第37話-魔術『アカシックレコード・オフライン』
レトの病室には、毎日誰かが来た。
医療班は治療のために。
生活班は食事を持って。
戦闘班は任務報告という名目で。
情報班は、ロジーを連れ戻すために。
そして、誰もが一度は同じことを言った。
「レト、よく帰ってきたな」
レトは包帯だらけのまま、少しだけ笑う。
「うん……わたし、帰ってきたよ」
それだけで、職員たちは言葉に詰まった。
副長は花を持ってきた。
「病室に花はどうかと思いましたが、生活班が安全確認済みです」
「かわいい!」
「レトさんほどではありません」
「えへへ……」
レトは嬉しそうに笑って、それからすぐ痛みに顔をしかめた。
副長は何も言わず、花瓶を置いた。
笑わせたことを少し後悔した顔だった。
エルは見舞い品に、小さな鈴を持ってきた。
「任務鈴」
「任務鈴?」
「怪しい任務が来たら鳴る」
「すごい!」
「あと、副長が悪ノリしても鳴る」
「私への信頼が低いですね」
副長が言うと、鈴がちりんと鳴った。
レトは笑って、傷が痛んで、泣いた。
エルはその涙をじっと見ていた。
「笑うのも痛いの、いやだね」
「うん……でも、うれしいのもあるよ」
「そっか」
エルはレトの布団の端をそっと握った。
「あたし、今日はここにいる」
ロジーは一番騒がしかった。
「包帯レト、かわいい! でも撮影禁止! 本人の尊厳を守る私、偉い!」
「ロジー、うるさい……」
「ごめん!」
「でも、いて」
「いる!」
即答だった。
ロジーは椅子を引き寄せて、レトの手を握った。
いつもより強く。
レトは気づかない。
でもジェレミーは気づいていた。
副長も。
ロジーの笑顔が、ほんの少し硬いことに。
惑星連合軍への処分は、上位委員会を通して正式に下された。
共同作戦指揮権の一時凍結。
関与将校の更迭。
軍法審査。
監理局抜きでの箱庭の娘たちへの接触禁止。
秘匿通信経路の全面開示。
再発防止協定。
政治的にも、軍事的にも、十分に重い処罰だった。
少なくとも、人間の制度上は。
ジェレミーは会議室で処分文書に目を通した。
副長が隣に立つ。
「形式としては最大限ですね」
「そうだな」
「上位委員会もかなり強く出ました」
「当然だ」
ジェレミーは紙面から目を離さない。
「だが、これで終わったと思う者もいる」
副長は静かに目を細める。
「ロジーさんですね」
ジェレミーは答えなかった。
答える必要がなかった。
その夜。
ロジーは病室にいなかった。
医療棟にも。
情報班にも。
アカシックレコード・オフライン。
通信履歴は残らない。
接続痕跡もない。
魔力反応すら、ほとんど残らない。
ロジーが本気で消えれば、監理局でも追えない。
惑星連合軍上層部の非公開会議室。
そこに、ロジーはいた。
会議卓の上に座って、足をぶらぶらさせていた。
「やっほ」
誰も反応できなかった。
警備も。
遮断結界も。
記録装置も。
全部、意味がなかった。
「安心していいよ。これ、記録に残らないから」
ロジーは笑った。
「残るのは、あなたたちの記憶だけ」
高官のひとりが立ち上がろうとした。
ロジーは指を鳴らす。
その瞬間、彼は膝から崩れた。
「まだ何もしてないよ」
ロジーの声は明るい。
明るいまま、冷たい。
「これから、レトの記録を渡すだけ」
痛みが流れ込んだ。
腕が砕ける感覚。
脚が壊れる感覚。
腹部を空間ごと抉られる感覚。
神性存在の声が頭蓋の内側を埋め尽くす感覚。
助けて。
助けて。
助けて。
存在しない避難船団を探し続ける焦り。
任務だから立たなきゃ。
誰かを守るって言われたから。
お兄さんにえらいって言ってもらいたいから。
痛い。
怖い。
でも止まれない。
会議室に悲鳴が満ちた。
外には漏れない。
記録にも残らない。
ロジーはそれを見ていた。
「ねえ」
小さな声。
「処分されたから終わりだと思った?」
誰も答えられない。
「レトの痛み、書類になったら軽くなるの?」
ロジーは首を傾げる。
「ならないよ」
ひとりが泣いた。
ひとりが吐いた。
ひとりが、許してくれと繰り返した。
ロジーは笑わなかった。
「許すのは私じゃない」
そして、少しだけ目を伏せる。
「でも私は、許さない」
ロジーは会議卓から降りた。
「私、正義の味方じゃないよ」
扉の前で振り返る。
「ただの仕返し」
頭上のデバイスが、淡く光る。
「レトが痛かったから、あなたたちにも分けてあげたの」
そして、最後に言った。
「忘れたら、また来るね」
ロジーは消えた。
何も残らなかった。
ただ、その場にいた者たちの記憶だけが、レトの痛みを抱え続けることになった。
翌朝。
ロジーは、いつも通りうるさかった。
「レトー! 朝だよ朝! 医療班さんが怒る前に起きよ! いや怒られたら怒られたで記録価値あるけど!」
「ロジー、声おっきい……」
「ごめん!」
すぐ謝る。
でも三秒後にはまた声が大きくなる。
いつものロジー。
いつもの距離感。
いつもの笑顔。
だからこそ、ジェレミーは気づいた。
医療棟の外。
ジェレミーは足を止める。
副長も同じ場所で立ち止まっていた。
「……何かしましたね」
「そうだな」
「痕跡は?」
「ない」
「でしょうね」
副長は薄く笑った。
だが、いつもの軽さはなかった。
「ロジーさんが本気で隠したなら、こちらには何も残りません」
ジェレミーは医療室の扉を見る。
中からロジーの声がする。
明るい。
騒がしい。
痛々しいほどに。
「問い詰めますか」
副長が聞く。
ジェレミーはすぐには答えなかった。
「何を、だ」
副長は沈黙する。
そう。
何を問い詰めるのか。
証拠がない。
被害届もない。
記録もない。
ロジーが何をしたのかすら分からない。
分かるのは。
ロジーが、何かをしたということだけ。
「箱庭の娘たちは」
ジェレミーが低く言った。
「制御できない」
副長は目を伏せた。
「はい」
「我々は勘違いしてはならない」
「ええ」
「彼女たちは、管理対象ではない」
ジェレミーは静かに息を吐く。
「悪に染まらないように、居場所を作ることしかできない」
それは諦めではなかった。
傲慢を捨てた認識だった。
ロジーが扉から出てきた。
「あ、局長! 副長!」
いつもの笑顔。
でも、目元が少し赤い。
「レト寝たよ! 寝顔かわいかった! 撮影許可は出なかった! 無念!」
副長が微笑む。
「それは残念でしたね」
「でしょー!」
ジェレミーはロジーを見る。
ロジーは笑い続ける。
少しだけ、視線を逸らした。
「ロジー」
「なに?」
「眠ったか」
「レト? うん」
「君だ」
ロジーの笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
「……私は平気」
「そうは聞いていない」
ジェレミーは言う。
「眠ったか」
ロジーは黙る。
やがて、小さく首を振った。
副長が何も言わず、ロジーの隣にしゃがむ。
いつもの悪ノリもない。
からかいもない。
ただ、目線を合わせる。
「大変でしたね」
ロジーは唇を噛んだ。
「私、悪いことしたかもしれない」
「かもしれない、ですか」
「うん」
「なら、今日はそれで十分です」
副長は柔らかく言う。
「今すぐ善悪を判定しなくていい」
ロジーの頭上のデバイスが、小さく揺れる。
「でも、すっきりしなかった」
声が震える。
「返しても、レトの痛かったの、なくならなかった」
ジェレミーの表情がわずかに変わる。
ロジーは慌てて口を押さえた。
言い過ぎた。
それでも、二人は追及しなかった。
ジェレミーは片膝をついた。
そしてロジーの頭に手を置く。
「そうだ」
淡々と。
けれど優しく。
「報復で痛みは消えない」
ロジーの目に涙が溜まる。
「じゃあ、どうすればよかったの」
「ここに戻ればよかった」
「戻ったよ」
「もっと早く」
ロジーは泣いた。
声を出さずに。
子供みたいに、でも子供みたいに泣くことも下手なまま。
副長がハンカチを差し出す。
「今日は記録係を休みましょう」
「やだ」
即答だった。
「忘れたくない」
「では、休みの記録を残しましょう」
「なにそれ」
「ロジーさんが休んだ日、です」
ロジーは少しだけ顔を上げる。
副長は笑う。
「重要記録ですよ」
ジェレミーが言う。
「命令ではない」
「うん」
「罰でもない」
「うん……」
「君の居場所はここだ」
ロジーの顔が歪む。
「私、いていい?」
「当然だ」
「悪いことしてても?」
「君が戻ってくる限り」
ジェレミーは答えた。
「我々は君を迎える」
ロジーはとうとう泣き声を漏らした。
副長が肩に手を置く。
ジェレミーは頭を撫で続ける。
誰も問い詰めない。
誰も許したとは言わない。
誰も正しかったとは言わない。
ただ。
ひとりで悪い場所へ行かないように。
帰ってこられる場所を、そこに置く。
それしかできないから。
それだけは、絶対に手放さない。
医療室の中で、レトが寝返りを打つ。
「……ロジー……?」
ロジーは涙を拭いた。
「いるよ」
声が少し震えていた。
でも、ちゃんと笑った。
「私、ここにいるよ」
レトは眠ったまま、安心したように息を吐いた。
ロジーはその場にしゃがみ込んで、顔を覆う。
ジェレミーと副長は、何も言わなかった。
ただそばにいた。




