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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち  作者: 硝子玉の宇宙


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第24話-エルはやわらかい

エルは、その日も廊下にいた。


両手で小さな瓶を持っている。


瓶の中には、ふわふわした小さな雲が入っていた。

雲は時々、瓶の内側にこつんと当たり、ぽわ、と淡い光を漏らす。


「これ、見て」


エルは近くの職員に瓶を差し出した。


「はい、拝見します」


職員は、極めて真面目な顔で瓶を見た。


瓶だけを見る。


瓶だけを見る。


瓶だけを、見る。


絶対にエルの顔を見ない。


なぜなら昨日から、職員たちの間では暗黙の了解ができていたからだ。


エルさんの頬は、危険。


ふわっとしている。

もちっとして見える。

そして本人は、自分がそう見られていることをまったく理解していない。


だから、見てはいけない。


見れば負ける。


職員は瓶を凝視した。


「……中に雲が入っていますね」


「うん」


「光っていますね」


「うん。うれしいと光る」


「雲がですか?」


「たぶん」


「たぶん」


エルは瓶を少し高く持ち上げた。


その時、瓶の淡い光がエルの顔に反射した。


白い髪の毛先がほんのり光り、ピンクのグラデーションが柔らかく浮かぶ。


そして、エルは少しだけ得意気な顔をした。


本当に、少しだけ。


口元がかすかに動く。


目元がほんのり緩む。


頬が、ふに、と柔らかそうに持ち上がる。


職員は見てしまった。


見てはいけないものを。


瓶を見ていたはずなのに、どうしてもエルのほっぺたが視界に入ってしまう。


「……」


職員の理性が、一瞬だけ止まった。


エルは瓶を見せつけるように、さらに近づけた。


「ここ、見るといいよ。中で雲が丸くなる」


「はい」


「ほら」


「はい」


「ここ」


「はい」


エルの顔が近い。


瓶も近い。


頬も近い。


あまりにも近い。


次の瞬間。


職員は、両手を伸ばしていた。


ぷにっ。


エルの両頬が、職員の手のひらに包まれた。


そのまま、軽く揉まれた。


むに。


「……」


エルが止まった。


瓶の中の雲も止まった。


廊下も止まった。


近くを歩いていた職員も、全員止まった。


レトなら一瞬戸惑うけど喜ぶ。

ロジーなら大騒ぎして数ヵ月は掘り返してくる。


けれど、エルはただ、職員の手の中で頬をむにっとされたまま、まばたきをした。


一回。


二回。


三回。


それから、ものすごく分かりやすく困惑した顔になった。


「……なに?」


その声は、いつもの淡々とした声だった。


でも表情は、明らかに困っていた。


目が少し丸い。


口が少し開いている。


頬は職員の手で挟まれている。


つまり、困惑の表情が強制的にむにっとなっている。


周囲の職員たちは、声を出さずに崩れかけた。


やった。


やってしまった。


これはもう、完全にやった。


規定とか、手順とか、そういう次元ではない。


人として、職員として、目の前にいる宇宙の存続に関わる人物のほっぺたを、衝動で揉んだ。


しかも両手で。


職員本人も、直後にすべてを理解した。


「あっ」


手を離した。


「す、すみません」


エルは頬を押さえた。


痛がってはいない。


嫌がってもいない。


ただ、本当に意味が分からない顔をしている。


「……あたしのほっぺ、なにか出てた?」


「いえ」


「虫?」


「いえ」


「魔力?」


「いえ」


「じゃあ、なに?」


職員は答えられなかった。


周囲の職員も答えられなかった。


瓶の中の雲だけが、ぽわ、と光った。


エルはそれを見て、さらに不思議そうにした。


「雲はうれしいみたい」


「そ、そうですね」


「あなたは?」


「私は……」


職員は、完全に詰まった。


ここで本当のことを言ってはいけない。


エルさんの頬がもちもちしていて、かわいすぎて、我慢できませんでした。


そんなことを言ったら終わる。


エルが理解しようとしてしまう。


エルが局長室に行って、


「ジェレミー、あたしのほっぺは、もちもち?」


と聞いてしまう。


その未来だけは避けなければならない。


職員は苦し紛れに言った。


「……確認、です」


エルは首をかしげた。


「確認」


「はい」


「なにの?」


「……やわらかさの」


言った。


言ってしまった。


周囲の職員たちが、無言で天井を見た。


もう駄目だった。


エルは自分の頬を両手で触った。


むに。


「やわらかい?」


「はい」


「そう」


エルは少し考えた。


それから、瓶を持ち直して、職員を見た。


「確認、終わった?」


「終わりました。完全に終わりました」


「瓶も見てほしい」


「見ます」


「ほっぺじゃなくて」


「瓶を見ます」


「うん」


エルは納得したように、瓶を差し出した。


その顔はまだ少し困惑していた。


けれど、怒ってはいない。


むしろ、人間は自分の頬に何か価値を見出だしているのかもしれない、という、いつもの観察者の顔をしている。


それがまた、周囲の職員たちに致命傷を与えた。


その時、廊下の奥から副長が歩いてきた。


いつもの笑顔だった。


ただし、目だけが状況を完全に把握していた。


「……何をしているのですか?」


揉んだ職員の背筋が伸びた。


「瓶の観察を」


副長はエルを見る。


エルは瓶を持ち上げた。


「ほっぺのやわらかさも確認された」


副長の笑顔が、一瞬だけ深くなった。


揉んだ職員は死を覚悟した。


だが、副長は怒鳴らなかった。


叱責もしなかった。


ただ、ものすごく穏やかに言った。


「なるほど。では、確認結果は?」


職員は震える声で答えた。


「……やわらかかったです」


副長は頷いた。


「でしょうね」


周囲の職員たちが、今度こそ全員沈黙した。


副長まで認めた。


終わりだった。


エルは副長を見上げた。


「副長も知ってるの?」


「想像はつきます」


「確認したことある?」


「ありません」


「じゃあ、知らないんじゃない?」


副長は少しだけ黙った。


エルは瓶を抱えたまま、じっと副長を見ている。


揉んだ職員は心の中で叫んだ。


やめてください。


その流れは危険です。


副長まで確認したら、もう本当に何の集まりか分からなくなる。


副長は、見事にかわした。


「私は観察より、報告書を読む立場ですので」


「そう」


「それよりエルさん、その瓶を局長に見せに行きましょう」


「ジェレミーに?」


「ええ」


エルの注意が移った。


「ジェレミー、雲見るかな」


「喜びますよ」


「そっか」


エルはほんの少し嬉しそうにした。


頬がまた柔らかく緩む。


周囲の職員たちは、全員が目を伏せた。


もう見るな。


もうこれ以上見るな。


誰かがまた負ける。


エルは歩き出しかけて、ふと振り返った。


「さっきの、嫌じゃなかった」


揉んだ職員は固まった。


エルは続けた。


「でも、びっくりした」


「……はい。本当に、申し訳ありません」


「うん。次は、先に言って」


周囲の空気が再び止まった。


次。


今、エルさんは、次と言った。


揉んだ職員は、顔を真っ赤にして硬直した。


副長は笑顔のまま、ほんの少しだけ目を細めた。


「エルさん」


「なに?」


「その許可は、非常に危険です」


「そう?」


「はい。職員の理性に対して」


「理性」


エルは少し考えた。


そして、揉んだ職員を見た。


「理性、危険?」


「壊れていません。壊れかけました」


「そっか」


エルは納得した。


「じゃあ、瓶を見て。理性、戻るかも」


「はい……」


職員は瓶を見た。


今度こそ、瓶だけを見た。


だが、エルは少しだけ不思議そうに、自分の頬を片手でむにっと押した。


「そんなに確認するものなのかな」


誰も答えなかった。


答えたら負けだった。


その日の夕方。


休憩室には、揉んだ職員が机に突っ伏していた。


周囲には、事件を目撃した職員たちが集まっている。


誰も責めてはいなかった。


ただ、全員が同じ顔をしていた。


分かる。


分かるが、やったな。


完全にやったな。


「……感触は?」


誰かが小声で聞いた。


突っ伏した職員は、しばらく黙ってから答えた。


「……想像以上でした」


休憩室に、深い沈黙が落ちた。


それは羨望でもあり、同情でもあり、監理局職員としての敗北感でもあった。


その後、壁の共有メモに一枚の紙が貼られた。


『エルさんが魔法アイテムを見せたがっている時は、魔法アイテムを見ること』


その下に、誰かが小さく書き足した。


『頬は見ないこと』


さらに別の誰かが書いた。


『見た場合、両手を背中に回すこと』


そして最後に、副長の字で追記された。


『惑星監理局の職員として、耐えてください』


その一文が、何よりも職員たちを追い詰めた。

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