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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち  作者: 硝子玉の宇宙


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第23話-古びたノート3

局長室へ


エルの後ろ姿が廊下の角を曲がって見えなくなってから、職員たちはようやく息を吐いた。


口を滑らせた職員は、しばらくその場で固まっていた。


「……言ってしまった」


「いや、結果的にはよかったんじゃないですか」


「明日もいてね、って……」


「今のエルさんから聞くと、重いのに軽いですね」


生活班の職員が、少しだけ笑った。


「エルさん、本当に人間らしくなったんですね」


その言葉に、別の職員が頷く。


「あれでも」


「今のエルさんは、変なのが普通だからな」


「それはそう」


小さな笑いが起きた。


冷たい笑いではない。

ノートの中のエルが書いていたなら、きっと「少しいい笑い」と分類しただろう。


職員たちは、保護ケースに収めた古いノートを持って、あらためて局長室へ向かった。


局長室の前で、保全担当が一度姿勢を正える。


「発見物の報告です」


入室許可が出る。


扉が開くと、ジェレミーは机の向こうにいた。


いつも通りだった。

表情はほとんど変わらない。

書類に目を通していた手を止め、職員たちを見る。


「どうした」


保全担当が一歩前へ出て、保護ケースを差し出した。


「食堂の棚裏から発見されました。古いノートです。内容は、エルさんの初期記録と思われます」


ジェレミーの視線が、保護ケースの中の黒いノートに落ちた。


その瞬間、ほんの少しだけ空気が変わった。


表情は変わらない。

声も出さない。


けれど、その沈黙だけで、職員たちは分かった。


ジェレミーは、そのノートを知っている。


「……そこにあったか」


短い言葉だった。


保全担当が頷く。


「はい。食堂の収納棚裏です。劣化はありますが、内容は読めます。すでに発見時状況と閲覧者記録は取っています」


「そうか」


ジェレミーは立ち上がり、保護ケース越しにノートを見た。


手を伸ばす。

しかし、すぐには触れない。


古い紙束を見る目は、いつもと同じようでいて、わずかに違った。


職員たちは、それを見てしまった。


局長にも、こういう顔があるのだと、誰も口には出さずに思った。


少し沈黙が続く。


その中で、一人の職員が、どうしても気になっていたことを口にした。


「局長」


「何だ」


「当時からいたんですね」


場の空気が、わずかに固まった。


言った本人も、言ってから少しだけ後悔したようだった。

だが、もう続けてしまう。


「いつの話ですか、これ」


ジェレミーは、驚かなかった。


責める様子もない。

ただ、いつもの平坦な声で答えた。


「私は硝子玉の外の人間だ」


職員たちは黙った。


ジェレミーは続ける。


「ここより遥かに進んだ科学技術がある」


少しだけ間を置く。


「私は寿命が長い」


そして、淡々と締めた。


「それだけだ」


あまりにも短い説明だった。


あまりにも、局長らしかった。


聞いた職員は、何度か瞬きをした。


「……それだけ、ですか」


「それだけだ」


ジェレミーは同じ調子で言った。


その声に、続きを許さない冷たさはない。

だが、それ以上を話すつもりもないことは分かった。


職員たちは、誰も深追いしなかった。


硝子玉の外。

遥かに進んだ科学技術。

長い寿命。


それだけで納得できるほど、簡単な話ではない。


けれど、この監理局で働いていると、「それ以上聞いても仕方がないこと」はいくつもある。


エルが旧世代であること。

硝子玉の宇宙が閉じた世界であること。

人間の理解を超えたものが、隣でお茶を飲んでいること。


ジェレミーの寿命も、その一つなのだろう。


ジェレミーは保護ケースの中のノートを見つめたまま、静かに言った。


「読んだか」


保全担当が答える。


「発見物確認のため、必要範囲を閲覧しました」


「そうか」


「……貴重な記録でした」


ジェレミーは、少しだけ目を伏せた。


それが同意なのか、回想なのかは分からなかった。


やがて、彼はノートに手を添える。


「預かる」


「はい」


保全担当がケースを渡す。


ジェレミーは、それを机の上に置いた。

乱雑ではなく、けれど過剰に丁重でもなく。


ただ、そこに戻すべきものを置くように。


職員たちは一礼して、局長室を出た。


扉が閉まる直前、最後に一人だけ振り返った。


ジェレミーは、まだ黒いノートを見ていた。


その横顔は、相変わらず読めない。


怒っているのか。

悲しんでいるのか。

懐かしんでいるのか。


分からない。


けれど、職員はふと思った。


たぶん、エルは昔からずっと、あの顔を読み取ろうとしていたのだ。


そして今も、きっと完全には分かっていない。


それでも、明日も挨拶をするのだろう。


おはよう。

今日もいてね。


そんな言葉を、普通の日常の中で。



ジェレミーとエル


職員たちが出ていったあと、局長室は静かになった。


ジェレミーは、机の上に置かれた保護ケースをしばらく見ていた。

黒い無機質なノート。

古く、角が擦れて、長い時間をどこかで眠っていたもの。


やがて、彼は端末を一度だけ操作した。


呼び出しではない。

命令でもない。


ただ、短い連絡。


しばらくして、扉の向こうから軽い足音がした。


「ジェレミー、呼んだ?」


エルが入ってくる。


いつも通り、ふわふわした足取り。

けれど、机の上のノートを見た瞬間、その足が止まった。


目が丸くなる。


ジェレミーは、保護ケースを少し前へ押した。


「エル、君の日記だ」


エルは数秒、何も言わなかった。


それから、ゆっくり近づいてきた。


「探してた、でも、諦めてたやつ」


「食堂で見つけたそうだ」


「食堂」


エルは、その言葉を小さく繰り返した。


指先で保護ケースの上をなぞる。

中のノートには、まだ触れない。


「そっか。食堂にいたんだ」


「棚の裏らしい」


「隠れんぼ、上手だった」


「そうだな」


それきり、少し沈黙が落ちた。


エルは椅子に座らなかった。

ジェレミーも、座れとは言わなかった。


机を挟んでいる。

遠いわけではない。

近いわけでもない。


二人の間には、いつもそういう距離がある。


レトとジェレミーのような、抱きとめる側と抱きつく側の距離ではない。

ロジーとジェレミーのような、騒がしい部下とそれを受け止める上司の距離でもない。


エルとジェレミーは、もっと不思議だった。


エルはこの宇宙の創造者で、ジェレミーは硝子玉の外から来た人間。

エルは人間を知ろうとし、ジェレミーは最初に「聞け」と教えた。

エルは幸せの魔法で、ジェレミーはそれを止めたことがある。


親子ではない。

主従でもない。

友人と言い切るには、長すぎるものが間にある。


けれど、遠くない。


エルはケースの中のノートを見つめたまま言った。


「読まれた?」


「確認のために読んだそうだ」


「そっか」


「不快か」


「ううん」


エルは首を横に振った。


「恥ずかしい、とは少し違う。あたし、あのころいっぱいわからなかった」


「今もよく分かっていないだろう」


「うん」


即答だった。


ジェレミーは何も言わない。


エルは、少しだけ口元をゆるめた。


「でも、今は、わからないって言える」


「それは進歩だ」


「ジェレミーが、書けって言ったから」


「君が書いたんだ」


「言われたから」


「書き続けたのは君だ」


エルは、少し考えるように目を伏せた。


「そうかも」


その言い方は、昔の日記のようだった。


断定しきれない。

でも、少しだけ分かったことを置いておくような声。


ジェレミーは、保護ケースを開けなかった。

エルも、開けてとは言わなかった。


ただ、二人でその黒いノートを見ていた。


「宝箱って書いてあった」


エルがぽつりと言った。


「覚えているのか」


「うん。覚えてる。忘れないって決めたから」


「そうか」


「でも、なくしたのは忘れてた」


「忘れたわけではないだろう。見つからなかっただけだ」


「それは、忘れたと似てる?」


「少し違う」


「そっか」


エルは納得したような、していないような顔をした。


昔なら、そこからさらに問いを重ねただろう。

今も、本当は聞きたいのかもしれない。


けれど、聞かなかった。


局長室の静けさが、二人の間に置かれる。


ジェレミーは、しばらくしてから言った。


「持っていくか」


エルはノートを見る。


「ううん」


少し意外な返事だった。


「ここに置いて」


「私のところに?」


「うん。ジェレミーが持ってて」


「君の日記だ」


「あたしの記憶だけど、ジェレミーもいた」


エルは、ケース越しにノートを見つめた。


「あたしが人間を見てたころ、ジェレミーはあたしを見てた」


ジェレミーは返事をしなかった。


その沈黙を、エルは怒りとも否定とも取らなかった。


「だから、ここでいい」


「分かった」


「読みたくなったら、来る」


「そうしろ」


「勝手に持っていかない?」


「持っていかない」


「隠さない?」


「隠さない」


「棚の裏に入れない?」


「入れない」


エルは少しだけ笑った。


「よかった」


ジェレミーは、保護ケースを机の端ではなく、手の届く位置に置き直した。


それだけの動作だった。

けれど、エルはそれを見ていた。


「ジェレミー」


「何だ」


「今日もいてね」


ジェレミーは、ほとんど間を置かずに答えた。


「いる」


エルは、目を細めた。


「明日も?」


「明日もいる」


「その次は?」


「予定がある限りはいる」


「予定がなくなったら?」


「作る」


エルは、少しだけ満足そうに頷いた。


「そっか」


それ以上、言わなかった。


ジェレミーも、何も足さなかった。


二人の距離は変わらない。


机を挟んでいる。

手を伸ばせば届く。

けれど、触れない。


遠くない。

近い。


その不思議な距離のまま、エルは黒いノートをもう一度だけ見た。


「またね、日記」


そう言って、局長室を出ていく。


扉が閉まる。


ジェレミーは、机の上のノートを見た。


それから、低く、ほとんど聞こえない声で言った。


「またな」


局長室には、無機質な黒いノートだけが静かに残っていた。



翌日のエル 今日もいてね


翌朝の監理局は、いつも通りに動き出していた。


廊下には職員たちの足音。

食堂へ向かう者。

資料を抱えて走る者。

眠そうに飲み物を持つ者。

端末を見ながら歩いて、壁にぶつかりかける者。


その中に、エルがいた。


白髪の毛先をふわりと揺らして、廊下の端から端へ、ゆっくり歩いている。


「おはよう」


すれ違う職員に、エルはそう言った。


「おはようございます、エルさん」


「おはよう、エルさん」


「おはようございまーす」


いつもの朝の挨拶。


けれど、今日は少し違った。


エルは、挨拶のあとに、ひとつ言葉を足した。


「今日もいてね」


言われた職員は、一瞬だけ目を瞬かせた。


「……おう! いるぞ!」


勢いで返した戦闘班の職員が、親指を立てる。


エルは、少し嬉しそうに頷いた。


「うん」


次に通りかかった情報班の職員は、少し戸惑いながらも真面目に答えた。


「今日は情報班のデスクにいますよ。ずっと……いや、休憩では離れますけど、基本います」


「そっか」


「はい。います」


「うん」


エルはまた、少し嬉しそうに頷く。


別の職員は、首をかしげた。


「新しい挨拶ですか?」


「そうかも」


「じゃあ……今日もいます?」


「うん。いてね」


「います」


「よかった」


エルは、ふわふわと次の職員へ向かった。


「おはよう。今日もいてね」


「えっ、はい。今日もおります」


「おはよう。今日もいてね」


「体調確認みたいですね。異常なし、今日もいます」


「おはよう。今日もいてね」


「今日も勤務表に入ってるのでいます!」


「おはよう。今日もいてね」


「え、なに、かわいい。いるいる、いるよー」


反応はばらばらだった。


勢いよく返す者。

困惑しながらも真面目に答える者。

冗談だと思って笑う者。

新しい遊びだと思って乗る者。

朝からかわいいものを見たと少し元気になる者。


誰も深い意味は分かっていない。


けれど、エルは嬉しそうだった。


ひとつ返事があるたびに、少しだけ目元がやわらかくなる。

声が返ってくるたびに、足取りが軽くなる。


昔、あの言葉は悲しみの奥から出てきた。


今日もいてね。


本当は、

いなくならないで。

死なないで。

明日もおはようって返して。


そういう言葉だった。


あの時の気持ちが落ち着いてから、エルはその言葉を使わなくなっていた。


朝は普通に挨拶をする。

おはよう、と言う。

おはよう、と返ってくる。


それだけでよくなった。


けれど、今日は言いたくなった。


古い日記が戻ってきたから。

あの頃の自分を、もう一度見たから。

忘れないと決めたことを、また思い出したから。


エルは廊下を歩きながら、職員たちへ声をかけ続けた。


その様子を、少し離れた場所から見ている職員たちがいた。


食堂で日記を読んだ者たちだった。


彼らだけは、その言葉を軽く受け取れなかった。


若い職員が、エルに挨拶される。


「おはよう」


「おはようございます、エルさん」


「今日もいてね」


その職員は、ほんの少しだけ息を止めた。


日記のページが、頭の中に浮かぶ。


ほんとうは、いなくならないでって思ってる。

でも、それを言うと、人間の顔がもっと止まる。

だから、今日もいてねにする。


彼は、背筋を伸ばした。


「はい。今日もいます」


エルが目を向ける。


「明日も?」


少しだけ、いたずらみたいな響きだった。

でも、完全な冗談ではない。


職員は、丁寧に頷いた。


「明日もいます。ちゃんと挨拶します」


エルは、ふわっと笑った。


「うん」


それだけ言って、次の職員へ歩いていく。


保全担当も、廊下の角でエルとすれ違った。


「おはよう」


「おはようございます、エルさん」


「今日もいてね」


保全担当は、保護ケースを運んでいた手の感覚を思い出した。

黒いノート。

無機質な表紙。

その中に詰まっていた、たくさんの記憶。


彼は、少しだけ声を柔らかくした。


「はい。今日もいます。記録も、きちんと残します」


エルは、目をぱちぱちさせた。


それから、少しだけ嬉しそうに言う。


「それも、いるみたい」


「そうですね」


「記録にいる」


「はい」


エルは満足そうに頷いた。


「いいね」


そう言って、また歩いていく。


ふわふわとした足取り。

でも今日は、少しだけ弾んでいる。


廊下のあちこちから、返事が返ってくる。


「いるぞー」


「いますよ」


「今日も勤務です」


「明日もたぶんいます!」


「たぶんじゃなくて、います!」


「エルさんもいてくださいね」


その言葉に、エルは立ち止まった。


振り返る。


言った職員は、しまったという顔をした。

軽いノリで返しただけだった。


けれど、エルは少し目を丸くして、それから静かに笑った。


「うん。あたしも、いる」


廊下の空気が、少しだけやわらかくなった。


意味を分かっている者も、分かっていない者もいる。

それでも、朝の挨拶は続いていく。


おはよう。

今日もいてね。

いるよ。

います。

エルさんもいてね。


それは、少し変な朝の風景だった。


でも、監理局では、エルが変なことをするのは普通だった。


だから職員たちは、だんだんその挨拶に慣れていく。


「おはようございます、エルさん。今日もいます」


「うん。おはよう」


「エルさんも今日もいてください」


「いる」


「明日も?」


「明日も、たぶんいる」


「たぶんなんですか」


「たぶんは、人間がよく使う」


「それはそうですけど」


エルは、少し得意そうだった。


食堂で日記を読んだ職員たちは、そのやり取りを見ていた。


重く受け止めている。

でも、重いだけではなかった。


古い日記の中で、エルは悲しみからこの言葉を見つけた。

そして今、同じ言葉を、少し嬉しそうに使っている。


それが、なんだか救いのように見えた。


エルは、廊下の向こうへ進んでいく。


ひとりひとりに挨拶をする。


「おはよう。今日もいてね」


そのたびに、監理局の朝に返事が増えていった。



感情的なエルさん


「エルさんも、今日もいてくださいね」


誰かがそう返した。


軽い挨拶のつもりだったのかもしれない。

朝の廊下で、少し変わった挨拶が流行りかけていて、その流れに乗っただけだったのかもしれない。


けれど、エルはそこで止まった。


ふわふわ歩いていた足が、ぴたりと止まる。


職員たちは、何気なく振り返った。


エルは、目を丸くしていた。


それから、少しだけ瞬きをする。

一回。

二回。


目の縁に、じわりと光が溜まった。


「……うん」


小さな声だった。


「いる」


それだけ言って、エルは笑った。


けれど、いつもの笑い方ではなかった。


少し目元をゆるめるだけの笑いではない。

口元だけの、ふわっとした微笑みでもない。

何かを観察して、面白がるような静かな顔でもない。


涙目で、笑っていた。


「ふふ」


声が出た。


その瞬間、廊下の職員たちが固まった。


「……え」


誰かが、本当に小さく声を漏らした。


エルが笑っている。


それだけなら、見たことがある。

少し楽しそうにすることもある。

得意そうになることもある。

魔法アイテムを見せて、反応を待っている時の、あの静かな嬉しそうな顔も知っている。


泣いているところも、見たことがないわけではない。


叱られた時。

何かを間違えて、少ししょんぼりした時。

自分の意図がうまく伝わらず、目元が湿ることはたまにある。


でも。


声を出して笑うエルは、誰も見たことがなかった。


「ふふ……あは」


エルは、片手で自分の目元に触れた。


涙が出ていることを、確かめるみたいに。


「変だね」


ぽつりと言う。


「嬉しいのに、ちょっと寂しい」


廊下の空気が、止まったまま柔らかくなる。


エルは、自分の胸に手を当てた。


「みんなが、いるって言う。あたしもいてって言う」


声が少し震えている。

でも、悲しいだけではない。


「嬉しい。すごく」


また、ふっと笑う。


「でも、いつか、いなくなる」


その言葉に、日記を読んだ職員たちは息を止めた。


意味を知らない職員たちも、軽く返せる空気ではないと分かったのだろう。

誰も茶化さなかった。


エルは涙を指先で拭った。


「だから、今日いるの、嬉しい」


そう言って、また笑った。


今度は、少しだけ声が弾んだ。


「あは」


たったそれだけ。


けれど、監理局の廊下には十分すぎるほどだった。


職員たちは完全に固まっていた。


「……はじめて見た」


誰かが、ほとんど口の中だけで呟いた。


「感情的なエルさん……」


「いや、エルさんにも感情はあるだろ」


「あるのは知ってる。でも、こう……こう出るのは……」


「分かる」


「めちゃくちゃ人間みたいだ……」


その言葉が聞こえたのか、エルがそちらを見た。


職員たちは一斉に姿勢を正した。


失礼だったかもしれない。

言い方を間違えたかもしれない。


けれど、エルは怒らなかった。


「人間みたい?」


静かに聞く。


聞かれた職員は、少し迷ってから、まっすぐ答えた。


「はい。すごく」


エルは、目をぱちぱちさせた。


そして、また笑った。


「そっか」


涙目のまま、嬉しそうに。


「じゃあ、今日はいい日」


その一言で、廊下の緊張が少し解けた。


誰かが小さく笑う。

別の誰かが頷く。

日記を読んだ職員の一人は、目元を押さえながら返した。


「はい。いい日です」


エルは満足そうに頷いた。


それから、また歩き出す。


ふわふわと。

けれど、今度は少し弾むように。


「おはよう」


次の職員に挨拶する。


「今日もいてね」


返事が来る。


「いますよ」


エルは、涙の残った顔で笑った。


「あたしもいる」


廊下の朝が、少しだけ明るくなった。



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