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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち  作者: 硝子玉の宇宙


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第27話-私の大切なレト

第26話の、ジェレミー視点のエピソードだよ!

午後の局長室は、比較的静かだった。


比較的、というのは、監理局に完全な静寂など存在しないからだ。


廊下の向こうで誰かが走りかけて、すぐに注意される声がする。

情報班の端末通知が壁越しにかすかに響く。

遠くの訓練区画では、魔力測定装置の低い駆動音が続いていた。


私は机に向かい、報告書を処理していた。


戦闘班の訓練記録。

外務班の連絡。

設備点検。

上位委員会への返答草案。


どれも必要な仕事だ。


必要である以上、処理する。


そうして一枚、また一枚と書類を片づけていると、扉の向こうから小さな足音が近づいてきた。


軽い。


速い。


走ってはいないが、明らかに急いでいる。


レトだ。


足音だけで分かる。


その直後、扉の前で気配が止まった。


一拍。


おそらく、背筋を伸ばしている。


「レトです。入っていい?」


声は明るい。

だが、少しだけ力が入っている。


何かを求めているときの声だ。


私はペンを置いた。


「入れ」


扉が開いた。


淡緑の髪。左側頭部のワンサイドテール。

訓練後だからか、頬にはまだ少し熱が残っている。

髪飾りの青い欠片が、局長室の光を受けて小さく揺れた。


レトは部屋の中央まで歩いてくると、両手を腰に当てて胸を張った。


「訓練は終わったのか」


「終わった! わたし、かなりえらかった!」


自己申告としては、いつも通り率直だ。


「そうか。報告を聞こう」


レトは待っていましたと言わんばかりに、目を輝かせた。


「短剣三十二本、できた。空間固定もできた。高速機動もできた。壁にぶつからなかった」


最後の一点は、本人にとってかなり重要らしい。


実際、重要ではある。


「それは重要だな」


「重要!」


レトは満足そうにうなずいた。


訓練内容は、すでに簡易報告で把握していた。

今日の制御精度は悪くない。

魔力過多の兆候も、危険域には入っていない。


ただし、疲労はある。


本人は気づいていないか、気づいていても無視している。

目の輝きは強いが、瞬きの間隔が少し長い。

肩の力も、いつもより抜けている。


私は椅子から立った。


「それで、何が欲しい」


レトは一瞬、言葉を止めた。


甘味か。

飲み物か。

新しい髪飾りの素材か。

短剣造形用の硝子細工か。


そう予測したが、レトは服の裾を小さくつまんだ。


「……お兄さん」


「うん」


「わたし、お兄さんにあまえたい」


真正面から来た。


レトらしい。


この娘は、自分の感情を隠すことが下手だ。

というより、隠す必要をあまり理解していない。


愛情も、寂しさも、誇らしさも、不安も、そのまま差し出してくる。


それが危うい時もある。

だが、私はその素直さを損なわせたくはなかった。


少なくとも、この部屋では。


私は机の横へ出た。


「来なさい」


レトの表情が一瞬で明るくなった。


最後の三歩は、歩行というより跳躍に近かった。


飛び込んでくる勢いは強い。

だが、戦闘時の突撃とは違う。

私を倒すためではなく、私に受け止められるための勢いだ。


私は両腕で受け止めた。


背中に手を添え、転ばないように重心を逃がす。


レトは私の服に顔を埋めた。


小さな手が、上着をぎゅっと握る。


「お兄さん」


「うん」


「わたし、今日、がんばった」


「ああ。よくやった」


その一言で、腕の中の力が少し抜けた。


だが、すぐに顔を押しつけたまま、声が続く。


「もっと言って」


要求が明確で助かる。


「よくやった、レト」


「わたし、短剣いっぱい動かした」


「見事だ」


「壁にぶつからなかった」


「成長したな」


そこで、レトは顔を上げた。


真剣な目だった。


「わたし、かわいい?」


これもまた、本人にとって重要な確認なのだろう。


私は即答した。


「かわいい」


「ほんと?」


「本当だ」


「かなり?」


「かなり」


レトは満足そうに、もう一度私に顔を埋めた。


単純な娘ではない。


だが、満たされる言葉は驚くほどまっすぐだ。


褒められたい。

認められたい。

近くにいたい。

大切にされていると確認したい。


それらを、言葉にできる。


私はレトの髪を撫でた。


淡緑の髪は、訓練後の熱を少しだけ残していた。

魔力の性質上、彼女の体温は高く感じられることがある。

青白い熱を帯びた硝子質の魔力。


だが今、腕の中にいるレトは、ただ眠そうな子供に近かった。


「お兄さん」


「何だ」


「もうちょっと」


「もうちょっと、何をだ」


「なでて」


私はそのまま撫で続けた。


しばらくして、レトが私の上着をつかむ力を強くした。


「お兄さん、忙しい?」


「忙しい」


事実だ。


「じゃあ、わたし、邪魔?」


「邪魔ではない」


こちらも事実だ。


「ほんと?」


「本当だ」


「でも忙しい?」


「忙しい」


レトは少し考えた。


そして、ごく自然な発想のように言った。


「じゃあ……わたし、机の下で丸くなる?」


「なぜそうなる」


思わず聞き返した。


「近くにいたいから」


理由としては、あまりにも率直だった。


私はレトを見る。


本人は本気だ。

机の下で丸くなることに、何の冗談も含まれていない。


局長室の机の下に、戦闘班所属の箱庭の娘が丸まっている。


許可できるはずがない。


いや、倫理や規定以前に、職員が入室した時の混乱が大きすぎる。


「机の下は却下だ」


「だめかぁ」


本気で残念そうな顔をした。


私は小さく息を吐いた。


「隣のソファならいい」


レトの顔が輝いた。


「ほんと!?」


「ああ。ただし、書類に触らないこと。局長印にも触らないこと。机の上に短剣を並べないこと」


レトの目が泳いだ。


「前のこと、覚えてる……」


「当然だ」


以前、局長印が敵本拠地に指定されたことがある。


局長印は敵本拠地ではない。

その説明に数分を要した。


レトは素直にソファへ向かった。


座る。


そこで終わるかと思ったが、彼女は私が机に戻る直前、そっと上着の裾をつまんだ。


「レト」


「つまむだけ」


「……」


「引っぱらない。ちょっとだけ。お兄さんがいる確認」


確認。


その言葉で、私は判断を変えた。


レトは甘えている。

だが、それだけではない。


訓練で消耗し、魔力を使い、戦闘班の役目を果たした後に、自分が戻る場所を確認している。


私は彼女の隣に腰を下ろした。


そして、裾をつまんでいる小さな手を取り、自分の手の中に包んだ。


「確認なら、これでいいだろう」


レトの目が大きくなった。


それから、驚くほどやわらかい顔になった。


「……いい」


「そうか」


「すごくいい」


「それなら、少しこのままでいよう」


レトはソファの上で少しだけ身を縮めた。


だが、手は離さない。


指先が何度か動く。

存在を確かめるような動きだった。


私はそのたびに、軽く握り返した。


「お兄さん」


「うん」


「わたし、お兄さんのこと、だいすき」


「知っている」


「もっと知って」


「十分知っている」


「足りないかもしれない」


「では、覚えておく」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


レトはそこで、ようやく満足したらしい。


目の力が落ちた。


眠気が来ている。

先ほどから兆候はあった。


本人は抵抗しているが、長くは持たない。


「寝てもいいぞ」


「寝ない」


「眠そうだ」


「眠くない」


「そうか」


「……ちょっとだけ、目を閉じるだけ」


「分かった」


私はそれ以上は言わなかった。


レトは目を閉じた。


手はつないだままだ。


私は空いた手で、机の上の書類を取った。

姿勢は少し不自然になるが、処理できないほどではない。


報告書を読み、必要な箇所に署名する。


その間も、レトの手は私の手の中にあった。


時々、眠りかけた指が小さく動く。

そのたびに、私は握り返した。


問題ない。

ここにいる。


そう伝えるために。


レトは戦える。

高速で飛び、硝子の短剣を操り、敵の前に立てる。

必要なら自分の身体を盾にすることもある。


だが、強いことと、傷つかないことは同じではない。


彼女は頑丈だ。

再生もできる。

魔力があれば、致命的な損傷にも耐える。


しかし、痛みが消えるわけではない。

恐怖がないわけでもない。

寂しさがないわけでもない。


だから、戻ってくる場所が要る。


甘えることを許される場所が要る。


局長室がその一つになるなら、私はそれを拒む理由を持たない。


少なくとも、書類よりは優先順位が高い。


しばらくして、レトが眠りに落ちる寸前の声でつぶやいた。


「お兄さん成分、補給完了……」


私は書類から目を離し、レトを見た。


頬がゆるんでいる。

安心しきった顔だ。


「それはよかった」


そう答えて、私は彼女の頭を一度だけ撫でた。


レトは小さく笑った。


眠っているのか、まだ起きているのかは分からない。


だが、その手はまだ私を握っていた。


私は握り返したまま、再び書類に視線を落とす。


局長としての仕事は多い。


処理すべき問題も、守るべき秩序も、いくらでもある。


だが今、この数分だけは。


局長室の片隅で眠るレトの手を離さないことも、私の仕事だった。



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