第22話-古びたノート2
保全担当が次のページを開くと、日付が大きく飛んでいた。
紙が破られた形跡はない。
ただ、その期間だけ、エルは何も書いていない。
あるいは、彼女にとっては書かれていない時間も、前のページから途切れていなかったのかもしれない。
見開きには、監理局の廊下が描かれていた。
向かい合う二人。
一人は、低い位置から見上げている。
もう一人は、これまで何度も日記に登場していた、あの人間だった。
以前より、二人の距離が近い。
ページの上に、短い文章がある。
『しばらく、書いてなかった。
でも、きょうは書く。
言えたから。』
その下の文字は、少しだけ大きかった。
『あたしは、人間が好き。
だから、人間の身体になって、見に来た。
そう言った。』
食堂の作業卓を囲む職員たちは、黙ってその言葉を読んだ。
最初のページから、ずっとあったもの。
けれど、当時のエルは、それを言葉にする方法を知らなかった。
『前は言えなかった。
好き、はわかった。
見に来た、もわかった。
人間の身体、もわかった。
でも、どう並べたら、人間に届くのかわからなかった。
きょうは、言葉のしかたが少しわかった。』
次の絵には、あの人間の顔が描かれていた。
目を少し丸くして、口を半端に開けている。
これまでの人間の絵よりも、表情が細かい。
『人間は、きょとんとしていた。
どうして?
前に聞かれたことに答えただけ。』
どこから来た。
何をしに来た。
何が目的なのか。
最初に同じ食卓へ座った日、あの人間が尋ねたことだった。
『あたしの目的は、人間を幸せにすること。
でも、何が幸せかわからない。
だから、見に来た。
どこから来た、は、まだむずかしい。
でも、何をしに来た、は、少し言える。』
人間には、すぐに伝わらなかったらしい。
『人間は、何の話だ、という顔をした。
あたしは、もう一度言った。
人間が前に聞いた。
あたしが、いま答えた。
でも、人間は、まだわからない顔だった。』
若い職員が、日付を見た。
「かなり前の質問だったんですね」
保全担当が小さく頷く。
エルにとっては、考え続けていた一つの会話。
人間にとっては、とっくに終わった昔の会話。
その違いを、エルも不思議に思ったらしい。
『人間は、やっと思い出した。
ああ、と言った。
目が上を向いた。
人間は、頭の中にあるものを探す時、上を見ることがある。
それから言った。
けっこう前のことだから、すぐわからなかった。
けっこう前?
ちょっとしか前じゃない。
変。』
次のページには、二本の線が描かれていた。
片方は、短く区切られている。
朝。
昼。
夜。
昨日。
今日。
明日。
もう片方は、ほとんど区切りのない、長い一本の線だった。
『人間は、日を切る。
朝。昼。夜。
昨日。今日。明日。
あたしも、書く時はそうする。
でも、あたしの中では、あまり切れない。
前に聞かれたことは、まだ続いていた。
人間の前は、短い。
あたしの前は、長い?
人間は、すぐ前を遠くする。
あたしは、遠くをすぐ近くにする。
同じ時間なのに、場所が違うみたい。』
旧世代にとって、数日や数月は、会話を途切れさせるほどの時間ではない。
日付を書くことさえ、人間の真似として覚えたものだったのだろう。
『人間は、少し笑った。
また、少しいい笑い。
それから言った。
おまえ、ずっと考えてたのか。
そう。
そう言ったら、また笑った。
人間は、質問の答えをもらうとうれしい?
けっこう前でも?
人間は忘れる。
でも、忘れたことを誰かが覚えていると、変な顔をする。
変だけど、いやではなさそう。』
続くページでは、あの人間がエルへ問い返していた。
『じゃあ、今は何がわかった。
前より、人間は好きか。
そう聞かれた。』
エルの答えは短い。
『前より好き。
でも、前も好き。
前より、どう好きかが少しわかる。』
感情が増えたのではない。
最初からあったものの形を、少しだけ見つけた。
ページの下には、いつものように箇条書きがある。
『きょう、わかったこと。
一、答えは、あとで言ってもいいことがある。
二、人間は、前の質問を忘れることがある。
三、人間の前と、あたしの前は、長さが違う。
四、人間は、忘れたものを覚えられていると、変な顔をする。
五、変な顔でも、いやじゃない時がある。
六、好きは、増えるだけじゃなくて、形がわかることがある。
七、人間の時間を、もっと見る。』
◇
それからの数ページには、大きな事件はなかった。
廊下。
食堂。
中庭。
窓際の椅子。
古い執務机。
休憩室の飲み物。
どの絵にも、あの人間がいた。
『あの人間は、廊下で会うと手を上げる。
手を上げるのは、ここにいると知らせる動き。
あいさつと似てる。
あたしも手を上げた。
人間が笑った。
これは、少しいい笑い。』
次のページは食堂だった。
向かい合った二つのトレー。
『きょうは、あの人間が先に座っていた。
空いてる、と言った。
空いてるは、誰も使っていない。
でも、きょうの空いてるは、ここに来ていい。
言葉は同じでも、中が違う。
あたしは座った。
人間は、きょうのスープはうまいと言った。
うまいは、おいしいの仲間。
あたしも飲んだ。
熱いだろ、と言われた。
前にも言われた。
覚えていた。』
次は中庭。
木陰のベンチに、あの人間が座っている。
『人間が、空を見ていた。
仕事をしていない。
食べてもいない。
話してもいない。
何をしてるの、と聞いた。
ぼんやりしてる、と言われた。
ぼんやり。
人間は、何もしないをすることがある。
何もしないのに、悪くない。
前は、何もしないほうがいい時があるとわかった。
きょうの何もしないは、少し気持ちよさそう。
何もしないにも、種類がある。』
ため息にも、種類があった。
『あの人間は、たまにため息をつく。
ため息は、つかれた音。
でも、きょうのは悪い音じゃないと言った。
お茶がうまい時にも出るらしい。
ため息にも、中がある。』
紙を落とした日もあった。
『あの人間が、紙を落とした。
拾っていいか聞いた。
いいと言われた。
拾って渡した。
ありがとうと言われた。
ありがとうは、物を受け取った時の音。
でも、前より少しわかる。
ありがとうは、あなたがいてよかった、の小さいやつかもしれない。』
誰も、その一文へすぐに言葉を挟まなかった。
次の絵は、あの人間の顔だった。
最初の頃より、ずっと細かい。
笑った時に細くなる目。
僅かに上がった口元。
頬の動き。
『あの人間は、笑う時に目が細くなる。
怒って笑う時は、目が細くならない。
おもしろい時は、少し細くなる。
うれしい時は、もっと細くなる。
きょうのは、うれしいの笑い。
たぶん。』
エルは同じ人間を見続けることで、その人間の小さな違いを覚えていた。
『あの人間に聞いた。
あたしは、何か変?
人間は、変だと言った。
悪い変?
そうじゃない。
じゃあ、いい変?
それも少し違う。
じゃあ、何?
おまえは、おまえの変。
わからない。
でも、悪くない声だった。』
言葉の意味は分からなくても、声が自分を傷つけるものではないことは分かるようになっていた。
『人間は、忙しい時に早く歩く。
でも、あの人間は、あたしを見つけると少し遅くなる。
あたしに合わせている?
歩く速さも、話すみたい。』
『人間は、あたしの話を最後まで聞く。
途中で、わからない顔をする。
でも、最後まで聞く。
わからないまま、聞くことがある。
それは、少しうれしい。』
『どうして聞くの、と聞いた。
おまえが話すから、と言われた。
話すから、聞く。
じゃあ、聞くから、話す?
たぶん、どっちも。』
最初は、怒らせた人間だった。
次に、怖がりながら質問してきた人間。
食堂の席を教えた人間。
いつの間にか、見つけると安心する人間になっていた。
『あの人間は、きょうもいた。
いると、少し安心する。
いないと、探していることがある。
探すのは、会いたいと似てる?』
そして、これまでで最も細かく描かれた顔の下に、大きな文字があった。
『あの人間は、あたしのことを覚えている。
あたしも、あの人間を覚えている。
これは、なかよし?』
その次に、いつもの箇条書き。
『しばらくで、わかったこと。
一、人間は、毎日同じようで違う。
二、同じ人間を見続けると、違いが少しわかる。
三、違いがわかると、知っている感じが増える。
四、知っている感じが増えると、安心する。
五、安心すると、話したくなる。
六、話すと、もっと知りたくなる。
七、これを、なかよしと言うかもしれない。
あとで聞く。』
保全担当が、次のページへ指をかけた。
そこにも、日付があった。
前のページから、それほど離れていない。
ただ、絵の空気が違った。
◇
次のページは、ほとんど白かった。
中央に、短い文字だけがある。
『死んじゃった。』
それだけだった。
絵もない。
観察もない。
今日わかったこともない。
さっきまで、日常が続いていた。
手を上げる。
同じスープを飲む。
何もしないを一緒にする。
なかよしかもしれないと考える。
そのすべてが、一行で途切れていた。
保全担当は、一度だけ息を整えてからページをめくった。
医療区画に近い廊下。
搬送台。
覆い布。
周囲で立ち尽くす人間たち。
『任務があった。
外に行った。
あの人間も行った。
帰ってきた。
でも、生きてるで帰ってこなかった。』
覆い布の下から、手だけが出ている。
以前、廊下で上げていた手。
紙を受け取った手。
硝子玉を転がした手。
今は、力なく垂れている。
『遺体。
生きてない身体。
話さない。
聞かない。
笑わない。
手を上げない。
いるのに、いない。』
最初の食堂で、エルは自分のことを「ここにいるのに、いないみたい」と書いた。
今度は、身体がそこにある人間を見ている。
いるのに、いない。
『これは幸せじゃない。
だから、幸せにする。
人間が幸せになるように戻す。
生きてるに戻す。
死んだは、幸せじゃない。』
当時のエルには、それ以外の結論がなかった。
死は幸せではない。
ならば、死のない結果へ変える。
エルにとって、それは術を使うことでも、禁じられた力へ手を伸ばすことでもない。
幸せではない世界を、幸せな世界にする。
名前のままに存在するだけだった。
『あたしは、戻そうと思った。
生きてるに戻る世界を思った。
でも、みんなが、びっくりした。
前に怒られる前の目だった。』
周囲の職員たちは、エルが何をしようとしているのか理解した。
恐怖と期待と悲しみが入り混じり、誰も動けなかったのだろう。
『あたしは気づいた。
聞いてないからだ。
また、聞いてない。
変える。
戻す。
生きてるにする。
これは、すごく変えること。
聞いてない。』
世界は、既に動きかけていたはずだ。
それでもエルは止まった。
魔法を制御したのではない。
人間の目を見て、自分の想像を一度やめた。
以前、勝手に仕事を消して人間を泣かせたことを覚えていたから。
『だから、聞いた。
生き返らせていい?』
広い余白。
その中に、小さな点がいくつもある。
エルは返事を待っていた。
『みんな、何も言わなかった。
聞いたのに。
聞くのは、いいことなのに。
なんで?』
何も言わない人間の顔。
少し後ろへ下がった足。
遺体を見つめたまま動かない人間。
『聞いたら、答えが返ってくると思った。
いい。
だめ。
待て。
わからない。
人間は、どれかを言う。
でも、何も言わない。
何も言わないは、どれ?』
誰にも答えられなかった。
死んだ本人は、もう答えない。
周囲の人間には、他人の生死を決める資格があるのか分からない。
戻ってきてほしいと願う者も、その願いをエルへ渡してよいのか分からない。
『人間たちは、あたしを見る。
でも、返事をしない。
泣いている。
固まっている。
見ているだけ。
誰も、幸せにしようとしていない。
だから、今回は、あたしが幸せにしないといけないと思った。』
人間が何もできずに悲しんでいる。
エルには、それが「幸せにしようとしていない」ように見えた。
ならば、自分がしなければならない。
自分は、本当の幸せなのだから。
『みんな、幸せじゃない。
あの人間も、幸せじゃない。
ここにいる人間も、幸せじゃない。
だったら、戻す。
戻したら、話せる。
手を上げる。
たぶん、みんな幸せになる。』
少し間を置いて、同じ問いがもう一度書かれていた。
『だから、生き返らせていい?って、もう一度聞いた。』
返事はなかった。
やがて、人間たちの間が開いた。
廊下の奥から、背の高い影が歩いてくる。
『じぇれみーが来た。』
◇
次のページのジェレミーは、周囲の人間よりも硬い線で描かれていた。
動かない。
迷わない。
エルと搬送台の前に立ち、短く告げた。
『じぇれみーは、ダメと言った。
絶対にダメ。
これだけは、絶対に。』
誰も言えなかった禁止を、ジェレミーだけが口にした。
『どうして?
だって、人間が死んだのに。
幸せにしちゃダメって言ってる。
死んだは、幸せじゃない。
話せない。
聞けない。
笑えない。
怒れない。
仕事ができない。
お茶が飲めない。
なのに、生き返らせるのはダメ。』
エルの中では、これまで教えられたことが矛盾していた。
人間を悲しませてはいけない。
幸せではない結果にしてはいけない。
戻せないものを作ってはいけない。
ならば、戻らない死こそ、戻すべきものに見える。
『じぇれみーは、もう一度ダメと言った。
ダメ。
あたしは、わからない。
じぇれみーが、幸せじゃないことを言う。
あの人間を幸せにしちゃダメって言う。
みんなを幸せにしちゃダメって言う。
あたしを幸せにしちゃダメって言う。
どうして?』
絵が乱れていた。
覆い布。
人間の顔。
ジェレミーの影。
エルが何を見ているのか、線が重なって分からない。
文字だけが、はっきりしている。
『あたしは、もう、あの人間と話せない。
あの人間は、もう手を上げない。
空いてるって言わない。
熱いだろって言わない。
おまえ変だって言わない。
あたしの話を、最後まで聞かない。
いやだ。』
その一語だけが、何度も続いた。
『いやだ。
いやだ。
いやだ。
戻して。
生きてるに戻して。
あたしが戻す。
あたしは、本当の幸せ。
これは幸せじゃない。
だから、あたしがする。』
ページの端から、淡い光が広がる絵が描かれていた。
光は遺体だけへ向かっていない。
床を伝い、廊下を越え、人間たちの足元へ伸びている。
『人間が死んだのは、いやだ。
死んでほしくない。
あの人間だけじゃない。
人間、みんな死んでほしくない。
じぇれみーも死んでほしくない。
みんな、いなくならないで。』
一人を戻そうとした願いが、すべての人間へ広がった。
あの人間を生き返らせる。
ほかの人間も死なせない。
誰もいなくならない世界にする。
旧世代の願いに、範囲という考えはなかった。
幸福であるべきものを、幸福な結果へ変える。
ただ、それだけだった。
『廊下が、光った。
人間の身体にも光がついた。
死なないで、が、ひろがった。
これなら、もう人間はいなくならない。
そう思った。』
次の絵に、一本の直線が走っていた。
銃声。
ジェレミーが抜いたハンドガンから放たれた弾丸が、床を広がる光へ撃ち込まれている。
『じぇれみーが撃った。
あたしじゃない。
魔法を撃った。』
光が砕けた。
硝子のような薄い破片となり、空中へ散り、固定される前に消えていく。
『魔法がなくなった。
ひろがるのが止まった。
じぇれみーが止めた。
人間は、これからも死ぬ。
じぇれみーが、そうした。
死なないでを、なくした。』
ジェレミーが人間を死ぬようにしたわけではない。
本来の世界を変えようとする魔法を止めただけ。
けれど、当時のエルからは、そのように見えた。
『あたしは悲しい。
いなくならないで。
あの人間、いなくならないで。
ほかの人間も、いなくならないで。
じぇれみーも、いなくならないで。
みんな、いなくならないで。』
次の絵は、線がぼやけていた。
『見えにくい。
涙がある。
人間は、悲しいと見えにくくなる。
あたしも、そう。』
『目があつい。
顔が濡れている。
声と涙が止まらない。
言葉が出る。
いやだ。
どうして。
いやだ。
でも、涙で変になる。
声も変になる。
人間が泣く時と似てる。』
人間の涙を、これまで何度も観察してきた。
そのエルが、初めて自分の涙を知った。
『人間が死んだのは、いやだ。
死んでほしくない。
あの人間だけじゃない。
みんな死んでほしくない。
じぇれみーは、何か言った。
でも、すぐにはわからなかった。
涙で、音が変。
あたしの声も変。
悲しいと、人間のことが少しわからなくなる。
悲しいは、こんなにあつい。』
◇
次のページから、文章の書き方が変わっていた。
それまでの日記にあった、
わからない。
いやだ。
うれしい。
あったかい。
そうした言葉が消えている。
自分のことを、遠くから報告するような文章だった。
『じぇれみーに、理由を説明された。
エルは泣いていた。
人間が、エルの背中を撫でた。
エルは、じぇれみーの服をつかんでいた。
じぇれみーは、説明を続けた。』
まるで、自分ではない誰かの記録だった。
悲しみが大きすぎて、自分の中から少し離れて書いたのかもしれない。
『理由一。
死んだ人間には、聞けない。
生き返りたいか、聞けない。
聞けないもののことを、エルだけで決めてはいけない。』
相手のことは、相手に聞く。
聞けないなら、決めてはいけない。
これまで教えられてきた線を、ジェレミーは死の前にも引いた。
『理由二。
悲しんでいる人間の願いは、その時だけ強くなる。
死なないで。
戻ってきて。
いなくならないで。
悲しい時の言葉だけで、世界を変えてはいけない。
あとで、違う苦しみになることがある。』
仕事を消してほしい。
もう見たくない。
あの失敗と、構造は同じだった。
ただし、今度は遥かに重い。
『理由三。
死をなかったことにすると、死んだものが生きていた時間も変わる。
別れた人間の悲しみも変わる。
覚えているものが変わる。
戻すことは、一人を戻すだけじゃない。
周りの人間の時間も変える。』
死者を動かすだけではない。
その人を失った全員の時間を、エルの判断で書き換えることになる。
『理由四。
人間は死ぬ。
死ぬことは、幸せじゃないことが多い。
でも、人間は、死ぬものとして生きている。
終わりがあるから、選ぶ。
終わりがあるから、急ぐ。
終わりがあるから、会う。
終わりがあるから、言う。
死を全部なくすと、人間の生き方も変わる。』
『理由五。
エルが全部の死をなくすと、エルが人間を決めることになる。
誰が死ぬか。
誰を戻すか。
いつ戻すか。
どこまで戻すか。
それを、エルだけが決めてはいけない。』
ページの端には、座り込んだ小さな身体と、その身体を支える複数の手が描かれていた。
『説明を受けている間、エルは泣いていた。
涙は止まらなかった。
呼吸が変だった。
人間が、エルの背中を撫でた。
じぇれみーは、説明を続けた。
声は変わらなかった。
でも、周りの人間は、じぇれみーを見ていた。
怒っている目じゃない。
頼っている目。』
ジェレミーは、慰めるだけでは終われなかった。
魔法を止めるだけでも足りない。
エルが再び同じ問いへ辿り着いた時、踏み止まるための理由を渡さなければならない。
だから、泣いているエルを前にしても、声を変えずに説明した。
『エルは、理解した。
理解したこと。
死んだものは、許可できない。
悲しい時の願いで、世界を変えてはいけない。
戻すことは、周りの時間を変える。
人間は、死ぬものとして生きている。
エルだけが決めてはいけない。』
その下に、小さな一行がある。
『理解したけど、いやだった。』
理解したことと、受け入れられることは違う。
正しい理由を聞いても、死んだ人間は戻らない。
嫌なものは、嫌なままだった。
最後に箇条書きがあった。
『きょう、説明されたこと。
一、聞けないもののことを、勝手に決めてはいけない。
二、悲しい時の願いは、すぐに世界にしない。
三、死は戻さない。
四、人間は死ぬ。
五、エルはそれを勝手に変えてはいけない。
六、それでも悲しい。』
◇
次の日。
朝の廊下が描かれていた。
前のページより、文字が少しだけ「あたし」へ戻っている。
『人間は死ぬ。
だから、死んでない時間を大切に使う。
そう説明された。
あたしも、そうする。』
理解したから悲しくなくなったわけではない。
ただ、人間のしていることを、もう一度真似しようとしていた。
『だから、朝は挨拶をする。
おはよう。
そう言うと、おはようが返ってくる。
おはようが返ってくると、みんながいる感じがする。』
次の絵には、いくつもの口元が描かれている。
眠そうな声。
急いでいる声。
笑っている声。
短く返す声。
『おはようは、今日もいる、の返事。
人間は、毎日言う。
昨日いた人間が、今日もいる。
明日もいるかはわからない。
でも、今日はいる。』
エルは、職員へ新しい言葉をかけるようになった。
『おはようのあとに、今日もいてね、と言った。
人間が、変な顔をした。
少し止まった。
それから、いるよ、と言った。』
次のページには、違う職員。
その次にも、また違う職員。
『今日もいてね。
今日もいるよ。
そう返ってきた。
ほんとうは、いなくならないで、と思ってる。
でも、それを言うと、人間の顔がもっと止まる。
だから、今日もいてね、にする。』
それは、挨拶には少し重い。
けれど、過去のエルなりに、人間へ届く形へ変えた言葉だった。
食堂の記録も続いている。
『座っていい?
いいよ、と言われた。
きょうは、作戦の人間の隣。
明日は、違う人間の隣にする。
いろんな人間と話す。
あの人間ひとりでは、人間ぜんぶはわからなかった。
ひとりぶんでは、足りない。』
仕事を終えた職員たちも観察した。
『人間は、仕事のあとに、好きなことをする。
本を読む。
音を聞く。
甘いものを食べる。
道具を磨く。
絵を描く。
花を見る。
何もしない。
誰かと話す。
ひとりでいる。
全部、好きなこと。』
最初のエルには、ひとりでいることは、寂しいことにしか見えなかった。
今は、それを選ぶ人間がいることを知っている。
『人間の数だけ、好きがある。
あたしには、たくさん時間がある。
だから、ぜんぶやる。
本を読む。
音を聞く。
甘いものを食べる。
道具を磨く。
絵を描く。
花を見る。
何もしない。
誰かと話す。
ひとりでいる。
ぜんぶやったら、人間が少しわかる。
ひとりぶんじゃ足りない。』
あの人間を失ったことで、エルは人間から離れなかった。
一人を理解するだけでは足りないと、より多くの人間を見るようになった。
やがて、別の変化が日記へ現れる。
『人間は、死んだ人間の話をする。
あの人間は、こう笑った。
あの人間は、これが好きだった。
そう言う。
言うと、聞いている人間の中にも、その人間が少し入る。
見たことがなくても、少し入る。』
記憶は、一人の中だけにない。
話せば、別の人間へ渡る。
『その人間が死んでも、また別の人間の記憶にいる。
人間は、人間に渡す。
顔のこと。
声のこと。
好きだったもの。
したこと。
渡して、少しずつ増える。』
だが、記憶を渡された人間も、いつかはいなくなる。
日記の人影は、ページをめくるごとに少なくなっていた。
『人間の中にいる人間も、いつかいなくなる。
覚えている人間も、死ぬ。
その次の人間も、死ぬ。
ずっと渡せないこともある。
名前がなくなる人間もいる。』
あの人間の名前は、この日記に一度も書かれていない。
それでも、エルの中では存在していた。
『だから、あたしが忘れない。
あたしは、みんなより長くいる。
人間は、人間の中に残る。
でも、人間の中は、少しずつ入れかわる。
あたしの中は、たくさん残せる。
だから、あたしが持つ。
いなくなった人間を、持つ。』
記憶する、ではない。
持つ。
その人がいたという形を、自分の中へ置いておく。
『死んだ人間も忘れない。
あの人間も忘れない。
空いてるって言ったこと。
熱いだろって言ったこと。
おまえは、おまえの変って言ったこと。
あたしの話を、最後まで聞いたこと。
ずっと、記憶にいてもらう。
人間は、死んだらいなくなる。
でも、記憶の中にはいられる。
あたしは長くある。
だから、長くいてもらう。』
ページの下に、短い文章があった。
『あたしは、みんなのあとに残る。』
人間を死なせないことはできない。
死者を戻してはいけない。
ならば、忘れない。
長く残る自分が、人間のいた形を持っている。
それが、過去のエルが見つけた答えだった。
◇
それからの日記は、思っていたより明るかった。
『きょうは、眠いおはようが三つ。
急いでるおはようが二つ。
笑ってるおはようが一つ。
笑ってるおはようは、少しあたたかい。
覚える。』
『食堂で、隣に座っていい?と聞いた。
いいよ、と言われた。
きょうの人間は、魚が好き。
骨を取るのがめんどうなのに、好き。
めんどうと好きは、一緒にいることがある。
覚える。』
『中庭で、花を見ている人間がいた。
花は、仕事をしない。
話さない。
でも、人間は、うれしそうに見る。
きれいなものは、そこにあるだけで少し働く。
覚える。』
『人間の机には、人間の跡がある。
置き方。
片付け方。
忘れたもの。
大事にしてるもの。
人間がいない時も、机は少し人間の形をしている。
前にも似たことを書いた。
前より、少しわかる。』
『人間が、好きな歌を教えてくれた。
同じ歌を何度も聞く。
同じなのに、何度も幸せになる。
すごい。』
『工具を磨く人間がいた。
明日のため、と言った。
明日はまだないのに、明日のために手を動かす。
人間は、まだない時間にも触る。』
『甘いものを食べる人間がいた。
疲れたから甘いものがいる、と言った。
疲れたに甘いものを入れると、顔が少し戻る。
甘いものは、小さい回復魔法かもしれない。』
『失敗の話をして、人間が笑う。
失敗は悪いことなのに、あとで笑えることがある。
あとで笑える失敗は、少し宝物。』
『まずいと言いながら、全部食べる人間がいた。
まずいのに食べる。
作った人間が見ているから。
人間は、味だけで食べてない。』
『雨の日、人間は外を見て静かになる。
静かなのに、いやじゃない。
雨の音は、何もしないを助ける音。』
『古い写真を見ている人間がいた。
写真の中の人間は、もういないと言った。
でも、見ている人間は少し笑った。
記憶は、痛いだけじゃない。』
日記の中で、エルは人間が置いていくものを拾っていた。
声。
顔。
好きなもの。
言葉。
笑い。
失敗。
食べ物。
歌。
何もしない時間。
『人間は、いなくなる。
でも、いなくなる前に、たくさん置いていく。
声を置く。
顔を置く。
好きなものを置く。
言葉を置く。
笑いを置く。
あたしは、それを拾う。
拾って、しまう。』
しばらく続いた記録の最後。
そこには、小さな身体の輪郭が描かれていた。
その身体の中に、無数の印が詰まっている。
星のような点。
声のような線。
食べ物の皿。
花。
工具。
椅子。
トレー。
手を上げる人影。
笑う口元。
雨。
歌。
硝子玉。
そして、名前のない、あの人間。
ページの下に、最後の文章があった。
『忘れないは、悲しいだけじゃない。
忘れないは、持っていられる。
持っていると、少しうれしい。
あの人間のことも、ほかの人間のことも、ここにある。
ここにあるものは、なくなってない。
あたしの身体は、たくさんの記憶が詰まった宝箱になった。』
◇
最後のページを読み終えてから、誰もすぐには動かなかった。
食堂の作業卓の上に、古びた黒いノートがある。
その中に残っていたものは、過去の記録というより、まだ熱を持つ誰かの記憶のようだった。
保全担当が、ノートを保護ケースへ収める。
「発見記録は正式に上げます。ただ、その前に局長へ直接届けます」
反対する者はいなかった。
これは単なる落とし物ではない。
ジェレミーが、まだ人間の言葉をほとんど理解していなかったエルへ渡したもの。
エルが人間を見て、人間に近づき、人間を失い、それでも人間といることを選んだ記録だった。
若い職員が、閉じられたノートを見つめた。
「……エルさん、最初から人間が好きだったんですね」
生活班の職員が答える。
「好きだった。でも、好きがどういうものなのか分からなかった」
「それで、全部覚えることにした」
保全担当がケースを抱えた。
「行きましょう」
職員たちは食堂を出た。
局長室へ向かう廊下は、いつも通りだった。
資料を抱えて歩く職員。
通話をしながら角を曲がる職員。
誰かへ手を上げる職員。
その向こうから、白髪の小さな姿が歩いてきた。
毛先の淡いピンクを揺らし、ふわふわした足取りで進んでくる。
エルだった。
保護ケースの中のノートを、全員が意識した。
エルは少し首を傾げる。
「こんにちは」
いつも通りの、柔らかな声だった。
職員たちは少し遅れて答えた。
「こんにちは、エルさん」
「こんにちは」
その中の一人が、反射的に言った。
「私は今日もいますよ」
言った本人が固まった。
ほかの職員たちも固まる。
挨拶の返事としては、あまりにも不自然だった。
けれど、読んだばかりの言葉が、まだ胸の中に残っていた。
今日もいてね。
エルは目を丸くした。
本当に、まんまるに。
数秒間、何も言わなかった。
やがて少しだけ目を伏せ、また顔を上げる。
「……明日もいてね」
小さな声だった。
けれど、はっきりと聞こえた。
職員は、今度は迷わずに答えた。
「はい。明日もいます」
エルの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
それから、何事もなかったように歩き出す。
一歩。
また一歩。
ふわふわと弾む足取りは、ほとんどスキップのようだった。




