第2話-硝子の彗星
レトは、青いキューブの髪飾りに触れる癖がある。
考え事をしている時。戦闘前に呼吸を整える時。お兄さんに褒めてもらったあと、どうしていいか分からなくなった時。あるいは、ロジーに急に抱きつかれて、エルが横から不思議なものを差し出してきて、世界が少し賑やかすぎると思った時。
左側頭部で結ばれた淡緑のワンサイドテール。
その黒いリボンに、青いキューブが二つついている。
透明すぎない。けれど濁ってもいない。光を受けると、深い宇宙の底から青白い熱が灯るようにきらめく。硝子でありながら、ただの硝子ではない。宝石のように美しいが、装飾品として生まれたものでもない。
それは、レトがかつて自分の生まれた場所から受け取った欠片だった。
硝子の彗星。
レトはそこから生まれた。
親がいたわけではない。名前を呼んでくれる誰かが、最初からそばにいたわけでもない。星々の間を流れる彗星の中で、硝子質の魔力が長い時間をかけて凝り、熱を持ち、形を探し、やがて一人の少女になった。
なぜ少女の姿になったのか、レト自身にも分からない。
目を開けた時、そこには冷たい光があった。無数の硝子片が漂う空間。青白い熱。遠くに見える星。自分の体の輪郭がまだ曖昧で、指先が透けそうで、声の出し方も分からなかった。
けれど、寂しいとは思わなかった。
周りにあったものが、全部、自分に近かったからだ。
硝子片。彗星の核。凍った塵。光を反射する無機質な破片たち。
命はない。言葉もない。返事もしない。
それでもレトには、それらがまったくの他人には思えなかった。
人間が人間の体温に安心するように、レトは物の沈黙に安心した。そこに意思がないと知る前から、そこに悪意がないことだけは知っていた。
だから今でも、物に話しかけてしまうことがある。
センサー関知で開いた自動ドアにお礼を言う。椅子に少しだけ乗っていいかと聞く。行く手を阻む自動清掃機に通してと泣きそうになる。手動の器具がうまく扱えず、いじわるしないでと小さく言ってしまう。
それは人間の社会では普通ではない。
レトも、もう知っている。
物は物だ。返事はしない。意思もない。だから敬称はつけない。人と同じように扱うことが、物にとって正しいわけではないことも学んだ。
けれど、根っこの部分だけは変わらない。
自分は、あちら側から来た。
動かないもの、話さないもの、光を反射して存在するもの。その近くから生まれてきた。
髪飾りの青いキューブは、それを忘れないためのものでもあった。
彗星がくれた欠片を、お兄さんがリボンに留めてくれた。
正確には、監理局の技術班が安全処理と加工をして、最終的にジェレミー・クリエットがレトの髪に結んだ。
けれど、レトの中では、それはお兄さんが作ってくれたものに近かった。
あの日、ジェレミーはいつもの静かな顔で、レトの髪を整えていた。
「きつくないか」
「うん」
「重くはないか」
「重くない。きらきらしてる」
「そうか」
淡々とした声だった。
けれど、指先は丁寧だった。
レトはそれをよく覚えている。
硝子の彗星から生まれた自分に、人間社会で暮らすための形をくれた人。名前を呼び、服を選び、食事を教え、歩き方を見守り、泣いた時には理由を聞いてくれた人。
お兄さん。
レトにとって、ジェレミーはただの局長ではない。
この硝子玉の宇宙で、自分が迷子ではないと教えてくれた人だった。
◆
惑星監理局、戦闘班訓練室。
広い床面に、白いラインが幾何学的に引かれている。壁は衝撃吸収材で覆われ、天井には複数の観測装置が埋め込まれていた。魔力反応、速度、軌道、熱量、空間歪曲率。模擬戦闘に必要なあらゆる数値が記録される。
その中央で、レトは髪飾りに触れた。
青いキューブが指先で小さく鳴る。
「レト、準備は?」
戦闘班の職員が声をかける。
レトは振り向いた。
「できてる!」
返事は明るい。
けれど、立ち方は変わっていた。
食堂でプリンを前にした時の、ふわふわした姿ではない。廊下で手動ドアに懇願していた時の、今にも泣きそうな姿でもない。
戦闘班所属、単騎、遊撃。
レトは惑星監理局の戦力である。
小さな体に宿る魔力量は膨大で、硝子質の魔力は空間に干渉する。特に彼女が好むのは、硝子細工の短剣だった。透明な刃を無数に作り、浮かべ、飛ばし、空間を縫うように展開する。
それは美術品のように見える。
そして、戦場では恐ろしく速い。
「開始三十秒前」
訓練室の端で、副長が記録端末を持っていた。
金髪の細身長身。薄い笑顔。今日もいつものように、何を考えているのか少し分かりにくい顔をしている。
副長は戦闘班ではない。
だが、局長の補佐として、全体指揮や緊急時の判断を担う立場にある。必要なら現場にも出る。訓練の観察も、ただの見学ではなかった。
「レトさん」
「なに?」
「今日は手動扉ではありません。相手は動きます」
「知ってるよ、もうっ!」
「安心しました」
「副長、まだ言うの!?」
レトが頬をふくらませる。
副長は微笑んだまま端末に視線を落とした。
「開始前の緊張緩和です」
「ぜったい違う!からかってる!!」
戦闘班の職員が笑いをこらえる。
レトはむっとしたまま、訓練室中央に戻った。けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。
副長は、そういう人だ。
レトから見ると、いつも余裕がある大人。
なんでも知っていて、なんでも先に気づいて、困った時にはさりげなく助けてくれる。けれど、助けたあとに必ず少しだけからかう。レトが恥ずかしくなって怒ると、楽しそうに笑う。
悪い人ではない。
むしろ、かなり優しい。
でも、たぶん少しだけ意地悪だ。
レトはそう思っている。
そして、その少しだけ意地悪なところも、嫌いではなかった。
「三、二、一」
合図が落ちる。
「開始」
床を蹴る音はなかった。
レトの姿が消えた。
次の瞬間、訓練室の空気に、青白い線が走る。硝子の短剣が十二本、円を描いて展開された。刃は光を透かしながら、模擬敵の装甲を狙って降る。
相手役の戦闘班員が横へ跳んだ。
短剣が床に刺さる寸前で砕け、硝子の粒になる。破片は飛び散らない。レトの魔力がすぐに回収し、次の刃へ組み直す。
「右!」
誰かが叫ぶ。
レトは右にいた。
正確には、右に現れた。
空間を薄い硝子の膜で切り替えるように、彼女は位置を変える。瞬間移動と呼んでもいい。高速移動と呼んでもいい。見る者によって認識が追いつかないだけで、レトの中では、道筋がちゃんとある。
硝子を置く。
そこを通る。
世界の継ぎ目を、少しだけ自分に優しくしてもらう。
「そこ!」
戦闘班員の模擬弾が放たれた。
レトは避けない。
前に出た。
青白い魔力がレトの周りで燃える。熱を持つ光が弾道を歪ませ、同時に二本の短剣が相手の足元へ突き立つ。刃は攻撃ではなく、移動制限。相手が一瞬止まる。
その一瞬で、レトは背後に回った。
首元へ、硝子の短剣を一センチ手前で止める。
「一本!」
判定音が鳴った。
レトはすぐに距離を取る。
「次!」
息は少し弾んでいる。
瞳は明るい。
戦うことが好き、というより、全力で動けることが好きなのだ。自分の魔力を、誰かを傷つけるためではなく、守るための形に整えていく感覚。訓練室なら失敗できる。仲間なら止まってくれる。だからレトは、ここで何度も自分の形を確かめる。
硝子の彗星から生まれた自分が、人間の組織で、誰かと並んで戦う。
それが嬉しい。
次の相手が前に出た。
レトは両手を開く。
短剣が増える。十、二十、三十。細い硝子の刃が空中に並び、まるで透明な羽根のように広がった。
副長の端末に数値が跳ねる。
「出力上昇。許容範囲内」
副長は静かに言った。
その声を聞いて、レトは少しだけ安心した。
副長が見ている。
戦闘班のみんなが見ている。
だから、少し強く出しても大丈夫。
「もうちょっと強くするね!」
レトが床を蹴った。
青白い光が、訓練室を駆け抜けた。
◆
模擬戦闘は、レトの勝ち越しで終わった。
ただし、最後の一戦で彼女は足を取られ、見事に転んだ。
短剣の展開に意識を割きすぎて、床面の拘束術式に気づくのが遅れたのだ。受け身は取った。怪我はない。戦闘班としては十分に許容できる失敗だった。
それでもレトは、床に座ったまましばらく動かなかった。
「……床が転ばせてきた」
「床は何もしていませんよ、レトさん」
副長が言った。
「術式のせい?」
「そうですね」
「でも床にあったから、床も共犯!」
「共犯ですか」
副長の肩が小さく震えた。
レトはそれを見逃さなかった。
「副長、笑ってる」
「いえ」
「笑ってる!」
「訓練結果に満足しているだけです」
「それ、誤魔化してる時の言い方!」
戦闘班の職員たちは、片づけをしながら温かい目で見ていた。
副長は端末を閉じ、レトの前にしゃがむ。
「最後の拘束術式への反応は遅れましたが、その前の短剣展開はよかったです。相手の退路を潰す動きも、以前より自然でした」
「ほんと?」
「はい」
副長は少しだけ真面目な声になった。
「レトさんは、速さだけで押す必要はありません。あなたの硝子は、綺麗に並べるほど強くなる。焦らず、空間全体を見ることです」
レトは瞬きをした。
からかわれると思っていたところに、きちんと褒められた。
こういう時の副長はずるい、とレトは思う。
普段は意地悪っぽく笑っているのに、大事な時だけ、ちゃんと大人の顔をする。レトが転んでも笑うけれど、怪我をしていないかは必ず見ている。からかうけれど、できたことは見落とさない。
「……うん。見る。全体」
「よろしい」
「副長」
「はい」
「さっきわたしの発言で笑ったのは、あとでお兄さんに言う」
「それは困りましたね」
「困ってない顔してる!」
レトは立ち上がり、訓練用の上着をぱたぱた払った。
汗で頬が少し赤い。髪飾りの青いキューブは、訓練室の光を受けて揺れている。激しく動いても、リボンはほどけていなかった。
お兄さんが結んでくれたものだから。
そう思うと、胸の奥が少し誇らしくなる。
◆
食堂は、訓練室とは別の意味で騒がしかった。
昼食の時間を少し過ぎていたが、監理局の食堂はいつも誰かがいる。任務明けの職員、会議前に軽食を取る者、夜勤に備えて早めの食事をする者。大型ホログラムには本日のメニューと、各班からの連絡事項が並んでいる。
レトは入り口で立ち止まった。
「プリンある!?」
真っ先に確認する。
食堂班の職員が笑った。
「あるよ。訓練後だから大きい方?」
「大きい方!」
返事は迷いなかった。
トレーにプリンを乗せてもらい、レトは食堂の奥へ向かった。窓際の席に、ロジーとエルがいる。
ロジーはテーブルいっぱいに紙ナプキンを広げ、その上にシールを並べていた。エルは椅子に座っているようで、よく見ると少し浮いていた。二人の間には、食べかけの映えスイーツと、用途不明の小さな魔法アイテムが置かれている。
「レトだ!」
ロジーが手を振る。
「訓練どうだった? 勝った? 負けた? 面白い負け方した?」
「勝った! 最後だけ床に負けた!」
「床に負けたんだ!」
「共犯だったの!」
「何と!?」
ロジーが身を乗り出す。
レトはトレーを置き、プリンを守るように自分の前へ引き寄せた。
「拘束術式」
「じゃあ、床じゃなくて術式じゃん」
「でも床にあった」
「床、巻き込まれ事故」
ロジーは笑いながら、すでにホログラムに記録を書き込んでいる。
レトはスプーンを持ったまま、それを少し眺めた。
ロジーは何でも記録する。
楽しいことも、くだらないことも、誰かの失敗も、誰かの小さな変化も。レトがプリンを食べる時に最初にどこからすくうかまで、たぶん記録している。
最初は少し不思議だった。
でも今は、ロジーがそうする理由を全部ではないにしても、少しだけ分かる気がしている。
ロジーは、消えてしまうものが怖いのだ。
言葉にしない。騒いで、笑って、何でも見たがって、誰にでも近づいていく。けれどその奥に、忘れたくないという気持ちがある。
だからレトは、ロジーに記録されることを嫌ではないと思っている。
ロジーの中に残るなら、自分の今日も、少し遠くまで行ける気がする。
「ロジー」
「なに?」
「わたし、今日は全体を見るって言われた」
「副長に?」
「うん」
「おー、ちゃんとした助言だ!」
「いつもちゃんとしてるよ。ちょっと意地悪だけど」
「副長は意地悪を礼儀正しく包んで出してくるからね」
ロジーは深くうなずいた。
エルが横から、小さな硝子のスプーンを差し出す。
「レト、これ使う?」
「なに?」
「プリンが最後まできれいにすくえるスプーン」
「使う!」
「技術班に見せた?」
「まだ」
「じゃあだめ!」
ロジーが即座に止めた。
レトは伸ばしかけた手を止める。
エルは「あ」と言って、スプーンを自分の方へ引っ込めた。
「そっか。検査まだだった」
「もー、エル! 食堂で未検査アイテム出しちゃだめって言われてるでしょ!」
「思い出した」
「出す前に思い出して!」
エルは悪びれずに、スプーンを小さな布袋にしまった。
レトはその様子を見て、少し笑った。
エルは、不思議だ。
レトやロジーと同じように箱庭の娘と呼ばれている。けれど、レトはエルのことを、自分と同じとは思っていない。
遠い。
とても遠い。
隣に座ってプリンを見ている時でも、エルの目は時々、レトには見えない何かを見ている。中庭で遊んでいる時も、局長室で魔法アイテムを見せる時も、エルの周りだけ世界の形が少し柔らかい。
でも怖くはない。
エルはレトのことを見てくれる。
分からないことは分からないまま、近くにいてくれる。レトが喜ぶと、不思議そうにする。ロジーが騒ぐと、楽しそうに眺める。人間の心を全部分かっているわけではないのに、分かりたいと思っているように見える。
レトにとってエルは、空みたいな子だった。
近くにあるのに、全部は届かない。
でも、そこにあると安心する。
「エル」
「なに?」
「あとで検査してもらって、返ってきたら、そのスプーン使わせて!」
「うん。レトのプリン用にする」
「やった!」
「私の分は!?」
ロジーが手を上げる。
「ロジーは、映えスイーツが最後まで映えたまま食べられるフォーク」
「採用!」
「いや、まず検査!」
レトが言うと、ロジーが笑った。
「レトが止める側になった!」
「わたし、ちゃんと学習してるもん」
「えらいえらい」
ロジーがレトの頭を撫でようとする。
レトはプリンを持ったまま少しだけ避けた。
「プリンこぼれちゃう!」
「プリン優先!?ロジーちゃんより!!?」
「うん!」
レトは大きめのプリンにスプーンを入れた。
表面がぷるんと揺れる。
ひと口食べる。
甘さが舌の上でほどけて、訓練で熱を持っていた体が少しずつ落ち着いていく。レトは目を細め、スプーンを持つ手に力を込めた。
ロジーがその反応を記録する。
エルがプリンをじっと見る。
いつもの食堂。
いつもの三人。
レトは、この時間が好きだった。
◆
食堂の少し離れた席で、ジェレミー・クリエットはコーヒーを飲んでいた。
黒いカップから、湯気が細く立ち上っている。手元には端末と数枚の書類。食堂にいても仕事をしているのは、局長らしいと言えば局長らしい。
だが、局長室ほど張り詰めた空気はない。
ジェレミーは時折、書類から目を離し、食堂全体を見ていた。騒がしい職員たち、食堂班の動き、ロジーのホログラム、エルの布袋、そしてプリンを食べるレト。
レトはその視線に気づいた。
スプーンを持ったまま、ぱっと顔を上げる。
「お兄さんいた!」
ロジーがにやっとする。
「行く?」
「行く!」
「プリン持って?」
「持ってく!」
レトはトレーを持ち上げ、ジェレミーの席へ向かった。
歩幅が少し大きい。けれどプリンが揺れないように慎重でもある。青いキューブの髪飾りが、彼女の動きに合わせて小さく光った。
「お兄さん!」
ジェレミーが顔を上げる。
「訓練は終わったのか」
「終わった! 勝った!」
「そうか」
「最後だけ副長にいじわるされた」
「そうか、後で呼び出す」
「床にころばされたって言ったの」
「なるほど」
ジェレミーは状況を理解したらしい。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
レトはそれを見逃さなかった。
「いま笑った?」
「少しな」
「お兄さんも笑うんだ……」
「私も笑う」
「知ってるけど、ちょっとだけだから」
レトは向かいの席に座った。
プリンをトレーごと置き、ジェレミーのコーヒーを見る。
「苦いやつ?」
「ああ」
「プリンと合う?」
「合うと思う」
「じゃあ、お兄さんもプリン食べる?」
「レトの分だろう」
「お兄さんならいいよ!」
レトは真剣な顔でプリンをすくった。
自分が一番おいしいと思う場所を選んでいる。端ではない。真ん中でもない。カラメルが少しだけ混ざり、甘さが強すぎないように掬う。
それをスプーンに乗せて、ジェレミーの方へ差し出す。
ジェレミーは一瞬だけ止まった。
周囲の職員が見ている。
ロジーも見ている。
エルも見ている。
少し離れた入り口付近では、副長がコーヒーを持ったまま立ち止まっている。
ジェレミーは静かに息を吐き、スプーンを受け取った。
「もらおう」
レトはじっと見ていた。
ジェレミーがプリンを食べる。
「どう?」
「美味しい」
レトの顔が一気に明るくなった。
「でしょ!」
「ああ」
「食堂班のプリン、すごいんだよ」
「知っている。レトがよく報告してくれるからな」
「報告してる!」
「プリンの状態、甘さ、揺れ方、カラメルの量」
「大事だから!」
「大事だな」
ジェレミーはそう言って、コーヒーを飲んだ。
レトは満足そうに自分のプリンをもう一口食べる。
ジェレミーと一緒にいる時、レトはいつもより幼くなる。
ロジーといる時のように騒がしくなりすぎない。エルといる時のように不思議なものへ引っぱられすぎない。副長といる時のように、からかわれてむきになることも少ない。
お兄さんのそばは、レトにとって帰る場所に近い。
硝子の彗星から生まれた自分が、誰かの家族のように扱われてもいいのだと、最初に教えてくれた場所。
人間ではない始まりを持っていても。
物に話しかける癖があっても。
戦場で硝子の刃を浮かべる存在でも。
ここに座って、プリンを分けてもいい。
お兄さんに今日のことを話してもいい。
「今日ね、いじわるだけじゃなくて、副長が褒めてくれた」
「そうか」
「全体を見るって。わたしの硝子は、綺麗に並べるほど強くなるって」
「良い助言だ」
「うん。でも床のことで笑ってた」
「それも副長らしい」
ジェレミーは淡々と言った。
その声に少しだけ呆れが混じっていたので、レトはまた嬉しくなった。
お兄さんは、副長のことを信頼している。
副長は、お兄さんを尊敬している。
その二人の間には、レトにはまだ全部分からない、大人同士の関係がある。仕事の重さや、判断の責任や、言葉にしない信頼がある。
レトはそれを難しいと思う。
でも、嫌いではない。
いつか自分も、そういうふうに誰かを支えられるようになりたいと思う。
今はまだ、手動ドアに負けかけるけれど。
「お兄さん」
「なんだ」
「わたし、もっと強くなるね」
ジェレミーはレトを見た。
その視線は静かだった。
急かさない。驚かない。大げさに褒めない。ただ、レトの言葉を正面から受け取る。
「そうか」
「うん。戦闘班だし、みんな守りたいし、あと、床にも負けないようにする」
「床は敵ではない」
「副長は?」
「特定条件下を除いて味方だ」
ジェレミーは少しだけ笑った。
レトは髪飾りに触れた。
青いキューブは、今日もそこにある。
硝子の彗星がくれた欠片。
技術班が整えてくれた形。
お兄さんが結んでくれたリボン。
ロジーが何度も記録した光。
エルが綺麗だと言って、じっと見つめた色。
副長が訓練中に揺れていないか確認して、何も言わずにうなずいた飾り。
レトは、自分がどこから来たのかを忘れない。
でも、それだけで自分が決まるわけではないことも、今は少し分かっている。
硝子の彗星から生まれた。
お兄さんに育てられた。
ロジーと騒いで、エルと不思議なものを見て、副長にからかわれて、戦闘班で訓練して、食堂でプリンを食べる。
その全部が、レトだった。
「お兄さん、もうひとくち食べる?」
「レトの分が減るぞ」
「お兄さんにも分けたいの!わたしのご褒美だから、わたしがうれしい気持ちをあげたいの」
「そうか」
「うん!」
レトは自信満々に言った。
少し離れた席で、ロジーが「みんな黙ってて!録画してる!」と静かに騒いでいた。
エルは「ジェレミーが笑顔…」と言った。
副長は通りすがりのふりをしながら、「食堂班に確認しましょう」と余計なほど真面目に言った。
ジェレミーは、カップを置いた。
「では、半分もらおう」
「半分!?」
「嫌ならひとくちでいい」
「半分あげる!」
レトは慌ててプリンを守るように抱え、それから少し考えて、ちゃんと半分に分け始めた。
完璧な半分にはならなかった。
けれど、レトは真剣だった。
その様子を、ロジーが記録している。エルが見ている。副長が笑いをこらえている。ジェレミーが静かに待っている。
硝子玉の宇宙は、閉じた世界だ。
外側とは隔絶されている。
それでもその内側には、レトが手放したくないものが、たくさんあった。
青いキューブが揺れる。
硝子の彗星から来た少女は、プリンを半分に分けながら、自分の居場所をまたひとつ確かめていた。




