第1話-硝子の箱庭
一話完結のオムニバス形式だから、好きなところから読んでもだいたいだいじょぶだよ!
もし気に入ってくださったら、評価やリアクションしてくれるととっても嬉しいです(*´▽`*)
「ねえ、開けて……」
惑星監理局、資料区画。
宇宙規模の災害へ対処する戦闘班員は、古びた手動ドアの前で泣きそうになっていた。
レト。
淡い緑色の長い髪を、左側頭部でワンサイドテールにまとめた、小柄な少女である。
両腕には、大きな白い資料箱。
箱の側面には、赤い文字でこう書かれていた。
『床置き禁止・水平保持』
重くはない。
戦闘班に所属し、単騎遊撃を担当するレトにとって、この程度の重量は何でもなかった。
問題は、両手が塞がっていることだった。
目の前の扉には、銀色の取っ手がある。
自動ではない。
引かなければ開かない。
「わたし、箱持ってるの」
レトは扉へ訴えた。
「だから、開けて」
扉は沈黙していた。
レトは取っ手を見た。
次に、両腕の箱を見た。
また取っ手を見た。
どうしても手が足りない。
監理局の設備の大半は自動化されている。
近づけば開く扉。
局員証を読み取る扉。
声や魔力反応で本人を識別する扉。
けれど、古い資料区画の一部には、今も手で開ける扉が残っていた。
レトも、それは知っている。
物は物である。
扉には意思がない。
取っ手を引かなければ開かない。
監理局で暮らし、人間たちと働き、何度も教えられてきた。
きちんと理解している。
それでも。
「お願い。資料を置きに行くだけだから」
扉は開かなかった。
「静かに通るから」
開かなかった。
「いじわるしないで……」
銀色の取っ手には、困り果てたレトの顔が映っている。
レトは、硝子の彗星から生まれた。
人間の親から生まれたのではない。
宇宙を流れていた硝子質の魔力と、青白い高熱を宿した彗星の欠片から、一人の少女として形を得た。
だから彼女にとって、物は完全な他人ではない。
机も。
壁も。
硝子も。
扉も。
命がないと分かっていても、自分とはまったく違うものだと思い切れない時があった。
「ねえってばぁ……」
レトは、扉のすぐ前まで近づいた。
「通してよぉ……」
その数メートル後ろで、副長が片手で口元を覆っていた。
金髪の、細身で長身の男性。
惑星監理局の副長であり、局長ジェレミー・クリエットを補佐する人物である。
平時は各部署を調整し、緊急時には監理局全体の指揮を代行する。
判断は速い。
仕事は正確。
いつも薄い笑みを浮かべ、どれほど重大な事態でも声を荒らげることはない。
その副長が今、必死に笑いをこらえていた。
「……っ」
助けるべきなのは分かっている。
レトは困っている。
しかも、床置き禁止の資料箱を抱えているため、単純に荷物を下ろすこともできない。
しかし。
「わたし、なにか怒らせるようなことした……?」
レトは本気で扉を心配していた。
あまりにも真剣だった。
切実だった。
物には意思がないと学んだうえで、それでも扉を無視できずに話しかけている。
その姿があまりにもレトらしく、副長はすぐに声をかけられなかった。
廊下を通りかかった職員が、副長を見る。
副長は片手を上げた。
問題ありません。
そう伝える仕草だった。
問題はあった。
主に、副長の腹筋に。
「お願いです……開けてください……」
レトの声が震え始めたところで、副長は深く息を吸った。
「レト」
「ひゃいっ!」
レトが跳ねた。
資料箱が傾き、慌てて抱え直す。
左側のワンサイドテールが大きく揺れ、青いキューブ状の髪飾りが、ちりんと小さく鳴った。
「副長!?」
「はい」
「いつからいたの?」
「あなたが扉と交渉を始めた頃からです」
「最初から見てたの!?」
「非常に興味深い交渉でした」
「助けてよ!」
「交渉の行方を見守っていました」
「ドア、ぜんぜん譲ってくれなかった!」
「手動ですからね」
「知ってるもん!」
レトは頬を赤くした。
知っている。
本当に知っている。
ただ、知識と現実が、うまくつながらなかっただけだ。
副長はレトの横へ立った。
銀色の取っ手へ手を伸ばし、軽く引く。
扉は何の抵抗もなく開いた。
「……開いた」
「はい」
「副長には素直なんだね」
「手動ドアですよ?」
「分かってる!」
資料室には、温度管理された冷たい空気が満ちていた。
壁一面に保管棚が並び、古い記録媒体や、封印された書類箱が整然と収められている。
レトは目的の棚まで歩き、白い箱を慎重に置いた。
棚の固定装置が作動する。
保管完了。
表示を確認したレトは、すぐに胸を張った。
「任務完了!」
「お見事です」
「わたし、一人で資料を運べた!」
「扉との交渉には支援が入りましたが」
「そこは言わなくていいの!」
レトは副長を見上げた。
「今のこと、誰にも言わないでね」
「承知しました」
「ほんと?」
「公的な記録には残しません」
「公的じゃない記録は?」
「私の記憶に残ります」
「消して!」
「難しい相談ですね」
「副長のいじわる!」
レトは頬を膨らませた。
副長は薄く笑ったまま、資料室の扉を押さえている。
「ロジーが、あなたを探していましたよ」
「ロジーが?」
「新しい記録分類について、意見を聞きたいそうです」
レトの表情が一瞬で明るくなった。
「行ってくる!」
「廊下は走らないように」
「走らない!」
そう答えたレトは、明らかに走り出そうとした。
副長が名前を呼ぶ。
「レト」
ぴたりと止まる。
レトはゆっくり振り返った。
「……早歩きにする」
「よろしい」
レトは、走る寸前の早歩きで資料区画を出ていった。
副長は、その後ろ姿が角を曲がるまで見送った。
宇宙規模の危機を扱う惑星監理局。
星の運命を左右する判断が下され、神性存在や敵性存在への作戦が立案される場所。
その片隅では、今日も戦闘班員が手動ドアに敗北しかけていた。
この宇宙は、巨大な硝子玉の中にある。
比喩ではない。
外側を硝子の壁に閉ざされた、一つの宇宙。
無数の星があり、惑星があり、文明があり、人間が生きている。
惑星監理局は、それらの営みを監視し、調整し、必要ならば介入する。
宇宙の秩序を維持するための組織。
ただし、その組織が守っているのは、星や文明だけではなかった。
手動ドアに困る少女が、安心して泣ける日常も。
その中に含まれていた。
◆
情報班の区画は、資料区画よりもずっと明るかった。
壁面には、いくつもの記録画面が浮かんでいる。
各惑星から送られてきた報告。
文明変動の予測。
航路上の異常魔力。
監理局内部の任務記録。
会議録。
音声。
映像。
観測結果。
膨大な情報が、透き通った光の層となって空中に並んでいた。
その中央で、ロジーは椅子の上に膝立ちになっていた。
ピンク色の髪を左右のツインおさげにした、小柄な少女。
頭上には、円盤状のデバイスが浮いている。
デバイスは淡く光りながら、ロジーの視線に合わせて複数の画面を切り替えていた。
「はい、惑星管理番号A―一〇六、経過観察へ移動!」
ロジーが指を振る。
一つの報告書が右へ移動した。
「外縁航路の魔力乱流、過去記録と照合! 類似事例三件! うち二件は自然収束、一件は神性存在の前兆!」
別の画面が開く。
「だから観測継続! 異常値があと七パーセント上がったら監理班に自動通知!」
情報班の職員が確認する。
「公開範囲は?」
「調査班と外務班まで! 戦闘班は待機命令が出てから!」
「了解」
「次!」
ロジーの手が止まらない。
一見すると、騒がしいだけの少女だった。
だが、彼女が処理している情報はどれも軽くない。
分類を一つ間違えれば、必要な部署へ情報が届かない。
警告を見落とせば、対応が遅れる。
公開範囲を誤れば、不要な混乱や情報漏洩を招く。
ロジーは、それらを次々と正確に処理していった。
「処理完了!」
最後の画面を閉じる。
頭上のデバイスに、大きな花丸が表示された。
「私、えらい!」
ロジーは両手を上げた。
近くの職員が、端末を見たまま答える。
「えらい、えらい」
「心がこもってない!」
「仕事中だからね」
「私も仕事中だよ!」
「そのシールは仕事?」
職員がロジーの机を指した。
机の端には、色とりどりのシールが並べられている。
星。
花。
リボン。
小動物。
お菓子。
何を表しているのか分からない丸い生き物。
ロジーは真剣な顔になった。
「重要な分類作業です」
「何の分類?」
「かわいさ」
空中に表が開いた。
かわいい度評価表。
項目は細かかった。
色彩調和。
丸み。
きらきら成分。
触りたくなる度。
貼った時の満足感。
写真映え。
レトが見た時に目を輝かせる確率。
エルが興味を持って魔法アイテムにしそうな危険度。
「この青い星は、単体なら九十四点」
ロジーはシールを一枚つまんだ。
「でも、並べると隣のシールを食べちゃうんだよね」
入り口から声がした。
「シール、食べるの?」
レトだった。
「視覚的に!」
「しかくてきに……」
レトは少し考えた。
よく分からなかったが、分かったような顔で頷いた。
「そっか」
「絶対分かってない!」
「分かってるもん。隣のシールが、かわいそうになるんでしょ?」
「だいたい合ってる!」
ロジーは椅子から飛び降りた。
「レト! 資料室に勝った?」
「勝ったよ!」
「ほんとに一人で?」
「……副長と共同戦線を組んだ」
「負けてるじゃん!」
「負けてない! 協力して任務を達成したの!」
「ドア相手に共同戦線を組んだの!?」
レトは頬を膨らませた。
「手が塞がってたんだもん!」
「床に置けばいいじゃん」
「床置き禁止だったの!」
「じゃあしょうがない!」
ロジーは即座に意見を変えた。
「ドアが悪い!」
「ロジーもそう思う!?」
「うん! 両手が塞がった職員に配慮して自動で開くべき!」
「だよね!」
二人は固く頷き合った。
情報班の職員が、小さく息を吐く。
「手動ドアだからね」
二人は聞こえなかったふりをした。
ロジーは青い星のシールをレトの手の甲に貼った。
「はい」
「くれるの?」
「試験運用。レトに貼った場合の似合い度を測定します」
ロジーのデバイスから、小さなカメラが展開される。
レトは嬉しそうに手を持ち上げた。
「どう?」
「かわいい!」
「ほんと?」
「予測より三点高い!」
「やった!」
「記録しとこ」
ロジーはすぐに入力を始める。
レトは、自分の手の甲に貼られた星を見つめた。
「ロジー、ほんとになんでも記録するね」
「するよ」
ロジーは、いつもと変わらない明るい声で答えた。
「見たものは残す。楽しかったことも、かわいかったことも、全部」
デバイスへ文字を打ち込みながら、笑う。
「忘れたら、もったいないじゃん」
情報班の職員たちが、ほんの少しだけ静かになった。
レトはロジーを見る。
ロジーは笑っていた。
だからレトも笑った。
「じゃあ、わたしも覚えてる」
「なにを?」
「今日、ロジーが星くれたこと」
ロジーの指が止まった。
それは一秒にも満たない停止だった。
すぐに、いつもの大きな笑顔へ戻る。
「よし! 二重保存!」
「にじゅうほぞん!」
「私の記録と、レトの記憶! これで強い!」
その時だった。
情報班の入り口を、小さな光の粒が横切った。
青。
紫。
白。
星屑のような輝きが、廊下をゆっくり漂っていく。
ロジーのデバイスが反応した。
未登録魔力反応。
魔術式、検出不能。
ロジーが目を輝かせる。
「エルだ!」
「エル?」
「絶対エル! 未登録で、術式がなくて、綺麗で、廊下を勝手に漂ってる!」
「エルだね!」
二人は同時に入り口へ向かった。
「廊下は走らないでください」
背後から職員に言われる。
二人はぴたりと止まった。
顔を見合わせる。
「早歩き!」
ロジーが言った。
「うん!」
走る寸前の早歩きで、二人は星屑を追いかけた。
◆
光の粒は、中庭へ続いていた。
惑星監理局の中庭。
柔らかな芝生。
低い木々。
小さな花壇。
人工的に調整された風。
天井には、硝子越しの空が広がっている。
そこだけを見れば、宇宙規模の危機を扱う組織の内部には見えない。
中庭の中央に、エルがいた。
白髪のボブヘアー。
毛先には、淡いピンク色。
小柄な身体を芝生の上へ座らせ、膝の前に、いくつもの奇妙な道具を並べている。
片方だけが鳴る鈴。
砂が上へ落ちていく砂時計。
羽根の生えた小瓶。
触れる前から、触った感想を喋る布。
レトとロジーは、並んで立ち止まった。
ロジーのデバイスが、次々に記録を始める。
「新作いっぱい!」
「エル、これ全部作ったの?」
「うん」
エルは顔を上げた。
「あそぶ?」
「遊ぶ!」
レトは即答した。
ロジーも両手を上げる。
「全部見たい!」
「じゃあ、これ」
エルは、透明な硝子玉を持ち上げた。
細い銀色の紐がついた、小さなオーナメント。
硝子玉の中心には、白い光が一つ浮かんでいる。
じっと見ていると、光の周囲に、細かな星屑が回っていることが分かった。
レトがしゃがみ込む。
「星?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「振ると、増えるよ」
エルは軽く手首を振った。
ちりん。
小さな音が鳴る。
硝子玉の中の光が瞬いた。
その直後。
玉の外へ、淡い星雲がこぼれ出した。
紫と青の光。
白い星屑。
指先ほどの小さな銀河。
いくつもの光の渦がエルの周囲を回り、芝生の上に星空の影を落とす。
レトは息を止めた。
瞳いっぱいに光を映し、両手を胸元で握る。
「きれい……!」
ロジーのデバイスから、カメラが一斉に展開された。
「待って待って! 今のもう一回! 正面と横と上から撮りたい!」
「いいよ」
エルがもう一度振る。
ちりん。
最初よりも大きな星雲が広がった。
小さな銀河が三つ生まれ、互いの周囲を回りながら、ゆっくり消えていく。
レトはその下をくるりと回った。
淡緑の髪に星の光が散る。
「エル、すごい!」
「うん。すごいの作った」
エルは少しだけ満足そうに頷いた。
「これ、お兄さんにも見せよう!」
レトが言った。
ロジーはすぐに局長の予定表を開いた。
「局長、次の会議まで十一分三十二秒!」
「行ける?」
「行ける! 局長室訪問作戦!」
「作戦開始!」
レトが立ち上がる。
エルもオーナメントを持ったまま立った。
「あたしも、ジェレミーに見せたい」
「お兄さん、きっと好きだよ!」
「なんで?」
「お兄さん、綺麗なもの見ると、少しだけ目が優しくなるから」
ロジーが首を傾げる。
「局長、普段から優しくない?」
「優しいよ。でも、目がちょっと怖い時ある」
「それ、分かる」
「仕事してる時の目」
「分かる」
エルは二人の顔を見比べた。
「ジェレミー、目が怖くて、優しい?」
「そう!」
「局長はそういう人!」
「分かった」
エルは頷いた。
たぶん、完全には分かっていなかった。
三人は、中庭を出た。
後ろには、消え切らなかった星屑が、しばらくふわふわと残っていた。
◆
局長室の前で、ロジーが端末を確認した。
「会議まで八分!」
レトは扉を見た。
自動ドアだった。
安心する。
「入ろう!」
「待って、ノック!」
ロジーが止める。
レトは扉の横にある呼び出し装置を押した。
『入れ』
中から、ジェレミーの声がした。
扉が開く。
「お兄さん!」
レトが最初に飛び込んだ。
机の向こうで、ジェレミー・クリエットが顔を上げる。
惑星監理局の局長。
長身の男性。
黒を基調とした制服。
机の横には、いつでも手が届く位置にハンドガンが置かれている。
表情は冷静で、ほとんど動かない。
それでもレトを見る目には、他の職員へ向けるものとは少し違う柔らかさがあった。
「どうした」
「エルが、すごく綺麗なの作った!」
ロジーが続く。
「新作魔法アイテム! 映像記録済み! 局長にも実演します!」
最後にエルが入ってくる。
手には、硝子玉のオーナメント。
「ジェレミー、これ見て」
エルは、返事を待たずにオーナメントを振った。
ちりん。
硝子玉の中で、白い星が瞬いた。
局長室に、小さな銀河が咲いた。
紫と青の星雲が机の上を流れる。
無数の光点が、書類の間を縫うように飛ぶ。
小さな銀河の渦が、ジェレミーの正面でゆっくり回転した。
星々は熱を持たない。
物に触れない。
ただ、局長室の無機質な空気を、一瞬だけ夜空へ変えた。
ジェレミーは黙って見ていた。
レトは、ジェレミーの横顔を見上げる。
やがて、小さな銀河が薄れていく。
「どう?」
エルが聞いた。
ジェレミーは、消えていく星を目で追った。
「綺麗だな」
レトの顔が輝いた。
「でしょ!」
ロジーのデバイスに、すぐ文字が表示される。
局長発言記録――『綺麗だな』
「ロジー」
ジェレミーが呼ぶ。
「はい!」
「それは必要な記録か」
「とても!」
「削除しろ」
「私的記録に移します!」
「削除しろ」
「うぅ……」
ロジーがしぶしぶ表示を閉じる。
ジェレミーはエルの持つオーナメントへ視線を戻した。
「エル」
「なに?」
「検査は」
局長室が静かになった。
レトの笑顔が固まる。
ロジーのデバイスが、録画中の表示を出したまま停止する。
エルはオーナメントを見た。
次に、ジェレミーを見る。
「まだ」
「技術班へ提出したか」
「してない」
「魔術制御部の確認は」
「してない」
「安全試験は」
「いま使った」
「それは試験とは言わない」
エルは少し考えた。
「でも、出たよ」
「何が起きるか確認せずに使用したということだ」
「うん」
ジェレミーの声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
けれどレトとロジーは、揃って姿勢を正していた。
エルはもう一度、手の中の硝子玉を見る。
「中庭では、大丈夫だった」
「中庭でも使ったのか」
「二回」
ロジーが小さな声で訂正する。
「三回」
ジェレミーがロジーを見る。
「三回使わせたのか」
「記録に必要な角度が……」
「ロジー」
「ごめんなさい」
ロジーは急に敬語になった。
レトも手を挙げる。
「わたしも、お兄さんに見せようって言いました」
「そうか」
「ごめんなさい……」
「謝罪は後で聞く」
ジェレミーは椅子から立った。
「まず、それを机に置け。振るな」
エルは頷いた。
「分かった」
オーナメントを机へ置こうとする。
その瞬間。
細い銀色の紐が、エルの指へ引っかかった。
ちりん。
「あ」
硝子玉が、三度目よりも強く輝いた。
局長室全体が白い光に包まれる。
次の瞬間。
星が、増えた。
先ほどのような小さな銀河ではない。
天井近くまで届く、巨大な星雲。
机の周囲を回る光の輪。
床に広がる、淡い銀河の帯。
小さな星々が、次々と局長室の空間へ生まれていく。
机の上の書類が、ふわりと浮いた。
「わっ!」
レトが反射的に手を伸ばす。
浮いた書類はレトの指先を避けるように曲がり、そのまま彼女の周囲を回り始めた。
「お兄さん! 書類がわたしを回ってる!」
「動くな」
「はい!」
レトは両手を上げたまま固まった。
書類が四枚、レトの周囲を惑星のように回っている。
ロジーのデバイスが警告を表示した。
局所空間偏差。
微弱な重力方向変動。
拡大傾向あり。
ロジーの目が輝く。
「局長! これ、見た目だけじゃない! 局長室の中に小規模な重力圏が――」
「記録より先に技術班へ連絡しろ」
「はい!」
ロジーのデバイスが通信を開始する。
ジェレミーはエルを見る。
「止められるか」
エルは、星雲を見上げた。
「たぶん」
「確実に答えろ」
「……分からない」
ジェレミーは一秒も迷わなかった。
「全員、その場を動くな。ロジー、局長室を封鎖。外部へ広がる兆候があれば、区画ごと隔離しろ」
「了解!」
「レト、短剣を出すな。空間魔術も使うな」
「でも、わたし手伝えるよ!」
「この現象へ干渉した結果が不明だ」
レトは唇を結んだ。
「……分かった」
命令には従う。
けれど、エルを心配する目は逸らさなかった。
局長室の扉が開く。
副長が入ってきた。
背後には技術班の職員が二名いる。
副長は、室内に広がる星空を見回した。
浮いている書類。
レトの周囲を回る紙。
警告を表示するロジーのデバイス。
オーナメントを持ったまま固まっているエル。
そのすべてを一秒で確認する。
「状況は」
「未検査の魔法アイテムを使用。局所的な空間変動が発生した」
ジェレミーが答える。
副長はエルを見る。
「エル」
「うん」
「なぜ、検査前に使用したのですか」
「使わないと、何が出るか分からないから」
「そのために試験区画があります」
「ここでも出たよ」
「ここは局長室です」
「うん」
「試験区画ではありません」
エルは少し考えた。
「たしかに」
副長は笑っていなかった。
声も穏やかなまま。
けれど、普段よりもはっきりとした硬さがあった。
「理解したなら、次からは守ってください」
「うん」
「今は、この現象を止めます」
技術班職員が測定器を展開する。
「魔術式は検出できません。物品内部の魔力構造も、通常の解析形式に対応していません」
「外部への影響は」
「現在は局長室内部に限定。ただし、空間の容積が測定値と一致しません」
ロジーが画面を見る。
「局長室、見た目より一・六倍広くなってる!」
レトが小さく呟く。
「お兄さんのお部屋、広くなった……」
「喜ぶ場面ではありません」
副長に言われ、レトは口を閉じた。
ジェレミーはエルへ近づいた。
「エル」
「なに?」
「これは、何をする道具だ」
「振ると、見たことない空が出る」
「それだけか」
「そのつもりだった」
「消える条件は」
エルは黙った。
「決めてない」
星が、また一つ増えた。
白い光点が天井付近に生まれ、ゆっくり回り始める。
ジェレミーはオーナメントを見た。
「作った時、何を考えた」
エルは、少しだけ首を傾げた。
「綺麗な空を、いっぱい見たい」
「いっぱい、か」
「うん」
「終わりは考えたか」
エルは再び黙った。
「考えてない」
「ならば、道具は今も増やし続けている可能性がある」
「あ」
エルは自分の手を見る。
ようやく、何が起きているのか理解したらしい。
「あたし、終わりを作ってない」
副長が技術班へ指示する。
「遮断では止まりません。物品の破壊も禁止。作成者による停止を優先します」
「了解」
ジェレミーはエルの正面に立った。
「エル。道具を作った時の考えを、終わらせろ」
「終わらせる?」
「綺麗な空を見た。もう十分だと決めろ」
エルは周囲を見た。
星雲。
銀河。
光。
浮かぶ書類。
動かずに自分を見ているレト。
デバイスを操作しながら、何度もエルを確認するロジー。
警戒しながらも、近くに立つ職員たち。
そして、目の前のジェレミー。
エルは、オーナメントを両手で包んだ。
「あたし、見た」
静かに言う。
「綺麗だった」
星雲の動きが、ほんの少し遅くなる。
「レトも見た」
レトが頷く。
「見たよ!」
「ロジーも見た」
「ばっちり記録した!」
「ジェレミーも見た」
「ああ」
「あたし、もう、いっぱい見た」
エルは目を閉じた。
「だから、終わり」
硝子玉が、淡く光った。
局長室を満たしていた星々が、一斉に停止する。
次の瞬間。
星が、戻り始めた。
天井の光が細い線となって落ちる。
銀河の渦がほどける。
星雲が硝子玉へ吸い込まれていく。
レトの周囲を回っていた書類が、力を失って落ちた。
レトが慌てて抱える。
「つかまえた!」
床に広がっていた銀河の帯も消える。
広がっていた空間が元へ戻り、局長室の壁と天井が、あるべき位置へ収まった。
最後の一粒が硝子玉へ戻る。
ちりん。
静かになった。
ロジーのデバイスが表示を切り替える。
空間偏差、解消。
重力方向、正常。
外部影響、検出なし。
技術班職員が息を吐いた。
副長の表情にも、いつもの薄い笑みが戻る。
ジェレミーは、エルの手からオーナメントを受け取った。
すぐに技術班の職員へ渡す。
「隔離容器へ。検査完了まで使用禁止」
「了解しました」
透明な容器の中に、オーナメントが収められる。
エルは、それをじっと見ていた。
「没収?」
「検査だ」
ジェレミーが答える。
「危険性がなければ返却する」
「危険だったら?」
「安全に使える方法を探す。それが不可能なら保管する」
エルは少しだけ考えた。
「壊す?」
「必要がなければ壊さない」
「そっか」
エルは頷いた。
ジェレミーは三人を見る。
レト。
ロジー。
エル。
三人とも、並んで立っている。
「今回の件について、全員に報告書を提出してもらう」
レトが目を丸くした。
「わたしも?」
「未検査だと確認せず、使用を勧めた」
「はい……」
ロジーも手を挙げる。
「私は記録あるから、添付するだけでいい?」
「報告書も書け」
「記録、映像、測定値、時系列、全部あるよ?」
「自分の判断について書け」
ロジーの肩が落ちた。
「はい……」
エルは首を傾げる。
「あたしも?」
「作成者だ」
「絵でもいい?」
「文章で書け」
「絵の方が分かりやすいよ」
「文章だ」
「ロジーに書いてもらう」
「自分で書け」
エルは少しだけ頬を膨らませた。
レトが、そっとエルの手を握る。
「一緒に書こう」
「レトも文章、得意じゃないよ」
「でも、任務報告はちゃんと書けるもん!」
ロジーが元気を取り戻す。
「よし、反省会兼報告書作成女子会!」
副長が言う。
「まずは通常の会議室を使用してください」
「女子会空間じゃだめ?」
「今回は公的な報告です」
「お菓子は?」
「報告書を書き終えたあとなら」
ロジーは拳を握った。
「やる気出た!」
「わたしも!」
エルも小さく手を挙げる。
「あたしも、お菓子ほしい」
ジェレミーは、三人を順番に見た。
「先に報告書だ」
「はーい……」
三人の声が重なった。
◆
三日後。
技術班による検査を終えたオーナメントは、エルの手元へ返された。
ただし、以前とは少し違っている。
銀色の紐の根元に、小さな制御具が取り付けられていた。
一度の使用につき、発生する星空は一つ。
持続時間は十秒。
使用後は、技術班による再確認まで起動不能。
試験区画外で使う場合は、責任者の許可が必要。
エルは、説明を聞き終えると制御具を指でつついた。
「いっぱい出ない」
技術班職員が答える。
「いっぱい出たので付けました」
「綺麗だったよ」
「綺麗でしたが、局長室が広がりました」
「広い方がいいかも」
「よくありません」
エルは少し残念そうだった。
それでも、オーナメントが返ってきたことは嬉しいらしい。
両手で大切そうに持って、局長室へ向かった。
レトとロジーも一緒だった。
局長室の前で、今度はきちんと呼び出し装置を押す。
『入れ』
扉が開く。
「お兄さん!」
「局長、検査終わったよ!」
「ジェレミー、返ってきた」
三人が入る。
ジェレミーは書類から顔を上げた。
エルは、机の前で立ち止まる。
「一回だけ、使っていいって」
「許可記録は」
ロジーがすぐに画面を出した。
「技術班、魔術制御部、監理班、全部承認済み!」
ジェレミーは記録を確認する。
「使用範囲は」
「局長室内。十秒。追加起動不可。空間作用なし」
「よし」
エルはオーナメントを持ち上げた。
「ジェレミー」
「何だ」
「もう一回、見る?」
三日前。
局長室を埋め尽くした星。
浮いた書類。
広がった空間。
その処理に伴う報告書と、各部署への説明。
ジェレミーは、そのすべてを覚えていた。
それでも。
「ああ」
ほんの少しだけ、目を細める。
「もう一度見せてくれ」
エルがオーナメントを振った。
ちりん。
今度は、一つだけ。
小さな銀河が、静かに咲いた。
紫と青の星雲が、机の上をゆっくり流れる。
白い星が、十秒だけ瞬く。
レトはジェレミーの隣で笑っていた。
ロジーは、許可された範囲で記録していた。
エルは、自分の作った空を見上げていた。
外側を硝子の壁に閉ざされた宇宙。
その宇宙の中にある監理局。
その監理局の小さな一室に、さらに小さな宇宙が浮かんでいる。
十秒後。
星は、決められた通りに消えた。
もう増えない。
書類も浮かない。
部屋も広がらない。
ただ、星を見ていた者たちの瞳にだけ、淡い光が残った。
硝子玉の宇宙には、多くの危険がある。
惑星を襲う災害。
人間の感情から生まれる神性存在。
文明を滅ぼしかねない敵性存在。
古い宇宙から残されたもの。
そして、まだ自分の力を完全には理解していない少女たち。
けれど、危険だからといって、すべてを遠ざけるわけではない。
理解する。
教える。
失敗したなら、何が起きたのかを一緒に確かめる。
次は安全に楽しめる形を探す。
そうやって、惑星監理局の一日は続いていく。
レトが、消えた星のあたりを見つめた。
「お兄さん、綺麗だった?」
「ああ」
「エル、成功だって!」
エルはジェレミーを見る。
「あたし、成功?」
「今回はな」
「今回は」
エルは、その言葉を確かめるように繰り返した。
それから、小さく頷く。
「次も、検査してから使う」
「そうしろ」
「使う前に、聞く」
「ああ」
エルは少しだけ満足そうに、オーナメントを胸元へ抱えた。
ロジーのデバイスに、新しい記録が追加される。
『星空オーナメント、安全試験後初回使用。成功』
レトが横から覗き込んだ。
「わたしも書いて」
「何を?」
「すごく綺麗だった、って」
「感想欄に入れとく!」
「お兄さんのも!」
ジェレミーが言う。
「私の感想は不要だ」
「でも、綺麗って言ったよ!」
「記録しなくていい」
ロジーは、すでに入力していた。
副長が局長室の前を通りかかる。
開いた扉の向こうを見て、薄く笑った。
「局長。会議のお時間です」
「分かっている」
「それと、ロジー」
「なに?」
「局長の私的発言を無断で記録しないように」
ロジーの指が止まった。
「見てたの!?」
「偶然通りかかりました」
「絶対嘘!」
副長は答えず、そのまま廊下を歩いていく。
レトが追いかけるように扉から顔を出した。
「副長も見る?」
副長は足を止めた。
振り返る。
「次回、検査と許可が済んでいる時にお願いします」
「見たいんだ!」
「職務上の確認です」
「ふふっ」
レトが笑う。
局長室の中でも、ロジーが笑った。
エルはオーナメントを抱えたまま、少しだけ首を傾げている。
ジェレミーは、次の会議の書類を手に取った。
硝子玉の中にある宇宙は、今日も閉ざされている。
けれど、その内側には星があり、街があり、人間が生きている。
手動ドアがあり。
書類があり。
かわいいシールがあり。
検査前に使われてしまう魔法アイテムがある。
そして、それを作った少女へ、次からどうすればいいのかを教える者たちがいる。
それはきっと、外側から見れば小さな箱庭だった。
けれど、ここで生きる者たちにとっては。
何よりも広く、騒がしく、守る価値のある、本物の宇宙だった。




