第48話-エルは天才
最初に被害を受けたのは、廊下を歩いていた監理班の職員だった。
資料端末を抱え、いつものように第二区画の曲がり角を抜けようとしたところで、彼は見た。
廊下の中央に、小さな白髪の少女が立っていた。
エルだった。
ただし、いつものエルではない。
背筋が、妙に伸びている。
半眼気味の目つき。
口元は動かない。
両手は背中の後ろ。
そして、声が少し低い。
「状況を説明しろ」
職員は立ち止まった。
「……エルさん?」
エルはわずかに顎を引いた。
「私は無駄な報告を求めていない。要点だけでいい」
職員は端末を落としかけた。
エルさんが。
ジェレミー局長の真似をしている。
しかも、無駄に似ている。
いや、声質は全然違う。
見下ろすサイズのちっちゃなエルだ。
だが、間の取り方が局長だった。
沈黙の置き方。
視線の動かし方。
相手が勝手に背筋を伸ばしてしまう、あの圧。
職員は、もうだめだった。
「……っ、すみませ……」
笑いを堪えようとして、肩が震えた。
エルはさらに一歩近づく。
「笑うな。これは重要案件だ」
「重要案件……ですか……?」
「そうだ」
エルは淡々と言った。
「ジェレミーが二倍になる」
職員は壁に手をついた。
「……二倍」
「ジェレミーは一人。あたしはジェレミーのことが好き。好きなジェレミーが増えると、うれしい」
途中で一瞬だけいつものエルに戻った。
だが、すぐにまた背筋を伸ばす。
「従って、これは合理的な革命だ」
その瞬間、通りかかった別の職員が吹き出した。
「合理的な革命って何ですかエルさん……!」
エルはゆっくりそちらを向く。
「笑うなと言ったはずだ」
「似てる! 言い方が似てるのがだめです!」
「だめではない。完成度が高い」
「自分で言った!」
廊下に、職員が一人、また一人と増えていった。
理由は簡単だった。
笑い声が聞こえたからである。
監理局の職員は優秀である。
異常音、異常魔力、異常反応を即座に察知する。
そして今回の異常は、廊下の中央でジェレミーの真似をするエルだった。
「エルさん、もう一回お願いします」
「申請理由は」
「精神的健康維持です」
「却下する理由がないな」
「だめだ、完全に局長だ」
「でもちっちゃい」
「ちっちゃい局長だ」
エルはこくりと頷いた。
「職務に戻れ、休憩時間はまだ先だ」
職員の一人がその場にしゃがみ込んだ。
「やめてください、腹筋が……!」
ちょうどそこへ、レトが通りかかった。
淡緑の髪を揺らし、牛乳の小瓶を両手で持っていたレトは、廊下の人だかりを見てぱっと目を輝かせる。
「なにしてるの?」
エルはレトを見た。
そして、ジェレミーの声真似ではなく、ジェレミーの空気真似で言った。
「レト。報告しろ」
レトは一瞬で背筋を伸ばした。
「はい! 食堂から牛乳を受領して、現在帰投中です!」
職員たちが崩れた。
「レトが普通に報告した!」
「条件反射!」
「局長の真似でも効くんですか!?」
レトはきょとんとする。
「エル、いまのお兄さんみたいだった!」
エルは満足そうに頷く。
「成功」
レトは尊敬の目でエルを見た。
「すごい! エル、お兄さんになれるの!?」
「なれる」
「じゃあ、お兄さんが二人になるね!」
「そう」
エルは少しだけ頬を上げた。
「あたし、天才かもしれない」
そこにロジーが現れた。
頭上のデバイスがすでに録画モードだった。
「はい記録開始! 題名、エルの天才的発想! 副題、局長増殖計画!」
「増殖はしていない」
エルがジェレミー口調で訂正した。
「概念上の増員だ」
ロジーが廊下の床を叩いた。
「概念上の増員! だめ! 今の保存!」
「ロジー、笑いすぎ」
「無理! だってエルが局長の真似してるってだけでおもしろい!するい!!」
「ずるくない。革命だ」
「革命ってなに!」
レトはエルの周りをくるくる回った。
「エル、もう一回! お兄さんのかっこいいやつ!」
エルは少し考えた。
そして、廊下の端に立っていた職員を見た。
「無茶をするな。戻ってこい。以上だ」
レトが両手で頬を押さえて固まった。
「……お兄さん……」
ロジーが叫ぶ。
「レトが落ちた!」
職員たちもざわめいた。
「再現度が高い」
「局長がレトさんに言いそう」
「いや、言う」
「言うけど、エルさんが言うとかわいい」
「かわいいのに刺さる」
エルはレトを見て、いつもの声で小さく言った。
「レト、だいじょうぶ?」
レトは赤い顔でこくこく頷く。
「だいじょうぶ……お兄さん味がした……」
「味」
ロジーが記録した。
「局長味、という新分類が発生しました」
その日の午前中、監理局の廊下各所でエルはジェレミーになった。
資料提出を急ぐ職員には、
「慌てるな。精度を落とすな」
食堂の列に並ぶ職員には、
「順番を守れ。秩序は食堂にも存在する」
清掃ロボットを避けて歩く職員には、
「進路妨害をするな。相手は職務中だ」
そして、食堂に入った瞬間。
事件は大きくなった。
昼食時の食堂は、ただでさえ人が多い。
そこへエルが、ジェレミーの歩き方で入ってきた。
小さい。
白髪。
毛先ピンク。
でも歩き方だけが局長。
ざわ、と空気が揺れた。
食堂職員がトレイを持ったまま止まる。
「エルさん……?」
エルはカウンターの前で立ち止まった。
「本日の推奨メニューは」
食堂職員は震える声で答えた。
「え、ええと、鶏肉の香草焼きと、星屑野菜のスープです」
「妥当だ」
「妥当いただきました……」
「デザートは」
「硝子蜜プリンです」
その瞬間、レトが背後でぴょんと跳ねた。
「プリン!」
エルは振り返らず、ジェレミーの口調で言う。
「レト。走るな」
レトはその場でぴたりと止まった。
「はい!」
食堂全体が沈黙した。
次の瞬間、あちこちで職員が机に突っ伏した。
「だめだ!」
「レトさんが従うのがだめだ!」
「局長じゃないのに従うんだ」
「エルさんの局長権限が発生している!」
ロジーは食堂の端で、もう完全に実況係になっていた。
「記録! エルのジェレミー模倣には、レトに対する限定的行動制御効果あり! ただし可愛さによる職員の戦闘不能率が高い!」
エルはロジーを見る。
「ロジー。報告は簡潔に」
ロジーが膝から崩れた。
「私にも来た!」
副長は食堂の一番奥の席にいた。
コーヒーを飲んでいた。
最初は、見ないふりをしていた。
だが、エルが食堂中央で腕を組み、ジェレミーの真似をしながら、
「食事中に騒ぐな。消化に悪い」
と言ったところで、限界が来た。
副長はカップを静かに置いた。
そして、片手で口元を覆った。
肩が震えていた。
ロジーが即座に反応する。
「副長、耐久失敗!」
副長はどうにか声を整えた。
「いえ……これは……極めて重大な……監理局全体の士気に関わる……」
「笑ってるよね?」
「笑っていません」
「声が裏返ってる!」
エルは副長の前まで歩いていった。
小さな身体で、見上げる形になる。
それでも、口調だけは完全にジェレミーだった。
「副長。職務に戻れ」
副長は机に突っ伏した。
食堂が拍手した。
「勝った!」
「エルさんが副長を落とした!」
「歴史的瞬間!」
「ロジーさん、記録!」
「してる!」
エルは拍手を浴びながら、少し誇らしげに言った。
「あたしはジェレミー」
その報告は、当然のようにジェレミー本人の耳に入った。
午後。
局長室前の廊下。
ジェレミーは無表情で立っていた。
その前に、エルが立っていた。
背筋を伸ばして。
両手を後ろに組んで。
ジェレミーの真似をしたまま。
周囲には職員がいた。
もちろん、偶然を装っている。
ロジーは堂々と録画していた。
レトは両手を握って見守っていた。
副長は壁際で口元を押さえていた。
ジェレミーはエルを見下ろす。
「エル」
「なんだ、ジェレミー」
廊下が揺れた。
職員たちが一斉に顔を伏せた。
ジェレミーは眉一つ動かさない。
「やめろ」
エルは静かに首を横に振った。
「却下する」
「却下権限はない」
「ある」
「根拠は」
エルは一歩前に出た。
そして、ジェレミーの口調で、ジェレミーに反論した。
「私は合理的判断に基づいて行動している。ジェレミーは一人。あたしはジェレミーのことが好き。好きなものが二倍になるなら、幸福量は増加する。監理局の士気も上がっている。副長は倒れた。成果は出ている」
副長が壁に額をつけた。
「成果に私を含めないでください……」
ジェレミーは淡々と言う。
「副長が倒れたなら、むしろ問題だ」
エルは即答した。
「副長はよく倒れる。誤差だ」
ロジーが床を叩いた。
「誤差!」
レトは目をきらきらさせていた。
「エル、すごい……お兄さんとお兄さんみたいに話してる……!」
ジェレミーはレトを見た。
「レト。感心するな」
「はい!」
即答だった。
エルはそれを見て、少し満足そうにする。
「やはり効果がある」
「利用するな」
「利用ではない。革命だ」
「革命でもない」
「ジェレミーが二倍になる」
「ならない」
「なる」
「ならない」
「なる」
「エル」
ジェレミーの声が少し低くなった。
普通なら、ここで大半の職員は黙る。
だがエルは、ジェレミーの真似をしたまま、まったく退かなかった。
「ジェレミー。私は無駄な制止を求めていない。要点だけでいい」
職員たちが終わった。
廊下のあちこちで、壁に手をつく者、しゃがみ込む者、口元を押さえて震える者が出た。
ロジーは涙目で録画していた。
「だめ……これ、監理局史に残る……」
ジェレミーは数秒沈黙した。
その沈黙まで、エルは真似した。
二人分の沈黙が廊下に落ちた。
それがまた、職員たちを追い詰めた。
やがてジェレミーは、静かに言った。
「エル。私の真似をする理由は分かった」
「理解が早い。さすがジェレミー」
「だが、職員の業務に支障が出ている」
「士気向上」
「笑いすぎて動けない者がいる」
「休憩になった」
「副長が使い物にならない」
「よくあることだ」
副長が床に沈んだ。
ジェレミーは一度だけ副長を見た。
「否定しろ」
副長は肩を震わせたまま言った。
「申し訳ありません、今は無理です」
ジェレミーは小さく息を吐いた。
そして、エルの前にしゃがんだ。
目線を合わせる。
エルは少しだけ、ジェレミーの真似をやめた。
「あたし、だめ?」
ジェレミーは淡々と答える。
「だめではない。だが、場所を選べ」
「場所」
「私の前で私の真似をして私に反論するな」
エルは考えた。
「だめ?」
「困る」
「でも、ジェレミーが二倍になる」
「ならない」
「あたしの中では、なる」
ジェレミーは少し黙った。
その沈黙は、怒っている沈黙ではなかった。
エルはそれを見て、ぽつりと言った。
「あたし、ジェレミーがいると安心する」
廊下の空気が少し変わった。
さっきまで笑っていた職員たちも、静かになった。
エルは自分の胸元を小さく押さえる。
「ジェレミーがいない時、ジェレミーみたいにすると、ちょっといる気がする。だから二倍。あたしは、天才」
最後だけ、また少し誇らしげだった。
ジェレミーは表情を変えない。
でも、声は少しだけ柔らかかった。
「安心するためなら、別の方法を用意する」
「別の方法?」
「私の真似以外だ」
エルはむっとした顔になった。
「革命を潰すの?」
「制限する」
「弾圧」
「運用調整だ」
ロジーが小声で言った。
「局長、言葉の選び方が局長すぎる……」
レトはそわそわしながら手を挙げた。
「お兄さん! 提案があります!」
ジェレミーが見る。
「言え」
「エルがお兄さんの真似をしてもいい時間を作るのはどうですか! 職員さんがお仕事中じゃない時間で、みんなが笑っても大丈夫な場所!」
エルがぱっとレトを見る。
「真似していい時間」
ロジーが端末を叩く。
「名称、ジェレミー二倍タイム!」
ジェレミーが即座に言った。
「却下」
「早い!」
副長がようやく復帰しかけながら言う。
「では、局長模倣観察会」
「却下」
「エルさん情緒安定用模倣訓練」
ジェレミーは少し黙った。
「……検討する」
エルは目を輝かせた。
「革命、残った」
「革命ではない」
「ジェレミー革命」
「違う」
「あたし天才だから、これは革命」
ジェレミーは立ち上がった。
「エル」
「なに、ジェレミー」
「私の真似をするなら、責任も真似しろ」
エルは首を傾げた。
「責任」
「職員を止めすぎない。笑わせすぎない。相手が困ったらやめる。レトに命令口調を使いすぎない。副長を倒すな」
「最後、難しい」
副長が苦しそうに笑った。
「私への配慮が最難関扱いですね」
エルは真面目に頷いた。
「副長、よく倒れるから」
「否定しづらいですねえ……」
ジェレミーはエルを見た。
「守れるか」
エルは背筋を伸ばした。
今度は真似ではなく、エル自身の言葉で。
「守る。 たぶん、やっぱいや、やりたい」
それから、ほんの少し間を置いて。
またジェレミーの口調に戻った。
「以上だ」
職員たちがまた崩れた。
ジェレミーは目を閉じた。
「それをやめろと言っている」
エルは満足そうに胸を張った。
「やめない。あたしジェレミーだから」
エルはジェレミー本人の前に立ち、完璧な間で言った。
「私の判断は変わらない。これは革命だ」
ジェレミーは静かに言った。
「私の真似をするな」
エルは、ジェレミーの口調で返した。
「その命令は受理できない」
副長はまた倒れた。




