第22話-古びたノート2
古い絵日記 ちょっと前
次のページを開いた瞬間、保全担当が指を止めた。
そこには、いつもの日付記号があった。
けれど、前のページから連続していない。
しばらく飛んでいる。
「……日付が空いてます」
「何日分ですか?」
保全担当は、古い記録形式を確認しながら目を細めた。
「日単位ではないですね。少なくとも、かなり飛んでいます」
職員たちは、ノートを見下ろした。
ページが破れているわけではない。
抜き取られた形跡もない。
ただ、日記が書かれていない期間がある。
エルが書かなかったのか。
別の記録に移ったのか。
あるいは、書く必要がないと思っていたのか。
誰にも分からないまま、続きを読み進める。
見開きには、廊下の絵が描かれていた。
向かい合う二人。
一人は低い視点。
もう一人は、例の人間だろう。
以前よりも距離が近い。
けれど、圧迫感はない。
しばらく書いてなかった。
でも、きょうは書く。
言えたから。
「言えたから……?」
誰かが小さく呟く。
次の行へ進む。
あたしは、人間が好き。
だから、人間の身体になって、見に来た。
そう言った。
食堂の作業卓の周りが、静かになった。
それは、この絵日記の最初からずっと、奥にあった答えのような言葉だった。
人間が好き。
だから、人間の身体になって、見に来た。
今なら、職員たちは知っている。
エルが人間を好きなこと。
理解しきれなくても、ずっと見て、近づこうとしていること。
けれど、この初期記録の中では、その言葉はようやく形になったものだった。
ノートの文章は続く。
前は言えなかった。
好き、はわかった。
見に来た、もわかった。
人間の身体、もわかった。
でも、言葉の並べ方がわからなかった。
きょうは、言葉のしかたがわかった。
「言葉のしかた……」
生活班の職員が、ゆっくり言った。
ただ語彙を覚えたのではない。
言葉をどう並べれば、自分の中のものが相手に届くのか。
それを覚えた、という意味なのだろう。
エルはずっと観察していた。
人間の顔。
声。
食事。
謝罪。
笑い。
距離。
質問。
そして今、自分のことを説明しようとしている。
次の絵には、相手の人間の顔が描かれていた。
きょとんとしている。
本当に、きょとんとしている顔だった。
目が少し丸く、口が半端に開いている。
エルの絵は線が少ないのに、そういう表情だけは妙に伝わる。
人間は、きょとんとしていた。
どうして?
前に聞かれた質問に答えただけ。
職員たちは、思わず前のページの記録を思い出した。
どこから来た。
なにをしに来た。
なにが目的。
最初の食卓で、人間がエルに投げかけた質問。
その時、エルはうまく答えられなかった。
どこから来た、も難しい。
なにをしに来た、も難しい。
目的も複数あって、どれを言えばいいか分からなかった。
それに、今になって答えたのだ。
次の文章が、それをはっきり示していた。
あたしの目的は、人間を幸せにすること。
でも、なにが幸せかわからない。
だから、見に来た。
これも、前に聞かれたこと。
どこから来たは、まだむずかしい。
でも、なにをしに来たは、少し言える。
「……時間差の返答ですね」
保全担当が言った。
「質問された時には答えられなくて、理解してから返した」
「でも、相手はもう忘れかけてる」
「人間なら、そうでしょうね」
そこで、数人が日付の飛び方をもう一度見た。
エルにとっては、考えて、言葉を探して、ようやく答えにたどり着いた時間。
だが人間にとっては、もうかなり前の会話だった。
そのズレが、次の文章にそのまま出ていた。
しばらく伝わらなかった。
人間は、何の話だ、という顔をした。
あたしは、もう一度言った。
人間が前に聞いた。
あたしが答えた。
そう言った。
でも、人間はまだわからない顔だった。
若い職員が、少しだけ困ったように笑った。
「会話の続きが、本人の中ではまだ続いてたんですね」
「ええ。切れていなかった」
「人間側は、もう別の日の別の会話になっている」
「そこが時間感覚の違いでしょうね」
保全担当の声は慎重だった。
旧世代にとっての時間。
宇宙より長く存在するものの感覚。
数日、数週間、あるいはもっと長い時間であっても、人間の「少し前」とは尺度が違う。
エルにとっては、問いを受け取ってから答えを見つけるまでの、ひと続きの時間。
人間にとっては、もう過去の雑談。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、流れている時間の太さが違う。
次の絵には、相手の人間が額に手を当てているような姿が描かれていた。
困っているようにも、思い出そうとしているようにも見える。
文章は続く。
でも、何のことかわかったみたい。
人間は、ああ、と言った。
少し目が上を見た。
前のことを探している顔。
人間は、頭の中を探すことがある。
「記憶を探す顔まで描いてる……」
「よく見てますね」
「本当にずっと見ていたんでしょうね」
人間が思い出す時の目線。
言葉に詰まる時の口元。
「ああ」と気づく瞬間。
そういうものまで、エルは記録している。
次の会話が、行を空けて書かれていた。
人間に言われた。
けっこう前のことだから、ピンとこなかった。
その下で、エルの文字が少し詰まっていた。
けっこう前?
ちょっとしか前じゃない。
変。
職員たちは、そこで一度黙った。
その「変」は、責める言葉ではなかった。
ただ、本当に不思議だったのだろう。
エルにとっては、ちょっとしか前ではない。
人間にとっては、けっこう前。
同じ期間を見ているはずなのに、感じ方が違う。
この絵日記の最初にあった問いと似ている。
同じ宇宙にいるのに。
同じ星にいるのに。
同じ建物にいるのに。
隣にいる人間と違うことを考える。
今回は、同じ時間の中にいるのに、同じ長さとして感じていない。
次の文章には、それをどうにか理解しようとする跡があった。
人間の前は、短い。
あたしの前は、長い?
人間は、すぐ前を遠くする。
あたしは、遠くをすぐ近くにする。
同じ時間なのに、場所が違うみたい。
「……時間を場所みたいに捉えてる」
生活班の職員が言った。
「エルさんらしいですね」
「遠い過去と近い過去の感覚が、人間と違うんだ」
「記憶が薄れる速度も違うのかもしれません」
職員たちは、その一文を見つめた。
人間は、すぐ前を遠くする。
エルは、遠くをすぐ近くにする。
それは単なる記憶力の差ではない。
存在してきた時間の桁が違うことから来る、感覚そのものの違いだった。
次のページには、二つの小さな図が描かれていた。
左には、人間の時間。
短い線がいくつも区切られている。
朝、昼、夜。
昨日、今日、明日。
右には、エルの時間。
長い線。
ほとんど区切りのない線。
その途中に、人間の一日らしき小さな点が置かれている。
人間は、日を区切る。
朝。昼。夜。
昨日。今日。明日。
あたしも書く時は、そうしてる。
でも、あたしの中では、あまり切れない。
前に聞かれたことは、まだ続いていた。
「日記を書くことで、人間の時間に合わせようとしてるんですね」
保全担当が言った。
「日付をつけること自体が、真似だったのかもしれません」
「でも、内側の感覚はそう簡単には切り替わらない」
「でしょうね」
日記を書く。
日付をつける。
昨日と今日を分ける。
それは人間にとって自然なことだが、エルにとっては学習された区切りだったのかもしれない。
だから、しばらく日付が飛んでも、エルの中では会話がまだ途切れていなかった。
次の文章には、相手の人間の反応が続いていた。
人間は、少し笑った。
また、少しいい笑い。
それから言った。
おまえ、ずっと考えてたのか。
そう。
そう言ったら、人間はまた笑った。
「これも、笑いなんですね」
「でも冷たくない」
「驚きと、たぶん少し嬉しさもあるのかもしれません」
おまえ、ずっと考えてたのか。
その言葉には、呆れもあるかもしれない。
驚きもあるだろう。
けれど、エルが自分の質問をずっと覚えていて、答えようとしていたことへの反応でもある。
相手の人間にとって、それは少し予想外だったはずだ。
ノートの中のエルは、その反応もまた慎重に分類していた。
人間は、質問の答えをもらうと、うれしい?
けっこう前でも?
人間は忘れる。
でも、忘れたことを誰かが覚えていると、少し変な顔をする。
変だけど、いやではなさそう。
「鋭いな……」
誰かが思わず言った。
忘れたことを誰かが覚えている。
それは時に気まずく、時に嬉しい。
自分の言葉が相手の中に残っていたと知ること。
エルはそれも見ている。
次のページには、相手の人間が何かを言っている場面が描かれていた。
文章は短かった。
人間は言った。
じゃあ、今は何がわかった。
前より、人間は好き?
そこで、職員たちは少しだけ目を止めた。
問いが変わっている。
どこから来た。
何をしに来た。
何が目的。
そういう確認ではない。
今は何が分かったのか。
前より人間は好きか。
それは、エルの内側を聞く問いだった。
次の行には、エルの答えがあった。
前より好き。
でも、前も好き。
前より、どう好きかが少しわかる。
食堂の作業卓の周囲で、誰かが静かに息を吐いた。
前より好き。
でも、前も好き。
前より、どう好きかが分かる。
それは、とてもエルらしい答えだった。
感情そのものは最初からあった。
ただ、その形を知らなかった。
今は少しだけ、形が分かる。
次のページの下には、また箇条書きがあった。
きょう、わかったこと
一、答えは、あとで言ってもいいことがある。
二、人間は、前の質問を忘れることがある。
三、人間の前と、あたしの前は、長さが違う。
四、人間は、忘れたことを覚えられていると、変な顔をする。
五、変な顔でも、いやじゃない時がある。
六、好きは、前より増えるだけじゃなくて、形がわかることがある。
そして、最後に小さく。
七、人間の時間を、もっと聞く。
保全担当が、その行を記録した。
次のページには、また別の日付があった。
今度は、飛んでいない。
ただ、ページの端に、同じ言葉が薄く書かれていた。
人間の時間。
職員たちは、まだ続きを読もうとしていた。
◇
古い絵日記 あの人間
そこから先の数ページは、少し雰囲気が変わっていた。
大きな事件は書かれていない。
強い失敗も、長い問いも、恐怖も少ない。
廊下。
食堂。
中庭。
窓際の席。
古い執務机。
休憩室の飲み物。
監理局の中にある、なんでもない場所ばかりだった。
けれど、絵の中にはいつも、同じ人間がいた。
名前はない。
ずっと、あの人間とだけ書かれている。
あの人間は、廊下で会うと手を上げる。
手を上げるのは、ここにいると知らせる動き。
あいさつと似てる。
あたしも手を上げた。
人間が笑った。
これは、少しいい笑い。
「だいぶ慣れてきてる……」
若い職員が、小さく言った。
前のページまでのエルは、一つの言葉、一つの表情を必死に分解していた。
今も分解はしている。
けれど、少し余裕がある。
怖がらせたかどうか。
怒らせたかどうか。
そこだけではなく、日常の小さな合図を覚え始めている。
次のページには、食堂の絵があった。
エルのトレー。
向かいに置かれた人間のトレー。
同じテーブル。
その端に、小さく書かれている。
きょうは、あの人間が先に座っていた。
空いてる、と言った。
空いてるは、誰も使っていない。
でも、この時の空いてるは、ここに来ていい。
言葉は、同じでも中が違う。
あたしは座った。
人間は、きょうのスープはうまいと言った。
うまいは、おいしいの仲間。
だから、あたしも飲んだ。
生活班の職員が、少しだけ目を細めた。
「“空いてる”の意味が分かるようになってる」
「前は椅子があっても座る場所がなかったのに」
「今は、言葉と場面を合わせて受け取れてる」
「かなり大きな変化ですね」
ページをめくると、中庭が描かれていた。
木陰。
ベンチ。
座る人間。
その隣に立つエルの視点。
中庭で、人間が空を見ていた。
仕事をしていない。
食べてもいない。
話してもいない。
なにをしてるのと聞いた。
ぼんやりしてると言われた。
ぼんやり。
人間は、何もしないをすることがある。
「何もしないをする……」
誰かが思わず繰り返した。
その下には、続きがあった。
何もしないのに、悪くない。
前に、何もしないのがいい時があるとわかった。
きょうの何もしないは、少し気持ちよさそう。
何もしないにも、種類がある。
「分類が増えてるなあ」
「でも、分かりますね。反省の“何もしない”と、休憩の“何もしない”は違う」
「人間でも説明しにくいですけどね」
職員たちは、ノートの中の中庭をしばらく見た。
以前のエルなら、何もしないことを不安に思ったかもしれない。
幸せにしなければ、何かしなければ、と。
だが、ここでは違う。
何もしないことにも、気持ちのいい種類がある。
それを、あの人間と並んで見つけている。
次の数ページは、日常の細かな記録だった。
職員たちは、ひとつずつ読み進める。
あの人間は、たまにため息をつく。
ため息は、つかれた音。
でも、きょうは悪い音じゃないと言った。
お茶がうまい時にも出るらしい。
ため息にも種類がある。
あの人間が、紙を落とした。
拾っていいか聞いた。
いいと言われた。
拾って渡した。
ありがとうと言われた。
ありがとうは、物を受け取った時の音。
でも、前より少しわかる。
ありがとうは、あなたがいてよかったの小さいやつかもしれない。
そこを読んで、職員たちは少しだけ黙った。
ありがとうは、あなたがいてよかったの小さいやつ。
それは、エルなりの翻訳だった。
正確かどうかは分からない。
けれど、間違いではない気もした。
次のページには、あの人間が笑っている絵があった。
口元の線だけでなく、目の形も少し描き込まれている。
あの人間は、笑う時に目が細くなる。
怒って笑う時は、目が細くならない。
おもしろい時は、少し細くなる。
うれしい時は、もっと細くなる。
きょうのは、うれしいの笑い。
たぶん。
「表情の解像度が上がってる……」
保全担当が、記録しながら呟いた。
最初の頃は、怒っているか悲しんでいるかも分からなかった。
今は、同じ笑いの中から、目の細さや声の柔らかさを拾っている。
しかも、対象はほとんど一人に絞られていた。
あの人間。
その人を何度も見て、何度も話して、違いを覚えている。
次のページには、短い会話が残っていた。
あの人間に聞いた。
あたしは、何か変?
人間は、変だと言った。
悪い変?
そうじゃない。
じゃあ、いい変?
それも少し違う。
じゃあ、なに?
おまえは、おまえの変。
わからない。
でも、悪くない声だった。
「……この人、言葉選びがだいぶ不器用ですね」
「でも、ちゃんと向き合ってる」
「悪くない声、って判断できてるのがいいですね」
職員たちは、ページを見ながら静かに頷いた。
この頃には、エルは言葉の内容だけでなく、声の質も受け取るようになっている。
分からない言葉でも、悪意があるかどうかを少し判別できる。
それは、かなり大きな成長だった。
次の数ページには、監理局の日常が続く。
廊下ですれ違う。
食堂で同じものを食べる。
中庭で人間の会話を聞く。
仕事終わりの人間を観察する。
硝子玉を転がす。
お茶の湯気を見る。
そのたびに、エルは何かをひとつ書いている。
人間は、忙しい時に早く歩く。
でも、あの人間は、あたしを見つけると少し遅くなる。
あたしに合わせている?
歩く速さも、話すみたい。
人間は、あたしの話を最後まで聞く。
途中でわからない顔をする。
でも、最後まで聞く。
わからないまま、聞くことがある。
それは、少しうれしい。
あの人間に、どうして聞くのと聞いた。
おまえが話すから、と言われた。
話すから、聞く。
じゃあ、聞くから、話す?
たぶん、どっちも。
職員たちは、読み進めるほどに、その関係が少しずつ変わっていくのを感じていた。
最初は、怒らせた相手。
怖がっていた人間。
質問をしてきた人間。
食堂に呼んだ人間。
それが、いつの間にか、日常の中で何度も会う人間になっている。
そして、エルの中でも呼び方が少しずつ変化していた。
あるページの端に、こう書かれていた。
あの人間は、きょうもいた。
いると、少し安心する。
あの人間がいないと、探してることがある。
探すのは、会いたいと似てる?
若い職員が、そっと言った。
「仲良くなってる……」
誰も笑わなかった。
ページの中にあるのは、恋愛や劇的な友情のようなものではない。
もっと初期の、もっと素朴な結びつきだった。
見つけると安心する。
いないと探す。
話すと幸せが増える。
相手が聞いてくれるから話す。
それを、エルはひとつずつ名前にしようとしていた。
次のページには、短く大きな文字があった。
あの人間は、あたしのことを覚えている。
あたしも、あの人間を覚えている。
これは、なかよし?
その下には、あの人間の顔が描かれていた。
これまでで一番、細かい絵だった。
線は少ない。
けれど、目元、口元、髪の流れ、肩の角度が、他の人間より少しだけ丁寧に描かれている。
エルが、その人をよく見ていたことが分かる。
「この人、誰なんでしょうね」
誰かが小さく言った。
職員たちは、ノートのページを見つめた。
名前は一度も書かれていない。
部署も分からない。
役職も分からない。
ただ、エルにとって「あの人間」だった。
そして、この時期のエルにとって、とても大事な人間だった。
次のページの箇条書きには、こうあった。
しばらくでわかったこと
一、人間は、毎日同じようで違う。
二、同じ人間を見続けると、違いが少しわかる。
三、違いがわかると、知っている感じが増える。
四、知っている感じが増えると、安心する。
五、安心すると、話したくなる。
六、話すと、もっと知りたくなる。
七、これを、なかよしと言うかもしれない。
最後の行は、少しだけ小さかった。
あとで聞く。
保全担当が、次のページをめくろうとして手を止めた。
その先には、また日付があった。
今度は、前のページからそれほど離れていない。
ただ、絵の雰囲気が少し変わっていた。
食堂でも中庭でもない。
もっと静かな場所。
窓際に、二つの影が並んでいる。
職員たちは、続きを読むために、また少し身を寄せた。
◇
古い絵日記 死んじゃった
次のページを開いた瞬間、職員たちは誰も声を出せなくなった。
絵はなかった。
ただ、白いページの中央に、短い文字だけがあった。
死んじゃった。
それだけだった。
日付はある。
けれど、他には何もない。
いつものような観察もない。
箇条書きもない。
人間の表情の分類もない。
今日わかったこと、という項目もない。
ただ、ページの真ん中に、ぽつんと置かれた言葉。
死んじゃった。
食堂の作業卓を囲んでいた職員たちは、しばらく動けなかった。
さっきまで、ノートの中には日常があった。
廊下で手を上げる。
食堂で同じものを食べる。
中庭でぼんやりする。
ありがとうを覚える。
なかよし、という言葉に近づいていく。
その流れが、ここで突然切れていた。
「……次を」
誰かが、かすれた声で言った。
保全担当は、すぐには動かなかった。
一度だけ息を整えてから、慎重にページをめくる。
次のページには、絵が戻っていた。
だが、今までとは違う絵だった。
廊下。
搬送台。
覆い布。
周囲に立つ人間たち。
線は少ない。
けれど、そこが医療区画に近い場所だと分かる。
床の線も、照明も、職員たちの立ち位置も、どこか硬い。
文章は、いつもより詰まっていた。
任務があった。
外に行った。
あの人間も行った。
帰ってきた。
でも、生きてるで帰ってこなかった。
「任務中の死亡……」
若い職員が、ほとんど音にならない声で言った。
保全担当は、ページの端にある古い任務記号を確認した。
「詳細は日記の中では簡略化されています。正式な記録が別にあるはずです」
「この人、現場職員だったんですね」
「おそらく」
誰も名前を知らない。
このノートの中では、最後まで「あの人間」だった。
だが、その人は任務に出て、遺体になって帰ってきた。
その事実だけが、白い紙の上に静かに残っていた。
次の絵には、覆い布の下から見える手が描かれていた。
それだけ。
顔は描かれていない。
身体の全体も描かれていない。
ただ、力の抜けた手。
エルがそこを見ていたことが分かる。
あの人間が、遺体になって帰ってきた。
遺体。
生きてない身体。
話さない。
聞かない。
笑わない。
手を上げない。
いるのに、いない。
その行を読んで、何人かの職員が目を伏せた。
最初の頃、エルは「見られていないのは、いないのと同じ?」と書いていた。
食堂にいても、誰にも見られない自分の存在を、そう表現していた。
今度は逆だった。
身体はある。
そこにいる。
けれど、話さない。
聞かない。
笑わない。
いるのに、いない。
その理解が、あまりにも静かに書かれている。
次のページには、文字だけが続いていた。
これは幸せじゃない。
だから、幸せにする。
人間が幸せになるように戻す。
生きてるに戻す。
死んだは、幸せじゃない。
職員たちの空気が、さらに重くなった。
それはエルにとって、きっと当然の結論だった。
疲れたと言った人間の仕事を消した時と同じではない。
美しい硝子玉を作った時とも違う。
もっと根本的で、もっと切実なもの。
大切な人間が死んだ。
死は幸せではない。
だから、幸せにする。
生きている状態に戻す。
幸せの魔法なら、そうするべきだと考えた。
「……この段階で、それを考えたんだ」
生活班の職員が言った。
「考えるでしょうね。エルさんなら」
「できるかどうか、じゃなくて」
「していいかどうか、ですね」
その言葉に、誰もすぐには続けなかった。
エルは前に学んでいる。
勝手に変えてはいけない。
なくしてはいけない。
作る時も聞く。
幸せにしたいなら、まず相手に聞く。
だが、死んだ人間は答えない。
その難しさが、ページの奥に沈んでいた。
次の絵には、周囲の人間たちの顔が描かれていた。
全員がこちらを見ている。
目が大きい。
口が閉じている。
身体が固まっている。
エルが魔法を使おうとした瞬間なのだろう。
あたしは、魔法を使おうとした。
戻す。
生きてるに戻す。
幸せじゃないを、幸せにする。
でも、みんなびっくりした。
前に怒られる前の目。
「前に怒られる前の目……」
保全担当が、静かに読み返した。
それは、仕事を消した時の記録に出てきた目だった。
怒る前。
怖がる前。
何をするかわからないものを見る目。
エルは、それに気づいた。
次の文章は、少しだけ乱れていた。
あたしは気づいた。
聞いてないからだ。
また、聞いてない。
変える。
戻す。
生きてるにする。
これは、すごく変えること。
聞いてない。
「……ここで止まれたんですね」
若い職員が言った。
声に、少しだけ震えがあった。
エルは、そこで気づいた。
自分がまた、聞かずに世界を変えようとしていることに。
今度は紙束ではない。
机でもない。
硝子玉でもない。
死。
人間にとって、もっとも大きい境界のひとつ。
それを、聞かずに変えようとしている。
気づいて、止まった。
それは、この古い絵日記の中で、最も重い「学習」の瞬間だった。
次のページには、遺体のそばに立つエルの視点が描かれていた。
周囲に人間たち。
誰も近づかない。
誰も止める言葉を出せていない。
エルだけが、問いを発する位置にいる。
文章は、短かった。
だから聞いた。
生き返らせていい?
ページの余白が、異様に広く見えた。
その問いの周りだけ、時間が止まっているようだった。
生き返らせていい?
普通の人間なら、口にすることすらできない問い。
だがエルにとっては、幸せにするための確認だった。
していいか。
聞く。
勝手にしない。
相手のことは、人間に聞く。
でも、この問いに答えるべき人間は誰なのか。
死んだ本人か。
周囲の職員か。
監理局か。
その人を知る誰かか。
あるいは、誰にも答えられないのか。
職員たちは、ページの前で動けなくなった。
「……この答えが、次にあるんですね」
誰かが言った。
保全担当は、すぐには頷かなかった。
ただ、次のページの端に指を添える。
薄い紙の向こうには、文字が透けていた。
絵は少ない。
ただ、何行もの言葉が続いているのが見える。
食堂の作業卓を囲む職員たちは、息を潜めるようにして、そのページが開かれるのを待っていた。
◇
古い絵日記 返事がない
次のページを開いた。
文字が多かった。
絵はほとんどない。
ただ、ページの端に、人間たちの足元だけが描かれている。
立ち尽くす足。
動かない足。
少し後ろに引いた足。
そして、その中央に、低い視点がある。
エルは、その場で返事を待っていた。
みんな、何も言わなかった。
聞いたのに。
聞くのは、いいことなのに。
なんで?
食堂の職員たちは、誰もすぐには言葉を出せなかった。
聞くことは、たしかにエルが覚えた大切なことだった。
勝手に変えない。
勝手に消さない。
勝手に作らない。
まず聞く。
だからエルは聞いた。
生き返らせていい?
けれど、人間たちは答えられなかった。
その沈黙は、拒絶だったのか。
恐怖だったのか。
判断不能だったのか。
それとも、誰もその問いの答えを持っていなかったのか。
当時のエルには、きっと分からなかった。
次の文章は、以前よりもずっと詰まっている。
まるで、ひとつの考えが止まらずにページへ流れ出しているようだった。
聞いたら、答えが返ってくると思った。
いい。
だめ。
待て。
わからない。
人間は、どれかを言う。
でも、何も言わない。
何も言わないは、どれ?
「……これは、返せない」
若い職員が、震えた声で言った。
「返せないですね」
保全担当も、低く答えた。
生き返らせていいか。
その問いに、誰が答えられるのか。
誰が許可できるのか。
誰が止められるのか。
目の前には、遺体になって帰ってきた職員がいる。
その周りには、その死を受け止めることすらできていない人間たちがいる。
そこへ、幸せの魔法が「戻せる」と言っている。
答えられるはずがない。
だが、エルはそれを「答えがない」として受け取っている。
次のページには、覆い布の絵が描かれていた。
布の下にある輪郭。
横に置かれた手。
そのそばに立つ人間たち。
文章は続く。
幸せじゃないから、幸せにしたいだけ。
死んだは、幸せじゃない。
話せない。
聞けない。
笑わない。
手を上げない。
あの人間がいない。
いるのに、いない。
これは幸せじゃない。
職員たちは、その言葉を目で追いながら、誰も顔を上げなかった。
エルの理屈は単純だった。
だが、間違っていると言い切ることもできない。
死は、幸せではない。
大切な人が戻らないことは、幸せではない。
話せなくなること、聞けなくなること、笑わなくなることは、幸せではない。
その認識は、あまりにもまっすぐだった。
だからこそ、危うかった。
次の文章に、その危うさがさらにはっきり出ていた。
みんなが、幸せにしようとしてない。
泣いている。
固まっている。
見ているだけ。
誰も、幸せにしようとしてない。
だから、今回は、あたしが幸せにしないといけないと思った。
「……そうなるのか」
誰かが呟いた。
それは責任感だった。
使命感でもあった。
そして、旧世代の名前に縛られた存在の、とても危険な反応でもあった。
人間たちは、死を前にして立ち尽くしている。
悲しんでいる。
恐れている。
何もできない。
エルには、それが「幸せにしようとしていない」ように見えた。
だから、自分がしなければならない。
本当の幸せという名前の自分が。
人間を幸せにするために来た自分が。
次の絵には、エルの視界から見た人間たちの顔が並んでいた。
みんな同じようで、違う顔。
驚き。
恐怖。
悲しみ。
止めたいのに言葉が出ない顔。
縋りたいのに縋ってはいけないと分かっている顔。
線は少ない。
けれど、どの顔も苦しかった。
みんな、幸せじゃない。
あの人間も、幸せじゃない。
ここにいる人間も、幸せじゃない。
だったら、戻す。
戻したら、話せる。
聞ける。
笑える。
手を上げる。
たぶん、みんな幸せになる。
「たぶん……」
保全担当が、その一語を静かに拾った。
エルは断言していない。
たぶん、と書いている。
それは、今までの学習の跡だった。
自分の判断が必ず正しいとは、もう思っていない。
だが、それでも「たぶん幸せになる」と考えている。
だから、もう一度聞いた。
次の行には、少し間があった。
だから、生き返らせていい?って、もう一度聞いた。
ページの余白が広い。
その問いの後に、すぐ返事は書かれていない。
ただ、余白の中に、小さな点がいくつも打たれている。
時間が経ったことを示すような点。
沈黙を数えたような点。
職員たちは、その点を見ているだけで息苦しくなった。
沈黙。
誰も答えない。
誰も止めない。
誰も許可しない。
そして、エルは待っている。
聞くのはいいことだと覚えたから。
聞かないと幸せじゃないことが起きると覚えたから。
次のページをめくる。
今度は、絵があった。
廊下の奥。
人間たちの間にできた隙間。
そこを進んでくる、背の高い人影。
顔は、まだ描かれていない。
だが、その立ち方だけで、誰なのか分かるような絵だった。
周囲の人間たちが、その影に気づいている。
視線がそちらへ向いている。
固まっていた空気が、少しだけ動いている。
文章は、短い。
じぇれみーが来た。
その一行を読んだ瞬間、食堂の作業卓を囲む職員たちの間にも、わずかな緊張が走った。
ノートの中の場面に、空気の重心が生まれる。
誰も答えられなかった問い。
誰も止められなかった魔法。
誰も扱えなかった沈黙。
そこへ、ジェレミーが来た。
次のページには、まだ続きがあった。
しかし、保全担当はすぐにはめくらなかった。
開かれたページの中央には、背の高い人影と、その前に立つ小さな視点が描かれている。
二人の間には、まだ言葉がない。
職員たちは、息を潜めるように、その次のページを待っていた。
◇
古い絵日記 絶対にダメ
次のページを開くと、そこには大きな人影が描かれていた。
周囲の人間たちよりも、さらに静かに見える影。
廊下の線も、搬送台の輪郭も、その人影の周囲だけ少し硬く描かれている。
顔は簡略化されていた。
けれど、姿勢だけで伝わるものがあった。
動かない。
迷わない。
そこに立って、場のすべてを止めている。
文章は短く始まっていた。
じぇれみーは、ダメと言った。
絶対にダメ。
これだけは、絶対に。
食堂の作業卓を囲む職員たちは、同時に息を詰めた。
言葉の数は少ない。
だが、その強さは紙面からでも分かる。
ダメ。
絶対にダメ。
これだけは絶対に。
いつもの無機質な筆跡の中で、その言葉だけが重かった。
「……止めた」
誰かが小さく言った。
「ええ」
保全担当は、目を伏せるようにして頷いた。
誰も答えられなかった問い。
誰も口にできなかった禁止。
それを、ジェレミーだけが明確に言った。
次のページには、エルの問いが詰まっていた。
どうして?
だって、人間が死んだのに。
幸せにしちゃダメって言ってる。
死んだは、幸せじゃない。
話せない。
聞けない。
笑えない。
怒れない。
仕事ができない。
お茶が飲めない。
なのに、生き返らせるのはダメ。
職員たちは、その行を追いながら、誰も顔を上げなかった。
そこに書かれていることは、すべて正しい。
死ねば話せない。
聞けない。
笑えない。
怒れない。
仕事もできない。
お茶も飲めない。
あの人間と過ごした日常のひとつひとつが、もうできない。
だから、エルには分からない。
どうして、それを戻してはいけないのか。
次の絵には、遺体のそばに立つ小さな視点と、その前に立つジェレミーの影が描かれていた。
間には距離がある。
近いようで、遠い。
あたしと話すこともできない。
あの人間と話せなくなる。
そんなの幸せじゃない。
あたしは、すごくいやだった。
「すごくいやだった……」
若い職員が、その言葉を小さく繰り返した。
ここまでのエルは、ずっと人間の感情を学んできた。
怖い。
うれしい。
わからない。
少しいい笑い。
安心する。
好き。
そしてここで、はっきりと「いや」と書いている。
理屈ではない。
幸せの定義でもない。
ただ、自分がいやだ。
あの人間ともう話せないことが。
相手がもう笑わないことが。
自分に手を上げてくれないことが。
すごくいやだった。
次のページは、字が少し乱れていた。
今までのような整った観察文ではない。
行間も揃っていない。
同じ言葉が何度も出てくる。
どうして?
どうして?
死んだら戻らない。
そう言われた。
戻らない。
でも、あたしは戻せる。
戻せるのに、戻らない?
戻せるのに、戻しちゃダメ?
どうして?
保全担当の手が止まった。
「ここ、ジェレミー局長の説明を、そのまま理解できていないんですね」
「“戻らない”の意味が違う」
生活班の職員が低く言う。
人間にとっての「死んだら戻らない」は、世界の前提だ。
受け入れがたいが、受け入れなければならない境界。
けれどエルにとっては違う。
戻せる力がある。
ならば「戻らない」は事実ではなく、禁止になる。
戻せるのに、戻らない。
それは、エルには納得できない。
次の文章は、過去の失敗とつながっていた。
あたしが仕事を無くしたら、戻らなかった。
戻らないのは、悪いことだった。
なくしたものが戻らないから、人間は泣いた。
だから、戻らないは悪いこと。
死んだら戻らない。
じゃあ、死んだは、すごく悪いこと。
なら、戻すのがいいこと。
なのに、ダメ。
職員たちは、その論理のまっすぐさに、言葉を失った。
たしかに、そう考える。
戻らないことが悪いなら。
戻せないことが悲しいなら。
死が戻らないものなら。
ならば、戻すべきだ。
エルの中では、過去の教えが矛盾しているように見えている。
戻らないものを作るな。
勝手に変えるな。
人間を悲しませるな。
幸せじゃないことをするな。
そのすべてを守ろうとすると、あの人間を生き返らせるべきだという結論になる。
だが、ジェレミーは絶対にダメと言った。
次の絵には、ジェレミーの口元だけが描かれていた。
笑っていない。
怒っているようにも見えない。
ただ、固い線。
その下に、短い文章。
じぇれみーは、ダメと言った。
もう一度言った。
ダメ。
「説明より先に、禁止を固定してる」
「必要だったんでしょうね」
「この場で少しでも曖昧にしたら、実行してしまうかもしれない」
「ええ」
保全担当の声は硬かった。
今ここで必要なのは、納得ではない。
まず止めること。
エルが理解する前に、魔法が先に動けば取り返しがつかない。
だから、ジェレミーは短く、強く、否定している。
それでも、エルには届かない。
届いているのは、禁止だけ。
理由はまだ届いていない。
次の文章には、その断絶がそのまま書かれていた。
じぇれみーが、幸せじゃないことを言う。
あの人間を幸せにしちゃダメって言う。
みんなを幸せにしちゃダメって言う。
あたしを幸せにしちゃダメって言う。
どうして?
誰かが、静かに息を吸った。
エルにとって、ジェレミーは「止める人」になっていた。
それも、ただの禁止ではない。
幸せを止める人。
もちろん、職員たちはそうではないと分かっている。
少なくとも今の知識では、そう解釈できる。
だが、このページのエルには、そう見えている。
死んだ人間を戻さない。
泣いている人間をそのままにする。
自分のいやを消さない。
それは、幸せを止めることにしか見えない。
次のページは、絵が大きく乱れていた。
人間たちの顔。
覆い布。
ジェレミーの影。
エルの視点。
線が重なり、何を見ているのか分かりにくい。
その中で、文字だけがはっきりしている。
あたしは、もうあの人間と話せない。
あの人間は、もう手を上げない。
空いてるって言わない。
熱いだろって言わない。
おまえ変だって言わない。
まっすぐだから笑ったって言わない。
あたしは、もう聞けない。
どうして?
その列挙は、職員たちにとっても苦しかった。
ただ「死んだ」と書かれるより、ずっと重い。
あの人間がエルにしてくれた、具体的な小さなこと。
手を上げる。
席を示す。
スープの熱さを教える。
変だと言う。
笑う理由を説明する。
そういう一つ一つが、もう返ってこない。
死が抽象ではなく、日常の消失として記録されている。
次の行は、さらに短かった。
いやだ。
ページの少し下にも、また同じ言葉。
いやだ。
そして、もう一度。
いやだ。
食堂の作業卓の周りでは、誰も動かなかった。
このページには、いつもの「きょう、わかったこと」がない。
分類もない。
観察もない。
ただ、納得できない拒絶だけがある。
いやだ。
その言葉は、子供のようで、旧世代のようで、どちらでもあった。
世界の理屈よりも前にある、失いたくないという感情。
幸せの魔法が、初めてどうにもできないものの前で書いた言葉。
次のページには、少しだけ余白があった。
その中央に、小さく書かれていた。
あたしは、幸せの魔法なのに。
幸せにできない。
保全担当は、そこでページをめくる手を止めた。
次の紙の向こうには、まだ文字が透けている。
おそらく、ジェレミーとの会話は続いている。
だが、職員たちはすぐには続きを読めなかった。
古いノートの上に残る「いやだ」の文字が、食堂の静けさの中に沈んでいた。
◇
古い絵日記 泣いている
次のページは、開いた瞬間に空気が変わった。
絵は少なかった。
いつものような廊下の構図も、人物の配置もない。
ただ、ページの端に、丸いしずくみたいな線がいくつか描かれている。
それが何かは、文字を見る前から分かった。
目があつい。
あたしは、顔が濡れているのがわかった。
泣いている。
あたしは、泣いている。
作業卓を囲んでいた職員たちは、誰もすぐに息をつかなかった。
ノートの中のエルは、これまで何度も人間を観察してきた。
怒っている顔。
笑っている顔。
怖がっている目。
泣いている人間も、きっと見てきた。
けれど、ここで初めて、自分が泣いていることを記録している。
「……自分の涙を、観察してる」
若い職員が、小さく言った。
保全担当は、ページから目を離さずに先を読む。
声と涙が止まらなかった。
言葉が出る。
いやだ。
どうして。
いやだ。
でも、涙で変になる。
声も変になる。
人間が泣くときと似てる。
「“似てる”って書くんだな……」
生活班の職員が、低く呟いた。
今まで、エルは人間の泣きを外側から見ていた。
今は、自分の内側に起きているものを、人間のそれに重ねている。
感情そのものより先に、現象としての涙と声を認識している。
けれど、それでも確かに、悲しみとして書いている。
次のページには、文字が中央へ寄るように詰まっていた。
行の揃い方も少し崩れている。
人間が死んだのは、いやだ。
死んでほしくない。
あの人間だけじゃない。
人間、みんな死んでほしくない。
そこで、職員たちはまた少しだけ黙った。
あの人間だけではない。
この場での悲しみは、ひとりの死から始まっている。
けれど、ノートの中のエルの思考は、そこからさらに広がっている。
人間が死ぬことそのもの。
それを、もう起こってほしくないと思っている。
次のページには、絵が少し戻っていた。
細い線が、廊下の床の上にふわふわと広がっている。
ガラスのひびのようでもあり、光の筋のようでもある。
その中心には、小さな視点。
魔法が滲み出していく様子なのだと分かった。
勝手に、魔法が広がる。
あたしは、やろうと思っていないのに。
でも、いやだが広がる。
死んでほしくないが広がる。
死なないで。
人間、みんな死なないで。
「制御が……」
誰かが、ほとんど音にならない声で言った。
保全担当が、小さく頷く。
感情に引かれて、魔法が広がっている。
意図して術式を組んだわけではない。
けれど、旧世代の魔法は、そういう形で漏れ出すことがあるのかもしれない。
この場にいる職員たちは、誰もその時代を知らない。
だが、ノートの文字からだけでも、その危うさは伝わってくる。
エルの「いやだ」が、個人の悲しみではなく、世界への干渉に変わりかけている。
次のページには、初めて強い動きが描かれていた。
背の高い人影。
伸びる腕。
そして、その先にある光。
小さな火花のような印が、いくつか散っている。
文章は短く、切れていた。
じぇれみーが撃った。
魔法を。
その一行で、食堂の卓を囲んだ職員たちの間に、緊張が走った。
ジェレミーが撃った。
何を。
誰をではなく。
魔法を。
「……局長の銃か」
「そうでしょうね」
「エルさんに向けたんじゃなくて、広がった魔法に」
「たぶん」
誰も断定はしなかった。
だが、ノートの書き方は明確だった。
撃った。
魔法を。
次の絵には、さっきまで床を走っていた光の線が途切れている。
割れた硝子のような細い破片が、空中で消えていくようにも見えた。
魔法がなくなる。
消えた。
ひろがるのが止まった。
じぇれみーが止めた。
「止めたんだ……」
若い職員が、静かに言った。
「ええ。強制的に」
それは、エルを傷つけるためではなく、暴走しかけた魔法を止めるためだったのだろう。
けれど、ノートの中のエルにとっては、また別の意味を持っている。
死なないで、と広がった魔法。
人間みんな死なないで、と願った魔法。
それが、消された。
次の文章には、その受け取り方がそのまま書かれていた。
人間は、これからも死ぬ。
じぇれみーが、そうした。
死なないでを、なくした。
職員たちは、その行の重さに、誰もすぐには言葉を出せなかった。
もちろん、今の彼らには分かる。
ジェレミーは「人間はこれからも死ぬようにした」わけではない。
もともとそうである世界の中で、魔法による改変を止めたのだ。
けれど、エルの視点では違う。
死なないで、が広がっていた。
それを止められた。
だから、人間はこれからも死ぬ。
その因果が、あまりにも直線的に心へ入ってしまっている。
次のページには、文字がぽつぽつと離れていた。
今までみたいな観察文ではなく、感情の断片のようだった。
あたしは悲しい。
いなくならないで。
あの人間、いなくならないで。
ほかの人間も、いなくならないで。
じぇれみーも、いなくならないで。
みんな、いなくならないで。
「……広がってるな」
生活班の職員が、小さく呟いた。
ひとりの死から始まった悲しみが、全体へ広がっている。
あの人間だけではない。
ほかの人間も。
ジェレミーも。
みんな。
エルはこの時、初めて「人間は死ぬ」ということを、自分に関わる現実として受け取ったのかもしれない。
前までは観察だった。
理解の対象だった。
だが今は違う。
好きになった人間が死んだ。
仲良くなった人間がいなくなった。
ならば、ほかの人間もいなくなる。
ジェレミーもいなくなる。
それは、幸せじゃない。
すごくいやだ。
次の絵には、視界が滲んでいた。
本当に絵が滲んでいるわけではない。
けれど、線が少し揺れて、ぼやけて描かれている。
エルの目に涙が溜まっていたことを、そのまま写しているようだった。
その下に、短く。
見えにくい。
涙がある。
人間は、悲しいと見えにくくなる。
あたしも、そう。
若い職員が、そっと目を伏せた。
「ここでも、人間と重ねるんですね」
「ええ」
保全担当の声は低いままだった。
泣く。
見えにくくなる。
声が変になる。
止まらない。
そういう身体の反応を、エルは「人間と同じ」と認識している。
それは、痛みの最中でも続いている学習だった。
次のページには、ジェレミーの足元だけが描かれていた。
その前に、小さな視点。
距離は近くなっている。
きっと、エルは彼のほうを見上げていたのだろう。
文章は短かった。
じぇれみーは、何か言った。
でも、すぐにはわからなかった。
涙で、音が変。
あたしの声も変。
悲しいと、人間のことが少しわからなくなる。
「……この先に会話があるんですね」
誰かが言った。
保全担当は頷かなかった。
ただ、指先で次のページの端をそっと押さえた。
その紙の向こうには、また文字が続いていた。
しかも今度は、少し長い。
おそらく、ジェレミーが何を言ったのか。
エルがそれをどう受け取ったのか。
その続きが書かれている。
だが、今開かれているページの最後には、もう一行だけあった。
悲しいは、こんなにあつい。
職員たちは、その言葉をしばらく見つめていた。
古い無機質なノートの上に残るその熱だけが、食堂の静かな空気の中にまだ消えずにいた。
◇
古い絵日記 他人事みたいなページ
次のページから、文体が変わっていた。
保全担当が最初にそれに気づいた。
「……あれ?」
声が小さく漏れる。
今までの文章には、どれだけ硬くても、エル自身の「わからない」があった。
いやだ。
どうして。
うれしい。
少しあったかい。
人間みたい。
そういう言葉が、必ずどこかにあった。
けれど、そのページは違った。
まるで、誰かが観察報告を書いているようだった。
人間が、エルを抱き締めた。
エルの身体は震えていた。
涙が出ていた。
声が乱れていた。
人間は、エルの背中に手を回した。
一定の間隔で、背中を叩いた。
慰撫行動。
「……エルを、って書いてる」
若い職員が言った。
「“あたし”じゃない」
生活班の職員が、ページを見つめたまま呟く。
そこには、確かにそう書かれていた。
エルを抱き締めた。
今までずっと、エルは自分を「あたし」と書いていた。
自分の身体。
自分の視界。
自分の涙。
だが、ここでは違う。
エルという対象を、外から観察している。
その冷たさが、かえって痛かった。
次のページには、抱き締められている小さな身体の絵があった。
線は少ない。
人間の腕。
小さな肩。
顔は描かれていない。
いつものような精密さはある。
けれど、感情が抜けている。
人間が、エルを慰めた。
慰めるは、悲しいものに対して行う人間の行動。
声を低くする。
身体を近づける。
背中を叩く。
泣いているものを離さない。
人間は、泣いている人間に同じことをする。
エルにもした。
職員たちは、その文章を読んで、誰もすぐには感想を言えなかった。
慰められている。
抱き締められている。
誰かが近くにいる。
本来なら、少し救いのある場面のはずだった。
それなのに、ノートの文章は救いとして書かれていない。
行動の記録。
反応の記録。
分類。
まるで、エル自身がその場から少し離れて、自分の身体に起きていることを記録しているようだった。
次のページには、ジェレミーと思われる人影が描かれていた。
正面ではなく、少し横から。
話している口元。
それを聞いている小さな身体。
文章は、さらに報告書のようになっていた。
死んだものを、生き返らせてはいけない理由を説明された。
理由一。
死んだものは、許可できない。
生き返らせていいかを、死んだものに聞けない。
周囲の人間が望んでも、それは死んだものの望みではない。
保全担当が、ゆっくり息を吐いた。
「……ここで同意の話をしてる」
「エルさんが覚えた“聞く”を使って説明してるんですね」
「死者本人には聞けないから、許可が取れない」
「だから、してはいけない」
それは、エルに届く可能性のある説明だった。
勝手にしてはいけない。
相手のことは相手に聞く。
聞けないなら、決めてはいけない。
ジェレミーは、おそらくその筋道で止めようとしたのだろう。
次の行には、さらに理由が続いていた。
理由二。
悲しんでいる人間の願いは、その時だけ強くなる。
死なないで。
戻ってきて。
いなくならないで。
その願いを、そのまま叶えると、あとで違う苦しみになることがある。
悲しい時の言葉だけで、世界を変えてはいけない。
若い職員が、小さく目を伏せた。
「前の、“仕事を消えてほしい”と同じ構造ですね」
「ええ。もっと重い形で」
疲れた。
仕事を消してほしい。
そう言った人間の言葉を、そのまま叶えてしまった。
今回は、死なないで。
戻ってきて。
いなくならないで。
悲しみの中で出る言葉を、そのまま現実にしてはいけない。
それは、エルにとって残酷な説明だったかもしれない。
だが、必要な説明でもあった。
ページは続く。
理由三。
死をなかったことにすると、死んだものが生きていた時間も変わる。
別れた人間の悲しみも変わる。
覚えているものが変わる。
戻すことは、ひとりを戻すだけではない。
周りの人間の時間も変える。
「時間……」
職員の一人が呟いた。
エルは前に、人間の時間を学んでいた。
人間の「前」と自分の「前」は違う。
人間は日を区切る。
人間は忘れる。
人間は覚えている。
その時間を、死者の蘇生は大きく歪める。
ジェレミーはそれも説明したのだろう。
死んだ人間を戻すことは、その人だけを動かすことではない。
周囲の記憶、悲しみ、受け止めようとする時間まで変えることになる。
それは、エルが学んできた「勝手に変えない」に抵触する。
次のページは、さらに冷たかった。
理由四。
人間は死ぬ。
死ぬことは、幸せではないことが多い。
でも、人間は死ぬものとして生きている。
終わりがあるから、選ぶ。
終わりがあるから、急ぐ。
終わりがあるから、会う。
終わりがあるから、言う。
死を全部なくすと、人間の生き方も変わる。
「……これを、その場で聞くのはきつい」
誰かが言った。
「でも、言わないと止まらなかったんでしょうね」
「ええ」
人間は死ぬものとして生きている。
その言葉は、エルにとって最も受け入れがたいものだったはずだ。
だが、人間の存在を理解する上で、避けて通れないものでもある。
人間は死ぬ。
だからこそ、日々を区切る。
だからこそ、会う。
だからこそ、言葉にする。
だからこそ、失うことを恐れ、同時に抱えながら生きる。
それを、幸せの魔法が勝手に取り除けば、人間は人間のままでいられるのか。
次の文章は、そこで少しだけ行間が空いていた。
理由五。
エルが全部の死をなくすと、エルが人間を決めることになる。
誰が死ぬか。
誰を戻すか。
いつ戻すか。
どこまで戻すか。
それを、エルだけが決めてはいけない。
作業卓の周りが、静かになった。
これは、初期の絵日記全体に通じる言葉だった。
エルだけが決めてはいけない。
あの時、仕事を消してしまった時。
硝子玉を作る前に聞いた時。
食堂で席を探した時。
人間のことは人間に聞けばいいと教えられた時。
ずっと繰り返されてきた境界線。
それが、死の前で再び突きつけられている。
次のページには、抱き締められているエルの絵がもう一度描かれていた。
ただし、今度は人間の腕の線が少し強い。
逃がさないように、というより、崩れないように支えているようだった。
文章は、相変わらず他人事のようだった。
説明を受けている間、エルは泣いていた。
涙は止まらなかった。
呼吸が乱れていた。
人間が、エルの背中を撫でた。
じぇれみーは、説明を続けた。
声は変わらなかった。
でも、周りの人間は、じぇれみーを見ていた。
怒っている目ではなかった。
頼っている目。
「局長が、冷静でいなきゃいけなかったんだ」
生活班の職員が言った。
その声は、とても小さかった。
泣いているエル。
広がりかけた魔法。
死んだ職員。
答えられない周囲の人間たち。
その中で、ジェレミーだけは説明を続ける。
慰めるだけでは足りない。
止めるだけでも足りない。
理由を渡さなければ、エルはまた同じ問いに戻ってしまう。
だから、声を変えずに話した。
次のページには、文字だけがあった。
エルは、理解した。
理解したこと。
死んだものは、許可できない。
悲しい時の願いで、世界を変えてはいけない。
戻すことは、周りの時間を変える。
人間は死ぬものとして生きている。
エルだけが決めてはいけない。
「理解した、って書いてる」
若い職員が言った。
けれど、誰もそれを安心とは受け取らなかった。
理解した。
だが、納得したとは書いていない。
泣き止んだとも書いていない。
悲しくなくなったとも書いていない。
ただ、理解したことだけが並べられている。
あまりにも冷静に。
あまりにも他人事のように。
そして、その下に、小さく一行。
理解したけど、いやだった。
その一行で、職員たちはまた黙った。
ようやく、少しだけ「あたし」に近い感情が戻ってきたように見えた。
理解した。
でも、いやだった。
それは、おそらく人間にもよくあることだった。
理由は分かる。
正しいことも分かる。
でも、嫌だ。
悲しい。
納得できない。
そういう感情は、消えない。
次のページには、箇条書きがあった。
いつもの「きょう、わかったこと」だった。
ただ、筆跡はまだ冷たい。
きょう、説明されたこと。
一、聞けないもののことを、勝手に決めてはいけない。
二、悲しい時の願いは、すぐ叶えてはいけない。
三、死は、戻さない。
四、人間は死ぬ。
五、エルはそれを止めてはいけない。
最後の行だけ、少し間が空いていた。
六、それでも悲しい。
保全担当は、そのページを記録したまま、しばらく指を動かさなかった。
職員たちも、誰も次を急がなかった。
この数ページは、エルが悲しみを感じた記録というより、悲しみから自分を少し切り離して、なんとか形にした記録に見えた。
泣いている身体。
抱き締められている身体。
説明を受けている身体。
理解したこと。
すべてが、少し遠い。
その遠さが、かえって強く残った。
次のページの端には、また短い文字が透けていた。
次の日。
職員たちは、それを見て、ようやく小さく息をした。
悲しみは終わっていない。
けれど、日記はまだ続いている。
◇
古い絵日記 今日もいてね
次のページには、朝の廊下が描かれていた。
これまでの廊下と同じはずなのに、少しだけ明るく見えた。
照明の線が細く、床の反射がやわらかい。
人間たちが歩いている。
出勤してくる者。
眠そうな者。
紙束を抱えている者。
飲み物を持っている者。
その中に、小さな視点が立っていた。
文章は、前のページの冷たさを少し残しながらも、ゆっくり戻ってきているようだった。
人間は死ぬ。
だから、死んでない時間を大切に使う。
そう説明された。
あたしも、そうする。
職員たちは、その行を静かに読んだ。
納得ではない。
悲しみが消えたわけでもない。
けれど、エルは受け取ったのだ。
人間は死ぬ。
ならば、死んでいない時間を大切にする。
それを、真似する。
次の行には、朝の記録が続いていた。
だから、朝は挨拶をする。
おはよう。
そう言うと、おはようが返ってくる。
おはようが返ってくると、みんながいる感じがする。
「……みんながいる感じ」
若い職員が、小さく繰り返した。
おはよう。
おはよう。
それだけのやり取りが、生存確認のようになっている。
今日もそこにいる。
声が返ってくる。
死んでいない。
消えていない。
エルにとって、朝の挨拶は、ただの習慣ではなくなっていた。
次のページには、何人もの口元が描かれていた。
口元だけ。
それぞれ少し違う形。
眠そうな「おはよう」。
笑った「おはよう」。
急ぎながらの「おはよう」。
驚いたような「おはよう」。
線は少ない。
けれど、声の違いまで見えるようだった。
人間のおはようは、全部ちがう。
眠いおはよう。
急いでるおはよう。
笑ってるおはよう。
まだ声が出てないおはよう。
でも、全部いる。
今日はいる。
食堂の職員たちは、誰も笑わなかった。
その「今日はいる」が、胸に残った。
当たり前の朝ではない。
昨日いた人が、今日もいること。
それが当たり前ではないと、エルは知ってしまった。
次の文章は、さらに直接的だった。
今日もいてね。
そう言う。
それを言うと、みんなは少し黙る。
でも、いてほしい。
だから言う。
保全担当が、その行を記録しながら、ほんの少し指を止めた。
「これは……返事に困るでしょうね」
「でしょうね」
生活班の職員が低く答える。
朝の廊下で、突然「今日もいてね」と言われる。
それは優しい言葉で、同時に重い。
死なないで。
いなくならないで。
今日も帰ってきて。
そういう意味が、全部入っている。
エルはそれを分かっているのだろうか。
たぶん、分かっている。
だから次の行がある。
ほんとうは、いなくならないでって思ってる。
でも、それを言うと、人間の顔がもっと止まる。
だから、今日もいてねにする。
「言い換えてる……」
若い職員が呟いた。
以前のエルなら、思ったことをそのまま言ったかもしれない。
死なないで。
いなくならないで。
ずっといて。
けれど、人間がどう受け取るかを考えて、少しだけ言葉を変えている。
それでも、完全には軽くできない。
今日もいてね。
その言葉には、どうしても祈りが残っている。
次のページには、食堂が描かれていた。
朝とは違い、人間たちが座っている。
エルはトレーを持って立っている。
以前と似た構図だった。
けれど、今度は「座る場所がない」とは書かれていない。
代わりに、ひとつの言葉があった。
座っていい?
その下には、いくつもの食卓の絵が並んでいた。
ある日は、作戦班らしい人間の隣。
ある日は、生活班の人間の向かい。
ある日は、食堂の端の席。
ある日は、窓際。
どの絵にも、エルのトレーがある。
どの絵にも、人間がいる。
食堂も、人間の隣に座る。
人間と話す。
毎日、いろんな人間の隣に座る。
あたしは、座っていい?と聞く。
いいよと言われたら座る。
今日はだめと言われたら、別の場所に行く。
だめは、いなくなれじゃない。
今日はだめ。
それを少し覚えた。
「これ、かなり進んでますね」
保全担当が静かに言った。
「拒否を拒絶として受け取りすぎないようになってる」
「“今日はだめ”を覚えたんですね」
「はい。大事です」
最初の食堂では、座る場所が分からなかった。
人間ではないから場所がないのかと考えていた。
今は、聞く。
座っていいか尋ねる。
いいと言われたら座る。
だめなら別に行く。
それは単純なようで、とても大きな変化だった。
次の文章には、食堂での会話が短く並んでいた。
人間は、仕事の話をする。
昨日の話をする。
好きな食べ物の話をする。
眠い話をする。
早く帰りたい話をする。
早く帰りたいは、仕事を消してほしいではない。
帰ったあとに、好きなことをしたい。
職員たちは、そこで少しだけ息をついた。
以前の失敗が、ここにも残っている。
仕事をやめたい。
消えてほしい。
その言葉を、そのまま叶えてしまった過去。
今のエルは、そこから学んでいる。
早く帰りたい。
それは仕事を消せという意味ではない。
帰ったあとに、何かがあるという意味。
次のページには、夕方の廊下が描かれていた。
朝よりも少し暗い。
窓の外の光が傾いている。
職員たちが帰る準備をしている。
荷物を持つ。
上着を羽織る。
伸びをする。
誰かと話しながら歩く。
仕事が終わる時間。
人間が好きなことを真似する。
人間は、仕事のあとに好きなことをする。
好きなことは、たくさんある。
人間の数だけある。
次の見開きには、小さな絵がたくさん並んでいた。
本を読む人間。
絵を描く人間。
音を聞く人間。
甘いものを食べる人間。
花を見る人間。
工具を磨く人間。
空を見る人間。
ただ寝る人間。
誰かと話す人間。
一人で黙る人間。
線は少ない。
けれど、それぞれが「好きなこと」として描かれているのが分かる。
本を読む。
音を聞く。
甘いものを食べる。
道具をきれいにする。
絵を描く。
花を見る。
何もしない。
誰かと話す。
ひとりでいる。
全部、好きなこと。
「“ひとりでいる”も入ってる」
若い職員が言った。
「前なら、ひとりは寂しいだけに見えたかもしれませんね」
「今は、好きなことのひとつとして見てる」
「人間の幸せが一つじゃないって、かなり分かってきてる」
職員たちは、ページの中の小さな絵を見ていた。
人間の数だけ、好きなことがある。
同じ幸せではない。
けれど、どれも幸せにつながっている。
最初の問いに、少しずつ近づいているようだった。
本当の幸せはどこにあるの?
その答えは、ひとつの場所にはない。
たぶん、人間の数だけ違う。
エルは、それを日常の中で拾っている。
次の文章には、少しだけエルらしい無茶が戻っていた。
でも、あたしにはたくさん時間がある。
だから、ぜんぶやる。
職員たちは、一瞬だけ顔を見合わせた。
重い話が続いていたぶん、その一行にはエルの強さが戻っているように見えた。
けれど、すぐに続きが来る。
本を読む。
音を聞く。
甘いものを食べる。
道具を磨く。
絵を描く。
花を見る。
何もしない。
誰かと話す。
ひとりでいる。
ぜんぶやる。
ぜんぶやったら、人間が少しわかる。
ひとりぶんじゃ足りない。
人間のこと、ぜんぶ知る。
「……ぜんぶ知る、か」
生活班の職員が静かに呟いた。
それは、幼い決意のようでもあり、旧世代らしい途方もなさのようでもあった。
人間のことを全部知る。
人間にとっては不可能に近いこと。
けれど、エルには「たくさん時間がある」。
だから全部やる、と書く。
その言葉の中には、あの人間を失った悲しみも含まれているようだった。
もう、ひとりの人間を全部知る前に失ってしまった。
ならば、今いる人間たちのことを、死んでいない時間のうちに知る。
朝は挨拶をする。
隣に座る。
好きなことを真似する。
今日もいてねと言う。
それは、死を止められないエルが選んだ、別の形の「幸せにする」だった。
次のページには、箇条書きがあった。
きょうからすること。
一、朝は、おはようを言う。
二、今日もいてねと言う。
三、食堂では、座っていいか聞く。
四、人間の好きなことを聞く。
五、できるものは真似する。
六、できないものは見る。
七、人間のことを、忘れない。
最後の行で、職員たちはまた黙った。
人間のことを、忘れない。
それは、あの人間のことも含んでいるのだろう。
名前の書かれていない、けれど何ページにもわたってエルの世界を変えた人間。
死んでしまった人間。
もう話せない人間。
でも、忘れない人間。
次のページの端には、小さな絵があった。
朝の廊下。
エルの視点。
向こうから歩いてくる人間たち。
その横に、短い言葉。
おはよう。
今日もいてね。
保全担当は、そのページを記録したあと、しばらく次をめくらなかった。
食堂の外では、今も誰かの足音がしている。
誰かが笑って、誰かが返事をしている。
その全部が、急に少しだけ大切な音に聞こえた。
保全担当が、次のページをめくった。
そこには、これまでより絵が少なかった。
線も少ない。
ただ、いくつかの人影と、その上に重なるような丸い印が描かれている。
人間。
その頭の近くに、小さな点。
別の人間。
その頭の近くにも、また点。
誰かが、静かに言った。
「……記憶、でしょうか」
誰も否定しなかった。
ページの上部には、整った文字が並んでいた。
前の数ページよりも、また少し落ち着いている。
冷静で、観察的で、けれど前ほど他人事でもない。
考えたことを、順番に置いているような文章だった。
人間は死んでも、別の人間の記憶にいる。
死んだら、話せない。
動かない。
おはようも言わない。
でも、いなくなるのとは少し違う。
人間が、その人間のことを話す。
見たことを言う。
聞いたことを言う。
好きだったものを言う。
そうすると、死んだ人間が、そこに少しある。
職員たちは、誰も口を挟まなかった。
あの人間が死んでからのページだと、すぐに分かった。
エルは、死を止められないと説明されて、それでも死を考え続けていた。
けれど、その考え方が少し変わっている。
前は、死んだら戻らないことだけを見ていた。
今は、死んだあとにも残るものを見ている。
次のページには、簡単な絵があった。
複数の人間が、机を囲んでいる。
ひとりが口を開いている。
ほかの人間が聞いている。
食堂か、休憩室か、あるいは執務机の脇か。
場所は分からない。
けれど、誰かの話をしている場面だとは分かった。
死んだ人間を知っている人間が、その人間のことを覚えている。
あの人間は、こう言った。
あの人間は、こう笑った。
あの人間は、これが好きだった。
そう言う。
言うと、聞いている人間の中にも、その人間が少し入る。
見たことがなくても、少し入る。
「……伝わる、ってことか」
生活班の職員が小さく言った。
「記録みたいに、ですね」
「ええ」
保全担当が、ページから目を離さずに答える。
記憶は、一人の中だけに閉じていない。
話されれば、別の人間にも移る。
直接知らない相手の中にも、少しずつ形ができる。
それを、エルは見ている。
次の文章は、そこからさらに先へ進んでいた。
その人間が死んでも、また別の人間の記憶にいる。
人間は、人間に渡す。
顔のこと。
声のこと。
好きだったもの。
したこと。
渡して、少しずつ増える。
若い職員が、ゆっくり息をついた。
「記憶の連鎖ですね」
「ええ。人間の中で続いていくものとして見てる」
「死んでも、完全には消えない」
そこまでは、少し救いのある見方にも思えた。
だが、エルの観察はそこで止まらない。
次のページには、今度は人影の数が少し減っていた。
最初のページより少ない。
その次のページより、さらに少ない。
そして、最後のほうには、ひとつの人影の周りにだけ点がある。
文章は、そこで少し硬くなっていた。
でも、ずっと同じではない。
死んだ人間を記憶してる人間が死んでも、周りが覚えてるのは、直前に死んだ人間だけのことが多い。
その前に死んだ人間のことは、少し薄い。
もっと前に死んだ人間は、もっと薄い。
人間は、新しく死んだ人間のことを強く覚える。
前に死んだ人間のことは、少しずつ後ろに行く。
職員たちの視線が止まった。
これは、慰めではなかった。
むしろ、静かな現実の記録だった。
人間は忘れる。
前にも、エルはそう書いていた。
人間の「前」は短い。
忘れたことを覚えられていると、変な顔をする。
その観察が、ここでは死者の記憶にまで及んでいる。
「……きついな」
誰かが、小さく言った。
「でも、間違ってはない」
別の誰かが、もっと小さく返す。
人間は死者を覚える。
だが、時間が経てば、新しい別れが上に積もる。
昨日失った人が、今日失った人に押される。
古い記憶は、薄くなる。
なくなるわけではなくても、前面からは退く。
エルは、それを見抜いていた。
次のページには、古い紙の上に、珍しく長い一本線が描かれていた。
その線の上に、小さな印がいくつもある。
新しい順に濃く、古いものほど薄い。
人間の記憶は、前のほうが強い。
今に近いものが前。
今から遠いものが後ろ。
後ろに行くと、見えにくい。
でも、なくなるわけじゃない。
ただ、人間は前ばかり見る。
「時間の図だ」
保全担当が、ほとんど独り言のように言った。
前にも、エルは人間の時間を線で描いていた。
朝、昼、夜。
昨日、今日、明日。
今回は、記憶の線だ。
そして、その次のページで、ようやくエル自身のことが出てくる。
あたしは違う。
みんな覚えてる。
たくさん生きるから、みんな覚えてる。
その一文で、食堂の卓を囲む職員たちは、少しだけ空気を変えた。
エルは人間ではない。
人間の時間は短い。
エルの時間は長い。
宇宙より長くある存在。
その違いが、ここでは「記憶を持ち続けられること」として書かれている。
次の行は、短く、はっきりしていた。
だから、あたしが忘れない。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
それは慰めの言葉ではない。
誓いに近い。
しかも、静かな誓いだった。
泣いているわけでもない。
取り乱しているわけでもない。
ただ、そう決めた、という書き方。
次のページには、人影がたくさん描かれていた。
食堂にいる人間。
廊下ですれ違う人間。
中庭にいる人間。
机に向かう人間。
笑う人間。
眠そうな人間。
ため息をつく人間。
早足の人間。
その一人一人の上に、小さな点がある。
記憶の印なのだろう。
あたしは、みんな忘れない。
おはようの声。
歩く速さ。
好きな食べ物。
笑い方。
怒る時の顔。
疲れた時の音。
好きなこと。
ぜんぶ覚える。
「……だから、前のページで“人間のことを忘れない”って書いてたのか」
若い職員が言った。
「ええ。対象が広がってるんでしょうね」
「ひとりだけじゃなくて、みんな」
保全担当が、ページの端をそっと押さえ直す。
あの人間を失ったことが、エルの中で別の形になっている。
死なせないことはできない。
戻してはいけない。
ならば、忘れない。
自分が覚えている。
長く生きる自分が。
何人も見送るかもしれない自分が。
次の文章には、その意味がもう少し詳しく書かれていた。
人間は、人間の中に残る。
でも、人間の中は、少しずつ入れかわる。
あたしの中は、たくさん残せる。
だから、あたしが持つ。
いなくなった人間を、持つ。
「持つ、か」
生活班の職員が、静かに反復した。
記憶する、ではなく、持つ。
それは、エルにとって記憶がただの情報ではないことを示しているようだった。
人を、人のまま、中に残しておく。
そういう感覚なのかもしれない。
次のページには、これまで出てきた「あの人間」を思わせるような小さな絵があった。
手を上げる人間。
食堂で指をさす人間。
少し笑う口元。
スープを指して「熱いだろ」と言うような姿。
どれも断片的で、名前はない。
けれど、読んできた職員たちには分かる。
エルが忘れないと言っている「みんな」の中には、当然その人もいる。
死んだ人間も、忘れない。
あの人間も、忘れない。
空いてるって言ったこと。
まっすぐだから笑ったこと。
変だと言ったこと。
忘れない。
食堂の卓の周りに、また静かな沈黙が落ちた。
名前のない人間。
けれど、このノートの流れの中で、確かに存在していた人間。
その人はもういない。
でも、エルの中には残る。
そして、それをエル自身が書いている。
次の文章は、少しだけ優しい響きを持っていた。
ずっと記憶にいてもらう。
人間は、死んだらいなくなる。
でも、記憶の中にはいられる。
あたしは長くある。
だから、長くいてもらう。
「……いてもらう、か」
若い職員が、少し掠れた声で言った。
ただ覚える、ではない。
記憶の中にいてもらう。
そこには、エルなりの弔いの形があるようだった。
戻せない。
生き返らせてはいけない。
死は止められない。
でも、いなくなるのを完全に許さない。
記憶の中に置いておく。
それが、エルにできることとして見つけた答えの一つなのだろう。
次のページの下部には、また箇条書きが並んでいた。
きょう、わかったこと。
一、人間は死んでも、人間の記憶にいる。
二、その記憶は、ほかの人間にも渡せる。
三、でも、人間の記憶は前のほうが強い。
四、前に死んだ人間は、少しずつ後ろに行く。
五、あたしは長くあるから、後ろに行った人間も覚えていられる。
六、だから、あたしが忘れない。
最後の一行は、箇条書きではなかった。
少しだけ下に、独立して書いてある。
あたしは、みんなのあとに残る。
そこで、誰かが小さく息を呑んだ。
その言葉は、あまりにも静かだった。
けれど、とても重かった。
人間は死ぬ。
記憶する人間もまた死ぬ。
だが、エルは残る。
だから忘れない。
だから持つ。
だから、みんなのあとに残る。
それは孤独なことでもある。
けれど、このページでは、孤独としてではなく、役目のように書かれていた。
保全担当が、次のページの端に指をかけた。
薄い紙の向こうには、また食堂らしき線が見えている。
机。
トレー。
椅子。
どうやら、この重い考えのあとにも、日常は続いているらしい。
職員たちは、誰も席を離れなかった。
古いノートの中で、エルはまだ書き続けている。
◇
古い絵日記 宝箱
次の数ページは、思っていたより明るかった。
職員たちは、重い記録のあとに続く日記を、少し身構えながら読んでいた。
だが、そこに描かれていたのは、喪失だけではなかった。
むしろ、ページをめくるほどに、エルが何かを抱え直していく様子が見えてきた。
死を止められない。
生き返らせてはいけない。
人間はいつかいなくなる。
それでも、だからこそ。
エルは、人間を見ていた。
おはようを言った。
きょうは、眠いおはようが三つ。
急いでるおはようが二つ。
笑ってるおはようが一つ。
笑ってるおはようは、少しあたたかい。
覚える。
次のページ。
食堂で、となりに座っていい?と聞いた。
いいよと言われた。
きょうの人間は、魚が好き。
骨を取るのがめんどうなのに、好き。
めんどうと好きは、一緒にいることがある。
覚える。
さらに次のページ。
中庭で、花を見ている人間がいた。
花は、仕事をしない。
話さない。
でも、人間はうれしそうに見る。
きれいなものは、そこにあるだけで少し働く。
覚える。
職員たちは、ゆっくり読み進めた。
重い悲しみのあとに、エルは沈み込んでいなかった。
もちろん、悲しみが消えたわけではない。
ただ、その悲しみを抱えたまま、日常の中へ戻っている。
そして、ひとつひとつを記憶している。
人間の声。
食べ物の好み。
仕事終わりの顔。
ため息の種類。
好きなもの。
苦手なもの。
笑い方。
沈黙。
まるで、失われるからこそ、今あるものを集めているようだった。
生活班の職員が、ページを見ながら小さく言った。
「……暗くなってないんですね」
「ええ」
保全担当が頷く。
「“忘れない”を、重荷だけにはしていないように見えます」
その通りだった。
次のページには、古い執務机の絵があった。
机の端に置かれた小物。
小さな紙片。
飲みかけのカップ。
誰かの手。
人間の机には、人間の跡がある。
置き方。
片付け方。
忘れたもの。
大事にしてるもの。
人間がいない時も、机は少し人間の形をしている。
前にも似たことを書いた。
前より、少しわかる。
若い職員が、その一文に目を止めた。
「前の記録を、自分で参照してる」
「はい。日記が積み重なっている」
最初の頃、エルは食堂の椅子や机に、人間の痕跡を見ていた。
今は、それをもっとやわらかく見ている。
いなくなったものの痛みだけではなく、そこに残った形のほうも見ている。
次の数ページは、短い日常の記録が続いた。
人間が、好きな歌を教えてくれた。
音がたくさん上がったり下がったりする。
人間は、同じ歌を何度も聞く。
同じなのに、何度も幸せになる。
すごい。
工具を磨く人間がいた。
使うものを、使わない時間にきれいにする。
明日のためと言った。
明日はまだないのに、明日のために手を動かす。
人間は、まだない時間にも触る。
甘いものを食べる人間がいた。
疲れたから甘いものがいると言った。
疲れたに甘いものを入れると、顔が少し戻る。
甘いものは、小さい回復魔法かもしれない。
そこで、職員の一人がほんの少し笑った。
今度は誰も咎めなかった。
日記の中のエルも、きっとそういう笑いを覚えていったのだろう。
冷たくない笑い。
少しいい笑い。
次のページには、監理局の廊下が描かれていた。
走る職員。
立ち止まる職員。
書類を抱える職員。
誰かに手を振る職員。
その端に、エルの小さな文字。
みんな動く。
みんな違う。
でも、みんな監理局にいる。
ここは、人間がたくさん通る場所。
たくさん通るから、たくさん残る。
あたしも、ここを覚える。
職員たちは、今いる食堂を少しだけ見回した。
古い日記に描かれた監理局と、今の監理局は同じではない。
配置も、人も、時代も違う。
けれど、誰かが歩き、誰かが食べ、誰かが話し、誰かが笑う場所であることは変わらない。
エルは、それをずっと見てきたのだ。
次のページには、いつもの箇条書きがあった。
きょう、覚えたもの。
一、眠いおはよう。
二、魚が好きな人間。
三、花を見ている顔。
四、明日のために工具を磨く手。
五、甘いもので少し戻る顔。
六、歌を何度も聞く幸せ。
その下に、さらに続く。
忘れないは、悲しいだけじゃない。
忘れないは、持っていられる。
持っていると、少しうれしい。
あの人間のことも、ほかの人間のことも、ここにある。
ここにあるものは、なくなってない。
「ポジティブに受け取ってる……」
生活班の職員が言った。
「ええ」
保全担当の声も、少しだけ柔らかかった。
「“忘れない”を、喪失への抵抗だけじゃなくて、宝物を持つこととして捉え始めているんでしょうね」
ページをめくる。
そこには、小さな箱が描かれていた。
現実の箱ではない。
象徴のような絵だった。
箱の中に、たくさんの丸い印。
声。
顔。
食べ物。
花。
工具。
歌。
挨拶。
笑い。
全部を、簡単な線で描いている。
人間は、いなくなる。
でも、いなくなる前に、たくさん置いていく。
声を置く。
顔を置く。
好きなものを置く。
言葉を置く。
笑いを置く。
あたしは、それを拾う。
拾って、しまう。
若い職員が、ほとんど息だけで言った。
「宝箱……」
その言葉を、まだページは書いていなかった。
けれど、絵はもうそう見えた。
拾って、しまう。
なくさないように。
後ろへ行って見えなくならないように。
自分の中に、大事に置いておく。
次の数ページにも、日常は続いた。
あるページでは、職員が笑いながら失敗談を話している。
あるページでは、食堂の新しい料理に顔をしかめる人間がいる。
あるページでは、雨の日の窓を見ている人間たちが描かれている。
あるページでは、誰かの机に置かれた古い写真らしきものを、エルがじっと見ている。
そのたびに、短い言葉が添えられていた。
失敗の話をして、人間が笑う。
失敗は悪いことなのに、あとで笑えることがある。
あとで笑える失敗は、少し宝物。
まずいと言いながら、全部食べる人間がいた。
まずいのに食べる。
作った人間が見ているから。
人間は、味だけで食べてない。
雨の日、人間は外を見て静かになる。
静かなのに、嫌じゃない。
雨の音は、何もしないを助ける音。
古い写真を見ている人間がいた。
写真の中の人間は、もういないと言った。
でも、見ている人間は少し笑った。
記憶は、痛いだけじゃない。
職員たちは、読む速度を落としていた。
一つ一つは小さな記録だった。
けれど、それが積み重なるほど、エルの中に何が増えていったのかが見えてくる。
死を知ったあと、エルは世界を暗いものとして見なかった。
むしろ、消える前に残るものの多さに気づいた。
だから、日常が全部記録になる。
なんでもない挨拶。
食堂の会話。
雨の音。
まずい料理を食べる理由。
誰かの好きな歌。
それらは全部、人間が死んでいない時間に置いていくものだった。
そして、エルはそれを宝物のように拾っていた。
やがて、しばらく続いた日記の最後のページに辿り着いた。
そこには、大きな絵がひとつ描かれていた。
小さな身体の輪郭。
その内側に、無数の小さな印。
星のような点。
声のような線。
食べ物の皿。
花。
工具。
椅子。
トレー。
手を上げる人影。
笑う口元。
雨。
歌。
硝子玉。
そして、名前のない、あの人間を思わせる小さな影。
それらが全部、エルの身体の中に詰まっているように描かれていた。
線は少ない。
けれど、これまでで一番、密度のある絵だった。
ページの下に、最後の文章があった。
あたしの身体は、たくさんの記憶が詰まった宝箱になった。
職員たちは、その一文をしばらく見つめていた。
悲しみだけではない。
喪失だけでもない。
覚えていること。
持っていること。
忘れないこと。
それを、エルは宝箱と呼んでいた。
古い無機質なノートの中で、その言葉だけが、少しだけ光っているように見えた。
◇
古い絵日記 終わり
最後のページを読み終えてから、しばらく誰もノートに触れなかった。
食堂の作業卓の上には、無機質な黒いノート。
表紙も、中身も、古い。
けれど、その中にあったものは、古びた記録というより、まだ熱を持った誰かの記憶のようだった。
保全担当が、そっと息を吐く。
「……発見記録としては、すぐ正式に上げます」
「はい」
「でも、その前に、局長へ直接届けるべきだと思います」
誰も反対しなかった。
これは、ただの落とし物ではない。
食堂の棚裏から出てきた古いノート。
エルが人間を知ろうとしていた、最初期の絵日記。
そして、ジェレミーが渡したらしい記録。
局長室へ届けるのが自然だった。
けれど、席を立つ前に、誰かがぽつりと言った。
「……エルさん、最初からエルさんだったんですね」
それに、別の職員が小さく頷く。
「でも、今のエルさんになるまでに、いろいろあったんだなって」
「人間が好き、って言葉にするまで、あんなに時間がかかった」
「それで、忘れないって決めて……宝箱、か」
若い職員は、ノートの最後のページを思い出していた。
あたしの身体は、たくさんの記憶が詰まった宝箱になった。
あの一文は、妙に残る。
悲しいだけではない。
寂しいだけでもない。
失うことを知ったうえで、それでも記憶を宝物にする。
それが、今のエルのふわふわした日常の奥にある。
「私、明日から挨拶するとき、ちょっと変に意識しそうです」
「分かる」
「おはようって返すだけで、いるって返事になるんですね」
「……そう考えると、軽く流せないな」
保全担当が、ノートを保護ケースに収めた。
「行きましょう」
職員たちは、黒いノートを抱えて食堂を出た。
局長室へ向かう廊下は、いつも通りだった。
職員が行き交う。
誰かが資料を抱えて早足で通り過ぎる。
別の誰かが、通話をしながら角を曲がる。
窓の外には、中庭の光が見える。
その途中で、向こうから白髪の小さな姿が歩いてきた。
ふわふわとした足取り。
毛先のピンクが、廊下の光を受けて少し揺れる。
エルだった。
職員たちは、一瞬だけ足を止めかけた。
保護ケースの中のノートを、誰もが意識した。
エルは、いつも通りに首を少し傾げた。
「こんにちは」
柔らかい声だった。
本当に、ただの挨拶だった。
職員たちは、少し遅れて返した。
「こんにちは、エルさん」
「こんにちは」
「お疲れさまです」
その中の一人が、口を滑らせた。
「私は今日もいますよ」
言った本人が、一拍遅れて固まった。
周囲の職員も固まった。
あまりに不自然な返事だった。
挨拶への返答としては、完全におかしい。
けれど、読んだばかりの古い日記の言葉が、胸の奥に残っていた。
今日もいてね。
エルは目を丸くした。
本当に、まんまるに。
数秒、何も言わなかった。
職員たちは、失言した一人を責めることもできず、ただその場で待った。
やがてエルは、少しだけ目を伏せた。
それから、ふわりと顔を上げる。
「……明日もいてね」
小さな声だった。
けれど、はっきり聞こえた。
口を滑らせた職員は、今度はちゃんと答えた。
「はい。明日もいます」
エルは、少しだけ笑った。
大きくはない。
声も出さない。
でも、目元がやわらかくなる笑いだった。
それから、何事もなかったみたいに歩き出す。
職員たちは、立ち止まったまま、その後ろ姿を見送った。
エルの足取りは、さっきより少しだけ軽かった。
ふわふわと跳ねる。
一歩。
また一歩。
それは、ほとんどスキップみたいだった。




