第26話-だいすきなお兄さん
今日は、わたしはすごくえらかった。
戦闘班の訓練で、短剣を三十二本も同時に動かしたし、空間の歪みもちゃんと固定したし、最後の高速機動だって、壁にぶつからなかった。
壁はちょっとだけ、びっくりしてたと思う。
でも、ぶつかってないから勝ち。
わたしの勝ち。
だからわたしは、訓練室の出口で胸を張って言った。
「わたし、えらい!」
近くにいた戦闘班の職員が、すぐにうなずいてくれた。
「はい。今日のレトさんはかなり良かったです」
「かなり!」
「かなりです」
かなり。
いい言葉だ。
わたしはかなりえらい。
だから、かなりえらいわたしには、かなりごほうびが必要だった。
甘いものもいい。
プリンもいい。
スムージーもいい。
でも、今日はそれよりも、もっと必要なものがあった。
お兄さんだ。
お兄さん成分が足りない。
これは危険な状態だ。
放っておくと、わたしは廊下の真ん中で、ぺしょ……ってなる。
ぺしょレトになる。
それは監理局の秩序に関わる。
わたしは真剣な顔で、拳を握った。
「緊急任務」
「えっ」
「作戦名、お兄さん成分補給」
職員が一瞬だけ黙った。
でも、監理局の職員は優秀だから、すぐに道を開けてくれた。
「……局長室なら、今は面会可能だと思います」
「やった!」
わたしは廊下を走らなかった。
走ると怒られるから。
でも、歩く速度はすごく速かった。
てくてくじゃない。
てくてくてくてくてくてく、くらい。
途中で自動ドアが開いた。
わたしは小さくうなずいた。
「ありがと。今日は急ぎなの」
自動ドアは何も言わなかったけど、ちゃんと開いてくれた。
いい子だ。
局長室の前につくと、わたしは一回だけ深呼吸した。
お兄さんは局長だから、忙しい。
わたしがいきなり飛びついたら、書類が飛ぶ。
前に飛んだ。
そのときお兄さんは、書類より先にわたしを受け止めた。
そのあと、書類も全部拾ってくれた。
お兄さんはすごい。
でも、今日はちゃんとする。
わたしは扉の前で背筋を伸ばした。
「レトです。入っていい?」
中から、落ち着いた声がした。
「入れ」
扉が開く。
お兄さんは机に向かっていた。
黒い服。
静かな目。
いつも通り、かっこいい。
お兄さんはわたしを見ると、少しだけ視線をやわらかくした。
ほんのちょっと。
でも、わたしには分かる。
お兄さんは、わたしを見てうれしい顔をしている。
たぶん。
きっと。
絶対。
「訓練は終わったのか」
「終わった! わたし、かなりえらかった!」
「そうか」
お兄さんはペンを置いた。
「報告を聞こう」
わたしは局長室の真ん中まで歩いて、両手を腰に当てた。
「短剣三十二本、できた。空間固定もできた。高速機動もできた。壁にぶつからなかった」
「それは重要だな」
「重要!」
お兄さんがうなずいた。
わたしはさらに胸を張った。
「だから、わたしは今、ごほうびが必要です」
「何が欲しい」
わたしは、すぐに答えようとした。
でも、口がちょっとだけ止まった。
プリンって言えば、プリンが出るかもしれない。
スムージーって言えば、スムージーかもしれない。
でも違う。
今日は、そうじゃない。
わたしはお兄さんの机の前まで行って、指先で自分の服の裾をぎゅっとつまんだ。
「……お兄さん」
「うん」
「わたし、お兄さんにあまえたい」
言った。
言えた。
すごく正直に言えた。
お兄さんは少しだけ黙った。
怒ってはいない。
困ってもいない。
ただ、わたしをちゃんと見ている。
その目が好きだ。
わたしが変なことを言っても、戦闘で失敗しても、泣いても、怒っても、ちゃんとわたしを見る目。
お兄さんは立ち上がって、机の横に出てきた。
「来なさい」
「!」
わたしは行った。
走らないつもりだった。
でも、最後の三歩くらいはちょっと跳ねた。
お兄さんの前まで行くと、両腕を広げた。
お兄さんも、少しだけ腕を開いた。
だから、わたしはぎゅっと抱きついた。
お兄さんは倒れない。
びくともしない。
わたしの勢いを、ちゃんと受け止めてくれる。
それで、背中に手を添えてくれる。
強くない。
でも、離れないようにしてくれる手。
わたしはお兄さんの服に顔を埋めた。
少しだけ、コーヒーの匂いがした。
あと、お兄さんの匂い。
安心する匂い。
「お兄さん」
「うん」
「わたし、今日、がんばった」
「ああ。よくやった」
「もっと言って」
「よくやった、レト」
胸の奥が、ぽかぽかした。
青白い熱じゃない。
魔力の熱でもない。
もっとやわらかい。
お兄さんの声が、わたしの中でふわっと広がる。
「わたし、短剣いっぱい動かした」
「見事だ」
「壁にぶつからなかった」
「成長したな」
「わたし、かわいい?」
「かわいい」
即答だった。
わたしは顔を上げた。
「ほんと?」
「本当だ」
「かなり?」
「かなり」
「やったぁ……」
わたしはもう一回、お兄さんに顔を埋めた。
お兄さんは、わたしの髪をゆっくり撫でた。
淡緑の髪。
左のワンサイドテールのあたりに、指が触れる。
髪飾りが少し揺れた。
彗星の欠片。
わたしの大切なもの。
お兄さんが触れると、それも安心している気がする。
「お兄さん」
「何だ」
「もうちょっと」
「もうちょっと、何をだ」
「なでて」
お兄さんは何も言わずに、撫で続けてくれた。
やさしい。
ずるい。
お兄さんはずっとかっこいいのに、こういうときはやさしすぎる。
わたしはちょっとだけ、くっつく力を強くした。
「お兄さん、忙しい?」
「忙しい」
「じゃあ、わたし、邪魔?」
「邪魔ではない」
「ほんと?」
「本当だ」
「でも忙しい?」
「忙しい」
「じゃあ……わたし、机の下で丸くなる?」
「なぜそうなる」
「近くにいたいから」
お兄さんの手が一瞬止まった。
わたしは不安になって、顔を上げた。
「だめ?」
お兄さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。
ため息じゃない。
たぶん、困った笑いに近いやつ。
「机の下は却下だ」
「だめかぁ」
「隣のソファならいい」
「!」
わたしはぱっと顔を明るくした。
「ほんと!?」
「ああ。ただし、書類に触らないこと。局長印にも触らないこと。机の上に短剣を並べないこと」
「前のこと、覚えてる……」
「当然だ」
前に、わたしはお兄さんの机の上に硝子の短剣を並べて、作戦会議ごっこをした。
お兄さんの局長印を敵の本拠地にした。
すごくよかった。
でも、あとで副長に見つかって、ものすごく笑われた。
お兄さんは怒らなかったけど、局長印は敵の本拠地ではないと言った。
局長印は局長印らしい。
難しい。
わたしはソファに座った。
でも、座っただけでは足りなかった。
お兄さんが机に戻ろうとする。
その服の裾を、わたしはそっとつまんだ。
お兄さんが振り返る。
「レト」
「つまむだけ」
「……」
「引っぱらない。ちょっとだけ。お兄さんがいる確認」
お兄さんは少し黙ってから、わたしの隣に一度だけ腰を下ろした。
そして、わたしの手を取って、自分の手の中に包んだ。
「確認なら、これでいいだろう」
わたしの心臓が、どんっと跳ねた。
手。
お兄さんの手。
大きい。
あたたかい。
わたしの手がすっぽり入る。
わたしは自分の指を少し動かした。
お兄さんの指も、少しだけ握り返してくれた。
「……いい」
「そうか」
「すごくいい」
「それなら、少しこのままでいよう」
わたしはソファで小さくなった。
小さくなったけど、気持ちは大きくなった。
うれしいが、いっぱいになった。
「お兄さん」
「うん」
「わたし、お兄さんのこと、だいすき」
「知っている」
「もっと知って」
「十分知っている」
「足りないかもしれない」
「では、覚えておく」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
わたしは満足した。
でも、満足したら、今度は眠くなってきた。
訓練で魔力をいっぱい使ったから。
安心したから。
お兄さんの手があるから。
まぶたが、重い。
でも眠るのはもったいない。
お兄さんがいるのに。
わたしはがんばって目を開けた。
「寝てもいいぞ」
「寝ない」
「眠そうだ」
「眠くない」
「そうか」
「……ちょっとだけ、目を閉じるだけ」
「分かった」
お兄さんは否定しなかった。
だから、わたしは目を閉じた。
手はつないだまま。
お兄さんはたぶん、また書類に戻った。
紙の音がする。
ペンの音がする。
ときどき、お兄さんの気配が動く。
でも手は離れない。
わたしはそのたびに、ここにいる、って思った。
お兄さんがいる。
わたしもいる。
だから大丈夫。
どんな訓練も、任務も、怖いものも、痛いことも、きっと大丈夫。
だって、帰ってくる場所がある。
お兄さんのところ。
わたしの、いちばん安心するところ。
眠る直前、わたしは小さく言った。
「お兄さん成分、補給完了……」
お兄さんの声が、すぐ近くで聞こえた。
「それはよかった」
そのあと、頭を一度だけ撫でられた。
わたしは笑ったと思う。
ちゃんと笑えていたと思う。
夢の中でも、わたしはお兄さんの手を握っていた。




