第51話-エルの困惑する顔、見てみたくない?
エルに、監理局全員でドッキリを仕掛ける日
発端は、食堂の隅だった。
ロジーが、頭上デバイスに保存していた日常記録を眺めながら、ふと呟いた。
「私、気づいちゃった」
レトがプリンの皿を抱えたまま顔を上げる。
「なに?」
ロジーは深刻そうな顔をした。
「エルの、驚いた顔を見たことがない」
レトは固まった。
「……たしかに」
二人は同時に、少し離れた席を見る。
そこにはエルがいた。
白髪の毛先をふわふわ揺らしながら、小さなスプーンでゼリーをつついている。
ゼリーがぷるんと揺れる。
エルはそれをじっと見る。
もう一回つつく。
ぷるん。
「揺れる」
「揺れるね」
食堂職員が微笑む。
エルは驚かない。
不思議そうにはする。
観察はする。
理解しようとはする。
でも、目を丸くして「えっ」とか、慌てて肩を跳ねさせるとか、そういう反応を見た者は、ほとんどいなかった。
レトが小声で言う。
「エル、困った顔はするけど、ほんとに困った顔じゃないよね」
ロジーが頷く。
「うん。だいたい“これは人間のどの分類?”って顔」
「驚きじゃなくて、分類待ち」
「そう!」
ロジーの目が輝いた。
「だから、見たい」
レトも目を輝かせた。
「見たい……!」
その瞬間、近くで聞いていた食堂班の職員が、そっとトレーを置いた。
「……具体的には?」
ロジーが振り向く。
「協力します?」
「内容によります」
レトは真剣な顔で言った。
「エルが嫌な気持ちになるのはだめです」
「もちろんです」
「危ないのもだめです」
「当然です」
「でも、ちょっと困惑してほしいです」
食堂職員は、数秒黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「……それなら、案があります」
ロジーのデバイスが即座に点灯する。
「記録開始! 議題、エル困惑顔観測計画!」
レトが椅子から立ち上がった。
「作戦会議だね!」
食堂職員は厨房の奥へ視線を送った。
そこにいた食堂班長が、少しだけ笑った。
「全職員に根回しが必要ですね」
ロジーの目が、さらに輝く。
「全職員」
レトが息を呑む。
「そんな大きい任務なの……?」
食堂班長は真面目に言った。
「エルさんを本気で困惑させるなら、中途半端では駄目です」
その言葉は、のちに監理局の一部で伝説となる。
作戦名は、ロジーがつけた。
『エルさんにだけ世界が一瞬おかしく見える作戦』
副長が聞いて、即座に却下した。
「長いです」
レトが考えた。
「じゃあ、エルびっくり作戦」
ロジーが首を振る。
「ストレートすぎる。記録名として弱い」
食堂班長が淡々と言う。
「では、正式名称は『対エル限定非害性困惑誘発共同演習』で」
ロジーが拍手した。
「かっこいい!」
レトも拍手した。
「すごい! 何言ってるか分からないけど、正式っぽい!」
副長は少しだけ笑った。
「では略称は?」
食堂班長は、何食わぬ顔で答えた。
「サムズアップ作戦」
最終的に、それが採用された。
内容は単純だった。
エルと目が合った職員は、全員。
無言でサムズアップする。
そして、ウインクする。
理由を聞かれたら、とぼける。
「何がですか?」
「してませんよ」
「偶然です」
「目にゴミが入っただけです」
行為そのものに言及されても、知らないふりをする。
ただし、エルが本気で不安になったら即時終了。
精神干渉、魔法使用誘導は禁止。
エルが「やめて」と言ったら中止。
記録はロジーが管理し、公開範囲は内部限定。
ジェレミーには事前報告。
ジェレミーは報告を聞いて、数秒沈黙した。
「……全職員で?」
副長が涼しい顔で答える。
「はい」
「業務に支障は」
「出させません」
「エルが不安定化した場合は」
「即座に中止します」
「発案者は」
ロジーが勢いよく手を挙げた。
「私!」
レトも手を挙げた。
「わたしも!」
ジェレミーは二人を見た。
それから、わずかに息を吐いた。
「エルを泣かせるな」
レトが真剣に頷く。
「泣かせない!」
ロジーも頷く。
「困惑まで! 傷心不可!」
副長が笑みを深める。
「局長も参加されますか?」
ジェレミーは無表情で答えた。
「必要ならな」
その一言で、作戦の成功率は跳ね上がった。
翌朝。
エルはいつも通り、監理局の廊下を歩いていた。
小さな足音。
ふわふわ揺れる白髪。
淡いピンクの毛先。
手には、昨日作った透明な小鳥の魔法アイテム。
小鳥は、エルの指先に乗って、きらきら光っている。
「今日は、どこに行く?」
小鳥は答えない。
エルは少し考えた。
「食堂」
廊下の角を曲がったところで、最初の職員と目が合った。
監理班の書記官だった。
普段なら、軽く会釈して通り過ぎる。
だが今日は違った。
書記官は、エルと目が合った瞬間、ぴたりと足を止めた。
そして。
無言で親指を立てた。
さらに、片目を閉じた。
ぱちん。
エルも止まった。
「……?」
書記官は何事もなかったように端末へ視線を戻し、廊下を歩いていく。
エルは少しだけ振り返った。
「いまの」
書記官は振り向く。
「はい?」
「いま、した」
「何をでしょうか」
エルは自分の手で、親指を立てる真似をした。
「これ」
「サムズアップですか?」
「うん」
「していませんよ」
エルは瞬きをした。
「あと、目」
「目?」
書記官は穏やかに首を傾げる。
「目に何か付いていますか?」
「……ついてない」
「よかったです」
書記官は丁寧に会釈して去っていった。
エルは、その場で少しだけ立ち尽くした。
「……してた」
小鳥が、きらりと光った。
エルは食堂へ向かった。
食堂の入口では、設備技師が壁面パネルを点検していた。
エルが通りかかる。
設備技師と目が合う。
設備技師は、満面の笑みで親指を立てた。
ぱちん。
ウインク。
エルは足を止めた。
設備技師はすぐに工具箱を閉じる。
「おはようございます、エルさん」
「おはよう」
「今日もいい天気ですね」
「ここ、屋内」
「そうですね」
エルはじっと見る。
設備技師はにこにこしている。
「いま、した」
「何をです?」
エルはまた親指を立てる。
「これ」
設備技師は自分の両手を見る。
「工具を持っていたので、していないと思います」
「でも、した」
「気のせいでは?」
「……気のせい」
エルは少し考えた。
「人間、気のせい、共有する?」
設備技師は一瞬だけ笑いそうになった。
だが耐えた。
「場合によります」
「場合」
「はい」
エルはゆっくり頷いた。
「難しいね」
「難しいですね」
設備技師は、もう一度にこっと笑って作業に戻った。
その背中を見ながら、エルは小さく呟いた。
「二回目」
食堂に入ると、さらに異常だった。
食堂班がいる。
配膳係がいる。
厨房係がいる。
食堂班長がいる。
食事中の職員もいる。
いつも通りの食堂。
の、はずだった。
エルが入口に立った瞬間、近くにいた三人と目が合った。
三人とも、親指を立てた。
ぱちん。
ぱちん。
ぱちん。
三連続ウインク。
エルは固まった。
食堂内の空気は普通だった。
誰も笑っていない。
誰も騒がない。
何も起きていない顔をしている。
エルは一歩進む。
配膳係と目が合う。
親指。
ウインク。
エルは止まる。
厨房の奥の職員と目が合う。
親指。
ウインク。
食堂班長と目が合う。
食堂班長は、完璧な真顔で親指を立てた。
そして、ものすごくきれいなウインクをした。
エルの目が、少しだけ大きくなった。
「……多い」
食堂班長は穏やかに言った。
「何がでしょうか」
「これ」
エルは親指を立てる。
「みんな、してる」
食堂班長は周囲を見る。
「皆さん、食事をしているようですが」
近くの職員たちは、何事もない顔で食べている。
一人はスープを飲んでいる。
一人はパンを切っている。
一人は資料を見ている。
エルはじっと見た。
すると、資料を見ていた職員が、紙の陰からそっと親指を立てた。
ぱちん。
エルは指さした。
「いま」
職員は資料から顔を上げる。
「はい?」
「した」
「何をですか?」
「これ」
「親指ですか?」
「うん」
「親指はありますね」
「ある、じゃなくて」
エルは少し言葉を探した。
「見せた」
職員は自分の手元を見る。
「資料を持っていました」
「でも、見えた」
「資料ですか?」
「親指」
「親指は見えますね」
エルは黙った。
小鳥が、エルの指先で少し揺れる。
食堂班長が言う。
「エルさん、朝食はどうされますか?」
エルはゆっくり顔を向ける。
「……プリン」
「朝食ですか?」
「うん。考える」
「承知しました」
配膳係がプリンを一つ出した。
その皿を置くとき、配膳係は一瞬だけエルと目を合わせた。
親指。
ウインク。
エルは皿を見た。
配膳係を見る。
皿を見る。
「プリンも?」
配膳係は真顔で言った。
「プリンは何もしていません」
「人間がした」
「何をでしょうか」
エルは、困ったように眉を寄せた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
食堂の数名が、その表情を見て内心で沸いた。
しかし誰も崩れない。
エルは席に座った。
スプーンを持つ。
プリンを一口食べる。
「おいしい」
食堂班長が微笑む。
「よかったです」
エルはちらりと食堂班長を見る。
食堂班長は何もしていない。
エルはプリンを見る。
もう一口。
おいしい。
視線を上げる。
遠くの席で、戦闘班の近接戦闘員と目が合った。
近接戦闘員は、無言で親指を立てた。
ウインク。
エルはスプーンを止めた。
「……あ」
近接戦闘員は慌てず食事に戻る。
エルは立ち上がった。
プリンを持ったまま、戦闘班の席へ歩いていく。
戦闘班全員が、内心で姿勢を正した。
エルが近接戦闘員の前に立つ。
「いま、した」
近接戦闘員は顔を上げる。
「何をですか、エルさん」
「親指と、目」
「親指と目?」
「うん」
近接戦闘員は自分の手を見る。
「親指はあります」
エルは少しだけむっとした。
「ある、じゃない」
重装隊員が低い声で言った。
「親指がないと、武器を握りにくい」
エルは重装隊員を見る。
「それは、そう」
魔術砲撃担当が真面目に続ける。
「目も重要です。照準に関わります」
エルは魔術砲撃担当を見る。
「それも、そう」
遊撃補佐員が静かに言った。
「身体構造の確認でしょうか」
エルは黙った。
三人とも間違ってはいない。
間違ってはいないが、ほしい答えではない。
エルは数秒考えた。
「みんな、へん」
近接戦闘員は真顔で言った。
「監理局ではよくあることです」
エルはさらに困った顔になった。
「それは、そう」
戦闘班の席が崩壊しかけた。
近接戦闘員は口元を押さえる。
魔術砲撃担当は水を飲むふりをする。
重装隊員は無表情を貫く。
遊撃補佐員だけが、エルの困惑顔を目に焼き付けている。
エルはプリン皿を持ったまま、ゆっくり食堂を出た。
廊下に出る。
すると、今度は医療班の主治医と出会った。
主治医は穏やかに微笑む。
「おはようございます、エルさん」
エルは警戒するようにじっと見る。
主治医は何もしない。
エルは少し安心する。
「おはよう」
その瞬間、主治医が親指を立てた。
ぱちん。
ウインク。
エルの肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
「……!」
それは、本当に小さな反応だった。
でも、近くの曲がり角で隠れていたロジーのデバイスは、しっかり記録していた。
ロジーは声を殺して震える。
「肩、跳ねた……! エルの肩が……!」
レトは両手で口を押さえていた。
「かわいい……!」
エルは主治医を見上げた。
「した」
主治医は柔らかく首を傾げる。
「何をですか?」
「いま、目が」
「目に異常がありますか?」
「ない。異常は、行動」
「行動ですか」
「うん」
主治医は真面目な顔で言う。
「行動に異常を感じるなら、心理担当官に相談しますか?」
エルは少し考えた。
「相談したら、分かる?」
「分かるかもしれません」
「じゃあ、行く」
主治医は頷いた。
「案内しましょう」
エルが一歩進む。
主治医も歩く。
そして廊下の向こうから来た魔術外科医と目が合う。
魔術外科医は無愛想な顔のまま、片手を上げた。
親指。
ウインク。
エルはぴたりと止まった。
「……医療班も」
主治医は涼しい顔で言う。
「医療班がどうかしましたか?」
「医療班も、へん」
魔術外科医は淡々と言った。
「通常業務中だ」
「通常業務に、これ、ある?」
エルは親指を立てる。
魔術外科医は数秒考える。
「症例による」
エルは初めて、目に見えて困った。
眉が寄る。
視線が左右に揺れる。
口が少し開く。
何かを言おうとして、やめる。
「……症例」
主治医が穏やかに言う。
「エルさん?」
エルは小さく呟いた。
「人間、難しい」
廊下の角の向こうで、ロジーが膝をつきかけた。
「出た……! “人間、難しい”出た……!」
レトは感動していた。
「エル、すごく困ってる……!」
ロジーが小声で言う。
「でもかわいい!」
「かわいい!」
その後も、作戦は続いた。
エルは心理担当官の部屋へ向かった。
途中、技術班の整備士と目が合う。
親指。
ウインク。
エルは足を止める。
整備士は工具を振る。
「おはようございます、エルさん!」
「いま」
「はい?」
「した」
「修理ですか?」
「ちがう」
「点検ですか?」
「ちがう」
「挨拶ですか?」
エルは黙った。
「……挨拶?」
整備士は明るく笑う。
「挨拶ならしました!」
「親指の挨拶?」
「そういう文化もあるかもしれません!」
エルは少し目を見開いた。
「文化」
その言葉は強い。
エルは人間の文化を軽く扱わない。
だから、否定できない。
「そういう文化……?」
「あるかもしれません」
「この監理局に?」
「どうでしょう」
「あなたは、知らない?」
「知らないですね」
「でも、した?」
「何をです?」
エルは止まった。
完全に処理が詰まった。
「……」
整備士はにこにこしている。
エルは、ゆっくり言った。
「あなた、強い」
整備士は吹き出しかけたが、根性で耐えた。
「ありがとうございます?」
心理担当官の部屋に着く頃には、エルの困惑はかなり積み上がっていた。
だが、心理担当官も作戦参加者だった。
エルが椅子に座る。
心理担当官が向かいに座る。
「どうしましたか、エルさん」
エルは真剣だった。
「今日、みんな、親指と目をする」
心理担当官は頷く。
「親指と目」
「うん」
「具体的には?」
エルは実演した。
親指を立てる。
片目を閉じる。
それは、エルがやると妙にたどたどしくて、かわいかった。
心理担当官は一瞬、心の中で天を仰いだ。
しかし顔には出さない。
「なるほど」
「みんな、する」
「誰がですか?」
「書記官、設備技師、食堂班、戦闘班、医療班、技術班」
「かなり多いですね」
「うん」
「理由は聞きましたか?」
「聞いた。でも、みんな、知らないふりをする」
心理担当官はメモを取るふりをした。
「知らないふりをする」
「うん」
「エルさんは、それを見てどう感じましたか?」
エルは少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「分からない」
「怖いですか?」
エルは首を振った。
「怖くはない」
「嫌ですか?」
また首を振る。
「嫌でもない」
「では?」
エルは言葉を探した。
「世界が、少しだけ、あたしに内緒の形をしてる」
心理担当官は、筆記の手を止めた。
その表現は、少しだけ胸に来た。
けれど、作戦はまだ続行可能だった。
エルは不安ではない。
嫌でもない。
ただ、本当に困惑している。
心理担当官は柔らかく言った。
「それは、珍しい感覚ですか?」
エルは頷く。
「うん。あたし、だいたい、分かる。分からなくても、どこが分からないかは分かる」
「今日は違う?」
「うん。みんな、同じことしてる。でも、してないって言う」
「矛盾していますね」
「うん」
心理担当官は、静かに親指を立てた。
そして、ウインクした。
エルが固まった。
完全に。
今度は明確に目を丸くした。
「……あなたも?」
心理担当官は優しく首を傾げる。
「何がですか?」
エルは、数秒間、言葉を失った。
それは監理局職員たちが初めて見た、ほぼ純粋なエルの驚きだった。
目が大きく開く。
口が小さく開く。
眉が少し上がる。
そして、理解できないものを前にした小動物みたいに、ほんの少し身を引く。
ロジーは廊下の向こうで、無音で崩れ落ちた。
レトも一緒に崩れ落ちた。
心理担当官は、心の中でだけ小さく謝った。
エルは立ち上がった。
「ジェレミーに聞く」
その一言で、作戦本部に緊張が走った。
ロジーのデバイスに通信が入る。
副長からだった。
『最終段階です』
ロジーは震える声で返した。
「了解……!」
レトが目を輝かせる。
「お兄さん、やるの?」
「たぶん、やる」
「エル、びっくりするかな」
ロジーは真剣に言った。
「局長がやったら、たぶん今日いちばん困惑する」
エルは局長室へ向かった。
その道中も、職員たちは徹底した。
監理班職員。
親指。
ウインク。
禁書管理担当。
無表情で親指。
無表情でウインク。
文明調査員。
穏やかに親指。
きれいにウインク。
遺物回収員。
震えながら親指。
ぎこちないウインク。
エルはそのたびに足を止めた。
「……あなたも」
「何がですか?」
「いま」
「何も」
「した」
「していません」
「目」
「まばたきでは?」
「片方だけ」
「そういう日もあります」
「そういう日」
エルはだんだん、歩き方まで慎重になっていた。
廊下の角を曲がる前に、そっと覗く。
誰かいる。
目が合う。
親指。
ウインク。
エルは、すっと角の向こうへ戻った。
三秒後、もう一度覗く。
また目が合う。
また親指。
ウインク。
エルは戻った。
「……待ち伏せ?」
職員は何食わぬ顔で通り過ぎる。
「何がですか?」
エルは、ついに小鳥を両手で持ち上げた。
「あなた、見た?」
小鳥は答えない。
「みんな、してる」
小鳥はきらきらしている。
「あなたも、知らないふり?」
小鳥は答えない。
エルは少しだけ頬を膨らませた。
「鳥も、協力してる?」
通りすがりの職員が危うく壁に手をついた。
局長室の前に着いた時、エルは珍しく、ノックの前に深呼吸した。
こんこん。
「入れ」
ジェレミーの声。
エルは扉を開けた。
局長室の中には、ジェレミーがいた。
机に向かって書類を確認している。
いつも通りの無表情。
いつも通りの静けさ。
エルは少し安心したように近づいた。
「ジェレミー」
ジェレミーは顔を上げる。
「どうした」
「今日、みんな、へん」
「いつものことだ」
「いつもと違うへん」
ジェレミーは資料を置いた。
「説明しろ」
エルは両手で親指を立てる真似をした。
「これ」
「サムズアップだな」
「あと、これ」
片目を閉じる。
「ウインクだ」
「みんな、する」
「そうか」
「でも、聞くと、してないって言う」
「そうか」
「ジェレミー、知ってる?」
ジェレミーは、エルを見た。
数秒。
沈黙。
エルはじっと見返す。
この人なら答えてくれる。
エルはそう思っている。
ジェレミーは、真顔のまま言った。
「何の話だ?」
エルが止まった。
「……ジェレミーも?」
「何がだ」
「知らないふり」
「私は知らないことは知らないと言う」
「知ってることは?」
「必要なら言う」
「これは、必要」
「何が必要か分からない」
エルは口を開いた。
閉じた。
もう一度開いた。
「……ジェレミー」
「何だ」
「ほんとに、知らない?」
ジェレミーは、真顔のまま。
親指を立てた。
そして。
片目を閉じた。
ぱちん。
エルの表情が、完全に変わった。
目が丸くなる。
肩が跳ねる。
両手がふわっと浮く。
口が小さく開く。
「……!」
ジェレミーは親指を下ろし、何事もなかったように資料へ視線を戻した。
「それで、何の話だ」
エルは数秒、動かなかった。
それから、小さな声で言った。
「ジェレミーが、した」
「何をだ」
「いま」
「私は資料を見ている」
「見てない。あたしを見た」
「そうか」
「親指」
「親指はある」
「目」
「目もある」
エルは、はっきり困った顔をした。
今度は誰が見ても分かる。
眉が寄り、頬がわずかにむにっとなり、視線が右へ左へ迷う。
「……ジェレミーまで、そういうことする」
ジェレミーは、そこで少しだけ口元を緩めた。
ほんの少しだけ。
エルはそれを見逃さなかった。
「笑った」
「笑っていない」
「笑った」
「気のせいだ」
エルは机の前に立ち尽くす。
「今日、気のせい、多い」
ジェレミーは静かに言った。
「そういう日もある」
エルは完全に黙った。
そこへ、扉が開いた。
副長が入ってくる。
「局長、そろそろ限界です」
ジェレミーが資料を閉じる。
「そうだな」
エルが振り向く。
「限界?」
副長はにこやかに親指を立てた。
ウインク。
エルはもう一度、肩を跳ねさせた。
「副長も」
「何がですか?」
「もう、みんな、同じ」
副長は微笑む。
「ええ。全員同じです」
エルは目をぱちぱちさせた。
「……全員」
副長が扉を開ける。
廊下には、職員たちがいた。
監理班。
戦闘班。
食堂班。
医療班。
技術班。
情報班。
調査班。
生活班。
全員ではない。
業務を止められない者もいる。
それでも、そこには見える範囲いっぱいの職員がいて。
全員が、エルに向かって親指を立てた。
そして、一斉にウインクした。
ぱちん。
エルは。
今度こそ、声を出した。
「……え」
それは小さな、小さな声だった。
でも、確かに驚いていた。
ロジーが廊下の端で両手を上げた。
「成功!!」
レトも飛び出してきた。
「エル、びっくりした!?」
エルはレトを見る。
「レトも?」
レトは満面の笑みで親指を立てた。
「うん!」
ウインクしようとして、両目をぎゅっと閉じた。
「……できなかった!」
ロジーが叫ぶ。
「レト、ウインク失敗! 両目閉じた! かわいい! 記録!」
エルはゆっくり、状況を理解していった。
「ドッキリ?」
副長が頷く。
「はい。エルの驚いた顔を見てみたい、という企画です」
エルは少しだけ首を傾げた。
「見たかった?」
ロジーが勢いよく頷く。
「見たかった!」
レトも頷く。
「エルのびっくり顔、見たことなかったから!」
エルは、数秒黙った。
職員たちの間に、ほんの少しだけ緊張が走る。
やりすぎたか。
嫌だったか。
傷つけたか。
ジェレミーが静かにエルを見る。
「不快だったなら、全員に謝らせる」
エルは首を振った。
「嫌じゃない」
レトがほっとする。
「ほんと?」
「うん」
エルは廊下にいる職員たちを見る。
みんな、少しそわそわしている。
成功を喜びたいけれど、エルの反応を待っている顔。
エルはぽつりと言った。
「世界が、あたしに内緒だった」
ロジーが少しだけ表情を変える。
エルは続ける。
「でも、悪い内緒じゃなかった」
副長が柔らかく微笑む。
「はい」
「みんなで、あたしを見てた」
レトが慌てる。
「嫌だった?」
エルはまた首を振る。
「ちがう」
そして、少しだけ頬を緩めた。
「みんな、楽しそうだった」
その言葉で、廊下の空気がほどけた。
ロジーが勢いよく飛びつく。
「エルー! 驚いた顔かわいかった! ほんとにかわいかった! 貴重! 歴史的! 資料価値がすごい!」
エルはロジーに抱きつかれたまま、少しふらっとした。
「資料」
レトも抱きつく。
「エル、肩ぴょんってした! かわいかった!」
「ぴょん」
「うん、ぴょん!」
エルは自分の肩を見る。
「肩、ぴょんした」
ロジーが頷く。
「した!」
エルは少し考える。
そして、ジェレミーを見る。
「ジェレミーも、楽しかった?」
ジェレミーは短く答える。
「少しな」
エルは目を丸くした。
今日、何度目かの驚き。
「少し」
副長が横から言う。
「局長の“少し”は、かなりですよ」
ジェレミーが副長を見る。
「余計な補足をするな」
副長は親指を立てた。
ウインク。
ジェレミーは無言で視線を向ける。
副長は何食わぬ顔で言った。
「何がですか?」
廊下が笑いに包まれた。
エルも、少し遅れて笑った。
小さく、ふわっと。
「分かった」
ロジーが顔を上げる。
「何が?」
エルは言った。
「ドッキリ、こういうもの」
レトが頷く。
「そう! びっくりして、あとで笑うやつ!」
「なるほど」
エルは職員たちを見た。
「じゃあ、あたしもする」
その瞬間、全職員の笑顔が固まった。
副長の目が細くなる。
「エル。確認します。魔法を使わない範囲で、です」
エルはこくりと頷く。
「うん」
ロジーが警戒する。
「エル、何するの?」
エルは、少しだけ得意げに言った。
「明日、みんなと目が合ったら、普通にする」
レトが首を傾げる。
「普通?」
「うん」
エルは親指を立てない。
ウインクもしない。
ただ、いつも通りに見る。
「みんな、いつ来るか待つ。あたし、何もしない」
副長が、静かに口元を押さえた。
「……高度ですね」
ロジーが震えた。
「逆ドッキリ……!」
レトは目を輝かせた。
「エル、天才!」
エルはふわっと頷いた。
「あたし、学んだ」
ジェレミーは小さく息を吐いた。
「全員、明日は平常業務に戻れ」
副長が笑顔で言う。
「難しいでしょうね」
翌日。
監理局の職員たちは、エルと目が合うたびに、ほんの少し身構えた。
来るか。
来るのか。
親指か。
ウインクか。
魔法は使わないと言っていたが、何かするのか。
エルは何もしなかった。
ただ、いつも通り歩いた。
いつも通り食堂でゼリーをつついた。
いつも通り廊下で小鳥を見た。
いつも通りジェレミーの局長室に行った。
何もしない。
徹底的に、何もしない。
その結果、職員たちの方がそわそわした。
食堂班長が無意識に親指を動かしかけて止める。
戦闘班の近接戦闘員が目を合わせた瞬間に姿勢を正す。
心理担当官が「これが返報性の緊張……」と呟く。
副長だけが心底楽しそうに笑う。
ロジーは記録した。
エル、逆ドッキリ実施。
内容:何もしない。
結果:職員全員が勝手に困惑。
結論:エル、強い。
レトはその記録を見て、真剣に頷いた。
「エル、びっくりする顔もかわいいけど、びっくりさせるのも上手なんだね」
エルはゼリーをつつきながら、ぽつりと言った。
「人間、難しいけど、楽しい」
そして、食堂の端にいた職員と目が合った。
職員は一瞬、身構えた。
エルは何もしない。
ただ、小さく笑った。
それだけで、その職員はなぜか負けた気がした。




