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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【旧版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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第3話-戦闘班レトvsぷちぷち

レトは硝子の彗星から生まれた魔力生命体だよ!

だから、物への認識が人間とは違うの!

自分みたいに、物にも人格があるのかもって思っちゃうことがあるんだよ。

そんなエピソード!

挿絵(By みてみん)


ぷち。


「……ひっ」


惑星監理局、昼休み前。


生活班の備品保管区画へ続く廊下で、レトは足を止めた。


両腕には、透明な緩衝材の束を抱えている。


薄いシートの上に、小さな丸い気泡が規則正しく並んでいる。荷物を衝撃から守るための、ごく普通の梱包材だった。


危険性はない。


魔力反応もない。


敵意など、あるはずもない。


一般には、潰した時の音からこう呼ばれている。


ぷちぷち。


けれど、レトはその名前も用途も知らなかった。


生活班の職員から、


「こちらを奥の棚へ戻していただけますか」


と頼まれただけである。


持っていく。


棚へ置く。


それだけの、簡単な手伝いだった。


「……いま、なにしたの?」


レトは腕の中を見下ろした。


透明な緩衝材は何も答えない。


気のせいかと思い、少しだけ抱え直す。


ぷちぷち。


「ひゃっ!?」


レトは緩衝材を放り出した。


束が床へ落ちる。


ぷち。


ぱちっ。


ぷちぷち。


「うわあああっ!?」


レトは大きく飛び退いた。


淡緑の長い髪が揺れ、左側のワンサイドテールについた青いキューブの髪飾りが激しく跳ねる。


「落ちても鳴る……!」


廊下にいた職員たちが振り返った。


生活班職員が一人。


技術班職員が二人。


調査班職員が一人。


全員が、床に落ちたものの正体を知っていた。


そして全員が、何が起きたのかを理解した。


生活班職員が小声で言う。


「握ってしまったんですね」


技術班職員が頷いた。


「そのあと、驚いて落としました」


「本人の認識では、何もしていないようですが」


「厳しい判定です」


レトには聞こえていなかった。


涙目になりながら、床の緩衝材を見つめている。


「わたし、なにもしてないのに……」


恐る恐る近づく。


「棚に戻したいだけなの」


返事はない。


「ここにいたら、誰かに踏まれちゃうよ」


レトはそっと手を伸ばした。


指先が、一つの気泡へ触れる。


ぷち。


「やっ!」


すぐに手を引っ込める。


「触ったら鳴る……」


もう一度。


今度は、撫でるように触れてみる。


ぷち。


「やめて」


緩衝材へ言う。


「やめてって言ってるのに……」


ぷちぷち。


目に涙が溜まっていく。


「なんで返事みたいに鳴るの……?」


レトは、硝子の彗星から生まれた。


だから昔は、自分と動かない物との境目が、よく分からなかった。


今では、物は話さず、痛みも感情も持たないと理解している。


けれど、不意に音を返されれば、古い感覚が顔を出す。


自分が触れるたびに鳴る。


やめてと言っても鳴る。


小さな声で、何度も何度も何かを訴えてくる。


なのに、何を言われているのか分からない。


「そんなに小さい声で、いっぱい怒らなくてもいいでしょ……」


レトの目から、涙が一粒落ちた。


廊下の角には、副長が立っていた。


金髪の、細身で長身の男性。


惑星監理局の中枢を担い、ジェレミーを補佐し、緊急時には全体指揮を代行する監理班の副長である。


レトの悲鳴を聞き、すぐに駆けつけていた。


抱えていた緩衝材。


潰れた気泡。


負傷なし。


魔力反応なし。


危険性なし。


副長は、一目で状況を把握した。


けれど、すぐには姿を現さなかった。


レトは以前、分からないことがあるたびに、周囲の大人へ答えを求めていた。


今は違う。


怖くても、まず見る。


分からなくても、自分で考える。


危険がない限り、その機会を奪わない。


副長は、必要になればすぐに介入できる位置から、レトを見守っていた。


少なくとも。


最初は、そのためだった。


「わたし、踏まれないようにしてあげたいの」


レトは涙を拭い、もう一度だけ緩衝材へ手を伸ばした。


ぷち。


「ひっ……!」


肩が大きく跳ねる。


それでも逃げない。


「助けようとしてるのに……!」


ぷちぷち。


「なんで怒るの……?」


副長の肩が震えた。


端末を口元へ当てる。


笑ってはいけない。


レトは本気で怖がっている。


それでも、自分を怖がらせる相手が廊下で踏まれないように、どうにか棚へ戻そうとしている。


あまりにも真剣だった。


あまりにも優しかった。


そして、あまりにも予想外だった。


副長は、大人の尊厳を総動員して耐えていた。


生活班職員が、廊下の角へ視線を向ける。


「副長」


副長は片手を上げた。


問題ありません。


その合図だった。


まったく問題のない顔ではなかった。


肩が震えている。


耳まで赤い。


目尻には、すでに涙まで浮かんでいた。


調査班職員が囁く。


「完全にツボへ入りましたね」


技術班職員が頷いた。


「かなり深いです」


「そろそろ助けていただかないと」


「出ていける状態でしょうか」


全員が副長を見た。


無理そうだった。


「わたし、悪いことしてないよ……」


レトの声が、すっかり泣き声へ変わる。


副長は一度、大きく息を吸った。


ここまで。


見守る段階は終わりだった。


副長は廊下の角から姿を現した。


「レト」


「……っ」


レトが顔を上げる。


副長は、いつもの薄い笑みを保とうとしていた。


だが、腹筋はすでに限界だった。


口元を片手で覆っている。


肩が震えている。


笑いをこらえ続けたせいで、目尻から頬へ、一筋の涙まで流れていた。


「副長……?」


副長は、どうにか息を整えようとした。


「その緩衝材は――」


声が震えた。


レトの目が大きく見開かれる。


「副長、泣いてるの?」


廊下の職員たちが固まった。


違う。


けれど、副長自身がすぐには訂正できなかった。


レトは床のぷちぷちから離れ、副長へ駆け寄った。


途中で一つ踏みかける。


ぷち。


「ひっ!」


跳ねた。


けれど、もうぷちぷちどころではない。


レトは涙目のまま、副長の袖を両手でつかんだ。


「副長、大丈夫!?」


「はい。問題、ありません」


「問題あるよ! 泣いてるもん!」


副長が目元を押さえる。


指の隙間から、笑い涙が一粒落ちた。


レトの顔が青ざめる。


「ほんとに泣いてる……!」


「違い、ます」


「違わないよ! 涙出てるもん!」


自分も泣いていることなど、もう忘れていた。


レトは副長の手を、両手でぎゅっと握る。


「副長も怖かったの?」


「いいえ」


「無理しないで」


「無理はしていません」


「声も震えてるよ!」


「これは――」


レトは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、懸命に笑った。


副長を安心させようとする、健気な笑顔だった。


「大丈夫だよ、副長」


握った手に力を込める。


「わたし、いるから」


副長は目を閉じた。


完全に、とどめだった。


「……っ」


喉の奥から妙な音が漏れる。


レトがびくりとする。


「苦しいの!?」


「いえ」


「呼吸できない!?」


「できます」


「できてないよ!」


実際、できていなかった。


笑いを無理に押し殺しているせいで、まともに呼吸できていない。


レトは振り返った。


生活班職員は口元を押さえている。


技術班職員は天井を見ている。


調査班職員は、そっと記録端末をしまっている。


誰も副長を助けようとしない。


レトは、信じられないものを見る顔になった。


「みんな、なんで平気なの!?」


職員たちの肩が跳ねる。


「副長が泣いてるんだよ!」


一人が咳払いをする。


一人は資料で顔を隠す。


もう一人は、


「確認事項を思い出しました」


と、不自然な速さで立ち去ろうとした。


レトは怒った。


「笑わないで!」


青白い光が弾けた。


レトの周囲へ、透明な硝子の短剣が数本現れる。


剣先は職員たちには向けられていない。


レトと副長を中心に、床へ落ちたぷちぷちとの間を遮るように浮かんでいる。


即席の防護陣。


副長を守るための、レトなりの警戒態勢だった。


「レト」


「副長は下がってて!」


「危険はありません」


「副長は被害者なんだから!」


副長が俯いた。


肩の震えが、さらにひどくなる。


被害者になった。


いつの間にか。


ぷちぷちを怖がり。


涙を流し。


呼吸困難になり。


レトに庇われる被害者になっていた。


「副長は悪くないよ!」


レトは硝子短剣を浮かべたまま言う。


「ぷちぷちがいっぱい鳴いたら、びっくりするもんね!」


副長の膝が、僅かに曲がった。


「……そう、ですね」


「わたしも怖かったけど、副長も怖かったんだね……!」


「はい……」


訂正を諦め始めていた。


レトは副長の前へ完全に立ち、両腕を広げた。


透明な短剣が、レトの感情に合わせて小さく揺れる。


敵を斬るための構えではない。


誰も近づけないための壁だった。


「もう大丈夫」


レトは振り返り、副長を見上げる。


「わたしが守るから」


副長は片手で顔を覆った。


また涙が落ちる。


「そんなに怖かったんだ……!」


違う。


職員たちは心の中で叫んだ。


違う。


けれど、もう誰にも止められなかった。


「副長、座って」


「必要ありません」


「足も震えてるよ」


「これは笑いを――」


「無理しないで!」


レトは副長の手を引き、その場へしゃがませた。


副長も限界だったため、まともに抵抗できない。


壁へ背を預けるようにしゃがみ、片手で口元を覆う。


肩が揺れる。


涙が落ちる。


どう見ても、泣いている人だった。


レトも隣へしゃがんだ。


硝子短剣は、防護陣のように周囲へ浮かせたまま。


副長の肩へ手を伸ばす。


よしよしと、ゆっくり撫でた。


「副長も、ぷちぷち怖かったね……」


副長の身体が大きく震える。


「……はい」


「いっぱい鳴いたもんね」


「そうですね」


「一人で我慢してたの?」


「いえ」


「わたしが泣いてたから、助けに来てくれたんだね」


「それは、そうです」


「自分も怖いのに?」


「怖くは――」


レトが、さらに優しく背中を撫でた。


「もう強がらなくていいよ」


副長は壁へ額をつけた。


職員たちは、誰もその姿を直視できなかった。


普段は冷静沈着。


どのような緊急事態でも、薄い笑みを崩さない監理局の副長。


その男が今。


小さな少女に背中を撫でられ、


ぷちぷちが怖かったね。


と慰められている。


副長の威厳は、目に見えない音を立てながら削れていた。


レトは副長の頭へも手を伸ばした。


金色の髪を、そっと撫でる。


「よしよし」


「レト」


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


「私は大丈夫です」


「泣いたこと、誰にも言わないから!」


大声だった。


廊下の端まで響いた。


副長が顔を上げる。


「レト」


「安心して!」


「声を落としてください」


「みんなにも言わないようにお願いするね!」


レトは職員たちを振り返った。


「みんな!」


全員が身構える。


レトは、惑星監理局の廊下へ響き渡る声で宣言した。


「副長がぷちぷち怖くて泣いたこと、内緒だからね!!」


静寂。


完全な静寂だった。


副長は目を閉じた。


生活班職員が視線を逸らす。


技術班職員が唇を噛む。


調査班職員は、もう一度記録端末へ手を伸ばしかけ、どうにか倫理で止めた。


記録してはいけない。


だが、記憶から消すこともできない。


副長は、笑いすぎた罰を受けていた。


見守りには教育的な理由があった。


安全を確認し、レトが自分で対処する機会を守った。


その判断自体は正しい。


けれど。


訳も分からず泣くレトを、かなり面白がっていたことも事実だった。


その結果、副長は監理局職員たちの前で、


ぷちぷちを怖がって泣いた男。


になっていた。


「レト」


副長は、ようやく呼吸を整えた。


「なに?」


「まず、短剣をしまってください」


レトは床のぷちぷちと、副長の顔を交互に見た。


「もう攻撃してこない?」


「最初から攻撃していません」


「でも、鳴くよ」


「音が鳴るだけです」


「副長も、ほんとに大丈夫?」


目元が赤い副長には、説得力がなかった。


それでも、副長は今度こそ真顔で答えた。


「大丈夫です。ですから、一緒に確認しましょう」


レトはしばらく迷ったあと、硝子短剣の数を半分だけ減らした。


完全解除ではない。


副長の正面には、まだ二本残っている。


「半分だけね」


「十分です」


副長は立ち上がり、床の気泡緩衝材を一枚持ち上げた。


「これは、物を衝撃から守るための緩衝材です」


「守るもの?」


「そうです」


レトの警戒が、少しだけ和らぐ。


副長は丸い気泡を指先で示した。


「この中には空気が入っています。押すと表面の膜が破れ、中の空気が外へ出ます」


「それで鳴くの?」


「鳴くのではなく、音が鳴ります」


「返事じゃない?」


「違います」


「怒ってない?」


「怒っていません」


「痛くないの?」


「生き物ではありませんから、痛みもありません」


レトは緩衝材を見つめた。


信じたい。


けれど、まだ怖い。


副長は説明を重ねる代わりに、潰れていない一粒へ指を置いた。


ゆっくり押す。


ぷち。


レトの肩が跳ねた。


残っていた二本の短剣が、副長の前へ集まる。


「副長!」


「私が押しました」


副長は自分の指を見せた。


傷はない。


緩衝材も動かない。


「攻撃されなかった?」


「されません」


「……ほんとに?」


「ええ」


レトは副長の袖をつかんだまま、反対の手を伸ばした。


けれど、指先が気泡の直前で止まる。


「一緒にして」


「分かりました」


副長が一粒へ指を置く。


その隣へ、レトも指を置いた。


「ゆっくりね」


「ええ」


「副長、怖くなったら手を離していいよ」


「怖くありません」


「わたしがいるからね」


「ありがとうございます」


二人で、ゆっくり力を込める。


気泡が潰れていく。


ぷち。


「ひゃっ!」


レトは副長の袖を強く握った。


けれど、逃げなかった。


自分の指を見る。


怪我はない。


緩衝材を見る。


何も襲ってこない。


「……空気が出た?」


「ええ」


レトはもう一粒へ触れた。


ぷち。


肩が跳ねる。


それでも、手は離さなかった。


さらに一粒。


ぷち。


「返事じゃない」


「はい」


もう一粒。


ぷちぷち。


「いっぱい音がしても、怒ってない」


「鳴っているだけです」


レトの顔から、少しずつ恐怖が消えていく。


「そういう作りなんだね」


「その通りです」


最後に残っていた硝子短剣が、青白い光へ戻っていった。


防護態勢、解除。


職員たちが密かに安堵する。


レトは床の緩衝材を両腕で抱えた。


ぷち。


身体が跳ねる。


それでも、もう手放さない。


ぷちぷち。


「怒ってない」


「ええ」


ぷち。


「返事じゃない」


「ええ」


「わたし、分かった!」


「よくできました」


レトは、涙の跡が残った顔でぱあっと笑った。


それから副長を見る。


「副長も、もう怖くない?」


副長の肩が震えた。


職員たちは一斉に目を閉じる。


終わらない。


「はい。怖くありません」


「じゃあ、一緒に戻そ!」


「承知しました」


レトと副長は並んで、備品保管区画へ歩き始めた。


腕の中で、ときどき音が鳴る。


ぷち。


レトの身体が跳ねる。


それでも歩く。


ぷちぷち。


今度は足を止めず、副長の様子だけを横目で確認する。


「大丈夫?」


「大丈夫です」


レトは、副長の袖へ少しだけ身体を寄せた。


「わたしもいるからね」


「ありがとうございます」


二人は、そのまま並んで歩いた。


やがて、指定された棚へ到着する。


レトは慎重に緩衝材を置いた。


ぷち。


最後の一粒が鳴る。


レトは一瞬だけ身構えた。


けれど、もう泣かなかった。


「任務完了!」


「ええ。無事に戻せました」


「副長と共同解決!」


「そうですね」


レトは胸を張った。


「わたし、ぷちぷちに勝った?」


副長は少し考えた。


「勝敗ではありません」


「じゃあ、負けた?」


「それも違います」


「じゃあ……」


レトは棚のぷちぷちを見た。


もう怖くはない。


けれど、自分が思っていたような何かでもなかった。


少し悩んでから、明るく頷く。


「いい負けだったね!」


副長は訂正しようとして、やめた。


「ええ。良い経験でした」


主にレトにとって。


そして、副長の腹筋と威厳にとっても。



少し後。


惑星監理局、局長室。


ジェレミー・クリエットは、提出された報告書へ目を通していた。


執務机の前には、副長が立っている。


いつもの薄い笑みは戻っていた。


ただし、目元には僅かな赤みが残っている。


ジェレミーは報告書から顔を上げなかった。


「レトの状態は」


「問題ありません。緩衝材の構造と、音が発生する原理を理解しました。最後まで自分で運び、指定された棚へ戻しています」


「そうか」


「現在は食堂です。任務を完遂した報酬として、プリンが追加されるそうです」


「妥当だ」


副長は小さく頷いた。


報告は、それで終わるはずだった。


だが、ジェレミーは次の書類へ進まなかった。


「副長」


「はい」


「泣いたそうだな」


局長室が静かになった。


副長の笑みが、ほんの僅かに深くなる。


「笑いを抑えたことによる生理的な涙です」


「レトは、そう認識していない」


「そのようですね」


「呼吸もできなくなったと聞いた」


「笑いを抑えたことによる一時的な呼吸困難です」


「足も震えていた」


「同じ理由です」


「座らされ、背中と頭を撫でられた」


「……よくご存じですね」


ジェレミーは報告書の一箇所へ指を置いた。


「記録にある」


副長は僅かに身を乗り出した。


「誰が記録したのですか」


「複数の職員から、ほぼ同一内容の報告が上がっている」


「口止めを命じられたはずですが」


「レトが命じたのは、外部へ言わないことだ。業務報告まで禁じてはいない」


「なるほど」


副長は素直に頷いた。


反論の余地はなかった。


ジェレミーは報告書を一枚めくる。


「教育目的で、すぐには介入しなかったそうだな」


「はい。危険がなく、レトが自力で対処しようとしていましたので」


「途中からは」


副長は少しだけ黙った。


「……個人的な興味も含まれていました」


「そうか」


「非常に興味深い反応でした」


「その結果、お前はぷちぷちを怖がって泣いた男になった」


「はい」


ジェレミーの声は、いつも通り平坦だった。


けれど、副長には分かる。


面白がっている。


明確に。


「局長」


「何だ」


「笑っておられますか」


「笑っていない」


「そうですか」


「ああ」


ジェレミーは無表情だった。


声にも変化はない。


ただし、報告書を持つ手が、先ほどから一度も次のページへ進んでいなかった。


副長は追及しなかった。


代わりに、穏やかな笑みを浮かべる。


「なお、レトには誤認を訂正しました」


「訂正できたのか」


「緩衝材については」


「お前については」


僅かな間。


「……今後の課題です」


ジェレミーは報告書を閉じた。


「次からは、泣く前に助けろ」


「泣いていたのはレトです」


「記録上はお前だ」


副長は、静かに目を閉じた。


「承知しました、局長」



その日の昼。


食堂の長い食卓の端に、レトは座っていた。


前には、温かいスープ。


小さなパン。


野菜と肉を煮込んだ料理。


そして、いつもの昼食にはない、小さなプリンまで置かれている。


「今日は特別です」


食堂班職員がプリンを置き、レトの頭を一度撫でた。


「怖いものへ向き合って、最後まで仕事を終えましたからね」


「もう怖くないよ!」


レトは胸を張った。


「ぷちぷちは、空気が出る音なの。怒ってないんだよ」


「よく分かりましたね」


「副長と共同解決した!」


「立派です」


医療班職員から渡された冷たい布を頬へ当て、生活班職員に乱れたワンサイドテールを整えてもらう。


通りかかった戦闘班員も、レトの頭を軽く撫でた。


「途中で泣いても、最後まで任務を遂行した。それでいい」


「えへへ」


レトは嬉しそうに足を揺らした。


職員たちは、泣いたことを笑わない。


怖かったことを責めない。


自分で確かめたことを褒めてくれる。


レトは温かいスープを飲み、パンを食べ、少しずついつもの元気を取り戻していった。


けれど。


プリンを半分ほど食べたところで、スプーンが止まった。


「どうしました?」


隣にいた職員が尋ねる。


レトは、透明な器の中で揺れるプリンを見つめていた。


「……ぷちぷち」


「はい」


「喋ったわけじゃなかったんだね」


周囲の声が、少しだけ静かになった。


「音がしたから、わたしに何か言ってるのかと思ったの」


自分が触れるたびに音がした。


やめてと言えば、また鳴った。


返事のように思えた。


何を言われているのか分からなくて、怖かった。


けれど。


それだけではなかった。


「わたしみたいに、おはなしできるのかもって、ちょっと思っちゃった……」


レトは、硝子の彗星から生まれた。


人間の親から生まれたのではない。


宇宙を進み続けていた巨大な硝子質の天体から、ある日、一人の少女として生まれた。


物だったものから。


喋り。


考え。


笑い。


泣く存在になった。


だから、ぷちぷちが音を返した時。


怖いと思うのと同時に。


自分と同じなのかもしれないと、ほんの少しだけ期待した。


「仲間かと思ったけど、違った」


レトの声は小さかった。


「空気が出る音だった」


スプーンでプリンの表面へ触れる。


ぷるん、と揺れる。


けれど、プリンも何も話さない。


「そっかぁ……」


ワンサイドテールが、少しだけしょんぼりと垂れた。


職員たちは、すぐには何も言わなかった。


笑うところではない。


間違いを訂正する必要もない。


物と生命の違いを理解したうえで、それでも少し寂しいと思ったレトの気持ちを、なかったことにはできない。


やがて、隣にいた職員が静かに言った。


「私たちはいますよ」


レトが顔を上げる。


「レトさんとお話しして、触れ合える私たちが」


別の職員も頷いた。


「呼べば返事をします」


「一緒に食事もできます」


「泣いていたら、隣へ行けます」


「嬉しいことがあれば、聞かせてもらえます」


「怖いものがあれば、一緒に確かめられます」


職員の一人が、レトの頭を優しく撫でた。


「硝子の彗星から生まれた仲間ではありませんけどね。それでも、私たちはレトさんの仲間ですよ」


レトは、ぱちぱちと瞬いた。


周囲を見る。


食堂班。


生活班。


医療班。


戦闘班。


それぞれ違う制服を着た職員たちが、レトの周りにいる。


話しかければ、答えてくれる。


泣けば、心配してくれる。


笑えば、一緒に笑ってくれる。


分からないものがあれば、一緒に確かめてくれる。


「みんな、仲間?」


「ええ」


「職員さんたち、みんな?」


「もちろんです」


レトの目が、少しだけ潤んだ。


今度の涙は、怖いからではなかった。


「……そっか」


頭を撫でている手へ、自分から少しだけ頭を寄せる。


「じゃあ、寂しくないね」


「はい」


「ぷちぷちが喋らなくても?」


「私たちがたくさん喋ります」


「たくさん?」


「少しうるさいくらいに」


周囲から小さな笑いが起きた。


レトも笑う。


「ロジーより?」


職員たちは一斉に黙った。


少し考える。


「それは難しいですね」


「ロジーは、すっごく喋るもんね」


「勝つ必要もないでしょう」


「そっか!」


レトの声に、いつもの元気が戻った。


残っていたプリンを一口食べる。


嬉しそうに足をぱたぱたさせた。


「おいしい!」


「よかったですね」


「うん!」


レトはもう一口食べ、それから周囲にいる職員たちを順番に見た。


「職員さん」


「はい」


「これからも、いっぱいお話ししてね」


「もちろんです」


「いっぱい触れ合ってね」


「レトさんが嫌でなければ」


「嫌じゃないよ!」


レトは胸を張った。


「わたし、みんなのこと大好きだから!」


まっすぐで。


隠すことのない言葉だった。


また頭を撫でられる。


今度は二人同時だった。


後ろからも肩を撫でられ、頬を軽くつつかれる。


「もうっ、みんな近いよぉ!」


そう言いながら、レトは楽しそうに笑っていた。


硝子の彗星から生まれた少女は。


声を返すたくさんの仲間たちに囲まれて。


残っていたプリンを、嬉しそうに食べた。



翌朝。


副長が執務室へ入ると、自分の机の上に見慣れない物が置かれていた。


透明な硝子細工。


薄い板の上に、小さな丸い膨らみが規則正しく並んでいる。


形は、昨日のぷちぷちとよく似ていた。


しかし、内部に空気は入っていない。


代わりに、青白い光が一粒ずつ閉じ込められている。


光は硝子の内側をゆっくり流れ、ときどき星のように瞬いた。


その隣には、二つ折りにされた小さな手紙が置かれていた。


副長は手紙を開く。


少し不揃いな、レトの文字だった。


『副長へ。


きのうは、ぷちぷちこわかったね。


これは、おしてもならないぷちぷちです。


つぶれないから、だいじょうぶです。


これがあれば、もうこわくないよ。


もしまたこわくなったら、わたしをよんでね。


わたしがまもります。


泣いたことは、ちゃんとないしょにします。


レト』


副長は、最後の一文をしばらく見つめた。


昨日。


レトは廊下の端まで響く声で、職員たち全員へ秘密を宣言した。


そして今。


誰もいない早朝に、硝子細工と手紙だけを置いていった。


直接渡せば、自分がまた怖かったことを思い出させてしまう。


そう考えたのかもしれない。


あるいは、泣いたことへ触れるのが恥ずかしいだろうと、レトなりに気を遣ったのかもしれない。


配慮の方向は、完全に間違っている。


それでも。


そこに込められた気持ちは、間違っていなかった。


副長は硝子細工を手に取った。


一つの膨らみへ、指先を置く。


ゆっくり押す。


硝子は潰れない。


音も鳴らない。


閉じ込められた青白い光だけが、指先を避けるように丸い膨らみの中を巡った。


副長は、ほんの少しだけ笑った。


「よくできています」


答える者はいない。


レトはもう、戦闘班へ向かったのだろう。


副長は手紙を丁寧に折り直し、机の引き出しへしまった。


硝子細工はしまわなかった。


端末の横。


仕事中でも目に入る場所へ置く。


その日から。


惑星監理局の副長の机には、押しても鳴らない、青白く光る硝子製のぷちぷちが置かれることになった。


事情を知る職員は、誰も何も言わなかった。


レトとの約束を守るために。


そして。


口を開けば、笑ってしまうからだった。



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