというより、割れた。
連合軍側の参謀の一人が息を呑み、幹部の目が鋭くなる。
「……今、何と言った」
エルは首を傾げた。
「勝手にして、好きにして」
「我々の星系が危機に瀕している状況で、それが貴女の答えか」
声が低くなった。
怒りが混じっていた。
エルはその怒りを見て、瞬きをする。
「うん」
「ふざけているのか」
「ふざけてないよ」
「ならば、我々がどうなろうと知ったことではないという意味か」
エルは少し困った顔をした。
違う。
と、言いたかった。
でも、違うだけでは足りない。
エルの中にある意味は、人間の言葉へ落とすには形が曖昧だった。
あなたたちの意思を、あたしが奪わない。
あなたたちの選択を、あたしの魔法で塗り替えない。
あなたたちがあなたたちの輪郭でいることを、あたしは止めない。
それを言いたかった。
でも、出てきた言葉は。
「あなたたちが、好きにするのがいい」
だった。
幹部の表情が、さらに険しくなる。
「つまり、責任を放棄するということか」
エルは口を少し開けた。
閉じた。
また開けた。
「責任……」
「答えられないのか」
「答えたいけど」
エルは自分の指先を見た。
「言葉が、足りない」
その声は小さかった。
けれど、連合軍幹部には、言い逃れに聞こえた。
「貴女ほどの存在が、言葉が足りないなどと」
副長が、そこで静かに口を挟んだ。
「幹部殿。エルの発言は侮辱ではありません」
「では何だ」
「彼女にとって、あなた方の意思決定を尊重する最大限の表現です」
「最大限の尊重?」
幹部が冷たく笑った。
「勝手にしろ、好きにしろ。そう言われて、尊重されたと受け取る者がいると?」
副長は笑みを崩さなかった。
「いいえ」
「ここは貴局内ではない。我々は初対面だ」
その言葉は正しかった。
副長も、否定しなかった。
エルはそのやり取りを見ていた。
怒っている。
副長が説明している。
でも、届いていない。
自分の言葉が、相手を刺した。
それは分かる。
けれど、何をどう直せばいいのかが、まだ分からない。
「ごめん」
エルが言った。
幹部は眉を寄せる。
「何に対する謝罪だ」
エルは止まった。
「えっと」
答えられない。
傷つけたこと。
でも、傷つけるつもりじゃなかったこと。
でも、言葉を変えると、今度は相手の選択に手を入れてしまう気がすること。
全部が、ばらばらに浮かんでいた。
「……分からない」
幹部の怒りが、はっきり表に出た。
「分からないまま謝るのか」
エルは、少しだけ俯いた。
「うん」
会議室の壁際で、職員の一人が視線を動かした。
フォローに入りたい。
でも、今それをやれば、外部側には監理局全体がエルを庇っているようにしか見えない。
ロジーがいたら、もっと早かったかもしれない。
記録を引き出し、言葉を分類し、相手の誤解の場所を指し示したかもしれない。
レトがいたら、たぶん直球で言った。
エルは冷たくないよ。
エルは、あなたたちをあなたたちのままにしてくれてるんだよ。
でも今、二人はいない。
ここにいるのは、エルと、監理局と、初めてエルの言葉を浴びた外部の人間だった。
ジェレミーが口を開いた。
「幹部殿」
声は低く、平坦だった。
「エルの言葉が不適切に聞こえたことは認める」
エルが少しだけ顔を上げる。
ジェレミーはエルを見なかった。
幹部だけを見ていた。
「だが、彼女はあなた方の作戦を軽んじていない。むしろ逆だ」
「逆?」
「エルが本気で“正解”を与えれば、あなた方はそれに逆らえなくなる可能性がある」
会議室が静かになった。
「彼女の助言は、ただの助言では済まない。願い、幸福、結果への干渉に近づく。だからエルは、あなた方に決めろと言った」
幹部は黙っていた。
ただし、怒りは消えていない。
副長が続ける。
「彼女の言う“好きにして”は、“好き勝手に滅びろ”ではありません。“あなた方の意思を、こちらが上書きしない”という意味です」
「それを、本人がそう説明すべきではないのか」
幹部の言葉は鋭かった。
副長は頷いた。
「その通りです」
エルの肩が、ほんの少し揺れた。
副長は、エルを庇い切らなかった。
それでよかった。
ここで全部を周りが言えば、エルはまた、自分の言葉を持てないままになる。
エルは唇を動かした。
「……あたし」
みんなが、エルを見る。
「あたしが、決めたら」
言葉が遅い。
「あなたたちの、好きが、なくなるかもしれない」
幹部の眉が動く。
「好き?」
「守りたい、行きたい、逃げたい、戦いたい、助けたい、許せない、怖い、でもやる」
エルは指を折るように言った。
「そういうの。あたしが、きれいにしすぎるかもしれない」
幹部は答えない。
エルは続ける。
「だから、勝手にして、好きにしてって言った」
そこで一度、止まった。
それから、小さく付け足す。
「でも、冷たく聞こえた」
幹部は、まだ怒っていた。
当たり前だった。
今の説明で、すぐに納得できるほど、彼は監理局の人間ではない。
エルという存在が、どれほど人間の意思に触れないよう慎重に手を引いているのか。
その手を引くことが、どれほど強い尊重なのか。
一見で分かるはずがない。
幹部は低く言った。
「我々には、貴女の事情を理解する義務はない」
エルは頷いた。
「うん」
「だが、貴女には、我々に伝わる言葉を選ぶ責任がある」
エルはまた頷いた。
「うん」
「今の発言は、不快だった」
「うん」
エルは、怒られている子供のように俯いた。
けれど、逃げなかった。
ジェレミーも、副長も、それ以上は割り込まない。
幹部は資料を手に取った。
「作戦会議は続ける。ただし、今後エル殿の発言については、監理局側で補足を付けていただく」
副長が答える。
「承知しました」
エルが小さく言った。
「あたしも、言い方、考える」
幹部はエルを見た。
「今は、その言葉も信用できない」
会議室の空気が、また少し痛くなった。
エルは、ゆっくり頷いた。
「うん」
それだけだった。
怒りは解けなかった。
誤解も、完全には解けなかった。
ただ、エルはその場に座り続けた。
勝手にして、好きにして。
それはエルにとって、相手を自分の幸せで塗り潰さないための、最大限の尊重だった。
けれど、初めて聞いた人間には、突き放しにしか聞こえなかった。
その差は、まだ会議室の真ん中に残っている。
ジェレミーは資料を開き直した。
「では、作戦案に戻る」
副長が端末を操作する。
職員たちが記録を再開する。
連合軍幹部は、怒りを飲み込まないまま、椅子に座り直した。
エルは、少しだけ自分の手を見る。
何も出さない。
何も叶えない。
ただ、相手が相手のまま怒っていることを、勝手に消さずに置いておいた。
◆
作戦会議は、エルの一言で終わらなかった。
むしろ、そこからが本題だった。
外部惑星系連合軍の幹部は、まだ怒っていた。
声は整っている。
態度も崩れていない。
けれど、エルを見る目だけが硬い。
「貴女は我々に“勝手にしろ”と言った」
エルは小さく頷いた。
「うん」
「その上で、作戦には協力するというのか」
「うん」
「矛盾している」
「そう見えると思う」
エルはそう言って、少し黙った。
言葉を探している。
けれど、今回は副長がすぐに割り込まなかった。
エル自身に言わせる時間だった。
「あなたたちの作戦は、あなたたちが決める」
エルはゆっくり言った。
「でも、どうしても壊れるところがあったら、あたしが受ける」
幹部の眉が動く。
「受ける?」
「神性存在の権能が、広がりすぎたら」
エルは会議室の中央に浮かんだ戦域図を指した。
神性存在の影響圏。
避難済みの居住区。
無人化予定の艦隊残骸帯。
権能濃度の上昇予測。
その一角に、赤い空白地帯があった。
「ここ。人がいない空間だけ。そこに流れた権能を、別の形にする」
「別の形とは」
「分からない」
幹部の表情が険しくなる。
「分からない?」
「うん。分かる形にしたら、それはもう、あたしの世界になる」
会議室が静かになった。
エルは淡々と続ける。
「神性存在の権能を消すんじゃない。鎮めるだけ。暴れている形を、別の形に変える。でも、あたしが形を変えた空間は、あたしの作った法則で存在することになる」
副長がそこで補足した。
「エルの魔法が行使された空間は、通常空間ではなくなります。物理法則、魔術法則、因果の接続、時間感覚、観測結果。どれがどう変質するか、完全には予測できません」
別の参謀が低く言う。
「つまり、汚染区域になると?」
副長は微笑まなかった。
「近いですが、より厄介です。毒や残留魔力なら除去できます。エルの魔法で改編された空間は、“別の世界の輪郭”を持ちます」
ジェレミーが続けた。
「閉鎖する。観測する。侵入を禁じる。時間をかけて通常の世界輪郭へ戻す。戻るまで、そこは作戦区域でも領土でもない。隔離対象だ」
幹部はエルを見た。
「それほどの力があるなら、なぜ神性存在そのものを変えない」
当然の疑問だった。
連合軍の参謀たちも同じ顔をしていた。
エルがいれば解決できるのではないか。
なぜ軍が犠牲を払う必要がある。
なぜ艦隊を動かし、兵を出し、危険を冒す必要がある。
エルは少し困ったように目を伏せた。
今度は、ジェレミーが答えた。
「神性存在より危険な力で、神性存在を押さえ込むことになるからだ」
その一言で、会議室の空気が変わった。
ジェレミーは淡々としていた。
「神性存在には悪意がある場合もある。暴走もする。人間を壊す。都市を壊す。星系を壊す。だが、あれはこの宇宙の中で発生した権能だ」
幹部は黙っている。
「エルの魔法は違う。法則そのものを外側から書き換える。被害の規模ではなく、存在の種類が違う」
副長が静かに言った。
「神性存在は災害です。エルの魔法は、世界を作り替える力です。悪意がないだけで、安全という意味ではありません」
エルはその言葉に反論しなかった。
ただ、手を膝の上で重ねていた。
幹部は低く言った。
「貴局は、その危険な存在を作戦に入れると?」
「最終手段としてだ」
ジェレミーは即答した。
「人員が残っている区域では使わせない。連合軍の作戦判断を代替させない。神性存在の討伐も封印も、主力はあなた方だ。エルは、抑えきれなかった権能が民間区域へ流出する直前だけ使う」
「失敗した時の保険か」
「すこし違う」
ジェレミーの声が少しだけ低くなった。
「失敗をなかったことにする力ではない。失敗の被害を、別の危険に置き換える力だ」
会議室に沈黙が落ちた。
それは、分かりやすい救済ではなかった。
エルが出れば勝てる。
エルがいれば安心。
エルが全部直してくれる。
そういう話ではない。
むしろ、逆だった。
エルを使うということは、神性存在よりも根深い未知を、戦域の一部に残すということだった。
幹部の怒りは、まだ完全には消えない。
けれど、怒りの形が変わった。
侮辱された怒りから、危険な選択肢を前にした軍人の顔へ。
「……理解した」
幹部は短く言った。
「貴女が直接解決しない理由は」
エルは顔を上げた。
幹部はエルを見ていた。
「だが、納得したわけではない」
エルは頷く。
「うん」
「我々は我々の作戦を行う。貴女は最後まで出るな」
「うん」
「我々が止める」
「うん」
「それでも止まらなかった時だけ、貴女が動く」
「うん」
幹部はしばらく黙ったあと、言った。
「それが、貴女の言う“好きにしろ”か」
エルは少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ、言い方が上手くない」
幹部は目を細めた。
「それは分かる」
エルは小さく頷いた。
怒られたと思ったのか、少しだけ肩が下がった。
副長が一瞬だけジェレミーを見る。
ジェレミーは何も言わない。
今は、直さない。
そのまま進める。
作戦は決定された。
エルは補助に入る。
ただし最終手段。
人間が存在しない空間のみ。
神性存在の権能が抑えられなくなり、流出阻止が不可能になった場合のみ。
エルの魔法で、権能を別の形へ変える。
発動区域は即時閉鎖。
観測班以外の侵入禁止。
世界輪郭の回復完了まで、領有も再利用も凍結。
連合軍にとって、それは決して心地よい決定ではなかった。
だが、軍の作戦は奪われなかった。
指揮権も。
判断も。
失敗の責任も。
守ろうとする意思も。
エルは、そこに手を伸ばさないことを選んだ。
そして、実戦の日が来た。
司令室の大型投影に、戦域が映し出されている。
黒く砕けた艦隊残骸帯。
その奥で、神性存在の権能が脈打っていた。
祈りとも、怒りとも、嘆きともつかない魔力の集合体。
人間の感情から生まれたものなのに、人間を見ていない。
連合軍の艦隊が展開する。
誘導弾は使わない。
光学兵器も限定。
権能の反射を避けるため、魔術封鎖艦が外周を組む。
監理局の観測班が、少し離れた座標から神性存在の変化を追う。
エルは司令室の端にいた。
椅子に座らず、壁際に立っている。
小さな身体。
白い髪。
淡紅の毛先。
表情はいつも通り、少しぼんやりしている。
けれど、ジェレミーは気づいていた。
エルの指先が、時々わずかに震えている。
神性存在の権能が、硝子玉の宇宙の壁に触れていた。
まだ破ってはいない。
けれど、擦っている。
爪を立てるように。
外側のない壁へ、無理やり意味を刻もうとしている。
そのたびに、エルの呼吸がほんの少し詰まった。
「エル」
ジェレミーが呼んだ。
エルはすぐに顔を上げる。
「なに、ジェレミー」
「痛むか」
司令室の何人かが、こちらを見た。
エルは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「平気」
嘘ではない。
たぶん、エルの中では本当に平気に分類されている。
でも、苦しそうだった。
連合軍幹部も、それを見ていた。
作戦卓の向こう側から、黙って。
エルは気づいているのか、いないのか分からない。
ただ、少しだけ背筋を伸ばした。
苦しそうにしたら、また怒られると思った。
この前、自分の言葉で怒らせた。
説明できなくて、もっと怒らせた。
だから今度は、余計なことを見せないようにした。
痛い。
苦しい。
硝子玉の宇宙の壁が擦られている。
自分の内側を、知らない手でかき混ぜられているみたい。
でも、ここは連合軍の作戦だ。
あたしが怖がらせたら、また、あたしが作戦を奪うかもしれない。
だからエルは、平然としていた。
画面の中で、第一封鎖線が展開される。
連合軍の艦が、予定通りの陣形を取る。
神性存在の外殻に魔術杭が撃ち込まれ、権能の流れが一瞬だけ鈍った。
司令室に報告が飛ぶ。
「外周封鎖、成立」
「権能濃度、なお上昇」
「第二班、誘導開始」
「民間区域への流出角、三度低下」
幹部が短く命令を出す。
声に迷いはない。
怒りも、苛立ちも、今は奥へ押し込まれている。
軍人の声だった。
エルはそれを見ていた。
ちゃんと、好きにしている。
そう思った。
その瞬間、神性存在の中心が大きく揺れた。
投影図の赤が膨らむ。
観測班が声を上げる。
「権能流出、予測値超過!」
「第三封鎖線へ接触!」
「無人残骸帯側へ誘導成功、ただし圧力が強すぎる!」
司令室の空気が一段変わる。
幹部は歯を食いしばった。
「まだだ。第四班を回せ」
参謀が即座に返す。
「第四班、射線に入ります」
「構わん。兵装制限を維持。押し返せ」
「了解」
エルは動かなかった。
ジェレミーも命じない。
これは、まだ連合軍の作戦だ。
彼らが決める時間だ。
エルが願えば、きっと早い。
この場の全員が、薄々そう感じている。
けれど、それをしてしまえば、連合軍が守ろうとしたものまで、エルの結果の中に入ってしまう。
だから、動かない。
エルは、動かないことで協力していた。
神性存在が、もう一度震えた。
硝子玉の宇宙の壁に、細い傷が入る。
音はない。
けれど、エルだけが聞いた。
きぃ、と。
硝子が悲鳴をあげるような音。
エルの膝が、ほんの少し折れた。
司令室の幹部が、それを見た。
エルはすぐに体勢を戻す。
何でもない顔をする。
「平気」
誰も聞いていないのに、そう言った。
幹部の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
怒りではない。
困惑でもない。
見てはいけないものを見たような顔だった。
この少女は、自分たちの作戦を奪わないために耐えている。
そして、それを苦しそうに見せることすら、迷惑だと思っている。
「……エル殿」
幹部が言った。
エルが顔を上げる。
「なに」
幹部は一瞬、言葉を選んだ。
「苦しいなら、苦しいと言っていい」
司令室が静かになった。
エルは瞬きをした。
その意味が、すぐには分からないみたいだった。
「言っていいの?」
「作戦情報として必要だ」
幹部の声は硬い。
優しくはなかった。
けれど、逃げ道を作る声だった。
「貴女の状態は、最終手段の発動可否に関わる。隠される方が困る」
エルは少しだけ考えた。
それなら、言える。
迷惑ではなく、作戦情報なら。
「苦しい」
エルは小さく言った。
「壁、痛い」
司令室の誰も、笑わなかった。
誰も、怒らなかった。
幹部は短く頷いた。
「監理局、エル殿の負荷を記録しろ」
副長が即座に返す。
「記録中です」
ジェレミーはエルを見た。
「限界は」
エルは投影図を見つめる。
「まだ」
「まだ、何だ」
「まだ、あなたたちができる」
幹部はその言葉を聞いて、視線を戦域へ戻した。
「聞いたな。まだ我々の時間だ」
連合軍の参謀たちが一斉に動く。
命令が飛ぶ。
艦が滑る。
封鎖線が歪みながら持ち直す。
神性存在の権能は、まだ暴れている。
エルは、まだ動かない。
それは怠慢ではなかった。
冷たさでもなかった。
突き放しでもなかった。
相手の意志を奪わないための、最大限の待機だった。
そしてその待機が、エルにとっては一番重かった。
作戦卓の上で、赤い光がさらに膨らむ。
第四封鎖線が軋む。
無人残骸帯の空間が歪む。
神性存在の権能が、形を失い始める。
副長が低く言った。
「最終手段準備域に入ります」
ジェレミーがエルを見る。
エルは頷いた。
「準備する」
幹部は拳を握りしめた。
まだ命令は出さない。
まだ、人間の作戦は終わっていない。
けれど、司令室の全員が理解していた。
ここから先は、神性存在だけの危険ではない。
それを鎮めるために、もっと大きな未知が、静かに目を開ける。
エルは両手を胸の前で重ねた。
魔力はまだ出さない。
魔法はまだ使わない。
ただ、世界の輪郭へ指先を添える。
いつでも、変えられるように。
でも、まだ変えないように。
幹部が戦域を睨んだ。
「全軍、最終誘導に入れ」
ジェレミーが静かに言う。
「エル、待機」
エルは頷いた。
「あたし、待つ」
神性存在が咆哮した。
声ではない。
感情の圧力だった。
艦隊の灯が、赤い海へ向かって進む。
司令室の全員が息を詰める。
そして、実戦が始まった。
◆
第四封鎖線が、割れた。
音はなかった。
ただ、司令室の投影図で赤い帯が一瞬だけ白く点滅し、次の瞬間、無人残骸帯へ押し込めていた神性存在の権能が外へ噴き出した。
「流出!」
「第三誘導軸、崩壊!」
「残骸帯外縁へ拡散します!」
連合軍幹部が拳を握る。
「第五班を――」
言いかけて、止まった。
もう間に合わない。
流出方向に人間はいない。
避難も完了している。
そこは、壊れた宇宙船と砕けた星の欠片だけが漂う、死んだ空間だった。
条件は満たされた。
最終手段。
幹部は、歯を食いしばって言った。
「……エル殿」
司令室の端で、エルが顔を上げた。
「うん」
ジェレミーが短く確認する。
「人間反応は」
副長が即答した。
「発動指定領域内、ゼロ。生体反応なし。自律思考体なし。残留記録生命反応なし」
「エル」
ジェレミーの声が低くなる。
「やれ」
エルは頷いた。
その瞬間、司令室の空気が変わった。
魔力が膨れたわけではない。
光が溢れたわけでもない。
術式が展開されたわけでもない。
ただ、世界が一瞬だけ、誰かの夢に近づいた。
投影図の赤い濁流が、止まる。
神性存在の権能。
怒り。
破壊衝動。
焼けつくような憎悪。
人間の感情が集まり、暴力という形を取ったもの。
それが、エルの指先の先で、ほどけた。
黒い稲妻のように走っていた権能が、ふわりと色を変える。
赤。
黄。
白。
淡い青。
薄桃色。
司令室の映像に、花が咲いた。
宇宙空間に。
ありえない場所に。
重力も土も空気もないはずの無人残骸帯に、やわらかな花畑が広がっていく。
暴力は、花になった。
砕こうとしていた力は、花びらになった。
焼こうとしていた熱は、春の陽だまりのような光になった。
押し潰そうとしていた圧力は、背の低い草を揺らす風になった。
投影を見ていた連合軍の参謀が、呆然と呟いた。
「……綺麗だ」
誰も責めなかった。
その感想は、正しかった。
綺麗だった。
あまりにも。
神性存在の権能が暴れていた場所に、色とりどりの花が咲いている。
毒々しい魔力の奔流は、丸い花冠を揺らすだけになっている。
あれほど敵意を持っていた赤い海は、今は小さな花弁の群れになって、ふわふわと波打っている。
けれど、ジェレミーは表情を変えなかった。
副長も笑わなかった。
監理局の職員たちは、その可愛らしい光景を見て、むしろ背筋を伸ばした。
それは勝利ではない。
改編だった。
「星片群、変質確認!」
観測班が声を上げる。
「砕けた小惑星片が……形状変化しています!」
投影が拡大される。
神性存在の権能に巻き込まれて砕かれた星の欠片。
岩石。
金属質の鉱脈。
氷。
古い衝突痕を持つ暗い欠片。
それらが、次々に丸くなっていく。
赤い欠片は、苺飴のような透明なキャンディに。
青い氷片は、薄荷色の角砂糖みたいな結晶に。
金属を含む岩塊は、金箔を閉じ込めた琥珀色の飴玉に。
黒い破片は、星空を閉じ込めたような小さなキャンディに。
砕けた星の欠片は、色とりどりのキャンディになった。
司令室の空気が、また一段変わる。
かわいい。
そう思ってしまう。
花畑。
キャンディ。
柔らかい光。
甘そうな色。
子供が絵本に描くような、平和な宇宙。
だが、誰も笑わない。
幹部は、投影図から目を離せなかった。
「……あれは、元に戻せるのか」
副長が答える。
「時間をかければ、世界の輪郭を通常側へ戻せます。ただし、戻る過程の観測は必要です。花畑がただの花畑なのか、花畑という形をした別法則なのか、まだ分かりません」
「キャンディは」
「食べてはいけません」
副長は即答した。
「食べるという発想そのものを禁止します」
連合軍の参謀が顔を引きつらせる。
「誰かがあれを食べると?」
副長は静かに言った。
「かわいいものほど、事故が起きます」
その言葉を、監理局の職員たちは誰も否定しなかった。
エルは両手を重ねたまま、じっと戦域を見ている。
まだ終わっていない。
花畑になった暴力の中へ、外部から宇宙船の残骸が流れ込んだ。
第四封鎖線崩壊時に軌道を外れた連合軍の無人艦。
乗員はすでに退避済み。
中枢も停止。
ただの金属塊。
それが、花畑の領域へ入った瞬間。
変わった。
艦首の装甲が、柔らかくほどける。
砲塔が丸く縮む。
折れたアンテナが、細い茎のように伸びる。
黒い戦闘艦の残骸は、巨大な白い鳥の形になった。
翼は布のように柔らかく、胴体は陶器のように滑らかで、目は硝子玉のように透明だった。
攻撃用の砲門は、花の蕾になっている。
ミサイル格納部からは、小さな綿毛がこぼれた。
別の残骸が流れ込む。
それは、古い輸送船の外殻だった。
裂けた貨物区画が、ぱかりと開く。
中から出てきたのは、武器でも部品でもなく、赤と白の小さな紙風船だった。
また別の破片が入る。
燃え残ったエンジンブロックは、丸いティーポットになった。
冷却管は、蔓草のように絡まり、鈴をつけた枝になった。
破損した操舵翼は、花畑の上をゆっくり回る風車になった。
宇宙船の残骸が、平和な何かへ変えられていく。
鳥。
紙風船。
ティーポット。
風車。
小さな橋。
花冠。
硝子のベル。
誰も座らない白いベンチ。
戦争の残骸が、子供部屋の飾りみたいに変わっていく。
連合軍幹部は、息を呑んだ。
美しい。
平和だ。
人を傷つける形が、ひとつずつ消えていく。
だが同時に、これは恐ろしい。
外から流れ込んだものまで、領域に触れただけで塗り替えられる。
武器でなくても。
敵でなくても。
ただそこに入っただけで、エルの作った法則に従って別の形になる。
幹部の声が、低く漏れた。
「……これが、貴女の魔法か」
エルは振り向かない。
「うん」
「なぜ、こんな形にした」
エルは少しだけ考えた。
「こわくない形」
「こわくない?」
「暴力は、こわい。砕けた星も、痛そう。船の残骸も、悲しそう」
エルは、花畑を見たまま言った。
「だから、こわくない形にした」
「それだけか」
「うん」
そして、ほんの少し遅れて。
「でも、危ないよ」
エルはそう付け足した。
その言い方は、妙に平坦だった。
花畑を作った本人が、いちばん分かっている。
これは癒しではない。
修復ではない。
救済でもない。
暴力を、花畑という別の法則に押し込めた。
星の欠片を、キャンディという異物に変えた。
戦争の残骸を、平和な玩具みたいなものに変えた。
見た目が優しいだけで、これは世界の改編だった。
「観測班」
ジェレミーが言った。
「改編領域境界を固定しろ。外縁部に標識術式。侵入禁止。回収禁止。採取禁止。撮影は監理局と連合軍の共同封印記録のみ」
副長が続ける。
「名称を仮登録します。改編花畑領域。分類、エル魔法行使後閉鎖空間。危険度は最高位」
連合軍の参謀が、思わず言った。
「最高位…」
副長はその参謀を見た。
「はい」
声は穏やかだった。
「入り込んだすべてを平和の形にしてしまいます、きっと人間も」
参謀は言葉を失った。
幹部は、ようやく理解し始めていた。
神性存在は、悪意や暴走によって人間を壊す。
だがエルの魔法は、悪意なく、優しく、かわいらしく、世界を変える。
暴力を花に。
星をキャンディに。
残骸を鳥に。
そこには敵意がない。
憎しみもない。
支配欲もない。
だからこそ、余計に恐ろしい。
悪意がないまま、形が奪われる。
「権能圧、低下!」
観測班の声が響く。
「神性存在本体、沈静化方向へ移行!」
「残留権能、改編領域内に固定されています!」
「民間区域への流出なし!」
連合軍司令室に、わずかな安堵が走った。
任務としては成功だった。
星系は守られた。
民間区域への被害はない。
神性存在の暴走は抑え込まれた。
でも、誰も歓声を上げなかった。
投影図の中で、花畑が揺れている。
宇宙空間に、ありえない風が吹いている。
キャンディになった星片が、花畑の上でころころと転がる。
白い鳥になった戦闘艦の残骸が、音もなく翼を広げる。
紙風船がふわりと浮かび、ティーポットの注ぎ口から星屑みたいな湯気が出る。
全部がかわいい。
全部が平和そう。
全部が、立ち入ってはいけない未知だった。
エルの膝が、また少し折れた。
今度は隠しきれなかった。
ジェレミーがすぐに歩み寄る。
「エル」
「平気」
反射みたいに言ってから、エルは少し止まった。
そして、幹部の方を見た。
苦しいなら、作戦情報として言え。
さっき言われたことを思い出したらしい。
エルは言い直した。
「……平気じゃない」
司令室が静かになる。
エルは花畑を見た。
「いっぱい、変えた。壁も、まだ痛い」
ジェレミーは短く頷く。
「座れ」
「うん」
エルは床に座ろうとした。
副長がすばやく椅子を引いた。
「床ではなく椅子です」
「そっか」
エルは椅子に座った。
幹部は、その様子を黙って見ていた。
花畑を作った存在。
星をキャンディに変えた存在。
宇宙船を鳥や紙風船にした存在。
それが、椅子に座る場所を間違えそうになっている。
幹部は、何かを言おうとして、少し迷った。
謝罪ではない。
礼でもない。
今どちらを言っても、たぶん軽くなる。
だから、軍人として言った。
「改編領域は、我々の管理下から外す」
ジェレミーが見る。
幹部は続けた。
「連合軍は領有を主張しない。貴局の封鎖措置に従う。観測資料は共同保管。無断侵入者は、我々の法でも処罰対象とする」
副長がわずかに目を細める。
「妥当な判断です」
幹部はエルを見た。
「貴女が直接解決しない理由は、理解した」
エルは瞬きをする。
「怒ってる?」
幹部は少し黙った。
「まだ、怒っている部分はある」
エルは頷いた。
「うん」
「だが、今は作戦中だ。感情の処理は後にする」
「うん」
幹部は投影図へ視線を戻した。
「それと」
エルが首を傾げる。
幹部は、少しだけ声を硬くしたまま言った。
「苦しい時は報告しろ。隠される方が困る」
エルはしばらく考えた。
それから、小さく頷いた。
「分かった」
投影図の中で、花畑が広がり切った。
神性存在の権能は、もう暴れていない。
かわいい花畑の中で、静かに揺れている。
宇宙船の残骸だった白い鳥が、花の上をゆっくり飛ぶ。
砕けた星だったキャンディが、星明かりを閉じ込めてきらきら光る。
壊れた砲塔だった蕾が、ぱちんと開いて、小さな白い花を咲かせる。
それは、誰が見ても平和な光景だった。
そして、その場にいる全員が理解していた。
平和に見えることと、安全であることは、まったく違う。
エルの魔法は、神性存在を鎮めた。
ただし、解決したのではない。
暴力を花畑に変えただけ。
破片をキャンディに変えただけ。
残骸を優しいものに変えただけ。
そこには悪意がない。
悪意がないからこそ、怖かった。
◆
作戦は成功した。
神性存在の権能は、無人残骸帯の内側で沈静化した。
暴力は花畑になった。
砕けた星の欠片は、色とりどりのキャンディになった。
外から流れ込んだ宇宙船の残骸は、白い鳥や紙風船や風車になった。
民間区域への流出はない。
連合軍の艦隊損耗は予測範囲内。
生存者の追加被害はなし。
神性存在本体は封印可能域まで弱体化。
報告だけを並べれば、完璧な成功だった。
けれど、司令室には歓声がなかった。
大型投影の中で、宇宙に咲いた花畑が揺れている。
風など存在しないはずの空間で、淡い花が波打っていた。
キャンディになった星片が、きらきらと光を返している。
戦闘艦だった白い鳥が、羽ばたくことなく花畑の上を滑っていた。
かわいい。
あまりにも、かわいい。
そして、そのかわいさが、司令室にいる全員の背筋を冷たくさせていた。
「改編領域、拡大停止」
観測班が報告する。
「境界固定、成功。残留権能は花畑領域内に封じ込められています」
副長が端末を見ながら言った。
「閉鎖手順へ移行。侵入禁止範囲を三重に設定してください。連合軍側にも同一座標を共有」
連合軍の参謀が、硬い声で応じる。
「了解。封鎖艦を外周へ配置します」
ジェレミーは投影を見たまま、短く言った。
「作戦終了。以後は封鎖維持と神性存在本体の処理に移る」
その言葉で、ようやく司令室に息が戻った。
誰かが深く息を吐く。
別の誰かが椅子の背に手を置く。
通信士が額の汗を拭う。
そして、連合軍幹部たちは、自然とエルを見た。
エルは司令室の端に立っていた。
白い髪の毛先が、少しだけ頬に張りついている。
額には汗が浮いていた。
呼吸は浅い。
肩は小さく上下している。
けれど、顔はいつも通りだった。
ふわふわしていて、少し淡々としていて、何を考えているのか分かりにくい顔。
「エル」
ジェレミーが呼ぶ。
エルはすぐに顔を上げる。
「なに、ジェレミー」
「状態を報告しろ」
エルはほんの少しだけ考えた。
それから言った。
「平気」
副長が目を細めた。
「エル」
「……ごめん、平気じゃない」
言い直した。
それでも、まだ足りない。
ジェレミーの視線が、エルの手元へ落ちた。
エルの指先から、血が出ていた。
細い赤だった。
ぽたり、と床へ落ちるほどではない。
けれど、爪の横から滲んで、白い指を伝っていた。
連合軍幹部が息を呑む。
「出血している」
エルは自分の指を見た。
まるで、今気づいたみたいに。
「あ」
副長がすぐに医療班へ合図する。
エルは少しだけ指を握った。
「大丈夫。身体が切れたんじゃない」
「では何だ」
幹部が問う。
エルは指先を見たまま答えた。
「壁」
「壁?」
「硝子玉の宇宙の壁。さっき、傷ついたから」
司令室が静まり返った。
エルは続ける。
「壁が痛いと、ここにも出ることがある」
その言い方は、他人事みたいだった。
自分の指から血が出ているのに。
汗をかいているのに。
苦しそうなのに。
平然としている。
連合軍幹部たちは、その平然さを見ていた。
神性存在を鎮めた者。
暴力を花畑に変えた者。
星の欠片をキャンディに変えた者。
宇宙船の残骸を、平和な玩具のような形に変えた者。
その存在が、指先から血を流している。
そして、痛みを報告することすら、まだ少し下手だった。
医療班が近づこうとすると、エルは一歩も動かなかった。
逃げない。
拒まない。
ただ、どうすればいいか分からない顔で立っている。
ジェレミーが短く言った。
「座れ」
エルは床にしゃがもうとした。
副長が即座に椅子を引く。
「椅子です」
「うん」
エルは椅子に座った。
医療班が指先を確認する。
通常の裂傷ではない。
肉体の損傷というより、世界構造への負荷が、エルの身体に表出した痕跡。
処置はできる。
だが、原因は血管ではない。
硝子玉の宇宙そのものだった。
連合軍幹部は、エルを見つめていた。
さっきまで怒っていた相手。
「勝手にして、好きにして」と言った少女。
自分たちの星系の危機に、突き放すような言葉を投げた存在。
だが、今なら分かる。
少なくとも、分かり始めていた。
エルが軍の判断に全てを委ねた理由。
魔法で最初から解決しなかった理由。
それは、突き放した訳ではない。
力が足りないからでもない。
逆だった。
力がありすぎるからだ。
エルが本気で世界を変えれば、神性存在の権能は花畑になる。
砕けた星はキャンディになる。
戦争の残骸は鳥になる。
それは美しい。
平和に見える。
優しい形をしている。
だが、人間が住める世界になるとは限らない。
花畑に変わった空間で、人間が呼吸できるとは限らない。
キャンディになった星が、星として戻るとは限らない。
白い鳥になった戦闘艦が、ただの鳥で済むとは限らない。
エルの魔法は、解決ではない。
世界を、別のものへ変える力だった。
人間にとって都合のいい形に収まる保証など、どこにもない。
だからエルは、人間の力で解決してほしがっていた。
連合軍が作戦を立てること。
艦隊を動かすこと。
兵が判断すること。
指揮官が責任を背負うこと。
失敗しそうになっても、最後の瞬間まで人間の手で押し返そうとすること。
それを、奪いたくなかった。
幹部は、ゆっくりと息を吐いた。
この少女は、人間を簡単に捻り潰せる。
悪意がなくても。
敵意がなくても。
ただ、少し形を変えるだけで。
人間の都市も、軍も、戦艦も、歴史も、怒りも、誇りも。
花畑にできる。
キャンディにできる。
白い鳥にできる。
それなのに、しなかった。
ただ、人間のことが好きというだけで。
好きだから、勝手に変えない。
好きだから、待つ。
好きだから、苦しくても、人間の作戦が終わるまで手を出さない。
連合軍幹部は、背筋を伸ばした。
その動きに合わせて、周囲の参謀たちも姿勢を正す。
軍人たちの空気が変わった。
ジェレミーが横目で見る。
副長も、少しだけ目を細めた。
幹部はエルへ向き直った。
そして、最高の敬礼を送った。
一人ではない。
司令室にいた連合軍の幹部たちが、順に姿勢を正し、同じ敬礼をエルへ向けた。
作戦成功への礼ではない。
救われたことへの礼でもない。
理解してしまったものへの、軍人としての敬意だった。
エルは椅子に座ったまま、ぽかんとした。
「……なに?」
幹部は敬礼を解かないまま言った。
「誤解させない言い方は考えろ」
エルは瞬きをした。
「うん」
「それはそれとして」
幹部の声は硬かった。
だが、怒りだけではなかった。
「貴女の人間への尊重へ、敬意を示させていただく」
エルは黙った。
敬礼の意味は知っている。
でも、今自分に向けられている理由を、完全には掴みきれない。
褒められているのか。
怒られているのか。
敬われているのか。
作戦情報なのか。
エルの中で、言葉がふわふわと浮いた。
こういうとき。
ロジーなら、きっと言う。
「今のは褒められてるやつだよ! 記録価値高いよ! 褒めてもらいな!」
レトなら、たぶんもっと真っ直ぐ言う。
「エル、がんばったんだよ! 褒めてって言っていいんだよ!」
エルは、そう考えた。
ロジーとレトなら、どうするか。
褒めてほしい時、ちゃんと褒めてと言う。
エルは椅子から降りた。
医療班が慌てる。
「エルさん、まだ処置が――」
「あとで」
副長が止めようとして、少しだけ考え、止めなかった。
エルは連合軍幹部たちの方へ歩いていく。
小さな足取りだった。
まだ汗をかいている。
指先には処置前の血が滲んでいる。
顔色もよくない。
けれど、エルは幹部の前まで行った。
幹部は敬礼を解くべきか迷ったように、一瞬だけ指を動かした。
エルはその前で立ち止まり、見上げた。
そして、言った。
「褒めて」
司令室の時間が止まった。
連合軍幹部の表情が、完全に固まる。
参謀の一人が、息を吸ったまま動かなくなる。
通信士が端末に触れた指を止める。
観測班が投影図を見ながら、明らかに耳だけこちらへ向ける。
副長が片手で口元を押さえた。
ジェレミーは無表情だった。
ただ、目だけが少し細くなっている。
幹部は数秒間、何も言えなかった。
宇宙を花畑にした存在が。
神性存在より危険な力を持つ存在が。
人間の意思決定を奪わないために苦しんでいた存在が。
指先から血を流しながら、目の前で。
「褒めて」と言っている。
幹部は、深く息を吐いた。
それから、敬礼を解いた。
「……貴女は」
一度、言葉を切る。
軍人としての言葉を探した。
子供へ向ける言葉ではなく。
神へ向ける言葉でもなく。
作戦協力者へ向ける言葉として。
「貴女は、我々の作戦を最後まで尊重した」
エルはじっと聞いている。
「自分の力で押し潰すことができたにもかかわらず、我々の指揮権を奪わなかった」
「うん」
「苦痛を負いながら、最終手段としての役割を守った」
「うん」
「そして、必要な時に、必要なだけ介入した」
エルは少しだけ首を傾げた。
「それ、褒めてる?」
幹部は、ほんのわずかに表情を崩した。
笑いではない。
だが、硬さが少しだけ緩んだ。
「褒めている」
エルは頷いた。
「そっか」
幹部は、改めて言った。
「よくやった、エル殿」
エルは瞬きをした。
一回。
二回。
それから、少しだけ目を細めた。
嬉しい顔だった。
分かりにくいけれど、確かにそうだった。
「うん」
エルは小さく頷いた。
「もっと」
司令室の空気が、今度こそ揺れた。
参謀の誰かが咳き込む。
副長の肩が震える。
医療班が必死に真面目な顔を保っている。
ジェレミーが低く言った。
「エル」
「なに、ジェレミー」
「処置が先だ」
「褒めるの、処置しながらできる?」
幹部が真面目な顔で言った。
「可能だ」
ジェレミーが幹部を見る。
幹部は視線を逸らさなかった。
「作戦協力者の士気維持です」
副長がもう耐えきれない顔をした。
「極めて合理的な判断です」
エルは医療班の椅子へ戻った。
今度は床に座らなかった。
医療班が指先を洗浄し、硝子質の滲みを抑える処置を始める。
エルは痛そうに少し眉を寄せたが、手を引っ込めなかった。
幹部はその横に立った。
そして、硬い軍人の声で、ひとつずつ言った。
「よく耐えた」
エルは頷く。
「うん」
「よく待った」
「うん」
「我々の作戦を奪わなかった」
「うん」
「必要な時に、確実に守った」
「うん」
「貴女の協力に、連合軍は敬意を表する」
エルは少し考えた。
「それ、褒め?」
「褒めている」
「そっか」
エルは、ほんの少しだけ満足そうにした。
副長が横から穏やかに言う。
「エル。今後は、最初から“尊重している”と説明できるように練習しましょう」
エルは頷いた。
「うん。勝手にして、好きにして、だけだと怒られる」
幹部が即座に言った。
「怒る」
「うん。分かった」
「だが」
幹部は少しだけ間を置いた。
「意味は、覚えた」
エルは幹部を見た。
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、次は怒らない?」
「言い方による」
「そっか」
エルは真面目に頷いた。
「考える」
ジェレミーが医療班の処置を確認する。
「無理はするな」
エルはすぐに答えた。
「平気」
全員の視線が集まった。
エルは止まった。
「……平気じゃない時は、言う」
ジェレミーは頷いた。
「それでいい」
幹部も短く頷いた。
司令室の投影図では、花畑が封鎖領域として固定されている。
そこはもう戦場ではない。
けれど、人間の住む場所でもない。
かわいくて、平和で、危険な未知。
エルの魔法が残した、優しい異界。
幹部たちはそれを見て、もう一度だけエルへ視線を向けた。
彼女は医療班に指先を処置されながら、少し眠そうな顔をしている。
さっきまで宇宙の法則を書き換えていた存在とは思えないほど、小さく見える。
けれど、誰も侮らなかった。
誰も、神として拝まなかった。
ただ、人間を尊重した存在として、敬意を向けた。
エルはそれを少しだけ浴びてから、ぽつりと言った。
「あとで、レトとロジーにも褒めてもらう」
副長が笑顔で頷く。
「それは大変なことになりますね」
ジェレミーが言う。
「ロジーは記録するだろうな」
「レトは?」
エルが聞く。
ジェレミーは少しだけ考えた。
「抱きつく」
エルは頷いた。
「じゃあ、座って待つ」
幹部が真面目に言った。
「それがいい」
司令室に、ほんの少しだけ空気の緩みが生まれた。
作戦は終わった。
誤解は、まだ完全には消えていない。
エルの言葉は、これからもきっと危うい。
連合軍幹部の怒りも、全部が優しさに変わったわけではない。
それでも、ひとつだけ共有された。
エルは人間を軽んじていない。
人間を簡単に変えられる存在が、
ただ人間のことが好きというだけで、
人間が人間のまま選ぶことを待っている。
その尊重に、彼らは敬礼した。
そしてエルは、少し遅れて学んだ。
こういう時は。
ちゃんと、褒めてと言っていい。




